地に満ちて
地に満ちて
まだ、高等学校に通っていた時の頃、母は、私に涙ながらに頭を下げました。
「お前を大学に通わせる事はできない」
いいえ、まだ当時、生意気盛りであった私にも、家庭の貧しさぐらいは察していました。子供の暮らす社会にも、相対評価という物差しがあります。同じ学級に通う生徒同士で、身なりや、所持品や、普段の趣味などを通して、貧富の差など簡単に察する事ができますから。
ですから、長男として、子供なりに親に対して気づかっていました。あれが欲しい、これが欲しい等と言葉にしたら母を苦しめる。その上、惨めな思いにさせてしまう。ですから、何も欲しがらず、ただ、買い与えられた物は、どれも心の底から喜びました。
母と、弟との三人で暮らす家庭には、小さな灯がありました。しかし、父を亡くしてから苦労に苦労を重ねて生きてきた母は、次第に酒に逃げる様になりました。段々と、普段とは違う言葉遣いになり、語気が荒くなり、私と弟に対して意味も無く怒鳴りつける事もありました。
「お母さん、飲み過ぎだよ、もう止した方が良いよ」
母が私に暴言を吐いた時は、弟と一緒に、涙を拭いながら眠りました。
ですが、お母さんは善人です。未熟な人であり、不幸な人であり、苦労人であり、しかし、それでも私の母は善い人なのです。女手ひとつで二人の息子を育てるために、心を砕き、どんな労苦にも文句を言わず、働いてくれました。私も弟も、そんな母の姿を、誇りに思っていました。
その分、私達は勉学に励み、高等学校を卒業したら、すぐに働き始めました。
始めは、社会人に成った己に自信を持つ様に考えました。けれど、かつての同級生達が、大学へと進学していく姿を見ると、途端に、貧しさや、自らの学の乏しさから来る寂しさが生じていました。私は、自分を恥ずかしい人間だ、と責め立てる様になったのです。
大学へ行きたかった。もっと学び努めたかった。月日が経つほどに、より強く自らを恥ずかしく思い、気を病みました。
すると、どういう事でしょう。働き始めて数年後には、私も酒浸りの人間になっていたのです。母はそんな私を気遣い、自身は酒を断ちました。そして、私にも飲み過ぎない様に、と声をかけてくれました。
しかし、あの日々の中に置いてけぼりにされた私にとって、なんの慰めにもなりません。
悔しくて、もどかしくて、孤独だった。
ただ働く。何の為でもない。ただ毎日の衣食住を得る、その有難さも知らず、自信を失いながら金銭だけを対価として頂く。虚しい暮らしでした。
弟は、縁のある方と出会い、結ばれて、結婚しました。幸せな夫婦として生きて、二人の間には、可愛らしい男の子が生まれました。
その時、私は三十歳。廃人の様になり、感情も乏しく、ただ飯を食って働いて、それでも人間らしさという感覚を得られずにいました。大学への未練が、私を嘲笑い、責め立てていました。
けれど、甥と話をする機会があると、何故か、いつも心が洗われました。清々しい気持ちになり、子供心を理解しようという工夫が、逆に私自身にも懐かしい感性を思い出させてくれるのです。
甥はいつも、私に絵本を読んでほしい、とお願いしました。私は喜んで、絵本のページをめくりながら、登場人物達の気持ちに成りきって、感情を込めたり、面白おかしく朗読しました。その度に、甥はキャッキャと嬉しそうに笑い、読み終えると、
「おじちゃん、ありがとう、ありがとう。すっごく面白い、また読んでね」
純真無垢な笑顔で、その様にお礼を述べてくれるのでした。
私は、ぽろぽろと涙が溢れました。生きる理由の片鱗が、見えたから。人間らしさを取り戻せたから。私の本当にやりたい事が見つかったから。
弟夫婦が共働きで忙しいので、休日の時間を使い、甥に絵本の朗読をしてあげる日々の中で、私はこっそり絵の練習を始めたのでした。絵と言っても、絵画の様な芸術と呼ばれる部類とは異なります。大人の世界ではなくて、大人が子供と心を共にできる世界の絵。それを体得したかったのです。
そして、最も大切な「物語」としての文章も、ああでもない、こうでもない、と繰り返し書き続けました。学生時代、私は文学青年ではありましたが、いつも読む側であり、書く側ではありませんでしたから。
私は、何のために働き、何のために食うのか、その理由がやっと得られて、心から力がみなぎっていました。
やっと思い浮かんだ物語の内容は、双子の兄弟猫が互いに支え合って生きる、家族賛歌をテーマとしたお話です。もう、始まりからオチまで、全てが原稿の形で整いました。
後は、甥に喜んでもらえる様な、優しい絵柄の登場人物とその世界を描く、腕を磨くのです。
もうここまでお話したら伝わると思いますが、私は、学んでいたのです。
仕事帰りで疲れた体に気合を入れて、ペンや筆を執り、絵の勉強に打ち込みました。休日には甥と遊びながら、子供の感情や感性、そして幼い心を観察していました。
大学で得られる、体系的な学問には、及ばないかも知れません。
権威ある環境、指導のもとで得られる、勉学の喜びとは違うかも知れません。
ですが、私には、他の誰からも教わる事のできない、実体験と修練、そして誰かを喜ばせようという、ひたむきな日常での学びがありました。
それが、私にとっての、かけがえの無い実学なのです。
いつか、絵本の作家に慣れる時が来たら、子供を喜ばせる心と、そのための努力を、皆にも御裾分けできたらと思います。
私の話を、聴いてくれて、ありがとう。
地に満ちて