死神の集金(ルシフェルシリーズ)
死神は魂を刈り取る者であると同時に、
時に勇者を見送り、時に彼らの行く末を見守る存在でもある――
そんな思いがこの一作には込められています。
硝煙と血と肉の焦げる臭い。
むせかえる。
地獄があるとすれば死後ではなく今ここだ。
さっきまで隣で小銃を構えていた戦友は腰から下を残して爆ぜた。
榴弾の直撃だった。
隣に居た恭太郎は直撃は免れたが戦友の砕けた骨の欠片や榴弾の破片を浴びて左前腕と顔の一部を吹き飛ばされていた。
「ここまでか」
そう独りごちたはずだったが顎の後ろが失われていて声となって空気を震わせることはなかった。
故郷の空はどの方角か。
せめて家族の日本の方角を仰ぎ逝きたいと思った。
霞む視界を彷徨わせると幻覚が見える。
甲冑を身に纏ったおおよそこの二十世紀の戦争に似つかわしくない女が戦場を悠然と闊歩していた。
背筋が凍るような美しさだった。
女が傍を通るとうめき声あげていた兵士はその声を失い命が消えていった。
「なんだあれは」
相変わらず声は出なかった
ふと女が恭太郎を見た。
目が合った。
女は優しい微笑を浮かべるとこちらへ歩いてくる。
人外の者に違いない。
死はきっともうすぐそこ、あの女が携えて来るのだろう。
だが抗わず座して待つのは性分ではない。
恭太郎は戦友の手首が握りしめたままの小銃を拾い上げると銃口と銃剣の切っ先を女に向けた。
女は「ほう」と嬉しそうな声を出すと腰の剣を抜いた。
薙ぐように剣を振るう。
銃剣は突きに特化したもの。
薙を小銃本体で受けるしかなかった。
一撃で折れた。
強烈な打撃に恭太郎は吹き飛ぶ。
他のもう誰なのか分からない戦友の死体の上に叩きつけられ転がった。
背中を打って息が出来ない。
女がゆっくりと近づいて来た。
その表情はことさら優しくそら恐ろしかった。
一時は死を覚悟受け入れようと空を仰ぎ見た恭太郎だったが女の強さと恐怖のあまり、今は全身で死に抗っていた。
折れた小銃を拾い再び銃剣を向ける。
「勇者よ、貴殿を神の尖兵として迎えよう」
柔らかい声だ。
状況が違えば身を委ねていたかもしれない安らぎを覚える声だった。
ああ、西欧の伝説には勇敢に散華した兵士を天上へ導く戦乙女の伝説があったな。
恭太郎は今思い出す事でもないことを考えながら最期の一撃を待った。
女が大きく剣振り下ろした。
これはもう防ぐ手立てがない。
目を閉じた次の瞬間、大きな金属音が響いた。
女の剣を弾いた金属音は大きな鎌だった。
そしてその大鎌の主は頭までローブを被り姿を窺い知ることは出来なかった。
ローブの男は女と対峙すると大鎌を構え直した。
女は不愉快そうに髪を指でかきあげるとそのまま片手で剣を振るう。
一閃。
まさに閃光のような一振りが男を捉えた。
......かに思えた瞬間金属の擦れ合う嫌な音と火花。
大鎌の柄を切っ先に合わせ、いなす様に女の一撃を捌く。
溶接のような匂いが周囲に漂った。
剣が大鎌の柄を滑りきるところで女が手首を返して下から斬りあげる。
半身反らして躱すが切っ先がローブのフードを捉え割いた。
男の顔が露わになる。
これは今際の際の幻、いや悪夢だろうか。
恭太郎の眼前で戦う男の顔には一片の肉すらない。
そうこれは百鬼夜行の絵巻で見た死神のようだった。
「低級神風情が我が主神の意に背こうというのか」
女はあれ程の動きの直後にも関わらず息一つ切らさずに言った。
「神の名を戴く我に剣を向けるか、神の威を借る小娘風情が」
死神のくぐもった声が静かにそして怒気を孕んで女に放たれた。
女の顔が紅潮して髪が逆立つ。
凍えるほどに冷たく見えた瞳が殺気に満ちた。
先程までの激しくも優美な太刀筋は消え、鋭く殺意のみを宿した無数の突きや薙ぎが死神を襲った。
死神は大鎌で捌くことすらせずに全て紙一重で躱す。
いや躱すなどではない、全て見切っていた。
.....かに見えていた。
死神の足が止まった。
背が岩肌に当たっていた。
「低級神など私の手のひらの上」
女は口の端を歪ませ醜悪に微笑むと渾身の一撃を叩き込んだ。
一瞬だった。
膝から崩れるように意識なく倒れる。
前のめり顔を壁面に打ち付ける寸前に優しく差し出された右腕に腹部を支えられて止まった。
僅かにローブからのぞく白い骨の指先が甲冑の脇腹を掴むと死神は女、戦乙女を軽々と肩に担いでしまった。
勝利を確信した戦乙女の一撃は僅かに大振りだった。
死神はきっとワザとこれを誘ったのだろう。
追い詰められたふりをして。
手のひらで踊っていたのは戦乙女だった...とは言えない。
その切っ先はそんな余裕など与える隙も無い苛烈なものだった。
それでも死神は一瞬を逃さなかった。
両腕で上段から左下に振り下ろす右肘に大鎌の背、柄と鎌を繋ぐ装飾のような留め具を正確に当てると無防備になった腹部に強烈な膝を当てた。
仰け反った戦乙女はそのまま膝から崩れた。
「貴様は今ではない、その時にまた来る」
死神は恭太郎を見ずにそう言うとまだ立ち込める硝煙の中に消えて行った。
蝉時雨と湿度を孕んだ熱風。
むせかえる。
日本で一番暑い場所は那覇ではなく今ここだ。
ルシフェルは小さくなった日陰に身をよじるように入ると太陽にささやかな抵抗を見せた。
早くどこかエアコンの効いた病院にでも行って...
そう思案していた目の前をローブを着込んだ男が過ぎて行った。
「リッチぃちゃんじゃないの。この暑いのに、いやもう熱いのになんて格好してるの」
会話に無意味な言い直しをしてまとわりつく。
暑苦しいのは彼の格好よりルシフェルの行動だろう。
リッチーは構うことなく歩く。
「ねねね、どこ行くの?」
無視。
何をどう言っても答えない。
「ルートセールスだもんな、いや集金人か。行くとこ決まってる奴は気楽でいいな」
毒づくルシフェルを背中に通りの向こうの一軒家へ消えて行った。
文字通り壁を抜けて消えて行った。
「ああ、来ましたね」
老人はまるで旧友にでも会うように笑った。
老人の前にはあの日、戦乙女から彼を護った死神がいる。
「すぐですか?」
老人の問い掛けに「半刻ほどある」と砂時計を置いた。
「あの日聞いた声ですね」
老人は取り乱す様子もなく部屋の電話のもとへ向かうと2件だけ電話をした。
ひとつは明日のデイサービスの予約、ひとつは遠方に住む娘へ。
娘は後になって虫の知らせだったと思うのだろうな。
受話器を置いた恭太郎は妙におかしく思った。
一応気を遣ってエアコンは強に設定して玄関の鍵は開けておいた。
「さて、まだ少しありますかな」
「ひとつだけ教えて貰えませんかね」
恭太郎は続けて言うと死神の返答を待った。
死因やこの先のことを聞いてくる者は一定数いた。
その類かと思い「何だ」と短く返した。
「どうしてあの日、その大鎌を攻撃に振るわなかったのですか?」
意外な問い掛けに虚をつかれて死神は小さく笑った。
「この大鎌は魂を苅り取るもの。戦乙女を冥府へ送るのは向こうに迷惑だ」
冗談とも本気とも思えないその答えに老人がクスクスと笑った瞬間、砂の最後の一粒が落ちた。
-了-
死神の集金(ルシフェルシリーズ)
硝煙と血の匂いがする物語を書きたかった。
戦場を舞台にしながら、そこに神話と死神と、ほんの少しの静けさを混ぜ込んでみた。
死は常に理不尽で、残酷で、だが時に優しい。
誰かの終わりを見届ける死神の手が、ほんの一瞬だけでも温かく感じられるなら、
それはもしかすると、生きてきた証そのものなのかもしれない。