「トネリコ」
神話の後の世界か、それとも。
アルネブ
氷雪まだ固き三日月の星空に、一輪の花の芽が咲いた。芽の色は既に定められていて、雪と同じ白銀の瞳、まるで一羽の蛾が羽を休ませているかのような立ち姿に星の息吹は丸く降りかかる、狭霧の繭から覗く世界は音も無く、歪みも無く、静かな自然の動きだけが存在していた。凍る芽は地下の湧水を少しずつ口に含み自身の肌に纏わる霜を一粒ずつ溶かしてゆく、脱いだ羽衣は絹糸となって土に還り芽の行先を示す一部となる。長く細やかで濃い睫毛をひたりと閉じて未だ言葉も知らぬたゞ一輪は身じろぎもせずじっと待ち侘びているけれど、訪れの陽射は直ぐには来ない。光の来訪の前には、先に雨が降る。
世界を逆さまに映して雫は飽くことを知らない。短き十六夜の間も注ぎ続ける雲の糸は鏡の役目を果たす為に水を得る。さらさらと音鳴る夜更けにも、まだ芽は瞳を開かない。大地の眠る横がほに雨は優しく頬を撫で、咽の渇きを感じさせぬ、温もりの慈雨は皮膚に冷たく胸に涼しく天ノ河の眼差しを輝きもそのままに土へと取り次ぐのである。
「近頃、気候が安定しないね。頭痛持ちには些ときついな。」
「おまえは軟弱だから、仮に季節が落ち着いていたとて何處かしら不調を訴えるよ。」
頭痛膏を額に貼る青年は相手の反応に苦笑した、違いない。全く見た目と裏腹に可愛い声で容赦無く言葉を紡ぐのだから。
青年と話をしているのは一匹のぬいぐるみであった。約四十二センチメートルの佇まいは真白ふわふわ、瞳はつぶらな黒目細工、そのうえ短い手足のちょこんと生える胴体にぽふりと羽織るトランプカードの赤いハアト模様のマント、アリスの世界からぽんと飛出して来た兎のぬいぐるみ、名前はポポロン、幼女が親しみを感じそうな、否、年齢性別人種も問わず一度は誰もが抱きしめたくなるような愛される為に生れてきたよなうさちゃんだが、青年に軟弱と言い放ったのは紛れも無くこの子であった。
ポポロンは青年とそれなりに長い付き合いである。彼が小学生の時分にショーウィンドウ越しに初めて出逢い、その日から一生懸命貯めたお小遣いで中学生になってようやく家にお迎えした、それから十年以上は経たが大切にされたぬいぐるみ特有のくったり感はあるものの染みも汚れも無く綺麗に整えられた毛並と服はポポロン自身も鼻が高い、その感謝は常に忘れることは無いが、如何せん発言が厳しいことは変えられないし、変えようが無い、生れる直前に与えられた天性のものであるがゆえに。
「ポポロン、ところで明日はどうしようか。」
「儂に訊くな、ハーゼ、君はもう少し自分で考える癖を付けた方が良い。おまえは何でもかんでも儂に任せっきりで甘え癖が染み込んでいる、それでは旅の目的も達せられんぞ。」
想像さるるがいゝ、キュートを煮詰めた愛くるしさの塊が老人のお小言を続ける声を、状況を。ハーゼと呼ばれたおっとり顔の上品な面持ちの青年は楽しそうにくすくす笑う、そのふっくらとして薄い桜を溶いた唇から覗く歯は宝玉の如く艶があって白く光る、零れる呼気は藤の花の清廉さにも劣らない。
「そうだねポポロン、歩きたい所に歩くが良いさ。風の音によく耳を澄ませて…なんてね。」
ハーゼはカーテンを引き窓の外の景色を一旦閉ざした。部屋の中と違い、彼方側は止むこと無く雪が降る。ただ我々の知る雪と一点違うことがあるとすれば、その雪達には一本ずつ旗が刺さっているということだ。
早見盤
天体を繋ぐ銀河の水脈があるように、世界の鏡を崩さない為の一本の樹がある。樹は大樹と表しても誇張にはならぬ程遙か見上ぐる丈があり、その根は細やか且つ芯が強いので何度か世界が滅亡を辿った際も燃やしつくされることが無かった。ハーゼとポポロンはその樹にトネリコと愛称を付けて呼ぶようにしていた。
トネリコは嘗て神話の世界ではユグドラシルと名付けられて一目置かれていたが、神々の世界から人間生物への世界への裏返りの際一度は過去の悪しき遺物として見捨てられた。しかし再び世界に根づき繋ぐ役割を与えられた。丁度二度目の根を張り若芽を育んでいる時にハーゼとポポロンは大樹に出逢ったのである。一人と一匹と一本がその後どのように過ごし今どうしているかを続ける前に、もう少しだけユグドラシル、今のトネリコについて説明をしておこう。何故見放された樹がまた望まれることになったのか、その顛末を。
人の手から捨てられた後、ユグドラシルは彷徨っていた。世界の終りを見るのは初めてではなかったが、その度に灰とならない大樹を仰いで生命達は復興への意志を抱くようになっていたのに、必要無いと見限られたのは今回が初めてである。植物は人の言語を話さないだけで、他の動物や人類同様種族特有の言葉を扱う、ただそれが人には聞き取られないので常に黙って在り続けるものと誤認されているに過ぎない。ユグドラシルは此時泣いていた。
植物の涙は一般的に雨露となって空へと昇り空から降る仕組みであるが、神話に登場する大きさのものになると雫ではなく星屑となり地を照す光へと化すのである。
一度世界は炎に包まれた。そして二度目は氷に覆われた。世界が澤山の悲鳴諸共に壊れて行く度にユグドラシルは傷つき悲しみ星の破片を零し続けた、其等は最初一粒では形を成さなかったが、複数になるとやがて自分達を希望の糸で繋げるようになっていった。星は糸を呼び星々は互いを呼び合い、ユグドラシルの涙は星座へと進化を遂げ、空はもはや孤独ではなくなった。惑星の周りには命を宿した星座が駈け、月はようやく光を取り戻し、満月の姿から徐々に瞳を閉じていけるようになった。月が欠けるのは或種の良い兆候であるとあまり人は言わないが。
ユグドラシルとハーゼが思いがけず巡り逢ったのは星座の遠鳴りの為であったかもしれぬ。行く当ても無くポポロンだけを抱いて彷徨っていた青年の姿にユグドラシルは己の過去を重ね合わせたのであろう、ユグドラシルは彼に道行きの標を与えた。其は円形の地図で一般的には星座早見盤と呼称される万華鏡の類で、ハーゼの瞳孔は此が為にもう一度水晶の湖面を映すことができたのである。
「星座は緻密なようで気まぐれなんだと。要は何處に行ったか分らなくなった星座を呼び戻せば良いんだ。トネリコが心配しているから一度は顔を見せに来いって伝える、それが儂等の任された仕事だろう?」
巨樹は“ユグドラシル”以外の呼び名が気になるらしい。
「何だ、別に構わないだろう?此奴は神話や伝承物語を多少は齧っているからユグドラシルがトネリコの樹だってことを知っている、此奴が知っていることは当然儂も知っている、儂はおまえを元の植物名で呼んでみたい、ただそれだけのことだよ。」
初対面ながら兎のぬいぐるみのぶっきらぼうな物言いにトネリコははらはらと若葉を搖らし幾つか星粒を零したようだった。決して傷ついたのでも悲しんだのでもない、人とて涙の見目は同じ。
「トネリコ任せてよ。僕等はこう見えてもタフなんだ。君の探す友人達を探しに行くよ。」
幽明の誓いは結ばれた。トネリコの友を探すハーゼとポポロンの旅はこうして始まりの鈴の音を響かせたのであった。
紫の旗
ハーゼとポポロンの故郷はもう雪しか降らない世界にされてしまっていた、そしてその雪が前にも述べた通り一つ一つ旗が留められているもので、大きさとしては我々の理解の内に在る雪と寸分 違わない。しかし此の小さな一粒一粒の中に、地球と同等の生命体が存在しているとなればどうであろう、踏み遊ぶことを躊躇わないか?
「トネリコの住む世界に降る雪も、僕等の世界に降る雪とよく似ているだね。」
ハーゼは三角屋根の我家のリビングに据えた暖炉の傍、ゆらゆらと籠のような籐椅子に深く身体を沈める手にマグカップを持ちながらポポロンに話し掛けた。橙色のマグの中にはポポロンお手製のブレンドティーが淹れてある。
「呑気な奴め、最終的には小さく収まっておしまいってだけだろうに。それをきゃっきゃとはしゃいで全く…図体だけは大きくなって中身はまだまだお子様だな。」
呆れて溜息をへッと吐きつゝも茶葉や果物達を混ぜる手は休めない。
「そうかなあ。そんならトネリコは最初から結末しか教えてもらえなかったんだね。」
何だか寂しいや、と呟く声と一緒に湯気 温い紅茶を啜る。自らの世界の始末より他の世界の心配をする並外れたお人好しにはもう慣れたのか、ポポロンは何も返さなかった。ハーゼの場合優しすぎる、と言うのではなく焦点の当て方が他と大いに異なるとすべきをもうとっくに理解しているような、きょとんとした円い瞳の色を一切変えることも無く。
(そして土壇場になってからおまえは喜怒哀楽を放つんだ。)
「全く成長しないなおまえは。」
ハーゼは恥じるように照れるように微笑んだだけだった。
その王国の名前は、もう語られることは無い。言葉も意思も無かったことにされてしまった郷里は誰の口からも手からも遺されることは認められなくなっていた。憶えていることを許されなくなった王国こそ、ハーゼとポポロンが昔住んでいた場所なのである。国の名を出すことは叶わないが、其処で彼等がどのように生活していたのかを知ることは出来るので、少しだけ昔の話をしよう。
ポポロンはぬいぐるみ職人に作られた一点物で、ハーゼは他と同じ教育を受ける男児であった。鋼鉄のランドセルを背負い寄り道もせぬ彼は視線を上げることすらしなかった。それでもポポロンに気が付いた訳と言うのは、一羽の蛾によるおかげであったのだ。
普段通り通学路を俯向いて歩く少年、天気は快晴、よくある構図に相応しくないハーゼの暗い顔。それもその筈正直なところハーゼは学校が嫌いだったから。ランドセルは重たく、教師は子供と目を合わせず、子供も大人と目を合わせない、にも関わらず黒板は埋めつくされチョークは削れホワイトボードは回転しインキは消費される。まるで水槽に間違えて滅茶苦茶に突込まれた魚類のような空間で何を望めば良いのであろうか。疑問を抱きながらもいつもの動作を断ち切れない自分にも嫌気がさす。また目頭にじわりと悔しさが滲む時、少年の目の前に白い蛾がフワリと訪れていた。
驚く声も呑み込んでまじまじ見つめる。ホバリングする蛾の顔は精緻で端正なつくりだった、蝶々のようにひょろりとはしていないぽってりしたフォルムに大きな黒曜石の一双の眼、花の蕊のように手招く陶器の口吻、くっきりとした目鼻立ちなのに輪郭は冬の雪雲に非ず春の朧雲、剛力の風が一陣鬨の声を上げたら忽ちに散ってしまいはせぬかと見る者に雨夜の桜を催させる佇まい、伸ばそうとした指を慌てて背中に隠す様は凶行を踏み留まった改心の強盗の焦る姿によく似ていた。そのまゝ手足を一本も出さないように注意した格好で少年は自分を見つめる蛾を見つめていた。声を出すことはおろか息をするもの遠慮する男の子の呼吸がそろそろ苦しくなったことを気付かせる為か、蛾はふいと横道に飛んで行く。胸に一気に澤山の酸素を吸ってハーゼは蛾を追い駈けた。
此処まで申せばお察しいただけるであろう、蛾の向かった先には何が建っていたのか、硝子越にハーゼが何を見たのかが。
学校の指定通学路に含まれていない道の途中に一軒の道具屋が在った。店主は留守なのかCLOSEの看板がドアに吊下がっていて、店の中は外のショーウィンドウを兼ねた窓越しにしか窺えない。
蛾がくるくると旋回している場所に立って見てみると、世界中の愛らしさの寵愛を受けてハーゼの顔を上目づかいに首を傾げて見つめトランプのハアトを着る白兎。胸を抑えて下の値札を確認すると、もう数年貯金すれば身近な金額になる。ハーゼは此の日から勉強も家のお手伝いも自ら進んで任された。小さな感謝の積み重ねがあの子を迎える道を造っていると信じて。
中学生になっても店は外観もディスプレイも変わっていなかった。相変らずCLOSEの看板が吊り下がっている夕方前。
「すみません。」
ハーゼは店主を探すも店の周りには誰も居ない。そう言えば此の店が開いている時を見た事が無い。朝・昼・晩と隙を見つけては様子見に行くものの、誰かが出入りする様子も無い。店の周囲の土地は数年で様変わりしてマンションや駐車場や空き地になっていくのに対して身まじろぎもしない道具屋は取り残されたようにも、住み続けているようにも目に映る。
(もしかしたら、不思議な館、なのかもしれない。実は魔女のお婆さんが暮らしていて、秘密の魔術で拵えた品物を売っているのかも?)
蛾に逢うた日からハーゼの素直な想像力は年々磨かれ続けていたので、此年になっても斜に構えたり変に捻れることはもう一度も起こらなくなっていた。
「入ってみようか。」
素朴は時に大胆に大化けする。銀と黒の相交じった螺旋模様の手摺を握ると一気に中へ押し込んだ。だが、店の中には人一人居らず、商品とその後ろに小さなラタンの籠が置かれているだけで、覚悟していた「何者だ」も「いらっしゃい」も聞えない。ハーゼは兎のぬいぐるみの置かれている位置まで歩きバスケットにお釣り無しの金額を入れて、お目当ての可愛い子ちゃんを両手で抱いた。
「待っててくれて有難う。遅くなってごめんね。」
頬ずりをする。ふわふわ、と喜びの感想を言う間も無くハーゼは自宅の前に立たされていた。あれ、と左右を見る首の忙しさにわざとらしい長い溜息で気付かせる。ようやく両者の視線が合った時、ポポロンは名告った。
「儂はポポロン。紅茶隙の白い兎さんだ。今日から宜しく頼むよハーゼ君。」
最初の時はもう少し愛敬と丁寧さがあったよねと口に思えば
「可愛気が無くなったって言うなら大間違いは其方だぜ。」
言う前に言い返されてしまったハーゼ。茶葉等をガサガサワシャワシャぬいぐるみの芸当とは思えぬ巧みな技術でブレンドティーの素を作っていく。
「おまえが子供の頃から一寸も変らないから、儂だって変わってはいない。当然だろ。」
僕の友、僕の相棒、君の存在に何度救われたことだろう。
或日世界が断罪されて、家の屋根裏で遊んでいた僕等以外一人も居なくなった時も
家族や親戚、クラスメイトの名前から始まり存在していた命や建物の名前までも忘れて行った時も
逆らえない処罰の後に世界が点々と雪玉になって空へと昇って行くのを見ることしか出来なかった時も
そうして故郷が一欠片の雪の結晶になってトネリコの住む場所に降っているのを見た時も
「すっかり変り果てたな、此処は。」
特段感情も有さずポポロンが言う。ハーゼとポポロンは紫の旗が刺さる雪の中へと赴き遠い日の故郷の街並みを歩いていた。
「この平地、何が建っていたか憶えている?」
ハーゼはピクニックに来た児童のような調子でポポロンに質問していた。
「マンション?だったかな、否、学習塾だったかも。」
「よく憶えているね。一階が学習塾のテナントになっているマンション。正解だよ。見事なものだね。」
「別に褒められたからって嬉しくないさ。マンションにも塾にも固有名詞が与えられてたのに今じゃ取っ払われてしまってどこどこのマンション、だれだれの塾、ただの俗称にまで堕とされているものを言ったって意味がないだろう。」
相棒の言葉に青年は微笑んだまま俯向いた。失敗しちゃったかなーと口に出さずとも聞えて来る。
「儂の退屈を紛らそうとしてくれたんだろ?ハーゼ、おまえの想いはよく分かっているよ。気にするな、退屈だなどと不貞腐れている訳じゃない。トネリコの譲さんに頼まれた仕事は大切な仕事だ、あの子の傍に居てくれて寂しさを和らげてくれた友人を探してあの子に逢わせる、そいで友人同士お話だって澤山したいだろう。その為には必ず見つけて元気な状態で連れ帰らなきゃいけないだろう、責任重大だ。」
「おやおや斜に構えている気難しい性格かと思ったけれど、やっぱり君は優しいんだねえポポロン。要はトネリコがこれ以上悲しまない為に張りきっているんだろう。よし、君の熱意は僕も受け取ったよ、嘗ての僕等の古里に迷い込んだ星座さん達を探しに行くぞー!」
ハーゼのポポロンの秘めて普段露わにしない情熱を汲み取り改まった面持ちで構えたのは良かったが、
「星座さーん、何處ですかー、居たら応えてくださーい。」
馬鹿正直に大声を出すのは褒められた行為ではない。此の雪片の中の世界では特に。
「ハーゼ!音量下げろ、っていうより黙りなさい!」
「ポポロン?でも此処にはもう僕と君しか居ないよ、他は昇華されたじゃあないか。何を心配するんだい?」
「こ、これだから学校出身の奴は。民俗学を教えないからハーゼみたいな盆暗が出来るんだろ!」
「何さ急に声のトーンまで一気に下げて瓦礫に隠れちゃってさ…腕を掴む力がとても強いよ、もう少し」
以降の言葉は空気を震わせなかった。黙っていなさいと再度注意する勢いでポポロンのぬいぐるみの手がハーゼの口をむぐっと抑えこんだから。しかし、この状況に似つかわしくない声が上がっている。
「悪いことは何もしていません、悪いことは何もしていません。」
「見捨てないでください、置き去りにしないでください。」
「まだやり残したことがあるのに、帰してください、お願いします。」
「これは私達の罪なのですか、それとも他の人間達の罪ですか。お答えください納得できる説明を」
バラバラと呻き声の聞える雪は二人の居る反対側に降り積っているようで、他の雪が土に触れた途端再び空へ戻る為にじゅっと溶けていくのに対し、唸る雪粒達は溶けきれずに残っているらしい。眼を見開くばかりのハーゼにポポロンがそっと教えた。
「世界の処断を受け容れられない奴等だって当然呆れる程居ただろうさ。でも空の喜び、空の世界を知った者は地上への未練を忘れると聞くぜ。」
「それでも忘れられなかった誰か達の念が集まって…?」
「あゝいうぞりぞりと這い蠢く雪山になってしまったのだろう。今おまえが出した声に反応して此方へゆっくりやって来ている。」
「じゃあ、雪山を説得するの?」
「馬鹿。儂達は説得の為に遣わされたんじゃないだろう。この早見盤を使って星座を見つけてトネリコの元に一度戻るように説得することが仕事だ。話さなくてはいけない相手を誤るなよ。」
何も言い返せなかった。
星座は程無く見つかった。重力も左右もあやふやになった場所で雪山の無い場所を探していくのは骨が折れたが、まだかろうじて屋上を残すビルで空の観察を始めることが出来た。
「この星座は無いから、トネリコの傍に行ったんだろう。」
「その隣の此奴も空には居ない。」
「大抵の星座がトネリコから離れていないね。」
「まあ世界樹さまだからなあ。」
「うーん…」
二人は同時に軽く唸り、早見盤から目を外した。
「紛れてないんじゃ?」
「そうなら此処に儂達を連れてはこないだろ。居るから任されたんだ。でなきゃあ…国名も地域の名前も忘れさせられた故郷なんかに戻るか。」
それもそうだ。もう一度くるくると早見盤を覗く、すると、雪降る白い空がぐるりと回り、ハーゼが瞬き一つした間に空の色は全て黄昏へと染まりなおしているではないか。
「あ、」
「これは、」
二人は互いに顔を見合わせた。あの日、屋根裏の小さな窓から二人一緒に見つめていた空の色だ。
「時間が巻き戻ってる?」
「まさか。変わっているのは空だけだ。空の色だけが変わったんだ。」
遠くには微かに雪山の呻き声が聞える。一体何が起きたのかハーゼとポポロンがまだ警戒を緩めない時
「はじめまして。」
黄昏の中央辺りから凛とした声が響いた。
「どちらさま?」
「ハーゼ、間抜けも大概にしなよ。空から話し掛けて来るのは大抵正座だろうに。」
空を仰ぐ青年と俯向き首を横に振るぬいぐるみ。声はクスリと笑ったようだ。
「そちらのふわふわ兎の言う通り。星は単体では声が小さいから地上にまで届かないけれど、星座を形作ったらこうやって地上のもの達と会話が出来るくらいには聞き取れる大きさになるのです。」
「ははあ、では貴方は星座なのですね?」
「えゝそうですよ坊や。私は星座、時計を拝命した星の集まり、時計座です。」
「とけいざ。」
「そう。坊やが手にしているのは万華鏡だね。早見盤になっている絡繰のものでしょう。それで私を探しに来てくれたのかな?」
これまでポケっと頭上を仰いでいたが、ハーゼは急に視線を落し黙りこくってしまう。てっきり時計座と呑気な会話を始めるものと予期していたポポロンはギョッと驚きもふもふの両手でぽふぽふとハーゼの脚を叩く。
「おいハーゼ、どうしたって言うんだ。急にそんな、おまえ…元気を失くして、何を考えたんだい?」
「坊や、私、何か嫌なことでもしてしまったのかな…?」
星座と兎に心配され宥められてハーゼはようやく口を開いた。けれど涙混じりの低い声で。
「…如何してトネリコの元へ帰らなかったの?貴方は優しいひとに思えたから余計に…友達を放って置くようなひとには見えないのに、どおして…?」
時計座は言い訳をしなかった。人間の青年の優しい心に正直でありたいと思ったのであろう、ほんの少し間を置いて、理由を語って聞かせてくれた。ポポロンが相棒の肩へとよじ登り、肉球の無い掌で頬を撫でては涙を拭う。
「彼女も、君も似ているね。他のひとに優しすぎるくらいに、優しくて穏やかだ。……私はね、ユグドラシルが…トネリコがひとりでは出来ないことをしたいんだ。」
「出来ないこと?それはトネリコと一緒に居ても出来ないことなの?」
「一緒に居ては果せない使命だ。私は、此の国が滅びを受け容れた時の様子をよく憶えている。終りとはこんなに静かに訪れるのか、広がるのかと改めて思い知らされた。叫びも嘆きも抵抗も、波乱も高鳴りも起きなかった、人々は朝日を迎えるように、次の日が来るのを待つようにして絶滅していった。……神話の時代から見てはきたけれど、何度経験しても慣れないものだ、それはトネリコも同じだったろう。」
今でも憶えている。古来より滅びは新たな誕生と理に組み込まれ刻まれ続けていたので、一つの世界の終焉で零す涙は次の世界への祝福の雨と謳われてきたが、トネリコが流し続けてきたのは哀しみの涙であった。他が目にはさぞ明るい星と映っただろう。
神話とは人の言葉により語り継がれてきたものだ。人語が用いられる以上人間の思想思考を含めないことは出来ない、どれだけ客観的に単語を羅列しようが人の枠組みからは離れられない。人は常に希望を見出そうとする、それは生物が呼吸を止めないのとよく似ていて、どのような不条理に揶揄われても旭を探す本能である。ゆえに人は悲しみを悲しみのまゝで終わらせない、其点こと世界樹と人間の決定的な差異なのだ。
「トネリコは滅びた世界を見つめ続けることに耐えられなかった。」
悲劇から目を背けることは悪しき行いではない。
「此処は、坊や達の故郷なんだろう?」
此の場合の沈黙は肯定であった。
「君達は、此処をどう思う?国の名前も奪われて、独自の物の名前も分解されて、雪の中に収まってしまった此の場所を、君達はどう捉えている?」
時計座は春夜に散る桜花の声でふたりに尋ねた。
「儂はハーゼに手にしてもらえる迄半ば眠っていた。あまり店に並んでいた頃の記憶はうっとりとしてあまり憶えていないが…店主の声は何となく聞えていたから幾つかは思い出せる。」
「あの店に?店主が居たのかい?」
「おまえが知らんだけだハーゼ。店が建つなら店主は必ず居る…まあ知らんまゝでも良かろうよ。ともかく奴はよく嬉しそうに話していた、“此の国の行末が楽しみだ”とな。」
「それは、いつ頃?」
「ハーゼが迎いに来てくれるうんと昔だ。学校が新しくどうのこうの言っていた気もする。とにかく、人間くさい諦めの悪そうな野郎だったかな。あの零れ落ちんばかりの眼の光、見たくもなかったね。」
「やっぱり居たんだね、そのような人が。」
「でも今では…」
「そうさポポロン。だから私は此処に留まるんだ。」
まだハーゼは首を若干傾げているが、ポポロンはとうに出立の準備を始めていた。早見盤を陶磁器のケースにしまい小脇に抱えて真直ぐに立っている。
「坊や、私は君達の故郷が芯まで滅びたとは思わない。確かに固有名詞は手離されて国の意識は薄まりつつある、けれど、まだ未練があんなにある。若しかしたらあの中から現状を大きく動かす存在が突出してくるかもしれない。雪に閉じ込められた王国がそのまゝ理に従い全て空へと昇って行くのか、それとももう一度王国で生活する為に理に抗い生存を続けていくのか、私はそれを見届けたいのだよ。
トネリコの傍で彼女に寄り添うこともトネリコの心を掬う手立てだろう。けれど私は、此の王国を信じたんだ。一度信じたものを易々と見限れば星の名折れ、私は此の王国が再び生命を宿す水の炎を咲かせられた時、トネリコの元へ戻って伝えるよ、久し振りの再会にはとびきり嬉しい報告があった方が良い!」
確かにそれは、トネリコには出来ない仕事だね。
「分かったよ時計座さん。君の意志は彼女に僕達が必ず伝えます。それと、有難う。僕等の出身国をそんなに大切に想ってくれて、信じてくれて。僕の寿命では見届けることが叶わないかもしれない数千数万年後の王国を、どうか見つめ続けてやってください。」
「勿論だよ、任された。星座を探しにきたのが君達ふたりで良かった。達者でね。」
「儂は人と違って寿命が無い不老不死だから、いつか暇になったら遊びに来てやろう。その時は土産話を期待しているからな。」
微笑み合ってハーゼ達と時計座は別れた。星座はずっと見て来たのだ、滅びたものが姿を変えて新しく生き続けていることを。
報告後と君が来る前のこと
「トネリコ、また泣いてたね、泣き虫さんだねえ。」
「嬉し涙だって綺麗だったな。同じ星屑でも重量が違う。最初の報告がハッピーエンドで助かった。」
「また泣かれたら困るから?困るのは君の胸が痛むからじゃあないのかい?トネリコ!儂が何とかしてやるぞーって想うからじゃない?」
「若造が!知ったことを…!」
「じゃあ聞かせてよ、君の話を。」
はあ。故郷から戻って来てから妙にむくれていた理由はそんなことかい。儂が自らの過去を教えないから面白くないのだろう。
「知りたいか?童話みたいな話じゃあないぞ?それでも良いんなら」
「早く話してよ。」
顔だけ可愛いのは何方だ。
その男は自らの生れ育った国を愛していた。環境に恵まれていた男は住む場所の近辺をこまめに掃除したり、植物の手入れをしたりと、誰でも出来るような慈善行為を他人に見せびらかす傲慢もせず、街の端っこでおとなしくさゝやかに暮していたと言う。
男はぬいぐるみを作る職人だった。幼い時に工作したぬいぐるみを褒めてもらえた事を忘れたことは無い。しかし国はぬいぐるみを重要な産物だと考えることは一度足りとも無かった、むしろぬいぐるみは教育・成長の妨げになると恐れられ、迫害された。丁度男の住居兼工房の近所に学校が新しく建つ工事が始まった頃の話である。
男は一人暮しだった。正確には人間は男だけだったがぬいぐるみが澤山居たので孤独では無いし、彼の産み出すぬいぐるみは皆素朴な愛らしさを備えていたので、男は澤山の弟と妹に囲まれてよくお話をするので忙しかったから寂しさを特段感じることは無かった。
「今日はどのお話にしようか。」
工房から自宅に帰る際庭を通らなければならない。其の庭は男が祖父、父、自分と受け継いできたもので、雨の詩と花の旋律を奏でる秘曲の庭であった。廊下と庭を区切るエメラルドの柵を越え足を片方踏み入れると、ラムネのように丸い青い菫の水晶が鈴のふれあう音を鳴らす、さざ波の調べは桂のシャンデリアに火を灯し序章は庭全体を照す。槐、榎、楡、樟、高木はいずれも凍る炎のルビーの木肌、オパールの葉に莟のアクアマリン、小さい花々はラピスラズリの艶を放つ。絶えず降り注ぐ雪の三日月の欠片はしとしとと草木花に潤いを与えて一日とて雲の水車を止めた例が無いと聞く。此の常ならざる庭は人目に付かない生活を細々と確実に続けて来た男だからこそより一層天然の輝きを放つのかもしれない。
「じゃあ、今日は此の物語にしようか。」
男は宝玉の樹に話し掛けると、ラピスラズリの花は今度水晶の一葉へと姿を変えてぽとり男の掌に落ちてくる、不思議や人の肌に触れた途端葉は一冊の本となってパラパラ頁のそよぐ音。
庭をくぐって帰宅すればまだ眠気の取れない瞳でむにゃむにゃと寝言のように
「おかえりなさい」
とぬいぐるみ達が口々に呟く。男が仕事をしている間かれらはどうやらお昼寝をして待っているらしい。
「ただいまみんな。今日も本を借りてきたよ。」
その言葉に兎や狐や猫や仔熊達がワッと喜び起きて男の足元に集まって来る。わにゃわにゃと戯れるぬいぐるみ達を叱りもせず男はウッドチェアーに座り、足元、膝の上、肩、頭などに弟妹を載せたまゝ本を読み聞かせ始めた。
優しいぬいぐるみ職人のティラには一つ、気掛かりな心配事があると言われても、余人はなかなか信じまい。こんな穏やかな日常を過ごす者に何の不満が生じるものかと笑うだろう。
ティラの家のある場所は学校の指定通学路から大きく外れていた。尤も子供を学校へ行かせるのにティラの住む辺りを歩かせようなどと考える親はいないだろう、ティラは前述した通り国からは愛されていなかったのだから。
それでもティラは小学校が創立した時は嬉しかった。此の国の行末が楽しみだと常々思っていたし、ぬいぐるみ達にもよく話した。けれど彼の期待とは正反対に弟と妹達は心配そうな仕草をよくした。顔の表情が一見変らないとは言え、よく見ると不安気な空気を湛えているのも気掛かりで、ティラはぬいぐるみ達に訊いてみた。
「みんな、如何して悲しそうな顔をしているんだい?新しく学校が此の国にできてから何だか元気が無いようだけど、怖いものでもあるのかい?」
ぬいぐるみ達は互いに顔を見合わせて黙っていた。言えばティラを傷付けるかもしれないと心配しているようだった。
「僕なら大丈夫だよ。正直に話してほしいんだ、君達だけに悩ませておくわけにもいかないからね。やっぱり、学校が建ったことが気になるの?」
かれらに隠し事は向いていない、ぬいぐるみ達は観念して口を開いた。
「あの学校が建ってから、ぼく達怖い夢を見るんだ。みんな同じ悪夢を見るの。此の国がね、忘れさられてしまう夢。」
「忘れさられてしまう夢……」
まるで神話に於ける罪の街の再現だ。記録も記憶も認められずに存在自体を奪われてしまう極刑、それが、まさか、此の国に?
「それにねティラ、あの学校が造られた場所って、前は星見の為の観測台が在った所でしょう?学校を建てる為に壊されてしまったんだって、庭に来る小鳥から聞いたんだ。彼處は…」
以前のティラの職場である。ぬいぐるみ職人には当初なる予定は無かったのだ、星見の仕事の傍で趣味としていそしみたいと考えていたものをまさか本職にしようとは昔の自分が知ればさぞ驚くことだろう。
「そうだね、僕の職場だった所だ…此の王国は誕生した時から星見の職と共に在ったのだけれど、時代の流れが巻き戻ってしまったのだろうね、今時星見なんてくだらないと……当時の王と国民達に追われて雇いを解かれてしまったんだ。これからは啓蒙の時代だと…」
石を投げられたっけ。口にすると悲しくなるから声には出さなかったけれど。
「きっと学校を建てた場所が良くなかったんだよ。でなきゃわたし達怖い夢見ないもの。それまではあんな夢一度も見たことなかったもの。」
弟と妹達の心配をどうしたら拭ってあげられるだろう、ラティは仕事も忘れてその事ばかりを考えた。
「忘れられてしまうのなら、あの子達も、庭も、例外ではないのだろうな。」
工房には数年ランプが点かなかった。庭と家を往ったり来たり、かと言って妙案を思い付くでもなし、ラティは玄関前にて育てているハーブや果物を収穫しては紅茶や食事の材料にしてもくもくと食べていた。ぬいぐるみを作ってほしいと依頼する者などもはや故郷には居ないのである、そんな事、星見の台が壊された日から分っていた。
「星の声はとても小さいんだよ。」
夕食の時間、ぬいぐるみ達と向き合って話をする。
「一つ一つでは人間の囁きよりも小さな声さ。けれど星々は自身に道があることを見つけた、その道はやがて離れた位置に居る他の星と繋がったんだよ糸のように。そうやって空に新しく生れたのが、星座なんだ。星見の台に勤める者は星座の声を聞いて大衆に伝えるのが使命だったのさ。
勿論星座だけではないよ、惑星同士が奏でる音楽に耳を傾けて…一見混沌に思われる宇宙の暗闇の中にも銀河と言う秩序が絶えず流れている。秩序を必要とする人類の助けになるからと国王自ら設立に熱意を以て取り組まれていたのだがね。
大昔の話さ。
解雇された事自体は苦しくなかったよ。自宅菜園で自分の食べる分は育てられるし家だって祖父さまの代から受け継いでいる物だから衣食住には困らなかったんだ。僕が恐れたのは時代の流れ…風潮って言えばいいかな、人々の認識が昔のまゝじゃあいられない事自体が恐ろしくってならなかったのさ。」
コトリ
スプーンを持つ手をテーブルに置いた姿でラティは一時停止した。瞳は瞬きしているものの泉の淵のように淀んでうっすらと雪を被っている。
自分には子供もいなければ弟子もいない。死んだ後には誰が弟妹と暮らしてくれるだろう?悪夢が現実に起こればだれがあの子達の存在を記憶していてくれる?現時点で自分にもその“誰か”は見当らない。
今いないのならば未来に賭けよう。
日に日に砂時計の速度が速まっているのを感じてはいる、感じていても手の出しようも変えようも無い、ならば、未来の者から身勝手だと怒られようが託すしかない、ラティは長い間消していた工房の明かりを再び灯した。
「皆、集まってくれないかい。」
ラティの呼び声にぬいぐるみ達は喜びながら全員集まった。
「ラティ、何かすてきな案が思い付いたの?」
「此処に来るの久し振りだねえ。」
「新しい子を作ってくれるの?」
「今日は顔色が良いみたいだね。」
いつまでも変らない愛しい眼差しに鼻の奥が小刻みに震える、滲みそうになる視界を叱咤して彼は穏やかに微笑んだ。
「皆が好きな…アリスの物語を憶えているかい?」
不思議の国のアリス、まるで今の世界を予知した如く言い当てたその書物はラティ達のお気に入りだった。縦横無尽な想像力が次は何處へ連れて行ってくれるのと庭に揃ってどきどきしながら頁を順番に捲った回数はそれこそ星の数であろう。何度も何度も飽きることなく読み続けた、此の作品の姿を借りる。
「僕は帽子屋も不敵な猫も大好きなんだがね、やっぱり真先に思うのは白い兎なんだ、いつも君達と暮してきたおかげかもしれない。主人公よりも思い入れのあるキャラクターに、僕達の生きた証拠を託そうと思う。そして、未来に生れた誰かに、白兎のぬいぐるみに逢いに来てもらえることを祈って。」
ラティとぬいぐるみ達は作業に取り掛った。澤山の物語の夜明けに誕生したのがポポロンなのである。まだ名前の無い一番末のきょうだいはもうしばらく夢と現を彷徨うだろう、けれど必ず君を迎えに来てくれる人がいるから、その時になったらぱちりと目を覚まして、自己紹介をするんだよ、どんな人が訪ねるかまで見届けてあげたかったけれど、迷子にならないように皆で傍に居るからね、どうか君に、新しい物語が澤山出来ますように。
話し終えたポポロンとハーゼの頭上に、雪と灯る北極星が光っていた。
北天
紫の旗の雪の中を探索し終えた後、ふたりはトネリコから貰った小屋に住んでいた。昔住んでいた家と似ている方が良いかもしれないと彼女が気遣った結果、三角屋根で実家によく似た暖かな一軒家をくれたのである。トネリコは過ぎた配慮だったろうかと悄然としていたが、ふたりは真逆、喜んだ。
頬の色が似た色に染まっていくふたりを眺めて、彼女の心は少し軽くなったみたいだったが、まだまだ問題は積まれている。
先ず読者には”北天”について話そうか。北天とはハーゼ達が暮している場所の名称であり、灰色水晶の清廉を借りる雑草達が整えられている足元一帯、其処が北天である。此処は今の世界の枠組みに入られない者達の中途地点で、様々な世界からトネリコに掬われた俗にはみ出し者が等しく深い眠りに沈んで亡国の故国の夢を見て寝たまゝ涙を流すものだったが。
「今日も起きているのか。」
ふたりを起こした家の内に入って来た蠍座が声を掛けると、ハーゼとポポロンは大きな欠伸をして目を覚ました。
「お、蠍座かい。次の雪は何の旗に入れば良い。」
「あーさーごーはーんン……」
人は寝汚いなあ。ぬいぐるみは起きた瞬間脳がフル回転し始めるのに、人間は三時間程掛かるんだってね。
「今紅茶淹れてあげるから一寸待ってなよ。」
蠍座はシャウラと呼ばれる尾先を器用に操り茶葉の入っている群青の缶を取り出した。ポポロンは手早く自身の毛並を両手で整え済ますと蠍座の居るキッチンへと移動する。壁に掛けてあるスキレットを手にしてコンロにふっと息を吹く、すると炎はフライパンを戴く準備を終らせた。玉子を割ってベーコンを入れてジュージュー焼く間にパンを皿に盛ってマーマレードをたっぷり付ける、堅いパンはジャムの甘さで程好く和らぎお気に入りのブレンドティーの催促をする。もう少し、蒸らす時間はきっちり二分と四十六秒、ハーゼが二段ベッドから降りて来てキッチンに来たら完成の合図。
「ほらハーゼ、いただきます。」
「いただきます。」
紅茶を飲んで心を覚ます、よくある朝食の一風景。北天に居ながら日常を続けるなんてなぁ、蠍座はふたりが来る前までの北天を少し思い出していた。
青空の無い空は黄昏と夜を目的も無く往復し、地面は鉛色に濁った大小悩乱の石達が形も不揃いに広がっていた。自我を溶かして綿毛になった何處かの誰か達は根付く事も出来ずいつかそのまゝ消えていくだけだった北天、何處からか追い出されて何處への羽ばたけず死にゆく嘗ての生命に同情が無かったと言えば噓になる、実際世界樹の乙女は悲しんでいる、だが蠍座は無垢なる友ほどかれらを愛することは叶わなかった。そしてその性格は今になって発現したものではないことも自分で理解していたのだ。
生命の育む営みは、温かいものである、温もりを備える其等を隣ではなく空からではあるが眺めているのは喜びを感じる仕事だった、生命が誕生し、涙を流す、体温を知る、大きくなる、生きる為の術を学び実践する、技術を後の代に残す、旅立つ、また生れる…命と言う星を灯された以上生物はそのように巡り廻って続いて来た。来たのに。
見守る愛も、成長を促す愛も持ち得なかった。
天下の出来事は何處か遠くかけ離れた、本の中で進退する物語のように思われた。悲しい事や苦しい事が登場人物を試せば引き込まれて感情移入はするものゝ世界の根底を変えてかれらを苦痛から逃れさせようとは思えなかった。世界樹の涙は拭ってやりたいと痛みが湧き気が急くけれど地上の者達の涙はどうしたいとも思わなかったのだ。
「余程心の無い化物じゃないか。」
自分で自分を嘲笑う。アンタレスなど随分な皮肉、見守る役目に就きながら仕事に必要な感情を持ち合わせない不出来者、若し世界樹のように遍く深く気に掛けられたら?もっと適任がいるのでは?自分を拒み疑い出せば歯止めは利かず転げた木の実はやがて石と化し錨となって淵に底無しに沈んで行く。世界樹には勘付かれないよう友には平常を装い神経を使う、竹馬よりの間柄に計算を以て接する日々はますます蠍座の心臓を逸らせた。
重い視界の中で見る北天はさぞままならぬ場所に映っただろう、世界からはぐれた者の中継地点など。青天を拒む斜陽と沈黙の空間に、さゝやかな奇跡や幸せなんか似つかわしくない、自分が治める場所は化物の住居らしく冷めきっていれば良い。
友の秘密にしたそうな溜息に、ユグドラシルは動いた。
屋根裏で遊んでいたのだ。親に見られたらサプライズが台無しになっちゃうからと気遣ってポポロンがアドバイスをしてくれた、母の日と父の日が重なる数十年に一度きりの特別な日、花束を可愛くおしゃれにアレンジしてくれたフラワーショップのお姉さんには感謝しなくちゃ。後は手紙を書き終えたら封筒に入れて、シールできちんと留めておく、その時が来るまでもう少し静かに待っていてね。
今日は満月、もう少しで昇って来る。空に月が輝いた時、晩ご飯を知らせに来てくれるから、そしたらプレゼント達と一緒に階下に降りて、二人を驚かせちゃおう。もうじき、もうじき月が黄昏の空に光るから。
もう一度瞬きをした時、ハーゼとポポロンは世界に取り残されていた。母を呼んでも、父を呼んでも、返事も微笑みも現れない。泣き叫んでも、走っても、誰も気に留めやしない。万物は透明に崩れ白く冷えてゆく、すでに持っていた名前を溶かされ意識は鋭さを失い緩やかに倒れていく。
憶えているのは自分の名前と、ポポロンだけ。ポポロンとの記憶はあるのに、彼が来る前のことやいない時のことは何一つ憶えてはいない。憶えてはいないのに、何かを永遠に見失った深く重い喪失の情は激しく、じっとしていられない炎となって雪降る街を歩き続ける。ポポロンはずっと何かを話してくれていた気がするけれど、言語を認知する感覚に至る迄全身が凍る炎に苛まれていた。
歩いて、歩いて、疲れ果てる。止まぬ雪原に身を倒す。此処が元々どんな場所だったのか分らない、忘れさせられている今の自分は何も頼りになりはしない。
零した涙が、世界樹の涙と繋がった。
少年と言いたくなるまだ幼い顔立ちの彼は酷く疲れていた。身体は寒さに囚われて魂の輪郭も溶けてほつれかけていた。こんな状態でまだ自我を保っていられるなど信じ難い、奇跡に近い。滅びた世界に生きる者は生前の輪郭を手離して天と地を往復するか地上に留まり続けるかの何方かに果てると言うのに、少年とぬいぐるみは生きたまゝの姿でいる、更にあろうことか記憶も一握り残っているではないか。彼等ならば友の鬱した横がほに湖の光を照らしてくれるかもしれない。
滅びた世界と北天に伸びるそれぞれの根に力を込める。何處かの悲劇は何處かの月光として灯ってしまう事実を自分は知っている。丁度、己の涙が世界を照す星々として扱われたように。
人が希望を見つけるのであれば、それは生命に許された本能なのだろう、ならば夜空に根を張り続ける此の身にも、その友達にも与えられて然るべき。
太古から変らぬ雪に、手を伸ばす。
天秤
「君、断っても良いんだよ?」
トネリコと愛称を貰う前の世界樹ユグドラシルは涙を拭いもせず、まるでその手間さえ惜しいと言わんばかりに首を横に振り拒否の意志を相手に示した。
「君を遺物として一度は捨てた奴等の望みに正面に付き合う必要なんか無いだろう。」
初めて世界樹が世界に生れた時、神々は彼女を最も素晴らしい木だと讃えた、最も立派で美しい木だと大切に丁重に扱った。それは、神々が自分達より大いなる存在のある事を心の中心に据えていたからであり、畏敬の念は軸を保ち続けることで生まれて来る。神々は植物を下等な物言わぬ生命として見ていなかった、実際トネリコの木の他にも楡の木をトネリコの次に並び立つものとして位置付けていた。例え順位が付けられたとて樹々に対する彼等の信仰の念に差異など無かったことだろう。大切にしてくれた恩を感じていたから、ユグドラシルは神々が焼かれて冷たい灰だけが残っての世界を見捨てて燃えつきることはしなかった。愛した者達を亡くした後も、寂しさを抱きしめながらでも、世界樹として在り続けたかった。
けれど思いは想いとなれず、人類は彼女を不用品として捨てた。人間の世界に繋がれていた根はチェーンソーで切り離され、出血の多さの余りユグドラシルはそのまゝ北天へ行くこともできずに夜空へと倒れこんだのである。夥しい血、蒼白な顔、全身から血の気が引いて行く勢いを何とか押し留め続けたのは天秤座であった。天秤座は神々の世界の滅亡の際にユグドラシルの涙から生れた星達であった。瀕死の友の命を必死の手当てで繋ぎ留めた天秤座が人間達を激しく憎むのは川の流れと酷似している。
人間の世界は栄えた、けれど当然行き詰った。そしてユグドラシルに助けを求めた、愚かなノイズを聞き流せる程世界樹の耳は強くなかった。
天秤座も勿論承知しなかった。
「奴等が求めているのは君の涙の輝きだ。涙を流してもらえれば世界には星と星座が生まれるからな、その光が欲しいんだ、散々ライトだのと開発しているくせに!
引き受ける必要など微塵も無い、奴らが幸福になるには君が悲しまなくちゃいけないんだぞ?君を泣かしたがっているんだ、だから戦争を彼方此方で続けているんだぞ?君が胸を痛めると知っているから!」
天秤座は彼女を引き留めることができなかった。
「次は赤い旗か。」
北天の我家で朝食を終えたテーブルの上、ポポロンが蠍座の持って来た硝子瓶を覗き込む。瓶の中には赤い旗のポツンと突き刺さった雪が入っている。
「今度はどんな国だろうね。」
「星座は誰を探せば良いのかね。」
「国についての説明は多少出来るが誰を探すかを答えることは出来ないよ。彼奴は嫌な奴だから。」
「トネリコもそう思っているの?」
硝子瓶を受け取りくるくると指で回し眺めながらハーゼは蠍座に訊ねたが、気付いていないのだろう、相手がどんな表情で話をしていたか。ポポロンは丁度蠍座の顔を見ていたからハーゼの質問が愚問であると即座に気付いた。
「おい、いいから早く行こう。」
ハーゼを促し誤魔化せば、蠍座は小さく一つ溜め息を吐く。普段より少しだけ慌ただしい出発だった。
赤い旗の刺さっていた雪の以前の姿は王国ではなく民主主義の国だったようで、ハーゼ達の故郷のように積もる雪も居らず、静まりかえった何も無い平地だけが広がっているのは国民全員が此の結末に異論無しと一致したからに違いない。
「雪すらないね。平地と夜空の区別が付かないや。」
「選挙で満場一致でもしたんじゃあないか?滅亡に賛成って。」
「あ、ポポロン君馬鹿にしたろう。」
「まあな。生れ育った国の体制が相容れないんだ、鼻で笑っても大目に見てくれるさ。」
「何身勝手なこと堂々と言っているのさ、体制が真逆でも同じ国々だろうに、通ずる点はある筈だよ。」
「おまえの呑気な正論は、きっと学校で教えられたものだろう。儂は学校が好きじゃない、だから学校での教えも好きじゃない。」
「そんないやいや期の幼女じゃあないんだから。」
「何でもかんでも見るもの触れるもの聞くもの全てが嫌なんじゃない、学校が嫌いなだけさ。儂を作り出してくれたもの達が、学校は怖いと言うから。」
「ラティさんと一緒にいたきょうだい達かい?」
「そう。星見台をぶっ壊しただけで飽き足らず不躾にもその真上に牢のような鉄格子の学校を創るなんて気色悪い連中だよ、ほんと。」
「ねえ、先刻王国に戻った時、ラティさんのお家は…」
話を聴く前に何の気なしに通り過ぎた道の何處かに、彼等の住んで暮らして自分とポポロンを結び付けてくれたあの場所は。
「もう何も無かったよ。雪も積らないでいた。」
「何、も?」
「そう何も。」
ほら見ろ、気にしなくて良いことを気にするから一人で寂しくなっていやがる。
「聴いてくれていたろう?儂はラティ達全員の物語で紡がれた存在だ、儂の中には彼等の生きた記憶がある、家が無くなったって家は儂の中にずっと在り続ける。……失われた訳ではない。」
「そうか…そうだね、そう、だよね。」
前を泳ぐように歩き出したハーゼの背中に些か首を傾げながらポポロンも夜だけの世界を歩いて行く。
昔の民主国は一箇所に炎を残すだけだった。暗闇が在る限り燃え続ける焚火の炎がたった一つ。早見盤が指し示すのは焚火の隣で座り込み闇を薪にくべ続ける星座だった。
「天秤座。」
ハーゼが声を掛けると、彼はにこりと薄い微笑みを湛えた。まるで夜更けが曙に溶けて薄れてゆくような、寂しい微笑。
「こんにちは。」
天秤座は中性的な声だった。
「こんばんは天秤座。貴方を探しに来ました。僕はハーゼ、この子は相棒のポポロンです。」
凍った藤の花の瞳でふたりを少し見つめた後、ゆっくりと一度頷いた。
「探しに来たって、何故?」
理由を知ってそうな頬と唇、躑躅を呑んだようにうつくしい。
「星座なら自分で分かってるんじゃないか?貴方等はトネリコの傍に居るのが普通だろう。あの娘から離れ続ける理由は何だ?」
話を進めたがらない天秤座に肝を煮やしたのか、ポポロンは口調やゝ厳しく問い返す。
「トネリコ…世界樹ユグドラシルのことかな?」
「そうだよ、僕等があだ名を付けたんだ。」
「そう、愛称を……」
ぽかんとした表情を一瞬見せたかと思うと、また微笑んでふふっと吐息を僅かに零した。
「分かった、教えるよ。此の焚火を見ていて御覧、火は怖くない?見つめていて。おれが何をしたのか見せるから。」
国が興ったばかりの時は王制だった。それから民主制と王制を繰り返し続け滅亡の際は民主制の順番になっていただけのこと、若し王制の番だったとしても滅んでいたかもしれない、そうでなかったかもしれない、制度により存亡が決した訳ではなく、ただ国の在る場所が寿命を延ばせられなくなったから派生で国も滅んだだけ。人の見解は星座の見立てとは大いに異なるものなのだ。
ユグドラシルの涙を希望の光と仰ぎ続ける種族に同情心や憐憫の情は湧かなかった。蠍座は幾分か彼・彼女等に寄り添おうとする姿勢を数滴持ってはいたが、己には元より涸渇してした。他者の不幸を幸福とし、あろう事か自分達の慰めに用いる輩など、どうやって愛おしめば良いのだろう。
天秤は公平性の象徴としてよく扱われてはいるが、それはあくまでも人側の思い描くイメージである。想像と現実は異なる、此の場合は大いに。
天秤座はユグドラシルだけを愛していたのである。しかしユグドラシルは森羅万象を愛していた、慈しみと称されるものよりも深く。自分ひとりにだけ向けられることの無いものだとは生れた時から知っていた、そしてその在り方を止めたら世界樹は世界樹足り得ないことも。
「だから黙ることにしたのです、彼女を思う心を深く沈めさせたまゝにしようと。」
役割は人間の世界の空に立ち続けること、照らせと頼まれるなら照らせば良い、示せと縋られたのなら縋れば良い、人の求めるものを与えること、それが人も愛するユグドラシルの喜びに繋がると信じて。
神々は絶え、地上に登壇した次代の生存者達は前の代と似て異なるものを求めた。神代には強い力・強い武器を望まれ戦に勝利することを祈られたが、人間は変哲の無い日常を求め、日常が連綿と続くよう祈られた。相手を打ち倒し圧倒的な武勲を誇る行為は人の時代にはもう流行らない。人は温厚と融和を重んじたと言えるかもしれない、其は事実である。しかし、神と人との大きな違いは謙虚さだと天秤座は感じていた。温厚と融和には違いないが、その内情を見せてしまえば良い、優等生の本音を大衆は知りたがるから、その浅間しさに免じて教えるよ、と彼は苦笑い混じりに心中己をも嘲った。
ユグドラシルの記憶を知った際に見た神々は欲望に忠実だった、欲しいものは欲しいと言い隠すことはしない、自らが間違っていないと信じている、と言うより自身が絶対だと分かっているゆえとした方が相応しいかもしれないが、何にせよ神々は正直だったので世界の仕組みは単純明快に回っていたのだった。
しかし自分が実際目の当たりにした人間は必ずしもそうではなく、人は本音と裏腹な言動をして欲望に素直になることを厭うきらいがあった。それが世界の歯車を細分化させ複雑怪奇にする原因となってしまったのである。謙虚が悪徳・不善とまでは言わないが、必ずしも美徳にならない場合もある…尤其はあらゆる道徳に通じる警句ではあろうけれど。
冷めた目で空に佇む。そのような己を人々は自分達を導くものだと仰ぎ、運命を測る座標とし、恒平の具象化だと定めた、愚かだとはうんざりしたが、そのような勘違いは天秤座だけに向けられていたから排除しようとは憎まなかった。
それも、人間が再び世界樹を望むまで。あゝ本当に、どうして此の名を負ったのだろう。
理
天がなぜ地上の争いを止めぬのか、地が何故天上と同じ環境にならないのか、考えたことはあるだろうか。人はよく嘆く、嘆く怨嗟の声は大抵神に向けられる、天に向けられる、無理も無い、絶望の中で常に正しく立ち続ける力など最初から所持している方が稀だもの。だからこそ責める真似はしない、一つの真実を残していくだけで。神々でさえも理に抗うことは出来ない、と言う数多ある中の真実の一つを。
トネリコと呼び名を貰った世界樹の居る地球では、生きるもの死したもの総ての平和を望む心に因り存在する理と呼ばれる掟がある。そして厄介か幸運かは判別付かないが、理とは不変の代物ではなく変化し流転し続ける性質を持つ。或場所ではAとされたものが他の場所ではZとされたり、或時代に善しと認められたことが或時代では悪しと変わっていく事象も、理の変化による波紋であるのだ。前述したが、此の捉えようの無いおおきな意志の前には神々も従わなければならない、理を守ることは一つの天体を維持していく為に必要な最低条件だからである。逆に言えば、今在る世界を捨てて粉々にして塵をも残したくないと考えるのであれば理を侵せば済むのである。地上から争いが絶えず起きるのは理を破壊しつくそうと目論む者が絶えないからと言えよう。
だが奴等の理だと信じるものは其の実、理ではないのである。捉えようの無いものを捉えた時点で、其は捉えようの無いものではなくなってしまうのだから。理とは永遠に捉えきれない存在なのだ。
理の一つに、次のような文があるらしい。
”天は地に、地は天に干渉すること能はず。”
言葉の正否を考えるより先に、天秤座は世界樹を嬲った地上に手を出していた。
「じゃあ、貴方が此の国を滅ぼしたってこと?」
牡丹の花びらはまた一枚色を失って炎に溶けた。
「いや。そうはならなかった、おれとしてはそうなってほしかったけれど、此の世界の理はとてもしたたかで厳しいやつさ。おれの仕掛けた行為なんて地上に届きもしなかったよ、到達する前に散らされてしまったんだ、最初から何も無かったかのようにね。」
「あんたが罪を背負うのを寸での所で止めてくれたんじゃあないか?少なくとも儂にはそう思える。」
「どうかな…直接人を殺めずには済んだけれど、おれは何處にも行けなくなったよ。」
「…どういうこと?」
ハーゼは質問しなくとも其の答えが分るような気がしていた。
「国が滅びたのは見届けた。ユグドラシルが悲しんだだろうから彼女のもとへ戻ろうとしたんだ、もう此処に居る必要は無い、人に求められたからおれは此処に留まっていたからな、でも、出られないんだ。手紙も声も届かない、彼女に事情を話すことも許されない、だからずっと此処に居続けるしかない。……こうやって埋火を延々と作りながらね。」
パチンと薪がまた爆ぜた。
赤い旗の留まる雪から出て来たふたりは、硝子瓶の蓋を閉じた後中の雪を見つめていた。
「此の雪は、どうなるんだろうね。」
「他の雪と同じように降っては溶けてを繰り返していくんだろうさ。」
「彼、トネリコのことを愛してるって言ってたね。…ポポロン。」
いつものハーゼならわざわざ目をポポロンに向けないまゝ話していたろう、しかし今の彼は相手を見つめて、言った。
「愛するものと会えないことは、寂しくないのかい?」
その定めが理の為せる業なのかは、分らない。
蠍座にはハーゼとポポロンが旅から戻って来たのを察知し、北天に歩いて来るだろうふたりを家の前で待っていた。ふたりの姿が見えるまで、彼女はトネリコのしなやかな根に指先だけ触れて話をしたかったのも、家の外に出た理由である。
「トネリコ、聞えている?」
いつもと変らない、穏やかな風の音。
「天秤座は貴女のことが嫌いだから彼の国に留まった訳じゃない筈よ。まあ、そういう所が私は嫌いなんだけど。」
くすぐるような小鳥の声。天ノ河を透かした葉の煌めきは北天の灰色優しい玉の草原に反射しては流れてゆき、足元の菫を撫でる雫となる。
「北天に花が咲くなんて、ハーゼとポポロンが来る迄は信じていなかったわ。貴女に教えてもらった御伽話を忘れた訳じゃなかったのだけど、まさか本当になるだなんて思いも寄らなかったもの。」
此の場所には細かな花が咲くのである。牡丹のような大輪の花は北天の土に堪えられないから。
「彼奴は北天には似合わない、貴女の姿を見るどころか、近づく事すら怯えて出来ないから。トネリコを穢してしまうんじゃないかって、心配しているからよ。」
あゝ本当に腹が立つ。だから天秤座など探しに行かせずとも良かったのに。
「何で出逢ったんだろうね、貴女達。」
月と蛾は原初から分たれてはいなかった筈。人の産み出した人工灯によって蛾は月光を見失い彷徨う羽目になってしまった。希求されるものと希求するものでが同じ世界に隣あって並ぶことなど叶わないことだと書物は常に語っていたのに。
「愛することは、哀しむこと。」
夢、或いは霧の中で
「本当にポポロン一人で大丈夫?」
ハーゼはポポロンの首元の蝶ネクタイを整えながら尋ねる。
「雪に潜り込む訳じゃあない、今日はトネリコの嬢さんに会いに行くだけさ。ご近所への散歩くらい儂一人で平気だよ。」
「ねえ、君のことを心配した訳じゃないよ。トネリコ。僕はトネリコの心配をしているんだ。君と一対一だと彼女が元気を失していくんじゃないかって気掛かりさ。何せ君はお世辞も好く言えない不器っちょじゃない、可愛いのは顔だけでさ。」
ポポロンの手がハーゼの頬をむにぃと挟んだ。でも、ポポロンは何も言い返さない、どころか、ハーゼの顔ではなくそっぽを向いて決まり悪げにしているではないか。
「トネリコ泣かせたら承知しないわよ。」
アンタレスの赤は今は怒りの赤。ハーゼが長い耳の傍で囁いた。
(本当は蠍座の役目でも良かったらしいけど、彼女彼のこと心底嫌ってるみたいだから何しでかすか分からないぞなんて僕に言い出すのだもの!)
(最初に気付いとくべきだったな、残念。蠍座の表情をあの時見ていなかったおまえの負けさ、諦めな。)
(そうだけど…誰かがトネリコに天秤座のことを報告しに行くと思うと腹が立って仕方が無い、家にある食器も道具も彼方此方放り投げて暴れてしまいそうになるからその相手をしろって…無茶だよ!)
(何も相手と言って応戦しろって訳じゃあない。蠍座の愚痴を紅茶飲みながら聞いてあげればそれで良い。)
(あーあ…何で蠍座は僕を指名したんだろう。)
(さあな。)
「じゃあ行って来るから、トネリコ嬢のことは任せておくれ。その代り、家の留守番任せたよ。」
ポポロンは毛並もつやつや、ふんわりは増麿級に一等の綿質、普段の身装い《みなり》でも一つ一つをきっちり整えれば充分他所行きのスタイルが完成する。蠍座は別の服に着替えてから行く方が良いと助言したが、汚れも埃も雪も払ってブラシを通しアイロンを掛け始めたポポロンの動きを見ると、着せようとしていた小さな外套をクローゼットに閉まった、うふふと楽しく笑い声を零しながら。
北天の自宅に残された二人は、ひとまず淹れたての温かい紅茶を飲みだした。
「紅茶って、最初から好きだったの?」
沈黙にならずに済んだのはハーゼの手柄である。
「うむ……そうね、最初は飲む気も起きなかったけど、今じゃ私達の暮らしに欠かせないものになっちゃった。」
蠍座はリラックスして笑う。良かった、この調子なら穏やかにポポロンの帰宅までいけそうだ。
「蠍座って、普段トネリコとどんなお話するの?」
「先刻もしてたよ、丁度ね。内容は、天秤座の話。」
うわあ、やっぱり無理かも?
「彼奴とは古い顔馴染みでさ、生れた時期が同じなの。神様達が遠くへ去った後トネリコの涙をもとにして私達は編まれたからね。それに位置だって近いでしょう?何かと比較されたり一緒に語られることが多くって、嫌でも天秤座については知るようになっていった。綺麗に整っているのは見た目だけだよ、中身は面倒で根暗で厄介な奴。」
「天秤座はね、トネリコのこと愛してるって言ってたよ。嘘っこのようには感じなかったし、ずっとトネリコの為だけに頑張って来た姿をしていたように見えたもの。トネリコは天秤座のこと、如何思っているの?」
カタンと音を少し鳴らして蠍座は紅茶のまだ残るティーカップを直接机に置いた、きちんとソーサーを敷いてあるのにも関わらず。
「ハーゼはティーカップや食器は好き?」
「好き…?どう、だろう。気に入った柄の物は幾つかあるけれど、それは柄が好きだからで食器そのものを見ているわけじゃあない気がする。」
「ポポロンはどう?」
「あゝ、彼は食器が好きだよ。お茶会の時に使うものだけで百種類以上は持っているかな、それぞれ役目は同じなのに、空の模様と色、気温、誰と飲むのか何處で飲むのか何を飲むのかお茶菓子の内容、参加者の服装、テーブルクロスとの相性…多くの要素を統合して考え選ばなきゃいけないんだよって毎度毎度大変そうだけど楽しんでいるよ、じっと考え込んだり鼻歌歌ったりしてさ。」
「じゃあ、彼は食器が好きなのね。」
「食器を集めることが好きなのかいって訊いたことがあるよ、そしたらね、そうじゃあないって言われてしまった。でも好きじゃなきゃそんなに集められないでしょうって言ったけど、ポポロン、必要だから集めたまでだって。
でも、ねえ、蠍座。一つのものに向き合い続けるのって愛の成せるわざでしょう?ポポロンは愛情じゃない才能だ、儂にはお茶会の為の才能があるにすぎない、なんて。謙遜か自慢かむつかしいったらありゃしないの。」
「ハーゼは愛だと思うんだね。」
「貴女は違うの?」
「私は別に何方でも構わないもの。」
「え!では何故食器の話をしたのさ。」
「天秤座の話題から離れれば何でも。」
「目の前に食器があったから食器の話を?まあ呆れた人。」
青年のふくら雀むくれる頬を見てまた蠍座は軽やかに笑う。愛情と才能の違いなんて星にだって世界樹にだって分らない、イコールなのか対立なのか繋がるのかなんてこと、分らないままで良い。大切に思い、或いは想っていられるのならば、それで、それで……
冥王星
彗星の尾を泳がせて靡くのは金魚である。金魚は天ノ河の郵便配達士で、今日はトネリコのもとにやって来ていた。
「手紙の主はどちら様?」
ポポロンが差出人を見ようと何気無くネモフィラの封筒を覗き込もうとすると、トネリコは咄嗟に封筒を伏せてしまった、これでは誰からの便りか分らない。
「儂に伝えたくない相手なのか?君が嫌がるなら無理を言うまい、どれ、紅茶のお代わりでも淹れて来よう。」
おろおろしたトネリコを落着かせるように声を掛ける。テクテクとお茶会セットを運んだ先でカップを温め直し一度湯気でジャーッとすすいで水滴を切る為カップを一、二、引っくり返してからソーサーの定位置へと戻す。北天の家から持って来たブレンドティーはポットにまだ薫りも楽しみにまた注がれる時を嬉し顔。
「さあお待たせ。お代わりqを淹れて来たよ。」
テーブルクロスに銀食器、いづれもトネリコとのお茶会用にと見立てて並べた物だったのに、ポポロンが再びテーブルにトレーを載せたその瞬間、どれもこれも瑠璃水晶の石に覆われていた。
「これは、どういう案内だ?テーブルマナーを無視して二人のお茶会に割り込む無躾な案内は。」
トネリコ、北天を呼んでおくれと声を出す前に、
兎のぬいぐるみの口元は強く押さえられた。この、感覚は、兄姉の中に記憶されているものと同じだ、ラティが愛した庭を喰った奴。歯ぎしりさえも鳴らせぬ口惜しさにかろうじて手の届く蝶ネクタイをぎゅっと握る。
「ポポロン!」
ハーゼが自分を呼ぶ声が鋭く稲妻の切ッ先で迸る、アンタレスは炎の弓矢を次々と打ち込み、地駈ける世界樹の泉は侵入者を絡め取った。ネモフィラの封筒が届いた直ぐ、トネリコは北天の根で二人を呼んでいたのだった。
「こんなにもあっさり捕まるなんざ、予想もしていなかった。まさか、お仲間だけでなくユグドラシル自身が攻撃の手を用意していたとは驚きだ。」
「ポポロン、無事か?」
「ハーゼ…」
「トネリコは無事だ、安心しなさい。少し相手の瘴気を吸ってしまったようだ、手当てをするから横にするよ。」
眩暈のする身を横たえると、ハーゼの手が仰向きにする。ポケットの硝子瓶から取り出したのは、自分達の故郷の雪、紫の旗が刺さる雪だった。それを指につまんんで結晶ごと兎の口に含ませる。呼吸と視界が穏やかになると、今度は眠気が。
「いいよ。僕が起こすから、少し休んでいて。」
相棒は相棒の腕の中に戻った。それを確認してトネリコは捕らえたくせ者を強く締め上げ、蠍座は相手の目に矢を突き立てた。すると先まで生意気叩いていた口からは断末魔のみが溢れやがてその絶叫も聞えなくなった、不審者は灰にもならなかった。
「トネリコ、大丈夫。ポポロンは回復したよ、今は少し眠っているだけ。ちゃんと目を覚ましたらお茶会を続けたがるよ、今度は四人でね。」
人間の世界に見切りを付けなかったのは、トネリコや時計座だけではない、或天体も人間を決して見捨てなかった。
「冥王星、今ではだいぶ離れちゃったけど、あの人もハーゼやポポロン達の味方だよ。」
「では儂のお茶会セット一式を石で覆ったのも、冥王星の援軍だったのかい。」
「蝗は全てを喰い尽くす。少しでも興味をそそる物がある場所を見つけたら其の場所にあるありとあらゆる物全部を喰わないと満足しない、それで掃除もしないで散らかしたまゝ他の狙いを探しに行く。トネリコが唯一愛せない輩よ。」
蠍座は嬉しそうに話を続ける。
「蝗がいつから存在していたのかは判然と分ってはいない。でも星座と同じくらいは生き続けているのかもしれない、考えの無い単純な性分ならまだ可愛気があるわ、叩き潰すのにはね。可愛くないのは奴ら賢いのよ、罠を仕掛けてもはまらないし、ただ追うだけじゃ尻尾巻かれて逃げられる、それに奴等、口先だけは一丁前、自分達の行為をいつも正当化したがって五月蝿いの。」
「惑星の滅亡に、蝗は関係しているの?」
ハーゼが頭に描くのは故郷の姿。
「蝗は雪を降らせられる?」
「ハーゼ、それは不可能だ。」
相棒が質問に答えて意識を此方側に戻させようとする。
「蝗は物を喰いつくすが、奴等何かを新しく作り出すことは出来ない。そういう仕組みに…」
「でも、君は現に襲われたじゃないか。あの時、トネリコに呼ばれるほんの少し前、君の中の記憶が流れて来た。その蝶ネクタイはラティさんや君のきょうだい達が一等こだわった物だから、かれらの記憶や思いが伝わったんだ、君達の庭は、」
「ハーゼ。」
「君達の想い出の場所が、蝗どもに喰い尽くされたって。」
「………」
宥めきれなかったポポロンはハーゼに伸ばしかけた手を膝に戻し、顔を少しだけ俯向けた。自分が狙いの的にされた理由は知っている、あの秘曲の庭を知る者だからだ。
「次は皆殺しにしてやる。先刻は外れてしまったけれど、今度見たらあのどてっ腹に刃を突き刺して裂いてやる。」
藤の花は今や燃え、いつものおっとりした顔に焼かれて炭となった残骸がへばりつく。眦は刺した刃物を返す不倶戴天への返り血で赤く滲み唇は瞳と反対に蒼白に噛まれ、水脈を型どった筈の百合の雷は今や槍となってハーゼの背中に待機しているではないか。ポポロンは胸が潰される想いで泣きながらハーゼの胸に飛び込んだ。
「やめて!ハーゼ、儂の仇なんて取らなくてもいい。おまえを、おまえに、そんな顔させたくない!」
えーんえーんと泣きじゃくる、末っ子なのに大人ぶっていた小さな寂しさの堆積が今、此処で決壊した。
「俺だって口惜しいさ!あの庭は父さんや兄さんや姉さん達が大切にしていた庭なんだ。それを彼奴等、俺一人になった途端に喰いに来やがった!でもねハーゼ、奴等が何處からやて来たか知っているか?おまえの通っていた学校だ、学校なんだ。校舎の在る地域に建つには相応しくないからって御託を並べて……」
ポポロンのかなしみでハーゼの頬が洗われていく。黒い破片も瞳の充血も唇の傷跡も切っ先雫となって透明になって北天の優しい灰色に溶かされる。
そして、瑠璃の風が吹いた。
「冥王星の使いだわ。」
蠍座が呟いた時には抱きしめあうハーゼとポポロン、二人にブランケットをかぶせた蠍座達は灰色の門の前に立っていた。トネリコの髪が天ノ河の唄にそよぐのを後ろに感じる。
「ほら、ハーゼにポポロン、二人とも見て御覧。此処が冥王星の住む場所、北斗七星の裏側だよ。」
素朴な木で拵えた門が向こう側から開かれた。
「いらっしゃい、私の招待によく来たね。」
立っていたのは一人の老人であった。彼の頬にはネモフィラが一輪覆うように咲いていた。
何處かの行くことの出来ないとある王国では、人の顔の部分が花になっていると聞く。其の場所はトネリコも訪れたことが無く見たことも無いと言うので、恐らくは別の天ノ河の汀にあるのかもしれない。冥王星は元々其処の出身であったらしい。
彼の見た目は放浪する者とよく似ており、灰色のマントに大きな三角帽子も灰色、手には身の丈二メートル程はありそうな紫水晶の杖を持っており、杖の先端には氷の蛾が彫られていた。
「近頃は蝗は飛来しなかったからね、ついうとうとと微睡んでしまったのだよ。その隙を突かれた。全く安心して眠れない歳月の後に静かな閑話が訪れたら誰でも眠ってしまうだろう、それを計算して蝗は襲撃してきたのだろう。前例を鑑みるにポポロン君を襲った一疋は偵察役だな、君の居る場所が面白ければそのまゝ一族郎党引き連れて来る手筈になっていたのではないかな。」
「北天が狙われる理由は、以前の北天と様変りしたから?私がハーゼとポポロンを迎えた前の北天と今の北天とじゃ全くの別物だものね。」
話題に上がっている二人は今冥王星の貸してくれた羽毛布団に一緒に包まってぼた餅のような寝台ですやすやと眠っている。休息の妨げにならないように、冥王星と蠍座はトーンを落として話し続ける。
「天秤座はどうだい?」
「駄目。まだ出て来ようともしない、出られなくなったって、雪に閉じ込められているんですって、当人曰く。」
「そうか……正直、公平・秩序の概念を持つ天秤が再び空に現れれば、蝗は此の天ノ河の世界で呼吸が出来ず忽ち全滅するだろう。そうしたいのだが…」
「彼奴は良いわよね。」
「何?」
「愛することは哀しむこと。昔、貴方が太陽系に属していた時よく教えてくれた言葉です。かなしとは涙ばかりを指すのではないと。」
「憶えていてくれたのかい。そう言えばトネリコと君と天秤座は弟子の中でも特に優秀だった。でも君と天秤座は反りが合わずによく口論していたのを、時計座がいつも宥めてくれていたなあ。」
「話が脱線しかけていますよ。」
「何でまだ仲良く出来ないのかねえ。」
「ちょっと……」
「時計座は旅人達の故郷をトネリコの代りに守護しているのに、天秤座は雪から出られず、北天の主たる番人は蠍座一人、そしてトネリコ、世界樹はまだ夜空の黒点に留まり続け…成る程、隙だらけと言えばそうか。だが仕方あるまい。元来世界樹も星座も人間を守る為の仕事をしてきた訳ではないからな。」
「守る役目に順っても貴方は追放されたでしょう。」
「追放が役目を終える合図になるとは限らぬよ。」
花心は笑ったようだった。
「それに、こんな出逢いだってあるだろう?」
自らは寝台も布団も用いず今蠍座と挟んでいる黒曜石のテエブルに寄り掛かって寝ると言うのに、来客の眠る為にトネリコとともに内緒で造ったそうな。
「二人に逢えることは思いがけなかったと?」
ハーゼの頬を裂いた涙の痕はだいぶ薄れてきており、ポポロンの頬を濡らした涙も引き潮になりつつあった。
「さあね。いつか来るかもしれない気もしていたし、ずっと顔を見ることも無いかもしれないなと思っていたよ。」
「貴方ののらりくらりが天秤座に引き継がれたみたいですね。」
嘗ての師におべっかを使うような星座ではない。だが冥王星はうむうむと頷いている。
「やはりアンタレスを担うだけあるね。そうだ、天秤座は未だに自らの進む方角を見つけられないでいる、あのような炎と夜の細々とした空間に居続けていては見える道も見えなかろう。だからこそ、我々は待つことを徹底せねばいけないのだよ。」
言いたいことはよく分る。心ばかり急ぎがちな自分を見据えて言ってくれているのだから。でも、
「それでもトネリコの為に彼女の涙の役目を終らせたい。少しでも早くと願うのなら、星座達のすべきは何か、分るだろう。」
見透かされた心を制止されただけではなく、相手の力量を確実に正しく把握しているから言える、口に出しては言わない文章。そして其等を自分が知った時、私がどう思うのかも知るネモフィラ様よ。
「愚痴を言いに来ただけですよ。二人は起すのも面倒なのでこのまま北天に連れて帰ります。北天を離れて夜空を歩いたら狙われるでしょうが、そうはさせませんよ。私が二人を面倒見てますからね。」
「立派になったねえ蠍座。まるで二人の姉君みたいだよ。」
心底の言葉を贈ったが、蠍座はゲエッと舌を出して振り向くと、ハーゼとポポロンを抱っこして北天へ戻った。滅びた場所に全く同じ生命をそっくりそのまゝ黄泉還らす事は難しい作業ではない、冥王星の手に掛かれば朝食前の簡単な事、死者も生者も其を望む、戻してくれ帰してくれと打算の心情塵一ッ葉も抱かずに祈っている。
けれどそうしたら、諸君等のかけがえ無い想い出達はどうなる?元通りにするのであればもう想い出達は呼吸が叶わなくなり弱ったものから息絶え消滅してしまうだろう。どれだけの残雪が世界を廻す燃料になっているのかを知らない為無理も無いことではあるからやっぱり仕方が無いし責めることもしないけれど。
「そんな人間だからこそトネリコは愛するのだろうか。」
少し手助けをした後も続ける予定にはしていたが、やはりもう少しだけ見せてもらおう。
流星
北天に戻って一週間以上過ぎた頃、時計座から一通の手紙が家に届いた。
“雀が一羽来ている、増援に来てあげてくれないか。”
「庭に来ていた雀かもしれない。」
今度はポポロンがハーゼの手を引いて硝子瓶の雪へ、愛した場所へ走って行った。
「ポポロン。」
「なんだ。」
以前に比べて雪の量が明らかに増えている。氷晶の洋琴が一滴ずつ音を出す、それは繋げても旋律には辿り着かない孤独の粒、春の小川に咲いたばかりの花の欠片が浮いて漾い沈むように一言ずつ零れていく。
たった一言のごめんねがまだ伝えられないまゝ、今日になってしまった。
「あの…」
「言わなくても分るよ、儂はおまえの相棒だから。」
北天で再び目を覚ました時もその後もポポロンは蝗に襲われた日の事を一言も話そうとしなかった。ハーゼが憎悪に罅割れた時彼に恐怖を抱かせてしまったのを謝ろうとしても今のように相棒だから伝わっていると言葉を続けさせてくれない。トラウマ、になってしまったのだろうか、此迄は以心伝心に凭れて心地良かったのに、今は柔らかすぎて不安になる、起き上がれずにこのまま溺れて息が出来なくなるのではないかと自らを疑い始めていた。だから勇気を絞って絞って掌を握りしめながら雪の音に吸い込まれてしまわないように、
「ポポロン、ごめんよ。」
許してもらえなくても、傷が癒えるのに時間を山程要しようとも。
「ごめんよ。ごめんよ。」
相棒だから何もかもお見通しだと勘違いしていたのだ、自分は。ラティ達家族からずっと与えてもらってきたから、今度は与える番になったのだと考えた、だから慣れない似合わない老人の一人称で自らを名告り続けてきた。言葉に頼らないコミュニケーションが存在するのは知っていたし、言葉が力になれない状況が存在することも知っていた、だから話さなくても伝わることは非常に良い関係性の証拠であるのだと、言わなくても分かることは喜びなのだと思っていた。
想い出を忘れていただけなのに。
ラティ達は最期まで何をしてくれていた?ただ自分をじっと見つめていただけか?違うだろう、ずっと話し掛けてくれていたではないか、姿を失くして記憶の塊になった日からもずっと、ずっと。それを薄れさせてしまったのは、こればかりは滅亡の所為でも蝗の害でも無い。
「…わしの方こそごめんよ。」
身の丈に合った在り方は一人では定義出来ない、だから生命も死も言葉を有するのではないか。
ふたりはようやく、笑い合えた。屋根裏で囁き合っていた頃のように、素直な頬と唇で。
瞳からは星粒が流れていた。
真空
自らをどう在らせたいかを選んで命は生れて来られない、恵まれた環境をだれもが望むものゝ、其を叶えられるのは一握りもいない、思い通りになれない命を以て思い通りに手を伸ばす、其の営みは生命と名付けられ此処に生命が平等だとする根拠の一つが発現した。それからと言うもの生命は銀河で天体で栄え続け滅び続けて来た。
ユグドラシルは、何を望むのだろう。
只存在するだけで善しとされた、言語も感情も有する者は、存在する以上の事を望んでも良かったのだろうか。
時々不安に思わない日々が無いのは嘘だ。
神々が終焉を迎えた時、ユグドラシルは火の手に掛からなかった。物語に記されているのは、ユグドラシルはトネリコの樹で、トネリコの樹は植物の中で最も立派な樹だから緞帳にも覆われなかったと言う内容。
自分が人の言葉を発することが出来たなら、といつも思わずにはいられない。
トネリコの樹と雖も火の手に近付かれてしまってはもう逃げられない、自然の摂理で樹が火に立ち向かう事は出来ないのだ。トネリコが燃えずに生き延びられた理由は、一人の神が死の間際迄トネリコに神の所持していた魔術を全て与え続けていたからだ。
其の神は名乗らなかった。他の神々には真似も届かない程の巧みな魔術をトネリコの樹に送り続けた。神の姿は男の格好をして、体躯も立派とされる神々に比ぶれば若干肩幅は小さいものの、スマートな筋肉をしていた。どの神の背中よりも、其の神の背中を見ればとても安心したのだ。他の神々は屈強で武勇の誉れ天高かったけれど、其の神、口に傷の鋭く小さく走る神の背中の方がユグドラシルには嬉しかった。
炎の滅亡が訪れるずっとずっと前の頃、其の神は神々から嫌われていた。おまけに魔術の腕は仙境に至るとまでの技術力の高さとバリエーションに富んだ魔術を自在に駆使出来る、その一つが姿を変える術だった。
初めて互いの存在を知ったばかりの時、其の神はよくリスの姿になって樹の幹を訪れた、そして雄鹿になったり鷲になったり或時なぞ樹の根を囓る毒蛇になってからかったことだってある。其の神は樹を世界の背景としてではなく、意思ある隣人として接してくれたのだ。終末が来る迄、ユグドラシルに友の如く恋人の如く優愛を与えたのは其の神唯一人であった。
「一つ、神らしく予言をしてやろうか。」
他の者からは不敵で侮れぬと評価されていた彼の絶やさぬ微笑みも、軽口も、彼女には心地良く安堵できるものだった。予言をするのは神々の役割なのですかと尋ねたらいつもの整った笑みを崩し大口を開けて子供のように笑い声をあげたっけ。
「そうだな、君は賢い。私の嘘をきちんと見抜けるのだから。他の神どもには出来ない真似さ、どいつもこいつも自分達が絶対神だと勘違いしている為に私に騙され利用されてしまうのさ。」
けれど貴方の嘘は神々のお役に立つ事が多いではないですか。
「当然さ。私の手に掛かっている神どもの運命を直ぐに握り潰すほど正直で素直な性格ではない。折角与えられたおもちゃは何度も何度も遊びに遊んでふとした時に手放すものでなければつまらないだろう?」
まるで、巣立ちの儀式のようですね。
「巣立ちか。うん、君らしい優しい単語を選んだものだ。」
お気に召しませんでしたか?
「とんでもない。私は君を貶めたつもりは無いぜ。」
いつからか彼は変化すること無くそのまゝの姿で訪れるようになっていました。本当は毎日でも来たいと話していても、ユグドラシルには嘘だと分らない。もう二度と来ないよと言われても、ユグドラシルには嘘だと分らない。彼女が悲しんだり困った表情をした翌日には、彼は必ず彼女を喜ばせたり楽しませるような話を山程してくれた。
一度だけ、彼に問われたことがある。
「君はずっとこうやって生きていくのかい。」
存在することが私の役目ですから。
彼は躊躇うこと無くユグドラシルの天にたなびく髪にキスをした。
神々の世界が幕を閉ざしたのは、その直ぐ後でした。
あれから何を見ても愛おしいと感じ、何を見ても哀しく思うようになったユグドラシル。友に囲まれてもあだ名を貰っても白雪がおさまることは無い、今更彼の名前を呼んだとて。
鉱石雀
ラティ達の家が在った場所に積る雪は何も答えない。目印の建物標識が失われた道でもポポロンは旅立ちの背中を憶えていたようだ。
「一回目来た時は立ち寄ろうとも足を止めようとも思わなかった。」
「でも、ちゃんとこうして機会をもらえたじゃあないか。」
「一丁前に。」
ぞんざいな言葉でも。
「庭は君の記憶の景色でしか見たことがないよ。一度だけでも生で拝んでみたかった。」
「そうだな、儂のお気に入りの場所だから、おまえもきっと気に入るだろうよ。」
「滅びる前に、蝗に襲われてしまっていたんだね。」
「あゝ、学校から、飛び出して来やがった。」
「きっと其の中には、僕の同級生も居たんだろうな。」
「友人とか恋人でもいたんか?」
「誰とも仲良く出来ず終いだったさ。学校では散々近付くなと言われていたのに、結局好奇心には勝てなかったかのだろうね。」
「学校なんてそんなもんさ。」
つまらない話は早々に切り上げるが良い。
「時計座は故郷を見守ってくれているが、正直儂には王国が再興することは望みが薄いと思う。星見台を壊した時点でもう此の国は死んでしまっていたんだ。」
「ゾンビだね。」
「神話では世界の創世、国土の誕生は神以前の存在と謳われるものが多いから、あながち間違ってもいないのだろうよ。」
「でも、此国の死体の上には滅びしか来なかったね。」
二人で居る記憶しかもう無いから。
望むのであろうか。
「ハーゼ、おまえは、記憶を取り戻したいか?」
「別に構わないかな。最初は拭えない重さがずっとあったけれど、今は気楽になれてきたように思う。点在する雪を渡り歩くには荷は軽い方が良いでしょう。」
一方的な感情は意味を成さない、双方向でないと心は結べない。
「此の国で僕にとっての大切って、きっと君だけだったんだよ。」
「そうなのか?」
「そうだから、僕等こうしてお互いを憶えていられたんでしょう?」
星見台が元の通りになれば或いは、と考えた。滅びの日の少年の表情が今でも時偶夢に出る。そして自分は彼に声を掛けるけれど一向に届かない、あの日の再現だ、まさに悪夢、此方の感情が伝わらないやるせなさを呑み込むしかなかった、焼けた霧を。
「時計座のところに向かおうか。」
それでもひりつく咽に雪の冷たさは……
硝子が砕けていた。雀がちいと鳴く足下は流氷に覆われ所々ぐらぐらと水の動きに搖れている、道を辿ることは出来そうではあるが、人の重さが一度掛かればずぷんと沈んでしまいそうな、それ程迄に雪は薄くなりつつあった。
「時計座。」
「ハーゼにポポロン、だったね。よく来てくれた。」
以前坊やと呼んでいた少年のような青年は、時計座の目にも青年と呼んでも遜色無い精悍な横がほになっていた、まだ然程長く別れてもいない、つい此の間初めて逢ったばかりなのに、ハーゼの瞳からは陽だまりの危うさが溶け新月の藤の花の凍蝶が蛾へと孵化した鱗粉が咲いている。まだ血の痕が新しいから、本当につい先刻の出来事だったに違いない。
「また君等の故郷を訪ねてくれて嬉しいよ。灯台守もいつも忙しい訳じゃないから、時には誰かと話をしたいと思っていたのだが。」
「だから儂達を呼ぼうとはしたものの、先客が来ていたのか。」
「あの雀が、見えるかい?」
時計座は流氷の雀を指した。
「此の国の生命が戻って来たってこと?」
「ハーゼよく見ろ、あの雀は生命としての雀じゃあない。あれは庭に訪れていた雀なんだ。」
「雀なら王国に居た雀なんじゃあないの?」
「否、そうじゃあない。あの庭には確かに鳥はやって来られる、けれどもそれは王国に雀として生命を与えられて暮らす雀ではなくって、北天の残骸が粒になって玉の素材で命を与えられた雀なんだ。だから毛並が羽毛ではなく鉱石で形作られているだろう?あのような姿の雀達がよく庭を訪れていたよ。」
改めてハーゼはも一度見ると、確かに雀は紅玉金剛色水晶で組まれた身体をしている。
「不思議な雀だねポポロン。あんな子初めて見るや。」
「よく居る雀ではない、神々が存在する前に居たもの達が、小鳥の姿を借りて訪ねて来ているのだよ。」
ポポロンの言おうとした台詞を時計座はイタズラに横取った。むッとふくれる兎を横目でクスクス笑って楽しんでいる。
「神様達が生れる以前の存在?でも神話には神様達があって世界が生れたって、どの話もそうやって始まっていたような気がするけれど。」
「ハーゼ。丁度目の前にそういう奴が居るだろうに。」
今度はポポロンが時計座を笑う番だった。今の自らの質問が目の前の向う相手を無視したものだと、ポポロンの言葉で咄嗟に頭を下げて詫びたハーゼ。
「時計座さん、ごめんなさい。君達星座やトネリコを忘れていた訳では…」
「構わない構わない。悪気が有る無しは見て分るから。それに、話が昔すぎると現実と混ぜて語られることなんか幾らでもあるもの。気にしていないから顔を上げて、雀をみてやらないと。」
ほら、と促されてもう一度雀に視線を向ける。雀の身体は先程とは色味の場所が少しずつ移動しているような気がした。
「常に同じ場所に留まらない、其が神代以前の存在なんだ。水の流れのようい移り変り続ける世界が永らく続いたからこそ、数多くの神々は自らに不変・絶対性を求めたのだろうね。」
「星座も姿を変えるのかい?」
「神や人に名前を与えられたから昔まで自由に放たれている訳ではないけどね、名残は持っているよ。現に季節や空の変り目に合わせて日毎立ち止まる場所を動かしているし、星の光だっていつまでも全く同じではない、白地に認められなくても何處かは毎秒変わっている。」
「じゃあ、いつか天秤座も赤い旗の雪から出て来る日があるかもしれないな。トネリコの嬢さんに一つ良い土産話が出来た。」
「そうだね、星座もトネリコもきっとそうして生きて来たんだろうな、考え方がひょこっと変る日だって来るよきっと。」
相手を深く信じているから微笑んでいられるのか、楽天的が度を越えているからなのか、どちらにせよ神代以前の存在の流動的な変化を良い変化としか考えきれていない。
冥王星の危惧した通り、今はトネリコの元へ近付かせるべきでない、それに、蠍座も、彼女は人間では無いけれど、だからこそ呑み込まれてしまう恐れがある。
雀の数は増えていた。一匹だったが、二匹、三匹、十、二十、百、千……生命の音が聞えなくなっていた雪中の亡国はまるで生前のように陽を迎える唄を奏でているではないか。
「えらい雀の数が増えたな。急にまあ、共鳴でもし始めたか?」
「時計座、君、呼んだんだね?」
ハーゼの声に時計座はふるりと身を震わせた。あゝ、計画通りに気付いてくれるだなんて、本当に君達は成長したんだね。
「ハーゼ?時計座?如何言う事だ?」
ポポロンは時計座と相棒の何やら物騒な会話に少し怯んで、二人の顔を仰ぎ見た。
戦慄のピアノ線、新月の眦が瞳をも染めてゆく影。
一体何がと問うのも憚られる顔馴染みと相棒の表情に息ごと呑む。
種
蠍座は冥王星の館に呼ばれていた、彼は紅茶を淹れてくれたが自分は煎茶を湯呑に注いで飲んでいる。
「紅茶の味は如何かね。」
「ポポロンほどではないけれど、美味しい。」
「そうか。あの子は本当に茶葉の扱いも食器やクロスのレイアウトも突出しているものなあ。」
ネモフィラの花がふわふわと搖れる。
「お茶会の話をしたいから私を呼んだのですか。」
察しが良すぎれば楽しむべき事も心の底から楽しめはしない。冥王星は自分をトネリコから離す為に呼んだのではないかと蠍座は訝しんでいた、そして彼女は思ったことが直ぐ顔に出る性質である、ネモフィラは鋭い視線を受けて話を延ばしても意味が無いと悟った。
「貴方はトネリコから私を遠ざけようと目論んでいるのでは?
「心当たりでもあるのかい?」
相手の返答を見透して問いを投げかける技術は彼女には足りなかった。冥王星の顔を覆いつくすネモフィラは花弁を搖らす、いつでも花が搖れていないことはなかった。いつでも花は搖れている。
自分で訊ねて出させるのではなく、本当は進んで教えてもらいたかったのだが、これ程警戒されていては保守の姿勢を取るだろう、お茶の味にも気付かぬのであれば。仕方の無い問いだったが蠍座は抗せず頷いただけだった。
「トネリコが記憶を遡っている。」
二人同時にそう言った。異口同音は同じ結末を予測する者同士で起きるもの。このまゝ鈴蘭の霧に浸らせていればトネリコが、ユグドラシルが如何なるか互いに知っていればこそ出た言葉ではあるけれど、込めた心情はそれぞれ羽色が異なるようで。
「そうなってしまえば良いと?」
「そうならないでいてほしいと?」
何方が何方を言ったのだろう。判断の為の推理する猶予も与えず二人を呼ぶ声がした。声の主は時計座に連れて来られたハーゼとポポロンで、三人を見ると冥王星も蠍座もケロッとした雰囲気を被る。
「おやどうしたハーゼ君達。」
「お茶会に参加したくなったみたい。」
二人に有無を言わせず時計座が代りに返事したが、黙っている二人ではない。ハーゼは胸に抱いたポポロンの手を、ポポロンは握るハーゼの手をお互いより一層強く握り合い、ネモフィラとアンタレス、振り子を眦濃き青藍に溜めて睨む。
「故郷を見守る為に残っていた訳ではなかったのですね。本当は、国のことなど気にも留める予定は無くて、星見台を取り戻したかっただけなのでしょう。雪が浸してしまう前に。」
「儂達が何故残されたのか今なら分るさ。貴方等は星見台の記憶を持つ者が欲しかった、だから儂を残しておいたんだ。だが儂だけを滅びから離したのでは魂胆があるのではと警戒されると踏んで、儂の持ち主であるハーゼも一緒に残した。」
「トネリコは世界が滅びるからそれだけの理由で悲しんでいたんじゃあない。本来存在するだけで良かった自らの在り方を自分で歪めてしまったから、贖罪の涙を流していたんですね。」
「トネリコが歪んでしまったのは、ハーゼと儂等の故郷が星見台を埋めて無かったことにさせられたから……結局は人の所為だった。」
「ハーゼ、ポポロン…」
冥王星は花弁をピクともさせないで生き残りの生者に歩み寄った。そして二人の前にまで近付いた時、頭を垂れて両膝を静かに土に付けた。時計座は冥王星の肩に椅子から立ち上がった際脱げたマントをそっと老人の肩に載せ、鋲の代りに涙で留めた。蠍座は冥王星の傍に片膝付いて彼の背中をゆっくりと擦り始める。
「人間はとんでもない時に核心を割るのです。私は二人の面倒を任されて北天で住み続けて来ました、あんなに頼り無さそうな柔らかい瞳をすることの出来る少年が、まさか凍蝶の蛾の湖水を瞳に宿すなんて…とんだ役者ね。」
「初めて逢った時の坊やとしての涙に気を緩めてしまった。蠍座さん、見抜けなかった責任は決して貴女だけのものではありませんわ。私は初手から危ぶまれていたのですから、失格です。」
「あゝ王女様…オルタンシア様…ハーゼ、ポポロン、本当に済まなかった。我々を許さない権利は君達のものだ、天体系が死ぬ時迄許してもらえなくとも良い、君達を恨みはしない。どうかオルタンシア様の御許に…」
「冥王星、君の言うオルタンシア様って、どんな人だったの?」
「…一度は滅び雪と化した自らの国を救う為に、たったお一人で奔走された方です。」
「国は救えた?」
「救えました。けれど滅びました。救った直後にも滅びの兆しは取り払えなかったのです。その前兆にオルタンシア様は手足を拘束されて抗えぬまゝ国と共に雪と化しました、我々の国の滅びでありました。
生き残った者も各地に散らばりましたものゝ、心配していた通り皆は狂って絶命しました。私だけはオルタンシア様が命と引き換えに逃がしてくれた御恩を返せるように、返す為に……こうして今日まで世界を見守り続けました、無様に生き長らえたのです。」
「このままでは、トネリコが使命を放棄してしまう?」
ハッとハーゼの瞳を仰ぎ、また力無く顔を俯向けて老衛士は呟いた。
「其処迄御存知でありましたか。」
「僕とポポロンは故郷で鳥を見たんだ。その鳥は神々の生れる更に夜明けに存在していたもの達が、鳥の見た目を借りた姿だった。あの鉱石で紡がれた鳥は、よくラティさんの家の庭に訪れていた鳥だったって、ポポロンのきょうだいさんの記憶が教えてくれた。」
「姉さんと兄さん、パパもその時言っていたよ。あの鳥達は星見台を見る為にやって来る鳥で、秘密の庭に遊びに来ていた訳じゃあないからって。もう今は無い星見台をいつ戻すかを見計らって来ているいわば観察係だからって。」
やはり星見台に勤務していた優秀な男は知っていたのか、星見台の知られないもう一つの、本来の役割を。聡い若者だ、傍に置いておきたかった。なのに彼は他の生命と同じような結末を選び迎えた。その選択がハーゼとポポロンの関係と聡明さを生み出したのだ。見事に人間らしく継承が成されたのだな。
「…我々の存在の中にも、継承を受けた者がおります。」
「それは…トネリコのことなんだね。」
「えゝ。もうお二人は全て、計画も、お見通しなのですか?」
冥王星の背中に縋り小刻みに震えている時計座にハーゼとポポロンは首を横にふるふる往復させた。
「まだ知らない。君達の計画の一端をラティさん達が必死に伝えてくれたんだ。だから全容を把握している訳ではないの。でも、だからこそ、君達の口から教えてほしい。」
「お茶会仲間がこれ以上減るのは嫌だ。儂もハーゼも貴方等を好いている、真ッ向から潰し合いなんざしたくない。」
「だから教えて下さい。例え如何にもならない事でも、決別が定められていたとしても、ギリギリまで貴方達と共に有りたいのです、それが今の僕等の願いなんです。」
暫くの沈思の後、一番に口を開いたのは冥王星だった。
「それでは、五人分の紅茶を用意してくれないかね。ポポロン君のブレンドティーであれば、全て素直にお伝え出来そうだ。」
星見台
ハーゼとポポロンの故郷が名を奪われたのは、星見台を葬って存在しなかったように扱った為だと言う。滅びを迎えても国の名や文化が残されている地域も世界にはあるが、何故痕跡の葉一つも許されなかった国も併存しているのだろうか。
「禁忌に触れたか、触れなかったかの違い、住民達が後世に継ぎたくなかったから、の大きく二つに分けられる。君達の王国の場合は前者の理由、禁忌に触れてしまったからだ。」
「それは、理のようなもの?」
ハーゼの質問に冥王星は首を横に振る。
「理は捉えきれないものとして存在するが、禁忌は誰しもが知覚出来るものとして在る。法律、憲法、倫理、其等の要素を含めた越えてはならない一線、それが禁忌だよ。」
「で、王国はどんな禁を破ってしまったんだ?具体的な詳細がまだ見えて来ない。」
「星見台の舌に、とあるものを埋めた。偶然でなく、故意に。そして其のものが埋まる墓とも言える場所の上に校舎を置き、」
「存在しなかったようにした、だろう?星見台をかき消す行為は禁忌なのか。」
「そうではないのよ、ポポロン。」
口を噤んでいた蠍座がソーサーの上にカップを静かに置いた。
「埋められたものが問題だったの。何も埋まっていやしないのなら人の造ったものをどうしようと構わない。ただ……星見台の下には一人の遺体があるの。しかもそれは人間じゃない。人間の世界が誕生する前に生きていた……神々のうちの一柱だった男の亡骸。」
神を埋めた墓。流石に予期し得なかった事実にハーゼとポポロンは言葉を詰まらせる。
「其の神は、最初にトネリコが見た滅びの際に命を落としたの。それも、トネリコに火の粉が飛ばないように守りながら、自分の持てる力をトネリコに全て注いであの娘を守り通した、けれど其の神は息絶えて、冷たい灰の下に他の神々と同様に埋もれてしまった。
人の代になって、神話が現実世界の過去の出来事では無く研究の対象になった時、人間は其の神の立ち位置を見直し始めた。」
「見直す?立ち位置を見直すと言うのは?」
「ハーゼの国でも他の国々の歴史を学んだでしょう?歴史の中で悪人だと評価されてきたもの、善人だと讃えられてきたもの、独裁者だの英雄だのとされてきた人達が、実際に今のような扱いをされていたのかを改めて調べ直す事、それが立ち位置を見直すと呼ばれる行為。」
「トネリコを助けた神はどう言われていたんだ?」
「悪い神、とされていたわ。他の神々を揶揄い騙し欺く天才。災いのもととされてきた神よ。」
「じゃあ其の神の悪評を調べ直したのか?人間達が。」
「まだ星見台どころか王国も興る前の時代にね。結果は、悪い神と扱われても当然、と言える箇所もあったけれど、其の神がいなければ神々の世界は発展することも脅威から免れる術も持てなかった、だから神々の世界を維持するのに欠かせない存在、とされた訳。」
「其の神への畏敬も込めて、人々は其の神の亡骸を最も空に近い丘まで傷付けぬように運搬し、埋葬した。人間に神の文化を知ろう筈は無いから、人間の文化に於いて最も丁寧な形で其の神を埋葬した。土を再び載せる前には季節の花々と季節の鉱石を遺体の周りにぐるりと施して、出来得る限りの顔への化粧、そして当時は最も位が高いとされていたオオミズアオのマントを服に掛けて、手で土を被せていった、遺体がこれ以上損傷を受けないように、ゆっくりと撒きながら埋めていった。
そしてその上に四ツ星ノ螟蛾の羽で織った大理石を据えて其の神の墓とした。これが、星見台が生れるに至った経緯じゃよ。」
時計座と冥王星の語った王国の歴史を聴くと、自分の中にも少しずつ温かな雪が重なっていく感覚になる。何を失ったかも理解出来ないまま身心を抉った喪失感の裂傷が絹糸で少しずつ縫われて繕われていく。滴る血の音はもう聞えない。このまゝ故郷の話を全部取り戻せられたら、血溜りを拭く手巾も貰えるだろうか。
望みは忽ちかき消した。侵した禁忌は許されない行為だったのだ。トネリコが嘗て孤独に愛した神を最初からいないものとして学舎で踏みにじった国など、後世に残すべきではない。
「万物を愛するトネリコは、其の神には恋をした。平等な愛を向けなければならない存在が、たった一度だけ愛を孤独で押しやって恋をしたの。愛と恋は同時に在ることは出来ないから…」
蠍座の顔が俯向いていく。その後をこれ以上彼女の口から語らせるのは酷だった。
「トネリコは、使命を放棄したんだね。そして其の時、歪みを発生した。あらゆる生命を慈しむ筈の極光が、天災となって世界に翳されたんだ。」
「だから二度目の滅亡が起きて、トネリコは儂達と知り合った…と言うことかな?」
星座と惑星は黙然としていた。どうやら筋書きは当たっているらしい。ハーゼとポポロンの故郷が滅び捨てられたのは、ユグドラシルの業の為であった。
「ハーゼ君、ポポロン君。貴方がたには世界樹を憎む権利がある。例え禁忌を侵したからと言って天界に籍を置く者が一方的に地上を処断するのは大罪だ。罪人は、永遠に世界から追放される。」
そうか、だからトネリコは北天にも居続けることが叶わないのか、いつも天ノ河の箱庭を彷徨って一定の場所に座り続ける事をしないのは、既に彼女が罰を受けているから。
「…冥王星さん。ハーゼはきっと憎んだり恨みに思っちゃいませんよ。」
「ですが、故郷を失ったのは…」
「トネリコの所業。えゝ、それは儂等二人とも理解していますとも。滅びた時のハーゼの息苦しさ、きっと貴方達も目を背けたくなるような惨状でしたよ、忘れるものか。でもね、儂達をすくってくれたのも、またトネリコだったんです。贖いが動機かもしれないし、罪悪感の所為だったかもしれない。それでもあの瞬間震えながらも伸ばされた手に相棒は命を繋ぎ留められた。儂はハーゼを助けてくれたトネリコを恨みません、愛する場所を失った元凶だったとしても、俺には相棒が生きてくれている感謝と喜びの方が比べ物にならん程大きいんです。」
憎まれるべき相手に此処迄本心を語られれば、三人とも天界を憎んで下さいなどともう頼み込めなかった。
「ポポロンは僕の言いたいこと全部先に言っちゃうなあ。」
「ぐずぐずしているからだ。」
「でも助かったよ、有難う。」
「早く話してやれ。」
「そうだね。…冥王星さん、蠍座、時計座、聴いたでしょうポポロンの本音を。あんな腹からの音出すのは珍しいんですけれどね、彼の言った事と僕の伝えたい事は同じです。ポポロンを助けてくれた、それが一等嬉しいのです。彼の命の恩人の罪を僕は憎めません。故郷には悪い思い出ばかりではありませんでした、父と母の記憶は、きっと僕には良い思い出になる部分もあったのだと思います。それを取り戻せない空洞は容易に治せやしないかもしれませんが、僕はそれでもトネリコの友でありたい。いつか彼女が僕等の故郷を許せる日が来るのを信じたいのです。ですからもう、トネリコを止められなかったからと自分達を責めないでください。……友人だって、北天に来て初めて出来たんだもの。」
ポポロンは温かい紅茶のお代わりを全員分に注ぎ始めた。
満月
あの二人の御蔭で星座達は戻ってきてくれた。時計座のように、自分に到底出来そうに無い仕事をこなしてくれる星座もあれば、天秤座のように理を侵犯した罰を甘んじて受ける星座もある、帰って来られない理由は善悪で測られるものではないのだ。
じゃああの神は、彼は何故戻って来られないのだろう。彼の死は何故物語として天に帰って来られないのだろう。そんなの決まっている、人の王国が彼を地上に葬ったからだ、最初から天へと弔いを上げていれば、いなかったことになどされなかったのに。
ちいちいちい
あゝ近頃は小鳥の声がよく耳に届く、何かきっかけがあったんだろう、分らない。小さな鳥があお細くしなやかな、山猫のような指に止まっていたのを思い出す。
「君は何が望みなんだい。」
望みは、世界樹で居続けること。ユグドラシルが倒れれば此の銀河は瞬く間に崩れて喰われてしまうでしょう。
「……其は、望みなのか?」
世界樹の望みは唯一ですもの。
「じゃあ君は、世界を、此の宇宙が平和で存続させる為の機構なのか?」
植物は機械なのですか?
「頷かなかったね。では君自身は自分のことをプログラムされた生命だと認識していないんだ、認識しないということは、心の根底では拒んでいることさ。君の思う通り、植物は只の寡黙な生き物で言語を有していない訳ではない、そして言葉を持つ以上、其等には必ず感情がある。心がある、冷酷も情熱も生れ乍らに抱えているんだよ。君には無いかい?否ある筈だよ、君が未だ知らないだけで、君は極めて情熱的な、燃える林檎よりも荒々しく美しいそして精緻な雪を担う存在だよ。そんな君が、ただ樹で在り続けるなんて下手な建前を本心とするのかな?」
そんなに一気に澤山言われましても、分りません。
「分らないと思ったら、目の前のものをよく見てみることだ。答えが出るかもしれんしそうならないかもしれん。でも若しかしたら桜の花びらが頭や頬に降るように、閃きの守護者が君の額や頬にキスをしてくれるかもしれないぞ。」
貴方以外には出来たらされたくないけれど、と言う前に夢は覚めて、トネリコは画廊パーティーの途中だった。絵画が並べられている、額縁は無く、タイトルは何方も劇場で、出ずッぱりの若手が舞台で回って倒れるだけ、次の絵も、次の絵も、まだ次の絵も同じで、表情はみんな笑っている。
悲鳴をあげずにはいられなかった。
悲鳴を上げたら目は醒めて、隣の白鳥座が転寝していて叫びと共に起き上がった友に走り寄る。
「トネリコ、どうかした?」
夢を見たの
「怖い夢か?」
怖い夢…幸せな夢、酷い夢…
トネリコ、トネリコ、と呼び掛ける声を耳にするとまた夢を見る。
「神々は私を除け者にしている。特に万物の創造主と自称している彼だ。私がいつか此の神々の世界を閉幕させると常々危惧しているのさ、最も権力のある奴は押並べて皆ビビリだぜ、臆病って言うと私のずる賢さが和らいちまうだろう?悪人の神ならそう定めてくれたら良かったのに、如何して俺は悪戯なんて呼ばれるように決められたんだろうな。」
それは、貴方が悪戯好きだから…
「可笑しいと思わないかい?神の間で何故嘘や悪戯なぞ求められる?完璧でない人間達が編み出すならまだしも、完全である神が態々不確実・不完全なものを創造したんだ?」
分りません。
「おいおい、以前教えただろうに忘れてしまったのかい?分らないと思ったら目の前のものをよく見るんだと言っただろうに。ほら、おいで。私をよく見て御覧。」
あの時、目を逸らさなかったら、貴方の生きる世界はもう少し続いていたのかもしれないですね。
「トネリコ、トネリコ…」
貴方がいない後に貰ったのですよ、貴方は私を与えられた責務の名前のまゝで呼んでいましたから、知らないでしょう?
「 」
呼んでほしかった
「それが君の望みなんだよ。」
作戦
世界樹ユグドラシルが其の姿をほつれさせ始めた時、天ノ河にはパイプオルガンの不協和音が散らばった。流れ星の砕けた破片はトネリコの知っていた世界の水晶体に銀の矢の如く突き刺さり、星屑の先端からは紅い繊毛がリボンのように舞っていた。それぞれの世界の空は細く紅く埋められていく。
「これは?」
冥王星の館はもはや此の天ノ河に属してはいないとされているのでリボンの影響は及ばなかったが、目下の世界達がみるみる包まれて結ばれている事態には流石に動搖を隠せない。
「トネリコが記憶を遡っている。」
開けっ放しの口でいるハーゼ達の中で真先に蠍座が凛と叫んだ。その声に冥王星は杖を掲げて時計座は鉱石の雀達の様子を見る為に館を走り出た。
「蠍座、まだ説明されてない。どういうことだ?」
「ポポロン達には丁度今から言おうとしていた。でも先に向こうが動いてしまったのよ。」
「トネリコが、昔のことを思い出そうとしていること?」
「思い出すとは違う。過去に戻っているの。浸るんじゃなくて戻る、区別付く?」
「区別のどうこう説明の前に、儂達は今何をすべきなんだ?」
「此の館から出ない事だ。時計座も直に戻って来る。冥王星が杖を翳したのを見ていた?あれは防御の瑠璃を此の場所に覆ったんだ。赤いリボンは青の石と交わりたがらない、色を失くして取り込まれて紫に変わってしまうからね。ほら、あの子も戻って来た。」
話している間に時計座が手を振って此処に駈けるのが見えた。
「ひとまず五人だが、今何が起きているのかを詳しく教えよう。ハーゼとポポロンには知る権利がある。」
ネモフィラの莟が所々に顔を覗かせる木の扉は閉められた。
「今トネリコは記憶を遡っていると蠍座から聞きました。それがどういうものなのか、僕達に詳しく説明してください冥王星。」
木の椅子は等間隔に五つ輪に並んでいる。
「記憶には思い出すと言う単語がよく付随して使われているのは分るね?記憶を思い出す、と言うのは今の時間に身を浸しながら、心の中で過去を見つめる行為だ、その派生として文章に綴ったり言葉を発したりする行為も産れはするが、何の問題も無い。身を浸す湖はあくまでも現代だからね。
だが記憶を遡るとは、身も心も過去に沈めてしまうこと。今現在から過去を見つめるのではなく、過去の時間に戻すこと、つまり時間を巻き戻して過去の存在に現在を生きる者が接触しようと図る行為だ。」
「記憶の中の時間を巻き戻して嬢さんは誰かに逢おうとしてるのか?」
「トネリコが逢いたい人って、」
「其の神、に違いありませんよ。トネリコを滅びの日から助けてくれた神のことでしょう。」
思い出してしまったのか
「時計座、ハーゼ達の王国はどうだった?」
「えゝ、特に異常はありませんでした。鉱石の雀も、数が増えた分は全員無事です。新たに増えたり減ったりはしていませんでした。星見台もその上に在る学舎もやっぱり。」
「何としても星見台を取り戻そうとする筈と思ったのだが…まだ安心は早い。時計座は望遠鏡で引き続きハーゼ達の故郷を見ていておくれ。」
冥王星が指示を終えると、老人は蠍座とハーゼ達を手招きして座るように促した。椅子は一つ減ったがまた円形状に輪を成して。
「蠍座。君は如何動く心算《つもり》《つもり》かな。」
けれど、それは許されない行為?
「此のまゝ放っておけば、世界は回転を続けられなくなる。現在が過去に覆い被されて思い出は思い出の為だけのものに化してしまう。そうしたらもう、今生きている存在は何處にも呼吸する場所が無くなる、何處にも行けなくなる、北天の家にすらも。」
「トネリコの追懐を止めなくてはいけないの?」
蠍座は何も答えなかった。代りに冥王星がハーゼに応じる。
「彼女がただ在ること以上のものを望んでしまえば世界は簡単に狂ってしまうのだよ。世界を狂わせたくないのであれば、元通りにする他無い。トネリコには暫く秩序を取り戻す迄大人しくしていてもらわなくては。」
秩序?とっくに世界は滅びているのに。
「ハーゼ、君達の故郷は取り返しがつかないが、此の天ノ河の内には未だ滅びを経験せずに踏んばっている世界もあるのだ、君達が潜って来た雪ばかりが天ノ河の全てではない。」
「じゃあやっぱり、嬢さんを黙らせるしかないってことか?そんな手荒な真似をして反撃されても知らないぞ。」
「物理的に抑え込むんじゃない。」
トネリコの友たるアンタレスは胸の辺りで拳を握りしめた。
「話を聞くの。トネリコが普段抑え込んでいること全部、吐き出させる。でもあの娘は見知った顔の前では決して甘えないから、だから同類の姿を借りて話すしかない。」
「同類って…鉱石の雀達のこと?確か神代以前に存在していたもの、世界樹ユグドラシルと同じ時代に生きていたものだって。」
「そう。時計座は聡いから、鉱石雀を一羽見た時に気付いたんでしょうね、雀達は未来の自分達の呼び声に応えて訪れたんだって。ハーゼ、君も直覚したのではなくって?」
あの時はトネリコの歪みを知らせないようにしていたから、時計座も震えただろう、色んな感情で。
「てっきり故郷を無かったことにさせる為に星見台を見張っているものだとばかり懸念していたから…そんならあんな怖い顔しなくても良かったんだ。鍵はやはり、星見台?」
「鉱石雀の姿を借りて、星見台のあった深部にトネリコの意識を連れて行く。其の神の名残は深部に埋められているから、其処で彼女の腹を割らせるの。」
「では蠍座、君はトネリコを落ち着かせる作戦に協力してくれるのだね。」
ネモフィラの言葉をアンタレスは拒んだ。
最早星座のみが針の先ほどの隙間からくぐり抜けられるようになった天ノ河の世界達。故郷に向う為ハーゼとポポロンは冥王星のマントを被った姿で時計座に抱えられていた。
「雀が貴方達の足元にハシバミの小枝を置いたらマントを取っても大丈夫だけど、それまでは絶対に取ったら駄目。枝が置かれるまでじっとして待つの。声も出さないで静かに呼吸だけしていて、自然にね。」
二人に指示した後、雪の薄れる微かにまだ白い地面へそっと降ろす。ハーゼとポポロンは言われた通り、黙って雀の行動を待つ。
「ちいちい、ちちち。」
白瑪瑙の雀が一匹此方を見た。嘴には桜桃の実を一粒咥えている。
「ちゅぴっ、ちゅちゅちょん。」
オパールの羽を鳴らすものは葡萄の蔓を食んでいる。
「ちゅりりあ、ちゃっちゃっちゃっ。」
翠玉の片脚は雪上に足跡を点々と付けて歩いて行く。
「かろんかろんしゃろよよよ。」
天秤宮に移り香残す散る薔薇輝石、宮殿の騎士の帰りを待つ花君が無事であれと涙をかけたハシバミの枝。
マントを頭上にがばりと脱いで雪の薄い地面へちゃぷちゃぷと歩き出す。どうやら儀式には受け容れられて、儀式自体も成功したようだ。帽子を頭上に投げほうるみたく嘴がそれぞれ担当していたもの達を宙へ放る。
「私の声は聞えるかい二人共。もう声を出しても平気だよ。」
「聞えているよ時計座さん。人間じゃない姿になっているんだよね?平常と感覚が変らないのだけど。」
「儂も兎のぬいぐるみの感覚のまゝだ。本当に鉱石達の姿を借りられているのか不安だな。」
「外見も中身も全方位ぐるっと見ても二人とも鉱石雀の一員だよ、心配することじゃない、姿はきちんと借りられているから、これでトネリコを星見台に案内させてあげられるよ。先ずは二人共星見台の埋められた場所へ向って、そしたら其処でトネリコを呼ぶの、リボンがやって来たら土の根元に嘴を数回突き付ける、つついて頂戴。すると道は繋がって、後は道を辿って星見台の深部に向うだけ。特に話をしなくて良いと冥王星殿が仰有っているから、深部に来たなら後はトネリコ次第ね。作戦は以上、幸運を。」
時計座は故郷の雪空へ再び佇み始めた。これからは見守る役目に徹する表示であろう。
「じゃあ行くか。」
「行きましょう。」
二人で一匹の雀になったハーゼとポポロンは、少し馴染みの無い雀の声を発した。
「かろんかろんしゃろよよよ。かろんかろんしゃろよよよ。」
か細いリボンが一本走って伸びて来た。そのまま雀の足首に結わえると、雀は三分の二崩れている校舎へと歩いて行く。
ぼっちゃん
天体系は一つ所に留まっているのではないと聞く。誰が教えてくれたのかはもうかなり曖昧だが、今になっても忘れられないということは、それなりに印象深い言葉であったからだろうと思う。
神々の世界は、つまらなかった。誰も彼もが自身を絶対だと正当化し、自分達の価値観にそぐわぬ者は殺す、殺す。神々がそのような姿勢では、次代の人間達だって似たようなものになる、いつまでも神々の延長線上をやり続ける人間も、私にとってはつまらない。私は良心など、初手から信用していないのだ。
だから彼女に惹かれたのだと思う。世界樹は自らを証明せずとも良い存在だったから。神代以前より在ったもの達は、其処に居るだけえ良かったのだ。
存在証明も繁栄も必要としない彼女に興味が湧き、最初は動物や鳥に化けて接近した。次第に姿を変えて逢うことにもどかしさを感じ、最後の方にはそのまゝの姿で通うようになっていた。彼女は私が神の一柱だと知った後も態度を改める真似はせず、初めて話した時と同じように笑い、驚き、そして笑ってくれた。私と関わり合いになった者は皆残らず嫌な顔をして喜びはしなかったが、彼女は大勢とは明らかに違って隣人のように接してくれた。
彼女と逢瀬を重ねる度に、彼女が務めから解放されればと願わずにはいられなくなった。くだらない神どもが支配しているからこそ彼女は無感情に存在していなければならない、誰かの為に在るのでなく彼女自身の為だけに存在していてくれと私は祈ってしまった。
彼女から他者の為を奪うのは、狂わせることと同義だった。終焉の日に私の持てる力全てを使ったのは、償いと称するにはあまりに当然の行為すぎた。私は彼女に償えぬまゝ先に勝手に死んだのだ。
卑怯者、インチキ者、愚か者。あゝ結局神々は正しかったのだ、私を罵った言葉の数々は、やはり私と言う存在を言い表すのに相応しかった。なのに何故私の価値を見直そうなどとするのだ、人間よ。やはりあの時代の神々と同じで貴様達は怯えているのだろう、私が世界を破滅させる存在だと信じている。でなければ私の存在を欠けてはならないものだとおべっかを使うなどしまいものを。
―かろんかろん、しゃろよよよ。
誰だ?私を求めている誰かが其処にでも居るのか?こんなコンクリイトで塞がれた奥墳に生命がやって来られる道理は無い。此処には私の死体と学舎から時折排出される蝗害くらい、また蝗は地面から見えない星見台のそのまた深部になど興味贋金一銭程も無いだろう。では、何方様、と言う話になってしまうのだな。そうだ、来客をもてなす際のマナー、一応は王族と義理ではあるが繋がっていたから嗜みは兄貴よりも遙かに格上の所作を優美にこなせるだろう。先ずは紅茶を用意して、カップをクロステーブルに載せて、それからカップには予め半分程湯を入れて温めておいて。墓の下でお茶会なぞ初めてだが楽しんでもらおう。星見台のひしゃげた扉を開けて声の主を歓迎しよう。
お上品に置かれたティーポッドのふんわりした薫りを墓中に広める為其の神は陶器の蓋をぽかりと外す。
其の温かい紅茶の中に、ぼっちゃんと一匹の鉱石雀が頭から真直ぐ落下してきた。クロスに跳ねた雫を拭き取ろうと手を伸ばした時、指を握った紅いリボンが居た。
雪解け
天体系は一つ所に留まっているのではないと聞く。目にも心にも感じきれない程の微かな変化は天体だけの持つ特性ではないのだと。他の天ノ河なら知らないが、少なくともユグドラシルの生存する河では生者も死者も日毎移り続けているのだと考えた時、確かに一人ではないと感じたのに。
私は想ひ出に溺れてしまった、深く沈んで沈み果てて、二度と息を吸わなくても良いとして行動したのだ。だから、今握る冷たい体温を手放すことが叶わない。
「ユグドラシル。」
懐かしい声に震えてしまう。こんな、こんな姿を見せたくなかったのに。
「あゝ君は、罪を侵してしまったのか。」
落胆したでしょう。身勝手な、自らの心に正直になってしまったばかりに使命を捨てた世界樹なんて名ばかりな。
「何故自分を責める?君に感情があると証明したがったのは私だ。私が君に素直にさせたから罪を侵したんだろう?ならば元凶である私こそが責められて然るべきだ。」
貴方を悪い神にしたくないのです
「私は悪い神だ、それはもう覆すことが叶わない。火取り虫から鱗粉を奪えないように、雪から月を切り離せないように、動かすことの出来ない北極星だ。諦めろと言いたいのではない、受けとめることしか術は無い。人間に立ち位置を見直されたところで所詮私は創造神の待遇は与えられることは無い。私に祝福はもたらされないんだよ。」
互いは互いに言葉を失くした。愛する者が自らに恋をしたが為に滅びの罪を背負ったなどと、何の言葉で慰められよう?何の言葉で罪を雪げよう?
友を想えばこそ、ハーゼ達も一言も発せられなかった。トネリコが自分達を想うのは本心である。そして自分達を憎むのもまた本心である。故郷が学校を建てなければ、或いは他の土地に造っていれば、星見台は鎮魂の為に、本来の目的を今も続けることが出来たかもしれない、そして王国も名前を見失う寂しさを知らずに済んだかもしれない。
己以外の為出かした事を荷ってしまえば、文字通り人類は身動きが取れなくなってしまうだろう。自己責任の単語が衰え人は他者の為だけにあくせくしなければならなくなるのだろう。それを厭い好きに振舞えば今度は禁忌を破り続けるのだろうが、何方にせよ人の行き道は詰んでしまっているではないか。
「オルタンシアの国も、こうして詰んだのかな。」
鉱石雀の声は何を話しても最初の鳴き声にしか聞えない。
―かろんかろん、しゃろよよよ
「一層のこと、鉱石雀の姿を借りている者達が二人に新しい住居を作ってあげられたら良いのに。」
「このまゝじゃ何方も何方かを置き去りにして消滅しなくちゃあならなくなる。トネリコと其の神の時間は生者と死者、それぞれ時間が区切られているから二人一緒に居ても結局は互いを置いて行く結末にしかならん。」
―かろんかろん、しゃろよよよ。
今此の天ノ河にトネリコの使命が戻って来れば世界は元の通り滅びと復興両方抱えながら進むだろう。使命が戻らなくなれば、此の天ノ河一帯は存在出来なくなる。
「トネリコが世界樹で在り続ければ、僕等は活路を見出すことが叶うかもしれない。でも、そうはならないかもしれない。不確実な悠久の時間を今のトネリコに与えなくてはいけないなんて、ねえポポロン、僕は嫌だよ。」
人が人の世界を守りたいなら、それは他者におもねておくべきではない。誰かの大きな力を当てにして自分達はのうのうと過ごすなど、生きる意味を履き違えていやしないか?
「トネリコを、ただのトネリコにしてあげないと。」
鉱石雀はリボンと神の指の間にハシバミの小枝を置くと、冥王星に借りていたマントを外し、一人の青年と一人のぬいぐるみの姿に戻った。リボンはひどく動搖していたが、神は黒い朝顔の莟のような眦で薄目に二人をちらりと見たばかり、驚く素振など微塵も無く、むしろ逢瀬を邪魔した奴等を殺したいと言わんばかりの鋭い笑みを形の良い唇辺に湛えている。
「君、此奴等を知っているのかい?……あゝそう。友人なのか。これはこれは初めまして人間よ。ユグドラシルと仲良くしてくれているようで嬉しいよ。」
「姿を変えて覗くような真似をしたことは謝ります。でもこうでもしないとトネリコは貴方に逢おうとは思わなかったから。星座や冥王星に協力してもらって、此処へ来ました。」
「ハーゼ。うむ、良い名ではないか。それに、ポポロン、実に愛らしい。彼女が仲良くなれるのも道理かもな。」
神はリボンを握る指を緩めない。
「それで?望みを早く言うがいい。貴様等は人間だ、自分達の生きる世界をまた元通りにしてほしいのだろう?だからこそ彼女に会いに来たのだ。さあ説得してみせろ、彼女に使命を再び取り戻すように、また星の鎖で繋がれてくれと懇願したら良い。」
眦の色は先刻と全く変っていない。
「いいえ。トネリコにユグドラシルの使命を負わせる為ではなく、人間に使命を譲ってもらいたいのです。」
神は
円卓
紅茶にはアップルティーが選ばれた。雪解けの蒸気が此の場に居る者達の頬を桜のように或いは藤花のように或いは白菊のように染めている。ポポロンは全員に注ぎ終えた後、ハーゼの膝の上、定位置にとびのり、改めて三人の顔を見た。それぞれ丸テーブルの席には就いてはいるが、椅子同士の距離は均一ではなかった。ユグドラシルとハーゼの距離は手を伸ばせば指を繋ぎ合える長さだが、神はトネリコの腰に手をまわし自らの胸に凭れさせるような近付きようだったので、必然ハーゼと神は握手が出来る範囲に居ない。
「ハーゼ、貴様の言葉をもう一度確かめよう。如何せん此処は墓場であるし、時間の感じ方も生者と死者では微妙に異なるものだから、奇妙な空間なのは否定しない。そんな奇天烈な場所でもっと奇天烈な事を宣ったよな?」
「トネリコが背負い続けた荷を、人間に譲り分け与えてもらいたいのは、奇想な発言でしたか?」
「世界に居るのは人類だけとでも信じているのか?それとも人間が世界を代表するのに適任だと祈ってでもいるのかい。」
「いゝえ悪戯の神さま。僕は人類は末っ子だと思っています。此の天ノ河には天・地に種族があふれています、その中でも人間は最も幼く最も庇われるべき種族です。」
「ならばおとなしく守られていてはどうなんだ、人智を容易に越える存在達に包まれて。」
「末っ子はいつまでも赤子ではありません、年を取ればいつかは正念場が訪れます。」
ハーゼはポポロンの手を握りなおす。トネリコは彼の言葉と新月の光の眦を正面に見つめて聴いていた。
「今が末っ子の正念場なのです。また歴史が進めば神々や他の存在に役目は還されるかも分りません、それでも今は、今だけは人間が重荷を背負う時間なのです、激流を、淵を、荷う番なのです。」
面妖だ、と思う。人は他のもの達より抱えられる重さも量も深さも遙かに少ない。だが神々や獣草木に植わっていなくて人類にのみ誰しも初手から生えているものが確かに在る、其は、執着する心だ。神話や伝承を読むと良い、彼等は一つ一つの生命について本来いちいち考えはしない、悪人が住む街を見掛けたら街を丸ごと破壊する、悪人が居るのだから街全体が悪なのだと都合良く考えて、街の中心部に住む者、外れに住む者、生える小草まで汚れているから破壊する。そしてその後の瓦礫から赤子の指や處女の腕が血を流しながら蠢いていても、気にしない。予めレッテルを貼って示しておけば街は隅から隅迄救えぬ街となるのだから。
そうだ、私の在籍した神々だって執着とは縁遠い神経だ。夫でありながら他の妻との子を成す者、妻でありながら他の夫との子を設ける者、うむ、私にも前例があるから強く責めることは出来ないが、神々は愛情への執着心が皆無なのだ。その点では私も神たりえたが…
「私は全うな神ではない。半分は人間の要素を混ぜ込まれたのかもな。」
でなければ君を此処迄連れて来てもらえなかったろう。神と定義される男が不完全でなければならないだと皮肉も良い所に極っている。神の世界も不確実、神代以前はそもそもが不実の流れに従って在り続けて来た、そして今度はも一つ不確実な末っ子にお鉢が回って来た、あゝ、順番なのだな、此の順番が人に回って来たからハーゼは彼女の荷を……
傲慢な言葉は裏の葉がふっくらしていることが多い気がする。成る程な、小動物は存外力持ちなのか。
「面白い。その話ノッた。」
狂った世界は狂人の手で治すしかない。それに、
「彼女と休暇中にハネムーンでもさせてもらうよ。」
彼女はハーゼ達に深く頭を下げ、抱きしめている。震える指先のリボンをポポロンが器用に蛾の羽のように結び直し、どうだ見給え感謝しろとでも言いたげに鼻息で私に自慢してくる。毛皮にしてやろうかな。
リボンが似合う可愛い子が、こんなに可愛く笑えるのなら、世界の主導権は当分任せたよ。
春の水辺
「何を馬鹿な。」
蠍座が言うのも無理は無い、今更どのツラを下げて言い訳するのだ。
「君には本当に迷惑を掛けたよ、トネリコの傍に居てくれていたのに、私は自分ばかりで、此の名を負うに劣る真似ばかりしていた。許してもらおうなぞ企んじゃいない、汚名を返上したい訳でも無い、たゞ、今…ほつれた彼女の姿を聞いて、変らない焚火を続けているのかと問うたんだ。そしたら、雪の外に此の身が飛び出していた、矢も楯もたまらず走って来た、君の赤い光が見えたから。」
天秤座は身体を半分、文字通り食い千切った姿で蠍座の前に立って居た。血の痕は冥王星の館の乳白色の大理石の床に鮮烈に滴り筆を迸らせている。
「もう平等ではなくなっているかもしれない。ハーゼ達の生命よりもトネリコ一人を気に掛け続けてきたのだから、天秤を持つことは適わないかもしれない。けれど、過去は消えない、私が昔地界に対して使命を侵したことも果たした過去も消されていないのであれば、蝗を焼き尽す薔薇程度なら燃やせる筈だ。」
「其の身体で炎を奮えば骨しか残らなくなるぞ、骨だけでどうやって天秤を背負うんだ?荷えばそれこそ粉砕するだろう、お前は星座として死ぬのではなく、宇宙の塵と同じ姿になってこと切れる心算《つもり》《つもり》か。」
蠍座は容赦無く天秤座の胸倉を掴み捻じ上げ、彼の血で自分の手が錆びるのも構わず言い放つ。
「お前が死ねて満足でも、残された者には迷惑だ!お前は夜空に佇み続けるのが償いだろう!甘ッちょろい自己犠牲がお好みならそうさせてやりたいさ、何なら私がお前に手を下してやっても構わない、だがそうしないのは何故か分るか?お前が命を擲ってまでもトネリコのことを愛しているからだ!私はあの娘にもう寂しい思いはさせたくない、恋した相手を一度喪くした彼女に、トネリコを愛する者達まで奪われてしまいたくはないのだ、だから私はあの娘の傍に居た、もっと、分かってほしかったの、貴女は、愛されているんだからって、貴女の涙から紡がれた私達でも、貴女を、貴女、愛しているのって、叶わなくっても、愛していると…」
泣き崩れた蠍座の身を支えた冥王星は同時に天秤座の無い半分に手を翳した。
「天秤座、命の燃やし時は捨て時でもある。確かに今は正念場だ、トネリコが使命を果たすか捨てるかの二択を決断する時だ、どうなろうと多大深刻な悲害は免れそうにはならないが、石垣の堡塁を造らないのは違うであろう?如何選択してもトネリコが再び戻って来た時、彼女には我々の無事な姿を見せてやりたい。
そうすれば、トネリコは笑顔で旅立てるし、笑顔で殺されてくれるのだろう、もう狂った僅かな残りの愛情をいっときに傾けて…
ただのトネリコに戻って最期を迎えさせたい。」
トネリコを許す理は存在しなかったらしい。永遠の土台たれ、世界を繋ぐ鎖に感情は無いものと思え。あの重症のおひとよしに心を求めるなと言う方がどれだけ無体であろう。
「蠍座、天秤座、見て御覧。」
どちらも冥王星の言葉を拒んだ。友の、愛する者の狂いきってしまった死に姿を再び見るなど耐えられない。
「見なさい、トネリコが…ユグドラシルが、トネリコの枝になっていく。」
跳ね上げられたように世界を見た。
天ノ河のほとりの場所、黒天であった位置に三日月が、真綿の蛾が舞い降りている。一匹、二匹とふわふわじゃれあって、やがて湖面にとぷんと沈めば、兎の毛ほふぉの気泡から淡い緑子の芽が生まれた。それは瞬きを重ねる度にすくすくと丈は伸び幹は満たされやがて流星の尾を曳く一本のこぢんまりとした木になって止まった。一羽の鉱石雀が木のてっぺんにオパール新しく訪ねて枝に嘴を寄せると、枝はパラパラと転がって水面に軽い身を浮かせた。暫く漾う小枝は北斗七星の裏側に立つ北極星の氷の月光に照らされていたけれど、やがて水を訪おうかという時、光のヴェールが青く緑に白透き混じる翼の霧へと羽化して小枝は包まれ、太古のオオミズアオの胴体となって天ノ河を飛び立った。水飛沫が雲の欠片となって輝きを思い出す水晶体、雪の納められている北天の一つ家に掛かれば硝子瓶の孤独は流れを悠々と泳ぐ金魚となり、雪に侵された世界は一粒ずつ息吹を取り戻し彩色をし始める、忘れられたいつかの記憶に逢いに行こうと、閉ざし続けた瞼を開けて目の前の旭日を知る。
「滅びの後に、こんな光景が待っていようとは誰も予想し得なかった。蠍座、君の言った通りじゃ、人間はとんでもない時に核心を割る…二人共、一緒に北天の家へ帰ってあの子達を出迎えてあげなさい、私も時計座を連れて直ぐに向かうから。さぞや疲れているだろうから、此のぼた餅クッションを持って行こうかの。」
どの紅茶を選んだのか、聞いてみようか。
赤い糸
神話は此処で立ち止まり、物語は人の手に任される。生れる前の世界を想像して人々は自分達に似た存在を語り合い、紡ぎ出し、枝々は文章・織物・建築・絵画等へ分かれていく。
此れは、一つの枝の話。絵画にまつわる話。
少女の家は、神々に仕える敬虔な一族であった。都会から少しだけ逸れた郊外の道幅は広く、道路を成す低い家屋や田畑までもが馥郁と芳醇の話に相応しい酒の匂いに満ちている此の田舎町で、トネリコの父親と聞いて頭を自然と下げない者はまず居ない。トネリコ少女の父親は神父であり、トネリコは父の血を濃く継いでいた。
「おはようございます、ワルドさん。」
「これはお嬢さま、おはようございます。」
トネリコはもうじき娘と称される年頃の少女であり、その眉は昼も涼しい三日月の輝きを仄かに湛え、季節の花々に染まる眦はかろやかに穏やかな流れを迷って失うこと無く澄んで唇は恥じらひに隠れて咲く夕顔のよう。着込めば令嬢、青年の身装に整えれば恰も代々海軍将校を務めに背負う眉目秀麗の若君の如き風情、勇壮の気満ちる凛々しい横がほの立ち姿となる清廉さと端正が自ずと備わる乙女、麗人。しかし其の性格は控え目で、決して表舞台に進んで出たがらない、かと言って陰険な訳では断じて無く、道を歩いて見掛けた農人達に丁寧に頭を下げて挨拶するものだから、トネリコが物心着いて二、三年経てば父のみならずトネリコ本人にもお辞儀をするのが当然の習いとなっていた。
「また帰りに寄られますか?」
「はい、夕方頃にまた来ます。其時あの、いつものトマトをお願い出来れば。」
「承知ですお嬢さま、今日も袋に入れて用意しておりますから、おらの家の者誰でも良いので声サ掛けてくださりまし。」
「有難う。ではまた。」
止めた足を再び動かしトネリコは歩き始めた。彼女は今日も、町外れの丘に座って、故郷のスケッチをするのである。
トネリコは町の人達がひたむきに生きる姿が好きだった。耕作をする農夫、都会へ働きに向かう女性、畦道で遊ぶ幼子、台所の音、料理の匂い、談笑の声、祈りの鐘…丘に登れば町民の生活を見つめることが出来る、其等を描くことが出来る、そして一段落すれば自分も其の中へ混じって手伝いや労働をしたくなる、お喋りをしたくなる、家族に会いたくなる。日常の生活とは、此の優しく穏和な少女にとって北極星の煌めきであったのだ。
梟の鳴く声と共に油絵具達を片付けて鞄にしまい小脇に抱えて町へ帰る、今日は父が農作業の手伝いをする曜日だった。自分も手伝いに行こうとして走り慣れた道に差し掛かった時、
「トネリコさんですか?」
前方正面の男に話し掛けられた。男は中央と左右の合計三人居て、どうやら少女が此の道へ来るのを知っていて待っていたようである。
「そうですけれど、貴方がたは?」
「我々はコンセンティ絵画協会の者です。突然お邪魔して申し訳ありません。御自宅を訪ねましたらお父様がいらっしゃって、娘はあの道を通るから其処で待っていると良いと仰有られたものですから、こうして貴女のお帰りをお待ちしていた訳なのです。」
中央に立っていた男性は深く被っていたハットを取ってトネリコを見つめた。家の横に立つ小さく古いお御堂のステンドグラスの月のように静かで山吹優しい瞳をしていた。
「以前貴女が出展された当協会主催のコンクールを憶えておられますか?」
父よりもずっと若い喉仏から出される声は低くまろやかで、町では耳にしたことの無い響きを込めていた。短く整えられた髭は清潔で、ご近所のワルドおじさんとは似てもつかない色気を醸す。少しクラクラと眩暈がする少女は何を話そうとしていたか朧気になってしまう。
「絵画…あの、故郷の風景と、町の方達を描いた、あの絵…」
「そう、あの絵です。受賞こそは果たせませんでしたが、私はあの絵に酷く惚れ込みましてね、是非こんな妙なる絵を描いた人にお会いしたいと思っていたのです。…おや、顔色が少し悪いようだ。」
「走って来ましたので、その所為かと…あの、でも、何故、父は貴方達を家に迎えなかったのでしょう、だって、道で待っていろなんて、そんな失礼なこと、その、言うなんて…?」
中央の男はトネリコの両肩に逞しい両腕を伸ばし大人の掌を軽く乗せた。お隣さんの奥様よりも重い質量だった。足を後ろに一歩退さらしたが何かが背中にぶつかる。男の両端に控えていた筈の男性二人がトネリコの逃げ道を隙無く塞いでいた。中央の男は煙草の名残薫る笑みを少女に向ける、このような種類の微笑みを見るのは初めてだった。
「お父様は貴女が迷われるのではないかと思われていましたよ。伝言を預かっています、申し上げましょう。おまえの才能は田舎で咲かせる類のものではない。おまえの顔を見れば私はおまえを引き留めてしまうだろう、教会に連れ戻したくなるだろう、幸せと健康を祈っている……如何です?」
こんな絡め取るような切ない声は知らない。顔を背けようと掴まれている手首に力を込めたら、唇を唇で塞がれて、そのまゝ何かを流し込まれた。反射で喉を動かした後、意識はふつりと途切れてしまった。
どれだけ清廉に生きようが、ひたむきに生きようが、不条理は雨として降ることを止めはしない。生命が存続する限り水は必ず訪れる。それが常に望む形で来てくれるかどうかなどは生命の捉え方の問題であって、水自体は只生命達を訪えばそれで充分なのである。
だが此の雨は少し欲を出した。
トネリコを連れ去った主犯の男は決まった名前を持たなかった。或時はアルファベットで綴る横文字の名の時もあれば縦書きでの名を称した経験もあるし、凡そ日常では公とされていない文字で名乗ったこともある。トネリコの住む町に足を踏み入れる前にはカバネと言った。
仕事帰りに偶然立ち寄った小さなギャラリーで一つの絵画を見たのが今回の事件の契機であった。サアカステントが迷い込む夜空の星々は歪みうねり流れゆく、その先には北斗七星が太陽の如き存在感を演じているが其の太陽は凍っており月の横がほ、死人の顔をしていた。それでも紺青藍碧の空はうねりを止めず、異形の星達も輝きを失わない。
「この絵は、誰が?」
都会のギャラリースタッフは質問者に滔々と答えた。その絵画は一人の田舎町に暮らす少女が一人で描き上げたものであること、絵の勉強を学園で習った経験も無いのに独学で絵を描き続けているらしいということ、コンクールへの出品を勧めたが受賞には届かなかったこと、しかし絵画コンクール主催協会の会長が少女の描いた作品を大層気に入って、是非当協会の一員になってほしいと思っていること。雇われ者は中々何處迄話をして良いのか加減が難しいのは仕方あるまい、スタッフはこの絵を買いたいと言った客の注文に忠実に対応した。
車を停めて待機させていた部下の二人に指示を出し、絵画の制作者の名前と素性、家族構成を調べさせた。
「カバネさん。此の絵は何かの暗号でありますか。」
「そうじゃなかったらどうする?」
車内で足を大きく開き重心を下と前に同時に持っていく、俯向き加減で咥えた煙草に銀のジッポで火を点けて煙を味わう上司の様子に部下は少なからず驚いて訊き返した。
「えゝ、今後の仕事のメッセージや合図だと思ったのですが、違うのですか?本当にただ、お好きな絵を買いに?」
「俺はただあの絵が気に入ったから向こうの希望の額の十倍だして買っただけだ。初めは百倍出す心算で店員に伝えたらな、直ぐに計算出来なかったようでなあ。だから分りやすい十倍で買い取った。あの坊主、今でもまだ目ェ回して腰抜けてんじゃねえか。」
珍しく上機嫌な上司に背筋を凍らせながら、部下はもう進んで質問をすることを止めた。
「で、お前、画家の自宅は分かったのか。」
受け取った絵画を丁寧に梱包しなおす部下とは違うもう一人の部下に今度は尋ねた。
「ええ、調べは全て付きました。どうやらその娘、此処の郊外にある田舎町に住んでいるようですね。母親は彼女を生んだ後合併症で亡くなったそうで、父親との二人暮しみたいです。」
「ほお。どんな父親だ?農家でもやってんのか。」
「農家の手伝いをすることもよくあるそうですが、農家ではありませんね。神父です、本業は。でも神父らしい神父ですよ、町中の農作業や修理、飯炊きに掃除…まるで町の何でも屋みたいな奴です。娘もその手伝いに自ら行っているらしい。」
「ふーむ…」
カバネは低く溜息と声を唸らせた。
「如何します、カバネさん。」
「ぐずぐずしていたら其処等へんの農夫と結婚させられちまうかもしれん。恐怖から始まる関係は避けたかったが、此の絵を描いた娘が他の野郎の手垢で汚れるのは許せん。此れから迎えに行く。俺が眠らせとくからその間に家の準備は済ませておけ。」
「承知。」
車は郊外に向けて走り出した。
赤子
お母さまは何方へ行かれたの?
お母さんはね、遠い所へ行ったんだよ。
会いに行けないほど遠いのですか?
探しても会うことが出来なくなってしまったんだ。
お父さまは?
おまえの父親は私だよ。その瞳の色は私にそっくりだ、私の血を継いでいる証だよ。
私の目は喜ばれるものですか?お母さまは私の目をお嫌いあそばしていたのに。
あの後父は何も言わなかった気がする。神に仕える身でありながら女性と肌を重ねた秘匿にしておかなければならない罪の為だろうか、それともお母さまの瞳に似ていた方が都合が良かったのにと気落ちした為だろうか、町の住民達はすっかり父を立派な方と信じていたので、彼等彼女等の中に私達の瞳が似ていると思う人は多かったけれど父の説明通り”祝福された孤児”として私を見た。だから誰も血が繋がっているから、実の親子だから似ているとは考えなかったに違いない。
目を開くと、感情のわからない涙が一つ零れていた。
「おはようトネリコ。」
あの声、とゼラニウムの薫り。娘は白いシルクのパジャマに着替えさせられており、見事な手触りの寝台の上で半身を起こした。
「よく眠れたようだね。」
カバネは彼女の隣に腰を降ろし、ほんの少しだけ寝癖の付いた髪を持って来たコームで梳き始める。
「けれど途中魘されていたようだ、何か怖い夢でも見たのかな?」
彼はトネリコの白い頬に優しくキスをした。トネリコは彼の自分への丁寧な対応を拒まなかった。いくら愛しの妻にしたいと言っても、最初から此処迄スキンシップを受け容れられていては、幾らか毒気を抜かれると言うもの。誘拐されたと言うのに娘は帰りたいとも助けてだのも叫ばなかった。
状況は理解しているのだろうか?知りたくなって、抱きしめた。
「トネリコ、私のかわいい奥さん。君は今自分がどういうことになっているか分かっているのかい?}
いつもと同じ日になる予定だった。丘に登って絵を描いて、夕方前には帰り道を歩いて、ワルドさんのお家からトマトを二個頂いて家に帰って鍵を閉めて。そうして晩御飯を食べて眠る準備をしていく筈だった。他愛の無い話が電灯の下で咲く筈だった。なのに如何して私は恐怖や絶望に震えていないのだろう。
「花嫁にしたい相手を攫う行為が合法に認められている国や時代はあった。けれど君と私の住む世界では許されない行為だよ、だから君は逃げる権利があるし、怖がる権利だって許されている。まあ私が逃げる権利を認めるかどうかは別だけれど。」
手放したくないと感じたのは初めてだもの。
「貴方が私を抱きしめている感情に因るものではありません。」
花に蜜を吸う蛾の羽のように静かな声であった。娘の首筋から顔を離して男は娘の顔を見る。
「此処から出たところで、私の帰る場所はありません。捨てられた身が何處に居場所があるのですか。」
カバネは神父を殴りとばした時のことを思い出していた。昇格してからは暴力は主に部下にふるわせていたので、誰かを拷問でも無いのに感情のまゝぶん殴ったのは数年振りだった。部下をまたしても驚かせてしまったっけ。
「まだ俺は何も話しちゃいないが。」
「父にとっては誰でも良かったのでしょう、私を捨てる口実になりそうならば。厄介払いをしたがっているのは薄々感じていましたから。」
私があの町で生き続ける限り、いつ秘密が白日に晒されるか分らない。ずっとビクビクして暮らすのは誰だって嫌でしょうに。
「何だあの生臭神父、全然隠せていないじゃあないか。」
「父は話が上手なのです。なので町の人達は父が私に関心を抱いていないことを知りません、上手に隠すのです。けれど…」
トネリコはカバネの顔を見つめた。暗い藤花を咲かす互いの眼と眼は此時確かに黙契を交わしたのだ。
かれらの恋はおぞましいのだろう。誰からも祝福はなされず関心も持たれず祈りも捧げられないかれらの恋は、愛を知らない仔兎と愛を知る山猫の間に生まれた血塗れの赤子であるのだから。
白躑躅
最近自分達の縄張りに土足で踏み込んで来た者がいる、と上から指示が来た。
別の組織ではなく相手は単独で、殺害相手の手首に切り傷を残している、それが被害者を襲った際に付けた傷ではなくどうやらこと切れた後にわざわざ傷を付けているらしい。しかも手首の切り傷には唾液の成分が残されている。
「狙われたのが全員妊婦って言うのは確かなようだな、気色悪ィ。妊娠した女を指し殺した後に手首を切って血でも舐めてんのか。」
さすがの部下も苦々しげに頷いた。野郎を殴って撃って殺した経験は数え切れんほどだが、一度も女を狙えと命じられたことは無い。女は生かした方が役に立つ事が多いからだ、男は反撃しようとするが女は理不尽に抗わず受け容れる、そして自分がどう動くべきかを教えなくても判断出来る種族だから殺すのは資源をみすみす捨てる行為だ、愚かしい。
「妊婦さんですか。」
これは妻に見せるような資料じゃない。仕事終わりに居眠りをしていたところ、勝手に資料を盗み見したようだ。またか。
「家に仕事を持ち込むのも難儀ですね、私が見たがるから。」
「トネリコ…何度も言っているだろう。おまえは組織の仕事をしなくても良いんだってば。」
「でも、折角貴方に教えてもらった銃の腕があるのに。」
「俺が教えたのはあくまでも護身の為だ。俺と背中合せで撃たせる為じゃあない。」
「ではプロファイリングを。」
「専門家でも無いのに出来ないだろ。事件の資料なんか見るより好きな絵を描いてたらどうだ?」
「スランプで、筆が進みません。」
しれっと嘯く横には花瓶に活けた花の絵が大量に積まれているのに。
「おまえね…前の時もそう言ってたかな、俺が別の案件の詳細を家で持ち帰って調べた時。通用しないぞ、憶えてるからな。そう言われて一回上司に怒られたんだよ、奥方に資料を見せるでないと。」
ボスの口調を真似て言うと、むぅと少し頬をふくらませている。可愛い。
「そう拗ねるなって。トネリコを守る為でもあるんだから。」
「何故妊婦ばかりを狙うのでしょう。被害者は髪色目の色骨格体型もバラバラで、共通点は赤子が胎に居ることだけ。赤子を殺したい犯人なのですかね?でもそれなら手首を汚す必要はありません、目印でしょうか、絵画の隅に画家がサインを残すような。大胆ですね、犯行が知られれば知られる程容疑者の数も増えていくのに、それとも自分は決して捕まらない自信でもあるのでしょうか。ねえ、カバネさま、ねえ。」
「そう言えば俺が釣れると思って……駄目だ教えない。過去は身重が的だったとしても、次からは身重以外の人間を狙うかもしれない、とにかく今街は特に危険だ。絶対に一人で出歩くなよ、部下共は俺より軟弱だから当てにするな。外に用がある時は必ず俺と行くこと、もし破ってみろ、足の腱切ってあげるからな。」
トネリコはもう表情を変えない。初めてこの忠告をした際は頬を初心に花と染めていたのに。恥らひは慣れで消える、日常となった軟禁生活は今日も穏やかに進んでいく。
「家からは出る必要無いので出ませんけれど。そんなに私は信用の無い妻ですか?」
ぐぅ、そうじゃない。苦しい胸に手を当てたくなる衝動を抑えて恰好つける。
「おまえが心配なだけだ。それに、浮気なんてしたくても出来ないだろう?」
部下には一定の信頼を置いている。忠実で有能であることも否定しないが、組織には緊張感が不可欠なのもまた事実。もう一人で殺しをしていた小僧の時とは訳が違う、越えられない・触れられない一線を設ける事は必要だ。妻に近寄ることは右腕であろうが認めていないのはその為。
「そうですね。貴方も私も互いに深く惚れ込んでいますから。他人を求めることなど出来ません。」
うわ、そう来たか。物理的な理由じゃあなかった。緩みそうになる口元を片手で押さえ咳払いをしてどうにか誤魔化す。此方の胸きゅんなど知らぬ顔で不思議そうに首を傾げている、ちょっと可愛いが過ぎる。
「私、何か変なこと言いましたか…?」
しょげなくて良い、おまえの所為ではない、理由はおまえだけれども。
「いや、気に病むことは無い。……少しだけ、事件の資料でも見るか?」
あゝほらこうやってほだされてしまう。だから上司にもニヤニヤとからかわれてしまうのだろうに。でも不可抗力だろう、こんな澄み晴れた花の前では。
二つのカンバス
「娼婦を狙う話なら有名ではないですか。」
「それに擬えたって?模倣犯にしては自我が強すぎないか?」
「自分のオリジナル性を刻みたかったのかも。」
「おまえが模倣犯ならそうするか?」
トネリコはふむ、と考えた。カバネは警察も入手しきれていない資料まですっかりお嫁さんに読ませてしまったので、また上司に惚気を聞かせろと言われるだろう、恋バナが趣味なのは組織の中でもトップシークレット。お望みの話をする際にボスの秘書が人を殺しそうな圧でカバネを見て来るのも慣れたもの、口外されないかの心配をしているのだ。
万が一ボスの秘密の趣味が乙女思考に依るものだと知られれば、組織の人間全員の殺し方にキレがなくなってしまうだろう。切れ味衰えた牙では仕事は完遂出来ない、一撃で仕留めきれず生存を許すことにでもなりさえすれば返り討ちに遭うのは必須。緩んだ組織を引き緊めるには見せしめの処刑が有用だが、部下を殺してそれを見せて、緊まるは緊まるだろうが、以前より仕事の質は下がるだろう。そうなってしまえばうちの同業者との区別が薄れ組織は競争に負けるだろう。
「それほどの極秘内容なら趣味の話させなきゃ良いでしょう。」
「俺が恋バナしに行くからボスは絵画を描く資金や資材をおまえに贈ってくれているんだ。恋バナすればおまえの為の活動資金が貰えるんだよ。」
カバネの財力でも充分トネリコの望む道具を準備してあげられるのだが、明日買いに行こうかと考えた直後にボスからの一式が届く。監視は一切されていない。機運を読む鋭さを毎度見せつけられると、自分もボスに馴れ合わぬよう気を引き締めるのだ。此の組織は実に上手く回っている。
「警察より先に捕らえないとな、警察は犯罪者を守るが俺等の組織はそうしない。礼儀を知らぬ相手には弁えてもらえるようにならないと。」
「町を出て初めて知ったことですが、殺し屋にも規則や組織と言った秩序があるのですね。てっきり銘々が好き勝手しているものかと。」
「そう思われても当然だろう。不条理が秩序を求めているなんざ人間からしたら及びもつかん、正反対の性質だと考えているからな。でも本当は不条理だからこそ秩序が必要なんだよ、不条理であればあるほど整然とした実体なんだから。軍隊なんて正にそうだろう?」
殺しは殺し。それ以下にも以上にもならない。世間の波で時折褒め讃えられて浮上する殺しもあれば貶され唾棄される沈下の殺しもある、だが行為そのものは同じであり、軸に纏う服の色がどう評価されるかの違い。
「芯がぶれなきゃ組織は強い。だからこそ余計にこういう気分屋の殺しには鼻持ちならんのだろう。」
ね、トネリコ。
「では今度、上司の方にクッキーでも差入れしましょうか。いつも貴方がお世話になっているからと。」
「まあ一枚くらいなら良いだろう。」
「クッキーは作っていると複数枚出来る手順になっているんですよ?残りもあげたら良いではないですか。」
「おまえの手作りは俺だけが喰えてりゃそれで良い。ボスに一枚譲るのはボスだからだ。」
二人でくすくす笑い合い抱きしめながらキッチンへと歩いて行く。トネリコの片足首に嵌められた長い長い銀鎖をしゃらしゃら引き摺りながら。
何處かの部屋で夫婦が微笑ましく料理をしている時、外ではまたも妊婦の遺体が増えていた。胎と心臓を抉ったナイフで冷たい手首に切り込みを入れてじゅっと啜る。
「この人でもなかったか。」
犯人の男は汚い背中を丸めて溜息を吐く。これだけ探しても見つからないとなると此の街が住居ではないのかもしれない、無駄に多くを殺してしまったかとタイムロスを嘆く横顔には、深く頬肉を抉り取られた傷痕が今にも生血を垂らしそうな鮮度で此方を見る。
「もう直き降りそうだな。今日はもう戻りますか。」
雨雲の影の香り濃く垂れ込めるカンバスに、その男の頬だけが鮮烈な容赦の無い赤一点として際立っていた。赤塗りの横顔は閉じていた携帯を開き電話をする、相手先は警察だ。自らがつい先刻犯した罪を述べ始める、行為だけでなく被害者の悲鳴、助命の叫び、抵抗の姿、適わなかった後…事細かに電話口に話していく、一言一言押しこめるようにして。一方的に通話を切ると、携帯を道端の側溝に捨てて男は其の場を黒煙のように立ち去った。雨脚はますます強くなる。
美しい硝子
贈られた本の頁を今夜も開くと栞が音も無く床に落ちた。躑躅の雪片を玻璃にとじ込めたもので、カバネが本好きのトネリコに手づから作ったプレゼントは普段ねだらない控え目な妻の珍しくも嬉しい心であったろう、夫は大人の掌に備わるしなやかさであっと言う間に彼女の目の前で作って見せたのだった。落ちた先の床は柔らかく清潔なベルベッドのカーペットが敷かれてあったので壊れず身を凭せている。大切な栞を指で拾い机の上にまた載せまた読書を再開した。今日はカバネは仕事がある平日、それと土曜日は一日の大半家に居なかった。夫と妻ではあるけれどトネリコは主婦ではなく、むしろ夫が主夫なのだ。仕事から帰れば先ず夫はトネリコの世話をする、もうその時間になるとトネリコはお風呂を上がっているから髪を乾かしヘアオイルを馴染ませ肌にネモフィラの香りのするミストで水分と保湿を同時に行ない、唇には薬用のリップを塗って仕上げに頭・肩・背中・腰・両手足爪先も漏らさずマッサージをする。どうやらこの一連の決まった流れが夫の至福のひと時らしい、仕事終りの解放感も相俟って五臓六腑にそれはそれは沁みわたると力説されたから、トネリコはカバネが帰ってきたら相手が好きなようにするまゝで良かったのだけれど。
カバネが居ない時はどうしよう?調理から掃除までは全て自分がするから君は穏やかにのんびりしていれば良い、気が向いたら絵を描いたら良いと、足枷を付ける手は温かかった。世話好きの彼の楽しみを奪うのはなんだか気が引ける。家事を自分がするのは止めておいて、他に何をすれば彼は喜んでくれるだろうと一人思慮に耽った際、思い出したのは町に住んでいた頃、絵本で読んだ物語であった。
確か、迷子の猫のぬいぐるみが、危ない目に遭いながらも持ち主の女の子の家へ帰る物語。離ればなれにさせられたぬいぐるみと猫のゝ色の涙の絵が今でも忘れられない。
「お話でも聞いてもらおうかしら。」
トネリコは早速其の夜、帰宅したカバネに訊いてみた。彼女の頭を撫でる夫は是非聴いてみたいと乗り気であったのでトネリコはふにゃりと安堵した。お互いに後は眠るだけと整った時、カバネは膝の上に妻を載せながら語られる物語に耳を深く傾けてくれる。
物語のハッピイエンドを迎えたら、カバネはトネリコの頬を撫でた。
「君は話をするのがとても上手だな。声の調子や抑揚も心地良くて聴き惚れたが、それだけでなく物語の筋を伝えるのも見事だ。」
新しい褒め言葉が恥ずかしくてトネリコはつい目を逸らす。
「もっと嬉しがってくれても良いんだぜ?俺には無い君の才能じゃないか。」
「そんなに、喜んでもらえると思わなかったので…」
気軽な思い付きがこんなに功を奏するなんて。語尾はもう消え入りかけていた。愛妻の様子に増々気を良くした愛妻家は、毎日物語を一つ聴かせてほしいとねだり、戸惑う彼女に有無を言わせず書棚に並べていた本を一冊小さな両手に持たせた。こうしてトネリコはカバネが仕事に行っている間本を読むことが務めの一つとなったのだった。そして玻璃の栞は毎日読書するのならとトネリコがねだりかえしたのは先に述べた通りである。
今日読んでいるのは神話として扱われる物語の中の一つで、世界がどのようにして誕生し繁栄と滅亡と復興を繰り返して来たのかが描写されてあった。
「世界樹ユグドラシル。」
教会では一度も耳にしなかった言葉が当然のように自分に話し掛けて来るのは面白くて、可愛らしい。トネリコはユグドラシルの物語に夢中になって頁を捲り進めていく。
「ユグドラシルの木はトネリコの木なのね。トネリコ、私と同じ、ふふっ。」
そう言えば
どうして私にはトネリコの名前が与えられたのだろう?由来を父親に尋ねても笑ってはぐらかされた。あの教会を擁する宗教が、世界樹と同じ木の名前を許すとは信じ難い。昔居た町を思い出せば、もう一つ分らない事がある。
カバネが見た自分の油彩画だ。丘の上から毎日町の眺めを描いていたけれど、いつも出来上がるのはあの作品、何年も何年も毎日毎日同じ絵になってしまう、同じ絵が増えていく、父に隠しきるのも難しくなって物の燃やし方を身に付けたのも其時だ、如何して同じ絵しか描けないのだろう、病気だろうかとカンバスの焚火を見つめている時は思ったのに、今では筆を執ってもあの絵以外にも難無く描ける。デフォルメやフィルターは含有されてはいるものゝ、街の眺めは街の眺めだし、花瓶と花束だって好きなように描けている。あの絵に辿り着く結末しかなかったのは、やはり町の光景だけである。
本から目を離して家の壁を見つめる眼の前に片手を翳して視界を半分減らす。
私の瞳は、あの時何を見つめていた?
美しい硝子
贈られた本の頁を今夜も開くと栞が音も無く床に落ちた。躑躅の雪片を玻璃にとじ込めたもので、カバネが本好きのトネリコに手づから作ったプレゼントは普段ねだらない控え目な妻の珍しくも嬉しい心であったろう、夫は大人の掌に備わるしなやかさであっと言う間に彼女の目の前で作って見せたのだった。落ちた先の床は柔らかく清潔なベルベッドのカーペットが敷かれてあったので壊れず身を凭せている。大切な栞を指で拾い机の上にまた載せまた読書を再開した。今日はカバネは仕事がある平日、それと土曜日は一日の大半家に居なかった。夫と妻ではあるけれどトネリコは主婦ではなく、むしろ夫が主夫なのだ。仕事から帰れば先ず夫はトネリコの世話をする、もうその時間になるとトネリコはお風呂を上がっているから髪を乾かしヘアオイルを馴染ませ肌にネモフィラの香りのするミストで水分と保湿を同時に行ない、唇には薬用のリップを塗って仕上げに頭・肩・背中・腰・両手足爪先も漏らさずマッサージをする。どうやらこの一連の決まった流れが夫の至福のひと時らしい、仕事終りの解放感も相俟って五臓六腑にそれはそれは沁みわたると力説されたから、トネリコはカバネが帰ってきたら相手が好きなようにするまゝで良かったのだけれど。
カバネが居ない時はどうしよう?調理から掃除までは全て自分がするから君は穏やかにのんびりしていれば良い、気が向いたら絵を描いたら良いと、足枷を付ける手は温かかった。世話好きの彼の楽しみを奪うのはなんだか気が引ける。家事を自分がするのは止めておいて、他に何をすれば彼は喜んでくれるだろうと一人思慮に耽った際、思い出したのは町に住んでいた頃、絵本で読んだ物語であった。
確か、迷子の猫のぬいぐるみが、危ない目に遭いながらも持ち主の女の子の家へ帰る物語。離ればなれにさせられたぬいぐるみと猫のゝ色の涙の絵が今でも忘れられない。
「お話でも聞いてもらおうかしら。」
トネリコは早速其の夜、帰宅したカバネに訊いてみた。彼女の頭を撫でる夫は是非聴いてみたいと乗り気であったのでトネリコはふにゃりと安堵した。お互いに後は眠るだけと整った時、カバネは膝の上に妻を載せながら語られる物語に耳を深く傾けてくれる。
物語のハッピイエンドを迎えたら、カバネはトネリコの頬を撫でた。
「君は話をするのがとても上手だな。声の調子や抑揚も心地良くて聴き惚れたが、それだけでなく物語の筋を伝えるのも見事だ。」
新しい褒め言葉が恥ずかしくてトネリコはつい目を逸らす。
「もっと嬉しがってくれても良いんだぜ?俺には無い君の才能じゃないか。」
「そんなに、喜んでもらえると思わなかったので…」
気軽な思い付きがこんなに功を奏するなんて。語尾はもう消え入りかけていた。愛妻の様子に増々気を良くした愛妻家は、毎日物語を一つ聴かせてほしいとねだり、戸惑う彼女に有無を言わせず書棚に並べていた本を一冊小さな両手に持たせた。こうしてトネリコはカバネが仕事に行っている間本を読むことが務めの一つとなったのだった。そして玻璃の栞は毎日読書するのならとトネリコがねだりかえしたのは先に述べた通りである。
今日読んでいるのは神話として扱われる物語の中の一つで、世界がどのようにして誕生し繁栄と滅亡と復興を繰り返して来たのかが描写されてあった。
「世界樹ユグドラシル。」
教会では一度も耳にしなかった言葉が当然のように自分に話し掛けて来るのは面白くて、可愛らしい。トネリコはユグドラシルの物語に夢中になって頁を捲り進めていく。
「ユグドラシルの木はトネリコの木なのね。トネリコ、私と同じ、ふふっ。」
そう言えば
どうして私にはトネリコの名前が与えられたのだろう?由来を父親に尋ねても笑ってはぐらかされた。あの教会を擁する宗教が、世界樹と同じ木の名前を許すとは信じ難い。昔居た町を思い出せば、もう一つ分らない事がある。
カバネが見た自分の油彩画だ。丘の上から毎日町の眺めを描いていたけれど、いつも出来上がるのはあの作品、何年も何年も毎日毎日同じ絵になってしまう、同じ絵が増えていく、父に隠しきるのも難しくなって物の燃やし方を身に付けたのも其時だ、如何して同じ絵しか描けないのだろう、病気だろうかとカンバスの焚火を見つめている時は思ったのに、今では筆を執ってもあの絵以外にも難無く描ける。デフォルメやフィルターは含有されてはいるものゝ、街の眺めは街の眺めだし、花瓶と花束だって好きなように描けている。あの絵に辿り着く結末しかなかったのは、やはり町の光景だけである。
本から目を離して家の壁を見つめる眼の前に片手を翳して視界を半分減らす。
私の瞳は、あの時何を見つめていた?
白アザミ
「トネリコの住んでた町の調べはついたか?」
「はい。奥様の故郷ですよね。」
「あの場所を故郷と呼んでやるな。一時的に住まされていただけに過ぎないんだから。」
承知しました、と頭を下げた部下から資料を受け取ると、カバネはぶ厚い書類に目を通し始めた。
絵画を見て作者を欲しいと思ったのは絵を描かせて作品を常に手元に置いておきたいと思ったから、何なら組織専属の画家にでもさせようかと目論んでいたが、部下が調べた資料を見てその計画は零にした。手放したくない、傍に居てほしい、その二つだけを願った。部下達は最初かなり動搖はしていた、それもそうだろう色恋なぞ見向きもしなかった冷血漢がいきなり妻を娶ったのだから。だが驚きも初めのうち、ボスが認めた事には一切意見をしない、受け容れれば良いように全員躾られているから、祝辞を手短に伝えに来る者ばかりで反対する者など一人も居なかった。居たところで殺されておしまいだ。
町を訪ねてトネリコの帰りを往来で待っている時、ずっと得も言われぬ奇妙さと不気味さが背中から覆い被さり頭から自分をニタニタと凝視しているような感覚が剝がれなかった。兎角彼女を此の場所から早く連れ出さなくてはと焦る鼓動を鎮めるのに何度深く息を吐いたことか。あの日以来町には近付いてはいない。
「町の歴史から調べたのか。」
「はい。得られる情報は漏らさず持ってこいとお命じでしたので。」
「うん、そうだな、思わぬ情報から大きな収穫が得られることだってざらにある。ご苦労さん、下がって良いぞ。」
丁寧な言動で去って行く部下を目だけで見送った後、再び資料を読み始める。あの町はてっきり宗教色が強い地域だと予想していたが存外そうでもなかったらしい。
町の起こりは一人の旅人だったらしい。世界各地を巡っていた旅人は、或日一輪の花が咲く野原を訪ねた。周りも草々咲き誇ってはいたが旅人はその一輪、白アザミの花に目を惹かれたそうだ。
「確かに白いアザミなんざ聞いたことも無い。突然変異種が何かか?蒲公英の綿毛でもあるまいに。」
白アザミは旅人を再び立ち上がらせまだ見ぬ場所へ歩かせることをさせなかった。目が離せない一輪に従うように旅人は一軒の家を建てた。不思議と材料も手伝ってくれる人々も簡単に確保出来たので、旅人は此処に辿り着くのは定めれていたに違いないと、長い放浪生活の疲れも相俟って運命を信じたのだ。
一人が住めば、他の者も其の土地が気になってくる、そうして嘗て旅人だった男の長閑な生活を見て、都会から憧れて移住する者が次第に増えて来た。やがて野原は村となるのも当然の運びであったのだろう、村の興る発端である白いアザミに村人は感謝を示し此の村の名産として繁殖させようと考える者が現れ始めた。白いアザミの咲く村として有名になれば、新たな産業にも着手出来るかもしれない、そうなれば村人の生活はより潤沢になるのではないかと前進に意欲的な人がいれば現状維持の平々凡々な日常の延長を望む人も必ずいるもの。村は白アザミ一輪の将来の為に分裂を生じてしまったのだ。
白アザミの為に此の場所に暮らし始めた男は、自分が花を見つけたから人間同士の争いが起きたのではないかと少なからず心を痛めていた。ならば根こそぎ摘み取ってしまえば良いと鼓舞する声と摘み取るなと叱咤する声が毎日男の頭の中で反響してはごちゃ混ぜとなりぐわんぐわんと聞き取れない和音へと化けて男を責め苛む。宥めても宥めても人は対立しアザミはそっぽを向いたまゝ、そんな暗い白昼が何年何年続いたろう、男はとうとう白いアザミの花を引き千切った。
何年も変らぬ珍しい花が失くなったことで、人々の対立は意味を更に失くしてようやく村の内戦は一気に鎮火した。また以前のような普通の日々が流れ始めた。
其処迄読むと続きは次の頁からになっていた。カバネは資料から目を外して天井を仰ぐ、一度流れ去った水は二度と同じ水にはならないだろうに、此の町の住民は日常が戻ったと済ましたのだろうか。呆れた深い溜息と共に姿勢を戻し再び紙に指を掛ける。カバネの蔑みはどうやら的外れではなかったらしい。
アザミの生えていた土地はなかなか買い手が付かなかった。それもその筈、村人が忌避して尻込むものを誰が先陣切って扱おう。それでも道に雑草がはみ出してきたらその部分だけを伐り取ったりと最小限の手入れ自体は交替で等しく行なってきたが、鳥も獣も虫さえも寄り付かない植物だけの小さな一角を如何したものかと住民は常に気掛かりとしていた。それは旅人であった男も例外ではない。しかし村人達は男を責めることはしなかった、自分達も怖いのだ、若しあの男があの場所に手足を入れればどんな波紋が起こるかも分らない、とにかくあの場所には関わってはならないのだ。
昔は人が増えていた村は、一人一人出て行く者ばかりとなった。此の村に拘らずとも生活は叶う、他の土地に移って新しい日常を過ごせば良いと思ったのである。最後に一人残った男は、村の人達が全員去って行ったのを見届けると、再び旅人へと戻った。
建物も何もかも取り壊して更地にして、恰も人など最初から住んだ事も無いように念入りに塗り埋めた村の記憶は、眠る土には知らされず、目を開け続けていた植物だけが知っていた。
廃村となった土地に、また一人人間が訪れた。彼女は高貴な身分だが、駈け落ちをして此処まで逃れて来たのである。相手は屈強な軍人で農民の出自であり、今は食材の確保の為都会に紛れている。此処で待つようにと約束をして令嬢は一人走り慣れていない両脚を叱咤しながら駈けて来たのである。疲れきった彼女が荒い息を吐いていると、手元に一輪の白菫が咲いていた。此の場所は人も居ないし、隠れて生きるのには丁度良いかもしれない、と彼女は菫の白い花弁を撫でながら考えた。
やがて軍人も合流し、二人は花のもとに愛を誓った。娘は白く小さな其の花を摘み取り恋人へのお守りとして軍服の胸ポケットに挿れた。娘は此処に二人で暮らしてはどうかと打診したが、彼はもう少し中心街から離れた方が安心だからと断った。月が昇り始めた時、若い恋人達は手を握り去って行った。二人の去った後には再び白いアザミの花が一輪首を擡げて立っていたが、前を行く娘達は其を目にすることも無かった。
白アザミは待ち続けた。また愚かな旅人のような自分に見蕩れて争いを誘発する原因を産みそうな者を。
「とんでもない野郎じゃないか。」
カバネはようやく三分の一まで進んだ紙束をテーブルの上に放り投げた。一度煙草を吸う為だ。何處から誰に連れられて来たかは不明だが、たゞの植物にしては有象無象より遙かに面倒な存在の白アザミが如何に町へと繋がるのかが知りたい。そうしたらトネリコの描き続けた絵への答えにもなるかもしれないのだから。
「あの娘は何を見ていたんだろうな。」
初代と次代
更地はずっと更地のままではいられない。白紙を目の当りにしてインキや鉛筆で汚したくなる衝動と似て、真ッさらな地面には建物を造りたいと思わせる魔力がある。そして白アザミの悲願は叶った。一人の農夫が畑と小屋を此の場所に置いたのだ。
農夫の名前はトネリコの父親の名前であった。しかし時代を考慮するに此の農夫が父親だとは考え辛い、どうやら何代にも渡って名前を継承して来たのだろう、一世、二世と言うように。つまり農夫はトネリコの先祖である、そして町の歴史は先祖を皮切りにみるみる動き始めていた。
農夫は最初自らがひっそり細々と生活する為に畑を耕し粗造な小屋に住んだが、或る朝己の暮らしが続いているのは人を越えた大いなる存在の御蔭だと青天白日の日光を浴びて霹靂と打たれたらしい。此時彼が建てたのが町の教会の前身であった。先祖は農作業と礼拝に毎日心血を注ぎ純粋で素朴な生活を決して崩さず、死ぬ時も静かにひっそりと死んでいった。彼は生涯独身を貫き、農夫以外の仕事にも目をくれなかった。前の駈落ちした恋人達を久々に思い出して白アザミは腹を立てたが、人が訪ねて来るのを待つ他仕方無い。
此の町の地形はなだらかに起伏しており、都会のある場所からは町の存在を知ることは出来るけれど、きわどい起伏は衆目を選り好みするから、都会の街に居れば誰でも見つけられる訳ではない。それこそが町の仕掛けた大きな罠。偶然発見した丘の麓に素朴な教会が建てられている。あの印は自分の宗教の模様ではないかと気になり足を、踏み入れる。来訪者達は人里離れた場所にこんな場所があったなんて。どうだろう、此処を同士を集めて一つの町にしないかと話し合った。今度は旅人の時代のような事態は起らず満場一致で町造りの作業を計画・実行し始めた。
町には移住者が増えて嘗ての村は町へと見事変貌した。亡くなった農夫の遺骨を教会の裏手に土葬し、石碑には遺品のノートに記されていた名前を刻んだ。農夫は我々の宗教を広める為に此の地で殉教した者に違いないと後の者達は想像し其を真実とみなし、教会に住まう資格を持つ者は農夫の名を継ぐことに決まっていった。
白アザミは馬鹿にしているのだろうよ。
此処で一旦手を止めたカバネは疑問を口にする。
「あの町に、白いアザミなんか咲いていたか?」
トネリコ以外に然程関心が向かなかった所為もあり、道端の草花など一向気にも留めなかったし、周りは畑ばかりで、一つのものが囲われているような区画など見当たらなかったのではないか。
「若しかしたら誰かの家で匿われているのかもしれん。」
トネリコからは白いアザミの話を一度も聞いたことが無いから、教会の内側にも居ないであろう、だか
「此の花、まさか引き抜かれても一度も枯れていないなんて言わないよな?」
背筋を氷の糸が伝う。振り向いても、誰も何もいなかった。
「トネリコ」