アノの帰り

アノの帰り

  アノが目覚めると、水の底に寝ていた。彼女が慌ててもがきながら出ようとしたが、そこは果てしなかった。彼女は反射的に上へ泳いだ。両足を力強く蹴って浮いたところ、何かに引っ張られて、また水の底に沈んだ。驚いて見下ろすと、なぜか彼女の高価で買った服とアクセサリーが足にぶら下がっていた。それが石のように重い。いつこうしたか思い出せない。だが、今のところは、ここから出るのは一番だ。彼女は足につないでいた縄を切った。すると、体が軽くなり、上に浮いた。
  次の瞬間、アノは異変に気付いた。息が苦しいが、水に溺れない。彼女は、水の底に横たわる衣服やアクセサリーを一目見て、上へ泳いだ。今度は手が何かに引っ張られて、思いのままに動かない。よく見ると、手首に糸が付いていた。
  「まだ何?」アノは慌てて、それを解こうとした。だが、鉄で作れたように丈夫で、手で引いても、歯で噛んでも切れなかった。仕方なく、それに沿って進んだ。 
  「ここから脱出するには、糸を切らないと。そのために、その先まで行くしかない」彼女は自分に言い聞かせて、糸の先へ泳いだ。
しばらく進むと、水の中で何かがおぼろげに見えてきた。アノは何度か目を瞬き、それをはっきりと見ようとした。なんだか家屋のようだった。
  「どういうことか。水の中に建物があるとは...ここは一体どこだ?」アノはおずおずと近付いた。
  「何?何で」アノは思わずに後ずさりした。一瞬、彼女の体が芯まで冷えていった。
  「洪水でも起こったか。どうして家がここにいるの」アノの地肌が立ち、水の中に浮く我が家へ急いだ。家にいるはずの両親、夫や息子を思うと、胸が騒いでたまらない。
  彼女が玄関のドアを押すと、そっと開いた。
  「水の中にいるのに、こんな簡単に開くか。まさか、私が死んだか」アノは自分を疑いながら家に入った。浮きながらリビングに入ると誰もいなかった。ぞっとしながら両親の部屋を覗くと、驚かせたことに、父と母が顔を曇らせて座っていた。
  「お父さん、お母さん...」アノは慌ててドアを開くとしたが、開けられなかった。よく見ると、引手がない。彼女が全力でドアを叩いても、耳に水が入ったように、音が遠くに鈍く聞こえるだけだ。
  「一体どういうことか」アノは慌ただしく家の中へ泳いだ。自分の部屋を覗くと、夫が顔をこわばらせて、ベットの上にこっちへ向いて座っていた。
  「洪水の真ん中で何をしているの。早く逃げないで」アノは焦って入ろうとしたが、またできなかった。ドアが半開きしているが、水の流れがグラス壁のように横たわり、近づくとこも、叫ぶこともできなかった。
  「どうして、どうして」アノがいくらもがいてもどうすることもできなかった。悪夢にうなされているようだ。
  「シナが...」アノは一番奥部屋にいるはずの息子を思い出して、這いつくばりながらそこへ向いた。近づくと、ドアが開いているが、水の流れは先よりも厚く横たわり、部屋に入れなかった。彼女は仕方なく水の流れを透かして中を見た。息子が無表情な顔で勉強をしていた。まるで彫刻のようにまっすぐ座って、指だけが動いている。アノの涙が思わずにこぼれ落ちた。彼女にしつこく言われた通り、彼は勉強ばかりの毎日で、成績が上がったものの、いつの間にか、明るい顔が消えていた。
  「私が一体何をしてしまったか」アノの胸に悲しみが押し寄せた。すると、体に石が入ったように重くなり、再び水に沈んでいった。 
  アノは両手で膝を抱えたまましばらく水の底に座った。どのぐらい経ったか、彼女は突然目を開けた。
  「こんな場合じゃない」彼女は我に返り「家族を水の中から救わないと...」と思った。
  アノは起き上がり、家の方に懸命に泳いだが、今度は家が見つからない。どうしようもなく焦っていると、目の前に、大きなクモの網のようなものが現れた。彼女が急いで通ろうとしたところ、なんと背中に貼られてしまった。どんなにもがいても、それが離れない。
突然背後から「無駄だな」という大きな声が聞こえ、アノは振り返った。すると、彼女に家や車のローンをくれた銀行の職員がいくつかの金色のクモを連れて立っていた。あの男は、一手でクモにつないだ縄を引くのだ。クモたちは、アノの新しく買った車のように大きくて、鍋のような大きな黒目を光らせ、刀のような長いハサミをカタカタと叩き合わせて、唾を垂らしながら彼女の方に襲い掛かろうとする。
  「君…君どうしてここに?」アノは人気のない水の底で彼を見て喜ばなかった、逆に地肌が立ち、ぞっとした。
  「あなたが連れてきただろう」あの男は冷たく見つめて「底のないやつだ」と言った。
  「何?底のない?」一瞬、アノの怒りが燃え上がり、自分の立場を忘れて「どんな態度か。ローンをくれた時は、誰よりも親切だったくせに」と怒鳴りかけた。
  「どうだろう。僕が親切だったか。それとも欲が満たされてわくわくしていた君の勘違いか」と言い、男はクモを放した。
金色のクモたちが、一躍してアノを囲んだ。彼女は悲鳴を上げながら必死に抵抗したが、逃れなかった。いくつかのすべすべとした黒い鏡のような目が彼女の上から覗き込んだ。その目に映った紙のような白い顔や懸命にもがく姿を見て、アノは初めて自分を見た気がした。「私がこんな姿をしていたか」という思いが、クモの鋭いハサミが骨に差し込む傍ら、彼女の脳裏を通った。心身の極端な痛みに、顔がくしゃくしゃに歪むばかりだった。

  アノの体がすべての気力を吸われ果てたように弱弱しい。彼女はかろうじて目を開けると、あの男と金色のクモがなかった。かわりに、何人かが覗き込んでいた。
  「見てごらん。何もかも欲張った挙句にこうなったぞ」という耳をつんざく声に、アノの背筋が冷えた。これは外ではない、彼女の近所の女だ。顔を合わせる度に、子供が聡明だとか、勉強ができるとか、成績がいいとかと自慢ばかりするのだ。それを超えるために、アノは息子をいろいろな塾に行かせるだけではなく、休むことなく勉強させた。
  「こんなみっともないところを彼女に見せるとは」アノは目を閉じたまま心の中で呪った。
  「聞いたか。夫がまた昇進したわ」というもう一つの声に、アノの心臓が針で刺されたようになった。どうして彼女までいるの。彼女たちにこんなみじめな姿を見せるなら崖から跳び下りた方がましだ。アノは唇を強く噛んだ。間違えるはずがない。この声は、親友いや親友のふりをしながら何から何まで争うクラスメートだ。彼女の息子は勉強が下手で、成績はクラスで後ろから数えるぐらいだ。アノの心の痛みが和らぐようになった。だが、次の瞬間、彼女の心臓から血が滲む思いをした。彼女の夫が、アノの夫よりはるかに強い。それを越えさせるために、アノは、昇進に興味もない夫を押して、その道を行かせただけではなく、金儲けに精を出してきた。
  「まあ、私のようなものが何をできるというか。すべてみんなのおかげで、この賞をもらったわ」という第三の声に、アノは跳び起きるぐらいに驚いた。彼女まで何でここに?アノは息を止めて、拳を握り締めた。きっと夫が呼んだだろう。無駄な事を仕上がって…アノは目を瞑っているのに、同僚の唇の動きや顔色が目に見えるぐらいだ。就職してからライバルだった彼女は、アノが一生をかけて勝ちたい相手だ。同僚が何百人もいるのに、その中から彼女の声だけ聞こえ、彼女の動きだけ一番最初に目に入るのだ。もっと彼女の給料がいくらか、どんな賞をもらったかなどは間違えるはずがなかった。
  「私の息子の成績はまたトップだったわ」近所の女の言葉で、アノの手足が溶けたようになった。
  「夫は上司に好かれているわ」というクラスメートの言葉で、アノの内臓がちぎるように感じた。
  「賞が多くて、置き場さえないわ」という同僚の声で、アノの首が押されて、息が詰まった。
  「出て行け。私の前で自慢するな」アノは力を振り絞って起き上がろうとしたが、体が動かなかった。彼女が驚いて、頭を上げて見ると、なんと体が隙間なく包帯に縛り付けられていた。
  「お前たちが縛ったか。ほっとけ」アノは上から覗き込む人々に叫んだ。彼らは冷や冷やとした目で見つめながら「君が選んだだろう」と言った。
  「嘘つき。私が?私がいつ頼んだの」アノはもがきながら縛りから出ようとした。
  「まだわかっていないか。その包帯は全部君が自分で一枚一枚に縛り付けたの」と彼女たちはかん高い声で嘲笑いした。その笑い声がまるで無数のメスのように、アノの体を切り散らかした。彼女はまた意識を失った。

  アノが再び目覚めると、横に誰もいない。縛り付けていた包帯もない。だが、体が散り去ったようで何の感覚もない。彼女がもがきながら起きると、頭、目、鼻、口、手足まで片方が重く垂れて、思いのまま動かない。
  「見てごらん、このありさまを」というかん高い声が響いた。アノが見上げると、一人の女が、咎めた目で見つめていた。驚いたことに、その瞳が白く光っているのを除けば、アノとそっくりだった。
  「あんた…あんた誰だ?」アノは片方だけ感じる唇を重く動かして、ぼやけた声で言った。
  「君はよく私はどうしてああだ、こうだと思うけど、一度も根を掘ったことはない。それって考えが浅いか、それとも自分の本性を明かすのが怖いか」とあの女は咎めるように言った。
  「一体誰だ?どうしてそれまで知っているの」アノは驚きを隠せなかった。
  「私は君の一部だ。それも分かっていないの」とあの女は冷たく言った。
  「何?私の一部だと?私の外にいるのに」アノはまた訳を分からなかった。
  「これは現象だけだ。それより、君がどうしてこうなってしまったか、考えたことがあるの」白目の女はアノをまっすぐ見つめた。
  「一体何が何だか」アノは夢を見ているようだった。どうして自分が二人もいるか。彼女はしばらく戸惑ってから「ここがどこなの」と口ごもった。
  「こいつどうしてまだ生きているの」という怒りの声が上がり、突然一つの手がアノの首を掴んだ。息が詰まって必死にもがきながら、アノはその人の方に目を向けると、なんともう一人の自分にそっくりの女が現れて、襲ってきたのだった。
  「あんた…あんたも誰だ?」アノは息絶え絶えに呟いた。
  「君がバガだから、私はこうなった」と二番名に現れたそっくりさんが赤い目を見張って叫んだ。
  「言い訳をするな。君がそそのかせたせいで、こんなことになったよ」と白目の女が怒鳴って、赤目の女の背中から掴んで、地面へ投げ付けた。
  アノがやっと息を取り、体を少し起こして見ると、赤目の女が宙に回転して軽々と着地した。彼女は目から冷や冷やとした赤い光を放して、ネズミを見た猫のようだった。アノはその目に満ちる飢えた光を見て、ぞっとした。
  「あなたたちは、誰だ?」とアノは恐怖に満ちた顔で叫んだ。
  「どれも君の一部だ」白目の女がアノの方に振り返って「私は君の理性で、彼女は君の野性だ。君は自我で、我らをコントロールし、バランスと取るはずだった。だが、今の君は欲に占められ、その餌になった」と言った。
  アノは訳を分からずに立ち竦んだ。ちょうどその時、赤目の女はまるで飢えた狼のように彼女の方に跳びかかった。もっと不気味なことに、跳ねる際、その姿が変わった。ゴリラのように黒くて大きくなり、多数の手足が生え出た。これを見た白目の女が、たちまちに長い剣を持った女武将に変身した。彼女たちはアノの周りに飛び跳ねながら、水火相容れずに戦い合った。アノはカタカタと震えながらも変なことに気付いた。なんとゴリラが手に持つ武器が外ではなく、彼女が懸命に手に入れた貴重な品々だった。さらにびっくりさせたのは、両親、夫、息子や親戚、友人、同僚までが戦いに巻き込まれていた。彼らの姿がまるで写真のように映し出され、ある時は引っ張られてゴムのように長く延び、ある時は映画のように移り変わり、またある時は、千切りにされ、バラバラに散っていく。その中で、最も頻繁に映し出されたのは、息子のシナだった。彼の写真は角や周囲から引っ張られたり、様々な釘で刺されたり、時には無残に切られたり、または捨て紙のようにくしゃくしゃにされたりした。写真に現れた彼の無邪気な顔が涙に沈み、笑顔が消え、まるで人形のように引っ張られて行ったり来たりする。それにつれ、写真が切り跡や穴に覆われ、色が暗がり、最後に闇にのみ込まれた。
  アノが見ていると、家の写真も陽光に照らされたような明るさからだんだん雲の覆われたように暗くなり、とうとう高価な品々に飾られているにもかかわらず、家族が高い壁に区切られ、それぞれの部屋でため息を付くばかりだった。アノは初めて、自分の生活の正体を見たような気がした。
  自分の人生がこんな様子だったか、彼女は信じがたかった。あの明るくて元気な女の子が、いつの間に嫉妬と欲に占められ、利益しか目に見えない人になってしまったか。
  アノは映画のようにすり替わる景色を見つめながらぼっと立ち竦んでいると、女武将とゴリラの戦いが耳に入ってきた。彼女がそこへ見て、息を呑み込んだ。これこそ水火の争いだった。女武将が長い剣を振り、ゴリラの品々を抱えた手足を次々と切り落とすのだ。だが、次の瞬間、ゴリラがものや写真に触れれば、すぐに新しい手足が生えてきて、地面に落ちたものを再び拾い上げていた。ゴリラの持つものが増えれば増えるほど力が強くなり、ある時、女武将を遠くまで蹴り飛ばすのだ。
  目の前に繰り返される景色を見ながら、アノは、やっと長年満たさない欲、置き場のない心、吐ききれない怒りがどこから来たか悟ったように感じた。
  「やめて」とアノは叫んだ。
  女武将とゴリラは全然気にせずに戦い続ける。
  「もういい」アノは声の限りに叫んだ。すると、その声が、周囲いっぱいに響き渡った。アノは自分の声の大きさと強さに驚いた。今度は、女武将もゴリラも振り返った。
  「目覚めたか」と女武将は微笑んだ。
  「誰が聞くもんか。身の程知らずだ」とゴリラは冷や冷やと笑い、手に持っていたピアノをアノの方に投げ付けた。
アノは横へ退いた。彼女は自分の素早さに驚いた。体の片方の垂れはすでに消え、全身の力が湧いてきた。
  「しっかりしてきたな。君が自分を取り戻したいなら、あの柱に上れ。すると、私と彼女をコントロールする力を得る可能性がある」と女武将は襲い掛かって来るゴリラを遮りながら叫んだ。
  アノは彼女の指した方へ見ると、なんとこれまで見た事のない高い柱が聳えていた。
  「あれは何?そんな高いところ、どうやって上るの」と怯えた顔で女武将を見た。
  「自分を知るとは、そんな簡単なことか。君、自分で選べ。一生手に負えない矛盾の中に生きるか、それとも乗り越えるか」と女武将は言い放った。
  「どう…どうするの」アノが戸惑っていると、ゴリラはもっと大きく膨らみ上がり、女武将を次々と投げ付けた。すると、女武将はどんどん小さくなっていくのだった。
  「何をためらっているの。大切な人をいつまでも閉じ込んでおきたいか」女武将は問い詰めた。
  「いやだ」アノは思わず叫んだ。彼女は水の底で閉じ込まれている家族を思い出した。どうしてもそこから救い出したい。
  「だったら、さっそく行け。彼女がすべてを独り占めする前に」と女武将は疲れ果てた声で言った。
アノは大きな柱の方に走り出した。ゴリラは先の何倍も大きくなった。そのものは、何でもかんでも拾い上げて、アノの方に投げ付け、行く手を塞いだ。アノは跳んで来る品々の間を抜き、息を重ねながら、やっと柱に辿り着いた。幸いなことに、柱は見ていたようにすべすべとしたものではなく、たくさんの隙間や溝が絡み合った巨大な木の幹のようなものだった。彼女はその中の一番大きなほとりを沿ってさかのぼった。ゴリラはまるでウサギを追う犬のように追いかけてきた。その手足が長く延び、何回もアノの髪の毛、服や足から掴みそうになったが、その度、彼女は素早く周囲の隙間に飛び込んだり、細長いほとりへ滑り込んだりして、忍びぬけた。だが、最後のほとりを通り抜けたところ、後ろから飛びかかったゴリラに掴まれてしまった。
  「私の思いのまま行っていたら、こんなことになるか。役に立たずの言うことを聞いて、私を敵に回すか」と怒鳴りながら、ゴリラはアノの首を限定品のマフラーで絞めた。
  「放せ。君のことなんか知らないから」とアノはもがきながら息絶え絶えに訴えた。
  「嘘つき。知らない?。汚いことばかりやらせたくせに、今さら知らないか。おかげで、私は君を始末するほど強くなったぞ」ゴリラは冷たく笑いながら、マフラーをもっと強く引いた。アノの息が詰まり、意識が惚け、手足が垂れていった。ちょうどその瞬間、女武将が現れ、ゴリラの後頭部を殴り付けると、ゴリラが伸びていった。女武将はそれを縛り付けてから、アノの方に来て、彼女を支えながら柱の頂上に出た。柱は高い崖のように聳え、周囲が広々とした野原に覆われていた。
  アノはおずおずと見下ろすと、野原が大小の違うたくさんの枠に分かれていた。それがいろいろな花畑のように彩りに見えた。
  「ここはどこなの」アノは訳を分からずに聞いた。
  「君の心の谷だよ」と女武将は穏やかに言った。次の瞬間、彼女の着ていた鎧と手に持つ長剣が消え、長い白い服を着た上品な賢者に変わった。
  「何?私の心の谷?これが」アノは信じがたく口ごもった。
  「間違いないわ」と白い服の賢者は微笑んだ。
  「そんなことがあり得るか。まさかこのすべてが夢だったか」アノはどこかでホットしたように感じながら尋ねた。
  「君にとって何が夢、何が真実なの。まさか物の世界で起こったことだけが真実で、心の中で起こったのは夢だと思っているの」と賢者はアノの顔を伺いながら聞いた。アノはどう答えるか分からなかった。
  「あの彩りのものは、何なの」とアノはどこかから夢だという証拠を探り出したかった。
  「あれは君の考えだ。人の考えは、よく枠を作るものだ。それによって、偏見が生じるのさ」と賢者は彩りの枠を眺めながら語った。
  「偏見?こんな多くの考えの中で、いいものがないとでも言うの」アノはイラっとした。
  「もちろんいい考えもたくさんあるさ。だけど、それらは個人性があるから、偏見になりやすいわ」と賢者はアノを見た。その瞳は、何も入り混じっていない清らかだった。それを見ていると、アノは落ち着いてきた。
  「私は先、家族が水の底に閉じ込められているのを見た。どうすればいいの」アノは助けを求める口調で聞いた。
  「それも君の作った枠だよ。偏見はそのように人、モノ、ことを閉じ込んでおくんだから。彼らをそこから出すには、考えを変えるしかない」と賢者は静かに言った。
  「考えを変える?どうやって」アノは急いで聞いた。
  「それだね。話は簡単だけど、実際にやるのは難しいわ。イメージとしては、心の谷の枠を無くして、自然に戻すことだな。まるで、野原に作った枠を除き、自然状態に返すと同じだ」と賢者は、アノをまっすぐ見て言った。
  「では、どうすれば、その枠を無くすの」アノは真面目に聞いた。
  「それは色々あるかもしれないけど、その一つとしては、心の動きを察知し、偏見のコントロールから脱出することだよ」と賢者は真剣に言った。
  「そうか」アノはしばらく考え込んでから「先言っていたね。あなたは私の一部だと。だけど、どうしてあなたは私の分からないことを知っているの」と不可解に尋ねた。
  「実は、理性は君の悟りによって現れる。もし君が野性と理性の区別さえできなかったら、何があっても無駄だろう」と賢者はため息を付いた。アノは黙り込んだ。確かに、彼女はこれまでこんなことを考えた事もなかった。賢者はアノの理解できない顔をみてから話を続けて「人間は誰でも高い智慧がある。残念ながら、彼らは偏見に縛られているから、智慧の頂上に辿り着くのが難しいんだ」と言った。
  彼女たちが話している最中に、突然皮の縄が跳んできて、アノの足首に絡んだ。なんと縛っておいたはずのゴリラが再び現れたのだ。その手に握った縄は、アノのブランドカバンのベルトだった。
  「ア…」とアノが悲鳴をあげながら引っ張られていくのを見た賢者は再び女武将になって長剣を振り、縄を切った。
  アノはなんとかゴリラの手から逃れ、女武将の後ろに隠れて「まだどうしてここに。もっときつく縛ってくれて」と叫んだ。
  「こいつは君だけがコントロールできるものなの。いくら縛っても、閉じ込んでも無駄で、もっと無くすことはできない。条件さえそろえば、どこからでも幽霊のように出てくるんだ」と女武将は戦いに構えながら叫んだ。
  「どうすればいいの。こんな怖いものをコントロールするには」とアノは声を震わせた。
  「まだ悟っていないか。理性になりすぎると抽象に陥る、野性に偏ると欲に埋もれる。だから、この二つのバランスを保つことだ。バランスの中でこそ本質に近付ける。本質に辿り着けば、君は宇宙の中に存在し、宇宙が君の中にあるようになるんだ」と女武将が言いながら狂ったように襲いかかるゴリラと戦い始めた。
  アノは激戦を繰り返す彼らを見ながら「君は私たちの仲介者だ」と言った女武将の言葉を思い出した。そして、この戦いを止まらせないと、心の平和が訪れないことに気が付いた。
  「止まれ!戦うな」アノは全身の力を振り絞って叫んだ。彼女の声に、すべてが凍ったようになった。戦いの最中だった女武将とゴリラまでそのまま空中にフリーズした。
  「すべてを自然に戻す」とアノは大声で言った。すると、胸に突っかかっていたものがすっと取れたように、一瞬、体が軽くなった。気が付くと、彼女は宙に浮いていた。膝を抱えたまま、果てしない宇宙に漂いながら、星の間を通るそよ風に吹かれ、母のお腹にいるような穏やかさに包まれた。なぜか彼女の涙がこぼれて止まらない。

  「お母ちゃん、お母ちゃん、泣かないで」という風鈴のような清い声がアノの耳に届いた。彼女は再び目を開けた。今度は、息子、両親と夫が目に入った。
  「さ、目覚めたか」と白っぽい顔をした初老の医者が近寄って来て、ペンライトでアノの目に光を当てた。
  「もし十分ぐらい遅れたなら、想像の付かない結果になったと思います。いくつかの種類の睡眠薬をいっぱい呑み込んだみたくて。処置としては、胃や腸の洗浄をしただけではなく、外にもいくつかの緊急処置を取ったんです」と若手の医者が初老の医者に報告した。
瞳に光が当たったとたん、アノも自分のやったことを思い出した。あの夜、彼女はこれまでなく落ち込み、人生を終わらせたいと思って、両親、夫や自分の飲んでいたいくつかの種類の睡眠薬を全部呑み込んだのだった。死にたいという思いが今だけではなく、ずっと前から彼女の周囲にうろつき始めた。彼女はいろいろなものでそれを埋めようとしたが、結局、何があっても心が空っぽくて、何をしても意味なくて、誰と会うことも嫌いになり、だんだん人生が色を失い、闇に埋もれたのだ。
  「娘が大丈夫か」と母の哀れな声がアノの思いを遮った。母が、一夜で年を取ってしまったような疲れ果てた顔で初老の医者に尋ねた。
  「体が大丈夫だ。心の病だな」と初老の医者は、眼鏡の上からアノのベット沿いに立つ家族全員を見回した。そして、アノの方に体を屈めて「見てごらん。彼らの目を。みんな君のことが心配でたまらないようだな。君の命は、君だけのものではないぞ。君を愛するすべての人のよ。彼らのためでも、強くなれ」と優しく言った。
  アノの声が出なかった。彼女は、涙を霞ませて頷いた。初老の医者は、彼女の息子シナの頭を柔らかく撫でてから出て行った。
  「無事なの」とアノは水の底に閉じこまれていたことが本当のように感じて、慌てて聞いた。
  「私たちは大丈夫だ。君がこんなバガなことをするとは…かわいそうに」母が涙をこぼしながらアノの頭を撫でた。
  「お母ちゃん、僕がもっと頑張るから。なんでもいうことを聞くから。もう薬を飲まないで」と息子がアノの胸に顔を埋めて泣いた。
  「全部俺のせいだ。君がこんなに追い込まれていると知らずに。本当にすまなかった」と夫が声を震わせた。
  「こんな苦しい思いをしていたとは…気が付かなくて悪かった」と父が声を詰まらせた。
  「心配しないで。二度とこんなことはしないから」とアノは真面目な顔で両親と夫を見つめて言い続けた。「よく考えてみれば、誰のせいでもない。私が自分で自分の道を閉じたのだ。これからは、家族で思いのまま暮らそう」それから、アノは息子を抱きしめて「ごめんね。君の君らしさを見出さなくて、赤の他人と比べて苦労させたよ。これからは、君らしくいてね」と呟いた。
  アノの涙がこぼれた。その涙を透かして、青空とその元に穏やかに漂う白雲が見えた。

アノの帰り

アノの帰り

ある女性の心の旅のファンタジー

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-22

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