灰色の街より
彼女はいかにして失敗したか
高校生活最初の年末――12月は、私の大きな過ちと共に始まった。
私は誓って、油断していたという訳ではない。その上、それに対して何ら対抗手段を講じなかった、という訳でもない。言ってしまえば今回の件は、“内なる生存競争”がもたらしたものだった。二つの対立項が生み出す葛藤。それらの衝突と番狂わせの決着。それがすべての原因だった。
私はそうなるであろう事を、途中から半分受け入れていた。ある時点から、それはあるべき正しい姿として私の目に映るようになったのだ。要するに私は“自ら作り上げた都合の良い真実”のもたらす誘惑に負け、判断を誤ったという事になる。
この話には教訓がふたつある。ひとつめは、“人は簡単に本質を見誤る“ということだ。物事にはひとつひとつ、適切なラベルが貼ってあるものだ。だが人は見間違える。ほんの僅かな認識のズレひとつで。いとも簡単に。そしてひと度そうと思い込めば、たちまちにしてその銘柄に固執するようになる。このラベルには「真実」と書いてある、そう信じて疑わない。例えそれが避けるべき劇薬だったとしても。もうひとつの教訓は――
「――黙り込んで突っ立っちゃって、どうしたのさ?」
聞き慣れた気だるげな声が、私の耳を震わせた。どうやら隣にいるケイが不審がったらしい。考え事に夢中になっていた私を現実に連れ戻したのは、その一言だった。おぼろげになっていた視界の四隅が、一斉に解像度を上げる。
横断歩道の信号はいつの間にか青に変わっていた。棒立ちの私の周囲を、同じように信号待ちしていた人々が行き交う。私が取り繕うように慌てて歩き出すと、ケイも一拍遅れて小走りで着いてくる。掴みどころのない、浮世離れした走り方。彼女が一歩踏み出す度に、くせ毛気味の黒いショートヘアが、その性質を体現するようにふわふわと揺れた。
「――あと、さっきからなんか上の空だし」
追いついたケイが難色を示す。私が彼女の方を見ると、いつものジト目と目が合った。私はその奥にある真意を読み取ろうとする。メリハリの無い喋り方と表情。それが彼女だった。そのせいで、何をどの程度訴えかけているのか判断が難しい。今回のこれは――シンプルに、不服と非難の目つきだった。
「それにずっとブツブツ何か言ってるの、不気味じゃんね」
私は「嘘?」と反射的に声を上げた。
「……私、なんて言ってた?」
「良く分かんないけど、“生存競争”とか“真実が”とか――」
そこそこ口に出していたみたいだった。
「呪詛みたいにブツブツ」
「忘れてください」
私はちゃんと敬語で返した。するとケイはそんな私の態度に何やらか思い至ったのか、怪訝そうな顔をやめ、にやりと片方の頬を歪ませて私を見た。
「中間テストの惨状でも回想してた?」
「……してた」
……私は正直に言った。
「言ってたもんね、楽しみにしてたゲームの発売日とテスト週間が被ってるって」
この“おちびさん”は珍しく軽やかな調子で、さも愉快そうに言った。
「しかも、そのタイトルがねぇ――」
そう言って、私はため息をつく。
「昔好きだったやつの続編だっけ?」
「よりにもよって、ね」
「我慢できなかったんだねえ」
「出来ませんでした」
「哀れだねえ」
「はじめは、ちょっとだけのつもりだったんです」
「尚のこと、哀れだねえ」
私が肩を落とすと、ケイは片手で口元を隠しながら小さく笑い続けた。彼女があんまり長い間そうするものだから、私は段々そわそわしてきた。小刻みに揺れ続けるそのちっこい肩を見ていると、次第にそれは苛立ちに変わっていった。そうなった後はもう、ただ一直線に落ちていくだけだった。
「だってさあ! しょうがないじゃん!? あの名作の数年ぶりの続編だよ!? 前作は私にとって魂の一作だったんだよ!? 抑えられるわけ無いじゃん! 初めてプレイしたのは、10歳の時! 今でも覚えてます! それはもう、ハマリにハマったわけですよ! やりすぎて、どの武器で殴ったらどの敵に、どのくらいの乱数幅でどのくらいのダメージ量になるか計算できたくらいですよ! もちろん、敵ごとの耐性も行動パターンも全部把握してました! 縛りプレイもしました! RTAみたいな事もやりました! やり込めばやり込むほど、考え抜かれた至高のレベルバランス! 神がかったステージ構成! プレイする度に新しい発見のある、奥深さ! 古くさいとさえ言えるほどの堅実さと、決して目新しいというだけでない、ブラッシュアップされた革新性が同居する見事なゲーム体験! そんなゲームの続編ですよ!? やらずにいられます!?」
私は一息で思いの丈をぶちまけた。それから末尾に「オススメです!」と、念の為に加えておいた。自分でも分かるほど痛々しかった。そんな私を、ケイは立ち止まってじっと見つめる。それからそっと私の肩に手を乗せた。
「テスト前はゲーム、控えよう」
「……うん」
もうひとつの教訓。テスト前に新作ゲームをプレイすべきではない。一度途絶えたと思っていたシリーズの復活作ならなおさら。ちょっとプレイを初めたら最後、“取り憑かれた”ように止められなくなる。
……あと、もうひとつあった。八つ当たりはやめよう。
喫茶店へ続く道
そんな風にして私たちが歩いていくと、駅前のこじんまりした繁華街に差し掛かる。K駅に向かうメインストリート。この路地のちょうど中央にあるドラッグストアを左に曲がると「仲通り商店街」がある。上面が屋根で覆われた、典型的な歩行者専用のアーケード商店街。随所にある天窓は、それぞれ勝手気ままにくすんでいる。それは見る者に数世代分の時間の経過を嫌でも意識させ、何とも言えないワビサビを感じる仕上がりになっていた。
ケイが通りがかりに「仲通り商店街」の入口をじっと見ていた。
――彼女は大分“ちっこい”。なんだかその姿を見ていると、下校途中の小学生が通学路から逸れようと画策しているみたいで、不安にさせられる。やがて無事に彼女がそこを通り過ぎると、少ししてから気だるげな声で言った。
「ああいう商店街ってさ。好きとか嫌いとかじゃなしに――なんか、見てるとフクザツな気分になるんだよね」
「フクザツ、ってどうフクザツ?」
私が要領を得ないでいると、ケイが眠たそうな顔をこちらを向けた。
「――こんがらがってて説明できないから、フクザツって言うんじゃん?」
「より意味が分からなくなったよ」と、私が普通に文句を言うと、彼女は唸った。
「なんていうか、懐かしいとか落ち着くとかとは、ちょっと違くてさ――」
ケイは説明を試みる為に、ぽけーっとした顔つきで空を見上げた。が、上手い表現が見つからなかったのか、彼女は「ワカンナイや」とすぐにさじを投げた……ナンダソレ。
それから先はしばらくの間、お互いに何も言わなかった。
私たちは小さな横断歩道を渡り、向かいの歩道を引き返すようにして歩いていく。目当ての雑居ビルはすぐそこだった。4階建ての「小さな」、「古い」、「くたびれた」、「今にも崩れそうな」、「改築待ったなしの」、「建築物の耐用年数に関する法令のグレーゾーンを熟知してそうなイメージのある」、「1968年における3億円事件の真犯人をその当時、肉眼で目撃していそうな」、そんな雑居ビル。この近辺では古めかしい景観のビルがいくつもある。そこまで珍しいものではない。が、そのビルはとりわけ印象的だった。シミだらけの壁、亀裂とくすみのエレクトリカル・パレード。
要するにとりわけボロだった。もちろんエレベーターなんてものは無い。階段もなんだか細くて通りづらい。入口の階段脇にある「2F 喫茶paradiso(パラディーソと読む)」という看板がやや右に傾いていた。字体が何とも色鮮やかでポップな感じなので親しみやすさを感じるが、その反面、裏に潜む言いようのない“ものかなしさ”も同時に表現されている。調和の取れた見事な芸術品。競売にかけたら、きっと良い値段で売れるだろう。
私はそのようなしょうもない事を考えながら、もう何度目になるか分からないくらい上った階段に足をかける。相変わらずありえない角度の階段だった。まるで宗教上における何らかの受難のようだった。その恐るべき一段目に足をかけた瞬間、私は突然思いついてゆっくり振り向いた。
「――ジモト感?」
ふいに声をかけられたケイは、首を傾げる。私はかまわず続けた。
「ジモト感と、それに自分が含まれてる感覚?」
ケイはすぐに思い至り、「あ~」と納得したように口を開く。
「そう、それ。そんな感じ」
私は一段一段をかみしめる様に、じわじわと一歩ずつ進みながら、ケイの言う“フクザツな気分”についての考察を続ける。
「ああいうアーケードと――」
六段目。
「歴史ある個人商店とを見ていると――」
七段目。
「このY市で生まれ育った自分もこの一部に――」
八段目。
「含まれているんだなあ、みたいな――」
九段目。
「安心感とか納得感を抱くよね!」
九段目。
「――同時に、がっかり感も!」
九段目。
遅々として進まない私のせいで、ケイがひとつ下の八段目でつっかえている。
「それがどういう意味を持つかは、今回の授業では触れません!」
十段目で私がそう締めくくると、ケイがその感覚の比率について質問してきた。十二段目で私は「個人差がある」と答えた。ケイもそれに同意しつつ、行き過ぎたケース(承認欲求や顕示欲の拡大がもたらす有害性――例えばバイクによる暴走行為や往来における集団示威行為、傷害・損壊事件など)について触れてきた。私はようやくたどり着いた喫茶店の500kgくらいある木製ドアの取っ手に手を触れながら、それは”がっかり感”に付随したり、含まれたりして語られる事が多いと述べた。また、更に深く追及したければ、発展的な要素を扱う別の授業があるので、ぜひそれを選択して欲しいという旨も彼女に補足した。
私が最後の力をふり絞って、この建て付けが悪すぎる入口の扉と格闘している間に、安心感と納得感とがっかり感の比率に関する議論が、ケイと私との間で交わされた。紆余曲折を経て、結局は個人差ではあるが、おおむね1:1:8の割合であるという事で決着がついた。
喫茶Paradiso
喫茶paradisoの店内は、案の定がらんとしていた。お客さんは私たちだけ。店内に足を踏み入れると、床材がいちいち軋んで痛々しい。扉が閉まる物々しい音が背後から聞こえた――来店と退店を告げるベルの代わり。この喫茶店は大抵このようにして、私たちを歓迎してくれる。どうやってこの喫茶店が今日まで存続するに至ったのかは、ちっとも分からない。
入口前のカウンターの中から、店主さんが私たちに会釈する。店主さんは無口で、私は彼の声を一度として聞いたことがなかった。私とケイが「こんにちは」とあいさつをすると、店主さんは黙って頷いた。そんな彼を横目に、私たちは窓際にある四人がけのテーブル席に向かう。いつもの指定席。腰を下ろして早々に私はホット・カフェラテを注文した。ケイも同じものだった。
注文したものがやってくる間、私は何ともなしに、真新しいカウンター席とテーブル席が配置された、隅の一角を見つめていた。そこは最近改装された箇所で、やはり何度見ても違和感があった。他の古くガタの来ている、従来の調度品とのバランスが取れていない気がしてならない。
「やっぱりあの辺、浮いてるよね」
私が小さく感想を漏らすと、ケイも同じ場所を見て「確かに」と同調した。
「なんかさ、例えるなら――100年続く老舗の秘伝のタレに、そこら辺で買ってきたシーザーサラダ・ドレッシング、混ぜたような感じ」
――同意見だった。
やがて店主さんが飲み物を持ってきてくれた。ケイはすぐにテーブル脇に備えてある砂糖を自分のカフェラテに入れた。ものすごい量だったが、もはや私はそれを見ても何の感想も抱かなかった。目の前で繰り広げられる日常を気にも留めず、私は窓の外の景色を見ながらカフェラテを一口飲んだ。
窓からは往来を行く人々が見えた。私たちと同じY高校の生徒もちらほらいる。やがてK駅の方へと消えていく人の流れを意味も無く目で追いながら、私は店内に流れる音楽に耳を傾けた。ノラ・ジョーンズの『セブン・イヤーズ』だった。葉が落ちて丸腰になった梢を柔らかく撫でる、冬の北風のような歌声だった。私は心地よい肌寒さを感じながら温かいカフェオレを楽しんだ。
「そういやさ、サキの誕プレ、何にするか決めた?」
ケイが私と同じように窓の外を眺めながら言った。文章を短く切って、それを接ぎ木したような口調。私は視線を動かさず、窓枠に話しかけるように「そっか」と相づちを打った。
「もうすぐだったね、サキちゃんの誕生日」
「12月16日、日曜」
「今日が4日だから、あと二週間かぁ――まだ考え中なんだよね。ケイはもう何にするか決めたの?」
「決めたよ」
「何?」
「肩たたき券」
「わお」
「5回分の無料券。あと6回目から10回目にかけて30%OFFになるクーポンのおまけ付き」
「使用期限は?」
「半年間。来年の6月末まで」
「そいつはすごいや」
恐れ入った私は、全く表情を変えずにカフェオレを飲んだ。その時、入り口の扉が開く音と「あ!」と何かを見咎めるような声が同時に聞こえた。
「また二人で下校してるし!」
サキちゃんだった。彼女は何やら物申しながら、ずかずかとこちらにやってくる。
「ここ寄るんなら声かけてよ! どうせあたしも“ここ”に帰ってくるんだからさぁ!」
彼女は朗らかな長い金色のポニーテールを右に左に揺らしながら批難した。
「そっちのホームルーム終わったら廊下で待っててよぉ! あたしのクラス、二人のすぐ隣なんだから、そんなにメンドーでもないじゃん。っていうか、このやり取り何回目!? 今までで、70回くらい言ってるのでは!? ってことはこれ71回目だよ!?」
サキちゃんはコロコロと表情を変えながら、身振り手振りを交えて異議を申し立てた。私は「ごめんね!」と平謝りする。その一方で、ケイは茶化した。
「72回目にはさ、年老いた忠臣の“どやしつけ”みたいな感じでよろしく。愚鈍だけど根は真っすぐな我が主をほっとけないやつ的な」
サキちゃんは、ぎゅっと固く目を閉ざして「殿!」とだけ叫んだ。
言うだけ言って満足したのか、サキちゃんは大きくため息をついて矛を収めた。それから周囲を見渡した後、店主さんのいるカウンターの中に入っていく。
Paradisoはサキちゃんの家族が経営している。さっきから一言もしゃべらずにカウンターの向こうで洗い物をしたり、じっと壁掛けの時計を見つめたり、小さく咳払いをしながらキャンパス・ノートに何かを認めたりしている店主さん――彼がサキちゃんのお父さんだ。普段は無口だが、家族だけの空間では誰よりもしゃべり続けるらしい。
サキちゃんはその“おしゃべりな”店主さんに「ただいま!」と声をかける。それから戸棚を開け、カップとソーサーを取り出してスタッフ用の作り置きコーヒーを注ぐと、そのままこちらに戻ってきてケイの隣に座った。
私はこの一連の流れを見るのが好きだった。というより、サキちゃんが動いているのを見るのが楽しかった。見ていて何だかほっこりする。一番気に入っているのは、店の手伝いをしている時の彼女だった。この喫茶店は時々(偶然、とも言う)、人で賑わう事がある。そういう時、サキちゃんは店を手伝う。そうして忙しそうに店を飛び回るサキちゃんを、私はつい目で追ってしまう。
彼女はしばしば、どことなく演技じみた動作をした。その清々しい、ちょっと強調された動きや言葉遣いが、きっと私の興味を惹くのだろう。おまけに“若干”プロポーションも良く、店の制服である黒いシャツとの相乗効果でかっこ良く見える。それは私のトイメンに座るちっこい無愛想なちんちくりんや、色んな方面に無頓着で究極的に地味な私自身と比べると、一層印象深く見えた。
「ん、そうだった」とサキちゃんはコーヒーカップを傾けながら言った。
「先月は二人ともありがとね! テスト週間入っちゃって、言い忘れちゃってた。お陰で店の傾き具合も、ちょっとマシな角度になったみたい!」
私はそのあんまりな言い様に思わず苦笑いした。
「友達だけじゃなくて、お母さんにもサキちゃんの店のこと言ったんだ。そしたらすごい勢いで広めてくれたんだ。近所の友達と、町内会の知り合いと、あとテニス仲間と、パート先と――とにかくたくさんの人に声かけてくれたんだ」
「そうみたい! やっぱり主婦の“つながり”って凄いね! 合言葉も何回か聞いたよ」
サキちゃんはそう言って、思い切りテーブルに身を乗り出した。
11月の中頃、私とケイはお願い事をされた。話は非常にシンプルで、「この喫茶店、今月の売上終わってるから助けて」というものだった。で、私は店の宣伝、ケイは主にネットの口コミの印象操作を行った。
サキちゃんは口コミの件については未だに知らない。私でさえ、その裏工作の事を知ったのは最近だった。サキちゃんはその手の盤外戦術に乗り気ではなかった。実際、ケイがはじめの段階でこの提案をした時、却下されている。しかしケイは実行した。怪しまれないよう投稿タイミングやその文体、分量、投稿数、それから星の数のバランス――これらに細心の注意を払いつつ、彼女は少しずつ店の話題性が上がるような投稿を繰り返した。話題にさえなってしまえば、ある程度の客の流れが出来上がる。思い切りの繁盛ではない、程良い塩梅。それが狙うべき落とし所。そしてケイはほとんど完璧にやり遂げた。
私は口頭による宣伝を担当した。クラスメイトや家族、違う高校に行った中学時代の友達なんかに、この喫茶店がいかに素晴らしいかを説いた。会計時に「優待あります」という合言葉を言うと割引がある、という特典付きで。
……今思うと、地味過ぎる活動だった。だがこの活動の甲斐も少しはあったようだ……あるいは偶然、客足が月の後半に偏っただけなのかもしれないけど。
「――ってかさ」と、ケイがだしぬけに言った。
「今更だけどさ、なんで自分のクラスで宣伝しなかったのさ。サキ、そっちのクラスじゃ人気者じゃんね。未だにこの店の事、何も言ってないの?」
「そだね。言ったこと無いね」
サキちゃんはけろっとした様子でそう答えた。こんな調子でギリギリの運営を続けているにも関わらず、サキちゃんはParadisoの事も、自分の父親がこの店をやっている事も、クラスの誰にも言っていないらしい。それを受けてケイが当然の疑問を口にした。
「言ったら皆、来てくれるんじゃん?」
「んとねえ。まあ、最初はそうしようと思ったんだよね。でも色々考えてやめたんだ」
私が反射的に「なんで?」と聞くと、サキちゃんは笑った。
「だって、ここにクラスメイトの皆がめっちゃ来るようになったら、忙しくなっちゃうもん。お店手伝う時間も増えちゃうし、色んな席から呼び止められちゃうし――それはそれで楽しいけど、何か違うんだよね。今みたいに二人と話せなくなるし――ちっとも面白くない!」
そう言って彼女は残った残りのコーヒーを一息に飲み干し、最後にこう締めくくった。
「ここでは二人と一緒にいたいんだ!」
……サキちゃんは時々、“作り物”みたいな言葉選びをする。朝ドラのドラマチックな場面のような眩しい台詞回し――ケイはその強力な光属性の力をまざまざと見せつけられ、いつも以上のジト目で硬直していた。私は単純にむず痒くなって、全身がそわそわし出した。
サキちゃんは私たちの反応を見て、にやにやしている。彼女はわざとらしく咳払いをした。
「こほん。あたしたちは今、ようやく一つの結論にたどり着いたようです。つまりは何とも不思議な事に、この店は一定の角度以上に、常に傾いている必要があるのです。最新の研究によると、11月の中頃を30度くらいの傾斜角と仮定しますと、だいたい10度から15度くらいの傾きを維持するのが理想でしょう!」
その黒猫はいつだって正しい
「そういや中間テスト、どうだった?」
サキちゃんは、コーヒーのおかわりを注ぎにカウンターへ行った帰りにそう尋ねた。
「ちなみにあたしは終わってる」
人懐っこい笑みと共に繰り出されたその言葉には、一切の後ろめたさが無かった。ケイは「だろうね」と言って、コーヒーカップを小さく揺らす。
「なんせテスト範囲、2日前に聞いてきたしね。そりゃそうだと思った」
指摘を受けたサキちゃんは、目を固く閉ざした。それから「へ!」と、三下の悪徳商人の“おもねり”みたいな奇妙な鳴き声を上げる。ケイはその良く分からない、解釈困難なリアクションを無視して続けた。
「って事は結局、お二人とも、もれなくダメだったようで」
「……ん? という事はぁ?」
同族の気配を感じ取ったサキちゃんは、そう言って私に視線を据えた。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、思い切りテーブルに身を乗り出す……顔がすごく近い。彼女のくりっとした両の目は期待の輝きで溢れんばかりだった。それは、この話題から身を潜めてやりすごそうとしていた私を、たやすく炙り出した。早めに白状するべきだった。
「……同じくダメでした」
私は小声でそう打ち明けて目を逸らした。サキちゃんはそれを許さず、首を大きく曲げてその視線の先に回り込んでくる。そして私にこう訊ねた。
「敗因は?」
……逃げられなかった。私は早くも開き直る事にした。
「ゲームしてたら自然とそうなったよ」と私は一呼吸置いて言った。
「でも、そうしたいからしたんだ」
「何か、一番シンプルにダメそうな理由だね」
「……サキちゃんの敗因は?」
私は反撃した。すると彼女は、まるで世間話の切り出し方と同じようなトーンでこう言った。
「あたしは普通に動画見てた」
「私と変わらないじゃん」
「“終わった人”の動画チャンネル。シャンクスのモノマネのヤツ」
サキちゃんがいらない注釈を入れる。ケイが彼女の隣で「字面に結果が引きずられてるじゃんね」と呟いた。サキちゃんは勢い良く姿勢を戻し、「また次、頑張ればいいの!」と言った。
「そういうケイは? 割とダメそうと見た!」
余計な決めつけの言葉と共に、彼女は矛先を替える。ケイは予想に反して、落ち着いた様子だった。およそ自分には関係の無い話題、そういう態度だった。やがてそんな彼女の口から「残念だったね」という勝利宣言が告げられた。
「手応えあり、だった」
「嘘だあ」と、サキちゃんがすかさず否定する。ケイがにやけた。
「普段は授業態度、終わってるけどさ。悪目立ちしたくないじゃんね。こーいう時、ポイントだけは抑えてるわけ」
サキちゃんは納得出来ていなさそうだった。確かに不自然だった。どうしてこんな普段だらしなく授業中に寝てたり、こそこそソシャゲしてたりする奴が……あるいは嘘か。サキちゃんは何やら難しそうな顔を見せ、唸ったり天井を見上げたりしてしばらく考え込んでいた。そうまでしても、彼女は結局何も思い至らなかったらしかった。やがて彼女は適当に口を開いた。
「あ、不正だ」
「してない」とケイはジト目を僅かに開きながら即答する。サキちゃんは止まらなかった。
「カンニングだ?」
「してない」
「窓の外の目立たない場所でカンペを掲げる協力者を雇ったんだ?」
「雇ってない」
「成績上位の人の弱みを握って、モールス信号で合図を送ってもらってたんだ?」
「握ってないし、そんな麻雀のコンビ打ちみたいな事もしてない」
真相は闇の中だった。私たちが怪しんでいると、出し抜けに私の足元から「ニャッ」という声が聞こえた。テーブルの下を覗き込むと、黒猫がちょこんと行儀良くしていた。いつの間やらここまでやってきていたようだ。
それは喫茶Paradisoでサキちゃんが飼っている猫だった。元ノラで8歳の黒猫。オス。名前はレヴナント。命名者はサキちゃん。なんでこんな物騒な名前なのかは分からない。決めた本人でさえ分かっていない。突然閃いて付けた名前らしい。鳴き声に特徴があって、肯定を表明する時は短く「ニャッ」、否定の意思表示の時は長めに「ニャァー」と鳴く。
私がこの恐るべき名を持つ猫の名前を呼ぶと、私の右くるぶしに向かって突進してきた。そのまま何度か小さく旋回を繰り返した後、サキちゃんの膝の上に音も無く跳び乗った。彼は差し当たって、その全身をサキちゃんにくしゃくしゃにされた。どうも膝上に跳んだ時の彼の未来予想と、実際の結果との差異に納得がいかなかったらしい。彼は飼い主の元を早々に離れて、今度は隣りにいたケイの膝の上に移った。
「そうだ、レヴさんに聞いてみよう!」
サキちゃんは、ケイの膝上で細かく足蹴を繰り出すレヴを見て閃く。私も便乗して「確かに」と、さも深刻そうに首を縦に振って言った。
「レヴさんに見極めてもらおう」
この黒猫はひどく聡明で、今まで一度も判断を間違えた事がない。レヴさんはいつだって正しい。彼の緑色の慧眼にかかれば、全てが白日の元に正しく晒される。おざなりな論理の欠点はたやすく批判の的に早変わりし、どんなに巧妙な嘘も簡単にやっつけられてしまう。
ケイはこの決定に何か言いたそうにしていた。やがて諦めたのか、彼女は何も言わずに膝上の猫を両手で持ち上げた。その柔らかい身体がぐにゃあと、割とよく伸びた。そうしてレヴナントの上半身がテーブルの上に現れた。準備オーケー。サキちゃんは満足そうに頷き、黒猫に語りかけた。
「レヴさん、レヴさん、教えて下さい。ケイがしたのはチートですか? それともチーミングですか?」
「ニャァー」
――即、否定された。テーブル席に衝撃が走る。醜く狼狽える者さえいた。その張本人であるサキちゃんは、諦めきれずにもう一度同じことを聞く。
「ニャァー」
答えは同じだった。そして私たちは、このあまりに強力な証言を覆すことが出来なかった。逆転のカードはゼロ。果たして決着は付いた。
私たちはその場で被疑者に謝罪をした。それから二度と同じ事を繰り返さない事を誓った。サキちゃんはいそいそとカウンターに向かい、スタッフ用の作り置きコーヒーで二杯目のカフェオレを作った。それをうやうやしくケイに差し出すと、彼女は「うむ」と真面目ぶった。その温かい一杯にはいつもの通り、目を覆いたくなるほど大量の砂糖が流し込まれる事になった。それは勝利宣言の代わりだった。こうしてまた、歴史の本の一ページに文章が記された。このようにして私たちは毎日を生きている。
――私たちは数分後には何事も無かったように、ソシャゲの協力レイドで遊んでいた。ふいにサキちゃんが、昨日見た客について「そういやさー」と話を切り出す。
「昨日うちに来たお客さんがさぁ」
言いながらサキちゃんはボスキャラにデバフをかける。
「私の顔見てめっちゃ驚いてたんだよねー。何だったんだろ?」
私は全体回復のスキルを使いながら「何か変なこと言われたの?」と訊く。サキちゃんは「ううん、何も」と、首を横に降った。ケイが固有スキルで状況をリセットしながら「どんな人?」と質問した。
「黒人のお婆さん」
サキちゃんが返事をする。ケイは少し間を置いてから「孫と間違えられた?」と予想する。サキちゃんが唸った。
「ん~、そうなのかなあ。10分くらいで帰っちゃったんだけど、その間ずーっとあたしを見ててさぁ。普段見かけないお客さんだし、外国の人だし、注文も指さしでやってて一言もしゃべらないしで気になっちゃった。で、夜ご飯の時お母さんにその人の事聞いたらさ、その人は近所に住んでる人だろう、って」
私は「お母さんの知り合いなの?」と問いかける。
「お友だちとか?」
「友達っていうか――この辺りで有名な人なんだってさ。昔、そのお婆さんの飼ってた猫が、商店街の組合の軽トラックに轢かれちゃったらしくって……その次の日に近くのT字路で――あのミニストップがあるとこ――あそこでその人が、変な気味悪い儀式みたいなのやり出したんだって」
話を聞いていたケイが「何だそれ」と声を上げた。サキちゃんは「ほんと、ナンダソレだよね」と同意した。
「なんかさ、最終的にそれが警察沙汰にまでなっちゃったらしくってさ。この辺りで有名な事件らしいよ。あたしはちっとも知らなかったけど」
何だか“訳あり”そうだった。私が「何でそんな事したんだろうね」と疑問を口にすると、サキちゃんが続きを語った。
「噂でしか無いけど、ってお母さんが言ってたけど――猫が轢かれちゃった交通事故って、商店街の人たちがうやむやにしちゃったんだって。それでその人たちを憎んでるんだって。で、その仕返しに商店街に呪いをかけようとしたんだろう、って。その人、ネイティブアメリカンの呪術を代々継承して来た家系なんだってさ。ホントかな? それで皆、その人に怖がって近づかないんだってさ」
私は「変わった人なんだね」と、ボスに斬りかかるケイのキャラを回復しながら月並みな感想を言った。ケイはタップ操作を一度ミスったが、無事ボスは倒せた。そうやってレイドが終了したと同時に、この話も途切れた。外を見ると、もうすっかり暗くなっていたので、私たちは帰る事にした。会計の時、店主さんは何も言わず、ただ黙って割引した金額を提示してくれる。いつもありがとうございます。
駅の改札でケイと別れて電車を待つ間、私はサキちゃんの誕生日プレゼントについて考えていた。猶予はあと2週間――何をあげたら喜んでくれるだろう。頭の中でいくつかの候補があがる。が、どれもピンとこない。
色々と考えてはみたが、やがて方向性が何をあげたら迷惑がられないかという方に変わってきたので、一旦棚上げすることにした。そのあとすぐに電車が到着したので、私はそれに乗って家路についた。
翌日の放課後、サキちゃんから黒猫のレヴナントがいなくなった事を聞いた。
致命的な忘れ物
私とケイとサキちゃんは珍しく三人で下校していた。高校の正門を通り過ぎ、私たちが良くパーティを組んで遊んでいるFPSゲームの最新調整パッチについて意見を交わしあっている時、サキちゃんのスマホに一本の電話がかかってきた。
「お父さんからだ」
彼女は一言だけそう告げて電話を取り、歩きながら通話を始めた。私はそんな彼女の横顔を見ながら、注意深く耳を澄ませた。もしかしたらあの無口な店主さんの声が聴けるかも――そんな事を呑気に考えていた。
サキちゃんの様子がおかしい事に気が付くのにそこまで時間はかからなかった。彼女はさっきからしきりに「え?」とか「いつ?」と言った疑問を繰り返している。次第にその口調にあせりが混じり出した。明らかに動揺していた。電話相手に口を開いたり相槌を打ったりする度、次第にその度合いが強くなる。顔色も悪かった。ただならぬ気配を察した私は、同じように察したらしいケイと目線を合わせた。
やがてサキちゃんの動揺は仕草にも現れだした。スマホを握る手は固く強張っていた。フリーだった左手も挙動不審になる。胸の前で苛立ったように指同士をこすり合わせたり、複雑に絡ませたり、口元に持っていったかと思えば今度は耳たぶをいじり出したり――彼女の左手は存在可能な空間のあらゆる場所を次々に移動し、緊急性の高さを絶えず示し続けた。通話が終わるとサキちゃんは、黒猫のレヴナントが店からいなくなった事を私たちに告げた。
彼女は電話で分かったことを、どうにかして私たちに伝えようと躍起になった。その結果、支離滅裂な、ほとんど単語の羅列に近い言葉の奔流が私たちに襲いかかった。主語は抜け落ち、時制は不一致を起こし、ワードの組み合わせが断絶し、文章は崩壊した。私はとにかく落ち着くよう、何度もサキちゃんに言い聞かせた。彼女の手を取って状況が好転するのを待つと、少しずつそれが収まってきた。
辛うじて落ち着きを取り戻したサキちゃんから聞き出せた話はこうだった。
店主さんいわく、正午にはまだ猫は店にいたという。一人で喫茶Paradisoを運営する彼は、昼食のために30分だけ店をクローズにする。今日もその時間が来たので、店内の音楽を自分好みの曲に変えてから昼食を食べていた。するとレヴナントが机に飛び乗ってきて、前足を店主さんの額に当てて「ニャァー」と否定の鳴き声を上げ、音楽の変更を要求してきたとのことだ。つまりこの時は、彼はまだ店内にいたのだ。
しかしそれから数時間後、レヴさんの姿が何処にも見当たらない事に彼は気が付いた。不安に駆られた店主さんはあちこち探したり、戸棚から猫のおやつを取り出してこれ見よがしに音を立てて封を開けてみたり、店内ラジオを彼の嫌いなものに変更してみたりした。それでも彼は一向に姿を見せない。昼食以降、一度として入口の扉は開かれていないはずだった(それはそれで喫茶店として問題だ、という点は置いておいたとして)。出入り可能な箇所はそこだけ。窓も閉め切っていた。
-――正確には扉は二度開かれた。昼食前に入口のプレートを「CLOSE」にする時と、休憩が終わった後それを「OPEN」に戻すための計二回。二回目の開閉が怪しかった。しかしプレートを「OPEN」に戻した後、カウンターの上にいたレヴにさっきと似たような事をされて、また店内ラジオの音楽を変えたという事があったようだ。少なくともその時までは健在だったという事になる。いつ、どうやって彼がいなくなったのか全くの不明だった。
私たちは喫茶Paradisoに走っていた。道中の交差点で信号待ちになったので、サキちゃんはこんなこともあろうかと、黒猫の首輪につけてあったGPSの所在をスマホアプリで確認しようとしていた。しかしすぐに信号が青に変わったので、彼女はそれを後回しにして再び走り出す。私とケイはサキちゃんがあらぬ方向に飛び出して行かないよう、注意深く見守りながら彼女の後をついていった。
Paradisoの入っている雑居ビルに私たちがたどり着いた時、サキちゃんは再びアプリを起動した。私もそれを横から覗き込む。ケイもそうしようとしたがサキちゃんがスマホを持つ位置が高く、彼女は上手く画面が覗き込めないでいた。
サキちゃんのスマホ画面を覗くと、アプリの地図上に青い点がぽつりと表示されていた。GPSはこのビルを指していた。
――なぜ? 私は一瞬、思考が停止した。するとケイが「ねえ」と声を上げ、入口にあるA看板を指さした。何かがそこに落ちていた。サキちゃんは近づいてそれを拾った。銀色の小さなコイン状のアクセサリー。私はこれに見覚えがあった。そしてその時、何が起こったのかを理解した。
それは黒猫レヴナントの首輪についていたものだった。GPS付きのアクセサリー。首輪のベルトという主の元から引き剝がされた、黒猫のかつての同居人の姿だった。
灰色の世界①
私はその日の夜、夢を見た。夢の中で私は、どこかの商業施設のワンフロアに立っていた。そこがどこなのか、私はすぐに分かった。馴染み深い景観――YC駅前にかつて存在した商業ビル。四階建ての細長いビルで、そこまで大きなものではなかった。テナントにはレストランやゲームセンター、服店に楽器店なんかが一貫性なく入っていた。
今、そのビルはもう存在しない。私が中学生の頃、火事で焼け落ちた。放火と、それに伴うガスの誘爆によって。去年の10月の事だった。犯人はまだ見つかっていない。
私はその、既に存在しないビルの二階、一人分の幅しか無いエスカレーター乗り場の前にいた。
違和感にはすぐに気がついた。ピントのズレたあやふやな平衡感覚。自分の意思があるにも関わらず、自分自身を別の視点から客観視している不可解な多重性。突然放り込まれた空間を確認して、何とか状況を把握しようとする私――それを違う視点から観察する私。そのふたつが同時に存在する矛盾。それにも関わらずその時、私はこれが夢の中の出来事だと思っていなかった。ここまで違和感を並べられているにも関わらず、それらの奇妙さは思考の外側に存在していた。
そんなだから私は、辺り一帯が色のないモノクロの世界であることも受け入れていた。そしてここが、一年前の火災事故で跡形も無くなってしまった場所であることも特段、気にしていなかった。
私はエスカレーターのある中心部から移動し、ぐるりとフロアを見て回った。そこまで大きいビルでは無かったので、すぐに一周してしまう。
誰もいなかった。人一人存在しない、無人の空間。私だけがこの灰色の世界を動き回っている。
今度はエスカレーターに乗って一階に降りる。そこにも誰もいなかった。ドトールコーヒーのテーブルには人っ子一人座っていないし、ゲームセンターにも誰一人存在しない。完全な無音に包まれた静寂の世界。
三階も同様だった。そこに入っている100円ショップに人の影はなく、売り場もレジカウンターももぬけの殻だった。壁も床も、商品棚もそこに並ぶ商品も、全てが濃淡でのみ表現された白黒の世界――不思議なことに夢の中の私はこの状況において、「少し変だな」程度の感想しか抱かなかった。
漂白された世界を一通り回った私は、最後に一番上の階のレストランフロアを見ることにした。そこにもやはり人はいなかった。私はどうしていいか分からなくなった。とりあえずエレベーターで元いた二階に戻ろう。そう思って奥まった空間にあるエレベーターホールに向かうと、その手前で私は思わず立ち止まった。エレベーターの前には、もやもやと緑色に光る球体が浮いていた。
突然現れた非現実的な物体に、私は思わず息を呑んだ。無意識に二三歩後ずさって、距離を取ろうとする。やがてそれが、その場で浮遊を続けているだけの物だと分かると、私は警戒しながらもそれを観察した。
その発光体が放つ光は鮮烈だったが、直視出来ないほど眩しくはなかった。大きさはバランスボールくらい。一見してすごく綺麗な色だった。親しみと温かみを感じるライトグリーン。辺り一面がモノクロである事も、その鮮やかさに拍車をかけていた。しかしこういう手合こそ、どんな危険を裏に潜ませているか分からない。慎重に事を進める必要がある。相手が何者か分からないうちは警戒を続けるべきだ。
そんな思いとは裏腹に、私の頭は様々な連想を好き勝手に浮かべ始めた。宙に浮く発光体――ポケモンのエナジーボール。初代「世界樹の迷宮」のマップを徘徊する強敵のグラフィック。APEXのホライゾンのウルト。MOTHER2のパワースポットの番人。
……ゲームばかりで気が抜ける。私はその脱力的なイメージをどうにか振り払って、注意深く観察を続けた。
そうやって時間だけが流れた。何も起こらなかった。相変わらずその発光体はその場に留まり続けている。どうやら害は無さそうだった。そもそも、と私は思った。そもそもこれが、私に敵意を向けてくるタイプのオブジェクトであるなら、赤い色をしているはずだ。いや、そうであるべきだ。だから大丈夫。私はこのゲーム脳に基づいた絶妙な判断を信じて、じりじりとその発光体に近づいていった。
その緑色の光る球体は人型に姿を変えていた。いつそうなったのか、まるで分からなかった。ずっと見続けていたはずなのに、その変化に私は気が付かなかった。さっきより光が強い。そのせいで詳細な輪郭が把握できない。何となく、女性の姿をしているような気がした。
私がまた連想ゲームを頭の中で展開しそうになったその時、そのヒトガタはゆっくりと人差し指を立て、右に向かって指差しをした。そしてこう言った。
「右」
頭の中に直接響くような声だった。その声は脳の中で反響を繰り返す。どこかで聞いたことがある気がした。エコーが強くて声の実態が掴めない。私はとまどいながらも、言われた方向を見た。私の立っている場所のすぐ右は壁だった。視界が灰色の壁一色に染まる。
シュールなやり取りだった。絶対違う。そういう事じゃないよこれ、と私は思った。再びそのヒトガタの方を見やると、また声が響いた。
「右」
……ここで私は起きてしまった。私はベッドから半身を起こし、自分にかかった布団を見て、ようやく今まで夢を見ていた事に気がついた。あれは何だったのだろうか。私は起き抜けに、ぼんやりした頭であれこれ考えを巡らせていた。洗面所で顔を洗い、朝食のトーストにかぶり付く頃には、私はこの夢の中での出来事を、ほとんど思い出せなくなっていた。
彼女たちの捜索
黒猫のレヴナントが喫茶Paradisoからいなくなって3日が経った。初日から今日に至るまで、私たちはあらゆる場所を当てもなく探し回った。それは店内の検めに始まり、この喫茶店の他の階(サキちゃん達の住む部屋や屋上)、ビルの周囲にある植え込み、人一人通れるかどうかという狭さの路地裏を経由して、現在はこのK街全体に捜査の手を広げつつあった。
私、ケイ、サキちゃんの三人は手分けして迷子猫に関する即席のビラを配りながら、それらしい所を探して周った。そのビラはサキちゃんのお父さんが作ったものだった。彼は責任を感じているのか、誰よりも手広く、早く、黒猫レヴナントの情報を募った。近所の動物病院、警察、保健所、迷子猫捜索のためのWEBサイトへの登録――街角という街角に貼りまくった迷子猫のポスターも、サキちゃんのお父さんが作ったものだ。喫茶Paradisoのビルの入口脇に、黒猫愛用の猫ちぐらも置いた(こういう物を目安にして、帰ってくることがあるらしい)。幸いな事に黒猫レヴナントが装着していた首輪の内側には彼の名前と住所が刺繍してあるので、見かけた人物が誤った対処をする恐れは薄そうだった。
それでも何一つ情報が入ってこないままこの3日間を過ごした。サキちゃんは努めて元気に振る舞っているようだったが、怪しいものだった。クラスが違うので日中は彼女の様子が分からなかったが、それでも噂は聞こえてきた。こういった情報収集は主にケイの役割だった。彼女は妙に耳ざとい。我らが小さき諜報員が、隣のクラスにおける近況を拾ってくるのは造作もない。
ケイが言うにはサキちゃんはクラスメイト全員に、例のビラを配布し続けているらしい。つまり登校直後に一度、昼休みに一度、放課後に一度の合計3回。もちろんビラは一種類しか作ってないので、内容はすべて同じ。それを2日間続けた。彼女の友達がもう貰ったよ、とやんわり彼女に指摘すると、サキちゃんはその事にいま気がついたような慌てぶりで、めちゃくちゃに謝るらしい。シンプルに挙動不審だった。
今日は土曜日だったので、時間を目一杯使えた。私たちは朝9時から仕事に取り掛かる事にした。サキちゃんはいつも捜索するにあたって三方向への分散を提案する。しかし私とケイはその度にそれに反対した。サキちゃんを可能な限り独りにしない、という点で私とケイは無言の合意に達していた。そんな訳で、駅周辺の中心街をサキちゃんとケイが担当し、私はそこから離れた学校周辺と海岸沿いを探すことにした。
学校の近くは、既に昼休みを使ってある程度捜査の手を入れていた。という訳で私は海岸沿いにある大型電化製品店の掲示板コーナーに、迷子猫のポスターを貼ってほしいとお願いしに行った(と、思ったらすでに店主さんが頼んでいたらしい。もう貼ってあった)。次にそこから歩いて10分程の、同じく海岸沿いにあるホームセンターにも同じお願いをしに訪ねる(こちらも同じだった。なのでレジ後ろの袋詰めする台に、それぞれ追加でビラを貼ってもらった)。それから近辺のラーメン屋と定食屋にも頼みに(これも同様。私がいる意味とは)行った。あとはひたすら捜索とビラの手配り。海岸にも足を運んだが、12月のオフシーズンの海岸に人なんてほとんどいなかった。犬の散歩をする主婦が一人、熱心にゴルフクラブを振るおじいさんが一人、それだけだった。一応どちらにもビラは配ったが、二人とも自分が何を渡されたのか良く分かってなさそうな表情をしていた。
そうこうしていると正午になった。朝から始めて3時間、歩き通しで流石に疲れた。私は休憩のために、海の見える大きな公園のベンチに座っていた。駅前の中心街とは離れた位置にある、市民の憩いの場。広々とした公園だった。かつてこの地に来航した黒船にちなんで作られたらしい。広場の中心には大きな記念碑があり、資料館なんかもあった。私は入ったことがなかったので詳細は分からないが、中にはジオラマなどが展示してあるらしい。
私はAirPodを耳に付け、スマホでランダム再生をオンにする。シンディ・ローパーの『グーニーズはグッドイナフ』が流れ出す。すこしうんざりしながら、昼食用にホームセンターの小さなフードコードで買ったサンドイッチを食べた。味が薄かったので、あまり美味しくなかった。私はParadisoのサンドイッチの味を思い出しながら、一緒に買ったペットボトルのミルクティ―で無理やり流し込んだ。食べ終わると、いつの間にか黒人のおばあさんが私の前に立っている事に気がついた。
――いや、「いつの間にか」というのは少し違う。彼女は少し前から園内にいた。私はそれを目端で把握していた。彼女は初め、遠くのベンチから私に視線を送っていた。私がサンドイッチを半分食べた辺りでおばあさんは数メートル先のベンチに移動して、やはりこちらに注意を向けていた。そして食事が済んだ今、彼女はいよいよ私の目前にやってきた。おばあさんは非常にサイケな柄のセーターを着ていた。その色調があまりに目立ったので、よっぽどのスルー力がない限り、その存在を無視することは難しい。濃いピンク色を基調として、赤とオレンジ、それから水色の心電図のようなウネウネ模様が所狭しと駆け巡っている。おまけに胸の辺りには、巨大な太陽らしきマークがデザインされていた。その太陽には顔が描いてあって、私はその仏頂面と目が合った。私ははじめ「おや?」と思った。既視感のあるデザインだった。そして彼女との距離が近づき、そのマークの詳細が分かる距離にまで接近した今、疑念は確信に変わった。
――そう、これはアストラからやってきた信心深き放浪者、太陽の戦士ソラールの紋章。名作ゲーム、ダークソウルのNPCのシンボルだった。
公園での出会い
ソラールの紋章を胸に刻んだその黒人のおばあさんは、しばらく私の座るベンチの前で何も言わずにこちらを見下ろしていた。ガン見だった。私はキョロキョロしながら、どうしようか考えを巡らせた。彼女と彼女のセーターに刺繍された太陽、合計2人分の視線がもどかしかしい。いい加減気まずかったので、私は意を決してAirPodsを外して、おばあさんに「こんにちは……」と遠慮がちに声をかけた。ついでに微笑も添えたつもりだったが、恐らく不自然で不格好だったと思う。
いくら待っても、おばあさんからの反応は無かった。「こんにちは」の以前と以後で、何ら歴史が変わることはなかった――いや、何かが変わりつつあった。彼女は私から視線を外すことなく、肩にかけた大きな藤のトートバッグからタブレット端末を取り出したのだ。おばあさんは少しの間それを操作し、やがて私の方に画面を向けた。そこには真っ白な画面の中に、ただ一言だけこう書いてあった。
【黒猫の行方について、心当たりがあります】
私は突然の事に内心うろたえていたが、それを表に出さないように努めた。わざとらしいゆっくりした動作で手に持ったAirPodsをケースの中に戻し、それを上着の中綿パーカーのポケットにしまった。それから私はどう対応すべきか考えた。あれこれ考えた末に、自分のスマホを取り出してメールアプリを起動する。そこに文字を打ち込んで彼女に見せた。
【Nice to meet you(はじめまして)】
それを見たおばあさんはまた自分のタブレットを操作し、画面を私に見せた。
【はじめまして(日本語で大丈夫ですよ。もう何十年も日本に住んでますから)】
あ、日本語通じるんだ。自分の英語の成績を呪うような事にならなくてホッとする。続けておばあさんはこのような文を打って私に見せた。
【いなくなった黒猫を探しているのでしょう? どうやら私が些細ながら力になれそうです。どうでしょう、ご友人のお二人を加えて4人でその事について少しお話しませんか?】
……結構怪しかった。私は【少し待ってくださいね】とスマホに打ち込んで彼女に見せてから(彼女は二度うなづいた)、少し離れた位置まで移動する。
どうしてレヴナントの失踪の事を知っているのだろうか。どうして猫の居場所について目星が付いているのか。どこかで猫を見かけたのであれば、どうして今その場所を伝えてくれないのか。そもそも心当たりがあるのなら、どうしてビラやポスターに書いた連絡先ではなく私に直接伝えたのか。どうしてタブレットで対話しようとしたのか。私がイヤホンしてたから? 日本語は話せないのかな? 読み書きは出来るのに? まあそんな事もあるかぁ。などなど、疑問が湯水のごとく湧いてくる。
私はおばあさんに背を向け、ケイに電話をかけた。事情を伝えると彼女も怪しがった。あるいは私達の弱みにつけ込むような、何らかの提案をされるかもしれない。そのような結論にたどり着いた。ただそれと同時に、この話自体が魅力的である事は疑えなかった。解決の決め手になるかもしれない。事実、私はこの話を聞いて少し安心していた。日に日に大きくなる閉塞感や、このまま見つからないのではという不安――そんな暗く湿ったトンネルを手探りで進む私たちを、一筋の光が照らし出したのだ。
ケイに駅前での成果を確認する――成果はゼロ。有益な情報はひとつも手に入らなかったようだ。正直、この状況を打開するための情報もアテもこれといってない。賭けてみる価値はあった。私とケイは、この分かりやすくひけらかされた救済の手を、とりあえず掴んでみることにした。「太陽万歳」、とソラールさんの名台詞が頭の中に響いた。願わくばあのイケてるセーターの上で光り輝く太陽が、私たちの太陽でもあらんことを。
電話を終え、私はおばあさんに二人と合流する事をスマホで伝えた。彼女はにっこり笑って頷いた。話は喫茶Paradisoで、という事でお互い合意し、再び私は駅前へと向かった。サイケデリックで太陽賛美なセーターを着た、無口な黒人のおばあさんと一緒に――
とっておきの解決法
私たちが喫茶Paradisoの前に到着すると、サキちゃんとケイは既にそこで待っていた。着いて早々、サキちゃんは私の隣りにいる黒人のおばあさんを見て目を丸くする。それから私を手招きし始めた。不思議に思って近寄ると、サキちゃんは私とケイを引き寄せ、三人でおばあさんに背中を向けて団子になる。サキちゃんが声を潜めて言った。
「……あの人、この前二人に話したおばあさんだよ」
ケイは「ふーん」と小さく発して、いつもの気だるげな調子で返す。
「そこの交差点で呪いの儀式、やってたって噂の?」
「そうそう。間違いないよ」
サキちゃんは強く頷いた。私はにわかに不安になって小声で言った。
「どうする? 連れてきちゃったけど、やっぱり何だか怪しいし――やっぱり、やめておく?」
私がそう持ちかけると、サキちゃんは深刻な顔つきになる。決断の時だった。ケイはおばあさんを見ながら「てかあのセーターに描いてあるの、ソラールの太陽じゃん」と、話の腰を折るような独り言を半笑いでぼやくだけだったので、ちゃんと無視した。サキちゃんは少しの沈黙の後、首を横に振った。
「結局、何にも情報入って来てないし、せっかくだし話だけでも聴いてみようよ」
私は「分かった」と同意した。
「でも話を聞いた後、それからどうするかはちゃんと三人で考えて行動しよう。いい?」
私がそう釘を刺すと、少ししてからサキちゃんは力なく笑って「ありがと」と言った。
……話は逸れるけど、ちょうど良い機会だ。私は午前中に会った時からずっと気になっていた事を彼女に尋ねることにした。
「……ところでさ。その頭の奴は何?」
そう言われたサキちゃんは首を傾げ、両手で頭のてっぺんを探り出す。
「へ? どれ?」
「そこじゃなくて、もうちょっと後ろのとこの――そうそれ。その根っこの所の」
私は彼女のポニーテールの根本にあるクリップらしきものに言葉で誘導する。
「それ絶対髪飾りじゃないよね」
サキちゃんはその物体を髪から外し、不思議そうに眺めた。見るからに今気づいたようだ。やがてとぼけたように言った。
「ん、これ? これはねー、あー、カポだねこれ」
「ナニソレ」
「カポタスト。ギターで使うやつ」
「……あえて? そういうファッション?」
「ううん、全然間違えて付けてる。今気づいた」
サキちゃんはコロコロと笑いながらそのアクセサリ紛いの物を外して、彼女の着ている白いダッフルコートのポケットに放り込んだ。
……その「カポ」とやらの下から出てきたヘアゴムはどう見ても絆創膏だったが、かろうじてちゃんと役割を果たしていそうだったので、私は何も言わないことにした。
サキちゃんはこの数日間、様子がおかしい。猫の失踪は想像以上に彼女の心にダメージを与えていた。昨日の昼のお弁当はコシャリ(エジプトの郷土料理らしい)だったし、登校の時は確かに揃っていたはずの靴が、下校時に片足がどういう訳かスニーカーからピンクのクロックスに変わっていた。一昨日はスマホと間違えて家の空調のリモコンを持ってきていたし、ミスチルの桜井の事をずっと桜田と言っていた。
……最後のはただの勘違いかもしれないけど。他にも例はあるが、枚挙に暇がないのでこのくらいにしておく。
私たちは階段を上がって喫茶Paradisoに入った。今日は休業だった。店主であるサキちゃんのお父さんが、黒猫探しに奔走しているからだ。サキちゃんが店の鍵を開け、私たちは窓際のテーブル席に座った。三人揃っておばあさんに向かい合う位置に腰掛けたので、ちょっと狭い。サキちゃんがいそいそと五人分のコーヒーを作って持ってきてくれる……一人分多い。おばあさんが彼女を鋭い眼光でじっと見つめていた。とりあえず余った分は脇に避けておく事にした。店内に音楽はかかっていなかった。
落ち着いたところで、おばあさんは藤のトートバッグから何やら色々と物を取り出して、机の上に並べ始めた。空色の巾着袋――手のひらよりやや大きめのサイズ。次にY市の、とりわけここK街近辺の地図(たぶん、ネットから印刷したもの。A4サイズ)。小さなくたびれた革のポーチと、ついでにジッポライター。これらの小道具が一挙に押し寄せ、机の半分を占拠する。
「何を始めるんですか?」とサキちゃんが恐る恐る、おばあさんに尋ねる。しかしこのおばあさん、目の前の優位性著しい自らの戦略的布陣を眺めるのに夢中なのか、反応がない。もう一度同じことを、今度は私がスマホの画面に文字を打って尋ねる。おばあさんの視線の先まで画面を持っていって見せると、彼女は思い出したような様子で自分のタブレット端末を手にとって、文字を打ち返す。
【ごめんなさいね。いくつになってもこの作業は夢中になってしまうものです。ちっとも周りを見ようとしない!】
そう述べたおばあさんの目が、異様にぎょろついているように見えた。威圧感を覚えた私は少し萎縮してしまう。落ちくぼんだその目を見ていると、見透かされているような気分がして居心地が良くなかった。物事の裏側を覗く事に長けた瞳。静かで、用心深い追跡者。そんなイメージを受けた。
私は気持ちを切り替えて、サキちゃんにこのやり取りの事――おばあさんとは文章で会話している事――を話した。すると彼女は何やら考えるような素振りを取り出す。顎に手をやってうつむく、わざとらしいポーズ。渋い顔と、もったいぶった仕草――間もなく彼女の中でひとつの結論が導き出された。
サキちゃんはおばあさんの方に向き直って右手を持ち上げた。それから顔の横で握りこぶしを作り、それをぐいと下に引いた。今度は顎の高さに両手を持ってきて、人差し指だけをくの字に曲げる。それを見たおばあさんは驚きの表情を見せた後、サキちゃんと同じような手の動きを返す。サキちゃんは突然、嬉しそうな声を上げて笑った。
今度はサキちゃんが胸の前で指を数本立てたりしまったり、また握りこぶしをつくったり、それをもう片方の手と合わせたり、ひらひらやったりした。かと思えば、左右の手を糸巻きの歌のようにくるくるやったり、それら動作の節目に合わせて頷いたり、眉や口角を上げ下げしたりした。それが終わると、またおばあさんが両手と表情を使ってサインを送った。サキちゃんは目をぱちくりさせて唸りつつ、先ほどよりゆっくりした動作で手を動かした。それに対しておばあさんが更にジェスチャーを返すと、サキちゃんがまた笑った。
そのような応酬が長い間続いた。ようやくそれが一段落を迎えると、サキちゃんは私とケイに説明を始めた。
「えっと、このおばあさん耳が聞こえないんだって。昔、事故で聴力を失くしちゃったらしいよ」
どこからその情報がやってきたのか分からなかった。私の理解が追いつかないまま、サキちゃんの口から続きが語られる。
「しかもその数年後に今度は病気で声帯も取り除いちゃったから、喋れないみたい。元料理人で、腕もそこそこ良くって、なんか有名なホテルで料理してた事もあるらしいよ。出身はアメリカだけど、結婚がきっかけでだいたい30年前に日本に来たんだって。一通り日本語も読み書き出来るし、しゃべれたんだけど、出来るようになったすぐ後に事故に遭ったから、すごく苦労したって」
……一気に情報が押し寄せてきた。私は話を聞くので精一杯だった。サキちゃんは更に畳み掛ける。
「趣味はゲーム。最近はマインクラフトでレッドストーン回路を勉強したり、研究したりするのにハマってるんだって」
意外と現代っ子だった。いや、それよりも――と、私が頭の中を整理していると、ケイが聞きたかったことを代弁してくれた。
「てかその前にさ――サキ、手話出来たんだ」
サキちゃんは「うん、実はね」と照れくさそうに頭を掻いた。
「小さい頃に習ったんだ。でもあたしが出来るの、日本手話だけだけど」
私が感心して「外国語は手話も違うんだね」と言うと、サキちゃんは「そうじゃなくてですねえ~」と、手をひらひらさせた。
「英語とかは確かに手話も違くなるんだけどね。そうじゃなくって、日本の手話ってざっくり二種類あるんだ。日本手話と日本語対応手話って言うんだけど、文法とかが違うんだ。で、さっきおばあさんが最初にあたしに返した時、日本語対応手話の方だったから、なんだか良く分かんなくなっちゃってさー。それで聞き返したら、日本手話の方で合わせてくれて――」
……なんだかサキちゃんが大きく見えた。すごいや、サキちゃん。私は目を輝かせて聞いた。
「それで、レヴの事は何か言ってた?」
「占うって」
「ん?」と私は反射的に聞き返した。サキちゃんは今、何と言った? 私はつい一秒前に聞いた事を頭の中でリピートしようとする。するとサキちゃんがそれには及ばず、という風にこう言い直した。
「レヴの居場所を占ってくれるってさ!」
対面に座るおばあさんは巾着の中身をひとつずつ取り出して、丹念にそれをチェックしている――石か何かのようだった。それの表面には、見たこともない細い字体の文字が書いてあった。何十個もあった。チェックが終わると、おばあさんは全ての石を再び巾着袋にしまい、今度はK街の地図を広げ始めた。
――え、もしかしてこれ占いの道具? 何で地図? もしかしてダウジング? あふれ出る私のクエスチョンマークをよそに、サキちゃんが満面の笑みでこう告げた。
「古代文字を使った由緒正しい占いなんだって!」
おばあさんは今の言葉が聞こえていたかのような、絶妙なタイミングで顔をこちらに向け、ニヤリと不敵に笑った。海外ドラマならここでブラックアウトして次回に続く――そんな劇的な瞬間の演出だった。
占いとその結果
占いの準備が整うと、またおばあさんはサキちゃんと手話を交わした。サキちゃんがすぐさま、私たちにその会話の内容を伝える。
「私の事は『週末婦人』って呼んで欲しいって!」
……また情報が増えた。元敏腕料理人。耳が聞こえなくて喋ることが出来ない。最近の趣味はマインクラフトのレッドストーン回路について考えること。ソラールの太陽紋章が刺繍された、サイケデリックな色合いのセーターを着ている。そんな黒人のおばあさんに、またしても情報が付与された事になる。
ケイはさっきからずっと眉をひそめっぱなしだった。新たな事実が追加される度に首を右に左にかしげていた。特に「週末婦人」の解釈には相当悩んでいるようで、彼女のジト目の虚ろ具合が一層強くなった。やがて合点がいったのか、ケイはぽつりと言った。
「……ミセス・ウィークエンドって呼んでほしいんじゃね?」
それは何かを試すような口ぶりだった。私にもその理由は分かる。そしてこの発言は、いよいよ私たちを本格的に困惑させた。その呼び名はあまりに“格好つけ”が過ぎたのだ。ただでさえ情報が渋滞を起こしている今、簡単に肯定したくなかった。「どうすんだこれ」という、焦燥感が背筋に這い寄った。仕方がないので、サキちゃんが皆を代表しておばあさんに名前の由来を尋ねることにした。返答は「もったいぶっていて、格好がつくから」だそうだ。
……大変よろしかった。という事で以後、おばあさんのことはそう呼ぶことにする。
さて、ミセス・ウィークエンドはというと、私たちにタブレットを向けて、こんな内容の文章を見せた。長かったので、読むのに一苦労する。
【これから実践するのは、古代文字を使った占いです。これは本当に特別で神聖なものです。馬鹿げたカビ臭いカードは使わないし、酔っぱらいが決めたようなルールで行われる手相見でもないし、ましてや時の支配者が散々ありがたがってきた反吐が出る、スノビズム全開の数秘術なんかとは違って、より的確なまじないなんです。ルールは簡単。心の底から探し物が見つかることを願って――今回の場合はいなくなった黒猫ですね――、私に質問をしてください。そうしたら私が霊的な託宣を受けてから、その質問者にこの袋から石を取り出してもらいます。簡単でしょう?】
情報の洪水だ。初めて聞いた単語すらある。まるでありとあらゆる絶叫マシンに、休み無しに次々と乗せられている気分だった。そんな訳で、私たちの判断力も良い感じに鈍っていた、ゆえに、特にこれといった抵抗感も無くこの占いに参加するハメになる。
必然的に質問者はサキちゃんになった。まず名前と誕生日を教えろ、との事だったので、サキちゃんは手話でそれを伝えた。
【誕生日は12月16日で間違いないですか?】
ミセス・ウイークエンドが見せたタブレットの文章にはそう書かれていた。サキちゃんは頷いた。そんなに重要な情報なのかな? と、私は思ったが話の腰を折るのも嫌だったので黙っていた。
【よろしい! それでは質問をどうぞ】
その文章を皮切りにサキちゃんはぺこりと頭を下げ、手話でミセス・ウィークエンドに質問をした。内容は「どうしたら猫が見つかりますか?」というもの。するとミセス・ウィークエンドは顔と両の手を天に向け、白目を剥きながら10秒ほど静止した(ケイが「もう帰りたい」と小声で言った)。気のせいか、妙に肌寒い。きっと「しらけ」が現実の温度に取って代わったのだろう。
それが終わると今度は机の上の袋を取って、その入口をこちらに向けた。ミセス・ウィークエンドが人差し指を一本立てる。中から石をひとつ取れ、ということだろう。サキちゃんは指示通りに手を入れて、選んだ石を机の上に置く。石には細長い線が組み合わさって出来た印が刻まれている。
ミセス・ウィークエンドは身を乗り出し、思い切りそれに顔を近づけ、印を凝視した。その両目はこれ以上ないほど大きく開かれている。それが終わると、今度は地図に目を移す。これが二度繰り返された。
次に彼女はサキちゃんに追加でふたつ、石を取り出すよう要求した。異なる印を刻まれた石がひとつずつ増えていく。最後にミセス・ウィークエンドはまた白目を剥いて天を仰いだ。ケイはこの一連の流れを、私が見たことないほど無機質なジト目で眺めていた。サキちゃんに至っては半泣きだった。
占いの結果はタブレット端末に書き込まれた。こんな内容だった。
【猫が見つかるまで、やらなくてはいけない事がいくつかあるようです。手始めに呼び水の用意が必要です。すなわち、特定の猫を特定の場所に呼ぶ為のおまじない――そこから始めるべきです。皆さんは『燈火岬』をご存知ですか? そう! ここからおおよそ4kmほど東にある、地元で有名な岬です。そこで20cm以上のカサゴを釣ってくるのです】
……なんでそういう結論に至ったのか、これっぽちも分からなかった。占いとは得てしてこういうものなのだろうか。私には理解できなかったが、何か凄い力を感じた。見えざる力場のもたらす神秘のパワー、宇宙的真理が放つエネルギー、超次元的な相互作用が生み出す運命の力。私はいっそこの場で白目を剥いて、カサゴの唐揚げみたいな表情で床に倒れてしまいたい気分になった。
……さて、これをどう受け止めるべきか。私たち3人は話し合った。確かに現時点で猫の行方についての情報は皆無。来る日も来る日もビラを撒き続け、ポスターを張り続け、店主さんはものすごい速さで町じゅうを駆け巡り続け、やがて喫茶Paradisoは経営不振に陥る――そんな可能性だってある。ケイもサキちゃんもおおむね同じ意見だった。この占い師を信用して良いのか、からかわれているんじゃないか、それとも大真面目にやってくれているのか……っていうか用意してた皮のケースとジッポライター、使ってなくない? 等など、キリがなかった。
私たちは時間をかけて意見をぶつけ合ったが、なかなか結論は出なかった。するとそれを見かねたのか、ミセス・ウィークエンドはひとつの提案をしてきた。つまり、別の特殊スキルを特別に見せるので、それを判断材料にして欲しいとの事だった。なんと黒猫レヴナントの意識にミセス・ウィークエンドが直接つながり、彼に声をかけるというものだった。いよいよ何でもありだね、と私は小さく呟いた。ケイは「それ出来るなら最初からソレやればいいじゃんね」と、不服そうだった。
【もちろん相手は猫ですから、返事は言葉ではないでしょう。それでも構わないのであれば黒猫に今、一番かけたい言葉を考えて、それを教えてください】
ミセス・ウィークエンドはそう締めくくった。
今度は私が質問役をやることにした。この新しい試みには条件があった。まずその交信とやらは、MP的に(!?)一日一回が限度ということ。そして短い時間しか繋がれないので、手短な文章が好ましいこと。了承した私はスマホで文章を作り、両隣にいる二人と念入りにそれを確認しあってから彼女に見せた。
私がミセス・ウィークエンドにそれを見せると、彼女は目を閉じて俯いた。さっきの仰々しい表情とは打って変わって、穏やかなものだった。交信はものの五秒かそこらで終わった。ずいぶん呆気ない。ミセス・ウィークエンドが目を開けると、タブレット端末に結果を記し、それを私たちに寄越した。このようなものだった。
【変わった事を尋ねるものですね。彼もちょっと呆れてましたよ。返事は『ニャァー』です。ずいぶんと長い鳴き声でした。さて、参考になりましたか?】
私たち三人は顔を合わせあって立ち上がる。そして釣りの準備をするために、私とケイは一旦自宅に帰ることにした。
「今からなら、夕まずめに間に合いそうだよ」
Paradisoの雑居ビル前で私はケイとサキちゃんに言った。すると二人は揃って同じタイミングで首を傾げる。私は付け足した。
「えっと、日が沈む前後の魚が釣れやすい時間帯のこと」
私が釣り用語の解説をすると、今度は二人分の納得の表情が返ってくる。私は気になって質問した。
「……ところで二人は釣り、やったことあるの?」
「無い」とひどく平坦な声が回答がひとつ。「無いよ!」と、テンションが上ってややアッパー気味な声がひとつ。
……と、なると経験者は私だけ。大丈夫かな、と私は思った。とはいえ、やらざるをえない。これはチャンスかも知れないのだから。
私は二人に用意して欲しいものを伝え、ケイと一緒に駅へと向かった。
自宅に戻った私は、釣り道具一式を急いで用意する。釣り竿、リールとラインのチェック、仕掛け、折りたたみ式のビニールバケツ、小型の白いクーラーボックス、キッチンの冷蔵庫にある保冷剤――どれも問題なさそうだった。着替える時間が惜しかったので、上着だけを着古した薄茶色のダウンジャケットに着替える。最後に紺のニューエラの帽子を被って準備は完了。再び玄関扉を開けて、私はParadisoにとんぼ返りする。
はやる気持ちを抑えて電車に揺られていると、頭の中にさっきのやり取りが浮かんでくる。
「レヴさんは今年で九才でしたよね?」
私はそう問いかけたのだ。そしてその返事は「ニャァー」。彼は肯定する際に短く鳴き、否定する時は長く鳴く。私たちが質問して彼が答える。いつも同じ。決まったやり取り。もう何十回と繰り返された出来事。そしてレヴさんはいつだって正しい。
――だから占いを信じてみることにしたのだ。黒猫レヴナントは今年で八才。九才ではない。誕生日会もささやかながら開いた。年老いたと言うには早すぎで、若者と呼ぶには遅すぎる。そんな悩み多きお年頃なのだ。
大きな曲がり道を抜けて
私たちは再度、K駅前のバスロータリーで集まった。二人とも私の指示通り、ちゃんと着替えて来ていた。向かう先は海辺の磯なので、濡れるし汚れる。それに岩場は足元が不安定で危ないので、動きやすい格好で、と私は注文を出していた。あと帽子を欠かさずに、とも。
サキちゃんは無地の黒いニットキャップに水色のマウンテン・パーカー、それから色褪せた紺色のズボン。ケイは黒いキャップ、それからオーバーサイズ気味なフード付きウィンドブレーカーに黒のズボン(右膝の所が少し破けている)という出で立ち。釣り道具も持ってきていた。それを見て私は言った。
「二人とも、釣り竿あったんだね」
ケイが肩をすくめた。
「親に聞いたら、何年も前に家族釣りに行った時に買った竿があるっていうからさ。初心者用のやつ」
「長さはちょうど良さそうだし、問題なさそう」
けど――
「――まさか“抜き身”で持ってくるとは思わなかったよ」
私がそう言うと、彼女はまた肩をすくめて首を横に降った。そう、彼女は釣り竿をケースに入れず、そのまま握りしめて持ってきていたのだ。きっとケースが無かったのだろう。幸いリールは取り外して、背中のショルダーバッグの中に入れていたので、いつでも出来ます的な、臨戦態勢のまま電車に乗り込むという事故は未然に防げたようだ。私がそう思っていると、サキちゃんが威勢よく手を上げた。
「あたしのは、お父さんに借りてきたやつ!」
彼女はしっかりしたハードケースに釣り竿を入れていた。先端には『DAIWA』のロゴが記されている。ちょっとした好奇心でケースのファスナーを開けさせてもらい、型番を確認してみる。スマホで調べてみると、大体6万円くらいするロッドだった。
ガチのやつだった。二人には言わなかった。
そうこうしている内に、U町行きのバスがロータリーにやってきたので、私たちはそれに乗った。しばらく揺られて、途中の停留所である『燈火岬前』で降りると、潮風に前髪を乱される。私は帽子を深く被りなおして、二人の先に立って目的地に歩き出した。
バス停から釣り場までは10分ばかり歩かなくてはならない。海岸線に沿うようにして大きく緩やかに湾曲した下り道を、私たちはしばらく歩いた。しばらく進んでいくと、やがて道はすこしずつ細く狭い小径に姿を変えていく。さらに歩くと分かれ道。私は二人を誘導しながら、左の道を選んだ。私は歩きながらスマホで時間を確認した。現在15時6分。日没は16時30分頃。釣れる条件もそれなりに整っている。悪く無さそうだ。
燈火岬は小さな海岸だ。手前と奥に砂浜があって、中心が岩礁で構成されている。どの地帯もこぢんまりとしていて、岬の中心部の小高い丘に小さなお堂が建っている。海岸の入口にたどり着いた私たちは、何となく近くにある案内板を読んでみる。
『燈火岬はU町の西に位置し、かつてU町の港に出入りする船にとって灯台の役目を果たしていました。1648年に幕府の命により、この岬に小さなお堂が造られ、そこに灯される光は海上4海里(7.4km)を照らしたと言われています。元禄の時代から明治5年(1872年)に廃止されるまでの約220年間、一日も休まず海路を照らし、航路の安全を守ってきました。その後は風雨で崩壊してしまいましたが、昭和63年(1988年)に復元されました。』
――知らなかった。それは二人も同じだったらしく、私たちは揃いも揃ってここに来た目的を早くも忘れ、まるで観光ツアーでガイドさんの解説を受けたように、小さく感嘆の唸り声を上げていた。
ひとしきり旅行気分を味わった後、私たちは我に返ったように砂浜に降りていった。辺りには誰もいないようだ。私たちは手荷物を一旦、砂浜に降りる途中の小さな階段に置いた。
天気は良く、雨の心配はなさそうだった。時折吹く冬の乾いた風の中には潮気が香辛料のように溶け込んでいて、ぴりっとする香りがした。すぐ右手には岩礁が地続きで広がっている。突端の波打ち際は、釣り初心者には危なそう。私は自分の釣り竿の用意をしながら辺りを観察し、砂浜との境目にある、比較的平たくて大きな岩が多い箇所を指差して言った。
「二人はあの辺りの岩場から投げてよ。あそこなら滑って怪我したり、海に落っこちたりしなそう」
それからケイとサキちゃんの持ってきた釣り竿も、二人にやり方を教えながら準備した。特にサキちゃんの釣り竿はリール(シマノのバッチリしたやつ。多分8万円以上する!)も含めて“お高いの”だったので丁寧に取り扱った。二人は私の指示に従いながらおっかなびっくりリールを取り付け、竿のガイドにぎこちない動作で糸を通す。仕掛けを糸に繋ぐのは私の役目。仕掛けは私が持ってきていた。5gのジグヘッドを付けた2インチのワーム。私は取り付け方や、扱い上の注意点なんかを説明しながら作業をする――本当は釣りの楽しさを味わって欲しかったが、今回は事情が事情なのであくまで事務的に。
サキちゃんが目を輝かせたのは、私が投げ方や糸の巻き方なんかの実演をしている最中だった。
「今気づいたけど……もしかして、ベテランの釣り人?」
「そんな事ないよ。中学生の頃に、釣りにハマってた時期がちょっとあっただけ。土日とかに、お父さんと一緒に」
私は若干、浮つきながら手をひらひらしてそう言った。それを聞いたサキちゃんが結構な勢いで持て囃し始めたので、私は段々、調子が良くなる。あんまり浮ついてしまったものだから、あらぬ方向に仕掛けを投げてしまう。案の定、どうにも出来ないレベルの“根がかり”を海中で起こしてしまい、私は早くもワームをひとつ失ってしまった。
「……と、このように海底には岩やら海藻やら様々な障害物があり、仕掛けはしばしばそこに引っかかります。これを根がかりと言って、割とどうしようもないケースもありますが、失う事になっても気にしないでください。代わりの仕掛けはまだまだ用意してありますので」
私は自分の失態を覆い隠すように言葉を並べ立て、このレクチャーを終わらせにかかった。その後、あんまりにも私が体育座りでうずくまるのを止めないので、しばらくサキちゃんが慰めてくれた。ようやく立ち直って釣りが再開出来た頃には、もう日は落ちかけていた。
浜辺×釣りの成果×約束の代行
カサゴ釣りはそう難しいものではない。仕掛けを投げ入れ、それが海底まで沈むまで少し待ち、探る。底に着いたらリールで少しずつ糸を巻き取りながら、小さく竿の先端を上げる。そうすると仕掛けが海底から浮き上がるので、また数秒待って海底に沈むのを待つ。上げて下げる――基本的にこれの繰り返し。カサゴは大抵の場合、岩の根本や割れ目、海藻の隙間なんかに生息している。近くに餌があれば積極的に食いついてくるので、“そこにいれば”釣れるようなタイプ。
以上の釣り方を、実演を交えながら教える。ケイとサキちゃんは初心者なので、なるべく根掛かりしないコツも補足する。竿を水平より少し立たせた状態を保つこと。糸をできる限りピンと張っておくこと。釣れる確率は少し低くなるが、それでも諸々のトラブルでがっかりするよりはマシだ。
サキちゃんとケイには、比較的足元が安全そうな岩場で釣ってもらうことにした。私はしばらく、釣りに興じる二人の背中を少し離れた位置で見守った。次第に彼女たちの動作からたどたどしさが薄れていく。もうつきっきりになる必要はなさそうだ。私は少し離れた位置に移動して岩礁の突端、足場が不安定だが良く釣れそうな岩場で釣ることにした。ブランクもあったので足を滑らせないか少し怖かった。恐る恐るの動作で数回投げると、コツを思い出してきた。かつての感覚が戻りつつある。それなりの手つきで海底を探る余裕も生まれてきた。やっぱり釣りは良い。海底がどうなっていて、どこにどう投げたら上手くいきそうか想像する楽しさ。久しぶりに私は、忘れかけていた釣りの魅力を存分に味わっていた。
……私はつい夢中になってしまっていて周りを見ていなかった。完全に油断していた。そんなだから、私の左で釣りをしていた二人の方を振り向いた時、何が起こったか一瞬分からず、思わず二度見してしまった。
ケイは根掛かりを起こしているようだった。彼女はぶっきらぼうに竿を上下左右に振り回している。今そうなったのか、それとも長い間そうしていたのかは分からない。私は竿を置いてケイに近づく。
私は「大丈夫?」と声をかけた。聞こえていないようだった。ケイは持ち前のジト目に思い切り力を込め、母なる広大な海を睨みつけながら、機械的な単調さで竿を操作している。さながら、その場に相応しくないセリフや動作を繰り返す、バグったゲームキャラのように。彼女は孤独に、この異常動作を繰り返し続けた。
問題はサキちゃんの方だった。私はこの無惨な姿を見て、自分の不注意さを恥じた。どうしてこんなになるまで放っておいたのか、後悔の念で押しつぶされそうだった。
サキちゃんはどうやら、被っている黒ニットのボンボンの部分に釣り針を引っ掛けてしまったようだった、で、そこから何をどう間違ったらそうなるのか、全身を釣り糸でぐるぐる巻きにされていた。がんじ絡めで身動き一つ出来無い状態。
彼女の瞳はほとんど点に近かった。何が起きているのか理解出来ない、という様子だった。意識はあるようだが、私の言葉には反応がない。一種の放心状態。彼女はその状態でひたすらに口を噤み、苦しみを一身に受けて耐えていた。自らへの罰、とでもいうのだろうか? 何の?
私が自問自答していると、背後でケイが不気味な笑い声を上げた。
「ふへへ、へへへ――」
喉奥から絞り出される、かすれた笑い。例えるなら、イカれた殺人鬼キャラが獲物を狩ろうとして、逆に強キャラに返り討ちにされた時みたいな感じの。私が引き気味い彼女を見守っていると、ケイはゆっくりとこちらを振り返った。
……意外にもその顔はいつもの無表情で固定されていた。不気味な笑い声も収まっていた。彼女はしばらくこっちを見ていたが、サキちゃんの惨状を見て眉根を寄せた。
「うわ、全然気づかなかった。なにそれ、どうなってんの。愉快すぎる」
サキちゃんからは何の反応も無かった。
「ヨークシン編で、クラピカに捕らえられたウヴォーギンみたいになってんじゃんね」
ケイがそう続けるとサキちゃんが目を点にしながら俯いた。
私はひとつずつ問題を処理することにした。まずはサキちゃん。この“束縛する中指の鎖(チェーン・ジェイル)”を何とかしなくては。私はボンボンに引っかかった仕掛けの結び目をラインカッターで切った。緊張のほぐれた糸がするすると解き放たれて落ちていき、サキちゃんの足元に束を作る。私が糸束を拾って自分のポケットに入れると、サキちゃんは何も言わずドヤ顔で握手を求めてきたので、それに応じる。二人は長い間、握手をしながら互いを見つめ合った。何の時間なのか全く分からなかったので、きりの良いところで止めた。
次はケイ。彼女は自分でこの課題を解決したいようだった。私はアドバイスをしながら、彼女に竿やリールを操作してもらう。何度かの試行の後、大きく曲がった釣り竿がゆっくりと元の位置に戻っていった。どうやら根掛かりから外れたようだ。ケイが安堵したように口を開いた。
「ありがと――けど、何かちょっと重くね?」
彼女は釣り竿の不自然な重さに違和感を覚える。釣り針に何かが付いているようだった。注意深くケイが糸を巻き取ると、先端の仕掛けに缶バッジがくっついていた。テニスボールより少し大きいくらいの直径の、白い缶バッジ。黒字で大きく「44」という数字が書いてある。宙にぷらぷらと浮かぶそれを見たケイが、ぽつりと言った。
「――これ、ヒソカのじゃね?」
……ヒソカのだった。ハンター4次試験のキーアイテム。主人公ゴン=フリークスに与えられた標的の番号。宿命の敵が持つ因縁のプレート。ケイはそれを釣り針から外し、私の眼前で掲げた。
「いつか顔面にパンチしながら返すね」
少し考えてから、私は「待ってるよ」と言った。
……缶バッジはケイが気に入ったらしく、持って帰ることにしたようだ。
気がつけばもう日が沈んでいた。海は重たげな黒色に染まり、ついさっきとは異なる様相を呈している。石油のような海面に光の帯が鈍く照り返し、所々がギラギラと瞬いた。スマホを見ると17時39分だった。そろそろ切り上げ時。少し名残惜しかったが、帰り支度を始める事にした。
カサゴは結局、私が釣り上げた。24cmのぼちぼちサイズ。私は獲物を折りたたみ式のビニールバケツからクーラーボックスへと移した。
支度を終えると、サキちゃんがグループLINEに報告をした。私たち3人と、ミセス・ウィークエンドの計4人のLINEグループ。喫茶Pardisoを出る前に作っておいたものだ。
念の為に私とケイは事前に示し合わせて、名前を変更してから連絡先を交換していた。サキちゃんは占いの時に手話で自己紹介をしてしまっていたので、以前のまま「サキ」。ケイは「井之頭五郎」。どうして孤独のグルメの主人公の名前を選んだのかは分からない。私は「ツムツム」。LINEを開く時、スマホ画面にあるツムツムのアプリアイコンが目に入り、何となくちょうど良さそうに思えたから。
本来であれば、この自衛手段はサキちゃんこそ講じるべきものだった。もしミセス・ウィークエンドに関する噂が真実で、彼女が呪い師だというのであるなら、相手を呪う際に本名が必要そうに思えたからだ。ゲームやアニメ、漫画といった創作物の中ではしばしばそのような設定が用いられる。これは無い知恵を絞って考案された、急ごしらえの対策だった。
発案者はサキちゃんだ。自分は本名を知られているにも関わらず、彼女は私とケイにそうするよう提案したのだ。おそらくサキちゃんもこの怪しい占い師を警戒している。単純にうさんくさいし、怪しい。それでも万が一、本当にあの占いが黒猫捜索に有益であるなら――これはサキちゃんが選んだ、ひとつの自己犠牲だった。そしてこれ以上誰かが同じ道を通る必要も意味もない。そういうことだった。
数分後に、ミセス・ウィークエンドから返信がきた。
【クエスト達成、おめでとうございます。良いハンターは魚にも好かれるんでしょうね(ハンター✕ハンターの名言をもじったものだった。この人、マジ物のエスパーか何か? と隣でケイが独りごちた)。
とにかく、これで目標は達成されました。喫茶Paradisoの入っているビルの前で落ち合いましょう。きっとあなた達にとって素敵な結果になる事でしょう】
何だかちょっと脱力感を覚える文章だった。私がそう思っていると、更にもう一件、彼女からメッセージが届く。
【それと、サキさんに渡した缶の入れ物――魚釣りに夢中できっと忘れていたでしょう? オープンワールド・ゲームで、後回しにしたサブクエストの達成条件みたいに?――それを砂浜に埋めてください。
これはちょっとしたお使いです。最近亡くなった私の友人との約束を果たさせてください。その人は近所の『Y市 散文詩同好会』の仲間です。彼は先月亡くなりました。素敵な詩と共に向こうへと旅立ったのです。
以前、私は彼と約束をしました。自分が死んだら、私の書いた最後の詩をどこか海の見える場所に埋めて欲しいと。きっと良い弔いになるだろう、と。自分でやるのが筋ではありますが、最近は歳のせいか、ちょっとばかりの遠出でも非常に疲れてしまうので――そういう訳でよろしくお願いしますよ。
そうそう! 渡す時にも伝えましたが、恥ずかしいので出来れば箱の蓋は開けないでくださいね。これは私の行った占いの対価と思ってもらってかまいません。あなた達から謝礼を貰おうなんて、これっぽちも考えていませんでしたもので!】
サキちゃんは出かける前、確かにミセス・ウィークエンドから箱を受け取っていた。ハガキくらいの大きさの、缶で出来た入れ物。ケイと私は手で砂浜に穴を掘って、サキちゃんがそれを埋めた。中身は見なかった。
私たちがParadisoに戻ると、ミセス・ウィークエンドが雑居ビルの入口で待ち構えていた。私が透明なビニール袋に入れたカサゴを手渡すと、何も言わずに帰ってしまったので、私たちも解散した。
翌日の日曜日、朝早くにサキちゃんがグループラインで集合の号令をかけた。私が喫茶Paradisoの前に着いた時、サキちゃんは階段下に置いたネコちぐらの中を覗き込んでいた。彼女はビニール袋に入ったカサゴの干物の頭部を、注意深い手つきでその中に入れようとしていた。聞くところによると、朝早くにサキちゃんの個別LINEにらこうしろと指示が送られてきたという。カサゴの頭は2階の喫茶Paradisoの入口前に置かれていたらしい。
この非常にシュールな儀式は、私の顔と、遅れてやってきたケイのそれを歪めるのに充分な不自然さだった。
次なるミッション
私たち三人の前に、ミセス・ウィークエンドが見計らったように姿を現した。彼女は昨日も持っていた藤の手提げバッグとは別に、大きな黒いトートバッグを肩に掛けている。それから今日も今日とて例のセーターだった。
――と思ったが、よく見たら微妙に違うもののようだ。
ソラールの紋章である大きな太陽が胸に刺繍してあるのは同様だったが、模様がチェック柄だった。
私はあのセーターがまさかの一点もので無かった驚きと、彼女の出現タイミングの良さへのちょっとした疑念を抱きつつ、とりあえず軽く会釈して彼女を迎える。ケイとサキちゃんも同じようにぺこりとやる。すると、ミセス・ウィークエンドは持ってきたトートバッグを肩から下ろして、ケイに手渡した。突然のことにケイは首を傾げて私たちを見やる。……が、残念なことに私たちも情報量は同じだったので、彼女と同じような仕草を返す。
状況を飲み込めないでいる私たちを他所に、ミセス・ウィークエンドはタブレット端末を藤のバッグから取り出してグループLINEにメッセージを送ってきた。
【昨日はお疲れ様でした。これで逃げ出した黒猫を、ここに引き戻す準備が整いました。このおまじないの為に、カサゴの頭が必要だったんです。さて、次は猫に準備が出来たことを伝えてあげる必要があります。つまり、帰り道が分からなくなった彼に、道しるべを見せてあげるのです。
どこで? イエス。その場所はN東公園。ここから少し遠いですが、バスで15分程の距離です。何を? イエス。その公園で帰り道を告げる目印を掲げるのです。
その手段については、その小さなお友達にお渡ししたバッグの中を見れば、自ずと分かります。ただし、そのバッグのファスナーを開けるのは現地についてから! いいですね? 決してそれまでは中を覗かないこと! これはれっきとした、紛うこと無き呪術的な儀式になります。禁忌を犯した不届き者が、どうして目的を達成出来ましょう? どれだけの数の物語の主人公が、一時の気の迷いで選択した過ちの為に、大人が子ども達の枕元で囁くような、滋味溢れる教訓へと変わっていったでしょう?】
――長い文章だった。あらかじめ入力しておいたようだ。なんだか鼻にかかった言い回しで少しイラッっとしたが、どうやら私たちがすべき事はもう決まっているようだ。
サキちゃんが鼻息を荒くして言った。
「ここまで来たら、最後までやらないとね!」
ケイは大きなバッグを肩にかけ直しながら、「だね」と同意する。
「未だにあの占いは半信半疑だけど――ま、何もしないよりマシだし」
ケイはそう言いながら、気合を入れるかのように黒のダウンジャケットのファスナーを一番上まで上げる。朝イチでいつも以上にダウナー気質が強い口調だったので、絶妙に抜けた感じになったが、それは言わないことにした。
私たちが駅前のバスロータリーに向かおうとすると、ミセス・ウィークエンドがサキちゃんの肩を叩いた。出鼻をくじかれた私たちは止まって振り向く。サキちゃんが手話で何度か会話を交わして、その意図を聞いた。
やがてサキちゃんは手話を中断し、慌てた様子で雑居ビルに入っていった。しばらくして彼女が戻ってきた時には、空気入れを携えていた。自転車のタイヤに空気を入れる際に使うポンプ式のやつ。それから少し遅れて、サキちゃんのお父さんが何かを抱えながらビルの階段を降りてくる。正方形の“すのこ椅子”だった。彼はそれをこの場に置き、役目が終わるとすぐに階上に姿を消してしまう。
私とケイがサキちゃんを見やり、説明を要求した。彼女は申し訳無さそうな顔で笑った。
「えとね、何か空気入れと、“すのこ椅子”みたいなテッペンがスカスカしてる置物的な物が必要なんだってさ。うちにあったから持ってきた!」
……気がつけば大荷物だ。とりあえず空気入れはサキちゃんが持っていく事になった。“すのこ椅子”は私が持とうと思ったが、何故かケイが「自分が持っていく」と言って譲らなかったので、お言葉に甘えさせてもらう事にした。代わりに私は、さっきケイが渡された大きなトートバッグを肩に掛ける。そこまで重くなかったが、呪術道具が入ってると考えると、気が気じゃない。
……落としたりしたら、どうなるんだろう?
……考えたくもなかった。
バスに揺られて十数分――私たちはN東公園にたどり着いた。三人ともここにくるのは始めてだった。住宅地にほど近い、大きな公園だった。私たちの高校の校庭の半分以上の広さはある。敷地のほとんどが草地の広場になっていて、小さい子が遊ぶような遊具は隅の方に少しだけ置いてある程度。のどかで良い雰囲気の公園だったが、私たち以外に誰もいなかったので、何となく物寂しく、どこか不穏な気配すらした。
公園の端の方に東屋があるのを見つけた私たちは、とりあえずそこに荷物を置くことにした。屋根下には木製の長椅子と机が備えてあった。私が机の上に慎重な手つきでトートバッグを置くと、三人揃ってそれを覗き込んだ。
いよいよ中身を確認する時だ。果たしてどのような呪術道具が入っているのか。何をさせられるのか――私たちは目を合わせて頷きあった。
緊張の糸が張り詰め、空気が重くなる。私は震える手を抑えながら、その入口を塞ぐファスナーに手をかけた。
中を見た私たちは思わず息を呑み、目を合わせあった。中身は複数あった。私はバッグの中に手を入れ、慎重かつ丁寧に、ひとつひとつ机の上に並べていく。
――1.5リットルのペットボトルが2つ。プラスチックストローがひとつ。鉄製のハンガーがひとつ。ゴム栓がふたつ。ステンレスのスコップ。ビニールテープ。カッター。はさみ。穴を開ける時に使うキリ。それから「説明書在中」と書かれた封筒。これで全部だった。
封筒を開けると、A4サイズのペラ紙が三つ折りで入っていた。私がそれを広げると、その中にはさんであった、別の紙がひらりと地面に落ちた。私は慌てて説明書を机に置いて、それを拾い上げる。
その小ぶりな紙にはただ一字だけ、大きく筆で「妙」と書かれていた。達筆だったが、よく見ると漢字が間違っている。最後の一画の後に余計な点みたいなものが付いていた。
私がしばらくこの意味について考えていると、説明書を読んだらしいケイが私にそれを差し出して、最初の一文を指差した。私は声に出してそれを読み上げた。
「これは神聖なるまじないとしての行為。迷い猫を家に帰すための目印をつける、霊的なプロセスです。あなたたちはペットボトルロケットを作って、真上に打ち上げる必要があります。作り方はこの説明書を見れば分かります。ネットで調べて私が書きました。
打ち上げの際は、この説明書に同封した「妙」と書かれた紙をロケットの腹に貼り付けるのを忘れないこと。健闘を祈ります」
私たちは停止した時間の中に放り込まれた。極めて電波状況のあやふやなwifiに接続を試みている時のような、永く虚ろな時間。その例に漏れず、私たちは永遠にも近い時を過ごした。
――どんな事があろうとも、人生は前に進む。好むと好まざるとに関わらず。この脱力と倦怠に満ちた空気を最初に振り払ったのは、ケイだった。彼女はただ一言、天を見上げてぼそりと言った。
「……始めましょうや」
誰も反応しなかった。その代わりに説明書の読み込みと、制作作業が淡々と進んでいった。それが答えだった。私たちは暗黙の内にひとつの結論に至ったのだ。つまり、「なぜ」とか「どうして」といった余計な事は一切考えず、何よりもまず一旦、全てを終わらせてさっさと帰ってしまおう。考えるのはそれからにしよう。
それが高校生3人分の頭脳が導き出した、この「妙」な儀式に対する付き合い方だった。
December's Sky
ペットボトルロケットは思っていたより早く出来上がった。
はじめは私とサキちゃんが顔を並べて説明書を見ながら、あーでもないこーでもないと中身の薄い確認作業を繰り返しているばかりで、一向に物事が進まなかった。
遅々として始まらない作業。過ぎていく時間。たまに聞こえてくる小鳥のさえずりも、私たちの間抜けさを強調する伴奏のひとつに過ぎなかった。
「説明書、貸してよ」
横で暇そうにあくびを繰り返していたケイが、ある時点でそう言った。
私たちが物惜しげに説明書を寄こすと、彼女は一度だけそれをじっくり読み込み、やがて私たちに仕事を振り分ける。
ケイはまず、二本のペットボトルのうち一本の頭頂部と中央部をカッターとハサミで切り出した。随分慣れた手つきだった。サキちゃんがそれを指摘すると、ケイは相変わらずのダウナー具合で淡々と言った。
「ペットボトルロケット、作ったことなんて無いけど――こう見えて手先はそこそこ器用なんだよね」
それが終わるとケイは切り取った頭部ともう一本のペットボトル、それからビニールテープをサキちゃんに手渡した。ロケット本体の作成、それがサキちゃんに課せられた仕事だった。私にはもうひとつの切れ端である、中央部の方をロケットの「羽の部分」に加工する役割が与えられた。
「これを縦に切ってふたつに分けてよ。そしたらこれ、ペットボトルだから曲がってるじゃん? これをさ、踏んだり反対に曲げたりして、なんか良い感じに真っ直ぐっぽくしてよ」
私は言われた通り、踏んだり反対に曲げたり、プラスチック素材の頑固さを罵倒したりしながら何とかそれっぽい形にする。
出来上がったものをサキちゃんに納品し、彼女がロケット本体にビニールテープで付けていく。それからロケットの先端にゴム栓のひとつを、ビニールテープでこれでもかと言うほどぐるぐる巻きにして固定した。真上に飛ばす関係上、先端にオモリが必要らしい。最後にプラスチック・ストローを胴体部に装着して本体は完成。
私とサキちゃんはちょっとした達成感を抱きつつ、主任の元に報告をしにいく。
我らがちっこい主任は広場の中央にいた。すのこ椅子と空気入れも一緒だった。椅子の中心、板と板の隙間の箇所には、ペンチで切って真っ直ぐ伸ばされたハンガーが、垂直に固定されている。どうやらこれが発射台らしい。
サキちゃんが完成したロケットを主任に手渡すと、彼女はゴム栓を下の飲み口にあてがって、サイズを確認する。ゴム栓にはいつの間にやら小さな穴が開いていた。ケイがキリを使って加工したのだろう。さすが主任、仕事が早い。
主任のOKサインが出た。私は公園の水飲み場に行って、ロケットのタンクに水をいれる。蛇口を捻って注入量を注意深く見守る。説明書によると、量は3分の1くらいが適正との事だった。時々、ペットボトルの飲み口の縁に当たった水が、容器を伝って私の手を濡らした。12月の寒空の下では殺人的な冷たさだった。私は水からの襲撃を受ける度に目をぎゅっとして耐え、自分の最後の仕事を全うした。
燃料を蓄えたロケットが、その側面に付けたストローを通じて発射台のハンガーに固定される。最後に、空気入れの針を最後部に刺して準備完了。
空気入れは当然、主任が操作する。私とサキちゃんは数メートル離れた位置で、我が社の社運をかけた一世一代の仕事の行く末を、固唾を呑んで見守った。
ケイの手によって少しずつ空気が送り込まれていく。
――5回目の試行。何も起こらない。
――7回目の試行。ケイが少し渋い顔をした。ポンプを押し込むのに力が必要になってきた。
――10回目の試行。ケイの眉間にシワが寄る。だいぶ力仕事になってきた。
――11回目。……意外と手強い。どのくらい高く飛ぶんだろう?
――14回目。……まだかなあ。
15回目、かなり固くなったであろうハンドルを押し込んでいる途中、ケイが何か確信を得たかのように言った。
「ボン・ボヤージュ」
抑揚の薄い、気の抜けた口調のそんな決め台詞と共に、ハンドルが一気に押し込まれた。
破裂音と共に勢いよく空を駆る、ペットボトルロケット。きらめく水のカーテンに押し上げられ、どこまでも高く、悠然と空に飛び立つそれを、私たちはどこまでも見続け……
……いや、正直に言います。そこまで感動的なものでは無かった。
正確な描写はこうだ。
ロケットは四方にやたらめったらに水を撒き散らしながら、10mばかり真っ直ぐ飛び上がり、あんまり感傷的な余韻を残す暇も無くその上昇を終えると、単調な様子ですぐに落下体制に入り、そのままふらふらと近くの地面に落ちて跳ねた。飛び上がる間際の迫力こそあったが、それ以上のものは無かった。
「なんか……意外とタンパクだったね……」
私の隣でサキちゃんが言った。私は「まあ、一瞬だったし」と同意する。
「……あと5年早くやってたら、もっとはしゃげたかも」
「我々は大人になりすぎたのかもしれない。きっと冷めた大人に、ね」
サキちゃんはこのような妙な事を言いだした。
――あれ? そういえば「妙」といえば……
「サキちゃん。私たちロケットにあの「妙」の字、貼り付けたっけ?」
「あ」
……やり直しだった。
サキちゃんはロケットを拾い上げ、例の紙をビニールテープで貼り付ける。私はまたしても水飲み場まで小走りで行って水をタンクに入れる。
「もう一度お願いします、主任」
戻ってきた私は、ロケットを恭しく差し出して主任にそう打診した。彼女は発射時のポンプを押し込む体勢のまま静止している。
ケイはびしょ濡れだった。元々生気なんて欠片も宿っていない彼女のジト目が、より一層の空虚さで、この世のどこでもない場所を見つめている。
そう、ケイは逃げ遅れた。発射時に生じた水しぶきのほとんどが、彼女の頭に降り掛かったのだ。
風向きのせいか、はたまたロケットの出来のせいなのかは分からなかった。哀れ彼女は犠牲者となった。だがしかし、そんな彼女は私に虚ろな目線を送って、発射台にロケットを再びセットするよう合図したのだ。彼女はこの仕事を再び引き受けた。あんな目に遭ってでさえ――
そうして再発射されるペットボトル・ロケット――
二度目の打ち上げも滞り無く完了した。何なら、さっきより少し高く飛んだ。
そのロケットの姿は、なぜだか妙に哀愁を誘った。そして歴史は繰り返す。
現場における全責任を背負って立つケイは、さっきより水分含有率がかなり高くなった。
奔放な噂話
「そういえば、またおつかい頼まれてたんだよね!」
ペットボトル・ロケットの発射を無事終えると、サキちゃんがだしぬけに言った。
「そういやまたこの箱、預かってきたんだった。カンカンのヤツ。例によって恥ずかしいから中は見ないでくれ、ってさ!」
……だからあのバッグの中にスコップが入っていたのか。その時私は、持ってきていたタオルで、ベンチに座るケイの濡れた頭を後ろからくしゃくしゃにしている所だった。私はサキちゃんに尋ねた。
「また埋めればいいの?」
「そうみたい! えっとね、確か今度は“Y市シニアサークル ロマンス小説 友の会”のメンバーで、先々月に亡くなった友達の遺言なんだって」
サキちゃんがそう説明すると、ケイが「また遺言?」と不満そうに声を上げる。
「――何か、手紙を埋める系の遺言多いじゃんね」
「流行ってるのかもよ? ほら、海に遺骨を撒いたり、アクセサリーにしたりとかさ! あれの延長線じゃない?」
真偽の程は定かではない。が、拒否する理由も無かった。
お年を召すと、周囲で亡くなる人も増えるものなのだろう。ミセス・ウィークエンドの場合、偶然知人にロマンチストが多かったのだ――そういう結論に至った。
私は手紙を埋める役割に自ら志願した。ケイの「乾かし係」はサキちゃんと交代することになった。
私は公園の隅の方に歩いていった。雑草や木々が生い茂っていて、あまり人の手が加わってなさそうな箇所があったので、そこに埋める事にする。さっきまで私たちがいた東屋も、木々が邪魔して見えない。
乾燥しているせいで土が硬く、思ったより手こずってしまう。若干ムキになりつつ、私はスコップを地面に立て続ける。何とかこの箱が収まりそうなくらいの穴を掘り終えると、どっと疲れがやってくる。
近くの木に寄りかかって座ることにした。つかの間の休憩。私はスコップを木の根元に放り、置いておいた缶の容器を両手で持った。大きさはお弁当箱くらい。振ってみると、カラカラと乾いた音が返ってくる。
私はある予感がした。この役目を買って出たのもそれが理由だった。
私は確かめたかった。何ら具体的ではない、おぼろ気な不穏の影。その尻尾が、曲がり角に消えていく瞬間を、ちらと見た気がしたのだ。杞憂であれば良し。あるいは――
私は缶の容器のフタを恐る恐る開けた。大した内容では無かった。中を見て後悔した私はすぐにフタを閉め、作業を再開した。念入りに深い穴を作り、その冷たい土の中に箱を埋めた。東屋に戻って、二人と合流すると、すぐに帰路に着くことになった。
再び喫茶Paradisoに戻ってきた私たち。今日はこの喫茶店も通常営業していて、店主さんもカウンターにいる。私たちが店内に着いた頃には、いくつかの席がお客さんで埋まっていた。
入口近くのカウンター席で本を読む女の子、それからトイレ脇のテーブル席に談笑する、三人組のおじいさん達。どちらも見たことのある人たちだった。
気遣い無用の常連さん。おじいさん達も女の子も、サキちゃんの姿を見ると笑みを浮かべて挨拶し、後から入ってきた私とケイの姿を認めると、誰もが「お好きにどうぞ」という風な合図を彼女に送った。彼らの前では、彼女は店員でなくても良いという事だ。
サキちゃんは「えへぇ」とか「どうもぉ」という、三下の悪徳商人のおもねりを彷彿とさせるコミカルな苦笑いでぺこぺこした後、私たちと同じ窓際の席にいそいそと座る。
物言わぬ店主さんが、三人分のカフェオレとBLTサンドを持ってきてくれた。私とケイが卓上のそれを見つめていると、サキちゃんが「お代は結構、ってさ!」と代弁してくれた。私たちは彼にお礼を言って食べた。
思いがけない昼食だった。店主さんは柔らかい笑みを残して、すぐにカウンターの後ろに去っていった。
サンドイッチを食べ終えた私たちは、ミセスウィークエンドの到着を待った。
対面の席ではサキちゃんが櫛とドライヤーを使って、席の際で外側を向いて座るケイの髪を乾かしている。荷物を片付けたそのついでに、家から持ってきたのだろう。
私は窓の外の往来を眺めながら、カフェオレを飲んだ。店内ではイーグルスの『ニュー・キッド・イン・タウン』が流れている。ここにレヴさんがいたらどう反応するのだろう。
肯定の「ニャッ」?
それとも今日は70年代の気分じゃないので否定の「ニャァー」?
そこまで考えたが、胸の奥が、溶けかけの氷に触れでもしたような感覚に襲われたので、もう止めにした。
ため息をついて目線を窓から対面の席へと移すと、ケイの頭の右上に小さな短い髪束が出来上がっていた。ワンサイドアップ。髪を束ねるヘアゴムには、黄色の小さなボンボンが付いている。
ケイのちっこさも相まって、そのなりはほとんど小学生だった。私はニヤけながら、前かがみになって高めのトーンで言った。
「今日は何しに来たの?」
私が問いかけると、ケイは首だけをこちらに向けて、いつものダウナーな調子で答えた。
「サンタさんに会いに」
「今日は9日だから、サンタさんはまだ来ないよ?」
「プレゼント、世間的に品薄だから早めに予約しようと思って」
ケイがそう言うと、今度はサキちゃんが彼女の後ろからボンボンを触りながら、やはり高めのトーンの声音を作って言った。
「何が欲しいの?」
「GeForce RTX 4090」
「あらまあ。そんなハイエンドグラボ、小学生には過ぎたおもちゃだよ?」
「そんな事無い。お父さんもお母さんも毎日仕事ばかりで全然私にかまってくれない。わたしの心を満たしてくれるのは、もはやハイエンドグラボで表現される、どこまでも広く遠い、自由なオープンワールドの世界だけなんだ」
「急に設定が重いねえ」
「それがダメならモニターが良い。BenQの。インペリアル・ハルが使ってるやつ」
「世界を相手に戦う気ぃ?」
そうこうしていると、ミセス・ウィークエンドがやってきた。彼女はごく短い間、サキちゃんと手話で会話すると、またしても缶の箱をサキちゃんに渡して、そそくさと帰ってしまった。その帰りしな、テーブル席にいたおじいさん達が彼女の方をちらちら見やっていた。
ミセス・ウィークエンドの姿が完全に見えなくなると、彼らはテーブルに身を乗り出して何かを小声でささやいていた。
次なる指示はサキちゃんの口から伝えられた。K街から少し離れた所にあるニトリに行け、との事だった。もうあまりつっこむ気力も無くなってきた私は、念の為にサキちゃんに確認だけする。
「ニトリって、あの家具屋だよね?」
「そ! 詳しくは後で文面送るから、着いたらLINEに連絡してくれって!」
出発の前、私はトイレの帰りに、共用の小さな手洗い場で手を洗っていた。近くのテーブル席のおじいさん達が話す声が聞こえてくる。こんなだった。
「さっきのばあさんよぉ、やっぱアイツに違いないって。ほら、昔パン屋やってたワタナベさんにしつこく(聞き取れなかった)、ばあさん。
なんでもアメリカだかで怪しい宗教やってて、勧誘だか何だか(ここも聞き取れなかった)。
あんまりしつこいんで商店街組合でワタナベさんへの接近禁止令出したんだよ」
更にその話は続いた。こんなだった。
「奴さんこういっちゃ何だけど、まだ(聞き取れない)だったんだなぁ。
(もう一人のおじいさんが何か言ったらしいが、声が小さすぎて聞こえなかった)
そうそう。いやさ、ここだけの話、呪い師とかだそうでさ。向こうじゃ有名だったらしいよ。土着信仰の某ってやつ? 良く分かんないけど、いるんだねえそういうのって。
(再び彼以外の誰かがしゃべっている。聞き取れない)
馬鹿馬鹿しい? そりゃそうだけどさ。でもそう考えたら少しは納得できるだろう? 昔、そこの交差点でやってた気味悪い儀式――あれの後、ワタナベさん、ぽっくり(聞き取れない)の覚えてるか?
まだ40くらいでピンピンしてたんだよ、あの人も――それが急に、って。よっぽど恨んでたのかねえ?
(聞き取れなかった。さっきと違うおじいさんが何か言ったみたいだ)
――そうだよ。あの放火事件にも一枚噛んでるって噂だよ。あれだよ、もう忘れたのか? 去年、YC駅前のビルが燃え(これ以上、聞きたくなかった)」
私は手を洗った後、しばらく鏡に映る自分の顔を見つめた。自分では笑っているつもりだった。
この前のサキちゃんの話とは随分違った。サキちゃんの話では、死んだのは猫だと言っていた。トラックに轢かれて――だけど、と私は思った。
だけど、いずれにせよそんな噂話、今どき小学生の間にでも流行りはしないだろう。
私は何かを小馬鹿にする時、人がするような笑顔――そんな笑みを浮かべているつもりでいた。
だから、おかしいのはこの鏡の方だった。相対した虚像は、一切の無表情のままで、静かにじっとこちらを見据えていた。
私が公園で後悔したのは他でもない。手に負えないかも、と思ったからだ。
――いや、大した事じゃない。
箱の中身。そこには、奇妙な文字の敷き詰められた魔法陣が書いてある紙切れが一枚。それから小さな藁人形。
それで全てだった。マダム・ウイークエンドが言うような手紙の類は、ひとつとして入っていなった。
私は鏡に映る自分に言い聞かせ続けた。大した事じゃない。
タイシタ コト ジャ ナイ。
奇妙な指示と、突然の再会
YC駅前のビル火災――それは当時、全国ニュースになる程の大きな騒ぎだった。
去年の10月、Y市における中心街であるYC駅前の4階建てのビルから火の手が上がった。全焼だった。逃げ遅れた6人が死亡し、27人が重軽傷を負った。
死亡した6人のうちの一人は、私が良く知っている人物だった。
家が近く、物心ついた頃から一緒にいた友達。
当時、父親は街の歯科医師で、母親は私たちが幼い頃に病気でこの世を去っていた。その父親との外出中に立ち寄った、4階にあるレストラン――そこが彼女の最後の場所になった。私と同い年で15歳だった。
家族内の唯一の生き残りとなった父親は、事故以来姿を消した。家もいつの間にか売り払われていた。噂では遠く離れた北の方、彼の実家がある場所で、ここにいた時と同じように歯医者をやっているらしい。
おびただしい瓦礫、僅かに燃え残った一画、ふらふらと宙を漂う煤。健在だった頃の名残。かつて“何らか”であった物の成れ果て達――敷地に残されたそれらは、数週間かけてすっかり片付けられ、黄色いフェンスがその悲劇を覆い隠すように囲んだ。
その効果はテキメンで、生き残った人々は誰が言うでもなく、その中央を目印に献花を供えた。
それは犠牲者を悼む供養塔だった。胸のざわつきを抑える鎮静薬。生々しい痛みを伝える為の代替物。
この街の歴史書に記される事になる、1ページ分にも満たない単なる出来事。
当時の私はそう言った熱心な人たちとは違い、ほとんど何もしなかった。何もする気が起きなかったから。
そのかわりに私は時々その場を訪れては、お供え物やお供え物をする人たちの肩越しに黄色のフェンスを見つめていた。その向こうにあるであろう空っぽの敷地を想像しながら。向こう側には、まだ何かが隠されているのではないか、という薄っぺらな期待を胸の内に隠しながら。
喫茶Paradisoから歩いておおよそ15分、私たちはニトリに到着した。
大きな河川沿いの国道に建てられた立派な二階建ての箱物。大きくて小綺麗な駐車場を横断して、私たちは入口前で待機する。
サキちゃんがミセス・ウィークエンドにグループLINEを送ると、はやくも返信が来る。三人とも自分のスマホとにらめっこしてそれを確認し、店内に入っていった。
私もケイもここに来るのは始めてだった。サキちゃんは喫茶店の調度品を買いに何度か利用したことがあるらしい。
広々とした店内をぐるりと見回す。日曜日という事もあって、至るところに買い物客がいた。私は早速、仕事に取り掛かる事にした。
ミセス・ウィークエンドの指示はいくつかの段階に別れていた。まず前提条件として、私がこの儀式の一部始終を行う。あとの二人は私がこれから行う事を、知ってはいけないらしい。
こういった儀式には秘密が伴う――もっともらしい理由だったが、イマイチ納得はいかなかった。
第二に、指示はひとつずつ私の個人LINEの方に送られてくる。
私が完了の報告を入れると、また次なる注文が送られてくる。その繰り返し。
なぜ私がやるのか、その理由についてはどこにも説明がなかった。
……まあいいや。今更、だしね。
という訳で、サキちゃんとケイにはウィンドウショッピングでも楽しんでもらうことにして、私だけがこの不明瞭な儀式に参加する。
最初の指示。店に入って右手側、一番奥にある壁掛け時計のコーナーまで移動しろ。
……私は指示通り、時計コーナーまで歩いていった。壁面を見ると、色々な種類の時計が掛けてある。
「着きました」と私がメッセージを送る。すぐに次の指示が返ってくる。
指示その2。「猫のシルエットの壁掛け時計」があるから、それの長針と短針を12時きっかりに合わせる。
――勝手に弄っちゃって大丈夫かな? 私がどうしようか迷っていると、追加の文章が送られてきた。
【心配しないで大丈夫。その店の店長と私はちょっとした知り合いです。今日の事も言ってあります。彼女とはしょっちゅう一緒にマインクラフトを遊ぶ仲です。彼女、家具店で働いているだけあって、拠点を装飾するセンスも良いんですよ!】
見透かされたようでちょっと不気味だったが、許可は取ってあるらしい。とはいえ、他のお客さんに見られると流石に気まずい。
私はきょろきょろしながら、やや高い位置に掛けてある猫の時計を、つま先立ちで取り外した。それから長針をいじって12時ちょうどに時間を合わせ、すぐに時計を元の場所に戻す。
私がLINEで報告すると、また新しい指示が来る。
指示その3。寝具売り場にあるベッドのいずれかで横になる。
それから小声で良いのでKANの「愛は勝つ」の最初のサビを歌う。
もちろんその前に台所用品のコーナーでステンレス・ストローをふたつ取ってきて、それを左右の手に持ったままにするのを、忘れずに。
「もちろん、忘れずに」かぁ。
……なんだか皆さんご存知、みたいな言い方をされた。
――宜しい、分かりましたとも。
ここからはスピード勝負だ。私は早足で台所用品のコーナーに向かい、ステンレス・ストローを探して手に取った。それから勢いを殺さないまま寝具コーナーに向かい、慎重にベッドを吟味する。
やはり隅にある、あのベッドが良さそうだ。お客さんの往来もほとんど無い。
私は自分の観察眼を信じて、仰向けに横たわった。
両手に持ったストローは台紙付きのパッケージだったので、潰してしまわないように親指と人差指でつまむように持って胸の前でかざした。
私は小声で歌い出す。
「よ~ぞら~に、りゅうせいを~」
自分でも聞いたことがないほどの震えあがった歌声だった。体温が上昇していく。焦点が定まらない。視界が歪み出した。耳鳴りもする。
「ど~んな~に、こんなんで~」
喉の奥がイガイガする。ストローを持つ指先が小刻みに震えるのを止められない。
「さいごに、あいは、かつ~」
歌い終えた私は、全身をバネのようにして勢い良く飛び起きる。まるで灼熱のベッドから転げ落ちるようだった。
……なにはともあれ、やり遂げたのだ。私はストローを元にあった場所に戻して、ミセス・ウィークエンドにLINEを送った。
指示その4。時計を一切見ずにレジカウンターまで行って、店員に今何時か訊く。偶数分だったら「ありがとうございます」、奇数分だったら「Have a nice day!」と元気よくお礼を言う。
頼むから、偶数であって欲しかった。私はレジカウンターに向かった。レジにお客さんは一人も並んでいない。今がチャンス。私は青い縁のメガネをかけた50代くらいの女性に時間を訊ねた。
「今ですか? 今は、13時30分です。ええ、どうも――あら、ずいぶんと大きな声。元気あっていいねえ。って大丈夫? あなた顔真っ赤! 目もぐるぐるしてるし、涙出てるわよ? 具合でも悪い?」
指令その5。二階に上がる。
……私はそうした。
二階はショールームになっていた。居間や食卓、キッチンといったシチュエーション毎のレイアウトがいくつも展示してあり、それぞれ異なったテーマやコンセプトで家具が配置されている。
ひとつずつ見て回るのは楽しそうだったが、そんな余裕はもう無かった。私は二階に上がる途中のエスカレーターで、既にミセス・ウィークエンドに向けて報告のLINEを送り終わっていた。指令は次で最後だった。
最後の指令。食器棚のどこかにミセス・ウィークエンドが“ある物”を隠した。それを取ってくる。
私が“ある物”の正体を訊こうとLINEに文字を打ち込んでいると、その途中で彼女からメッセージが来た。
【それはあなたが良く知っている物です。一目見ればすぐに分かります。あなたがそれを見た時、展示物にはまず見間違えません。これは確信を持って言っています】
私はショールームの奥にあるキッチンコーナーで、いくつかの戸棚を開けて回った。
大理石を模した格式高そうな石の台……ハズレ。
木目調の温かみ溢れる台……ハズレ。
ホワイトカラーで統一された、匿名性の高いクールな台……ハズレ。
私は次第にムキになっていった。そんなだから、キッチンコーナーを徘徊して棚という棚を物色して回る怪しい人物、という客観的な視点は、やがて私の頭からすっ飛んでいった。
それが見つかったのは 9台目のキッチンだった。こげ茶色の調度を備えた、シックなデザインのキッチン。私がダメ元で頭上の戸棚を開けると、それは突然見つかった。
それはセフィロスだった。
……アミーボのやつ。彼は戸棚の天板にテープで固定されて“逆立ち”の格好だった。
信じられなかった。私はいったん扉を閉め、一息ついてからもう一度ゆっくり開けた。
……やはりセフィロスがいた。片翼のやつ。
愛刀の正宗を逆手に持ち、クールなポーズを決める“それ”。挑発するように俯き、不敵な笑みを私に向けるソルジャークラス1st。
色んな意味で、展示物と間違えるはずもなかった。私は両目を手で覆い、助けを求めて天を仰いだ。当然のように誰も助けてはくれなかったので、私は大きなため息をついた。
ちょうど2ヶ月前の私自身と同じように。
不穏の気配
私はテープで貼り付けられたセフィロスのアミーボを戸棚の天板から引っ剥がした。それからしばらく手のひらの中で、クールに佇む彼をまじまじと見つめた。
逆さ吊りの片翼の天使。およそ二ヶ月前の九月下旬、私が学校で敢行した“バグ技”の副産物。
私はその時、クラスメイトが遊びで作り出した七不思議のひとつを実行に移したのだ。いくつかの手順を踏むと、想い人に会える――そういう触れ込みのでっちあげ。
この悲しき英雄のアミーボはキーアイテムのひとつ。天井に逆さにして固定するのも手順の一つだった。
……今思い返してみても、なぜあんな事を実行に移したのかはよく分からなかった。魔が差した、としか言いようがない。
あの時、私は混乱のただ中にあった。足元に突如として生まれた巨大な渦の中から、顔を出して息継ぎをしたかった。その為にもがいただけに過ぎない。
そしてそれは、どうやら上手くいっていた――今のところは。
そう、その“バグ技”は成功したのだ――なんか良く分からないけど。
その結果、火災事故で死んだ友達と話が出来た。何を言っているのか理解されないだろうけど、とにかく、そういう事になった。あるいは本当に起きたことなのか、私の妄想なのかは未だに分からないでいる。
いずれにせよ、それは私を次の舞台へ連れて行った。好むと好まざるとに関わらず。
死んだ友達との再会――そう、私は未だにそれが何をもたらしたかを、明確に説明出来ないでいる。
……実際、なんて言えばいいのだろう? その友達は、私が幼稚園の頃から中学三年生まで常に一緒にいた仲だった。それが突然ある日、目の前から消え失せた。あいさつも無しに。
そんな人間が再び私に会いに来た。その時の事を私はなんと言い表せば良い?
彼女の死をようやく認められた?
前に進める?
彼女のいない世界を受け入れられた?
あるいは偶然がもたらした不幸に、ようやく折り合いがつけられた?
はたまた、運命の残酷さを呪わないようになった?
もしくは――
どれも正しい気がした。けど、同時にどれも違う気がした。
実際、運命を呪ったりなんかも、私はしてなかった。ただ、上手く説明できないけど、そんな“ちゃんとした”言葉じゃない気がする。
この世界の姿がちょっとだけ変わった……そう。きっと、そういう事だと思う。そしてその“ちょっとだけ”変わった世界は、私が何をしようとも、何もせずとも、変わらずに先に進み続ける。
……どこへ? 世界はより正しい場所に辿り着きそう?
そんな事は誰にも分からないし、きっと大した問題じゃない。多分、そういう事なんだろう。
アミーボを握る手に力が入った。これは誰にも言っていない、ごく個人的な出来事。だから私がこの“リユニオンの中心点”に、思い入れがある事は誰も知らないはずだった。
どうしてミセス・ウィークエンドが私を指名したのかは良く分かった。だけど何故、彼女がこの事を知っていたのか。
私は気分が悪くなった。ミセス・ウィークエンドと名乗る、素性不明の人物。元有名ホテル勤務の料理人で、耳が聞こえなくて、声を失った、最近のマイブームがマインクラフトでレッドストーン回路に凝る事の、趣味で占いをやっている、ソラールの紋章を刺繍した原色バリバリのカラフルセーターを愛用する黒人のおばあさん――属性過多。
彼女は、私の心中に、ノックもしないで土足で踏み入った。そんな気分だった。
私は着ていたダウンジャケットの右ポケットにセフィロスのアミーボを突っ込んで、LINEを開いた。ミセス・ウィークエンドにメッセージを送る。完了報告ではなかった。
「あなたは何者ですか」
すぐに既読が付いた。返事が来る事は無かった。
私が一階に戻ると、ケイが缶の入れ物を持って私を待っていた。
「で、終わったの?」と彼女は言った。
「サキはトイレ行ってる。これサキから預かってきた。あそこにいる店長さんに渡してくれって。またミセス・ウィークエンドのおつかいだってさ。わたしコミュ障だし、代わりにやってよ」
私はこの箱を受け取るべきか迷った。
ためらいがちに両手を伸ばして箱を受け取る瞬間、ケイが私の目を見た。私は不思議に思って見つめ返す。すると彼女はわずか数ミリメートルだけ目を細め、「多分、大丈夫」と言って私を指差した。
「前も上手くやったじゃん? 今回も何とかなるよ」
私はぽかんとして、「……ドユコト?」と訊いた。彼女はニヤリと笑った。
「そゆこと」
ケイはそのまま足のない幽霊のような歩き方で、浮遊するように私の前から去っていった。
箱を店長さんに渡すと、彼女は微笑んで会釈をした。
長いブロンドのまき髪の白人だった。深い紺色のポロシャツに黒のズボン。背が高くて、スラッとしている。喫茶Paradisoの制服と似ていたので、何となく私は仕事中のサキちゃんを思い起こす。
どちらもかっこよかった。二人と私とで、一体何が違うのか。立ち去る店長さんの後ろ姿を見ながら、私は頭の中にノートを広げてリストアップしてみる。
30個くらい思いついたところでページ不足になったので、もうやめた。
サキちゃんが帰って来た。私が「終わったよ」と伝えると、サキちゃんがグループラインでミセス・ウィークエンドに報告を入れた。すぐに彼女からの返信がきた。
【お疲れ様でした。やるべき事はこれで全てです。少し時間を下さい。こちらからまた連絡を入れます】
このようにして私たちの長い週末は終わった。
ニトリから駅前に戻った私たちは、夕方まで迷子猫のビラを配ったり、ウェブサイトに何か情報が入ってきていないかチェックしたりした。相変わらず何も情報は入ってこなかった。進展無し。
私たちは次第に口数が少なくなっていった。やがて時間と共にサキちゃんの顔色がどんどん悪くなったので、今日はもう解散する事にした。
ここ数日の疲れと心労が、一区切りと共に表面に溢れてきたのだろう。
あるいはこれで良かったのかもしれない、と私は思った。ミセス・ウィークエンドの占いは私たちに必要な導きだったのだ。
超常的な力に解決策を委ねる、という表面的な話ではなく。私たちが――特にサキちゃんが――突然降って湧いた、理不尽な偶然に耐える為の避難先として。
仮に私たちがアテもなく情報を求めて街じゅうをさまよい続け、路地という路地、暗所という暗所をしらみ潰しに探し続け、この街の路上に置かれたありとあらゆる設置物をひっくり返し続けたとしても、恐らく黒猫レヴナントは見つからないだろう。猫とはそういう生き物だ。
そのような虚しさに、私たちが耐えられるとは思えなかった。だからこそあの占いに身を任せたのだ。私たちはどこかのタイミングで、悲観と楽観を切り替えるスイッチを見つける必要があった。それがたまたま「占い」という、非常にうろんで、実態の掴めない形をしていただけに過ぎない。
しかしそれも今や消え失せた。この先はあまりに不透明だったし、あまりに残酷と思われた。
肝心なのは、“恐らくこれで終わり”だという事。多分、ミセス・ウィークエンドから次の指示は来ない。正確には「次の次」。「次」のメッセージは来るだろう。
【やれることはやりました。後は信じて待ちましょう】
……こんな所だろうか。
そしてそれは三人とも口にせずとも分かっていた。サキちゃんはその事実に耐えられなかったのだろう。猫は見つからない、という事実に。
私は電車内で窓の外に映る街を見ながら、そんな事を考えていた。電車から降りて、家に向かう細い道を歩いている時も、同じようなことを繰り返し考えていた。夕食に出てきたブリの照焼きとコールスローの中にも、同じような憂いが混じっていた。
シャワーノズルからも似たような物が降り注いだし、お風呂上がりに顔に馴染ませた化粧水にも、同様の成分が入っていた。
気を紛らわすために起動した“エーペックス・レジェンズ”では、5回くらいその敵にダウンさせられたので、もう寝る事にした。
寝る直前に考えていたのは、明日の学校でサキちゃんと会ったらなんて言うべきだろうという、あまりに答えが分かりきった事だった。
週末と週日
その日、私はまた夢を見た。
夢の中で私は「オーバーウォッチ」をプレイしていた。
無音だった。
普段、音を聞かないでFPSをプレイする事なんて無かった。にも関わらず私はこの時、その事実に疑問すら抱いていなかった。
マップは「ウォッチポイント・ジブラルタル」。こちらのチームは防衛側だった。
私はキャラをラインハルトにして防衛位置に着き、カウントダウンを待った。
試合が開始しても、相手チームは一向に攻めてこなかった。相手側のリスポーン地点まで見に行くと、皆その中で固まっているようだった。
自分のチームも同じだった。私以外の全員が、自らのリスポーン地点に籠もっている。試合が始まっているのに、制限時間が一向に減らなかった。ペイロードは一度たりとも前に進まず、キルログは沈黙し続けた。
やがて無音のウォッチポイント・ジブラルタルにボイスチャットが流れてきた。いつからかは分からなかった。試合開始のカウントダウン前には無かった気がする。
誰かのすすり泣きのようだった。男の人だった。
遠く離れた所から聞こえるような、かすかな音量。かすれた嗚咽。
その悲しげな声は、音を失ったゲーム世界の底の方から聞こえる、何かの訴えにも近い唸りに聞こえた。
それはいつまでも止まなかった。やがて私が目を覚ます、その直前まで――
月曜日の早朝、投稿中にサキちゃんからLINEがあった。体調不良で学校を休むらしい。
私が心配していると、少しして、元気そうに「!」マークを大量に付けたメッセージが彼女から送られてきた。
文章だけなら何とでも言えると思ったが、少なくともそういう素振りが出来る余裕はある、という事が分かっただけでも良かった。
各授業ごとに、先週の中間テストの答案が返ってきた。その度に先生が熱心そうにテストの解説をしたが、その内容はほとんど私の耳に入らなかった。
私は授業中ずっと、スマホでこそこそとネットサーフィンをしていた。
私の席は一番後ろの、入口から数えて二番目の席――その事実が私の行動を後押しした。
おまけに右隣の席の望月クンがどの授業でも寝ていて、しかもそれが毎回ちゃんと先生にバレてくれた。体の良いスケープゴートだった。
そんな訳で、私に先生の目が及ぶ事は無かった。ありがとう、望月クン。君は成し遂げた。
私が調べていたのは、ミセス・ウィークエンドの事だった。彼女がどのような人物なのか知りたかった。
占いの事は一旦置いておくとして、ミセス・ウィークエンドには不可解な点や真偽が疑わしい点が多かった。
例えば、彼女は呪術師だという。少なくとも、K街の商店街ではそういう噂が立っているらしい。
そんな物が本当に存在するのかな? 私の疑問はそのようなシンプルなものだった。アニメやゲームのような、限定された世界でしか存在できない――そんな珍妙な人物が実在するのか。私は 呪術師というキーワードで検索をかけた。
結果は微妙なものだった。伝説、小説、噂話、アニメ、ゲーム――あらゆる創作物が検索にヒットした。大真面目に呪術の存在について検討するサイトも見つかった。
それでも(当たり前の話だけど)そういった事を行える人物が本当にいて、まじないや呪いが実在するという確証は一切存在しなかった。ましてや「占い」に至っては、恐ろしく生真面目な調子でこう書いてあった。
「占いは科学的には何の根拠もなく、恐らく人類が死滅するその最後の日までその正当性が証明されることはないでしょう。空想の産物とすら、まあ言ってよいでしょう。
ただし、その有用性については話は別です。占うことで人に警告を与えたり勇気づけたり、影響を及ぼしたりといった、いわば誰かに行動の指針を与える、そのきっかけとなる装置としては大いに役割があります。
オカルトを信じる信じないに関わらず、占いを受け、その結果に多少なりとも思案を巡らせた時点で、人は根源的にこう考えざるを得なくなります。
つまりこうです。
“さて、次の行動はどうしようか?”そこには既に、自己意識による自由選択の中に、大なり小なり“占った”という事実が混入しています。
言われた通りにしよう? それは決定権の譲渡に他なりません。
馬鹿馬鹿しい? それなら、あえて占いとは反対の決断を下すかも?
半分くらい言われた事に従う? 結構!
あなたに良き助言、良き理解者があらんことを!」
……私は昔テレビで見た、コマーシャルによる刷り込み効果と陰謀論を思い出した。呪いと占い、刷り込みと陰謀――
ミセス・ウィークエンドの噂は人によって微妙に異なる。商店街のトラックに飼い猫が轢かれた話。宗教勧誘の話。ビル火災の話。
――どれが“噂の尾ひれ”か判断できない。
はっきりしているのは、交差点前で変な儀式をしていたのは多分、事実だろうという事。それからその直後に誰かが死んだということ。だとすればミセス・ウィークエンドは、“人を呪い殺した”という事になる。
……いや、ならないか。
単なる偶然。
ワタナベという人物が“ぽっくり逝った”のがどのタイミングなのか分からないし、別々の事実を面白がって繋げただけかも?
そもそもそれが本当なら、こういう想像だって出来てしまう。
飼い猫が脱走して精神的に弱ったサキちゃんがいた。昔、商店街にひどい仕打ちを受けたミセス・ウィークエンドが憂さ晴らしの一環で、商店街の一員であるサキちゃんに呪いをかけた。
彼女は何も知らない私たちにそれらしい素振りで取り入って、呪いの儀式を代行させた。
サキちゃんが体調不良なのはそのせい?
私が学校でやった儀式の事を知っているのは、本当にミセス・ウィークエンドが呪術師で、私はいつの間にか彼女に操られてしまっていて、自分が9月にやった“バグ技”の事を無意識の内にペラペラしゃべってしまったから?
……馬鹿馬鹿しいと思った。
どうも悪い事ばかり続いたせいか、良くない方向に考えがまとまりつつある。こんなの普通じゃない、と思った。全ては黒猫レヴナントが見つかれば解決する。
そう、それだけの話だ。
大した事じゃない。
そんな考えとは別に、私は“何となく”Google MAPのアプリを開いていた。
燈火岬
N東公園
ニトリ
――私たちがミセス・ウィークエンドに言われるがままに訪れた場所。
それぞれに“何気なく”マークを施すと、どの場所もほとんど等間隔に位置していた。
三つの地点を線で繋げると、きれいな三角形が出来上がった。どの辺も長さが等しい、正三角形。そして、その中央には喫茶Paradisoがあった。
それが何を意味するのか。私は考えないようにした。
続けて私は“何となく”、「ミセス・ウィークエンド」というキーワードでネットを漁った。ミセス・グリーンアップルの楽曲が数件と、チェッカーズの両A面シングル「ミセスマーメイド/誰もいないweekend」がヒットした。
私はキーワードに「呪術師」という文章を追加して、再度検索を試みた。
取り留めのない検索結果の下の方に、怪しいオカルトサイトが現れた。タップしてそのサイトにアクセスする。どうやら個人サイトのようで、かなり古そうだ。
都市伝説、怪談話、恐怖を煽る体験談――そんな類の話をまとめているようだった。いくつかページを覗いてみると、その中に霊能力についての欄があった。
その項目をタップすると、更にいくつかの細かい項目が現れる。
霊能力者・霊媒師とは?
霊能力の歴史
霊媒と霊能の類似性・違和性……などなど。
その中には「実在したとされる霊能力者」というページがあった。リンクを踏むと、何人もの霊能力者(あるいは霊媒師)と呼ばれた人物のリストが目に飛び込んできた。
「青森のイタコ」「宜保愛子」「エマニュエル・スウェデンボルグ」「ホセ・アリゴー」
――その中に「ミセス・ウィークデイ」という項目があった。こんなだった。
「『ミセス・ウィークデイ』はごく最近、2000年代に活動していた霊能力者だ。彼女は正体不明の霊媒師。
招待制の秘密のウェブサイト上で交霊術を行い、亡くなった人間との交信を望む人物の依頼を受け、霊を降ろし会話したという。
依頼者の一人だった、とある女性の証言によると、その力は本物だという。依頼者は若くして交通事故で亡くなった息子を、彼女に頼んで呼び出したそうだ。
ミセス・ウィークデイは、その息子の情報をほとんど与えられていない(その年齢さえも)にも関わらず、彼の好物や好きな音楽、贔屓の野球チームに果てには靴のサイズまで、見事に言い当ててみせたという。更には(中略)
そんな凄腕の霊能力者だったミセス・ウィークデイだが、彼女はある日、忽然とインターネットから姿を消してしまう。
その後の詳細は不明。噂では呼び出した悪霊に食い殺されたとか何とか――」
私は読むのを止めて、履歴からそのページを消した。
昼休みになると、今度はミセス・ウィークエンドが所属しているという、『Y市 散文詩同好会』と『Y市シニアサークル ロマンス小説 友の会』についてネットで調べた。
どちらも存在した。いずれも代表者の電話番号が記載されていたので、私は電話をかけた。
分かった事は、どちらの会にも黒人のろう者は所属していないという事だった。
サキちゃんは次の日も、その次の日も学校を休んだ。
追跡者たち
木曜日になると、サキちゃんがようやく登校してきた。朝早くに彼女から、私とケイのグループLINEにこんな連絡が来た。
「お騒がせしました! 本日から復帰させて頂きます!」
私は家の最寄り駅で電車を待ちながら、返事をした。
「もう大丈夫なの?」
私がそう送ると、サキちゃんは「地獄のミサワ(謝罪編)」の、うっとおしい格好で謝罪するスーツ男のスタンプを返しながら、こう続けた。
「心配かけてごめん! 今日はお母さんに車で送ってもらって登校する! また学校でね!」
そのような文章が三つに小分けにされて送られてくる。いつもサキちゃんが使うミサワのスタンプは「片手で、ダルい謝罪ポーズを取るスーツ男」だったが、今日のは「両手で、鼻に付く謝罪ポーズをとるスーツ男」だった。その後ろめたさが伝わってくる。
私は、「謝らなくても、大丈夫。無事で何よりだよ」とだけ返して、少しでも彼女の申し訳無さが解消されることを願った。
なおケイからの反応は、一連のやり取りの数分後に貼られた、横山光輝の三国志に出てくるモブキャラの「ウム!」というスタンプひとつだけだった。
期待とは異なり、校内でサキちゃんに会う機会は無かった。
私は何度も彼女と接触を図った。授業と授業の合間の休憩時間――その度に私とケイは隣のクラスを訪れたが、彼女の姿を見ることはなかった。
サキちゃんのクラスメイトに聞くと、「さっきまでいたけど、いつの間にかいなくなってる」という回答ばかりが返ってくる。まるでゲームのNPCのようだった。
そうこうしているうちに、結局、昼休みになってしまった。
今回もケイと一緒に隣の教室を訪問したが、やはりサキちゃんの姿は無かった。私が彼女に電話をすると、普通に繋がった。
「もしも~し」という、いつも通りの、朗らかだがどことなく抜けている調子の声が聞こえた。私は訊ねた。
「今、どこにいるの?」
「逆にどこにいるでしょう?」
「……学校」
「正解! じゃなくて――まあいっか! えとね、今ミセス・ウィークエンドから来たLINEの言う通りにしてるんだ」
サキちゃんが電話越しに言う。
「今朝LINEが来たんだ。これが最後の指示です、って。一人で秘密裏にやること、って書いてあったから、何してるかは伝えられないや。ごめんね!」
……胸騒ぎがした。私が低い声で「それ、もう終わりそう?」と聞くと、けろっとした感じで返事が来た。
「学校でやれる事はこれで最後かな。でもまだ、放課後に一個だけやらなきゃいけない事があるから、今日は一緒に帰れないや! あ、どうせあたし置いてかれるか!」
「……いつも、ごめんなさい」
私が敬語で謝ると、サキちゃんは電話越しに「へへっ!」という、少年漫画の勝ち気なキャラが、伊達っぽく指で鼻の下を擦りながら言いそうな感じの相槌を打った。
……どうも調子を崩される。真面目さを維持できない。そんな私を尻目に、サキちゃんは言った。
「という訳で! それが終わったらParadisoに戻って来るからさ! そこで待っててよ! 多分、そんなに時間かからなそうだし」
――そういう事になった。
放課後になった。ホームルームが終わると、私は廊下端の昇降口とは反対側にある階段の陰に陣取った。
ケイは用事があるとかで直帰しなくてはいけないらしい。薄情者め。
ケイはここ数日、目の下のクマが酷い。どうせゲームのせいだろう。新作に没頭している時はいつもそうだ。
きっと今日も“向こうの世界”で冒険を繰り広げているのだろう。
という事で、私一人だった。いつも通りであるなら、サキちゃんのクラスはうちのクラスより10分以上、帰りのホームルームが長い。と言うより恐らくどのクラス、どの学年より長い。
ひとえに担任のキャラ差だった。彼女のクラスの担任は、帰り際に何か教訓めいた現代の寓話的な話を、ホームルームの最後に盛り込むのが好きらしい。教師としての矜持と、職務への溢れ出る情熱がそうさせるのか。
そしていつもサキちゃんだけ置いていかれるのは、これが一番の理由だった。
私が階段の角からこそこそしていると、やがてサキちゃんのクラスメイトが教室からどっと溢れ出てきた。
その様子は下校というより、脱出という単語の方が適切に見えた。
一秒でも早くあの空間から外へ出てしまいたい、そのような言外の総意が彼らを外へ押し出すのだろう。
違和感に気が付いたのは、その時だった。廊下の遙か先、ちょうど反対側の階段がある角――そこに私と同じように、間抜けな感じで身を隠す生徒の姿があった。
サキちゃんのクラスメイト数人が、その生徒を不思議そうに一度見やってから階段を降りていく。
彼らとその生徒の身長差で、私は理解した。ケイだった。彼女も私と同じことを考えているようだった。
だけど、そっち側って……
そっちは下り階段にモロに直結している位置だった。
――そのハイドはバレるよ、ケイ。
とうとうサキちゃんが教室から出てきた。一人だった。
彼女が廊下を降りるために角を曲がるとケイは角の窪んだ位置らしき箇所に身を潜める。バレなかったらしい。ちっこいから。
私ではああは行くまい、と思った。明確な、私とケイとのキャラ差だった。
私は学校を出て、通学路に沿って歩くサキちゃんの背後を取り続けた。そのまま尾行を続けると、駅前に差し掛かる。ケイの姿はどこにも見えない。隠れるのが上手いらしい。
サキちゃんは交差点を横断し、商店街を迷いなく進み続けた。駅前の小さな信号で一度立ち止まり、そのまま駅へと続く高架を渡った。
私は20m以上の間隔を保ったまま、サキちゃんの後をつけ、駅の上りホームに降り立った。
数分後に電車が来て、彼女が前から4両目の車両に乗り込む。私はこそこそしながら5両目に乗った。
車両を繋ぐ扉越しに彼女の姿が見える。数駅分、電車に揺られたのち、サキちゃんが降りた。私も慌てて後を追う。
YC駅。Y市有数の繁華街。と言っても正直、だいぶ寂れているけれど……
サキちゃんはホームから改札に向かう階段を降り、角を曲がると私の視界から消えた。私は慌てて追いすがって見つからないよう、注意深く時間を置いてから階段を降りた。
私がサキちゃんの姿を再び見つけたのは、彼女が改札にICカードを通しているタイミングだった。
少し遅れて私もICカードを通すと、残高不足で警告された。泣きそうになりながら、慌てて精算機でチャージを済ましゲートをくぐる。
数メートル先でサキちゃんの姿を捉えた。駅前広場にもなっている大きな歩道橋の端。彼女はその階段を降りつつあった。
私は小走りで距離を縮めた。彼女に続いて折り返し型の小さな階段を降りると、少し先の歩道上でサキちゃんが立ち止まっていた。
私は脇にある小さな路地の角に身を潜めた。
彼女との距離は、ある程度取ったつもりだ。最初と同じく20mくらい。
サキちゃんは仰ぐようにやや顎を上げ、その場に立ち尽くしていた。彼女の金色のポニーテールが、妙に映えていた。
……何か、サブカル系の雑誌の表紙のようだった。絵になる女子と、取り壊されたビル跡を囲う黄色のフェンス。何らかのトキメキが生まれる、そんなシチュエーション。
だが、この瞬間においては別の意味合いにおけるトキメキが存在した。ここは火災のあった、あのビルがあった場所だった。
サキちゃんは長い間ぼったちの状態だった。遠くてよく分からなかったが、目元はどこか虚ろに見える。世の中を渦巻く倦怠感とはおよそ無縁そうな、いつものくりくりした目では無い。
彼女は細めた目でかつてビルがあった場所を見つめ続けていた。そのまま、ただ時間だけが過ぎていく。
時折、彼女の口元が小さく動いているように見えたが、何を呟いているかは分からなかった。
また胸騒ぎがした。私が声をかけるべきか迷っていると、私とは反対側の歩道から歩いてきた人物に、サキちゃんが声をかけられた。
うちの高校の男子生徒だった。見覚えがあった。彼は立ちすくむサキちゃんにいくつか声をかけたようだった。
サキちゃんは無反応だった。その男子生徒は何ら反応を示さないサキちゃんを見て、次第に感情が昂ったように声量が上がっていく。実態はわからないが、何となく言葉の輪郭は聞こえてきた。
「ちょっとお! 失礼なのは承知なんですけど、せめて何か――」
もしくは、「我々は、SCP部って言ってぇ――」みたいな言葉。
ん? SCP部?
……思い出した。あの男子生徒、4月に見た。
その時も彼はあんな感じだった。学校にほど近いK駅の前で、私のクラスメイトの姉に絡んでいたのだ。
あの半泣きの表情――あの時と同じだった。
私が、流石に無視できないと一歩踏み出したその時、私の右肩を突風が通り過ぎた。自然の物ではない事はすぐに分かった。
私のすぐ傍を、誰かが疾風のごとく駆けたのだ。目にも止まらぬ疾走。
その風の背中は、すごくちっこかった。
ケイだった。
彼女の行く先はあの男子生徒だった。疾風は彼めがけて突進し、その勢いの全てを叩きつけた。
ドロップキックだった。
彼女の全体重を乗せた渾身の一撃。あれをまともに喰らって無事な人間はいまい。
案の定、それを腹に受けた男子生徒は、情けなく身体をくの字に曲げ、溢れんばかりに両の目を見開きながら、数メートル先まで爽快に吹っ飛んでいった。
周囲の通行人が怪訝な目で彼らを見つめ、ざわついている。サキちゃんはその間も無反応だった。
倒れた男に、無造作ヘアの男子生徒と青髪の女子生徒が駆け付けた――これもあの時と同じ。
蹴り飛ばされた男は妙にタフで、無造作ヘアの助けを借りながら、へろへろではあるが見事、自らの二本足で立ち上がってみせた。
その三人組はケイと何やら言い争いを始めた。と、思ったら彼らは血相を変えてこちらの方向に逃げてくる。何があったのかは分からないが、彼らの必死さは本物だった。
青ざめた三つの顔面がこちらにやってきて、私の横を過ぎ去っていく。するとケイも彼らの追跡を始めたので、私は慌てて角に隠れる。
私のすぐ横をケイが走りすぎていく瞬間、彼女は私の方を見もせずこう言った。
「あとはまかせた」
……バレていた。私はケイが、気だるそうにNARUTOの忍者走りみたいに走り去る、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
振り返ると、サキちゃんがいなくなっていた。慌てて彼女が立っていた位置まで移動すると、ここを曲がった先にある横断歩道で、信号待ちをしている姿が目に入った。
安堵の息を漏らしたのもつかの間、彼女は信号が赤にも関わらず、一歩歩みを進めた。向かいの車線から車がやってきている。私は無我夢中で走っていって、彼女の手を取った。力の限りぐいと引っ張ると、目の前を黒い車が悠然と過ぎ去っていった。
減速も無しに――
私はその場で崩折れ、しばらく目を閉じて息を整えた。座り込んだままサキちゃんの無事を確認すると、彼女の姿はどこにも無かった。
「大丈夫!?」と、どういう訳か歩道の内側からサキちゃんの声が聞こえた。私がゆっくりと立ち上がると、心配そうに私を覗き込む彼女の顔と目があった。
その背後には「井の頭クリニック」という病院の看板が見えた。そしてどうしてかは分からなかったが、サキちゃんは私服だった。
話を聞いてみると、今朝方、風邪の症状が収まったので明日から登校出来るかどうかを、医者に相談しに来た、その帰りらしかった。
直感に従って
私は自分の置かれた状況を把握できないでいた。タチの悪い冗談に付き合っている気分だった。 ひとつずつ頭の中で、今起きたことを順序立てて整理する。
――サキちゃんが道路に踏み込もうとした。信号は赤だった。見間違いなんかじゃない。彼女の周りには信号待ちで立ち止まる人も大勢いた。サキちゃんが歩道に向かっていたのも、確かにこの目で見た。
だから私は走ったのだ。走っていって、彼女の右手を捕まえて……
「大丈夫? 何かあったの?」
サキちゃんは路上で息を切らす私を見て、ひどく慌てているようだった。白のダッフルコートに、黒のズボン――私服だった。さっきまで下校途中だったはずなのに――どうして私服のサキちゃんがここにいるのか、まるで分からなかった。
「もう、大丈夫」と、私は自分が冷静である事を示すように、乱れた髪を手で整えながら言った。
「サキちゃんは大丈夫?」
私がそう訊ねると、サキちゃんは力なく「あはは」と笑った。
「うん。ちょっと体力は持ってかれちゃったけどね。でも熱も無くなったし。今日ゆっくり休んで、問題無さそうだったら明日から学校行って良いって、お医者さん言ってた」
彼女の言葉の端々から、衰弱の様子が伺えた。いつもと違う弱々しさで響く、聞き慣れた声。
私は俯きながら彼女の言葉を聞いていた。意を決して彼女の顔を上目遣いで捉える。やつれた目元の彼女が心配そうに私を覗き込んでいた。バツが悪くなった私はまた俯いてしまう。
……そうじゃない、と私は思った。サキちゃん、さっきのは? あのLINEは? 学校にいたはずだよね? 私の頭に次々と訊きたい事がやってくる。
もう一度、彼女の顔を見る……私は何も言わないことにした。
私は「……良かった!」と、思い切りの良い笑顔を作った。
「なら明日は一緒に帰れるね!」
私がそう言葉をかけると、サキちゃんはもったいぶるような、わざとらしい不満顔を作って、掠れた笑いを見せた。
「病み上がりなんだから、明日は置いてかないでよね!」
サキちゃんは近くの薬局で薬を貰ってから帰るらしい。私も付き添おうとしたが、風邪が移るからと、サキちゃんの方からそれを断った。
言う通りだ。それに病み上がりの人間に気を使わせるのも止めたかった。私は先に帰ることにした。
帰り際、私とすれ違う瞬間、サキちゃんが私の耳元で囁いた。
「もうすぐ誕生日だよ」
まるで別人に聞こえた。あまりにも無機質で、血の通わない冷たさを帯びた声。私は初め、誰に話しかけられたか分からなかった。声の主がサキちゃんだと私が思い至った時、息が詰まった。信じられなかった。
しばらくして背後を振り返ると、彼女の後ろ姿はもう、薬局の自動ドアの中に吸い込まれていく所だった。店内の大きなガラス越しに、私に向かって小さく手を振る彼女の姿が見えた。私が手を振り返すと、彼女は背を向けて座った。
……帰ろう。心の底からそう思った。
帰路に着き、駅のホームで電車を待っている間、私はサキちゃんとケイとのグループLINEを開いた。
そこには今朝の私たちのやり取りが記録されていた。私はあの時「謝らなくても、大丈夫。無事で何よりだよ」と送った。その次にケイが、横山光輝の三国志に出てくるモブキャラの「ウム!」というスタンプを貼り付けていた。
確かにそれらは存在した。代わりに、サキちゃんから送られてきたはずのメッセージは、影も形も無かった。送信取り消しの痕跡すら、見受けられなかった。ケイに電話したが、不在だった。
何が起こっているのだろう。初めに喫茶店から猫が消えた。次にサキちゃん自身に奇妙な事が起こり始めている。
彼女の体調不良も長引いている。黒猫レヴナントの喪失、その捜索――その疲れや心労が原因だとしても、引っかかるものがあった。
不自然だ、と私は思った。何だか普通じゃない気がした。まるで彼女や彼女の身体は治りたがっているのに、何かがそれを阻害しているような、そんな印象を受けた。
サキちゃんから目を離すべきではない。私の直感がそう告げた。私はそれに従ってみることにした。
「あとはまかせた」と、さっきケイが言っていた事を、私は無意識に思い出した。
翌日の金曜日、サキちゃんが行方不明になった。彼女のお母さんから私に電話がかかってきてそれが分かった。
今朝、体調不良から快復したサキちゃんは、いつものように朝食を食べ、いつものように制服に着替え、いつものように玄関扉を開けて家を出ていったらしい。
しかしその後、一時間ばかりして担任から連絡が来た。ホームルールに姿が見えず、連絡なしに欠席したのを心配した電話だったらしい。
サキちゃんのお母さんは彼女が、今朝学校へ行くといって出ていったはずだ、と伝えると、担任は動揺した。
サキちゃんのお母さんはすぐに本人に連絡を取った。サキちゃんのスマホに電話をいれると、リビングのソファ脇から着信音が鳴り響く。彼女はスマホを家に忘れていた。
そこで私とケイに白羽の矢が立った。サキちゃんと私たちが親しい事は本人からも、父親からも彼女は聞いていた。何か知っているかも。幸い連絡を取る手段はあった。サキちゃんのスマホ。母親はこれを使って、私とケイに連絡を入れたのだ。
先に連絡したケイは、何も知らなかったらしい。何か分かったら連絡する、とも言ったそうだ。で、その次が私。
以上の事はこの時、サキちゃんのお母さんから聞いた。色めきだった彼女の様子は、電話越しでも充分伝わってきた。
「サキちゃんなら、多分もうすぐ家に帰って来ると思いますよ」
私が電話でそう言うと、母親は少し落ち着きを取り戻したようだった。
「私もサキちゃん、探してたんです。そしたら今、商店街の方に向かうサキちゃんを見つけまして。
ええ、そうです。あ、今Paradisoの階段上がってますよ。Paradisoの上の階がお家ですよね? なら――」
……どうやら帰ってきたらしい。
電話口からサキちゃんの名前を呼ぶ母親の大きな声が聞こえた。私は電話を切った。時計を見ると、9時半だった。
朝5時に起きた甲斐があったというものだ。私は大きなあくびをしながら、スマホを制服のポケットにしまった。
シンプルに眠い。よっぽど帰って寝たかった。でもこれで半分だ。ここで止めるわけにはいかない。私は頬を両手でぱしゃりと叩いて、歩き出した。
私は朝の6時から喫茶Paradisoの入口を見張っていたのだ。サキちゃんがちゃんと登校するか見届ける為に。
昨日の抜け殻のようなサキちゃんを思い出すと、いつ何時、何を起こすか分からない。いつもの登校時間に行動するとも限らないし、また幻を掴まされるかも。
私は何が起きても大丈夫なように、予想される時間の2時間前にK街の駅前に着いていた。
サキちゃんは8時に家を出てきた。昨日見たのと同じ、虚ろな表情をしていた。
彼女は早速、通学路とは別の、およそ訳の分からないルートを彷徨いだした。私はその後を追い続けた。
サキちゃんはまず、十字路を直進すべき所を右に曲がった。その先にはイオンがあった。
まだ開店前。
彼女はまず一階の、路地に面した入口脇にあるケンタッキー・フライド・チキンの、ガラス壁に描かれた看板を10分間も見つめ続けた。
それを見ていると、朝ご飯を抜いてきた私の頭の中で、サキちゃんの安否とフライドチキンとが天秤にかけられた。
私は強靭な精神力でもってこの不純物を撃退――何とか余計な事を考えずにサキちゃんを見守り続ける事に成功する。
次にその先の交差点を直進して、そこにあるミニストップの前で20分間立ち尽くした。かつてミセス・ウィークエンドが儀式を行った場所。完全に同じ場所かどうかまでは分からなかったが、私はそこがその箇所なのだと直感していた。それが何を意味するのかは分からないけど、とにかくそう感じた。
最後にサキちゃんは、ミニストップのすぐ傍にある高架下の公園まで歩いていった。小さな滑り台の前で立ち止まり、それをじーっと凝視していた。
10分は続いた。この時点で、時刻はちょうどホームルームが始まる頃合いだった。
サキちゃんは道行く先で時々、苦しそうに咳き込んだ。風邪がまだ完治していないらしい。
それから彼女はふらふらとした足取りで駅前に向かったかと思うと、唐突にこちら側に折り返してきたので、慌てて近くの建物の隙間に入り込んでやり過ごす。
で、そのままParadiso方面へ帰っていく彼女を見届け、そのタイミングでサキちゃんの母親から電話が来たのだった。
とりあえず、サキちゃんは無事に家にたどり着いた。私はさっきまでサキちゃんがあるいていた商店街の入口付近、ちょうど彼女が咳き込んでいた場所に立っていた。足元を見ると、小さな茶色のシミが歩道の片隅に滲んでいた。
大丈夫。大した事じゃない。私は自分に言い聞かせた。
それにしても、一貫性の無い行動だった。学校のバックレ――ちょっとした反抗期にしては、あまりにささやかすぎた。
同時に不吉だった。やっぱり何かがある。そしてその疑惑の先には、ミセス・ウィークエンドがいる。いなくなった黒猫、体調不良、現実ではない彼女の影、不審な行動――
お手上げだった。私は駅前のロータリーに掛かった広い歩道橋の上に移動して、スマホを取り出す。それからミセス・ウィークエンドにこうLINEを送った。
【助けてください】
これはある種の敗北宣言だった。だがもはや関係のない事だ。私が負けることで何かが変わるのであれば、喜んで敗者になろう、心からそう思った。
何が起きているのか知りたかった。それから、何が起きようとしているのか、という事も――
そして知ること以上に、サキちゃんの様子がおかしい事が心配だった。それに比べてみれば、その他の事なんてどうでも良かった。
私の望みはシンプルだった。サキちゃんが元気になること。それから黒猫のレヴナントが再びParadisoに戻ってくること。それだけだった。
やれ呪いだの、儀式だの、カサゴの頭だの、ペットボトル・ロケットだの、セフィロスのアミーボだの、ミセス・ウィークエンドだの、霊媒だの、降霊術だの――今やどれも価値の無い事だった。
チェーン店の紙ナプキンにボールペンで書かれた些末な情報。SNS上で見られる、会ったこともない人物に対する罵詈雑言。あるいは、クレーンゲームにおける最初の100円投入。それらに等しい無意味な情報の羅列でしか無い。
もしこの対話に彼女が応えないのであれば、例えば私はこのK街を行くあらゆる人々に、迷子の黒猫の事ではなくミセス・ウィークエンドの居場所を尋ねて回り、金属バットをホームセンターで買って彼女の家に殴り込みに行くつもりだった。
――いや、これはあくまで、例え話。そんな度胸は私には無い。
心のなかで私が粋がっていると、ミセス・ウィークエンドからの返事が来た。
「お願い事があります。10時に駅前のマクドナルドへ」
駅前のマクドナルドにて
私は駅前のマクドナルド前にいた。路上に面した開放型のオーダー・カウンターで、ホット・コーヒーとソーセージ・マフィンを注文して、右隣にある階段を上がって二階に足を運ぶ。
私は奥まった場所にある席に座った。ソーセージ・マフィンを齧っていると、LINEの通知でスマホが震えた。サキちゃんからだった。今日も大事を取って学校を休むらしい。
私が昨日と同じように、無理をしないよう彼女に伝えると、そのすぐ後に、またケイから三国志のスタンプ(モブキャラが「ウム!」と力強く頷いてるやつ)が届いた。
食べ終えると、まもなく約束の時間だった。
どんな話をされるのだろうか。私はホット・コーヒーにフレッシュと砂糖を入れ、紙カップをかき回しながら考えた。
ミセス・ウィークエンドには聞きたいことが山ほどあった。彼女はそれに答えてくれるのだろうか。仮にそうだとして、私はそれに納得出来るのだろうか。
あと、こんな時間に高校の制服でいる人物が、一体周囲からどのように言えているのだろうか。
――分からなかった。分からなかったが、私はある事実に行き当たった。
私はミセス・ウィークエンドを疑っている。一連の出来事は全て彼女の計画した事で、私たちは彼女によってかき乱されている、と。
目を閉じると、昨日の授業中に調べていた事が、瞼の裏を縦横無尽に駆け巡る。
私の中で膨れ上がったミセス・ウィークエンドに対する猜疑心は、散発的な思いつきや無理やり結びつけたこじつけの域を脱して、いよいよ私の思考に直接“つながる”に至った。
展開される思考の連なりに、それは既に何の違和感も無く入り込んでいた。
単なる思い込み。偶然の産物。全ては単なる不幸の連鎖に過ぎない。そうと言い張る自分がいる一方で、もう一人の自分が声高に主張を繰り返す。
つまり、黒猫レヴナントを何処かに隠したのも、そのせいで精神的に参ってしまったサキちゃんが体調を崩したのも、まさにミセス・ウィークエンドが企んだ陰謀である、という主張。分かっていない事は、どうしてそんな事をするのか、という事だけだ、と頭の中に声が上がる。
私はどちらの手を取って決着を宣言すれば良いのか、分からなかった。思考が何度も同じ軌道をぐるぐる行ったり来たりする――およそ、堂々巡りだった。
むしゃくしゃしてコーヒーを一口啜ると、喫茶Paradisoのコーヒーとはまるで違う味がして、その違和感に思わずむせそうになった。
10時きっかりに、ミセス・ウィークエンドは姿を現した。私は彼女をしっかり見据えて、その一挙手一投足を注意深く観察した。
彼女は両手でトレイを持ちながら、入口付近に姿を見せた。しばらく立ち止まって私の姿を探していた。
やがて私を見つけると、口元に微笑を作って私の座る二人がけのテーブルの対面に座る。
相変わらずサイケデリックな柄セーター(もちろん、胸元にソラールの紋章入り)だった。
彼女は冬だと言うのにシェイクを頼んでいる。
――胡散臭かった。
が、よく考えたら私も似たような事するなと思い至る。
先入観で判断すべきではない。これからもっと大きな判断が待っているなら尚更だ。私は小さくかぶりを振った――冬の日にこたつで食べる「雪見だいふく」の素晴らしさを、脳裏に思い描きながら。
【お待たせしました】
席に着くなり、ミセス・ウィークエンドはタブレット端末の画面に映る文章を私に見せて、そう伝えてきた。私が両手を使って、手話での「おはようございます」をやってみせると、彼女は目を丸くしてスマホにメッセージを打ち、私にその画面を見せる。
【驚きました! おはようございます、そしてありがとうございます。サキさんに教わりましたか?】
私は彼女の目を見ながら頷いた。続けて、LINEで彼女にメッセージを送った。
【この前、N東公園に行く時、サキちゃんにバスの車内で少しだけ教えてもらいました。それと、コミュニケーションはLINEでやればいいのではないでしょうか?】
Paradisoで彼女が占った時とは違い、私たちはLINEのIDを交換している。わざわざお互いのスマホ画面を見せ合いながらやり取りするのは、ちょっと煩わしい。
すると、ミセス・ウィークエンドは肩をすぼめて、私にLINEを送った。
【確かにそうですね。昔からの筆談の名残りでこのクセも抜けませんもので。そうしましょう】
私は自分のスマホを机の上に置いて、彼女の表情と文章の両方をすぐに見られるようにした。またLINEの通知が鳴る。
【さて! 聞きたいことは山ほどあると思います。そして、私の方も伝えたいことがたくさんあります。ですが、お話を始める前に断っておきたいことがあります。すんなりとは受け入れられない“提案”でしょうけど――宜しいですか?】
私は文章を確認しながらも、ミセス・ウィークエンドの表情の変化を観察する。彼女の目が物語る情報を見逃したくなかった。彼女の口角の角度や口の開き方が示す“兆し”をひとつ残らず受け止めたかった。
ミセス・ウィークエンドは私の返答を待つ間、伏し目がちに私を見つめ返した。まるで私を試すような視線だった。
私はスマホでメッセージを返した。
【大丈夫です。多分】
私はまず、相手の話を聞くつもりだった。そうしておいて、出方次第では、例のネットに書かれていた事を使って、追求するつもりだった。
ミセス・ウィークエンドの次の言葉はこうだった。
【あなたは霊的な存在を信じますか?】
……なるほど。すでに計画は仕上げに差し掛かろうとしている、という訳か、と私は思った。
色々な捉え方が出来る言い方だった。色々な話の持って行き方もあるだろう。
宗教への勧誘?
もっともらしい情報による“はぐらかし”?
それともいよいよ私も呪われる?
サキちゃんとは違う手法で、私を絡め取ろうとしている?
……邪推に身を任せているとラチがあかなかった。それに何だか下らない、と思った。
もっと価値のある話をすべきだ。とにかく今は話を聞くべきだった。
【信じるか……と聞かれれば、とりあえず信じてはいません】
【それは何故?】
私は返答に少し困った。
【いるわけないし、いたら困るから】
私がそう答えると、矢継ぎ早にLINEにメッセージが送られてきた。
【ご立派な一般論をどうもありがとうございました】
【お次は見たこと無いから? 実証されていないから?】
【やれやれ! 聞いていた通り、あなたと話していると、まるで服を来て歩く「一般論様」を相手しているようです! たいそうご立派ですね! 言うならば、法人登録されて人格を与えられた一般論様。そんな手合を相手にしている気分ですよ!】
【ちょっぴり聞き方を変えて、もう一度聞きましょう! 幽霊はいると思いますか?】
私は少しむっとした。何もそこまで言わなくても、と思った。表情や態度に出てしまっていても不思議ではなかったが、それを確認する余裕はあまりなかった。
【いないんじゃないですか】
【会ったことがあるのに?】
私はどうすべきか迷い、少し文章を送るのが遅れた。
【どういう意味でしょうか】
【そこは「何故知っているのか」だと思いましたが、そうきましたか! 大丈夫ですよ。決して、あなたを攻めている訳では無いのです。これは単なる確認です。あなたがどう心得ているのか知りたいだけなんです。まずはそれを私が把握しなくては、どう話すべきか、その道すじが分からないのですよ】
文章が長いし、送られてくるスピードが凄く早い。
……そういえば、いつの間にか私は自分のスマホ画面しか見ていなかった。
慌ててミセス・ウィークエンドを見ると、彼女は折りたたみ式のソフトキーボードを使っていた。ブルートゥースのやつ。入力速度が早いわけだ。
純粋にずるかった。私は負けじと指のタップで応戦した。
【さっき、あなたは「聞いていた通り」と言いましたけど、そんなデタラメな事を誰に聞いたんですか。】
【少し説明の順序が変わりますが、まあ良いでしょう。正直に言います。あなたのお友達に聞きました】
【井之頭五郎? あの子、割と意味なく嘘つきますよ】
私がケイのLINEでの名前を挙げて様子を窺うと、首を横に振られる。
【ノー。彼女ではありません。ナナミさんですよ】
それは去年死んだ友達の名前。
――いや、まだだ。まだ分からない。落ち着こう。こんな事はまだ“読み合い”の範疇だ。私の事と去年の火災事故の事を調べ上げて、被害者のリストと私を照らし合わせれば、このような“ハッタリ”も可能だ。
映画とかでも良くある。
例えば若くして誰か身近な人を亡くした人間が、死んだ人が忘れられなくて、占いとか降霊術とかに興味を持ってちょっと試してみる、みたいな展開。
私がそれを試したかもしれない、とカマをかけているのかも。私は“かます”事にした。
【誰ですか? 私の友達にそんな名前の人はいません】
【短い時間でしたが、彼女からは全部聞きました。あなたが小さい頃、初めて抜けた乳歯は左上の奥歯。中々抜けなくて炎症を起こしたので、歯科医だったナナミさんのお父様に施術して取ってもらいましたね? それと、少し前に撤退したショッピングセンターで、あなたは小さい頃、ナナミさんとゲームソフトを買いに行きましたね? それから売り場では、どちらがどちらのバージョンのソフトを買うかで喧嘩しましたね? まだまだ教えて貰ったことは、たくさんありますよ】
【嘘ついてすみません、幽霊と会った事あります】
即、お手上げだった。先程から緊張で貼っていた肩の力が勢い良く弱まった。
ごめんなさい、完敗です。グッド・ゲーム、gg。
【宜しい! まあ正直に言いますと、実はこれで知っていることはほとんど全てだったんですが。いかんせん彼女とは、“ごく短い間一度だけ”お会いしただけでしたから、あまり一人に多くの時間とMPを割けなかったもので】
【お会いした? MP?】
【ちゃんと説明しますよ。まずは始めの一歩からです。最も、おかげで導入の大部分は省略出来ました。】
ミセス・ウィークエンドはここまでメッセージを送り、それから少ししてこう追加した。
【見ての通り、私は霊能力者です】
私がスマホの画面から、ミセス・ウィークエンドの顔の方に視線を移すと、彼女は片方の口角を上げて、にやりと笑っていた。海外のドラマならここでブラックアウトして次回に続く――そんな劇的な瞬間の再来だった。
老婆は大いに語る
霊能力者。私はしばらくの間、その言葉を頭の中に浮かべてみた。しばらくそうしていると、数日前にスマホで調べていた様々な事が、その周囲を取り囲むように現れた――その単語の示す意味を補強しようと。
それらは大きなひとつの塊となる。ごちゃごちゃの塊。意味不明な、判別不能の情報の集合。これらに加えて、猫の失踪やサキちゃんの事まで巻き込み始める。収集がつかない。
ようするに考えるだけムダだった。私は、私の頭の中がそれに押しつぶされてしまう前に、ミセス・ウィークエンドの話を聞くことにした。
【霊能力者?】
私がLINEにメッセージを送ると、対面して座るミセス・ウィークエンドが深く頷いた。
【そうです。私は死んだ人間と会話が出来ます。
もっとも正確には、あなたや世間の人々が想像するようなやり方や原理ではないのですが、とにかく、ここはまず、分かりやすく霊能力者だと述べておきましょう】
【それってテレビで見たりするやつですか? ゲストのご先祖の霊を降ろして説教したり、事件解決の為に現場の隠された手がかりを透視したり、霊の力を借りて病気を治したりする、あの?】
私がそう書くと、ミセス・ウィークエンドは目を細めて笑った。
【まさに、そうです! 非常に課税額が安価なサナトリウムを経営したり、それはそれはありがたい力の籠もったアクセサリーを製造したりする、あの霊能力者です】
私は冗談を言ったつもりはなかった。が、何かが彼女のツボに入ったらしい。ミセス・ウィークエンドの笑いは止まらなかった。
やがてそれは大きな笑いへとエスカレートする。
音の無い爆笑。制御不能なそれに囚われた彼女は、首を右に左に振りながら、手を叩いて面白がった。
彼女が平静を取り戻すのに、それほど時間はかからなかった。
笑い終えたミセス・ウィークエンドは、急にスンとした感じになる。それから状況のリセットの為か、わざとらしい咳払いをした後にこう送ってきた。
【すみません、ちょっと“ツボ”でした。本当、馬鹿馬鹿しいですよね!
さて、そのような高名な人たちとは違って私は賢くはありませんが、とにかく、幽霊と交流出来るという意味では同じです。
彼らの能力の真偽の程はともかくとして、ね】
【それなら、あの噂も本当なんですか?】
【噂ですか? どの噂の事でしょうか? 候補が多すぎて見当がつきませんね】
私は少し後悔した。こんな事、聞かなければ良かった。突然切り出すにはやや繊細な話題だし、何より配慮にかけている――奇妙な事があまりに続きすぎたせいだ。
きっとこの落ち着きのない空間に、酔ってしまったのだろう。
非凡な人物を目の前にした特別感と、その雰囲気にアテられた人間が取る、分別のタガが外れた意思決定。高揚感に後押しされて出た、うかつな発言。
あまり褒められたものではない。
……でも、と私は思った。
こうなった今、それは前に進むために必要な対価なのだ。私は誤魔化すことも出来なかったし、もはやする必要も無い。私は思い切って彼女にこう訊ねる。
【街の人たちはあなたの事を、変な宗教の信者だとか、交差点で呪いの儀式をやった奇妙な人だとか言っています。
それでワタナベって人を呪い殺した、とも】
私のメッセージを読んだミセス・ウィークエンドは明らかに動揺していた。
手のひらで自分の右頬をしきりにこすり、目を瞬きながら視線をそこかしこへ遊ばせる。……そんな分かりやすいうろたえ方しなくても。
私はちょっと気の毒になった。
しばらくして彼女から返信がきた。
【“その噂”はあまり人に言いたくない事実が含まれています。ですが、良いでしょう。お話します。
あれは明らかに私の犯したミスでした。私がもう少し思慮深かったら起こらずに済んだ失敗です。
ちなみに変な宗教とやらは完全にデタラメです。
私はキリスト教徒ですが、両親や祖父母の信仰を、そのまま少しだけ薄めて受け継いだような凡庸な信者です。そんな人間はこの街にごまんといるでしょう。
あえて言うなら、私はネットゲームでは基本的にDPS信者です。これをあげつらって「変な」と評されるのは心外です。
つまり私が言いたいのは、それは事実が噂として広まる時にちょっと付け足された“尾ひれ”のひとつだと言うことです】
彼女は一旦文章を区切り、時間をかけて続きを打ち込む。やがてこのような話が、私のスマホ画面に映し出された。
【よろしい! それでは“告解”するとしましょうか。
もう20年も前の話でしょうか。この近所で当時パン屋を経営していたミセス・ワタナベが、どこから嗅ぎつけてきたやら、私が霊能力を持った人間だという事を知り、ある頼み事を持ちかけてきました。
それは夫の不貞行為――要するに浮気ですが――、その無分別な振る舞いに対する復讐をお願いしたいというものでした。】
更に話は続いた。
【どうもその夫も随分な人物だったようです。何せ、その浮気とやらもかれこれ5度目だったそうで。
とにかく、そうやって忍耐に明け暮れる日々に嫌気が差したミセス・ワタナベは、いっそ夫を霊的な力で殺して欲しいと、私に頼んだのです。
随分大胆な結論ですこと。まあ、彼女なりに考えた結果なのでしょうね。
離婚はまだ当時8才と4才だった我が子達に悪影響だし、病死や事故死なら保険も融通がききます】
文章が一旦、区切りを迎える。しばらくして、このような続きが送られてくる。
【当然、私は断りました。当時私は既に耳が聞こえませんでしたが、声帯はありましたもので。
こう言ってやりました。やるなら自分で斧なりナタなり、鋭利な調理器具なり持ち出して、あなたの手でひと思いにやっておやり、とね。
するとミセス・ワタナベは、断るなら私が霊能力者だと周囲に言いふらすというのです。かつて私がその力を使って妙なビジネスを起こし、人を騙して金を巻き上げていた悪党だと、ね】
私が読み進めている間に、ミセス・ウィークエンドが手元にあったシェイクを飲みながら、その先の文章をタブレットに打ち込んでいる。まだまだ話は続いた。
【こんな事も言われました。私には人を呪い殺す力さえ備わっていて、ネット上だけでなくこのY街でも、私が気に食わない人物に危害を加えたり、人を殺したりさえもしている、と。
ここまで想像を働かせられると、お手上げです。もはや何でもありですね。
しかし彼女にとっては、この時の駆け引きが全てだったのでしょう。鬱屈した人生と、その再生。次のステップに跳躍する為の絶好のチャンス。それが私だったのです。
そんな彼女でも近所では人格者として知られていたんですよ。この商店街でも会計帳簿を任される人物でした。もっとも、その事実にどのような意味があるのかは、今でも分かりませんけど】
私にもその意味は分からなかった。読み終わると、すぐにミセス・ウィークエンドが続きを繰り出す。
【私にも当時、10歳の娘がいました。その上、私は旦那を早くに亡くしていたし、耳も聞こえないしで、生きていくのに結構な苦労もしていました。彼に借金があったんですよ。その事実を私に隠して死んだんです。
海軍兵でした。彼とは故郷のテキサス州ダラスのヒルトン・ワース・ホテルで働いていた時に出会いました。ケネディ大統領暗殺のあった所ですよ。教科書にはまだ載ってないですかね? 素敵な土地ですよ。機会があれば是非いらしてください】
ミセス・ウィークエンドの物語は止まらなかった。
【結婚してすぐに夫は、ここ、日本のY市への異動を言い渡されました。
やれやれ! 当時は三年ばかりで帰るはずがね!
彼が死んだのは2年目、私たちの子どもが生まれてすぐのタイミングでした。
YC市街のバーで酔った客の喧嘩を止めようとして、仲裁している最中に床に落ちたピーナッツを踏んで、転んで頭を打ちました。
何ともシュールな最後です。ビール瓶で殴られたり、隠し持っていたナイフの脅威から人を守ってやられたり、そんなドラマチックな最後ですらなかった訳ですね!
でも、彼は彼の哲学に則って、死んだんです。誇りある最後だったと思わずにはいられませんね。】
私が顔を上げると、ミセス・ウィークエンドがわざとらしく肩を竦めた。
メッセージの続きが間もなく送られてきた。
【さてそんな訳で年頃の娘を持つ中年の異邦人、それが私でした。
実はミセス・ワタナベが言っていた事は半分は当たっていました。
夫を亡くして5年ほど経った頃でしょうか。借金完済と同時に、貯金が底をつきてしまったのですよ。遺族年金と掛け持ちのパートで何とかやりくりしていた私には、あまりに困難な再出発と言えました。
しかもある日突然、聴覚を失ってしまいました。
ある日、起きたら突然、ですよ? 理不尽極まりない話です。
病院の検査でも原因は不明。お手上げです。
そういう事で、私は自分の仕事をひとつ増やす事にしました。およそ普通の人には出来ないビジネスを】
【それが、ミス・ウィークデイ?】と、私が先回りすると、彼女はニヤリと笑った。
【イエス、その通り。
私は知人の協力でウェブサイトを立ち上げました。
料金を払うと秘密のチャットルームに招待されて、会いたい死者と文章で会話が出来る、というオカルトなサイトでした。
文面にすると、まさに詐欺のようでしょう? でも私は誠実にやったつもりです。人に危害を加えるような頼みごとも山ほど来ましたが、全て断りました。誓っても良いですよ。
それはミセス・ワタナベに脅された日にも継続していた事業でした。どうやって私=ミセス・ウィークデイと結びつけたのかは分かりませんが、とにかく彼女は知っていたのです】
更に物語は続く。
【さて、ミセス・ワタナベの脅しが実行された場合、私の生活がどんなものに変貌するでしょうか? それは容易に想像出来ます。Y市もせまい地域ですからね。
きっと、悪意にさらされ続ける人生になるでしょう。私は職を失い、娘は言わずもがな。
散々悩んだ挙げ句、私はそうやってミセス・ワタナベの依頼を受けました】
私が文章を読み終え、キーボードをうち続けるミセス・ウィークエンドを見ると、少しかなしそうな顔をしていた。
【俗に“悪霊”とでも言いましょうか、そういった存在を彼女の夫に“誤ってつなげる”儀式を教え、彼女に実行させたのです。
その時、私は嘘を混ぜました。その“悪霊”はせいぜい風邪が長続きする、程度の効果しか発揮しない霊でした。
ある程度効果を実感させておいて、そのあと適当なタイミングでその“誤ったつながり”を解き、あとはうやむやにするつもりでした。
ですが彼女は儀式の際、私の教えたルールを破りました。
以前あなたにも言いましたね? このような儀式には手順と遵守すべきルールがあり、それは厳格に守られるべきだと。適切な手順、適切な量。すべては処方箋のように明確に定められています。彼女はそれを守らなかった。
なぜそうしたかは分かりません。追加された分量は、まさに彼女の恨みの大きさを物語るもの、とでも言うのでしょうかね。
その結果、彼女の夫に“誤ってつながった”のは想定していたより強力な、それこそ人を殺しかねない霊でした。
すぐに異変に気がついた私は、慌ててその“誤ったつながり”を断つ為に、交差点で儀式を行いました。それが当時、皆さんの見たものです。
なぜわざわざ交差点で?
このような不可思議な現象には、得てして「バグ技」のような不条理性が伴うものです。
良くある事です。アイテム増殖のバグ技に、どうしてこのNPCのイベントが関わっているのだろう? まあ、そんな感じです。
果たして儀式は成功し、そのタイミングで“悪霊”は去りました。ですが遅かったようでした。ミセス・ワタナベの夫は死にました。
儀式の直後、パン屋で出すサンドイッチに使うレタスが床に落ち、彼はそれに気が付かず踏んで、転んで頭を打ちました。私の夫と彼女の夫。両名、偶然の一致です。
そして私は急ごしらえの対抗策のせいで、“悪霊”が去ると同時に声を失いました。急いだあまり、私自身が霊を帰す儀式の一部手順を間違えたんです。皮肉なものですね。
まあ考えてみれば、当然の結果でしょう。なにせこれだけの事をしでかしたんです。その末路としては、こんなもので済んで良かったと、むしろ感謝すべきでしょう】
長い長い彼女の物語は終わりを迎えようとしていた。最後にミセス・ウィークエンドはこう結んだ。
【これがあなたの言う「噂」の一部始終です。
しかし、ミセス・ワタナベも狡賢いものですね! 本当に上手くいくとは思っていなかったのかもしれません。
その後ろめたさからでしょうか、あれ以来彼女は私を遠ざけました。わざわざ宗教団体の「設定」までこさえて、ね。
おかげで結局、私の娘にも、妙な宗教信者の家の子ではないかという、奇異の目を向けさせることにはなりました。
それに、稼ぎ頭だったウェブサイトも、結局は閉鎖してしまいました。もうコリゴリですよ。
まあまだマシな結果なのではないでしょうか? なにせ、もっとひどい結果もあり得たんですから。あるいは、あの悪霊に存在する“誤ったつながり”が、私や私の娘に“つながる”事だってあり得たのです】
老婆、更に大いに語る
普段本を読まないせいで、長い文章と付き合うと頭がくらくらする。私はため息をつきながら次々にLINEに送られてくる物語を読み進め、ミセス・ウィークエンドの事を理解しようと努める。
【何となくですが、分かりました】
私は頭の整理も兼ねて、そうLINEを打った。
【上手く想像できませんが、あなたが壮絶な半生を送ってきた事は分かります】
私がそうメッセージを送ると、目の前のミセス・ウイークエンドは微笑んで、それからこう返信した。
【こんな話を信じますか?】
【信じられるかは分かりませんが、信じてみようと頑張ってます】
【サキさんの為にも?】
【そうです】
私はそう文章を送って、彼女の目を見て頷いた。ミセス・ウィークエンドも同じように頷いた。
【結構! それでは長くなりましたが本題ですね。サキさんが今、置かれている状況についてお話します】
【お願いします】
【彼女は現在、誰かに“誤ってつながって”います】
【どういう事ですか?】
【私がミセス・ワタナベの夫に霊を“つなげた”ように、サキさんは何らかの霊に“誤ってつながって”いるのです】
【誰かがそうしたんですか?】
【いいえ、違います。“つながり”を辿ってもそのような痕跡はありませんでした。サキさんに霊が“つながって”いる事に気が付いたのは、先週の事でした。偶然彼女と出会ったんです】
【サキちゃんが言ってました。一週間前くらいに喫茶Paradisoにあなたがやってきた、って】
【私がふらっと寄ってみた素敵な喫茶店に、たまたま彼女がいて、偶然、霊に憑かれているのを見た。まあそういう事です】
【だからサキちゃんを見て驚いた?】
【そう。そしてその霊はいわゆる“悪霊”の類でした。人の負の感情が生み出した、人に害を与える、あってはならない存在。
どんな害が生じるかは分かりませんが、今風に言えば“やばい”霊です】
【その“やばい”霊の仕業で、サキちゃんがおかしくなっているんですか?】
【おや、当然そう“つなげる”のが自然だと思いますが?】
【違う可能性もあります】
【そうですね、ここから先は順序良くいきましょう。話がそれるので深くは言及しませんが、残念ながらサキさんの変化はそれの影響です】
ミセス・ウィークエンドは軽く頭を下げた。どうしてそうするのかは分からなかった。
【初めに猫が消えましたね?】
【それが最初の影響なんですか?】
【恐らく。戸締まりをきっちりしていたにも関わらず、いなくなったのでしょう?】
私は黒猫レヴナントが喫茶Paradisoからいなくなったあの時、サキちゃんに聞いた状況を思い出した。確かにその通りだった。
【やはりそうでしょう。その猫は恐らく、“誤ってつながった”存在に気が付いたのでしょう。動物は人間より敏感ですからね】
【いなくなったのはどうしてですか?】
【サキさんを守りたかったのでしょうね。あるいは、居心地の良い自分のテリトリーに邪魔が入ったから懲らしめに行った、そんな所でしょうか? 何にせよ、猫の行動原理は摩訶不思議ですからね。全然違う動機の可能性もあります】
【レヴナントはどこに行ったんですか?】
【それでは次の段階に移りましょうか】
ミセス・ウィークエンドは大きく深呼吸した。
【ここから先の話は今まで私がお話した事より、一層うさん臭くなります。それでも良いですか?
もっと言うと、今後のあなたの価値観にも影響する事です。この部分を飛ばして、結論だけをお伝えすることも出来ます。
ここまで話したのは信じてもらう為もありますが、他でもない、あなた自身がそれを知りたがっていると、そう感じたからです。
つまり知る必要のない部分なのです。それでも聞きますか?】
私は少しためらった。霊、呪い、悪霊、突然死――これ以上、何がどう怪しくなるのか想像出来なかった。私は覚悟を決めた。
【上手く言葉にできませんが、私はそれを知るべきな気がするんです。サキちゃんの為にも】
【よろしい。私もその人が知るべきか否か、その分別くらい出来るつもりです。あなたには資格があるようです】
【教えてください】
次の文章が送られてくるまで、少しの間があった。ほんの数十秒の間。
しかし私には数時間のように思えた。長い一瞬の後、再び私のスマホが震えて、ミセス・ウィークエンドからのメッセージを通知した。
【この世界は“つながって”出来ています。これは例え話ではなく、本当に“つながって”いるのです。
あなたと私。あなたとこの街。あなたと出来事。あなたと誰か。
この世界に“つながっていない”モノはひとつとして存在しません。そうやってこの世界は出来ています】
【“つながり”、ですか?】
【そうです。つながる事で成り立つ世界。あるいはこれから“つながる”可能性のある世界。それが多くの人が認識している、この世界の仕組みです】
何だか狐につままれた気分だった。
だからお年寄りは大切にとか、ひとつひとつの出会いを大切にとか、誰かに心無い言葉を浴びせるのは止めましょうとか――そう言われている気分だった。
【だからお年寄りを大事に、出会いを大事にしましょう、という話ではありません】
見透かされていた。私は勢いよく二度頷いた。
【この世界における“つながり”は絶対です。根本的な原則なのです。
天涯孤独の人間であろうと、誰も存在を認知しない人物であろうと、誰であろうと、僅かではありますが確実に“つながり”は存在します。
故に“つながっていない”人間など存在しません。ここまではよろしいですか?】
【はい】
【“つながり”が完全に絶たれ、何にも“つながらなくなった”場合、私たちはそれを死という単語で表現します。
つまり死とは、この世界での“つながり”を失うという事です】
【そうして“つながらなくなった”人が行く場所が、死後の世界ということですか?】
【乗ってきましたね、良い調子ですよ!
そのとおりです。とはいえ私もここは曖昧なのですが、その“つながり”を失ったモノが行き着く世界は、何も“死後の世界”という訳ではないようなのです。
そこは限りなく広大で、あらゆる階層に別れた、ほとんど無限に等しい世界だそうです。
つまりそこはあくまで“つながりを失ったモノ”がたどり着く世界であって、死者以外のモノも存在するらしいのです。
私は自分の能力上、死者の行き着く先の、ごく限られた空間の事しか把握していません】
【他には何があるんですか?】
【さて、私も専門家ではありませんからね。私の理解も、ずっと以前に同じような事が出来るお仲間に聞いた、その断片的なお話を継ぎ合わせた、程度のものですから】
【さっきあなたが言っていた、誰かに霊を“誤ってつなげる”というのは、その世界からこの世界に“つなげる”という事ですか?】
【イエス。
私は死者の魂(便宜上そう呼んでおきましょう)を、この世界に“誤ってつなげて”、そうして交流を試みるのです】
【「正しい」とか「正しくない」というのは?】
【この世界には正しい“つながり”のみが存在します。
私たちの目から見てこれは間違っているのでは、というつながりもありますよね?
敵対し憎み合う隣国。
過激な理念の元に集まる組織。
離婚する夫婦。
悪意をもって人を殺す人間と殺される人間。
ですがそれらは全て、正しく“つながった”この世界の一部なのです。
何もかもは正しくつながり、我々は正しく“間違いを犯す”に過ぎません。
“誤ったつながり”というのは、その“つながりの無い世界”とこちらの世界を繋げる事を指します。
それは何も私のように、意図的に起こす事だけではありません。偶然“誤ってつながる”事のほうがむしろ多いでしょう。
それこそ幽霊談や伝説上の生き物の目撃例なんかは、あちらと“つながってしまった”人間が見たものでしょう。
呪いや怪奇現象、タイムスリップや並行世界への移動なんかも“誤ってつながった”結果なのでしょう。
物を透視出来る人や見ただけで人を呪う呪術師や、それからテレパシーなんかも。それも意図的に“誤ってつながる”事ができる能力の一つです。
ただし、忘れてはならないのは“あちらの世界”と繋がるという事は全て"誤ったつながり”であるという事です。それだけは忘れないでください】
【何だか都合良く聞こえます】
【率直な感想をありがとうございます。
それでも、私たちの“つながる世界”の裏側には確実に“つながりの無い世界”が存在します。好むと好まざるとに関わらず、ね。
さて、黒猫は何処へ行ったか?
あの手の動物は私と同じく、“誤ってつながる”事が得意なのです。古くからその手の言い伝えも多く存在します。
恐らく黒猫は、サキさんに“誤ってつながった”霊の源へと旅立ったのでしょう。“あちらの世界”を通って、ね。だから音も無く喫茶店から消えたのです。
この仮説はあなたの友人、ナナミさんが一緒に考えてくれました】
【ナナミに? いつ聞いたんですか?】
【喫茶Paradisoで占いをしましたね? あの時、私は占うフリをして、あなたを経由して、あなたに近しい人に事情を聞いていました。占いはデマカセです】
【え】
【私の友人の遺言に関しても嘘っぱちです。
この嘘を利用して、これ以上サキさんに悪影響が出ないよう結界を張ってもらいました。
あの缶の箱にはワラ人形と護符が入っています。藁人形には魔除けの効果がありますし、護符と一緒に三箇所に設置してもらうことで、喫茶Paradisoを中心とした三角形の結界を作れました。
藁人形は人を恨うばかりのアイテム、という訳じゃないんですよ?
それから、カサゴの頭にも魔除けの言い伝えがあります。
ペットボトル・ロケットに「妙」の字――正確には「妙」の字に近いおまじないの文字ですね。少し画数が違います――それを貼って高く打ち上げてもらったのも、魔除けの効果を期待してのことです】
【騙しましたね】
【だってそうでしょう? 突然やってきた怪しげな自称占い師に、「やあ。突然だけど、あなたは悪霊に憑かれている。私の言う通りにしなさい」なんて言われて素直に応じますか?】
……ごもっともだった。
【それで、私はあの時占うフリをして、こっそりナナミさんに色々聞いた訳です。あなたを介してね。
彼女はどうやら定期的にあなたと“誤ってつながり”に来ているみたいですね。想定以上に事情通でしたよ。
先程の話に加えて、あなたの身の周りで変わったことはないか? それを入念に聞きました。が、残念ながら彼女には分からずじまいでした。
しかし、確実に目の前には“謝ってつながった”霊がいる。その霊を帰すには、正体が分からなくてはいけません。もしそれが分からないまま“つながり”を断ち切った場合、周囲にどんな影響が出るか分かりませんから。
身近な別の人間に不幸が襲う可能性もあります。それはミセス・ワタナベの一件を思い出していただければ、良く分かるでしょう?
なので私は一からその“誤ったつながり”を辿って、霊の正体を突き止めることにしました。
ちなみに余談ではありますが、黒猫に私が繋がったのも嘘です。彼の年齢も、短い鳴き声が肯定で長い鳴き声が否定だと言うことも、全部ナナミさんが教えてくれて、それに従ったに過ぎません。
それにニトリでの一件も、完全にただのデタラメなデマカセです。時計をイジらせたのも、KANを歌わせたのも、私がその場で適当に考えました。
意味ありげに見える、その実、全く意味のない行為です。
今日の話の導入部として、利用しました。
セフィロスのアミーボもナナミさんに聞いて、急遽用意しました。あの缶の箱を、あの場所に置いてくれさえすれば、後は何でも良かったのです。この際、すべて正直に言っておきます】
……早く言ってよ。というかナナミ、全部言うじゃん。
私は彼女を呪った。しかし、言われたところでミセス・ウィークエンドの推測通りきっと相手にしなかったんだろうな、とも思ったので、何も言えず、泣く泣く頭を下げる事にした。
猫の行方
ミセス・ウィークエンドはLINE上での語りを続けた。
【私はその悪霊にも“つながって”みようと試みました】
私はそれを受けて、【どうでしたか?】と返事を打つ。
彼女がまた長い時間をかけて文章を送ってくる。
【何も反応はありませんでした。不思議なものですね。人に取り憑いているというのに、一向にその恨みの原因を教えてくれない。このようないわゆる「除霊」の経験はほとんどありません。ですがこういうケースであれば結局の所、この世界に何か未練があって、それが何かを聞いて欲しくて、勝手に喋りだす霊が大半だと聞きますが……
とにかく、これではラチがあかない。
唯一私は、その霊を初めて見た時からあるひとつの単語を感じ取っていました。誕生日、という単語。私は占いの時、サキさんの誕生日を聞いてピンときました。
この霊は誕生日に強い拘りを持っている。そして彼女の誕生日はもう間もなく。確か16日の日曜日でしたね?
霊が何を訴えているのかは今も分かっていませんが、少なくとも16日までにどうにかしないといけません。
何かが起こってしまう気がしてならないのです。
これは霊能力というより、直感です。けれど、あなたにも何となく分かりませんか?】
私はここ数日のサキちゃんの様子をLINEで伝えた。彼女は画面を見ながら深く頷いていた。
【私は昨日、彼女に何かするよう指示を出したりはしていません。私はこう伝えたのです。猫の件に関して、後は私に任せて欲しい。その間、あなたは可能な限り平常心で、やれる限りでかまわないのでいつもの生活を送って下さい、と。】
ミセス・ウィークエンドが自分のスマホの画面を私に見せた。彼女とサキちゃんの交わしたごく短い応答が、列を成していた。その中に、サキちゃんに何か行動を促す文面は見当たらなかった。ミセス・ウィークエンドはスマホを手元に戻し、顎に手をやりながらキーボードを叩き始めた。
【サキさんには昨日の私のメッセージが、なにか別の物に見えていたようです。原因はやはり取り憑いた霊にあると見てまず間違いないでしょう。
私の施した素人仕事の結界も、当然ながら完璧ではありません。早急に対処しなくてはなりませんね。
ここ数日、私はその霊の足取りを追っていました。今回のような、自発的に現れた憑依霊というのは、もうひとつ別の所に“つながり”を持っています。
霊が現れるに至った原因――例えば、関係性の強い人物や物、場所なんかにも“つながって”いるのです。
つまり霊というのはまず「原因」とつながります。そして憑依霊であれば、その上で更にそこから誰かに“つながって”取り憑く、という訳です。
そして、その「原因」と霊との間には痕跡が残るのです。特別な目を持つ人間にしか見えない痕跡が、ね。
私は兼ねてから一人の調査員にそれを追ってもらっています。夜な夜な、ね】
【調査員?】
【まあ、アルバイトのようなものです。街の中を歩いていると、時々“誤ってつながって”しまった人や場所が「バグって」しまっているのを見かける事があります。
後者で分かりやすい例はサキさんですね。それらは“誤ったつながり”を持っている恐れがある、あるいは“誤ったつながり”に繋がる可能性があるのです。
何も起きないものが大半ですが、周囲に悪影響を振りまく存在に成長することもあります。出来ればそれは阻止したいのです。少なくとも、せめて自分の身の回りくらいは。
……ミセス・ワタナベの一件で、私も思うところがあったのですよ。
という訳で私は一年ほど前にアルバイトを一名、ネットで採用しました。
面接は専用サイトのチャットで。業務指示も同じです。
もっともその人物とは直接会ったことがありません。よって、私は未だにその人物がどのような人物なのか分かっていません。残念です。
が、少なくともチャット上では気さくな良い人ですよ。ね、今風でしょう?】
【立派だと思います】
【自警団ごっこのようなものです。単なる独善的なボランティアに過ぎません】
【それで、そのアルバイトさんは何かを掴んだんですか?】
【まず、初めの予感が的中していたことが分かりました。
痕跡をアルバイトが辿っていくと、このK街から北上していくようでした。
私は報告された痕跡の、とある箇所をいくつか見て回りました。そこには黒猫の痕跡も残っていました。
そして「霊の痕跡」からは僅かですがいくつかの情報も読み取れました。
どんなに黙然としていても、欠片をひとつずつ繋ぎ合わせれば何かが浮かんでくるものです。
どうやらサキさんに“誤ってつながって”いる霊は、「誕生日を迎えられなかった」事を非常に悔やんでいるようなのです。その事に強い未練を抱いている。
やはり最初の直感は正しかったわけです。残念ながらね】
【サキちゃんの誕生日は明後日。つまり16日の日曜日までに何とかしないと、という事ですか?】
【そう考えて良さそうです。
また、こういう事も分かりました。どうやらサキさんに“誤ってつながった”のは恐らく偶然だという事です。
「こちらの世界」に影響を及ぼす力がある霊なのに、サキさんという個人に対する感情は一切伝わってきませんでした。要するに彼女個人への恨みつらみから、仕返しを画策している霊だという訳では、どうも無いようなのです。
端的に言えば、「あれ」はもうすぐ誕生日を迎えようとしている人間になら、誰にでも“誤ってつながる”可能性があった、という事です。偶然サキさんが選ばれたに過ぎないのでしょう。なんとも理不尽な話ですがね。
いずれにせよ、時間をかけすぎました。専門家ならもう少し上手くやるのでしょうが、こんな素人でごめんなさいね】
【そんな事無いです】
【とにかく、時間がありません。サキさんの誕生日が間もなくという事もありますが、猫の行方も気になります。
あなた達の愛すべき黒猫は、あちらの世界と“誤ってつながり”、痕跡を辿って姿を消しました。
一体彼はどのように決着を付けるつもりなのか? もしかしたら、とんでもない解決法で片を付けてしまい、収集がつかなくなる恐れもあります。猫の考えることを予想するのは、無理難題というものです。
いずれにせよ、一刻も早く霊の正体を掌握しなくてはなりません。
あの悪霊が何者なのか、何故こちらの世界と“誤ってつながった”のか――それを知らなくてはなりません。これは“誤ったつながり”を解消するのに必要な手続きなのです。
他にも方法はありますが……それは危険ですので最後の手段です。
今日、お願いしたいことは他でもありません。あなたを介して、もう一度ナナミさんとお話をさせて頂きたいのです】
【ナナミと?】
【実はもうひとつ分かったことがあります。例の痕跡を辿っているアルバイトさんからの報告は、更に北上を続けています。
このまま行くと、YC街に行き着く可能性が高いのです。
――強い負の念を持った死者が出た場所。YC駅前ビル火災。
そうです。私はそこに霊の「根源」があるのではないかと疑っています】
私は息を呑んだ。正直に言うと、あまり冷静では無くなっていた。
【ナナミを疑っている、という事ですか?】
【落ち着いて下さい。占いの時、私はナナミさんと話をしましたが、その最中もサキさんに憑いた霊はいました。ナナミさんでは決してありません。
そういう事ではなく、仮にあの火災で亡くなった人物が関係しているのであれば、ナナミさんが何か知っている可能性があります】
【あの火災で亡くなったのは全部で6人です】
【犠牲者の個人情報はニュース記事で見ました。今や最優先で調べるべき候補です。
なにせ毎年、死者は膨大な数が出ます。Y市だけでも、年間5000人以上亡くなるものですから。過去の人物を含めれば、分母は更に膨れ上がります。
その中から該当者を見つけ出すのは、まず不可能でしょう。しらみ潰しに調査する時間もありません】
【よく分かりませんけど、自分の次の誕生日を迎えられない無念なんて大半の人が感じるんじゃないですか?】
【イエス。その通りです。つまり私のこの勘は全く見当違いかもしれません。
ですが同時にその事実は、「強い未練」という事を考えると、そっくりそのままあの悲劇の犠牲者を調べ上げる理由になる訳です】
私はどうすべきか少し迷ったが、すぐに承諾した。
【分かりました。お願いします】
降霊はすぐに始まった。
マクドナルドで霊能力者に降霊をしてもらう――文字にすると、随分インパクトがある。何かのドッキリみたいに聞こえる。
ミセス・ウィークエンドの指示で目を閉じて俯いている間、私はそのようなどうでも良い事が頭に浮かんできた。やがてその雑念もなくなった頃、降霊とやらが始まった。
一瞬、耳の奥で金属が擦れるような、甲高い音が鳴った。次第に音の数は増え、規則性の無いリズムで私の脳内に響き渡った。
胸騒ぎがした。それからすぐに寒気が全身を襲った。店内の気温が下がったというより、自分自身の体温が低下しているような感覚。私は身体を縮こませてそれに耐えた。
しばらく目を瞑って暗闇の中でそうしていると、頭の中で「大丈夫」という声が聞こえた。私にはその声の主が誰なのか分からなかった。
やがて私の肩をミセス・ウィークエンドが軽く叩いた。それを合図に目を開けると、ミセス・ウィークエンドが指でOKマークを作っていた。“つながった”ようだった。
ミセス・ウィークエンドはしばらく目を閉じていた。穏やかな表情で、ピクリとも動かない彼女。
はたから見れば、その落ち着き払った様子は平穏そのものだった。
もの静かな郊外の公園と小動物。
その片隅にある木陰のベンチで時を過ごす老婦人。
そんな絵が浮かんでくるほどの、質素で他意の無い、純度の高い静寂。
占いの時とは全く雰囲気が違った。あの白目を剥いて天を仰ぐポーズも、ただの演出だったのかもしれない。
どこまでが本当で、どこまでが作り話なのだろう。今の私には判断がつかなかった。
私はきっと、ミセス・ウィークエンドの言っている事の三分の一も理解できていない。
もう一度繰り返されても、きっと同じだ。私は彼女を信じるのではなく、自分の直感を信じることにした。
ミセス・ウィークエンドが目を開けた。彼女は起き抜けのような、ぼんやりとした表情でタイピングをした。
【お待たせしました。ちょうど彼女との「お話」が終わったところです。ところで、まだナナミさんはここにいます。せっかくの機会です、何か彼女と話したいことはありますか?】
【ありません】
私はミセス・ウィークエンドを真っ直ぐ見つめ、そう返信を打った。ミセス・ウィークエンドは愉快そうに笑みを浮かべて、タイピングを続けた。
【そう言うと思ってた、とついさっき彼女とそう話していたばかりですよ! あぁ、今彼女も帰ってしまいました! また会う日まで、ロング・グッド・バイ!】
ミセス・ウィークエンドはそうメッセージを送り、誰もいない空間に向かって、わざとらしくおおげさに手を振った。
湿っぽくならないように――私はそう解釈して、心のなかで彼女に感謝した。
【それにしても、あなたには何か特別な物を感じますね。きっと良い友達に恵まれたおかげでしょう。良い“つながり”は良い結果を招く。
いいえ! これはちょっと、もったいぶりが過ぎた言葉ですね! 忘れて下さい】
【ありがとうございます】
【どういたしまして! さて、結果を報告しなくてはなりませんね。
残念ながらナナミさんにも分からないようです。当時あのビルのレストランは大勢の人で賑わっていたようですね。ただ、そこにいた人たちで、何か際立って特徴的な最後を迎えた人はいなかったようです。それに火災が起きてすぐ、煙があっという間に部屋中に蔓延して店内はパニック状態、落ち着く暇もなかった彼女に周囲の把握は難しかったようです。それにレストラン以外のフロアでも亡くなった方が】
ミセス・ウィークエンドは突然、文章を区切った。少しして続きが送られる。
【ああ、申し訳ない! 配慮にかけていましたね! ごめんなさい、どうか気分を悪くされないでください】
【大丈夫ですよ。続けて下さい】
【とにかく、ナナミさんからはこれ以上の情報を引き出せそうにありません。折角、ご足労願ったのに、成果はゼロ。自分の無力さにほとほと呆れます】
【でも、どうすべきかは分かった気がします】
【そうですね。とは言っても、私も手段が限られています。歳を取ると一日に一度きりしか“つながれ”なくなってしまいました。
俗に言うMP切れです。ここからはアルバイトと私は、あのビル火災の件に的を絞って調査を続けます。時間との勝負です。最後まで諦めないつもりですよ】
【私はサキちゃんを監視します。明日もきっと学校に来ようとするでしょうし、サキちゃんを見てなきゃいけない気がします】
【その意気ですよ。タフに行きましょう。もちろん無理をせず。タフに、クールに、ね】
【それでは、私は学校に行きます。何か分かったらすぐに連絡をください】
【それでは、また。紡さん】
私が立ち上がろうとした時、ミセス・ウィークエンドが私の名前を呼んだ。突然の事に、私は立ったまま固まってしまった。それを見た彼女は、茶目っ気のあるウィンクをして、私にこんなメッセージを送信した。
【ナナミさんにあなたの名前を教えてもらいました。LINEグループだと、皆さん思い思いの名前を登録しているもので、本名が分かりませんでしたもので。
「井之頭五郎」に「サキ」、そして「ツムツム」。
「サキ」はそのまま本名。これは初めて面と向かってお会いした時に、手話で教えてもらいました。彼女は“正しくつながる”のが得意そうです。声は聞こえないのに、何だか彼女の仕草を見ているだけで、元気を分けてもらっている気分になります。
そして「井之頭五郎」さんの本名は……そういえば聞き忘れました。今度会ったら本人に尋ねてみましょう。そしてあなたはあのゲームアプリの達人……ではなく、紡さん。良い名前ですね】
【隠してた訳じゃないんですが】
【賢明ですよ。もし私が人を呪うという噂が本当だったら――ほら|巷でよく言うじゃないですか。呪術師に名前を知られてはいけない、とね。
まあどうでも良いことです。大した事じゃありません、紡さん。本当に良い名前ですね。非常に納得がいきました】
【?】
【「名は体を表す」ですよ。まあ、これもどうでも良い事です。“大した事”ではありません】
そうLINEを送ったミセス・ウィークエンドは、いつの間にか身支度を済ませていた。立ち上がって私の横を通り過ぎる時、彼女は私に向かって軽く会釈し、棒立ちの私を残してそのまま階下へと姿を消した。
……2人分のトレイが席に残されてしまった。それらはちゃんと私が片付けて帰った。
昼下がりの高校
マクドナルドから出て通学路を行く最中に、私は担任に電話を入れた。
「ご心配かけてすみません。今、学校に向かっている所です」
私がそう伝えると、「大丈夫ですか?」と、担任の先生の丸っこい声が返ってくる。
「連絡を受けた先生から登校が遅れるとは聞いていましたが――体調が優れないとか?」
「いえ、ちょっと家庭の事情がありまして。ええ、もう大丈夫です、もう解決しましたから」
「そう、無理しないでね?」
「ありがとうございます」
電話を切ると、高校は目の前だった。私は心のなかで、担任の先生の言葉を繰り返した。無理しないでね。私は、自分が最近サキちゃんに同じ言葉を伝えていた事を思い出した。
学校はちょうど昼休みの時間だった。私が教室の扉を開けると、何人かの生徒の意外そうな顔つきに迎えられる。彼らは各々のグループに別れて座り、お昼ご飯を食べていた。それぞれの独立したコミュニティからランダムに選ばれたであろう代表者が、不思議そうに私を見つめ、それにつられて他の所属者も義務的に――あるいは反射的に――こちらに顔を向けた。
だがそれも少しの間だけだった。この出来事自体、手応えがイマイチだった不出来なトピックスのひとつとして処理されたのか、彼らはすぐに視線を元に戻し、やがてそれぞれの興味ごとの中へと帰っていった。
ケイは窓際の自分の席に突っ伏して寝ていた。一番奥の最前列でグループを形成するれいちゃん――クラス一の人気者――彼女に至っては、私が教室に入ってきた事にも気が付いていなかった。
きっと私が欠けたまま朝のホームルームが始まっていた事にも気が付いていないだろう。それに何か思う所がある訳でも、不満がある訳でも無かった。
仮に彼女と私が逆の立場になっても、私も半日間、その事実に気が付かないかもしれない。フツーの現象。そしてそれはこの教室にいる人間の大半も同じ生態系を持つ。教室の外もきっとそうだった。
それぞれの正しい「つながり」――私はミセス・ウイークエンドが言っていた言葉を、心のなかで呟いた。きっとそういう事なのだろう。
私が席に着いて、弁当を出そうとカバンの中を覗いていると、誰かが近づいてきた。顔を上げると、れいちゃんがいた。クラスの人気者。私はほとんど会話をしたことのない相手。
彼女は私を見て口角を上げ、私の肩を軽く二度叩く。
「お疲れぃ、何かあった? まあいいや! 午後からでもガッコ来るの、めちゃ偉いじゃん。アタシには出来ないね!」
一方的にそう言った後、彼女は私の対応も待たずにただ一言、「じゃね!」とだけ言い残して、再び自分の生み出した輪の中へと去っていった。
……世の中はそう単純なものではない。私は彼女とクラスメイトに心のなかで謝った。
そうこうしていると、今度は月宮さんがやってきた。長い黒髪が眩しい。
「おはよう。学校来て大丈夫なの?」
彼女の勝ち気な目が、緩んでいる。私は苦笑いしながら言った。
「うん、大した事じゃなかったんだ。体調が悪かった訳でもないし、大丈夫だよ」
月宮さんは「良かった」と、小さく安堵のため息を漏らした。それから彼女は、離れた場所に座った幸田さんに声をかけた。幸田さんが軽快なサムズアップと持ち前の猫口で合図する。
私の前の席は幸田さんだった。“お許し”が出た今、月宮さんはその席の椅子をこちらに向けて座る。私は目の前でお弁当を広げる月宮さんに誘導されるように、自分の昼食を机に出した。
「良かった、配してたのよ? 6月の時みたいに風邪でも引いたのかと思ったわ」
「心配かけてごめんね」
私が謝ると、「ホントだよ」という月宮さんの物ではない声が聞こえた。いつの間にか私たちの隣にケイが立っていて、会話に割って入ったのだ。彼女の不意打ちに月宮さんが驚いた声を上げる。
「ビックリしたぁ……いつの間に起きたのよ」
「さっき」
「目の下のクマ、すごい事になってるわよ」
ケイは月宮さんの言葉を無視しながら、隣の席の椅子――坂崎クンのだ――を断りもなく引きずってきて、そこに座った。手に携えた小さなコンビニの袋から、チョコレートコーティングのクロワッサンを取り出して封を開け、食べ始める。
「何してたの?」と、ケイが口元をもしゃもしゃしながら私に尋ねた。
「随分、遅かったじゃんね」
私は「ちょっと、ね」とはぐらかした。
「家の用事だよ」
「ふ~ん」
彼女はいかにも裏のありそうな、間延びした相槌を打った。月宮さんが首を小さく傾げた。
私はこれ以上サキちゃんの件をややこしくしたくなかったので、思わず苦い顔になる。
そのタイミングで校内放送がかかった。クリスマスイベントの告知だった。演劇部によるクリスマス・カロルの上演と、吹奏楽部によるクリスマス演奏会のお知らせだった。
ケイはどちらに聞くでも無く、空中に放り投げるような調子で疑問を口にした。
「カロル? キャロルじゃないの?」
「昔の言い方じゃないの? 良くあるじゃない」
月宮さんが、卵焼きを食べるその口元を手で隠しながらそう応じた。
「今でもあるじゃない? エナジーとエネルギーとか、インクとインキとか――今と昔で言い方が違ったり、由来が違ったりするみたいね」
私はそれに乗っかる形で付け足した。
「ボムとボンブとか? 昔のボンバーマンのCMで爆弾のことボンブって呼んでたよ」
月宮さんは首を傾げ、ケイは「ほう」と頷いた。正反対の反応。月宮さんは一旦この流れを置いておく形で、言及する。
「……まあ、そんな感じでクリスマス・キャロルって古典文学だから、呼び名が二つあるんじゃないかしら」
「知らないや。誰の作品?」
ケイがそう質問すると、月宮さんはまた首を傾げる。彼女の代わりに私が「ディケンズって人だよ」と答えた。
「チャールズ・ディケンズ」
今度は二人揃って、「へぇ」と小さくため息をついた。ちょっとだけ得意になった私はこう補足した。
「確か、イギリスの作家で、産業革命の時代の人だよ」
私がそう言うと、ケイが掘り下げてきた。
「詳しいじゃん。読んだことある?」
「無い」
「エアプ?」
「本、読まないもん」
ケイが肩をすぼめた。私は気にせず続けた。
「友達に読書家がいたんだ。読んだ本の感想とかを勝手にしゃべるタイプの」
私はそう弁解した。
……妙にそわそわする。その「友達」とは他でもない、ナナミのことだ。彼女は今もどこかにいて、この話を聞いていたりするのだろうか。
私が自分の背後をやたらに気にしていると、月宮さんのスマホに着信が入った。通知画面に浮かぶ文字を見て、彼女は大きくため息をついてから電話に出た。
月宮さんは初めこそ落ち着いた様子で応対していたが、段々と語気が強くなっていった。その一部始終を見ていたケイがそれを茶化すように、「笹食ってる場合じゃねえ」と小さく呟き、にやけた。
私は渋い顔を作り、首を横に何度も振って無言の内にそれを諌めた。その間にも月宮さんの口調はエスカレートしていく。
しまいには「はあ?」とか「ちょっと!?」なんて、強い口調を持ち出し始めた。本当に“笹を食べている場合”ではなさそうかもしれない。
電話が終わると、月宮さんはまた大きなため息を机に向かって吐いた。
「ごめんなさい、ちょっと野暮用ができちゃったわ。行かなくちゃ」
急いで空の弁当箱を包みにしまう彼女を見て、ケイが言った。
「例の部活がらみと見た」
すると月宮さんは回答の代わりに、更なる巨大なため息をついた。それを意にも介さない様子でケイが付け足した。
「何だっけ? SOS部?」
……それは往年の人気ライトノベルのやつ。私はとっさに「SCP部」と答えた。
「ええと、地域問題? 解決? その為の部活? みたいな名前の――」
記憶があやふやだった。答えた手前で後戻りできず、ひどく漠然とした説明になってしまう。月宮さんは再び巨大なため息をつき、感情に欠けた調子で私の誤りを修正した。
「……Solve Community Problem部。地域問題解決の為の部よ」
続けざまに乾いた笑いが彼女から飛び出す。
「……あ、とうとうソラで言えるようになっちゃったんだ、あたし」
それは何かを諦めたような口調だった。色彩のない乾いた笑いが彼女の喉元から排出され続ける。
月宮さんは虚ろな笑みを浮かべぬるりと立ち上がる。そのまま幽霊のような足取りで自分の席に向かっていって弁当箱を置き、そのまま教室を出ていってしまった。
「まだあの部に入ってんだね、あいつ」
教室から出ていく月宮さんの背中を見ながら、ケイが言った。
「毎日ドタバタ騒ぎで、愉快そうじゃんね」
「初めは無理やり入らされたって言ってたけどね」
「そういうもんじゃん? 物語の中心になる主人公的な立ち位置のキャラってさ」
「結局何をする部活なのかな?」
「さあねぇ。噂じゃ夜な夜な、街を脅かす怪奇現象をこっそりシバキ倒してるとか。ダークヒーローじゃんね」
ケイがそう皮肉りながら、ジト目をこちらに向ける。
――彼女は何か聞きたそうに見えた。そしてこれは不自然な話にはなるが、私は何を聞かれそうになっているか、何となく分かっていた。
しかし私は同時に、その問いに対して、自分が上手く答えられる自信が無い事も分かっていた。時間的パラドックスが生じ、矛盾を含んだ思考の逆行が起こる。
私は「その時」が来てしまうのを、阻止しなくてはならなかった。話題を替えるべきだと思った。
「それはそうとさ。ケイ」と私は言った。こちらが聞きたい事を、先に聞いてしまおう。
「この前、言ってたよね。幽霊が見えるって」
「……突然、何さ」
ケイは僅かに眉をひそめる。ほとんど誰も気が付かないくらい、ささやかな変化。
私やサキちゃんはこの表情を引き出すのが割と好きだった。この困った顔に向かって、しばしば追撃を加えるのだ。冗談やからかいの種を――
私はわざと興味のなさそうな態度を取った。
「――本当?」
「……見えるなんて言ってないし」
「でも、何が起こっているかは分かる?」
ケイはこちらから目を逸らして、ダルそうに頬杖をついた。その先には何も無いように見えた。あえて言うなら黒板があった。彼女はそれをじっと見つめていた。長い沈黙だった。彼女の表情はこちらから見えない。
物言わぬ後頭部――それを見ていると、深く暗い海の底で立ち尽くす、彼女の背中がイメージされた。私は窓の外を見ることにした。
彼女は次に、何をどう言うべきか考えているようだった。さらに長い時間が過ぎる。
そうしている間の私の耳には、色々な音が飛び込んでくる。
教室内のがやがやした雑多な歓談の声。校内放送が流す、V6の「UTAO-UTAO」。窓の外を見ている私の視界の端で、ケイが時々、何かを言いたそうにこちらを振り向きかけた。
それでも私からは何も言わなかった。窓の外には午前中よりも分厚くなった雲が、空を覆い隠している。
いかにも冬らしい有り様だ、と感じた。冬の心細さで重くなった、ペーソス漂う灰色の雲。
私は重苦しく、含みのあるその輪郭を頭の中でなぞりながら、しかるべきタイミングが来るのを待った。
悪くない時間だった。沈黙――穏やかな沈黙。一日じゅうでも返事を待てそうだった。
私はほんの少しずつ流れていく雲を見つめながら、この心地良い持久戦をやり過ごした。
「ひとつ言えるのはさ」
ケイはそう切り出した。相変わらず黒板を見つめながら。
「ツムギ一人で抱えるべきじゃないってこと。この件はきっと何とかなるよ」
そう言って、彼女はこちらに振り向いた。消極的な瞳がそこにはあった。彼女はすぐに躊躇うように視線を落とした。この仕草が二度繰り返された。
やがて何かが噛み合ったのか、その気だるげな半開きなジト目を真っ直ぐ私に合わせて言った。
「まあ、信じてよ。それに助けが必要なら呼んで」
ここまで真剣な顔つきで聞いてきたつもりだったが、私はつい吹き出しそうになった。私は何とかそれに堪え、努めて真面目な態度を崩さないようにして、ケイに耳打ちをした。
「――“ひとつ言える”、って最初に言ったけど、ふたつ以上になってるよ」
だしぬけに、奇妙な怪音が教室じゅうに響いた。はるか遠い国に隠れ住む、聞いたこともない類の怪鳥が発する、不気味な鳴き声のようだった。
それは聞くものを震え上がらせ、教室中の人間の体温を瞬く間に奪った。我々の本能の深い部分に根ざす、根源的な恐怖心を煽る警告音。
それはケイの笑い声だった。ひとしきり続いたそれが止むと、たじろいでいた教室中の人々もやがて平静を取り戻した。
案外世間とはドライなものだ。
この1年3組という閉じられた生活圏に住まう市井の人々は、あの恐ろしい怪音が、どうやら人間から発せられた笑い声だったのだと把握すると、とたんに興味を失い、彼らの輪の中へと再び帰っていった。
決意
「コンプレックスなんだよね。前、言ったけどさ」
“発作”が収まったケイは、打って変わって落ち着き払ってそうこぼした。
「自分のマジの笑い声」
いつにも増して平坦な物言いだった。私はちょっと考えてから言った。
「……前にも言ったけど、そんな“うろん”な言い方されると、本気で気にしてるか分かんないよ」
「本気だったら?」
ケイがニヤけた。私はその意図にすぐに気がついて、さも心配そうな素振りをする。
「大人のマナー講座~公共の場での笑い方編~に連れてってあげるよ」
「ホント?」
「不安なら私も一緒に参加するからさ」
「講師は?」
「今月はサキちゃん」
「わたしに出来るかな」
「大丈夫。それに今のうちに矯正しておいた方が良いよ。笑い方ってすごく大事なんだって、お父さんが言ってたよ? 社会人になると、上長さんや部下からの評価に一番影響するのって、笑い方なんだってさ」
「ほう」
「下品過ぎるとヒンシュク買っちゃってダメだし、かと言って上品過ぎても今度はキョリ感が強調されちゃってダメなんだって。だから社会的成功の為に、最も基本的なポイントになる“笑い”を今のうちに改善しておこうよ」
「ビッグになれる?」
「そうすれば、ものすごく高いグラボも簡単に買える」
「レイトレーシング全開でフィールドを駆け巡れる?」
「しかも120FPS固定」
「勝ったな」
――しょうもなかった。その上、そうやっていたら昼休みも終わった。結局、月宮さんは昼休みの最後の最後まで帰ってこなかった。
放課後がやってきた。午後の授業があっという間に過ぎ去り、とらえ所のない不完全燃焼感に私が浸っていると、ケイが話しかけてきた。
「ごめん。今日、居残り。選択授業の書道で作品が完成してないんだ」
私は「分かった」と頷く。彼女は半日じゅう、眠たそうにしきりに目を擦っていた。目の下のクマは昼休みの時に比べてより濃く、半開きの目はいよいよ数秒後には完全に閉じられそうな所を、何とか耐えているようだった。
「大丈夫? ここ数日ずっと眠そうだけど」
そう私が心配すると、ケイはサムズアップで応じた。
「無理しないでね。というより、夜、ちゃんと寝なきゃ……ゲーム?」
私のその質問に、少し間を開けてから彼女が答えた。
「オーバーウォッチ2」
「……ほどほどにね」
そうして私たちは教室で別れ、私は一人で昇降口まで向かった。
恐らく彼女は嘘をついていた。でもそれは大した事では無かった。
大した事じゃない。私は自分に向かって、その言葉を何度か繰り返す。
タイシタ コト ジャ ナイ。
下校途中、迷子猫捜索のビラがまだ少し余っていたので、私はK街の駅前でそれを配って回った。
数枚渡した所で、身なりの良いおばさんに声をかけられる。
「まだ見つかってないの? 先週も配ってなかったかしら? 心配でしょう?」
――言葉を掛けられたのは初めてではない。私が微笑と会釈で返すと、彼女は「気を落とさないようにね」と言葉を投げかけた。その人が、駅の改札へ向かう歩道橋の方へと向かうのを目で追っていると、今まで投げかけられた言葉が頭を巡った。
「頑張ってね」――30代前半くらいの、栗色のストレートヘアが眩しい女の人。
「見かけたらすぐに連絡するよ」――商店街の中心にある焼き鳥屋の店主さんらしき人。
「何を探しているって? あぁ、黒猫ね」――海岸でゴルフクラブを素振りしていたおじいさん。
うんざりだった。こんな気分になるのは生まれて初めてだった。私はビラを配るのを止め、自分の心に聞いてみた。
何にそんなうんざりしているの?
――自分が声を掛けられる度に少しずつ気が立っていく様に。そしてそれに私が、さも気が付いていないような振る舞いを続ける事に。
……どうやら原因はそこにあるようだった。気分が落ち込む前に、私は場所を移すことにした。
アテもなくぼんやり歩いていると、公園が見えた。海沿いの広い公園。一週間前、ミセス・ウィークエンドと初めて会った場所。どうやら気がつかないうちに随分、駅から離れてしまっていたらしい。
私はあの時と同じベンチに腰掛けて辺りを観察した。
公園の隅の方から、遊具に集まってはしゃぐ小さな子どもたちの、楽しそうな声が聞こえた。
私はそれを聞きながら目を閉じて、ゆっくりと二度、深呼吸をした。目を開けると、広場の中心にある大きな石碑が目に映った。目を閉じる前より小さく見える気がした。
私の近くを、小さな犬を連れて歩く二人のおばあさんが、何かを話しながら通り過ぎた。ほとんど何を話しているか分からなかったが、何やらお金の話題で盛り上がっているようだった。あんまりにも大きな声で喋るものだから、ほとんど内容は筒抜けだった。
少しすると私と同じ高校の男子生徒数人がやってきて、互いに罵倒の言葉を愉快そうに浴びせ合いながら広場を横切った。数分後に一人のおじいさんが広場を横切って、遠くのベンチに座って本を読み出した。
それからしばらくすると、小さな女の子が遊具のある方から広場にやってきて、私を少し離れた位置からじっと見ていた。私が笑って手を振ると、彼女は小さくはにかみながら手を振り返した。しばらくそうしていると、母親らしき女性がやってきて私に会釈する。彼女は優しく女の子の手を取り、まだ遊びたそうにグズる彼女を柔らかくあやしながら、やがて国道方面の出口へ歩いていき、そのまま姿を消した。
Tシャツ一枚の、寒そうな格好をした黒人のお兄さんが姿を現して、端の方でスケート・ボードの練習を始めた。彼は静止した状態から飛び上がり、空中で鮮やかにボードを回転させていた。30分ばかりそれを続けた彼は、着地に失敗してずっこけたのを皮切りに、この広場を去っていった。ベンチに座ったおじいさんはいつの間にかいなくなっていた。
私はスマホを取り出して、時計を確認する。16時42分。空に目をやると、冬の短い夕方もそろそろ終わりそうな色合いだった。私はAirPodsを付けて、ランダム再生をオンにした。ボブ・ディランの『雨のバケツ』が流れ、終りかけの一日を労うようにギターを鳴らした。
イヤホン越しだと、子どもたちの笑い声はずいぶん遠くの方から響いてくるようだった。
私がしばらくそうやって過ごしていると、頭の中にイメージが湧き出てきた。それは何か大きな物に纏わる想像だった。
とてつもなく巨大で、際限なく深い“何か”。それに、自分が含まれているイメ―ジ。
その“何か”が私をすっぽり覆い隠す。私の痕跡など、見つけようもない。子供じみた途方もない空想と、鼻で笑われそうなほど滑稽な想像。何かの例え話のようだった。
この感覚を上手く言葉にできない自分がもどかしかった。そうしていると、私はかつて、同じような空想に耽った事があるのを思い出した。あの交霊術の時――それがその始まり。
あの時と同じだ、と思った。私はこのまま自分が何処に辿り着こうとしているのか、想像もつかなかった。
ミセス・ウィークエンドに全てを任せきりな事も、そもそもあの話をどこまで信じているのかという事も――私には何も分からなかった。
混乱と驚嘆の中で呑み込まれないようにもがくので精一杯。それが今の私。同じ事が繰り返されようとしている。
だが、あの時とは違う。私がナナミを呼び出した、あの学校での降霊とは――
今度は、それを止めなくてはならなかった。私がそれにどのくらい役に立てるのかは分からない。けどそうしなくてはならない。あるいは――
霊、バグ技、“誤ったつながり”、“つながり”を失った世界――
繰り返し、繰り返し――
私は自分がどうするべきか、ようやく決めることが出来た。
耳元で流れる曲は何度も変わり、代わる代わる景色に異なる色合いを投げかけた。もう何曲目か分からなくなった時点、エルトン・ジョンの『ロケット・マン』のサビの途中で、私はイヤホンを外した。
もう子どもたちの声も聞こえなかった。夜の暗闇が広がり、それを照らす街頭の明かりが広場にまばらに散らばっていた。
公園はすっかり静まり返っていた。乾いた冬の匂いが、12月の無愛想な風に乗って漂う。ここはもはや単なる大きな広場に過ぎない。そしてここにはもう、私一人しかいなかった。
長い時間じっとしていたせいで、身体が強張っていた。私は大きく伸びをしてから立ち上がり、駅前を目指した。その途中、私は母親に電話を入れ、帰りが明日になることを伝えた。
もちろん嘘だった。サキちゃんの家でいわゆる「お泊り会」を緊急開催するという嘘。一旦家に帰り、それからサキちゃんの家に向かう、と。
駅前の大きな交差点で信号待ちをしている最中、本当に喫茶Paradisoに寄ろうかとも思ったが、余計な心配の種が増えそうだったので、止めることにした。
駅前のバルコニー
帰宅してすぐに私はお風呂に入った。何も考えずに湯船にたっぷり30分は浸かり、その暖かさが過ぎてしまわぬうちに着替えを済ます。
灰色のズボンと茶色のパーカー、フード付きのカーキ色の中綿ジャケット。トドメとばかりに、手袋と大量のホッカイロも用意した。
私は自分の格好で怪しまれないよう、ノースフェイスの黒のリュックサックにそれを詰め込んだ。
ボリューム不足だったので、追加でタオルやら何やらを突っ込み、いかにも着替えが入ってそうな演出をした。
階下に降りると、会社から帰ってきてビールを楽しんでいたお父さんに、仕事で使うモバイルバッテリーを貸してもらった。
充電は充分だった。私が家を出ようとすると、玄関でお母さんが「くれぐれも迷惑をかけないように」という、紋切り型の言葉をかけた。私は頷いて「行ってきます」と言った。
20分かけてまたK街に戻った私は、スマホで時計を確認した。9時だった。
駅前のコンビニでツナ・マヨネーズと鮭のおにぎり、ホットの緑茶を買う。レジカウンターでそれをリュックに入れて商店街に向かった。
喫茶Paradisoとサキちゃんの自宅が入っている雑居ビル前に着くと、私はどこに「陣取る」べきか辺りを見渡した。
道路を挟んだ向かい側、ちょうどドラッグストアのすぐ脇に、青い柵の折り返し階段付きの雑居ビルがあった。ピッタリの位置だった。
私はそのビルの階段を上がり、3階の踊り場で立ち止まった。
3階は高い位置にある。道路からはわざわざ見上げないとならない。ここなら道行く人達に怪訝な目を向けられる心配も恐らくない。
向かいに喫茶Pradisoの窓が見えた。営業時間は午後8時までなので、店内は真っ暗だった。
中を窺い知ることはできない。その下を見ると雑居ビルの入口と、路面に少しはみ出す形で「猫ちぐら」が置いてあるのが見えた。
私はリュックを下ろしてフードをかぶった。それからリュックを開けてホッカイロをふたつ取り出した。
封を開ける時のビニールが擦れあう音が無性に気になった。少しの物音にも敏感になってしまう。
私はなるべく知らないフリを決め込みながら、私はホッカイロを上着の左右のポケットにひとつずつ滑り込ませた。
それと入れ替わりでポケットに入れていたケースからAirPodのイイヤホンを取り出して両耳に付け、ランダム再生をオンにした。
これで準備はオーケー。後はあの眼下に見える雑居ビルの入口に、サキちゃんの姿が認められなければ良いのだ。
これが今の私に出来る精一杯の行動だった。こうして一晩をサキちゃんの監視にあてる事。凡人の私が、ミセス・ウィークエンドの助力になれるとは到底思えない。
何なら余計な情報を与えて、彼女を混乱させてしまう自信すらあった。そっちの事はミセス・ウィークエンドと、今も痕跡とやらを辿って調査を続けてくれているアルバイトさんに任せるべきだ。二人ならきっと上手くやってくれる。
私はLINEで、ミセス・ウィークエンドにメッセージを送った。調査の進捗具合が気になったのだ。それが済み、温かいお茶を一口飲むと、まるで見知らぬ土地に潜り込んだ気分になった。
私は雑居ビルの入口から目を離さないようにしながら、YouTubeで様々な動画を垂れ流した。
くりぃむしちゅーのオールナイト・ニッポンのバックナンバー。
Apex Legendsの立ち回り講座の動画を3種類。
スタイリッシュ・ヌーブの切り抜き動画。
ウメハラの公演動画。
ゆっくり解説動画
――画面を直接見れないので、なるべく音だけでも楽しめそうな物を選んだ。
私はいくつかの動画を聴きながら、サキちゃんの事について考えた。
一緒にゲームをすると、いつも賑やかし役を買って出てくれるサキちゃん。ボイチャ越しに彼女の歓声や悲鳴を聞きながらゲームをするのは楽しかった。
特にケイは対戦ゲーをやると、しばしば物言わぬ殺人マシーンのようなプレイをする。それと比較すると、余計にサキちゃんのリアクションは際立った。
普段の生活でもそうだ。彼女無しの高校生活は想像ができなかった。
サキちゃんと出会ったのは今年の5月の事だった。
あれは何の時だったかな? 私は思い出そうとした。話すようになったのは、ほんの些細な機会からだったと思う。
……そうだ、ケイと一緒にParadisoに入ったのがきっかけだ。
下校途中に、ふとあの入口の急階段が目に入って、子供心をくすぐられたケイが入ってみようと言い出したのだ。きまぐれに、ちょっとした冒険をしてみたくなった私はそれに乗っかり、そこでサキちゃんが働いているのを見たのだ。
当時私は、働く彼女の立ち振舞いにひどく感銘を受けたのを覚えている。それをケイに茶化されたのも――
翌日、隣のクラスで教室じゅうの注目の的になっている彼女を入口から見たときは、思わず二度見してしまった。同じ高校で、しかも同学年だとはまったく考えていなかった。
年上だと勝手に思っていた。私は自分では気がついていなかったが、どうしてこんなに自分と違うのか、という旨の言葉をぽつりと漏らしたらしい。
隣りにいたケイがそれを聞いて、例の不気味な怪鳥の鳴き声で笑い出した。周囲の人たちがざわめき、漏れなくこちらに不審の目を向けてきた。
私が笑い崩れるケイの背中を押しながらそそくさと退散しようとした時、サキちゃんが教室から飛び出してきて、私達の背中に向かって言ったのだ。
「お昼休み、また来てよ!」
ケイの不吉な笑い声が、サキちゃんの中のどの部分に響いたのかは今でも分からない。
……とにかくそういう事になった。で、それから私たちはしょっちゅう“つるむ”ようになった。それが始まりだった。
小さなくしゃみがひとつ出た。数時間ぶりにスマホをポケットから取り出して時間を見る。12時20分。ミセス・ウィークエンドからの返事は来ていなかった。私はシャケのおにぎりを頬張り、緑茶でそれを流し込んだ。ポケットに手を突っ込むと、ぬるくなったホッカイロに手が触れた。
ダメになるの早くない? どうやら外れを引いたっぽかった。私はリュックの中からまたカイロを取り出して、よく振ってからその不良品と入れ替えた。
夜が更けて闇が一層深くなった。それでも路上は明るかった。歩道を間隙無く照らし続ける商店街の街頭のおかげだった。
これならビルの入口もしっかり見える。歩道ではスーツを着た男性や大学生のような風貌の人物が歩いていて、冷たい夜の街に乾いた靴音を一定の間隔で響かせながら通りを横切っていった。
長い時間私はここでじっとしていたが、階段を利用する人間は一人もいなかった。本当にここは利用されているのだろうか。
振り向くと玄関扉があった。一つ上の階にも同じものがある事を、私は登ってくる途中で把握していた。
私が知る限り、どちらも一度も開いていない。扉は頑固な強面の軍人のようにその口を閉ざし続け、いるかどうかも分からない主の帰りを待っていた。
私は扉に付いている小さな新聞受けの隙間から誰かが覗き込んでいる想像をした。本当にそうだったらどうしようと思ったが、全くそんな気配はしなかった。
私はスマホを操作して、できるだけ明るい曲を探してかけた。“ポケモン歴代道路BGMメドレー”がYouTubeにあったので、それでやり過ごすことにした。
しばらくしてまたスマホを確認すると、2時半だった。私はシャケおにぎりを頬張った。緑茶はもう残っていなかった。食べ終わるとLINEを開いてメッセージを確認する。ミセス・ウィークエンドからの返事はない。
そもそもまだ既読すらついていなかった。私はサキちゃんに電話することにした。
長い発信メロディが流れ続けた後、ようやくサキちゃんが電話に出た。
「うえぇ、なに? ん何のようぅ?」
……ふにゃふにゃだった。電話口からごそごそと音が聞こえる。寝ていた彼女がベッドの上で半身を起こしたらしい音。私は、いの一番に謝った。
「ホントにごめん、こんな夜遅くに――」
「うえぇ、なに? ん何のようぅ?」
……再放送だった。そして電話をかけておいて何だけど、私は何を話すべきか考えていなかった。
ただ無事を確認したいだけ。見切り発車の早計なやり口の為に、何か要件をでっちあげなくてはならかった。
私はよっぽど、うるせえこっちだって眠いんじゃ。こちとら心配で一苦労かけとるんじゃい、と、慣れない方言で言いたい気持ちを抑えた。
「体調は大丈夫?」
「え~~~~と……う~ん、だいじょぶだぁよぉ」
ぐにゃぐにゃだった。
「ホントに大した用事じゃないんだ。夜中目が覚めて、それで心配で電話かけちゃって。ごめんごめん」
「あぁりがとぅ。心配のラインはねぇ~、友達からぁ、たくさん来たんだけどさぁ~、電話くれたのツムギとケイだけだぁよぉう――」
長い沈黙があった。それから突然彼女は歌い出した。
「しぃ~んぱぁ~い無いかぁねぇ~」
KANの「愛は勝つ」だった。ニトリでの一件を思い出して顔が赤くなる。
気が付いた時には電話を切っていた。すぐにメッセージで「夜更けに本当ごめん! ゆっくり休んで!」と送っておいた。本当にごめん。
それから30分が経った。私はスマホを携帯バッテリーに繋いで、再び音楽をかけた。リー・リトナーのアルバム「リッツ・ハウス」をタップする。すぐに一曲目の「モジュール 105」が流れた。
通りにはもはや誰も歩く人はいなかった。私は遠くに見える猫ちぐらを見ながら考えた。
ミセス・ウィークエンドはこの世界を「つながりを持つモノの世界」だと言った。この世界のあらゆるモノは“つながって”いるのだと。
私は彼女の言う“つながり”のイメージを思い浮かべてみる。
私と家族。家族と祖先。
友達と学校。学校と生徒たち。
市民とY市。Y市と駐在外国人。
世界と経済社会。貨幣と人類。
造る者と造られたモノ。生まれるモノと死にゆくモノ。
……こうも言っていた。この世界の裏側には、「つながりを失ったモノがたどり着く世界」があると。同じようにしてみる。
私達の祖先や歴史上の人物。
かつてあった制度や、これから失くなるであろうシステム。
古い生活様式、文化――例えば、長い歴史の中で失われた音楽。
記録されなくなったモノ、観測されなくなった出来事。
……頭が痛くなってきた。私の理解力を超えている。考え方を変えてみることにした。
“つながる”事で成り立つ世界。それは言い方を変えれば、“つながり”から逃れることの出来ない世界と言える。
全てを投げ出してどんなに遠くに逃げようとも“つながり”は追いすがってきて、最後には首根っこを掴まれる。
そして元の位置に戻されるのだ。
いともたやすく、何事もなかったように。
そうしておいて、それはその哀れな人物を路上に引っ張っていって衆目にさらした後、こう言うのだ。
「皆さん、拍手と喝采で彼の帰還を歓迎しましょう。
よろしい! 素晴らしい!
皆さん。これからも、ひとつひとつの“つながり”を大切にしましょう!」
なんだか道徳の授業に先生が付け足す教訓みたいだと思った。何が起きているのか良く分からなかった。眠いせいだ。それとも寒さのせいかな? 私は時間を確認した。
4時。良い子はとっくに寝ている時間だ。大きなあくびが三度、続けてやってきた。雑居ビルからは誰も出てこなかった。
頭の中で猫の長い鳴き声がした。その猫は我慢できないのか、興味津々な様子でそこらを探索し始めた。
うろうろしちゃダメだよ。私の頭の中は今、散らかっていて危ないんだから。何を踏むか分からないよ。
私がそう思っていると、猫は大人しくなった。どうやらポケットの中のホッカイロが上手い事言って事を収めてくれたようだった。
安心するのもつかの間、目の前で水しぶきがあがった。ペットボトルロケットが上がったようだった。
聞く所によると、遠く北海道は紋別市で流氷観光のオープニングセレモニーがあって、その開幕の為に打ち上げられたらしい。
私がチケットを持っていないことを心配して、それを隣の人に打ち明けると、安心しなよと言ってくれた。
それによると、どうやら今年のみかんの収穫量は例年の110%になる見通しだそうだった。
私が心底ほっとすると、また猫の長い鳴き声が聞こえた。 隣にいた人は見たことがある人だった。
彼は名倉潤だった。テレビで見るまんまだった。
条件反射から私は「ナグラやないかい」という古いネタを言いそうになるが、すぐに代表者のスピーチが始まったので、なんとか助かった。
長いスピーチの途中、壇上の人が明日の山陰地方の湿度をしきりに気にしだした。私は段取りに従って小脇に抱えた鳥かごから、流暢な韓国語を話すカラスを引っ張り出してくる。事前の打ち合わせ通りだったので、非常にスムーズにそれは取り行われた。
そのカラスに私が、およそ300年前の江戸で流行したという、アイスクライマーで高得点を取る裏技の手順を礼儀正しくしゃべらせると、拍手が巻き起こった。
この裏技が成功すると、ボーナスステージのナスの得点量が二倍になるようで、当時の庶民の間で常識とされていた事だったのだ。、
西洋の大航海時代にも記録があるくらいだ、とここで代表者の脇に控えていた秘書が得意げに声を上げた。
いわく、ラム酒に豚肉を漬ける保存食の製法を確立させたのは、まさにそのテクニックありきでの話だという。
それから猫が短い鳴き声を発するから、そこにあるベイクド・ポテトを潰して、それを名倉に――
……目を開けた時にはすでに日が登っていた。私は寝てしまっていた。
体育座りの姿勢から飛び起き、私はすぐに時間を確認した。
午前9時だった。
踊り場の手すりから身を乗り出してParadisoの入口を確認する。ちょうど女の人が立っていた。彼女は落ち着かない素振りで、何かを探すようにキョロキョロと辺りをうかがっている。
私はすぐに階段を降りていって、その女性に話を聞いた。彼女はサキちゃんのお母さんだった。私は彼女に、サキちゃんの姿を街で見かけなかった訊ねられた。どうやら今朝から彼女の姿が見えないらしい。
正体
サキちゃんが家からいなくなった事に家族が気が付いたのは30分前くらいだ、とサキちゃんのお母さんは私に告げた。
7時半にお父さん――喫茶Paradisoの店主さん――が朝ご飯を作り終え、お母さんはサキちゃんに朝食の時間を伝える為に彼女の部屋に行った。
いつもと違いノックをしても反応がなく、不思議に思った母親が扉を開けると、サキちゃんの姿がなかった。
枕元には充電中のスマホと部屋着が残されていた。玄関にはサキちゃんの靴があった。靴箱の中を見ても、欠けた靴はひとつも無い。
父親に行方を聞いたが、彼も知らなかった。彼は朝6時に起きていて、少なくともその間に玄関扉を開けた者は一人もいなかったという。そうして心配になったお母さんが外の様子を見にきた。それがちょうど現在――私が起きた時間と同じタイミング。
サキちゃんのお母さんは、自分が冷静である事を強調しながら話をしているようだった。
過剰な単語を使わないよう慎重に言葉を選びながら。
私を過度に動揺させないように取り繕いながら。
それでもその言葉の端々や微妙な仕草からは、充分すぎるほどの不安と焦りが伝わってきた。隠しきれない心の振動が、わずかな隙間からにじみ出るように。
私にその配慮は必要がないように思えた。なぜなら私の心は最初のやり取りで、すっかりかき乱されていたからだ。私は自分がこの会話の中で何を喋ったのか、言葉を発したその2秒後にはもう思い出せなくなっていた。
視界の四隅が霞がかったように狭まり、焦点が上手く定まらない。呼吸が浅くなったり深くなったりして息苦しかった。
ただ一点の単純な後悔が私を襲った。なぜ眠ってしまったのか。自分の記憶にそう訊ねる。すると、少なくともあなたは午前4時までは起きていましたよという、確かな記録に基づく証言が返ってきた。
その後のことは私の中のどの部分に聞いても、誰も知らないようだった。
ずいぶんと脆弱な監視システムだ。
私は記憶をたぐり寄せ、張り込みを始めた時間から眠ってしまうその時までの映像を頭の中で早回しした。やはりサキちゃんの姿は無かった。
つまり彼女は午前4時から6時の間の僅かな時間で姿を消したという事だ。
私がそう結論づけると、頼りない不完全な監視システムの一部が私を責め立てた。
問題はこれに対してどう対処すべきか、という点だった。
どこに行けば会える?
どこを探せば良い?
私がキャパオーバーに陥っていると、スマホが震えた。ミセス・ウィークエンドからのメッセージだった。
【お待たせしてすみません。準備が整いました。結論から言いますと、これから私は「最後の手段」を取ります。強制執行です。サキさんと霊との“つながり”を私が断ちます。サキさんを連れて来てください。Paradisoで合流しましょう。心配しないで。今度はもっと上手くやります。信じてください】
文章を確認した私は、すぐにLINEを送った。
【サキちゃんがいなくなりました】
すぐに既読が付く。しかし返事が来たのはしばらく時間が経ってからだった。
【想定外です。いえ、想定はしていました。が、考えたくなかったのかもしれません。
分かりました。詳しい事は後から送ります。YC駅前の例のビル跡へ向かってください】
私はスマホをポケットにしまってサキちゃんのお母さんに言った。
「サキちゃんからの連絡でした。迎えに行ってきますね」
それから私は駅へと走り出した。サキちゃんのお母さんが声を上げたが、何を言ったか上手く聞き取れなかった。
K街からYC街までは電車でだいたい20分かかる。電車に乗った私は焦燥感で誤字脱字を起こさないよう慎重にスマホをタップして、ミセス・ウィークエンドにメッセージを送った。
【今電車に乗りました。どうすればいいですか?】
すぐに返信が返ってくる。
【手間取ってしまって本当にごめんなさいね。事を起こすにあたってまず、確認しておきたいことがひとつあります】
私は返事を打たずに、流れに身を任せた。
【後から聞くのも酷な話ですが、私はこれからあなたを非常に危険な事に巻き込むかもしれません。それでもかまいませんか?】
私は自分の胸の内に問いかけた。私の中のあらゆる部署が一斉に声を上げる。どの部署も同じ回答だった。
【もちろんです】
私がそう送ると、ミセス・ウィークエンドから続きが送られてきた。
【すこしズルい聞き方でしたね。こんなのはフェアじゃないです。でもあなたの覚悟は分かりました。
そして恐らくあなたは、あなたがどのような類の危険に巻き込まれる可能性があるのか、うすうす勘づいているでしょう。
……そうです、ツムギさん。
あなたにはこれから、私が昨日お話した「つながりを失ったモノがたどり着く世界」に行ってもらいます。こうなってしまった以上、仕方がありません】
【どうしてですか?】
【またしても少し遠回りになりますが、順番に説明しましょう。分かりやすいように、ね。
まず、私から連絡を入れた理由をお伝えしましょう。
アルバイトが例の痕跡を辿り終えました。やはり私の勘の通り、それは一年前に火災で崩落したYC駅前ビルの跡地に“つながって”いました。大元となる「根っこ」をとうとう見つけた訳ですね。
報告を聞いた私はすぐにその霊の出どころ、「根っこ」にあたる部分と“つながり”ました。そこで分かったことは主に二つ。ひとつめはサキさんに“誤ってつながった”霊が、通常の霊ではなかった事です】
文章が一旦途切れた。私が念の為【どういうことですか?】と送ると、既読マークはすぐに付いた。
【あの霊の正体は、生きた人間の魂の一部でした。誰かの強い負の感情、それによって生じ、何かの拍子に本人から切り離されて独立した姿です。端的に表現するなら生霊です】
【生霊?】
【そうです。私の問いかけに反応しなかった理由もこれで分かりました。私は死者の霊に“つながる”事は出来ても、生霊は専門外のようです。
私の力では生霊相手に“つながろう”と試みても、ほんの少しの部分でしか“つながれ”ないみたいですね。この件でそれがよく分かりました。
生霊と死霊。同じ霊でも所在が少し異なるようで、上手く“つながれ”なかったのはそのせいです。
死霊は「向こうの世界」から直接やってきますが、生霊は「こちらの世界」で生まれ、それから「向こうの世界」を経由し、再び「こちらの世界」に“誤ってつながり”ます。
そして私は出どころが「こちらの世界」にある存在とは“つながれ”ない。そうと分かっていれば、ナナミさんに“つながった”時に彼女にも相談できたかもしれません。
とはいえあの子も死者だというだけで、それ以外は普通の女の子ですからね。結果は同じだったかもしれません。
なぜそんなものがサキさんに“誤ってつながって”しまったのか? それは誰にも分かりません。昨日のお話の通り、あれは「誕生日を間近に控えた人物」という条件さえ整っていれば誰にでも“つながる”可能性がありました。きっと生霊を生み出した主にも分からないでしょうし、もっと言うと自分がそんな怪物を生み出した事にも気が付いていないでしょう。
あの火災事故から一年以上経ちました。その人物はこう実感したのかもしれません。「あれから一年。犠牲となったあの人は次の誕生日を迎えられなかったんだ」と。想像すると、なんだかやるせない気持ちになります。
いずれにせよ、素人仕事が事をここまで大きくしてしまいました。私のミスです。本当にごめんなさいね】
電車がトンネル内に入った。数秒間の暗闇が窓の外に広がり、やがて町並みがもう一度戻ってくると、続きが送られてきた。
【そういう訳で結局、サキさんを苦しめるあの生霊とは直接“つながる”事は叶いませんでした。正体もわからずじまいです。
相手が生きた人間、つまり犠牲者の関係者となると数は一気に膨れ上がります。その家族、友人、恋人、あらゆる可能性が立ち上がってきます。
可能性の話をするのであれば、過去にあのビル内で病気や事故といった要因から、突然死した人物の関係者も候補に立ち現れます。
今からそれら全員を洗って、生霊の正体を突き止めるのは不可能でしょう。
あの生霊の勢いも日に日に増しています。一週間前とは比べようがないほどです。結果的にどんな事がサキさんに降りかかるか、多分あなたには伝えないほうが良いでしょうね。それ程のものなのです。
明日のサキさんの誕生日がリミット。時間がありません。
そこで私は別の手段を取ることを余儀なくされました。これが分かった事のふたつめ。
昨日お話したミセス・ワタナベの件は覚えていますね? 私はあの時、交差点で儀式を行って霊との“つながり”を強制的に遮断しました。それと同じことを試みます。
相手が生霊という条件の違いこそありますが、おそらく結果は同じでしょう。「向こうの世界」から生じている“誤ったつながり”が断てるはずです。その根城が判明した今ならそれが可能でしょう】
【危険じゃないんですか?】
私は昨日の話を思い出していた。あの話が本当なら、あの件でミセス・ウィークエンドは声を失い、ワタナベさんの旦那さんは亡くなった。それはサキちゃんにも――これ以上は考えたくなかった。
それに、“つながり”を断つには相手がどのような霊なのか把握する必要がある、とも言っていた。分からないまま儀式を行ったら危険だ、とも――
車内で大学前駅への到着アナウンスが流れた。電車が徐々に速度を落とす。扉が開いて数人が乗り降りし、ガタンと無機質に扉が閉まった。
ゆっくりと電車は速度を上げ、次の駅がYC駅であることを告げる。あと10分足らずだった。ミセス・ウィークエンドの返答はこうだった。
【信じてください】
私はどう言葉を返すべきか迷った。色々と考えはしたが、結局私は一番最初に浮かんだ言葉を選んだ。
【お願いします】
【大丈夫。ハーブやらお香やら霊力増強の食べ物やら、ありとあらゆる”バフアイテム”を使いました。
現在、私の霊的なパワーは盛りに盛ってあります。フルパワーです。いえ、もはやオーバードーズ状態と言ってもいいでしょう】
それが良いことなのかは私には分からなかった。なんだか体に悪そう。
私が返答に困っていると、彼女の方からメッセージを送ってくれた。
【さて、本題ですね。今日私は、儀式を済ませてそれで解決、という算段を立てていました。
ですが肝心のサキさんがいなくなってしまった。
今回は面と向かって儀式を執り行えるものと思っていましたが、今のままではそれも叶いません。
「向こうの世界」に彼女がいるのであれば、向こうに取り残されたまま“つながり”を断ってしまったら――
……最悪の場合、サキさんが「そこ」に置き去りにされるかもしれません。とにかく、このままでは“つながり“を断つと同時に何が起こるか分かりません。
そこでプラン変更。私は予定通り儀式を行います。こちらの方は私に全て任せてください。あなたにはサキさんを探して、連れ戻してきてほしいのです。期日直前のこのタイミングで彼女がいなくなった、という事が示すのはただひとつ。彼女は今、彼女がいるべきでは無い場所にいるという事です】
【サキちゃんは「向こうの世界」にいるという事ですか? 】
【その通り。直接の危害が彼女に加わるのでなく姿を消したというのであれば、これしか考えられません。
“誤ってつなげられた”者の放浪。世間ではこれを「神隠し」なんて言い方をします。
サキさんは彼女の飼い猫と同じように「消えた」のです。“誤ったつながり”の大元に誘われて。
その場所はYC駅前のビル跡。それも「向こうの世界」にある、ね。
初めに私が言った「危険を伴う行為」とはこの事です。「向こうの世界」からサキさんを探して一緒に帰還する――
サブクエストではありませんよ? これはメインクエストの最後の方に要求される、非常に難易度の高い依頼です】
【最悪、死ぬ?】
私は率直に訊ねた。
【最悪、死にます。もっとも向こうで死んで“つながりを失う”とどうなるのかは分かりませんが】
マジか。私は困惑した。しかし迷いはなかった。
【行きます】
【とは言っても、そんな危険極まりない場所にあなたを一人だけで向かわせる気はありません。優秀な案内人を一人付けます】
【案内人?】
【アルバイトです】
【痕跡を辿ったりしてくれてた?】
【イエス、その子です。既に現地に向かわせています。駅のホームで待ち合わせる手筈になっています。先ほどアルバイトからも連絡がありました。タイミング的に、ひょっとしたらあなたと同じ電車に乗っているかもしれません。
ですが昨日も少し説明しましたが、私はアルバイトの顔を知りません。
その子には大きなバッグを家から持ってくるよう指示してあります。向こうの世界で必要になるんです。どうやら大きな藤のバッグを選んだみたいです。それが目印になると思います。
それに私がこっそり撮ったあなたの写真をデータで送っているので、向こうから声をかけてくるはずですよ。
非常に頼りになる子です。これからの詳しい事はアルバイトに聞いてください。手順や注意事項はすべて伝えてあります。私は予定を早めて、儀式の準備を急ぎます。それでは健闘を祈ります】
メッセージを読み終えると同時に、電車がYC駅に留まった。
私は人波に紛れて降車し、点字ブロックが敷き詰められた辺りで立ち止まった。
待機列を成す人たちが、私と入れ替わる形で次々と電車に乗る。後ろの方で扉が閉まる音が聞こえ、電車がゆっくりと前進する。
最後尾の車両の姿が完全に見えなくなり、電車の駆動音も聞こえなくなった頃合いには、ホームに見える人影もまばらだった。
右隣の車両から降りたであろう位置に、ケイの姿が見えた。きっとミセス・ウィークエンドに私と同じ事を伝えられ、ここまでやって来たのだろう。
一人で心細かった私は少し安心した。彼女はファーの着いたフード付きの黒いジャケットと、淡いネイビーのズボンを着ていた。どことなくそれは、夜の闇に紛れて暗躍する都会の少年を連想させる格好だった。
私は無意識の内に笑顔になりながら、ケイに近づいていく。ケイの方でも私の姿を認め、こちらに向き直る。向けられるいつものジト目。
あとはアルバイトさんと合流するだけだ。私がそう思ってケイの前に立つと、喉に何かがつかえるような違和感を覚えた。やがてその違和感は疑惑へと形を変え、ある時点を境に確信へと転じた。
私はとっさに視界から彼女を外した。行き場を失った視線はしばらく彷徨った末に、左手にある自動販売機で止まった。
ケイは右手に荷物を持っていた。大きな藤のバッグだった。それは彼女のちっこい見た目も相まって実物以上にに大きく見え、同時にひどく不釣り合いに思えた。
私の脳裏にありとあらゆる形の質問文が巡る。長いものや端的なものまで様々だった。
それらが一巡するまで時間はかからなかった。それが収まると、最後には私自身の感情を示す言葉が残った。
それでも私の口は動かなかった。私がゆっくりと視線を自販機からケイの方に戻すと、静かにこちらを捉え続ける彼女の目と鉢合わせた。
私はケイと目を合わせ続けた。吸い込まれそうなほど黒い瞳だった。気だるげで、どこか皮肉めいていて、ダウナーな、いつものジト目。
いや違う。私は直感した。
彼女は次に何が起こるか不安がっている。戸惑いの色合いが、その漆黒の奥にわずかに溶け込んでいた……ように見えた。
根拠はなかった。自信はあった。何となくそんな気がした。ただそれだけだった。
そう考えていると、私は喫茶Paradisoの事を思い出した。大量の砂糖を入れたカフェオレをかき混ぜるケイの姿がそこにはあった。
その直後、目の前にいる彼女のまぶたに出来たクマが、昨日より濃くなっている事に気がついた。
痕跡の追跡は夜に行われている。ミセス・ウィークエンドはそう言っていた。
――私はようやく全てを理解した。
いつのまにか私は笑っていた。初めは誰の笑い声か分からなかった。どうやら自分のらしいと気がついた時、私はなおさら可笑しくなって笑い続けた。
何がおかしいのか自分でも分からなかった。ただ笑いたかった。ケイが少しだけ後ずさって、私とキョリを開けた。
ようやく笑いが収まった。満足した私は上着のポケットに手を突っ込む。それからわざとらしく前に屈んで、私より10cmは“ちっこい”彼女の顔の高さに目線を合わせて言った。
「よろしくね。頼りになるアルバイトさん」
言わなくてはいけないこと
改札を通って駅前の大型歩道橋へ。私はケイと共に歩いていった。駅のホームからここに至るまで、私たちは一言も喋らなかった。
歩道橋上の広場に着いた時、ケイが立ち止まって私に言った。
「"向こう”に行くバグ技、これから使うんだけどさ。条件のひとつに時間が指定されてるんだ。今から待機」
そういう事だったので、私たちは中央にある大きな円形の植え込みの前で時間を潰すことにした。
ケイはほとんど何も喋らなかった。何かのきっかけを待っているように見えた。私は待つことにした――昨日の教室でのやり取りと同じように。
歩道橋の下にある広場から歌声が聞こえた。気になって手すりの方まで歩いていって覗き込むと、ストリートミュージシャンが弾き語りをしていた。
ショートヘアの緑髪の女性がYUIの「ラフ・アウェイ」を歌っていた。やることも無かったので、私は手すりに肘をついて、それを眺めた。
いつの間にかケイが隣にいた。
「悪かったと思ってる」
彼女は歌がサビに差し掛かる手前で、独り言のように言った。いつも通りのダウナーな声。彼女は私と反対の方、さっきまで彼女がいた植え込みの方に体を向けながら、手すりにもたれていた。
「サキが“バグって”るのは気づいてたんだ」
「いつから?」と、私はストリート・ミュージシャンを見ながら言った。ケイの返事はすぐだった。
「12月に入ってすぐ」
私は一週間前の出来事を思い出した。「ああ」と、私は納得の声を上げる。
「サキちゃんへの誕生プレゼント、肩たたき券って言ってたっけ? もしかして霊が憑いてたから?」
「そ」
「割とブラック寄りの冗談だったんだね……」
私は苦笑いするしかなかった。ケイが足元を見ながら言った。
「ホントはどこかのタイミングで言うつもりだった。わたしのアルバイトの事も、サキの事も。でも言えなかった。結局――」
「気にしてないよ」
何か余計なことを言いそうだったので、私はケイの言葉を遮った。視線はアコギをかき鳴らす女の人に向けたままだった。
しばらくしてケイが「嘘じゃんね」とぼやいたので、私は「当たり前だよ」と笑った。
「でも来てくれたでしょ? それで良しとしましょう」
ケイは黙ってしまう。私から聞いたほうが早そうだった。
「それで、あの時サキちゃんの事をミセス・ウィークエンドに報告してくれたんだね」
「その事だけどさ、わたしは報告、してないんだ。
あっちから連絡、来たんだ。ちょうどそうしようと思ったのと同じタイミングで。
“危険なバグり方してる女の子を喫茶店で見かけた”ってね。んで、“これからしばらくこの子を見守ります。力を貸して下さい”って。サキの事だってすぐ分かった」
「そこから裏で色々やってくれてたんだね」
「そゆこと。でも順番がいつもと違った」
「順番?」
「うん。いつもはわたしが街なかで見かけたバグを報告するんだ。んで、“誤ったつながり”って奴を調査して、必要ならミセス・ウィークエンドがそれを断つ。
バグのほとんどは自然消滅するんだ。悪い事も良い事も、ほぼ起こらずね。だからそこまで発展したのは見たこと無かった。
けど無視出来なくなる時もある。
ま、それも大抵のバアイは、バグの元凶とあの人が“つながって”話して、「あっちの世界」に帰ってもらうだけだけどさ。なんか……「除霊」っていうか「説得」って感じ。
少なくともあの人から来る最終報告には、いつもそう書いてあった。わたしは見えるだけでバグに直接干渉できないから、さ。
自分の仕事が終わった後、それがどうなったかっていうのは、あのばあさんからの連絡でしか分かんないんだ。
だからいつもと違ってあの人、最初からサキに会いにきたじゃん? 意外だったよ。まあ確かにアレは危険そうだったけどさ」
「そうだったの?」
私は遠くで音を響かせるアコギに向かってそう聞いた。ケイが「色で分かるんだよね」と言った。
「"誤ってつながってしまった”人や物にはブロックノイズがちらつくんだ。ゲームのドット欠けとか、テクスチャの欠損とか――ま、そんな感じの見え方。
サキのバグは赤かった。赤いドットノイズみたいなのが身体のあちこちにチラついてた。フツーのバグには色がない。白黒とか灰色とか。
まあその状態から危険なバグになる事もあるみたいだけど――最初から赤いのはガチ危険」
「全然知らなかった。教えてくれても良かったのに」
「ごめん」
私はまた大きな声で笑いそうになったので、ツボに入る前に話を進めることにした。
「じゃああの占いもミセス・ウィークエンドとケイの計画だったんだね」
「いや、あれはあの人の独断」
「あ、そうなんだ」
「それなんだけどさ。あの時、実はお互い気づいてなかったんだよね。わたしがアルバイトで、あの人がミセス・ウィークエンドだって」
「え、じゃあ二人が揃ったのって偶然?」
「わりと」
「マジかよ」
「マジだよ。向こうは今でさえ気づいてないっぽいし。
サキが手話で会話した時、あの人が週末婦人って呼んでほしい、って言ったじゃん? それでピンときた。
それまでは何か随分怪しいばあさんだなあ、としか思ってなかった」
私は、ミセス・ウィークエンドの言っていたことを思い出す。アルバイトさんとは、ウェブチャットでしか会話をしていないと言っていた。風貌も知らないみたいだった。
「え、でもバイトなんだから履歴書とか送らなかったの? それにLINEだって――」
「送った。PDFで。でも写真無しだった。
それにほら、サキが言ったじゃん。LINEの名前、偽名にしようって。そもそもサキとツムギがこっち呼んでも、“ケイ”ってあだ名だし。
わたしもあの人のこと、ほぼ知らないんだ。チャット上でも仕事以外の話、ほぼしないから。
耳聞こえないとか喋れないとか、実は外国人とか、ゲームが好きとか、あの時、初めて知った」
井之頭五郎――ここしばらくのケイのLINEの表示名が頭をよぎった。合点がいった。
「途中であの人に言わなかったんだ……え、なんで?」
言ったらいいじゃん。素直にそう思った。ケイは少し間を置いてから、呟くように話した。
「なんか、自分でも上手く言えないんだけど――怖かった」
「怖かった?」
私が同じ単語を繰り返すと、ケイははにかむように「うへへ」と声を出した。ちょっと気持ち悪かった。
「なんかさぁ、そうだなぁ……外科医ってさ、身内の手術しないって言うじゃん?」
「うん」
「そんな感じ」
……そういう事だった。何を言っているかは分からなかった。けど何を言いたいかは何となく分かった。
私は「ようするに――」と言った。
「――上手く行くものも上手く行かなくなるかも、って思った?」
「そゆこと」
そゆことだった。
「ホントはさ」と、しばらくしてケイが言った。
「もっと早く二人には言うつもりだったんだ。今言っても説得力無いけどさ」
「アルバイトのこと?」
「うん」
「いつからやってるの?」
「高校入ってすぐ。4月にはもうやってた。言えないまま今日に至ってしまったよ」
彼女はため息をついた。
「別にどんなバイトしてるかなんて言わなくてもいっか、って思ってた。でも今回の事が起きて、こりゃ言わなあかんなって思ったんだ。
でも正直に言うとさ、いざそうしようとすると、どんどん怖くなったんだよね。ツムギのあのばあさんを見る目、険しくなってくしさ。まあ言い訳さね」
「そんな目、してた?」
「ケッコーね。それで、話したらなんだか後戻り出来なくなりそう、ってさ。なんかこう、致命的な部分が変わっちゃうんじゃないかって、そんな感じ。
でもそうしてる間にもサキのバグもどんどん酷くなってく。何だか良く分からんくなってった」
私は何も言わなかった。
「だから毎日、ばあさんの指示以上に動いた。細かい事はあんま言わないけど」
「言いたくない?」
「言ったらズルい気がするから、やだ」
「もう充分ズルいよ」と私は追求した。
「言いなさい」
私がそう言うと、ケイはくつくつ笑った。
「夜更けになると"仕事”が専用チャットに来るんだ。夜の方が痕跡を辿りやすい。何でかは知らないけど。
ここ二週間くらいは痕跡を辿る仕事。サキのやつの。何回かおんなじような事やってたけど、フツーの時は夜の10時くらいから始めて、午前0時くらいまで調査する。
今回はお金欲しいから残業するってあの人に言って、しばらく午前4時くらいまでやってた」
彼女は一旦言葉を区切った。それから呆れたような口ぶりで「そりゃ目のクマも取れないですわな」と付け足した。私は「そりゃそうでしょうよ」と言った。
「きみはじつにバカだなあ」
私が有名な猫型ロボットのように言うと、隣から「怪鳥の鳴き声」が一瞬だけ聞こえる――何とかそれをこらえつつ、ケイが言った。
「9月の時も似たような気分になったよ」
「……もしかしてあのバグ技って」
「そ。あれ、わたしがいくつか知ってる「向こうの世界」と“つながる”方法のひとつ」
「幸田さん達が考えたやつじゃ?」
「……と、わたしが言い出したやつ」
「あ、思い出した」
そうだった。私があのバグ技を喫茶Paradisoで知ったのは、ケイがそう言っていたからだった。
あの時、近くのテーブル席にいた幸田さんと、彼女の部活仲間がふざけて考えた七不思議――それを盗み聞きしたというケイが、面白半分で私に伝えてきた。そういう体になっていただけだったようだ。
今度は私がため息をついた。続けてケイが言った。
「セフィロスのアミーボはわたしの家にあったやつ。ツムギと別れた後にガッコに置いた。ギリ侵入にならなかった。運が良い」
「でもシャーペンは?」
私は疑問を口にした。あのバグ技に必要なものはふたつあった。学校の指定箇所に置いたセフィロスのアミーボと、シャープペンシル。ケイはためらうように言った。
「あのシャーペンは……、これ言ったらフクザツな気分になるだろうけどさ。あれはツムギが自分で持ってきたヤツ」
「そんな記憶無いんだけど……」
「"誤ったつながり”っていうのは、そういう事も引き起こすんだってさ。ばあさんが前、言ってた。自分の意思と違う事やったり、行動した記憶が無かったり」
「という事は……」と、私が思ったことを口にしようとすると、ケイがそれを代弁した。
「そゆこと。ツムギはあの時バグってた」
「マジかよ」
「マジだよ。コレ、二回目じゃんね。ま、いいや。あの時はバグり方が害の無いやつだったんだ。緑色だったからさ」
「緑色?」
「緑は良い“誤ったつながり”を示す――何かめっちゃムジュンしてるけどさ。ようは害が無いってこと。ケッコー珍しいらしいよ。だから手、貸した。ミセス・ウィークエンドに無断で」
「無断だったんだ」
「もうあの人も知ってるみたいだけど、ついこないだまで知らなかったはずだよ。誰が用意したのかはまだ知らないっぽいし。ツムギのバグも自然消滅したって事になってる」
「何でバグ技、教えてくれたの?」
「……なんでだろ」
ケイはしばらく考えているようだった。アスリート・ミュージシャンを見続ける私のその視界の端で、腕を組んでゆっくりと左右に頭を振る彼女の姿がチラチラした。やがてケイはゆっくり言った。
「何となくさ。ツムギがそうしたいんだろうな、って思ったんだ」
……そゆことらしい。
私はストリート・ミュージシャンが歌うのを、飽きもせず眺めた。彼女はYUIの『ドライビング・ハッピー・ライフ』を歌っていた。
私はある時、無意識に「ケイ」と呼んでいた。「ん?」と彼女が言った――なので私は続けることにした。
「ありがと」
彼女の顔は見なかった。返答はなかった。それで良いと思ったし、それが良いと思った。
それから二人ともしばらく何も言わなかった。やがて時間が来た事をケイが告げたので、私たちは場所を移動した。
「あちら側」へ
9時55分。私たちは歩道橋から数分歩いた地点、YC駅前ビルの跡地の傍にたどり着いた。
献花やお供え物が、敷地を囲うフェンスの足元に置いてある。数日前ここに来た時とほとんど同じ光景。
周囲の歩道では人々が行き交い、背後にある大きなY字路では、大小様々な車が音を立て、列を成しながら動いている。
さっきより遠くになったストリート・ミュージシャンの歌声とギターの音色が、往来の雑多な音に混じって僅かに聞こえてきた。
私の隣でフェンスに向かってジト目を投げかけるケイが、やがて口を開いた。
「ここから“向こうの世界”に入る。準備は良い?」
私は唾を呑みながら頷いた。首の根本に力が入りすぎている。およそロボのような動作だった。その様子を見たケイが笑いを堪えながら言った。
「それじゃ……手順を……説明――するから(ここで彼女はこほんと咳払いをした)。このメモ紙の通りにやって」
ケイが小さなメモ紙を渡してきた。そこには雑な、走り書き一歩手前の字でこんな事が書いてあった。
あちらの世界へ行くバグ技(データ破損の恐れあり! 自己責任でお願いします!)
①YC駅前ビルの歩道橋下にある電話ボックスに入る。
②受話器を取って、自分のスマホに電話をかける。
③受話器を耳に当てたまま、6コール目で自分のスマホに出る。
④スマホに向かって「今何時ですか?」と訊ねる。
⑤6秒後にスマホ側から電話を切る。
⑥電話を切った後、「ツーツー」という音を6回聞いてから受話器を元の位置に戻す。
⑦電話ボックスから出る。
⑧地上と歩道橋を繋ぐエレベーターに乗り、地階→上階→地階の順に乗ったまま移動する。
⑨再び電話ボックスに入り、自分のスマホに電話をかける。
⑩6コール目でスマホに出る。
⑪受話器を耳に当てながら、スマホで「10時1X分です」という。Xの値は現在時刻でOK
⑫受話器を置いて、5秒後に目を閉じながら電話ボックスを出る。
⑬ウラ技成功!
「……これ本当にしなきゃダメ?」
メモ紙を読み終えた私は顔を上げ、少し呆れてそう言った。
「なんかヤダ」
私が駄々をこねるとケイが「ダメ」と即座に物申す。
……他の方法はなかったのだろうか。まあいいや。しょうがない。
私は諦め半分で早速、背後にある歩道橋下の電話ボックスに歩いていく。その途中でケイが「お~い、ちょっとちょっと」と声を上げた。
私が立ち止まって振り返ると、彼女はため息をついて警告を発した。
「順序。これから注意点伝えるから。それからじゃん。その後にやってよ」
「すみませんでした……」
私が謝ると、彼女は姿勢を正してレクチャーを始めた。相変わらずの気だるそうな調子で。
「はい、ルールその1。“向こうの世界”に行くって事は、向こうと“誤ってつながる”って事。
平たく言うと、わたしたちは今から間違った事をする。わたしたちが向こうに行くってことは、“間違った事”。それ、忘れないようにして」
ケイは私が頷くのを確認してから続きを話した。
「で、ルールその2。向こうに行ったらしばらく動かないこと。わたしがツムギの後からすぐ追っかけるから。わたしが来るまで、その場から動かないで」
私が「分かった」と返事すると、ケイが「よろしい」と得意げに咳払いをした。
「最後、ルールその3。“向こうの世界“に行ったら、多分このビルがまだ建ってるはず。何でかは知らないし、聞かないで。そういう物だから。
んで、その中に入ってサキを探す。けどわたしとはぐれないで。絶対。もしわたしが別行動を取ろうとしたら、その時は割とピンチの時だと思って」
「ピンチ?」
「――まあ、ルールその3は念の為だよ」
何か含みのある言い方だった。言外の意図を感じる。それとは別にひとつの疑問が湧いた。
「もしピンチになったら、私はどうすればいい?」
私が質問すると、ケイは首を横に振った。
「ソッコー帰還。リタイアして」
「でもサキちゃんが――」
私が食い下がると、彼女は珍しく強めの口調で「ダメ」と遮った。
「とにかくダメ。そうなったら中止。後はわたしが何とかする」
「……分かった。でもどうやってリタイアすればいいの?」
私がそう訊ねると、ケイが一枚のコインを手渡してきた。不思議に思ってそれを指でつまんで眺めていると、ケイが言った。
「これを上に向かって指で勢いよく弾いて。それから落っこちてくるコインを手のひらで受け止める。そしたら、入ってきた場所から"こっちの世界”に戻ってこれる。
表がこの『ミセス・ウィークエンドの満面の笑み』で、ウラは『両手でメタルポーズをキメるミセス・ウィークエンド』
“向こうの世界”では必ず表が出る。“こっちの世界”では必ず裏が出る。帰還用アイテム」
私が試しにコインを指で弾くと、裏が出た。何度やっても同じだった。不気味だった。
「なんかヤダ」
私が苦言を呈すと、ケイは「我慢しなさい」と言い捨てた。私は無理やり納得した。
私がコインの表裏をじろじろ眺めて、トリックが隠されているに違いないと怪しんでいると、ケイが「念の為言っておくよ」と告げた。私は彼女に顔を向ける。
「さっきツムギがリタイアしたらわたしが何とかする、って言ったけどさ――ジッサイ出来ないんだよね、それ」
「どういう事?」
「ミセス・ウィークエンドが言ってた。サキを見つけるのはツムギにしか出来ないって」
「え、なんで?」
私はひどく動揺した。ケイは話を続けた。
「分からなくていいよ。ただ、そういうものなんだって知ってれば良い」
「はあ」
「実を言うとさ、わたしも良く分かってないんだ。向こうの事も"つながり”の事も、そこまでちゃんと理解してない。たださ――」
彼女は言葉を切った。
「ツムギにはそういう力があるんだって」
「ちから?」
「そ。ミセス・ウィークエンドは"誤ってつながる”力を持ってる。同時にその"誤ったつながり”をある程度、あーだこーだ出来る力も持ってる。
わたしにあるのは“誤ったつながり”を見つける力。それだけ。で、ツムギには――」
また言葉が途切れた。ケイは私をまっすぐ見つめた。気だるそうなジト目に、僅かな力強さが混ざっていた。
「――"つながり”を紡ぐ才能があるんだってさ」
私は言葉を失った。自分に突如として告げられた才能。ずば抜けた計算能力とか統率能力とか、そういう現実的な才能が欲しかったよ、と私が思っていると、ケイがニヤリと笑った。
「“正しいつながり”も“誤ったつながり“もひっくるめて、“正しく紡ぐ”。その才能がツムギにはあるんだってさ。ね? 意味分かんないでしょ?」
「確かに」と私は困惑しながら相槌を打った。
「二人のと比べて全然、具体的じゃない」
「そのとーり」
ケイが言った。
「でもさ。そんなだからサキを探し出せるのはツムギだけ。あのばあさんじゃなく、わたしでもなく、ツムギにしか出来ないこと」
名は体を現す――昨日ミセス・ウィークエンドと会って話をした時、彼女が最後にそうメッセージを送ってきた事を思い出した。
ケイは諭すように口を開いた。
「だからわたし一人じゃムリ。ツムギがリタイヤしないように、わたしが何とかする。ツムギが上手くたどり着けるように、さ」
――結局の所、私は自分の持つその才能とやらについて、まるっきり理解出来ないままバグ技を実行することになった。
頭がおかしくなりそうだった。昨日から続く情報の洪水に脳が拒絶を起こしていたという話でもあるし、単に私の理解力不足だという話でもあった。
それ以上に、実感が沸かないことがそもそもの原因だった。
若くして数学の難問を解いて見せる――素晴らしい才能だ。
突然始まったセッションに容易く合流して、流暢なアドリブを決めてみせる――素晴らしい才能だ。
つながりを正しく紡ぐことが出来る――はて、これは一体?
私は公衆電話に入って受話器を取り、投入口に10円玉を入れている最中、ずっとこのような事を繰り返し考え続けていた。
エレベーターに乗って1階と2階を行ったり来たりしている時には、より具体的なイメージで才能について考えていた。
電話を経由して自分自身に時間を訊ね、目を閉じたまま電話ボックスから出た時には、もう何も考えられなくなっていた。
目を開けると、そこには灰色の世界が広がっていた。
灰色の世界②
私は歩道橋上の広場にいた。背後を振り返ると、ついさっきまで私がいたはずの電話ボックスが無い。それはここのちょうど真下、歩道橋と歩道を繋ぐ為にハの字にかけられた二つの階段の下にある。
理由は分からないが、どうやら「あちらの世界」に移動した際に位置がずれたようだった。
私が立っている所が、私の知っている世界と違うであろう事は明らかだった。私はその場に留まってゆっくりと辺りを観察した。
私たちが時間を潰していた駅前のこの歩道橋広場――ほんの10分前まで私がいた場所。その奥にある改札口と大きな駅施設。地上には大きな車道が横たわっていて、Yの字に三方向に伸びている。歩道はアーケードの軒が続いている。そのうちのひとつにバーガーキングのロゴが見えた。
どれも馴染み深い光景だった。幾度となく通った町並み。ついさっきまで見ていた風景。
それは間違いなく、私のよく知っているYC駅前の景観だった。
――私の目に映った景色の一切から、色彩が抜け落ちているという一点を覗いて。
どこを見ても同じだった。目の前の広場も、足元の道路も、駅も、バーガーキングのロゴも――その何もかもが白と黒のコントラストで表現されていた。頭上を見上げると、白一色に塗りたくられた空が広がっていた。
まるで昔のゲームのようだ、と私は思った。マシンスペックの関係でどうしても色が付けられなかった時代の、ドット絵で作られたゲームの世界――そんな無機質で簡素な光景。
私自身は色を保ったままだった。その事実がなおの事、不自然さを際立たせる。
この世界に存在するものと私とを決定的に隔てる差異だった。それをまざまざと見せつけられているようで、落ち着かなかった。
この世界においては、色を持って動く自分の方が異物なのだろう――そのような考えが私の胸に鋭く刺さり、焦燥感を煽った。
周囲は恐ろしく静かだった。街の喧騒も車の走る音も、風の音でさえも聞こえなかった。
下の広場にいたはずのストリート・ミュージシャンの歌声やギターの音も、当然のように存在しなかった。
完全な無音。自分の立てる衣擦れの音や、靴が地面と擦れる音といった僅かな物音が不異様なほどに響いた。そして私は、この世界に動くものがどうやら私しかいないという事に気がついた。
誰一人、存在しない世界。それにも関わらず、この世界は私たちの存在を仄めかしている。建造物という人間の営みの成果だけが、私を見下ろすようにそびえ立っていた。
灰色の世界――それは境界の曖昧な世界でもあった。モノとモノの間にある線が、上手く認識出来なかった。どこからどこまでがその物体に帰属するラインなのか、その判断が付かない。
それは私たちの生きる世界に対して、誰かが導き出したひとつの回答のようにも見えた。誰かの目に映る、私たちとは異なる解釈で見た世界。
その人には世界がこう見えている――そのような異質な思想が、形を持って提示されているようだった。
そんな事を考えていると、私は次第に胸騒ぎがしてきた。自分がひどく場違いな存在だという不安が少しずつ強くなる。
間違っている、と私は実感した。ケイが言っていたことは本当だった。私はここにいるべきではなかった。
それと同時に、奇妙な居心地の良さを感じている自分がいることにも気がついた。不思議な感覚だった。こんな気持になったのは初めてだった。
それがどんな意味を持つのかは分からなかったし、ひとつずつ紐解いてみる気にもならなかった。
私はこの相反するふたつの感覚を抱きながら、ケイの到着を心待ちにした。
間もなくケイが音も無く現れた。
目の前の何も無い空間に突然人が現れるさまに、私はびっくりしてしまう。
しかしすぐに安堵がやってきて、私は息継ぎにも似た感覚で彼女の名前を呼ぼうとする。するとケイは人差し指を口元で立てて、沈黙を促した。
私が疑問に思っていると、ケイがスマホを取り出して操作を始める。少しして、私のスマホが震えた。ケイが立てた人差し指を私のポケットに向ける。スマホを取り出すと、ケイからLINEが来ていた。
【言い忘れてた。ここでは無闇に声を上げないで。そんなに大きな声じゃなければ大丈夫だと思うけど】
私がスマホの画面に釘付けになっていると、彼女は続きの文面を送ってきた。
【あいつらに気づかれる】
【あいつら?】
私はケイにLINEを送った。それからこうも送った。
【というか、この世界スマホの電波届くんだね】
【そうみたい。理由は知らんけど。で、あいつらっていうのは「向こうの世界」にいる「何か」の事】
【ナニソレ】と苦い顔をケイに示しながら伝えると、既に彼女は画面に向かって次の文面を打ち込んでいる最中だった。
【あいつらを正式に示す言葉は無い。名前が付いてないってこと。正体も良く分からない。だからわたしたちは単に「何か」とか「あいつら」って呼んでる】
【どんなやつ?】
【見た目も個体によってバラバラ。大体のヤツは人みたいなんだけどそうじゃない、みたいな姿。
敵意とか害とかがあったり無かったり、それもマチマチ。この前会ったヤツはお菓子くれた。流石に食べなかったけど。
まあ滅多に出くわさないから大丈夫だと思う。でも用心するに越したことない」
【危険かもしれないヤツってこと?】
【そう。色んな仮説がある。“つながり”を失った事が認められない「元人間」とか、この世界で生まれた生き物とか】
“つながり“を失う――それは私たちの世界で死を意味する。ということは――
【死んだことが認められない人の成れの果て?】
【っていう仮説もあるってだけ。詳しいことはわたしにも、ミセス・ウィークエンドにも分からない。けどそういう事になってる】
そうLINEを送ったケイは私を見て肩をすぼめた。私はLINEでまた質問を投げかける。
【じゃあ害のある「何か」に見つかったら、どうなるの?】
返信が来るまですこし時間がかかった。ケイは適切な言葉を探すように、スマホの画面を凝視していた。やがてLINEが届いた。
【一度だけ見たことある。この「向こうの世界」に迷い込んだ人がいてさ。その人を助けに行った事があるんだけど。
その人は「何か」に襲われて、"つながり”を奪われたんだ。「何か」も本来は白黒の姿なんだけど、その時色がついたんだ。わたしたちの世界の存在みたいに。つまり、どうなるかって言うと……分かるよね?】
私はメッセージを送らなかった。その人の末路を聞く気にもなれない。もう充分だった。
【やっぱこのビル、あるね】
何かを察したケイが話題を替えた。振り返って私に背中を見せ、視線を上に向けている。私がスマホを手に持ちながら同じように顔を上げると、YC駅前ビルがあった。
一年前の火災で消失したはずの、四階建ての商業施設。
まだ無くなってから一年しか経っていないというのに、私は懐かしさで胸が一杯になった。
ここには色々な思い出がある。
中学生の頃、当時の友達たちと二階の服屋で買い物をしたこと。
一階のゲームセンターで遊んだこと。
三階の100均で夏休みの自由研究に使う虫かごを買ったこと――どれも昨日の事のように思い出せた。
そのビルの入口は一階と二階にある。一階から入る場合はゲームセンターとパチンコ店に挟まれた狭い通路を通っていく。
二階からは、この大きな歩道橋から直接入ることが出来る。その入口は目の前。当時と何も変わらない、今は無き古い道。
ケイが目線で合図するのをきっかけに、私たちはビルに向かっていった。ここにサキちゃんがいる。駆け出したくなる衝動を抑えながら、私は入口の大きな扉を押した。
ビルの内部にも色の無い風景が広がっていた。
見知った景色なのに、色がついていない――何だか新鮮な気分だった。
そう思って辺りを観察していると、突然、私はこの光景に強い既視感を覚えた。私はどこかでこの景色を見たことがある。どこで見たのだろう?
少し考えたが思い出せなかった。さして重要な事では無かったので、私はその事を棚上げして、隣にいるケイにLINEを送った。
【どこへ行けば良い?】
【それはわたしには分からない】
【え、どうすんの?】
【それはツムギが知ってる事だよ】
私が思わず左にいるケイに顔を向けると、彼女のジト目がこちらを見ていた。目が合うと少ししてからケイが小さく頷いた。少し間を開けて、ケイが自分のスマホの画面をこちらに見せてきた。画面には文字が打ってあった。
【“紡ぐ”んだよ。カンでいいからさ】
私は思い切り首を左右に振った。
【やり方分からないよ】
【直感だよ。決して諦めるな、自分の感覚を信じろ】
それは古いゲームに出てくるセリフだった。決して諦めるな、自分の感覚を信じろ――『スターフォックス64』の仲間キャラであるペッピーが、操作キャラであるフォックスに送る激励の言葉。
こんな状況でそんな言葉を投げかけられるとは……そんな事思ってもいなかった。
私はどこか間の抜けた感じになった。
弛緩した空気の中で、ケイがニヤリと口角を上げた。仕方がないので、私は言われた通りに直感を信じてみることにした。
目を閉じて意識を集中する。
――私の直感は最上階を示した。
【四階。レストランとかあるところ】
私がスマホでそう宣言すると、ケイが返事を送った。
【間違いない?】
【多分】と私は送った。すぐに不安にかられた私は、【きっと】【恐らく】【だといいな】と連続でLINEを送り続けた。それを見たケイは急に真面目ぶって【なら急ごう】と送ってくる。
【今ミセス・ウィークエンドからも連絡あった。もう儀式、いつでも始めれるって。サキ、見つけたらこっちから連絡くれってさ。早く見つけないと】
そういう訳で私たちは駆動音ひとつ立てずに動き続ける、一人分の幅しか無い小さなエスカレーターに乗って二階に上がった。二階には100均がある。
……そこにはサキちゃんがいた。
彼女は階下からやってくる私たちを見つけると、満面の笑みを浮かべて手を振った。
私の直感は割と簡単に外れた。
……一階でのやり取り、何だったんだアレ。
サキちゃんの元気そうな姿を見た私の頭の中には、ペッピーおじさんのありがたいお言葉が空虚にこだましていた。
ドロップキック、再び
私は笑顔でサキちゃんと対面した。ケイも心なしかほっとした表情を浮かべている。
サキちゃんは案外けろっとした様子で、エスカレーターから上がってくる私たちに気がつくと、大きく手を振った。白と黒で構成されたモノクロの背景の中で、色彩を持って動く彼女が眩しく映った。
近くに寄って彼女を見ると、怪我もなく無事である事が分かった。顔色も良さそうだった。ここ数日の容態を思うと、尚の事安心だった。
再会を喜ぶのもつかの間、ケイがスマホの画面をサキちゃんに向けた。この灰色の世界での注意点が書いてあるのだろう。サキちゃんはそれを一読すると、口を固く結んで、口元で人差し指を立ててみせた。
私が三人のグループLINEに【無事で良かった!】と送ると、彼女もスマホを取り出してグループLINEにメッセージを送った。
【迎えに来てくれてありがとう】
私はこの三人のグループLINEに向けて、【早く帰ろう】と送った。ケイが返事の代わりに例の三国志のスタンプ(「ウム!」とモブが言っているヤツ)を返した。
サキちゃんが【オッケー!】と送ってきたのを確認すると、ケイが私たちを寄り合わせてひそひそ声で言った。
「それじゃあ、サキにもコイン渡すから。ツムギがやるのとおんなじようにして】
少しあっけなかったな、と思った。普通こういった試練には苦難が伴うものだ。
日常の裏に潜む、未知なる世界の冒険。
その幕切れを迎えるにしては起伏に乏しかった。単にこの世界を訪れて、ちょっとお散歩して、そうしたら順当に目標を達成してしまった。
これではもはや、散策だった。おでかけして帰ってきただけ。
まあでも、これで良いのだろう。長くここに留まること自体が危険な事なのだ。
私がそう思っていると、帰還用のコインを手渡そうとしたケイの手が止まった。
彼女はコインを手に持ったまま、長い間サキちゃんと私を交互に見やった。それから上着のポケットにコインをしまい、彼女はLINEを通してこう伝えた。
【ごめん、トイレ行ってくる】
……まじかよ。
【この状況で?】と、私がLINEでクレームを入れると、ケイがそれを無視して離れていこうとする。
……随分余裕なものだ。私がやれやれと肩を落とすと、サキちゃんは楽しそうに笑った。すると突然肩を叩かれた。振り返るとケイがいた。
彼女は私を真っ直ぐに見つめていた。何か言いたそうな、あるいは何かを言い忘れたような、そんな目つきだった。私が屈んでから小声で、「はやく行ってきなよ」と言うと、彼女は私の後ろにいるサキちゃんを一瞬見やってから同じく小声で言った。
「スマホから目を離さないで。何かあったら大声で呼んで」
それから彼女は、あまり足を持ち上げない幽霊のような足取りで、早足気味にふらふらとこのフロアにあるトイレに向かっていった。
ケイの姿が見えなくなってすぐ、私は何となく居心地の悪さを感じた。原因は分からない。きっとこの世界の無機質さにやられたのだろう。何処を見ても白と黒――きっと一日中ここにいたら参っちゃうだろうな。
そう考えると、今まで抑えてきた不安が全身に広がった。気が緩んでいるようだった。私は気晴らしにサキちゃんに小声で話しかけた。
「もう大丈夫? 具合悪かったりしない?」
私の心配を他所に、サキちゃんは満面の笑みでグーサインを出した。
――何となく変だなと思った。
彼女が声を出さないでいるのは分かる。さっきケイから伝えられた注意点が彼女をそうさせているのだ。
声をあげると「何か」に見つかるかもしれない――きっと自分の声が大きい事を自覚して、不注意で声量を見誤る恐れから、いっそ一言も話すまいと決めたのだろう。
私が違和感を覚えたのは、サキちゃんの表情だった。彼女は確かに、事あるごとにオーバーな仕草やリアクションを取る。だからこういった大げさな笑いも、彼女との会話の中ではしばしば登場する。
でも目の間のこの笑顔からは、いつもの彼女の表情から伝わる物とは何か別の物が感じられた。
――正確に言うと、「何も感じ取れない」事に引っかかりを感じた。私は違和感の正体を推し量ろうとした。深く考えてみたが、答えらしい答えにはたどり着かなかった。
不確かな収まりの悪さ。サキちゃんは何かを隠している。私のひどくアテにならない直感がそう告げていた。
私が彼女にそれを伝えられずにいると、右手に持ったスマホが震えた。画面を見るとケイからだった。三人のグループLINEではなく私個人に宛てたものだった。
タップして内容を確認すると、画像が貼ってあった。ガタイの良い黒人が目を見開いて、驚きの表情をこちらに向けていた。下に彼女からのメッセージが添えられていた。
【画像でボケて】
あいつは何をやっているんだ。サキちゃんが見つかった嬉しさのあまり、浮かれすぎて頭がおかしくなってしまったのか。
私がそう思っていると、次に【※真面目にやってください】と送られてきたので、私は天を仰いで助けを求めた。いつもの通り、誰も助けてはくれなかった。
私がため息をついてサキちゃんを見ると、彼女は微小を浮かべて首を傾げた――その姿に、私はまたしても違和感を覚える。不信感と言い換えても良かった。私は自分の直感に従って、しばらく彼女を見続けた。
いつものサキちゃん……のように見えた。金髪のポニーテール、好印象しか与えることを許されなかった罪深い顔つき――服装は以前にも見たことがあるものだった。
薄いピンクがかったチェスターコートと白いタートルネックのニット、それから水色のロングスカートと白いスニーカー――私は言いようのない悪寒に襲われた。ある予感が頭を過った。
その可能性を否定したくて、私が慌ててサキちゃんの顔を見ると、彼女は呑気そうに私を見つめ返してきた。
私は覚悟を決めて、ケイにLINEする事にした。半分ヤケになってもいた。私がスマホを覗き込むと、先程のびっくりする黒人の画像と目が合った。
この画像にふさわしいボケを考えなくてはならなかった。そうしなくては先に進めなかった。何故そうするかは重要ではない。ただひたすらに、どうボケるかを考えなくてはならなかった。
私はもはやこの世のものとは思えない、ありえない程面白い、抱腹絶倒間違いなしと思われる一言を画像に添えて送ってやった。
恥ずかしさを紛らわすために、サキちゃんに苦笑いすると、彼女も同じ様な表情を返してきた。一瞬、彼女の顔にノイズが走り、右半分が不自然に横に大きく伸びたように見えた。
その時、フロアの隅の方から大きな音が聞こえた。静寂に包まれたこのビルを切り裂くような物凄い音。名前も聞いたことのないような怪鳥が、生涯の最後に上げる悲鳴のような鳴き声。
私はこの声の正体を知っていた。サキちゃんもそうだった。彼女は目を見開いて、慌てふためいてグループLINEにこう送った。
【何があったの!? 大丈夫!?】
それからサキちゃんはこうも送った。
【あの声、きっと何かあったんだよ! 見に行こうよ!】
グループLINEに送られたそれは、私個人に向けられたものだった。
私はまたサキちゃんを見た。いよいよ疑念は確信に変わった。私は後退りするようにサキちゃんと距離を取り、彼女の動向を窺った。困惑する彼女は一向に動き出さない私を見て、更に困惑を深めた。
違う。あの怪鳥の鳴き声、あれはケイの笑い声だ。ツボに入った時に出る、マジの笑い声。本人が気にしているらしい個性の賜物。そしてその事は全部、サキちゃんも知っている。
私はまた一歩後ずさりしながら険しい顔を作ってそれに指摘した。
「そのスニーカー。なんで履いてるの」
彼女は靴を履かずに自室から消えた。裸足のハズだった。あるいは靴下くらいは履いているかも知れないが、靴を履いているのはおかしかった。
私の問いかけに、サキちゃんは何を言うでもなく満面の笑みで応じた。さっき再会した時に見せたあの笑顔。だが今やそこから受ける印象は全くの別物だった。
無邪気で人を惹きつけるくせに――違う。何の中身も伴っていない空っぽの笑み。
上っ面だけの、見よう見真似で拵えた贋作がそこにはあった。
私の背筋が凍りついた。上手く息ができない。声を出そうと思ったが、上手くいかなかった。辛うじて出たのは意味を伴わない、言葉未満の強張った吐息だけだった。
私はケイの言葉を思い出した。ケイが別行動を取ろうとした時、それはピンチの時だと。
思いを巡らせている間にも、サキちゃんはゆっくりと私に近づいてくる。
その分だけ私は後ろに身を引いて、何とか逃げるスペースを確保しようとした。
大丈夫。対処は可能だ。私は身構えながら、目の前にいる“サキちゃんらしきモノ”を見据えた。
それが五歩目に差し掛かった瞬間、私の右肩を突風が通り過ぎた。誰かが近くを疾風のごとく駆けたのだ。
目にも止まらぬ疾走。
その風の「背中」は、すごくちっこかった。
ケイだった。
数日前に見た光景がフラッシュバックする。疾風はサキちゃん目がけて突進し、あの時と同じようにその勢いの全てを叩きつけた。
ドロップキック。彼女の全体重を乗せた渾身の一撃。
勢いよくそれが吹っ飛ばされる。きりもみ回転しながら宙を舞うその哀れな体は、着地と同時に見たこともない人物に変わった。見たことも無い「何か」に。
対峙
ケイに蹴り飛ばされた「何か」は力ない様子で横たわっていた。脱色された世界の、灰色の床の上でぐったりするそれを遠巻きに見ながら、私は言った。
「これがさっき言ってた?」
「そ。何かってやつ」
ケイは体勢を整え、私の前に立った。
「こいつ、色がある」と、彼女が言った。
「何処かで誰かの“つながり“を奪ってきたんだろうね。今度はわたしたちの“つながり”も取ってやろう、なんて考えかね」
「それってもしかして――」
私が最悪のケースを話そうとすると、ケイが「変な事聞くけど」と遮った。
「――ツムギさ。今でも、何となくサキが四階にいるような気がする?」
私は答えに詰まった。すぐに言葉が出てこなかった。ケイが私の様子を見て、「ゆっくりでいいよ」と言った。
「アレはわたしが見ておくから、さ」
床に倒れた「何か」を彼女が顎で示す。私は深呼吸しながら自問自答した。
やがて答えは出た。
「まだいる……気がする。でも願望かも」
自信は無かった。ケイは「何か」を警戒しながら言った。
「どっちでもいい。大事なのはツムギがそう思ってることなんだ。そう思えるなら、それはホントにそうなんだよ」
私はケイの言葉を頭の中で何度もリピートした。が、すぐには理解は出来なかった。すると、彼女は私の肩を小突いた。
「これも初めに言ったじゃんね。分かんなくていいって。とにかくサキは無事ってコト」
私は深く頷いた。その時、壁際で寝転んでいた「何か」が動き出した。
その「何か」は起き上がってじっとこちらに顔らしきものを向けていた。
目はついていなかった。だが、確実に見られている。そう思った。ケイが一歩前に踏み出て間合いを少し詰める。
「何か」の姿に、さっきまでのサキちゃんの面影は無かった。人の形をしているだけの何か。のっぺらぼうの棒人間。匿名性のかたまり。
私はこの見た目に既視感があった。
美術室に置いてあるデッサン人形。
ターミネーター2に出てくる、液体金属の敵ロボット。
小さい頃にうっかり読んでトラウマになりかけた、エドワード・ゴーリーの絵本『狂瀾怒濤、あるいはブラックドール騒動』に出てくる黒い異形。
――様々な連想が頭に去来した。
その「何か」はサキちゃんのカラーを保っていた。頭らしき部分は黄色だったし、それ以外の各部位の配色も、彼女が着ているであろう服装の色合いだった。
何だか無性に腹が立った。あんまりだと思った。私がきつく「何か」を睨みつけると、ケイが「そゆことね」と言った。
「ようやく分かったよ。多分擬態だよ、あれ。落ちてたサキのスマホから“つながり”を吸収でもしたんじゃないかな」
「っていうことは、サキちゃん本人は無事?」
「さっき言ったじゃん。ツムギがそう思うなら、だいじょぶだって。そゆこと」
そゆことだった。ケイが更に「何か」に向かって一歩踏み出す。
「行って。大きな音出したし、コイツ以外も寄ってくるかも。急いで。後から追いつくから」
私は「何か」から目を逸らさずに、「うん、分かった」と頷いた。
「でも、大丈夫?」
「だいじょぶ。慣れてる」
「……武器とかあるの?」
「いや、ステゴロ」
「マジか」
「マジ」
私は上りのエスカレーターに走った。「何か」もそれに呼応するように駆け出す。それをさせまいと、ケイが回し蹴りを放った。また同じ位置まで「何か」は吹っ飛んでいった。「何か」はさっきと違ってすぐに起き上がる。
今度はケイに標的を変え、じりじりと歩を進めていく。
私はエスカレーターを駆け上がりながら、手すりから身を乗り出し、「気をつけてね!」と言い残して上階を目指した。
四階に着いた瞬間、さっきまで聞こえていた格闘の音が聞こえなくなった。振り返ると、階下に続くエスカレーターの通路が真っ黒に塗り潰されていた。
後戻りは出来ないようだった。
私はフロア全体を歩き回って、サキちゃんの姿を探す。
私は小さく駆けながら、ぐるりとフロアを一周した。ここにはいくつかのお店が出店している。
イタリア料理店、回転寿司屋、ハンバーグ専門店、ファミレス――私はひとつずつ店を回って、サキちゃんを探した。
どこにもいなかった。忙しない靴音だけが、無音の空間に虚しく鳴り響いた。
収穫ゼロのまま、元来たエスカレーターの位置まで戻ってきてしまった。私は焦っていた。あまり悠長にしている時間は無い。いつ新しい脅威に晒されるか分からない。
それに今は一人だ。抗う力の無い私が「何か」と出くわしたら一巻の終わりだ。
今度は店内をひとつずつ見て回ろう。そう思って一歩踏み出した所で、何かの気配を感じた。
右の方からだった。立ち止まって振り返ると、エレベーターフロアに続く道が見えた。
……そう言えばそっちはまだ見ていなかった。
そう思って私が歩いていくと、エレベーターの前で緑色の発光体が宙に浮かんでいるのを発見した。
……私はまた取り留めのない連想の輪を繋げそうになった。が、ようやく今まで忘れていた事を思い出して、思わずため息をついてしまう。
そうだ。この光景は夢の中で見たものだ。灰色のフロアも緑色の発光体も――今から一週間前、ちょうど黒猫レヴナントがいなくなったその日に見た夢に出てきたものだ。
私はこの緑の発光体がこの後どうなるか知っている。不思議な感覚だったが、その確信があった。
そう確か夢の通りなら、ここから人の形っぽくなって――
私がそう思っていると、本当にその通りになった。その発光体はヒトガタに形を変えた。
夢と同じだった。そう次は――
そう、何となく女性のような気がした――私はそんな感想を抱いたのだ。そう思っていると、発光体はその通りになった。
それからこの発光体は右を指さして――
……今度も同じようになった。そのヒトガタは夢と同じように、指で右を指した。そして言った。
「右」
その声は頭の中に直接響いた。
本当に夢と同じ。私は思わず笑いそうになった。その再現性の高さに、ではない。ある事に気がついてしまったからだった。
それは大きく分けてふたつ。まずひとつめ、彼女の言葉の意味。夢の中での私は勘違いしていた。
それは私の右隣りにある壁を指している訳ではない。すぐ奥にある室内非常階段の入口――それを示していたのだ。
もうひとつある。そして愉快さの元凶はこっちだった。それはこの発光体の正体についてだった。
私は何も言わずに彼女の右手にある非常階段に歩いていって、重い入口を開けた。扉をくぐると、私は振り返ってその発光体に笑いかけた。
「ありがとう、ナナミ」
返事は無かった。柔らかい光が顔らしき部分を私に向け、こちらを見据えていた。私が噛み締めるようにゆっくりと扉を閉めると、その隙間から彼女が手を振るのが見えた。
控えめで小さな仕草。記憶と同じ。私は無意識に微笑をたたえていた。
私は躊躇いながらも、小さく手を振り返し、閉まっていく扉の隙間から彼女を覗き続けた。
扉が完全に閉まると、私は耳の痛くなるような無音の中に取り残された。
私は扉に頭と両手を付けて俯いた。片方の頬に涙が伝った。
――私はこの瞬間、曖昧なこの灰色の世界において、明確に一人ぼっちになった。
大丈夫。大したことじゃない。私は袖口で頬を拭い、周囲を見渡す。
非常階段の中は暗く、目が慣れるまで時間がかかった。しばらくすると、モノクロの景色の中に浮かぶ濃淡が、少しずつ把握出来るようになってくる。
この非常階段は何度か利用した事があった。全ての階がこの階段で繋がれている、折り返し式の階段。
目の前の景色も、どうやらその記憶と違わないようだった。手すりや薄暗さも一緒。ただ一点、異なる点があった。
最上階のはずのこの四階に、上の階へ続く階段が用意されていたのだ。
どこに繋がっているのだろう、という興味が湧くその前に、私の頭にある奇妙な考えがよぎった。
――私はこの先に何が待っているか、何となく理解していた。
サキちゃんがいる、と思った。
不可解な感覚だった。正確に言えば、「思った」というより「感じた」という方が正しかった。私はこの階段の続く上階に、彼女が待っている事をほとんど確信していた。
これがケイたちの言う直感なのだろうか。
「分からなくてもいいんだよ」と、ケイに言われたことが頭に響いた。私は迷うこと無く上の階を目指した。
踊り場まで階段を登って切り返すと、サキちゃんがいた。
彼女は階段の段差に座り、壁にもたれて眠っていた。服装はさっき出会ったニセモノと同じだった。
私は少し警戒しながら彼女ににじりよった。私が近づいても反応は無い。
穏やかな寝顔だった。その顔を見て私はまた泣きそうになったが、今度は我慢した。
薄暗くてよく分からなかったが、サキちゃんの膝の上で黒い何かが動いた。真っ黒な影のような塊。私はまた神経を張り詰めた。
正体を見定めようと、私はその何かに顔を近づける。
その何かはもぞもぞと動き出し、突然こちらに顔を向けた。僅かな明りを反射する二つの水晶がそこにはあった。
キレイな緑色をした両の目。なるほど、と思った。私はその黒い塊の正体に、思わず小さく笑ってしまう。
私はしゃがんでそれと目線の高さを合わせた。それからその緑色の目に“いつものように”質問をした。
「サキちゃんの事、守ってくれてたの?」
彼は何も言わなかった。その代わりに大きなあくびをしてみせる。喫茶Paradisoの飼い猫――黒猫レヴナントのご登場だ。
「帰ろう」
私がそう話しかけると、黒猫が「ニャッ」と短く鳴いて肯定を示した。それに呼応するように、眠っていたサキちゃんが目を覚ました。
ホーム・スィート・ホーム
私が起き抜けのサキちゃんに笑いかけると、微笑みが返ってきた。淡い笑顔だった。彼女は立ち上がろうとしたがよろめくので、私は手を取って手伝った。
冷たい手だった。彼女が立ち上がる途中、彼女の膝で丸まっていた黒猫が不満そうな鳴き声を上げて退去した。
サキちゃんはゆっくりと辺りを見回し、徐々に周囲を把握していった。緩まった口元や目元が徐々にはっきりしていく。
時間をかけて状況を理解した彼女は、やがて現状の不自然さや不可解さに気がついた。ある時点を境にサキちゃんは突然、オーバーな驚き顔を見せ、「どこ、ここ!?」と目を丸くした。それからの勢いは一入だった。
「全然記憶ないんだけど!? なんで!? なんであたし、こんな所いるの!? ここどこ!?
あ、そうだ、昨日はごめんね――お母さんから聞いたよ。あたしの事送ってくれたんだって? ああ、これも全然覚えてないや――じゃなくて、ここどこぉ? 暗いし何か周り、色付いてないし――え、足冷たっ! 何であたし裸足なの!? さしずめ東方のチルノじゃん」
こんな調子がしばらく続いた。とりあえず元気そうだったので、私はルールも忘れて大声で笑ってしまう。辺り一面に自分の笑い声が反響した。
「色々あったんだ」と私は涙を拭きながら言った。
「でも説明は後回し。早くここから脱出しなきゃ」
「え、ここヤバいの?」
「割と」
「スラム街?」
「……うん、まあ大体そんな感じ」
「マジかー」
サキちゃんが何故か他人事のような素振りでそう言うと、脇にいた黒猫レヴナントが鳴き声を上げた。
サキちゃんは初め、何が起こっているのか分かっていない様子だった。足元のレヴをただぼんやりと見つめている。
目の前のそれが何なのか、ようやく彼女が理解すると、今度は妙にコミカルな泣き顔を見せ、彼の名前を呼んで抱きしめようとした。
だが彼の方は乗り気ではなかったらしく、かがんだサキちゃんの両目めがけて前足をピンと伸ばし、拒否の意思を表明した。
「どこ行ってたんだろうねぇ」と、サキちゃんがけろっとした調子で言った。
「何か全然元気そうだし、この子」
私は「そうだね」と口元に手をやりながら言った。
「それについても、色々あったんだ」
私のその言葉に彼女はふ~ん、と相づちを打つ。
「話すと長い?」
「長いよ」と私は言った。
「でもその話はあと。今は早くここから出よう」
「オッケー!」
「ケイも来てるんだ。無事だといいけど」
私がケイの名前を出すと、ひとつ下の階の扉が勢いよく開いた。恐る恐る階下を覗き込むと、ケイがいた。
私が呼ぶと、彼女は小さく頷いて階段をひょろひょろと上がってきた。近くにきて、サキちゃんの姿を認めると、ケイは眉をハの字にして言った。
「こいつめ、迷惑かけおって。ここまで来るのにどんだけ苦労したと思ってるのさ」
いつもより語気が強い。漫画だったら頭の上に怒りマークが出ている。本気で心配しているようだった。
いわれも覚えもない批判を浴びたサキちゃんは、しゅんと縮こまって「シィヤシェン……」と反省した。多分、すみませんと言っているのだろう。
私はまた笑いそうになるのを我慢してケイに訊ねた。
「よくここが分かったね」
「あんな爆笑の声、響かせたら誰でも分かるよ。危ないって言ったのに――めっちゃ遠くからでも聞こえたじゃんね」
どうやらさっきの私の笑い声が役に立ったらしい。私は乾いた笑いを上げて言った。
「……あいつは? 大丈夫だった?」
「だいじょぶ」
彼女は力強いサムズアップで応えた。
「分からせてやった」
「……倒したの?」
「ボコボコ。トドメ刺そうとしたら、何度も土下座されたから見逃した」
私はその言葉に胸を撫で下ろす。ちょっと想像と違う結末だったが(あれって土下座とかしてくるんだ)、ともあれこれで一安心だ。
「で、再会の喜びもまあまあにしてさ」とケイが言った。
「ひとまずここから出よう」
私は強く頷いた。そうだ。まだ終わっていない。まだ「半分」だ。まだサキちゃんの“除霊”も終わっていない。
私が気を引き締めなおしてサキちゃんを見ると、彼女は難しそうな顔つきでしきりに首を斜めに振り続けていた。どうやら眼の前に次々に並べられる未知の情報を何とか整理しようと、頭をフルに稼働させているようだった。
やがてサキちゃんは腕を組みながら小さく唸り声を上げ始めた。つむじ辺りから排熱の湯気が上がった……ように見えた。
彼女の処理能力も限界を迎えつつある。あるいはとっくに限界は超えていたのかもしれない。
……無理もなかった。サキちゃんには、ここに至るまで何ひとつ説明がなかった。自分に何が起きているのか、ここがどういう場所なのか――これから何が行われようとしているのか、その一切が彼女抜きで勝手に進行を続けたのだ。
ケイはそんなサキちゃんを無視してスマホを弄っていた。それが終わると、熱暴走を起こして故障しかけのサキちゃんの小脇をつついて、彼女を再起動させた。
ふいうちを食らったサキちゃんが短く高い悲鳴を上げて我に返った。彼女はケイを軽くにらんだが、ケイはそれも無視して上着のポケットから二枚のコインを取り出した。
「今、ミセス・ウィークエンドに連絡入れた。サキが見つかった、って。すぐに“つながり”を断つ儀式が始まる」
ケイはコインを一枚、それからスマホを一台、サキちゃんに手渡した。「何か」から取り返してきたのだろう。サキちゃんは「あ!」と声を上げる。
「あたしのスマホ! 見つけてくれたんだ!」
「……落ちてた。それよりコイン、投げる前に伝えとく。
戻る場所は“向こうの世界”に入ってきたとこ。だから、わたしたちはYC駅前の電話ボックスのとこだけど、サキは違う」
サキちゃんが間抜けそうな顔で私とケイを交互に見やった。目が点になっていた。ケイがまたサキちゃんの肩を小突いて言った。
「サキは多分、K街の家の自室に戻ると思う。戻ったらすぐに雑居ビルから出て。入口でミセス・ウィークエンドが待ってるハズ。
儀式の手筈はもう整ってる。直接サキと対面して“つながり”を断つんだって。どこでやるのかとか、どうやるかとかは、まあ会った時にでも聞いて」
「え、あたし呪いの儀式させられるの?」と、サキちゃんが困惑した。
「ヤなんだけど。フツーに。っていうか何で? 何でレヴ見つかったのにあたしが呪われなきゃいけないの?」
「……うるさい。黙って呪われろ」と、ケイが頭の上に怒りマークを付けながら言った。
「ってかもう呪われてるんだよ。デバフは重複しないから、心から安心して呪われてきなよ」
ケイが事情も話さずそう畳み掛けると、サキちゃんがまた間の抜けた声で「ひえー」と小さく悲鳴を上げた。私は苦笑いするしかなかった。
私たちは向かい合ってコインを手にした。コインを投げる順番は私が一番だった。次にサキちゃん、最後にケイ。手練れが殿を務める。頼もしかった。
私は人差し指と親指でお皿を作り、コインを乗せた。ここに至って、この場にはさっきまでの弛緩した空気で満ちていた。
どことなく間の抜けた感じ。緊張しきれない、隙だらけの空気感がこの場を支配していた。
――何とも締まりの無い結末だ、と私は思った。間延びした出来事と、落とし所を失ったような結末。
……今思い返せば全てがそうだった。釣り、ペットボトルロケットの打ち上げ、ニトリでの出来事、そして今。
全てが同じ要素で溢れていた。私たちは突然立ち現れた危機に対して、目を覆いたくなるような対処法を選択した。
場当たり的な処置の連続が、私たちをここに導いた。
それはあと少しのように思えた。あと少しで何もかもが終わる。不思議と心配はなかった。きっと上手くいくのだろう。私のアテにならない直感がそう教えてくれた。
ひとつだけ、気になることがあった。ミセス・ウィークエンドの事だった。“誤ったつながり”を断つ儀式――彼女の話に上がったワタナベ夫妻の事が、私の頭から離れなかった。
ミセス・ウィークエンドはあの時、声を失った。悪巧みの代償。他人を傷つけようとした報い。そして今、似たような事が繰り返されようとしている。
そう、あの時と同じ儀式が行われようとしている。
“誤ったつながり“を断つ儀式。
――全てが終わった時、彼女は果たして何も失わないですむのだろうか。
ミセス・ウィークエンドは私たちに心配させないよう、その事を隠しているのではないだろうか。あの儀式には代償が伴うのではないだろうか。
私がそう結論付けると、胸の奥を尖ったものに突かれた。根拠は無かったが、無くはない話だった。何も出来ない自分が歯がゆかった。
そう、私はずっと何も出来なかった。この灰色の世界でもそうだ。ケイはサキちゃんの為に痕跡の調査を行い、寝る間も惜しんで夜の街を歩き回った。
「向こうの世界」に一緒に付いて来てくれて、護衛まで買って出てくれた。
ミセス・ウィークエンドは言わずもがな、あらゆる対策をサキちゃんの為に講じてくれた。
……じゃあ私は?
何も無かった。
ただ何となくこの奇妙な世界をさまよい、偶然サキちゃんを見つけたに過ぎなかった。9月の時と同じ。ただ荒々しい濁流の中で、流されてしまわないよう必死にもがいただけだった。
私がやった事は何一つ無かった。私がそう思っていると、頭の中でケイが言った事が思い起こされた。
「大事なのはツムギがそう思ってることなんだ。そう思えるなら、それはホントにそうなんだよ」
――私が選んだのは、祈る事だった。私はミセス・ウィークエンドの無事を祈った。私は全てが上手くいく事を、全てが元通りになる事を祈った。心のなかで、心の底から。
私が指先のコインを高く弾くと、心地良い金属音が鳴った。落下するそれを手のひらで受け止めると表が出た。本当に表が出るんだ、と思った。
灰色の世界。
公平な世界。
ここもまた正しさのひとつなのだ。そう思った次の瞬間、私は現実のYC駅前に戻ってきていた。
街のどよめきの真っ只中で、私は呆然と立ち尽くしていた。目の前には駅前ビルの跡地があった。黄色のフェンスと、色とりどりのお供え物。雑踏のがやがやと、車の行き交うけたたましさ――どうやら帰ってこれたらしい。
私はしばらく何を考えるでもなく、献花や供え物を見つめていた。少しだけ頭がくらくらしたが、焦点はしっかり定まった。
そうしているとSCP部の無造作ヘアと、先日ケイに蹴り飛ばされた男子生徒がやってきた。彼らは花を手向けてフェンスに向かって手を合わせた。二人ともこちらには気が付いていないようだった。こんな会話を始めた。
「怪我は大丈夫か?」
「実はまだちょっと脇腹が痛い。あのドロップキック……見事だったな」
「ははっ。蹴られた本人が言うんだから、間違いないな。それより……今回の事件は壮絶だったな」
「まあまあ、終わり良ければ何とやら、じゃないの? あんな事があったのにけが人もいないしさ……それにあの人だって、これで報われたと思うよ」
「そうだな……でもけが人はいるぞ」
「マジ? 誰? その人大丈夫なの?」
「……お前だよ」
無造作ヘアがそのような感傷的な一言を漏らしてその会話は終わった。それから彼らは哀愁漂う後ろ姿を見せながら、アーケード街へと消えていった。
……一体、何があったというのか。分からないが、何か壮大な物語があったに違いない。私たちの知らない、めくるめくストーリーが。
それにしても味のある去り方だ。この画角を背景に、すぐに感動的な歌とエンドロールを流すべきだ。そう思った。いつの間にか背後にいたケイが言った。
「サキも無事帰ったよ」
「そう」
「上手くいくといいけど」
ケイがそう不安がるので、私は「大丈夫」と言った。
「きっと上手くいくよ」
彼女は私の言葉を咀嚼するようにうんうん頷き、片方の口角をあげてニヤリと笑った。
ケイが肩にかけた大きな藤のバッグの入口から、レヴナントがひょこり顔を出した。何に対してかは分からないが、彼は私たちを見て「ニャッ」と肯定の鳴き声を上げる。
私はその小さな頭を撫でながら語りかけた。
「レヴはこっちから出てきたんだね」
「そ。バッグに入れて“物”扱いしちゃえば、わたしと一緒に帰ってこれる。こいつコイン投げれないから」
「そんなゲームのグリッヂみたいなのでいけちゃうんだね」
「そゆこと」
「――まあ、確かに」と、私はレヴの頭を撫でながら言った。
「その丸い手じゃコイン投げは難しそうだ」
私がそうやって冗談めかすと、レヴさんは元気よく肯定の鳴き声を返した。
「ニャッ」が肯定で、「ニャァー」が否定。
レヴさんはいつだって正しいのだ。
それから少しして、グループLINEにメッセージが届いた。サキちゃんからだった。
【Paradisoで待ってる!】
ウェイ・バック・ホーム
私はケイと一緒に電車に乗って、再びK街へ戻ってきた。このK駅の改札を、私は昨日今日で何度通ったのだろう。私は少しうんざりしながら改札を通り、駅前の歩道橋を渡った。喫茶Paradisoはもう目の前だ。
道中、黒猫レヴナントは恐ろしく静かだった。彼はケイが持つ大きな藤のバッグの縁から顔だけをひょっこり出して、辺りを観察していた。道行く人々が時々それに気が付き、すれ違い際に嬉しそうな声を上げて彼の頭を撫でた。その人種は様々だった。中年のおばさんや私たちと同じ年頃の女の子たち――それから昼休憩中らしき、スーツ姿のOLさんたち。電車の中では二人の小さな子どもが駆け寄ってきて、遅れてこちらにやってきたその両親と一緒に黒猫を愛でていた。
多くの人の目に触れ、一躍人気者と化した自らの状況を、黒猫レヴナントは冷静に受け止めていた。鳴き声ひとつ上げず、身じろぎもしなかった。
彼は自らに与えられたその小さなテリトリーの内側で律儀にルールを守っていた。伸ばされた手に向かって、額や頬をこすりつける仕草さえ見せた。
ケイはこうして誰かがレヴナントに魅了される度に、ジト目を幾ばくか柔らかくして気の利いた一言を投げかけた。
「K街の喫茶Paradisoをよろしく」
この様子を隣で見ていた私は、先月のParadisoの悲惨な売上を思い出した。初めから彼にParadisoの広報を任せていれば良かったのだ。こんなに単純な答えはない。
宣伝に最適な人材と手法――それは他でもない、店で飼われた一匹の黒猫。彼に活躍の場を与えてやる事だったのだ。
このように、思いもよらず店の知名度を少しばかり上げながらも、私たちは喫茶Paradisoにたどり着いた。
通常営業だった。入口の重たいドアが立てる悲鳴に歓迎されながら店内に入ると、サキちゃんがいた。窓際の席からこちらに向かって、ちぎれんばかりに大きく手を降っている。
同じ席にはミセス・ウィークエンドもいて、メロンフロートを飲んでいた。
他の席には(当然のように)誰もいなかった。私が早足で駆け寄ると、サキちゃんが奇妙な掛け声と共にハイタッチを要求してきたので、それに応えるように私は両手を掲げた。
ぱちんと小気味良い音が力強く鳴り響く。私は全てが終わった事を悟った。
私が感極まりながら振り返ると、緩慢な動作でのらりくらりとこちらにやって来るケイがいた。丁度良かったので、私が同じ要領で両手をリクエストすると、彼女は力強いジト目でこちらを見ながら両手を持ち上げた。私が奇妙な掛け声でハイタッチすると、「……このノリ、何?」とケイが疑問を呈した。
私はそれを無視して、サキちゃんの隣に座った。ケイは遠慮がちにミセスウィークエンドの隣に座った、するとミセス・ウィークエンドは突然にっこりと笑い、ケイの頭をくしゃくしゃにして思い切り抱きしめた。
しばらく二人がそんな風にしているのを見ていると、ケイの足元に置いた藤のバッグから黒猫レヴナントがぴょんと跳ね、テーブルの上に乗った。
サキちゃんは大袈裟に泣き喚きながら彼の身体を抱き寄せ、良く分からない言葉未満の言葉をうわ言のように並べだす。
しばらくすると、今度は私やケイに向かって、感謝の言葉を送りだした。およそ解読不能な、未知の言語を相手取っているような気分だった。
それでも何とか感謝の意を汲み取れたのは、我々が今日までやってきた基礎研究の賜であると言える。あらゆる複雑な事態にこそ、基礎は息づく――これをもって喫茶Paradisoは、すっかり元通りになった。
感動の再会が終わると、サキちゃんとミセス・ウィークエンドは手話で会話をした。サキちゃんは笑ったり驚いたりしながら、しばらく二人だけの会話を続けた。やがてサキちゃんはケイを見て驚いた。
「初耳だあ! ケイってバイトやってたんだ?」
どうやら手話でケイの話が持ち上がったようだった。
「なんで言ってくれなかったのさ!?」
サキちゃんがそう追求すると。ケイは視線だけを器用に外に泳がせた。少し気の毒だったので、私は興奮するサキちゃんをなだめた。
「まあまあ、仕方なかったんだよ。色々あって、言うタイミングが合わなかったんだってさ」
私がそう言うと、サキちゃんは私に視線を合わせた。何だか今にも何かを言い出しそうだった。
まずいな、と思った。次は私の番だ。助けを求めるように私はミセス・ウィークエンドを見た。
彼女はにっこりと笑って深く頷いた。それはひとつの符丁だった。私は少し迷ったが頷いて、全てをサキちゃんに話す事にした。
長い話になった。どこから話していいか分からなかったので、初めから全部話した。時々ケイが私の不十分な説明に補足を入れ、ついでに入れなくてもいい茶々をねじ込んできた。
私はその度に彼女を咎め、話が散らかってしまわないよう軌道修正を試みるはめになった。
話の途中、何度かサキちゃんの耳から大量の湯気が放出されるのが観測された。明らかにキャパオーバーを起こしていた。入力される情報量が、彼女の脳の処理速度を上回ってしまったのだ。白目を剥いていないだけマシだった。
私が心配しながら時々、「大丈夫?」とか「ここまでは良い?」とかの確認を入れると、「はい」という恐ろしく無機質な返事がやってきた。そんなでも続けざるをえなかったので、最後までやり遂げる事にした。
私が全てを話し終わると、サキちゃんはたっぷり5分近く静止していた。若干、間抜けな笑顔のまま。どこか虚空を見据えながら。それからようやく情報の処理が終わったのか、サキちゃんはぽつりと感想を述べた。
「なんか、すごいと思った」
サキちゃんは続けて述懐する。
「あたしたちの住む世界が上手く回っているのは、本当はすごいことなんだな、と思いました」
こんなにひどい感想に触れたのは久しぶりだった。まるで小学生の頃に無理やり書かされた読書感想文のようだった。
それでも私はサキちゃんの言葉に共感を覚えざるを得なかった。なにせ私も似たような感じになったから。
私がしみじみ思っていると、オーバーフロー状態から正常に戻りつつあったサキちゃんが「っていうか」と言った。
「え、じゃああたし本当に呪われてたって事……?」
私は「そういう事みたい」と言った。
「正確には生霊に取り憑かれてた、的な?」
「なにそれうける」
彼女は頭を抱えてうずくまってしまう。
無理もない話だった。自分が同じ状況になったら、気味が悪くて仕方がない。私はサキちゃんの背中をさすりながら言った。
「でももう終わったんだよ。そうでしょ?」
私は苦笑いを浮かべてケイを見た。彼女は何も言わずミセス・ウィークエンドを指さした。
ミセス・ウィークエンドはフロートを食べている最中だった。彼女は口をもごもごさせながら私を見返し、すぐにスマホを取り出してグループラインにこう文章を送った。
【まずは何事も無くこちらに戻ってこれた事を祝福しますよ! おめでとうございます。特にツムギさん。私の見込んだ通り、あなたは短い時間で大きな仕事を成し遂げましたね!】
ミセス・ウィークエンドは満面の笑みで拍手をした。イカした指笛すら飛んできた。隣にいたケイもそれに同調して、ニヤニヤしながら拍手を送ってくる。
いつの間にか復帰していたサキちゃんも私に向けて勢いよく拍手していた。
私は何やらムズムズした。どうして良いか分からなくなったので、グループラインに【よせやい】と送って、右手で小さくピースを作ってみせた。
それを見たミセス・ウィークエンドはまた大きな拍手をしてから、メッセージを追加した。
【色々と聞きたい事もあるでしょうが、今は皆さんの無事を讃えましょう。サキさんに“誤ってつながって”いた生霊もすっかり取り除くことが出来ました。今だから伝えますが、私は以前行った儀式同様、今回も何かを失うんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていました。ですが、ご覧なさい! 無事です! 神様に感謝しなくてはなりませんね】
私は顔を上げてミセス・ウィークエンドを見た。自然と笑顔が溢れた。そんな私を見た彼女はまたゆっくりと深く頷いた。私が彼女の目を覗き込むと、ミセス・ウィークエンドは目を伏せてスマホに向けて文章を打ち出した。
【灰色の世界についてや、あの世界で経験したこと、それから今まで私が話してきた事――それら全てを今すぐに忘れなさい、とは言いません。
どうせ無理な話でしょう? ただ意識の外に置いておいてください。それだけで構いません。
水や空気みたいなものです。この世界にありふれた、単なる構成要素のひとつ、そう思ってくださいな。
どんなに時間がかかっても構いません。
そしてこれだけは約束して下さい。決してアレを深く見つめないこと。そしてどんなに興味深かろうとも、決して足を踏み入れようなんて考えないこと。いいですね? ケイさん、あなたにも同じことが言えますよ?】
「まじか」と、ケイが苦い顔をする。
【私はいくつもの過ちを犯してきました。人間、何かひどい目に遭わないとなかなか改心出来ないものですね。私も今回のことで多くの事を学ばせてもらいました。
この物語から得た教訓はこうです。
「アルバイト、長良景子は今日を持ってクビです。今までご苦労さまでした。そして二度と我が社に顔を出さないようにしてもらいたい」
――そういう事ですので、それでは】
ミセス・ウィークエンドはケイに向かって手の平を首元でぶんぶんやる。「クビ」のジェスチャーだった。「げ」と、ケイが声を上げる。
ミセス・ウィークエンドは微笑んでから、また彼女の頭をぐしゃぐしゃやった。それが済むと彼女は立ち上がり、出口へと向かっていった。
立ち去り際に彼女は一度だけ振り返り、サキちゃんに手話で何かを伝えた。それが終わると彼女は店を出ていってしまった。店内にはドアが奏でる、悲しみに満ちた音だけが残った。私はミセス・ウイークエンドのセーターのデザイン、ソラールさんの太陽を思い起こしながら、「太陽万歳」と、小さく呟いた。
ミセス・ウィークエンドが店からいなくなると、見計らったように店主さんがやってきて、私たちの席にカフェオレを並べた。
相変わらず何も言葉は無かった。サキちゃんが代わりに「これ、お店からのおごりだってさ!」と彼の気持ちを代弁する。私たちはお礼を言って自分の分を取り、カフェオレをすすった。
「あのばあさん、ホントは最初から知ってたのかな」
ケイが独りごちるように、コーヒーカップに向かって言った。彼女は大量の砂糖をカフェオレに流し入れ、飽和するギリギリのラインまでそれを続けた。そうやって甘みで満たされたカフェオレを、ケイはスプーンで退屈そうにかき混ぜた。
「わたしが“アルバイト”だってこと」
私は何も言わなかった。サキちゃんも同じだった。私は気を紛らわす為に、サキちゃんに訊ねた。
「ミセス・ウィークエンド、最後に何て言ってたの?」
「……秘密!」
会話はそこで途切れてしまった。
私たちが沈痛の面持ちを並べていると、店内にBGMがかかった。ノラ・ジョーンズの『サンライズ』だった。冬の朝一番、窓を開けると入り込んでくる、無愛想な温かみのある、冷たいそよ風のような歌声が店内を満たした。
スマホを見ると、いつの間にか私たち4人のグループラインからミセス・ウィークエンドが退出していた。彼女個人のものは健在だった。
けど恐らく連絡は取れないのだろう。彼女は過ぎ去ってしまったのだ。
結局、ミセス・ウィークエンドの事は分からない事だらけだった。
ケイの疑問や、サキちゃんに最後にかけた言葉も――その他もろもろ、不明瞭な点が多すぎた。
何もかもが終わった今、この2週間に起きた事でさえ、本当のことだったのか疑わしい事ばかりだった。
本当は生霊など初めから存在せず、“向こうの世界”と“つながり”なんてシステムもデタラメで、ケイのバイトも……交通量調査か何かだったのかもしれない。
燈火岬で釣りをしたのは三人が気まぐれに思いついた単なるレジャーだし、N東公園でペットボトル・ロケットを打ち上げたのも同じく遊びの一環、ニトリで恥ずかしい思いをさせられたのも夢だったのかもしれない。そんな気がした。
夢。その単語から私は、夢の中で出会った緑色の発光体の事を連想した。あの夢と同じことが灰色の世界で繰り返された。
夢はもうひとつある。ニトリに行った日に見たもの。そしてそれは――ある予感がよぎった。
私は再び心の中で祈った。何故かは分からない。そうする必要がある、そう思った。世の中、意味が分からなくても、やらなくてはならない事があるのだ。
私は祈った。サキちゃんがもう二度と妙な事に巻き込まれないことを。ケイがあんな危ない世界にもう足を踏み入れないことを。そしてミセス・ウィークエンドのことを。
――それから、どこかにいるはずの、悲しみに押しつぶされた誰かの無事を。
アフター・ダーク
あれから2週間が経った。サキちゃんはすっかり元気を取り戻し、いつも通りの生活を送っている。“向こうの世界”に行った翌日に迎えた彼女の誕生日会も、何事もなく終わった。
喫茶Paradisoで行われたそれは、存外に盛大なものとなった。店じまいはせず営業中に慎ましく実行される予定だったが、その日は常連のお客さん達が示し合わせたかのように一同に集った。
利用する日も時間帯もまるで異なった種々雑多な人々――お互いに面識すら無い人たち。そんな人たちが彼女を祝うために集まった。その中にミセス・ウィークエンドの姿は無かった。
ミセス・ウィークエンドはあれから姿を見ない。彼女の痕跡も跡形もなかった。グループLINE、個人LINE――ある日気がついた時には、LINE上における彼女からのメッセージは全て消されてしまった。
彼女は消えてしまったのだ。
でもそれで良かったのかもしれない、と思った。
私はというと、誕生日プレゼントの事を前日まですっかり忘れていた。色々なことがありすぎたせいだ。
あの日、喫茶Paradisoでの会合を終えてすぐにその事を思い出した私は、あわてて電車に乗り、またしてもYC街へとプレゼントを買いに行った。
色々と迷った挙げ句、私は手袋とギターピックを選んだ。ギターピックはまるで知識が無かったので、選ぶのに苦労した。楽器屋の一角にずらりと並べられたギターピックを目の前にして、私は数十分悩まされる事になった。
私が訳も分からず、目をぐるぐる回しながらピックをひとつひとつ手に取って眺めていると、店にいたお客さんの一人が声をかけてくれた。
緑髪の女の人――見覚えがあった。“向こうの世界”に行く前に、広場でYUIの弾き語りをしていた人だった。
親切心か興味本位か、彼女は私の事情を聞きたがった。私がプレゼントの話をすると、その緑髪の女の人は一緒にピックを選んでくれた。私は彼女がおすすめした品を5枚買うことにした。
会計が終わり、お礼を言おうと店内を探すと、その女の人はもうどこかへ立ち去っていた。
プレゼントはどれも気に入って貰えたようだった。サキちゃんは私のあげた手袋を登下校中につけてくれた。ギターピックは良く分からないが、使ってくれているようだった。元々、彼女がギターを弾いている姿を見た事はほとんどない。サキちゃんは人前でその趣味をあまり披露したがらなかった。恥ずかしいらしい。
ケイのプレゼントはゲームコントローラーに付けるエイム・フリークだった。いわくFPSゲームを一緒にプレイすると、常々彼女のエイムが悪いことが気になっていたそうだ。
サキちゃんがしきりにその事に対して異議を唱えるので、いつも通り黒猫にその判決を仰ぐと、肯定の意が返ってきた。つまりエイムの精度が悪いのは真実だという事だった。レヴさんはいつも正しい。いつだって正しい。
こうして少しずつ、私たちは普段の生活に戻っていった。喫茶Paradisoの飼い猫を中心としたドタバタは鳴りを潜め、あとは静かに年を超すだけになった。
あの時から冬はますます深まった。地域柄、雪こそ降りはしないものの、身を刺す風は一日ごとにいっそう冷たく寂しいものになり、吐く息の白さが寒さを助長した。
私は中間テストのあまりの出来の悪さから、冬休み中に2度の補習授業を受けさせられる事になった。
課題も出された。身も心も清いまま年を越したかった私は、そのほとんどを喫茶Paradisoで終わらせた。もちろん、サキちゃんとケイの助けを大いに借りながら。
自分でも驚くほどの速度で課題を消化した私は、晴れて年末年始の期間、自由に行動する権利を得た。
そんな訳で私たちは12月31日から1月1日にかけて、サキちゃんの家でお泊り会を敢行することにした――今度は嘘じゃなく、本当に。
大晦日の日、私は今年最後のやり残しを終わらせるために霊園を訪れた。その霊園は自宅から徒歩15分の所、神社と保育園の間の、車も通れないほど狭い道路に面している。
目当ての墓前にやってくると、驚いたことにそこには既に花が供えられていた。私以外の誰かがお墓参りに来たのだろう。
私はYC駅前のビル跡の事を思い出しながら、自分の持ってきた菊の花束をどうすべきか悩んだ。
ここに来る途中、霊園からほど近いコンビニで買ったものだった。まさか大晦日にお墓参りがダブルブッキングを起こすとは思わなかった。
よく見ると、花を立てる筒にはまだ幾ばくかの余白があった。少し無理矢理の形にはなるが、そこに自分の持ってきた花束を分割して差した。
線香は家に余っていたものを持ってきていた。100円ライターでそれに火を灯す。
否が応でも「あの日」の続きを意識させられる、そんな匂いが辺りに漂った。私は線香を置いて目を閉じ、拝んだ。
目を開けると墓石の両脇にある花の、そのあまりの物量が気になって仕方なかった。何だか華やかすぎる。
新規オープンしたパチンコ店の軒先みたいで、あまり上品とは言えなかった。私は心のなかで謝りながら、またお墓に向かって拝んだ。
このお墓にはナナミが眠っていた。ナナミとナナミのお母さんのお墓。二人とも別々の場所で亡くなり、今は同じ場所にいる。
……ナナミの方は随分、よそで自由にやっているみたいだけど。何せ今年だけでも二度、彼女と遭遇してしまったのだから。そう考えると、ここに眠っているという表現は適切では無い気がしてきた。
何はともあれ、向こうでも元気(?)そうで何よりだった。私はそんな事を考えながら、彼女の墓石に向かって笑いかけ、「助けてくれてありがとう」とお礼を告げた。ここに来た目的はただそれだけだった。
私がここを訪れたのは二度目だ。初めの葬式の時以来、それきり。
理由はシンプルだった。あれだけ一緒だった友達をこの場に置いて、私だけが黙ってどこか別の場所へ行く――なにか公平じゃない気がした。
そんなのはフェアじゃないと思った。だから葬式の時も私はさようならを言わなかった――心の中でさえも。
彼女が死んだ事が受け入れられないのではない。彼女を置き去りにするのが嫌だった、単にそれだけだった。
彼女がいなくなってから色々な事が起こった。様々なものが私の前を通り過ぎた。ほとんど何も残らなかった。
それを捕らえて離さない、そんな事は誰にもできない。
それを絶望と呼ぶ人もいる。それでも私たちは、ただ過ぎ去ることしかできない。
そんな私たちに悲しみは付き纏い、寄り添う。それは色々な言葉で表現されてきた。理不尽、不幸、不条理――それらから逃れることは、容易ではないように思われた。
……少なくとも私は大丈夫そうだった。
結局のところ同じなのだ。やって来るものも、私がたどり着く場所も。
全ては“つながり”の範疇でしかない。どこでもない場所なんてどこにも存在しないし、どこにも存在しない場所など、ありはしない。
全ては公平なのだ。ただ公平に“つながり”続ける。
世界は『名前のない路地』で溢れている。
私はしばらくお墓を見つめていた。ほんの少しだけ、何か返事があるのではないかと期待した。花が揺れるとか、墓石の照り返しがモールス信号になるとか、そんな合図――特に何も起こらなかった。
その事が何だかすこし可笑しかった私は、つい小さく笑ってしまった。全ては公平なのだ。
そう私が思っていると、遠くの方から声をかけられた。お墓の手入れが終わり、お寺から借りた用具を返却しに行っていたその人影は、自らをナナミの父親だと名乗った。
私は彼のことを覚えていたので、わざわざ名乗られるには及ばなかった。が、あまりに思いがけない再会だったので、びっくりした私はつい思わず、深く勢いの良すぎるお辞儀で迎えることになってしまう。
彼がその滑稽な様子を見て笑い出したので、私は自らの間抜けな所作のもたらした空気を、苦笑いで薄める事しか出来なかった。
灰色の街より
「いやあ、申し訳ない。何だか懐かしい気分になっちゃって」
ナナミのお父さんは、スーツのネクタイを緩めながら笑った。
「そういえば、ツムギちゃんは小さい頃からそんな感じだったね。
そうそう、正にこんなだった!
普段は大人しいのに、気持ちが高ぶると、こっちが予想だにしないリアクションを取るんだ――いや、本当に懐かしい。最後に君に会ったのは、いつだったっけ?」
「一年前です」と私は頬を指でかきながら言った。
「去年の10月の、えっと……葬式の時以来です」
私が言い淀むと、ナナミのお父さんの表情が一転し、私からお墓に視線を移した。悲しそうに細めた目と固く結んだ唇が、彼が喪失した物の大きさを物語った。
いたたまれなくなった私は、遠慮がちに場の空気を変えにかかった。
「お元気でしたか?」
私がそう話しかけると、彼ははっとした様子でこちらを振り向き、「そうだね」と言った。まるで、たった今私の存在に気が付いたような素振りだった。
「元気にやってたよ、って言ったらちょっと嘘になるね。でも何とかやってこれたよ」
「どこにいたんですか?」
「実家の方に帰ってたんだ。青森県だよ」と、ナナミのお父さんは他人事を話すみたいに笑った。
「妻と死別して、娘とも――どうもここでは色々な事がありすぎた」
どうやら噂は本当だったらしい。彼の話は続いた。
「僕にはどうしても時間が必要だったんだよ。分かるかな? 極力何も考えないで、気持ちをリセットして次に何をするべきか考える――その為の時間がね。
準備期間さ。でもそれをここで過ごすのは、ちょっと僕には耐えられそうになかったんだ」
「そこでも歯医者さんを?」
「いいや。全然違う仕事さ」と、彼はその質問に優しい声音で答えた。
「向こうで兄がやっている事業の手伝いをさせて貰っていたんだ。人手不足だったし、幸い僕にでも出来そうな仕事があったんだ」
「どんな仕事なんですか?」
「何でもやったよ。お得意さんの御用聞きやら、勤怠管理やら、取引先の斡旋やら開拓やら――とにかくその他色々さ。フォークリフトだって動かしていた。免許も取らされたよ。人間その気になれば何にでもなれるものなんだね」
「何だか凄いですね、それ」と私は言った。
「今思えば、何でも良かったんだ。君だから言うけど、とにかくあの日から数カ月間の僕はひどい有様だったんだ。はっきり言って現実離れしていた。色々ややこしい病名なんかも付けられたし、いつこの世から消え失せてもおかしくなかった。
こうしてまともに誰かと喋れるのだって、本当は結構な事なんだ」
「えっと、なんか、その、すみません」
私はつい謝ってしまった。ナナミのお父さんは「いやいや! 君が謝る事じゃないよ」と助け舟を出した。
「僕もちょっと配慮が足りなかったかな。気にしなくて良いんだ。それにもう全部過去の事だよ」
「もう大丈夫なんですか?」
「見ての通りさ」と彼は腰に手をあてて思い切り笑ってみせた。
「ここに来たのも、まあ一つのケジメみたいなものさ」
「ケジメ?」
「そう。妻と娘に、自分はもう大丈夫だって言いに来たんだよ。
これも君だから言うけど――」
彼は躊躇いがちに言った。
「実は勇気が無くてナナミの納骨以来、墓参りも今日まで一度も来てなかったんだ。もう一度墓前に立ったら、今度こそ娘の死を認めなくちゃいけなくなる。その時きっと僕は耐えられないだろう。そう感じて逃げてきたんだ。
ひどい父親だろう? 勝手な思い込みさ。でもあの時の僕にはそれが全てだったんだ。そういうのって、分かるかな?」
私は何と言っていいか少し迷ったが、「分かります」と答えた。
「私も同じでしたから」
私の少ない言葉に、彼は強く頷いた。彼は灰色の空を見上げながら続けた。
「正直に言って、ここに戻ってくるかずっと迷ってたんだ。墓参りに、という訳じゃないよ。またここに住もうかな、ってね」
「本当ですか?」
私がそう聞くと、ナナミのお父さんは頷いた。
「なんて言っても、ここY市は妻と娘の故郷だからね。僕にはこの地で二人が静かに眠り続けているのを見届ける義務があるんだ。あ、これは君に分からなくても無理がないよ。これも勝手な思い込みなんだから――とにかく、またここで前と同じように歯医者でもやってみるよ。近い将来きっとね」
私は「応援します」と言った。ななみのお父さんは照れ隠しなのか、頭をぽりぽりやって「ありがとう」と言った。
「はっきり言ってこの事を決心した時が一番堪えたよ。決めたのはついこないだなんだ。12月の頭くらいかな?
半年近く僕の中で眠ってくれていた色々な病名達とも、おかげで悪戦苦闘する事になった。
けどようやく決着がついた。住む場所も開業先も急いで手配したし、必要な手続きも勢いに任せて取りかかったよ。もうどうにでもなれ、ってね。春先には開業できるかなあ」
彼は何やら、うきうきしていた。私は笑った。
「――うちのお父さんも言ってましたよ」
「なんて?」
「ナナミのお父さんがもし帰ってきたら、その時は今度こそYC街のあのバーに連れてってやる、って。それって何の事か分かります?」
私の言葉を聞いたナナミのお父さんは、しばらく考え込んだ。宙に文章を浮かべて、ひとつひとつの単語をじっくり眺めているような様子だった。
まるで彼だけが時間の流れから切り離され、止まっているように見えた。やがて彼の頭の中で何かが起こった。次の瞬間、彼の目から少量の涙が流れた。
彼は私に断りを入れて背中を向け、また空を眺めだした。
彼らにしか分からない、古い約束――
きっと私の知らない物語が彼と私の父との間にあって、ナナミのお父さんはそれに打ちのめされているのだろう。
私がしばらくそれを眺めていると、「分かるよ」という言葉が、震える背中から聞こえてきた。辛うじて現実の世界を震わせる、ひどく弱々しい一声。嗚咽にも似た言葉。気がつくと、ナナミのお父さんは泣いていた。
嗚咽。すすり泣き――どこかで聞いた覚えがあった。私は少し考えて、思い至った。
喫茶Paradisoから黒猫レヴナントが脱走し、ミセス・ウィークエンドの見せかけの占いに導かれて奔走したあの日々――その最後の指示が終わった日に見た夢、そこで聞いたすすり泣き。それにそっくりだった。
サキちゃんに“誤ってつながった”霊は生霊だったと、そうミセス・ウィークエンドは言った。愛する者を突然失った、その悲しみに打ちひしがれる人間の生み出したもの――私はその正体がようやく分かった。
同時にそれを否定したい気分に駆られた。私は彼の背中をじっと見つめた。胸の奥から形容しがたい複雑な感情がにじみ出るのを感じる。怒り、悲しみ、憎しみ、同情――あるいは全く別の何かだった。
今にも誰かに飛びかかりそうになるそれを、私はすぐに落ち着かせようとした。
【“つながり”を紡ぐ才能があるんだってさ】
頭の中でケイが言った。
……どうしてこのタイミングで、あの時の言葉が繰り返されたのだろう。未だにその意味も良く分かっていないのに。
――けれどそれを境に、私の心の内は元通りになった。
「取り乱しちゃって悪かったね」と、ナナミのお父さんが振り返って口を開いた。私が彼を心配――心の底からそうする事が出来た――すると、「もう大丈夫だよ」と彼は言った。私は訊ねた。
「ここに戻って来る事を決めたのはいつの事ですか?」
「はっきり覚えているよ」と、彼は言った。
「一大決心だったからね。今月の16日、日曜日に決めたんだ。正確にはその前日の15日の夜だけどね。行動に移したのは翌日さ」
「あんまりこういう事聞いていいのか分かりませんけど――その決断するのって怖くなかったんですか?」
「怖かったよ。震え上がるほど怖かった。どうすべきか12月に入ってからずっと考えていたんだ。
その結論を下すのは簡単な事じゃなかった。さっきも言ったけど、また経営手法か何かみたいな病名も再発したよ。ここでは言えないような酷い言葉や自分勝手な妄想にも苛まれた。けど決め手があったんだ」
「決め手?」
彼はゆっくり頷き、「こればっかりは恥ずかしくて、本当に君くらいにしか言えないから内緒にしていて欲しいんだけど」と前置きを入れた。
「夢の中に猫が現れたんだ。12月の頭から決断の前日に至るまでの毎晩、気がつくと夢の中で彼がちょこんと座っているんだ。
黒猫だったよ。彼は自分をレヴナントと名乗った。ん? 彼がそう喋ったんじゃなかったかな? まあいいや。とにかく、いつの間にか僕は彼の名前を知っていた。
猫にしては何だかすごい名前だと思わない?
初日に出会った時、起きてすぐにその意味を調べたよ。西洋の妖怪みたいなもので、幽鬼とか死から蘇った者とか、物騒な単語が目に飛び込んできた。その内に、長い不在から戻る者という意味がある事を知った。
それから僕は彼に興味を持った。これは明らかに啓示だと思ったんだ。何かが起こり、何かが変わろうとしている符号、そんな気がしたんだ。
けど次第に、そんな事はどうでも良くなっていった。彼との時間は癒やしそのものだったんだ。平たく言うと、めっちゃ可愛くて夢中になってしまった。色々な反応を見たくなった。ちょっと無碍に扱ってみたり、思い切りかまってみたり――様々な反応が返ってきて、もうたまらなかった。
ちょっと恥ずかしいっていうのは、そういう意味なんだ。
で、猫に癒やされまくった僕は15日の夜、この決断を下すだけの元気を分けてもらった。
僕は彼に救われた。あの黒猫はその日以来、すっかり夢に現れなくなった。不思議なもので、僕はもう彼と何をして遊んでいたかすら、そんなに思い出せないんだ」
……どうやらレヴナントは自分のやり方で決着をつけようとしたらしい。猫であるという事を最大限生かした、必殺の手法。
その魔の手から逃れるのは容易いことではない。そして彼はやってのけた。もしかしたらミセス・ウィークエンドの儀式も必要無かったのかもしれない。
程なくして私はナナミのお父さんと別れた。
「最後にお願いがあるんだ」と、別れ際に彼は言った。
「本当に変なお願いなんだけど、聞いてくれるかな?」
私が頷くと、ナナミのお父さんはこう続けた。
「これからもナナミの友達でいて欲しいんだ――いや違うな、何か不穏な言い方だな。何だか不気味に聞こえるぞ、これじゃあ。そうだなあ――」
「言われなくても、ずっとそうですよ」と、私は笑った。
「ナナミの事は忘れません。おばあさんになって記憶が曖昧になった時は、ちょっと保証出来ませんけど」
私がそう伝えると、彼は嬉しそうな顔をして「やっぱりここに来て良かった」と言った。
「少し見ないうちに、この街もずいぶん色鮮やかになった。今の僕には眩しいくらいだ」
それから私たちは別れの挨拶を交わして、私はその場から立ち去った。
遠くから振り返ると、彼はまだそこに立っていた。彼は優しい微笑みを浮かべて、自分の家族が眠るお墓をただじっと見つめていた。
灰色の街――私の頭にそんな単語が浮かんだ。彼にとってはこのY市こそが、灰色の世界だったのだ。そしてそれは終わりを迎えた。全ては公平なのだ、と私は思った。
私は自分の視界にナナミとナナミのお母さんと、ナナミのお父さんが入っている事に、奇妙な喜びを感じた。「ありがとう」と、私は誰に言うでもなく小さく呟いた。
帰ったらこの事をお父さんとお母さんにも伝えよう、と思った。そうしたら今度は、お父さんが泣いてしまうのかな?
私は胸の内に生まれた子供じみた悪戯心を温めながら、お泊まり会の支度をしに自宅へと戻っていった。
それから
私が改札前の広場で時間を潰していると、3分後にサキちゃんが現れた。
午前11時――待ち合わせの時間ピッタリ。
大晦日で混み合ったK駅の構内で、彼女は到着するなり私の姿を探し始めた。ちょうど電車がホームに着いた頃合いで、改札口には行列が出来上がっていた。
サキちゃんは主にそっちの方に注目している……私は全然違う方にいた。
私は「こっちこっち」と、小さく手を振って合図する。彼女はすぐにそれに気がつき、嬉しそうに肩の辺りで手をぶんぶん振ってこちらに近づいてくる。
「やっほ!」と、サキちゃんは私に短く挨拶した。
「おまたせ! いやぁ~人の数、凄いねえ~!」
そう言って、手のひらをオデコに当てながら楽しそうにキョロキョロする。
「とてもトップクラスの転出超過の街とは思えないね!」
私は首をかしげ、「そうなの?」と訊ねた。
「……というかソレ、どういう意味?」
「んとね、Y市って前は、他所に移り住む人たちが全国屈指の多さだったらしいよ」
「すごい勢いで人口減ってます、ってこと?」
私がそう言うと、サキちゃんは得意げに人差し指をゆらゆらさせながら言った。
「そ! 10年前から5万人くらい減ってるらしいよ。昔のY市って42万人以上、人がいたんだって。今は38万人くらい? ――って言ってた!」
「へえ~」と私は感心する。
「詳しいね」
「いやあ、それほどでも無いんだなぁ、これが」
サキちゃんは照れくさそうに笑った。どうやらもっと褒めて欲しそう。
私が「よ! 物知り!」とか「文化人!」とか「社会派!」とか、自分でも良く分からない文言を並べると、その度にサキちゃんが片方の眉を絶妙な角度で上げて冗談めかした。
「――あれ。っていうか、ケイは?」
サキちゃんがようやく気がついた。
「まさか……」
彼女は私にジト目を作って向けた。私はため息をつく。
「そのまさかだよ」
「マジか」
「寝坊ですね、コレは」
「まあ、ちょっと予想してたけどね!」
サキちゃんは存外けろっとした様子でそう言い放った。私もそれには同意見だった。
ケイとも約束はしていた。11時にここに集合。そういう事になっていた。で、時間になってもケイは、ご覧の通り連絡ひとつ寄越さない。およそいつも通りだった。
きっと数時間後に言い訳がやってきて、何だかんだこちらに合流するだろう。そう判断した私たちは、目的を果たす事を優先した。
私たちは駅に併設された商業施設、「ウィングK街店」のデパ地下に向かった。そこでいくつか食材を買って、店を出た。
年越しをParadisoで過ごす――ちょっとしたパーティもやる予定だ。
発案者はもちろんサキちゃん。
「ほら、二人には凄く助けてもらったでしょ?」と、開催を決めた時、サキちゃんはParadisoの窓際の席でそう言った。
「だからそのお礼も兼ねて! ――あ、大丈夫だよ! 料理はあたしが作るし、なんと今回の会費は無料になっております!」
そういう訳で私とケイはサキちゃんに改まって“お呼ばれ”する形で、あの時の苦労を労ってもらう事になった。
「ホント、ありがとね」
サキちゃんがそのように切り出したのは、私たちがパンパンになったエコバックを両手に持ちながら、信号待ちをしている時だった。
「きっと教えてもらった事以外にも、たくさん助けてもらってたんだよね、あたし」
サキちゃんは私に向けて申し訳無さそうに笑みを浮かべた。
「レヴがいなくなったのも、風邪っぽかったのも、変な異世界に連れてかれたのも、全部ツムギとケイが解決してくれた」
「一人忘れてるよ」と、私はいたずらっぽく言った。
「ミセス・ウィークエンド」
「そだった!」とサキちゃんはまた笑った。
「……あれから、おばあさんに連絡取った?」
「ううん、取ってない。取ろうとも思ってないしね」
私が信号機に向かってそう言うと、サキちゃんは「そっか」と言ってうつむく。私は「多分、その方が良いんだよ」と付け足した。
「上手く言えないけど、そうだなぁ――私たちとミセス・ウィークエンドは関わるべきじゃなかったんだよ、きっと。もちろん悪い意味でじゃないよ?
あのおばあさんと私たちは、本来出会うことのない人だったんじゃないかな、っていう意味。今回はたまたま偶然が重なって、そうなっただけ。だからこれで良いんだよ」
信号が青に変わった。サキちゃんは立ち止まったままだった。私もそんな気分だった。
やがて彼女は一言「そっか」と呟き、歩き出した。私もそうした。それから信号待ちの間ずっと気になっていた事を聞くことにした。
「ところでさ」
「なに?」
「なんでさっきから微妙に変顔、してるの」
「……してた?」
「してた」
「……ワカンナイや」
ワカンナイらしい。
ケイから連絡があったのは正午の事だった。
年末で店じまい中のParadisoの,、いつもの窓際の席でサキちゃんと談笑している時、私のLINEに通話が掛かってきた。彼女の第一声は、予想通りちゃんと言い訳だった。
「結論からいうと――」とケイは語る。
「スマホの目覚ましのアラーム音量、いつの間にかゼロになってたじゃんね。そりゃあ気づかないでしょ。あと――」
それからケイはいかに自分が起きようと努力したか、そしてそれがいかにして妨害されたのかについて喋りだした。
……ところで彼女の起き抜けの声は、控えめに言って酷かった。
地獄の底から、その縁を伝って聞こえる声。
どこか南の見知らぬ土地で理不尽な契約を強いられ、その強制力に無理やり従わされて僅かばかりの賃金、過酷な労働環境でコーヒー豆の栽培を手伝わされる事になった、心身共にやつれきった人間の咆哮を聞いている気分になった。
あまりに聞いていられなかったので、私は通話を切って【はやく来なさい】とだけメッセージを送っておいた。
ちょうど良い頃合いだったので、サキちゃんは食事の支度に取りかかった。それには私も手伝ったが、何かに付けてサキちゃんはキッチンから私を追い出そうとした。
「あ~、このコンロね~、実は指紋認証式です。火、付けてる間、ずっと認証済みの人がつまみに触れてないと止まっちゃうんだ」
とか。
「え~と、その"流し”はね~。これは内緒なんだけどさ、実はそれ、選ばれた家系の人だけが捻ることを許された伝説の蛇口なの。あたしと家族以外が触れると爆発する」
とか。
「包丁とかヘラとかサエバシとか、ここにある調理器具は全て20kg以上あるよ。こういうとこでのワークアウトに余念が無いのが、我々家族の最も顕著な特徴のひとつです。
パンピーのツムギお嬢ちゃんみたいのには、過ぎたおもちゃだぜ」
とか。色々な虚言でもって私の手助けを阻止しようとする。
その全てを無効化する事に成功した私は、見事手伝いの権利を勝ち取った。誇らしさで胸が一杯になる。
さて、袖をまくって気合充分、という段になって私はあることに気がついた。
「ちょっと待って」
私が深刻な顔でそう言うと、サキちゃんは「どしたの?」と返事をする。
しばらく無言の時間が流れた。このことを言うべきかどうか迷った。火にかけた鍋の中の水が沸点に近づく音だけが、店内に広がっていく。
意を決して私は重い口を開いて、自分の気付きを言葉にする。
「――今気づいた。私、ちゃんとした料理、ほぼ出来ないや」
……私には野菜の水洗い係と、ピーラーによる皮むきと、パスタの茹で時間のタイムキーパーの係だけが、サキちゃんの指示によって課せられた。
サキちゃんが「――ありがとね」と仄めかしたのは、私が人参の皮むきをしている時だった。
私はじゃがいもの皮の剥き加減のムラが気になってしまい、少しムキになっていたせいで、その意味が上手く把握できないでいた。
……まさかこんな雑用に対して、そんな意味深な言い方で感謝した訳じゃないよね?
「ドユコト?」と私が聞き返すと、サキちゃんはでへへ、みたいなちょっと気持ち悪い笑いを繰り出した。
「あの時のこと!」
どうやら彼女は交差点での話の続きをしたいようだった。気持ちはありがたかったが、蒸し返す話でもないと考えていた私は、「気にしないで」と言った。
「前も言ったけど、私は大した事してないんだ、ほんと。何かこう、色々やってみたら、気がついたらああなってただけ」
「それでも、だよ」とサキちゃんが言った。
「どんなに感謝してもしきれないよ」
ちょっと元気が無さそうだった。ああ、と私はようやく理解した。それから私は少し考えた。
どうすれば良いだろう……うん、これがいい。
私は彼女を無遠慮に突っつき回す、その後ろめたさや申し訳無さをキレイさっぱり拭うやり方を思いついた。
「じゃあさ。こういうのはどうかな?」と私はニヤニヤしながら提案する。
「私とケイに一曲、弾き語りのプレゼント」
うええ、みたいな音がサキちゃんの喉からうっかりこぼれ落ちた。彼女は目をぎゅっとして、しばらく考え込んでいた。
幾ばくかの時が流れ、観念したのか、サキちゃんは白状するような調子で答えた。
「……分かりましたよう」
「やった」
「誰にも聞かせたことなくて、めっちゃ恥いけど……あの、精一杯頑張らせて……頂きます……」
なんか全然、別のキャラみたいな感じになった。これが見れただけでも充分だったが、ケイの分が“浮いて”しまうので、やはり弾き語りはいつか実行してもらう事にした。
ケイがParadisoの重い扉を開けたのは、それから1時間後の事だった。
自分の仕事を完遂した私は(これ以上出来ることが無かった、とも言う)、その時窓際の席で大人しくしていた。私はおっかなびっくりこちらにやってくる彼女のジト目に向かって、心から歓迎の言葉を送った。
「遅く起きた朝にごきげんよう」
彼女は入口の近くからキッチンのサキちゃんに向かって一度、私に向かって来て一度、深々と頭を下げ、それが済むと私の対面の席にゆっくり座って、再び礼をした。それからこう言った。
「本当にすまないと思っている」
ケイのその言葉が、頭の中でジャック・バウアーの吹き替えの声と重なる。
ピッタリのセリフだった。いつもいつも先に事を起こしてしまい、取り返しのつかない事態になってからようやく謝罪する――ケイの寝坊癖と、海外ドラマ『24』のジャック・バウアーの境遇は良く似ていた。
というより、寝坊常習犯の心情にピッタリなのだろう。
ともあれ、三人が揃った。私がそう思っていると、今までどこにいたのか全く不明だった黒猫のレヴナントが、足元で鳴き声を上げた。ケイが抱き上げると、珍しく大人しくされるがままに、喉を鳴らして居心地の良さを主張した。
間もなく料理が出来上がった。レヴにはちょっとお高い缶詰のウェットフードが振る舞われた。
ケイがペスカトーレをもちゃもちゃやりながら「美味い」と呟いた。
「やるねェ。お宅が作ったのかい?」
彼女は戸愚呂(弟)みたいな口調でそう言って、サキちゃんにジト目を向ける。サキちゃんがドヤ顔でサムズ・アップした。
「ツムギにも手伝ってもらったよ!」
サキちゃんがそう言うと、今まさにフォークを口元に持っていこうとしたケイの手が止まった。ケイのジト目が私を捉えた。多分こう言いたいのだろう。食べても――
「食べてもデバフ、かかんないよね?」
――本当にその通りの台詞だった。私は笑顔で反論した。
「ご安心ください。私はそのパスタ、茹で時間を計っただけなので」
「ああ、良かった」とケイがわざとらしく言った。
「――なんて、そんなには悪く言わないよ。前、ガッコで貰った弁当、見かけはアレだったけどそこそこ美味しかったし」
ケイがニヤつくと、サキちゃんが割って入った。
「ほう、ツムギの料理を食べたことがある?」
「大分前にね」
「どんなだった?」とサキちゃんは机に身を乗り出した。めっちゃ興味あるじゃんこの人。
ケイがフレンチフライを食べながら、「一回だけさ――あれ7月くらいだっけか?」と言った。
「ツムギが自分で料理したって言って、ドヤ顔で弁当見せてきたんだよね。そん時かな。
チラチラこっち見ながらさ、わたしの菓子パンの半分とおかず、交換しようってずっと言ってくるんだよ。
すごいぐいぐい来るじゃん、って思ったけど、圧に負けて焼きそばパンの三分の一と交換したんだ。
何だっけかな? 卵焼きとポテトサラダと、ハムとチーズ合わせたヤツだっけかな――どれも微妙にさ、色の様子がおかしいんだよね。でも味は良かった」
普通に恥ずかしかった。っていうか――
「――私、そんな浮ついてた?」
「そりゃあ」とケイは即答する。サキちゃんがわざとらしく「きゃー」なんて言って騒ぎ立てた。
「それはねー、友達に食べてみて欲しかったんだよ、奥さん! 初めて作った料理をさ、かわいいわねえ」
「ねー」と、ケイが平たい声で同調して、二人は顔を合わせた。
私は無言で立ち上がった。それからカウンター裏まで歩いていって、有線放送の機材を勝手に弄った。店内にBGMが流れ出す。
いくつかチャンネルを回すと、ちょうどレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの『ゲリラ・ラジオ』が頭から流れていた。うるさければ何でも良かったのでそれにした。ダメ押しにボリュームを上げて、よりうるさくした。
席に戻った私はうなだれて、両耳を両手で覆って目を強くつぶった。
塞いだ耳越しに、謝る声と笑う声が半々で聞こえてきた。
しかし私の耳にはもはやその言葉の意味する事が、辛うじて伝わるか伝わらないか程度にしか届かなかった。
これから
時間はかかったが、私は何とか平常心を取り戻した。私はさっきまで、サキちゃんいわく、「耳まで真っ赤っ赤!」というゆでダコ状態だったらしい。
その調理済みの海産物を、時間をかけて丁寧に元の状態に戻したのは、ケイとサキちゃんだった。
彼女たちは様々な気の利いた言い回しを使い、あらゆる前向きな言葉を羅列して私が抱える恥じらいを全力で薄めにかかった。
それは複雑なニュアンス表現というコースを辿り、繊細かつ慎重な言葉選びというカーブを経て、最後には単なる全肯定というゴール前のストレートでもって達成させられた。
「頑張れ!」
「やれば出来る子!」
「気配り大明神!」
といった、およそ恥ずかしさに打ちひしがれている人間にかけられる言葉とは程遠いワードを浴びせられ続ける。
その度に私は、新しい恥ずかしさを感じた。
――結局初めにあった羞恥心は、それによって押し流される形で消え去ったのだった。
半ば無理やりゴキゲンにされた私がどこへ向かったのかは想像に難くない。私はここにいる誰よりも笑い、誰よりも食べる、精神的な酔っぱらいと化していた。
サキちゃんの料理はどれも美味しかった。ペスカトーレ、ミックス・ピザ、ミニサンドイッチ、生ハムとチーズのサラダ、具だくさんのチキン・スープ――デザートのケーキすら前日に準備していた手作りの一品だった。
食事が終わると、「お世話になりました!」とサキちゃんが声高に宣言した。
「二人があたしの為にしてくれた事は、最も大切な思い出としてあたしの胸の内に残るでしょう! 喜んで心のアルバムの先頭に飾らせて頂くと共に、一生涯の最大の教訓として、この幸せを胸に刻み続けましょう!」
このかしこまった、どこか作り物じみた言い方には、最大限の譲歩があったように思う。彼女の精一杯の返礼の気持ちと、心の底から湧き上がる言いたい事のいくつかと、私たちへの気遣い――それらが渾然一体となって生まれた、ある種のおべっか。
正にこの場において一番ふさわしい、適切な一言だった。私たち三人の関係性や、この12月に私たちに起こったハプニングの数々を振り返ると、このような冗談めかしたおちょくりこそが、最もしかるべき着地点を示すのだ。
笑い飛ばしてしまおう。それが答えだった。そして私もケイも、全く同意見だった。
片付けが始まると、今度は私たちが働く番だった。皿洗いやゴミの片付け――それらは私とケイで行った。
サキちゃんはキッチンに入った私たちの周りを、一定の周回軌道に沿ってウロウロしていた。そわそわするサキちゃんを見ていると、ちょっとかわいそうかとも思った。しかしこれは最低限のマナーなのだ。受け入れてもらうしかない。
私がそのような旨の事を伝えると、サキちゃんは目を点にした。私は『食器の置き場所を聞かれたら答えるbot』の役割だけを彼女に与え、それ以外は大人しくしてもらった。
ケイが私の隣でミックス・ピザの乗っていた大きな皿を洗いながら言った。
「ツムギ、結局何を手伝ったのさ?」
「えーと」
私はパスタの入っていた皿から水気を拭き取っている所だった。食器洗いのラックにそれを注意深く収納しながら言った。
「野菜洗ったのと、野菜の皮剥いたのと、パスタの茹でた時間をサキちゃんに伝えたのと――」
私が何か言葉を発するにつれて、ケイのジト目に力が籠もっていくのを感じた。それを見かねたのか、サキちゃんがカウンター越しに「現場管理のお仕事だよ」と口を開いた。
「衛生管理業務と、野菜を料理へ使うにあたっての有効化業務と、調理進行時間の管理業務! どれも重要なお仕事でしょ?」
……私は世の中に不必要な役職が増えていく理由が良く分かった。
後片付けが終わると、それからは雑多な遊びに時間を費やした。
家から持ってきたSwitchでのスマブラ対戦(ケイが勝ち続けた)、ボードゲームのカタン(1時間半費やした末、ケイが勝った)。
アプリ『雀魂』での三人麻雀(概ねケイが勝った)。
カードゲームの『ito』(協力ルールで。これ以上ケイに勝たれるとムカつく、という私とサキちゃんの意見の一致から)。
――そうこうしている内に、あっという間に夜が来た。
Y市では毎年、大晦日にカウントダウンイベントを開催している。場所はYC駅からほど近い、軍港。
新年を迎えるとは花火が上がり、電飾で飾り立てられた、きらびやかな軍艦による“除夜の汽笛”が鳴る。恒例行事だ。私は行ったことがないけど。
夕食である年越しそばをすすりながら私がそう言うと、ケイが「同じく」と乗っかってくる。
「地元の目玉スポットとか、イベントとかってさ。意外とジモト民は行かないもんだよね」
「確かに!」とサキちゃんがそばを箸で持ち上げながら深く頷いた。
「◯#! ☓$()△、*@~%□! だよね!」
全然何言ってるのか分からなかった。そばをもちゃもちゃやってたせいだった。
午後11時半、私たちはParadisoの入っている雑居ビルの屋上に移動した。新年をここで迎えようと、サキちゃんが提案したのだ。YC街で上がる花火は見えないだろうけど、きっと汽笛は聞こえるだろう、と。
屋上はものすごく寒かった。風が強くなかったのは、せめてもの救いだった。
ケイは私とは対角線の位置に陣取って、スマホとにらめっこしている。ひいきの動画配信者の配信を見ているらしい。
私がその名前を聞くと、全く聞いたことのない名前が返ってきたので、それ以上の詮索は止めることにした。
サキちゃんは遅れて屋上にやってきた。紙コップに砂糖たっぷりのカフェラテを作って持ってきてくれた。
「大丈夫! これ作ったのお父さんだから!」と、サキちゃんはそう言って私たちにそれを配った。
「だからお店の味と、スンブン変わりありません!」
私はそれを飲みながら、眼下に広がる商店街のアーケードをぼんやり眺めた。コーヒーを啜る度、身体が芯まで温まるのを感じた。
深夜だと言うのに人通りがそこそこあった。若い夫婦や私たちと同じ高校生らしき集団、家族連れ――まだ営業を続けていたチェーン店のドラッグストアの入口に、トラックが停まっている。
運転手らしきお兄さんが、段ボール箱をいくつかトラックから降ろして店内に搬入している。レジカウンターにいた中年の女性が、何か言いながら彼と一緒に笑っていた。
私は「大晦日にお疲れ様です」という、少し無責任な労いの言葉を心に浮かべて、カフェオレを啜った。
それに気がついたのは、それから少し経ってからだった。
私は道路の真ん中あたり、ちょうど仲通り商店街の入口にあたる路地に、見知った顔がある事に気がついた。ミセス・ウィークエンドだった。
彼女は例の、『ダークソウル』に出てくる、ソラールさんの太陽紋章が大きく描かれたあのセーターを着ていた。街頭に照らされてぼんやり浮かぶその色合いは、相変わらずサイケデリックなものだった。
ミセス・ウィークエンドはその場でしばらく立ち止まっている。何やら辺りをしきりに窺っていた。誰かを待っているようだった。
数分後にその待ち人が現れた。その女性には見覚えがあった。
ニトリの店長さんだった。長いブロンドの巻き毛のお姉さん。ミセス・ウィークエンドのゲーム友達で、スタイル抜群の「ザ・働く女性」みたいなカッコよさの。
二人は手話で二言三言会話をすると、すぐに仲通り商店街の奥へと消えていった。連れ添って歩く二人を見ていると、私の内側に妙な満足感が湧き出てきた。
「ありがとうございます。それから、さようなら」
私は心の中でそう呟き、二人に祝福を送った。後ろにいるサキちゃん達には、何も言わなかった。
午後11時40分。不思議なそわそわが全身を覆った。年末という特別感が生む魔力。
午後11時45分。ケイはいつの間にか配信視聴を止めていた。代わりに夜空を見上げていた。私は急に思いついて声を上げた。
「そうだ。今、ここで歌ってもらいましょう」
誰に言うでもないような調子で、その提案は現実の空気を震わせた。どうやら二人にも伝わったらしく、サキちゃんの肩が驚いた猫のように上に飛び出した。ケイが「ナニソレ」とぼやいた。
「歌?」
「そ」と私は言った。
「さっきサキちゃんにお願いしたんだ。助けてあげたお礼は、一曲弾き語り、って」
サキちゃんは割と大人しく「オッケイ」とだけ言い残して、ギクシャクした動きで階段を降りていった。
数分後にアコースティック・ギターを持った彼女が帰ってきた。ケース付きで。
サキちゃんは小さなお辞儀をひとつして、屋上に置いてあった小さなすのこ椅子に座って、ギターをかき鳴らした。手元を見ると、私がプレゼントしたピックを握っている。
いくつかのコード、あるいは一本ずつ弦を鳴らすサキちゃん。
何か歯車が噛み合ったのか、打って変わって彼女は私たちに勝ち気な笑みを浮かべた。曲はすぐに始まった。
ミスター・チルドレンの『ヒカリノアトリエ』だった。数年前の朝ドラのやつ。
……ぶっちゃけ、そんなにだった。ギターは心地良く響き続けた。歌声の音程やその表情がイマイチだった。
これは相手が悪い、と思った。ミスチルの桜井が歌う、しかもかなり歌うのが難しい部類の曲――けど、と私は思った。
優しい音色だった。柔らかいギターの音と、本人をそっくりそのまま体現したような歌声。この世界のどこにも存在しない、ここでだけ聴ける音――
気がつけば、私は小さく身体を揺らしながら、囁き声でサキちゃんの歌声に合わせて歌っていた。
「いやあ、小っ恥ずかしいねコレ!」と、歌い終えたサキちゃんが顔を真赤にしながら言った。ケイが盛大な拍手を送り、私もそれに続いた。
拍手が止むと、ケイがいつものダウナー口調でこう言った。
「お見事。こんな灰色の街より、カウントダウンイベントで歌ってもらった方が良かったんじゃね?」
サキちゃんはケースにギターをしまいながら、思い切り両手をあらゆる方向に振り回して言った。
「冗談! ここでなきゃムリ!」
私は思い切り笑った。
スマホで時間を確認すると、11時54分だった。
「もう年が明けるよ」と私は二人に告げた。ケイがしみじみと言った。
「色んな事、あった一年だった」
それを聞いたサキちゃんが大げさに頷いた。
「来年はどんな年になるんだろね!」
私が「良い事ありますように」と言うと、ケイが「テスト期間と待望の新作ゲーム発売が被らない、とか?」とニヤけた。
11時56分。サキちゃんがすのこ椅子に座りながら、レヴナントを抱き上げた。いつの間にか着いてきていたらしい。
11時57分。私はミセス・ウィークエンドがいた場所を見下ろした。
何かが変わる予感がした。何も変わらないものもある、という予感もした。私はその両方を合わせて、雲ひとつない冬の夜空に、深い深呼吸と一緒に吐き出した。
11時58分。サキちゃんがおみくじの代わりにレヴナントに占ってもらう事を思いついた。
私は座ったサキちゃんに近づいて、床にスマホを置いて中腰になる。
それから「ぷらーんと」いう擬音がお似合いの状態で掲げられたレヴナントの目を覗き込んだ。
ケイもフラフラとした足取りで寄ってくる。サキちゃんはにっこり笑って、私に「質問」を促す。
レヴさんは何でも知っている。先を見通す力すらある。「ニャッ」が肯定で、「ニャァー」が否定。いつも同じ。決まったやり取り。
――レヴさんはいつだって正しいのだ。
11時59分。私は訊ねた。
「レヴさん、レヴさん、明日は新年です。来年は素晴らしい年になりますか?」
猫の回答と共に、汽笛の音が遠くから聞こえた。同時に、かすかな花火の炸裂音がその背後で鳴る。
私たち三人は笑った。サキちゃんは高らかに。ケイはくつくつとニヤけるように。
私は――私はどんなだろうか。
三者三様の笑い声が、澄んだ12月の夜空に吸い込まれていく。
その笑いは、新年を迎えた高揚感からでは無かった。もっと単純な事だった。
あまりに分かりきったレヴさんの返事。
それがとりわけ愉快に聞こえた。
ただそれだけの事で、おおよそ大したことじゃなかった。
END
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年
灰色の街より
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年