試作【TL】夏の日のサマーデイ
男性側三人称視点×複数/姉×異母弟/陰気無愛想美青年弟/強姦/擬似寝取り・擬似寝取られ/以上すべて予定・その他すべて未定
1
姉が寝ているのを、渚砂(なぎさ)は見つけてしまった。扇風機の弱い風が軽快な音とともに左右に振れ、姉の髪を遊んでいく。
彼は生唾を呑んだ。喉が渇いている。けれども目当ては、二人を隔てる卓袱台の上の麦茶ではない。
りん、と軒先にぶら下がった鈴が鳴る。短冊が揺らめいている。
「姉さん……」
姉への想いが、薄い胸板を内側から抉じ開けようとしている。その痛みが、卓袱台の上のグラス同様に、彼に汗を流させるのだった。
◇
父方の親戚の家は田舎にあった。生まれ育った都会から在来線で行けるものの、空は拓かれ、田園に囲まれている。自給自足というほどの田舎ではないのだろう。しかし上へ上へと居住地を増やし、空は明るく、田畑のひとつも見当たらない都心近郊の地区とは大いに違っていた。
電車といえば、自動開閉ではなかった。初めて来たときは戸惑ったものだった。しかしやはり田舎といえども現代社会は侮れない。改札はカードが対応していた。
改札を抜けたときに、昔来たときとの違いを思い出した。駅舎には大した変化はない。
「渚砂ちゃん……?」
女性の声だった。彼は咄嗟に振り返ってしまった。壁沿いに佇む人物と視線が搗(か)ち合う。相手は目を見開いていた。夏の空のような瞳のなかに、渚砂は吸い込まれそうになった。電車酔いをしたつもりはなかったが、微かな目眩を覚えたのだった。同時に、自身の勘違いに気付くのだった。淡いブルーのワンピースの女に覚えはなかった。
「すみませ――」
時間が止まったようだった。驚いた表情を見合わせていた。
父方の親戚に、年上の女の子がいたことを思い出す。しかし名前が思い出せない。
「晴海(はるみ)さん、ですよね……?」
相手の女が訊ねた。その目は揺らいでいる。胸元に組まれた白い手の細さに、渚砂は息を呑んだ。白と水色のチェック模様は大きな丸みのために歪んでいた。
「そうですが……」
「晴海渚砂さん……?」
「はい」
けれども彼女は、人違いをしたかのようなばつの悪そうな表情を見せた。一瞬のことだった。
「久し振りだね。とても昔に会ったことがあるのだけれど、もう覚えてないよね。雨崎(うざき)梅子(めいこ)です」
「は、はあ………」
「お父さ……涼歌(りよか)おじさんからお話は聞いていたから、予定の時間から電車調べて迎えに来たの。この辺だとタクシーもあまりつかまらないと思うし……」
案の定、父方の親戚であったが、告げられた名前について、渚砂に懐かしさはなかった。下の名前は初めて聞いた気すらしている。
「ありがとうございます……」
渚砂は目を伏せた。女性と関わる機会は多かった。美形の父親と可憐な母親の艶と華を引き継いでしまった彼の周りには蜂や蝶よろしく女性が集まるのだった。しかし、性分はこの運命を受け入れていなかった。
「荷物、半分お持ちします」
しかし渚砂は首を振る。差し出された手の細さに釘付けになった。白さと相俟って、手提げのカバンを預ければ最後、忽(たちま)ち折れてしまいそうである。
「結構です。自分で持てますから」
「でも、長旅で疲れたでしょう?」
大学の知り合いには、実家に帰るため新幹線に乗り、電車を乗り継いで飛行機に乗る者もいる。渚砂はといえば1回乗り換えがあるだけである。とても長旅とは言い難い。
「いいえ。お心遣いありがとうございます」
駅舎の階段を降りていく。
梅子と名乗った女の車に乗せられ、父方の実家に向かっていった。国道を抜けると田園風景が広がっていた。しかし昔来たときと違うのは、雑草にまみれ雑木林と大差のなかった空地は新興住宅地と化し、その付近には疎らなソーラーパネル畑が開墾されていることだった。
投げかけられる問いに答えながら、車窓を流れる景色を薄ている記憶と比較する。しかし元の記憶も怪しいものだった。
川を越えて、神社を横切り、踏切が見えるとそこが父方の実家だ。
駐車場に車が停まる。
「渚砂さん。あの……涼歌おじさんから聞いてるかな……その、今はわたしも住んでて……ごはんも洗濯も家事は全部、わたしがするから、一緒に暮らすことになるのだけれど………それでもいい?」
運転席の梅子が振り返る。渚砂の胸が跳ねた。長い髪が靡き、大きな目は吸引力を持っている。
「……家事の一切をお任せするわけには……」
「でも、住まわせてもらってるんだし、1人分も2人分もそう変わらないから」
鼓動が速まる。息が詰まった。喉が絞まるようだった。
ドアが開かれ、専属の運転手よろしく梅子が控えていた。
「お腹は?」
渚砂は澄んだ瞳を覗いてしまった。
「お腹は? 空いてない? 何か作ろうか」
彼女はすでに後ろへ乗せた手提げカバンを持っていた。
「結構です。自分で持ちます」
渚砂は彼女の前を通り抜け、荷物を引き手繰(たく)る。
広い庭を歩いて玄関へと向かう。芝生のなかに石畳が敷かれていた。
玄関アプローチで待っていると、駆け足で梅子がやって来る。
「あ」
梅子の身体が傾く。渚砂は手提げカバンを放り投げた。彼女の羽織っていたカーディガン越しに腕を掴んでしまった。掌に衝撃が走る。柔らかな感触の奥に骨の硬さがある。反射的に込められた力では折れてしまう。渚砂の判断はすばやく下される。彼の手は弾かれた。
転倒を免れた梅子は屈み込む。
「大丈夫ですか」
彼は転がっている手提げカバンを拾う。振り返りもしなかった。
「うん……ごめんなさい。今、開けるね」
梅子は玄関扉に鍵を挿し込む。細い指が銀色に絡み、手首を捻る。
胸の奥で弱い電流が迸る。
「あまり片付いてなくてごめんなさい。すぐお掃除するから……」
「自分で片付けます」
「奥のお部屋が空いているから好きに使って。お布団もすぐに出すから」
「はい」
梅子の前を横切り、渚砂は家の奥へ入っていった。
この家は何人で住むつもりだったのだろうか。開け放たれた部屋がいくつもある。渚砂は最も玄関から遠い、北向きの日当たりの悪い部屋を自室にした。荷解きをしながら考え事をしていた。同じ屋根の下にいる人物のことが頭から離れない。黒蜜にまみれたタピオカを思わせる瞳が、まだ目交いに据え置かれているようだった。強く思い浮かべると、腹と胸が重くなった。気怠い。立ち上がれなくなる。畳に腰を下ろす。北の窓の外には裏庭越しに畑が見える。枝豆を作っているようだ。その奥には線路が見える。線路の向こうには国道があり、さらにその向こうには小学校だったか中学校があったはずだ。校庭を囲う木の陰から校舎が見える。
窓を開ければビルか家が空を遮っている母方の親戚の家とは別世界のように思えた。けれども二つとも同じ陸地の上にある。
「渚砂さん」
渚砂の肩が跳ねる。磨りガラスの嵌められた障子が開く。草臥(くたび)れた半袖のシャツに、地味なロングスカートの梅子が現れる。
「ホットケーキを作りました。おやつにいかがですか」
彼は話を聞いてはいなかった。声ばかり聞いていた。そして人の話を聞いているふりをして、黒真珠のような輝きを持った瞳ばかり凝らしていた。
「嫌いだったかしら……?」
「あ……いいえ。いただきます」
台所に取りに行くと、甘い匂いが鼻に届く。
「夕飯は何か食べたいもの、あるかな。美味しく作れるか分からないけれど……」
渚砂は皿を受け取り、フライパンの上の移す。家はそうとうの建築年数を感じたが、ところどころに最近の文明が混在している。IHなどはまだ新しかった。ガスコンロを撤去した跡が油じみたステンレスの台に目立っていた。
「あ、バターとか、メープルシロップとかもあるからね」
「はい」
渚砂はフォークをもらい、皿を運ぼうとした。
「お部屋で食べるの? リビング……ってほどでもないけれど、そこも空いているし、広いよ……?」
「結構です。部屋でいただきます」
「じゃあ……うん。扇風機、持っていくね。クーラーの気分じゃないときもあるものね」
「自分で運びます。どこですか」
テーブルにホットケーキの皿を置く。
「食べたあとにしましょう。埃っぽいし……綺麗にしておくから」
「借りるのは俺ですから、俺がやりますよ」
「ううん。用意しておかなかったのはわたしのほうだし、渚砂さんも長いこと電車に揺られて疲れたでしょう。わたしが綺麗にしておくから、じゃあ、そのあと、よろしくね」
渚砂はホットケーキを食らった。耳鳴りを起こしていた。共に暮らすことになった女の声が耳の奥を巡っている。
使った皿を洗っていると、隣の風呂場から扇風機の部品を洗っている音が聞こえた。彼女は水道を止めたようだ。渚砂が捻った蛇口の水の量が増す。
「な、渚砂さん……! いいんですよ。お皿洗いはわたしがやりますから……」
「ですが……それでは俺は居候どころか……」
「いいんです。本当はここは渚砂さんのご実家なのを、わたしがタダで住まわせてもらっていたんですから……」
「実家といっても今は行方知らずの父親です。ここも、あまり実家だなんて認識はないです。空き家になって、不要な出費になるのも癪ですから、誰か住んでくれるのなら、それが一番です」
皿の水を切る。何気なく振り返ると、視界に扇風機の羽を抱く梅子が入った。彼は咄嗟に水道へ向き直る。一緒にして身体が熱くなった。手を洗い、体感温度を下げる。
梅子と接すると具合が悪くなる。夏は父方の実家で過ごすという選択は間違っていたのではなかろうか。
虫が鳴いている。母方の親戚の家でも聞こえていたが、規模が違う。焼き切れていくような虫の音が眠気を誘う。しかし腹も減っていた。
もうすぐで夕食だ。
「渚砂さん」
磨りガラスの障子に梅子の影が映る。
「はあ」
横になっていた身体を起こす。
「夕飯、ハンバーグなんですけれど、お部屋で食べる? リビングにしますか」
居間にはこの女がいる。喉を締め、腹と胸を重くする女の目の前で飯など食えない。
「部屋でいただきます」
梅子は微笑を浮かべる。それが返事のようだった。
「じゃあ出来上がったら持ってくるね」
「いいえ、自分で取りに行きます」
「分かった」
磨りガラスの障子が閉まる。外が暗くなっていることに気付き、カーテンを閉めた。明かりを点ける。
隅に畳まれていたテーブルを組み立て、ウェットティッシュで拭き取る。そのうち梅子が夕飯ができたと告げに来た。
台所に行くと、すでに盆の上に米と味噌汁、漬物とハンバーグが並べられていた。
「いただきます」
「美味しく作れているといいんだけれど……」
「ハンバーグは不味くならないと思いますが」
実際、梅子のハンバーグは渚砂の舌に合った。皿の上に4つ盛られた肉塊に、彼女の小さな手を感じる。腹が重くなる。胸が痺れ、身体が蒸されるようだった。熱い味噌汁のせいではない。
添えられたミニトマトでも身体は冷えない。キュウリとナスの漬物も、熱い米を促すだけだ。
汗を流しながら台所へ食器を返しにいく。
「もう食べ終わったんですか」
居間から梅子がやって来る。夜だというのに朝露を思わせる輝きを帯びた瞳は、渚砂の持つ盆を彷徨う。しかしその表情には戸惑いが滲んでいる。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「よかった」
梅子はそのままシンクに立つ。すでに水場には空いた食器が積まれていた。彼女は待っていたのだ。
「手伝いましょうか」
「ううん。休んでて。お風呂沸いているから、少しお腹が落ち着いたら入ったら。熱いと思うからお水入れて冷ましてね」
梅子の手が油に汚れた皿を取る。泡立ったスポンジが表面を滑る。食器棚に大皿があったはずだ。ホットケーキをもらったときに見つけた。しかし小皿が2枚。
「次からはリビングで、一緒にいただきます」
「え……? うん。分かった」
後ろで束ねられた髪の陰から項(うなじ)が覗けた。白く、細い。後れ毛が張り付いている。渚砂は顔を背けた。
「渚砂さんがお風呂入ってるときにお布団のご用意をしておきますから」
「自分で運びます。あとで場所を教えてください」
「分かりました。何もできなくてごめんなさいね」
「俺は客ではありませんから」
布団に入り明かりを消す。胸が苦しくなった。心臓に病を抱えているわけではなかった。先程台所へ水を汲みに行ったとき、隣の風呂場からシャワーの音が聞こえたのだった。淡いブルーのワンピースに包まれた撓(たわ)わな胸と、とてもその大きな部位を二つも支えられそうにない括れた腰と細長い脚のことを考えてしまうのだった。華奢な線と豊満な肉感を併せ持つ梅子の肉体を打った水滴の音を思い出していた。
今日はそこまで暑くはなかった。渚砂も寒さには弱いが暑さには強かった。しかし熱い。灼けるようだった。汗ばむ。
枕が変わったからに違いない。
彼は布団を捲った。上体を起こすと、運ぶだけ運び、部屋の隅に放っておいた扇風機と目が合った。まだ点ける温度には思われなかった。
新しい住処を見回しているうちに汗が乾いていく。もう一度布団をかぶる。
息苦しさに身悶えているうちに、彼は眠ってしまった。
踏切の警報機の音で目が覚めた。朝の空に谺(こだま)しているようである。遮光カーテンの奥が白く光っていた。
枕元のスマートフォンを手繰り寄せる。時計を見た。電車が通過していった。始発のようだ。
もう一眠りしようかと目を閉じたが眠れず、起きることにした。遮光カーテンを捲り、レースカーテンから朝の光を採る。北向きだが、土地が開けているために朧げな白い明かりが十分入る。
国道を通る自動車やトラックを数台見送ってから部屋を出た。
「おはようございます」
渚砂の眉間に皺が寄る。
「……おはよう、ございます………」
梅子はすでに起きていた。七分丈のシャツとロングスカートは寝間着代わりではなかろう。
「早いんですね。眠れませんでしたか」
「寝られました。梅子さんこそ、早いのでは」
「偶々。今日だけ。目が冴えてしまって。すぐ朝ごはんを作るから、リビングで待っていて」
渚砂は言われたとおり居間に向かった。テレビには朝の情報番組が流れている。卓袱台と扇風機があり、縁側の奥には家庭菜園が広がっている。梅子が世話をしているのだろうか。支柱が立てられ、活き活きとした蔓が巻き付き、青々と茂った葉に覆われている。ミニトマトが生っているのはよく目立った。
それから彼は、抽斗(ひきだし)の上の位牌に目を留めた。漆黒に青金で「童子」と入っている。晴海家の若い男子が亡くなったのだろうか。裏面を見ようと、傍に寄る。
「渚砂さん」
手を伸ばしとき、居間へ梅子が顔を覗かせた。渚砂の手は瞬時に引き戻される。
「はあ」
「パンとごはん、どちらがいいですか」
「ごはんでお願いします」
「分かりました。お布団は食べ終わったら、片付けますから」
「いいえ、自分で片付けます」
渚砂は部屋に戻った。布団を片付け、顔を洗い、着替えを済ませる。脱衣所で洗濯機を眺めていると、梅子が隣の台所から様子を見にきた。
「お洗濯は、ある程度溜まったらやりますから、脱衣籠に積んでおいてください」
「たまには俺も何かやりますよ。洗濯機のボタンを押すくらいはできます」
梅子はばつの悪そうな顔をする。そして強張った笑みが浮かんだ。
「あ………き、気持ちは嬉しいのですけれど、洗濯物はわたしの脱いだものもありますから……申し訳なくって……」
何故、「申し訳なく」なるのか渚砂には分からなかった。脱いだものを洗うのが洗濯である。汚さの話をしているのならば、彼からみて梅子は拒否するほどの不潔さは感じられない。仮にそうでなくとも、衣類の汚れを落とすのが洗濯の目的のはずだ。
狼狽える黒真珠を見詰めてしまった。
梅子は俯き、眉を緩ませる、自身の手を揉みくちゃにしていた。
「わたしの下着とかも、入ってて、あの……その………」
渚砂は稲光に視界を焼かれた気分になった。彼女は遠慮していたのではなかったのだ。婉曲的に断っていたのだ。
「いや、すみません……気が利かなくて、どうも………」
涼しい朝だというのに、着替えたばかりの服が汗ばむ。
「渚砂さんには、見慣れてるものだと思うんですけれど……」
「え?」
しかし梅子は安堵した顔で台所へ戻ってしまった。
暫くすると、居間に朝食が運ばれてきた。盆に乗せた皿が卓袱台へ移される。米と、豆腐とわかめの味噌汁、目玉焼きが2つずつと、たくわんが並べられる。
「これ、足りなかったら」
そして魚肉ソーセージが寄せられた。
「男の人ってどれくらい食べるのか、分からなくて……足らなかったら言ってください。有り合わせでよければ何か作りますから」
「台所を貸してくださるのなら、その辺りは自分でどうにかします」
渚砂は両手を合わせる。
「いただきます」
静かな食事だった。母方の親戚の家にいたときは1人で食べていたが、親戚家族の団欒の声が聞こえていたものだった。今は2人でいるというのに、情報番組がこの場を盛り上げている。
「今日は何か予定はあるんですか」
梅子は躊躇いがちだった。訊ねていいものか否か、声に出してしまっている今でさえ迷っているようだった。
「何も」
「ウィーオンとかはどうですか。映画館もありますし、送りますよ。帰りも時間が分かったら――」
大型ショッピングモールは魅力的な提案ではなかった。
「人がいるところは好みません」
「そう……ですか」
またもや朝の情報番組がひとりで喋りはじめる。
「あの菜園は、梅子さんが手入れをしているんですか」
梅子に日焼けの跡は見られなかった。家庭菜園といえども農作業は農作業だ。土を耕し、苗を植え、水をくれて、支柱を立てたのだ。彼女の外見と農作業が、渚砂には関連付けられなかった。
「あ、あれは、わたしではないんです。庭が広くて、持て余しても雑草が生えてしまうので、近所の人に貸しているんです。ここは渚砂さんの実家なのに、勝手にごめんなさい」
「はあ」
「いつまで貸せるか分からないと事前に言っておいてあるので、もし渚砂が嫌なら打ち切ります……ここは晴海家の土地ですから、知らない人が出入りするのは困りますよね……」
晴れ渡る空に飛んでいくしゃぼん玉のような声が澱んでいる。蜜を張ったような瞳が泳いでいた。
「このまま続けてくださって結構です。俺も庭仕事は得意ではないので。放置されるよりはそのほうが安心です」
「よかった……庭を貸している代わりに、お野菜を分けてもらっているんです。昨日のミニトマトと、昨日のお漬物も。庭に出入りしている方なので、今度紹介しますね」
彼女の声音は元に戻った。表情もカタバミの花が咲くようだった。
「はあ」
渚砂は目を伏せた。彼女の顔も声も毒だ。胸の腹が重くなる。胃に収めたもののせいではない。
朝食を終えると、渚砂は食器洗いの役目を買って出た。梅子は風呂場横の脱衣所で、洗濯物の仕分けをしている。
近くに鶏舎があるらしく、大量のニワトリの鳴き声が混り合い、モーターの回るような機械音を思わせる。野鳥も鳴いている。笛の音色に似ているのはトンビだろう。
泡を落とす水流を絞る。
「大丈夫……ですか?」
渚砂は振り返った。梅子が脱衣所の扉から覗いている。
「はい」
「何か気になることでも?」
「色々な音が聞こえたので」
「そうなんです。雨の上がった夜なんて、カエルの大合唱なんですよ。渚砂さんは、都会からいらしたんですものね……?」
「都会は都会ですが、都会といっても、ビルが乱立しているようなところではありませんよ。ビル群は見えますが……住んでいたのは住宅地です」
皿の水を切る。
「都会のほうが騒々しいと思っていたので、少し意外でした」
「渚砂さんに言われるまで……全然意識していませんでした。聞こえてはいるはずなのに。不思議ですね」
渚砂は隣に来ていた梅子のほうを向いた。彼女もこちらを見た。無防備なほど真正面から捉えようとしていた。瞳孔の奥を抉じ開けようとしているのだった。渚砂は目を逸らす。
「そろそろ、部屋に戻ります」
「待って。洗剤は手が荒れるでしょうから。ちょっとだけ待っていてください」
梅子は居間へ駆けていった。渚砂は揺れる髪と後姿を見送っていた。使い古しのロングスカートと縮み縒(よ)れた踝丈の靴下から見えるアキレス腱の凹凸を見つけると、首の絞まる思いがした。
渚砂が浅い呼吸を繰り返しているうちに彼女は戻ってきた。手にはチューブが握られている。
「大きめのゴム手袋も買ってきますね」
差し出されたチューブの正体が渚砂には分からなかった。受け取れずにいると、相手も困った様子をみせる。
「あまり付けませんか」
「はあ……」
「少しだけ手に取って、塗り込んでください」
彼女は自身の片手にチューブの中身を出すと、反対の薬指で拭い取り、渚砂の手を掬いとる。彼の手の甲に、薬指に纏ったクリームを置く。
「ぃっ!?」
柔らかく円(まろ)やかな肉感と冷たく軽やかな質感に渚砂の口から悲鳴が漏れる。
「え……?」
彼女は握っていた手を放す。黒蜜仕立ての大きな瞳が丸くなる。そして頬に赤みが差した。
「ご、ごめんなさい。あとは塗り込むだけですから。手の甲と、指に……」
早口で捲したて、梅子は脱衣所に戻ってしまった。
心臓の鼓動が速まる。振動によって古いこの家の床は地盤ごと少しずつ沈んでいってしまうかもしれない。
彼は手を張った異種族めいた柔らかく軽い皮膚の感触を甦らせた。そして慄えた。横振動と縦振動が彼を襲うのだった。
試作【TL】夏の日のサマーデイ