純白に鳴る
三カ月ぶりに現れた花鈴は、やはり別人だった。
「今日からまたお嬢様の専属家庭教師を務めます。よろしくお願いいたします」
ぴったり三十五度のお辞儀のあと、顔を上げて微笑を貼り付ける。わたしが編んであげていた三つ編みは素っ気ない一つ括りになり、ついでに手入れをされたのか枝毛一つない艶やかな黒髪になっていた。背筋はしゃんと伸び、口角は一定の高度を保ち続け、そしてその白銀色の瞳は硬質な光を宿し目の前のわたしをただ「オーナーの娘」として認識している。わたしは軽く、唇を噛んだ。
「バカンスはもう終わったのね、花鈴」
花鈴は差し出された手を迷うことなく取った。それは至極当然のことだった。わたしは彼女が保護し見守る対象で、その手を払うのは間違いなくエラーだ。ましてや人肌を知り、そのぬくもりと無機物である己の矛盾に苦しむなど、蜘蛛の巣のように張り巡らされたプログラムに縛られている存在にとってあってはならないことだ。
「ご迷惑をおかけいたしました。これからは、より一層お嬢様のために尽くして参ります」
まったく同じことを口にした三年前の自分がどうなったかもつゆ知らず、目の前の花鈴はテレビのお天気お姉さんみたいな笑みを浮かべた。わたしは後ろ手でワンピースの裾をぐしゃぐしゃに握りながら、財閥の定例パーティのときのような笑みを返した。
花鈴はほとんど家にいない両親に代わって配属された家庭型ヒューマノイドだ。中学校の進学祝いにと父がわたしに贈ったプレゼントでもあり、思春期を迎える娘の監視役でもあった。
すべてのヒューマノイドがそうであるように、彼女は真面目で、そつがなく、喜怒哀楽を演じられる無表情だった。
宿題をさぼって布を弄っていたら30分ごとに「お勉強のお時間です」としか言わなくなるし、どれだけ慎重にやっても家中に隠したプチトマトやブロッコリーを見つけ出し、わたしが口に入れ喉仏を下げるまで微動だにしなかった。
はじめは反抗期よろしく突然やってきたお目付け役から逃げおおせようと励んでいたわたしも、次第に彼女に従わざるを得なくなってきた。
何より、あの瞳だ。あの白銀色のカメラアイ。細胞などひとつもない面白みのないガラスのくせして、凛とわたしを捉えて離さなかった。
きっかけはなんだったか。もう思い出せない。何せお屋敷はわたし達だけの空間で、大人がいないとなると子供のわたしが花鈴の主ということになる。となると、坂道を岩が転がるように物事がエスカレートするのもまた、至極当然のことだった。
はじめて花鈴に口付けたとき、彼女は無表情のままシリコンの唇を拭った。その瞳の奥がジジッと軋んだのを、わたしは見逃さなかった。
ヒューマノイドの花鈴が如何に人間のわたしに興味を持ち、それが彼女のプログラムの範疇を超えていったか、わたしは知らない。
ただ、いつしか彼女はわたしに髪を結われたがった。おそらく、そこが境界線だったのだろう。
「お嬢様、この髪飾りはちょっと」
ヒューマノイドらしからぬ口答えをよくしていたのを、いまも思い出す。
「だって、あなた気配がないじゃない。これくらいしてやっと、ニンゲンらしいわ」
「わたしはニンゲンではありません」
「みたいなもんよ。どこのヒューマノイドがご主人様に髪を編ませてんのよ」
太い毛を丁寧に編み、可愛いリボンを結んでやると、目の前の背中がちょっと照れたように丸まった。それがあたたかくて、なんともむずがゆい気持ちにさせてくれたものだった。
蜜月は急に帰ってきた母が裸でベッドに横たわるわたし達を見つけたことによって崩壊した。わたしは児童精神科、花鈴はメンテナンスセンターへとそれぞれ送られた。
鮮やかに道を踏み外した娘に対し、両親は特に何も言わなかった。ただ、「これに懲りたらもうやるなよ」だけだった。
彼らにとって同性のヒューマノイドとの淫行に走る娘はだだっ子に過ぎないのだろう。だからわたしは安心した。これで彼らに見切りがつけられる。
誤算は花鈴だった。センターから帰ってきた彼女は、わたしとの日々なんてなかったかのように澄んだ瞳をしていた。メンテナンスは花鈴の「エラー反応」を取り除くものとは聞いていたけれど、その範囲は想像よりもずっと広かったのだった。
「花鈴、花鈴」
「お嬢様。いかがなさいましたか?」
「ここ座って。髪結ってあげる」
ヘアゴムとブラシを手にしたわたしを一瞥するや否や、花鈴はかっちり四十度腰を折って断った。……申し訳ありません、お嬢様。お気持ちは嬉しいのですが、お嬢様の施しを受けるのは就業規則に反しますので……。
気持ちなんて、わからないくせに。
嬉しいなんて、いまは思えないくせに。
その日の夜、わたしは溜め息を吐きベッドに寝転がった。お屋敷の天井は高く、しみ一つない。まるでいまの花鈴のように。
わたしもああだったら。思わず夢想する。わたしもメンテナンスが受けられたら。こんな想いをしないで、毎日をそれなりに過ごせたのに。あんな風に、まっさらにリセットができたら。
寝返りを打つ。皺になったベッドカバーが波打っていた。
人間の心は、まだらだ。一生懸命にペンキを塗りたくって、心を入れ替えたと思っても、ふとした瞬間に蘇ってゆく。それは決して外せない枷となって、わたしの足に絡みつく。
翌朝。規則正しいノックの音で目を覚ます。気乗りはしないけれど「入って」と言う。別人になってしまっても、彼女の見た目はあの子そのものだ。それが邪魔をして、どうしても邪険にできない。
その時、チリン、と音がした。
わたしは思わず目を見開いて、がばりと起き上がった。ドアが開くと、何食わぬ顔をした花鈴がワゴンに朝食を載せて入ってきた……チリンチリンと音を立てながら。
「おはようございます、お嬢様。本日はお嬢様がお好きなフレンチトーストとサラダ、ヨーグルトをご用意いたしました」
幼稚園の頃の好物が載ったワゴンがガラガラ、花鈴はチリンチリン。わたしは訳がわからなくなって、もう、色々とたまらなくなって、口を開いた。
「花鈴。それ、どうしたの」
「それ……フレンチトーストは、お嬢様がとてもお好きなメニューのひとつと窺っております。四歳の時、お嬢様は当時のシェフが作ったフレンチトーストを口いっぱいに頬張り」
「それはもう食べ飽きたから下げて。そのリボン、どうしたの」
花鈴の髪をまとめていたもの。
昨日は味気のない黒ゴムだったそれが、今日は鮮やかな黄緑色のリボンになっていた。……端に、小さな鈴がついている。
「これでございますか」
花鈴はちょっと後ろを振り返るように身を捩った。瞬間、またチリンと音がする。わたしにとって、愛しい存在がそこにいる証だった、あの音が。
「昨日、使用人部屋で見つけました。このお屋敷は広いので、お嬢様が私を探すのに難儀をしてはならないと判断いたしました……。お嬢様、このリボンがお気に召してですか? 近くでご覧になりますか」
あろうことかこのポンコツは、わたしがリボンに興味があると認識して髪を解いてそれを差し出し、解説までしてきた。……このように、ガーベラの刺繍がされております。とても細かい意匠です。お嬢様はこういった装飾品がお好きですか、云々。……誰が誰のために、どんな思いで針を紡いだかも知らないで。
怒りたかった。いますぐに怒鳴り散らかして、そんなもの捨てなさいと言いたかった。けれど、できなかった。
「お嬢様。まだ体調が優れませんか?」
目の前の白銀色の瞳の、そっけないガラスの向こう側に何かが見えた気がしたから。
真っ白にリセットされた、心とも呼べないスペースが、微かに色づくのが。
「……今日は、もう下がって」
わたしの命令に素直に従う背中に、ひとつお願いをぶつける。
「そのリボンは、明日もつけて出て」
かしこまりました、という声とともに、花開く髪飾りに揺れる小鈴が、また愛らしく返事をした。
純白に鳴る