流星と星屑
火雪 作
鳥は休んでいた。長い翼を折りたたみ、大きなヤナギにとまっていた。広大なブナ林の中で、八メートルを超えるヤナギはその一本だけだった。
鳥は、生きることには慣れていた。晩年の命は既に全身軋み、空を切り裂く自慢の白い翼は今や薄茶色に汚れていたが、丸く黄色い大きな瞳は、この土地に長くいる者として輝いていた。
鳥は、争いを避けていても、この豊かな土地で食事に困ることはなかった。少し西へ行けば、ずっしりと構える深い山でイチジクにありつけたし、南に流れる幅広の浅い川では綺麗なアユが食えた。
大岩の陰に隠れているアユを食うには我慢が必要だった。俺はアユより少し知恵が働くから、岩の後ろのブナにとまってじっとする。アユが、俺はもう諦めて他のところに行ったのだと思って、顔を出したらその時だ。黄色い嘴を広げ、真後ろから、銀地に黒縞模様の横腹を咥えてやる。途端にアユは全身をばちんばちんと振るわせる。最後の抵抗というやつだが、所詮は最後だから、他人事じみた不憫と愉悦を覚えて呑み込む。生きたサカナが食道を通り過ぎる時の、わずかに苦い、命をもらっている感覚が俺は結構好きなのだ。雨上がりに、土から這い出てきた大きなミミズを、爪で潰す時のような心地良さだ。確か人間もアユではないが、生きたサカナを丸呑みすることがある、というのを聞いたことを思い出した。あいつらも雨が降ればミミズを潰しているのだろう。
夏のアユは脂が乗っていて、しかもくどくない。丸呑みもいいが、骨が柔らかいからばりばり砕いて食っても楽しめる。食い場を争う相手はいないので、大抵の日は一羽占めだった。今日食ったのは四匹、ほどほどに満腹だった。
雲の見当たらない、全く快晴。ヤナギの葉が遮っていても、初夏の太陽は力強かった。
垂れた葉に張り付いていた夜露が翼に落ちた。その時突然、「お前はここでただ飛んで、食って、眠っていれば全てが終わるんだろう。俺なんて、海から空から山から川へと忙しいのに」とそいつにぼやかれている気がした。気がしただけだ。
そのせいでもないが、どこかへ行こうと思った。
だがどこへ行こう。南は俺にとっては暑くてだめだ。西は山を越えればすぐ海で、海しかない。北は悪くないが、タンチョウヅルとタカがいる。去年行った時は最悪だった。あいつら、飯となったら獰猛に食い尽くしやがって。俺が食えるものはあるだろうが、なかなか癪だ。
東に決まった。
ぶるんと全身を震わせ、翼を広げたら、枝がしなり、頭上から夜露がぼとぼと落ちてきた。跳ね返る枝の力に合わせて翼を大きく振り下ろし、軽く枝を蹴った。一瞬だけの無重力、また翼を振る。行ってらっしゃいと頭を撫でるヤナギを抜けて、空気を下へ下へと押し出していく。眼下の広大なブナ林はどんどん遠ざかり、勢いをつけて、鳥はあっという間に雲の高さまで舞い上がった。
風を捕まえられたら楽なんだがな。この時期は良い方向には強く吹かない。
太陽を右上に捉えて、東へと向かう。
初夏の太陽に背中をじりじりと焦がされていること以外は穏やかで、飛んでいると、ふと色々なことが頭に浮かんだ。昨日潰したカミキリムシの感触、日差しが虹色に照らした銀色のアユの鱗、たまに鳥の寝床の近くを通っていく人間たちの会話、それから季節のこと。桜が散って訪れた雨ばかりの日々が、今、鳥の背中を暴力的に焼いている太陽に、あっという間に蒸発させられたことに、今更ながら驚いた。
季節というのはいつも、この季節はこんな感じだっただろうかと不思議になってしまう。夏は暑く、冬は寒く、春と秋は差がでかい。当たり前のことだろうに、慣れてきたと思ったら、また次が来る。俺だけだろうかと思ったが、そういうわけではないんだろう。
その繰り返しが、数年前より異常な速さに感じるのは、おそらく勘違いではないのだろう。さっきアユを食ったことで満たされていたはずの腹の底に、わずかな寂しさを感じて、柔らかい風の走る、青い木ばかりを見下ろしていた。
青白い山脈が遠くに現れたことで、一時間近く飛んでいたことを知った。鳥は既に疲れを感じ、右上を仰いだ。
おい太陽よ、少し休んでくれんか。お前の熱さは俺には堪える。お前、遠くにいるからっていい気になりやがって。俺が死んだら見ておけ、どれだけ遠かろうとお前の元までたどり着いてやるからな。
山脈は次第に輪郭が定まって、深い苔の生い茂る岩のようだ。翼を背中に沿わせて高度を下げ、中腹からその頂上まで山肌を撫でる。ここまでは来たことがあった。ここから先は未知だった。
鳥が普段狩りをしている渓流とは違う、幅広の浅い川で、黒い巨大なツキノワグマがサクラマスと格闘していた。
でかいな。でかい野郎だ。
サクラマスを目指した、鳥の腹ぐらいはある掌が水面を叩いた。しかしサクラマスは直前に体をひねってそれを避けた。水柱が周りの木の高さほどまで打ち上がる。サクラマスは避けていた。代わりに近くのヒメモチから、右目の上に黒い斑点があるキジが慌てて飛び出した。打ち上げられた一粒一粒が日差しに煌めいて、一瞬宙に浮き、時間を巻き戻すように川へと降り注ぐ。群青色の背中と白銀の腹がグラデーションになっている体を、ツキノワグマに見せつけるように旋回し、下流へ向かうサクラマスは、さあ食ってみろよとでも言いたいのかもしれない。下流へ向かうサクラマスをツキノワグマはどすどすと追いかけ、また掌を叩きつけ、サクラマスが避け、水柱が上がり、落ち、サクラマスは旋回し、進む。格闘と言うにはサクラマスがかなりの優勢だったが、優勢だっただけに油断があった。何度かのツキノワグマの攻撃を、踊り舞ってすり抜けていったサクラマスの進行方向を岩が塞いでいた。サクラマスを三方から塞ぐ形だ。無慈悲に、唐突に、そして確実に現れた壁に困惑しただろうサクラマスが、下流へ向かおうと体を反転させたところへ、ツキノワグマの掌が真上から、今度こそ当たった。ひときわ大きな音が鳥の腹に響き、白い水柱が高く上がった。
攻撃を避け続け輝いていた、群青色の背中と白銀の腹がグラデーションになっている体は、薄く濁った水に呆然と横たえていた。
惨めな奴だ。そもそもがツキノワグマの体格に勝てる奴はおらんのに、調子に乗るからそうなる。
よく見れば左の腹が横に大きく裂けて、そこから命の残り火を知らせるような血が溢れ出し、水を濁らせていた。ツキノワグマはやっと仕留めた昼食をじっと見降ろし、満足そうに口を開け、牙が大きく顔を出した。ツキノワグマは、生き物の武器である爪と牙、そのどちらも巨大だった。ツキノワグマが水面に顔を突っ込み、だらしなく尾びれを垂らした食料は、あっけなく口の中に消えていった。ツキノワグマが水をかき分け、黒い巨体を鳥の来た方向とは逆の林の影に消すと、水の流れる音だけが残った。生き物の気配ごとツキノワグマの口の中に消えたようだ。
サクラマスの負け、ツキノワグマの勝ちだ。キジは間抜けだ。
崖の下に転がっていたイノシシの死体は、昨日には死んでいたのだろう。頭の骨はウジにたかられて、骨がむき出しに、腹にはアリがせっせと群がっていて、そこだけ三日月形に抉り取られていた。肥えていたであろう腹の肉も内臓も、赤黒く塗りつぶされている。
あの大きさのイノシシをあんな姿にするのに、何匹のアリが集ったのだろう。
塵も積もれば山となる、という言葉があったなと思い出した。全体からでかいが、特に大きな牙が目を引くその体は、かつての勇猛な姿の影さえ、赤黒く無惨に塗りつぶされて見えた。あるはずの場所から消え失せたイノシシの目玉は、今やただの食事に成り下がった自分の体を、どんな気持ちで見つめているのかと考えてみるが、そんなものは分かるものではなかった。鳥はさらに進む。日差しはまだ強い。
過ぎていく山々を見下ろして、「でいだらぼっち」みたいだな、と思った。
あいつを初めて見たのはいつだったか。あの不気味な奴を。
広く枝を伸ばした大木にぶら下がる果実の中で、どれが一番熟れているかを見極めるように記憶を手繰り寄せると、鳥が初めてアユを捕まえた日の夜だと思い出した。夏が攫って行くのを忘れてしまった暑さに、いらいらすることもなくなった秋の夕方だったはずだ。
* * *
ツキノワグマが丸々と太ったサクラマスを一撃で仕留め、食い散らかしたところを鳥は生まれて初めて見た。あの大きなサクラマスを捕まえるのは俺には無理だろうが、小さい奴ならできるんじゃないか。サカナを食ったことはあった。ただクマの食べ残しや岩場に打ち上げられたものばかりで、自分で捕まえたことはなかった。
手ごろな大きさのサカナを探そうと上流に向かって飛んで行くと、アユを見つけた。黒く大きい岩々の合間に流れる水の中を、駆け抜けて行くアユは、親戚一同が集まったツキノワグマから逃れようとしているように見えた。あのアユで試してみることにした。
アユの体が小さいせいで狙いが定めづらく、捉えたつもりでもぬるぬるとすり抜け、やっと勢いに任せて呑み込んだ時には、アユ一本分どころか腹の中に溜まっていた全ての栄養が失われた気がした。これならやらない方がましだったと後悔し、その日はもうヤナギの木に帰って、眠ってしまうことにした。
眠りについたはずが、その夜、得体のしれない気配に頭が冴えた。どれだけ眠っていたのか知ろうとしたが、月の位置はヤナギの葉が邪魔をして見えない。気配はツキノワグマではない。イノシシでもない。まず生き物かどうかも怪しかった。近くにそれがいるのか遠くにいるのかすら分からなかった。確実にいるが、正体が分からない。
それは恐ろしいことだ。羽が震えていた。
ヤナギの木の上に上り、視界が晴れるとそいつがいた。
月は出ていなかった。
山が蠢いている、と思った。ツキノワグマに近い輪郭をした、文字通り山みたいな巨体だ。深緑色で黒いまだら模様の入った全身が、なぜか半透明に淡く光り、顔にあたる部分は顔がなかった。全天の星の下で重そうな体を引きずる四足の怪物は、鳥に神秘性すら感じさせた。顔のない顔を、何かを探すように動かしていた。鳥は、その明らかにこの世の存在ではない怪物を前に、あの顔で物が見えているのだろうか、と見当違いのことを考えていた。自分が見ている景色の衝撃に、おそらくは正常に脳みそが動いていなかったのだ。
怪物が何かを探すように動かしていた顔のない顔が、ゆっくり、ぴたりと鳥に向いた。確かに鳥を見ていた。俺か。その瞬間、鳥は腹に風穴が空いたような気がし、息が止まった。穴から鳥の体温と言う体温が、血という血が抜けていき、風が吹き抜ける。穴めがけて怪物が突進してくるのではないか。そうなったら、自分の体はいともたやすく吹き飛ばされ、空の果てまで飛び散ってしまうのではないか。そう思うと逃げ出さないことなど不可能だった。飛び上がり、怪物に背を向け必死に風を切った。が、しばらくして後ろに首を向けると、怪物の姿は次第に薄れ、輪郭がぼやけ、初めから幻を見ていたように消えていった。鳥は度重なる混乱に襲われた。山の影に隠れたのだろうと思ったが、あの巨体では身を隠すのは不可能どころか、自分が他の生き物の身の隠し場所になってしまう。戻ってみても見つからなかった。
静かな夜だった。鳥は豆鉄砲を食らった同胞よろしく訳の分からぬままに寝床に戻り、三度目の入眠の後、ようやく日が昇る時に目が覚めた。
それ以来、夜はほとんど毎日、あの怪物、でいだらぼっちを見るようになった。気配を感じると逃げ出すのを繰り返していたが、何度逃げ出しても追いかけて来るそぶりがなかった。ある日、でいだらぼっちは何もするつもりがないのではないかと思い、一応逃げる心構えをしてから、鳥を見つめてくるでいだらぼっちを見つめ返し続けた。するとでいだらぼっちは思った通り、何もしてこないままに顔をそらして右側の山の向こうへ行ってしまった。体の表面が妖しく、淡く光っていた。
追いかけてみてもそのたびに消えてしまうのだから、結局、突然現れて突然消えるでいだらぼっちのことは今までよく分かっていない。なぜあの日から現れるようになったか分からないが、あの日よりも前からずっといたのだろう。それこそずっと昔、百年や二百年ではないはずだ。
* * *
山を一つ越え、二つ越え、三つ越え、数えることさえ忘れた時、視界に大きな変化があった。初めは空がもう一枚、地面に現れたのだと思ったが、そうではなかった。海だ。西の山を越えて見る海じゃない。こっちは当然初めて見た。
鳥がまず驚いたのは、海の向こうが見えなかったことだ。西の山の頂からは、海を挟んだ向こう側にうっすらと陸地が見えていた。行ったことはなかったが、寒く、恐ろしい国があるということを人間が話していた。しかしこちらの海は、青い景色が無限に延びていた。青にも濃淡があり、空との切れ目は群青で、手前に行くにつれて明るいグラデーションを作っている。遮るものもなく、太陽の光を全て受けて白く輝く水面は、見たこともないアユの大群が跳ね遊ぶようだった。あれに突っ込めばいくらでもアユが食えるだろうし、文字通り山のようなでいだらぼっちでも、あの群れを一度に捕まえることはできないだろう。水平線の先に、この空一つだけの、丸い輪郭を帯びた大きな夏雲があり、鳥の来訪を歓迎していた。
ふと視線を下げた海の手前に、人間の家が集まっているのを見つけた。海に向かって弧を描いて連なる山に囲まれて、開けた斜面に武骨な家が等間隔にあった。ざっと数えて二百はあった。人間の家はどれも三角、四角、たまに丸混じりで、やたらと整っている。海の近くだから港町と言うのだろうか、にしては家の数が少ないから漁村だろうな、と思いながら、鳥は低く飛んで見下ろしていく。
漁村の北側で、腕を組んで歩く二人組を見つけて、鳥は二人の先にある電柱へつかまった。赤茶色の髪を、肩ほどの高さでそろえている女と、女より頭ちょうど一つ背が高く、短い黒髪の男が、指を絡め合わせて歩いていた。
女の腹が大きく出ていた。それを見て鳥は、そういえば人間は卵を産めないのだと思い出して、腹にあんな重りを付けていたら空は飛べないだろうから、人間も卵を産めるようになったらどうだと不自由な女を哀れんだ。だが女は鳥の哀れみなど意に介さず、そもそも鳥の存在に気付いてすらいないのだが、陽気を振りまきからからと隣の男に話しかけていた。明日は夕方から雨が降るだとか、晴れていたら流星群が見えるだとか、そんな内容だった。男は、それに軽く頷いて聞いていたが、女が話している内容よりも女そのものと、女の腹を愛おしそうに見つめていた。
あの腹の内側で、あの二人の子供が生まれる準備をしているのか。
鳥はそこを離れた。飛び上がった瞬間、二人は鳥を見上げた。
フジツボだらけの防波堤で、あぐらをかいて釣りをしている若い男を見つけた。腰の低そうな柔らかい顔に似合わない濃い髭を口周りに生やし、肌は薄赤く、麦わら帽子を深く被っている姿は浮世離れしていた。何が面白いのか目を弓なりにして微笑んでいる。鳥が横に降りると、男は顔だけこっちに向けて、左右対称な、これまた弓のような細い眉をわずかに上げたが、また顔を海へ戻した。目線を追うと、一本の白く細い光の筋が、それは釣り糸で、それが少し先の海面に刺さっていた。目を凝らしても海に潜った釣り糸の底は見えない。
鳥は何メートルか深いところで、餌を食うか食わないか迷っているサカナの姿を想像し、食う方に賭けた。
俺はサカナよりは知恵が回る自信があったが、人間は俺より知恵が回る。人間ならサカナは簡単に捕まえられるだろう。
そう思ってのことだったが、突然男が勢いよく釣り糸を巻くと、釣り糸には銀色の針だけが寂しそうに縛り付けられていた。
男は餌だけむしり取られた釣り針をしばらく見て、ぎゃははと笑った。それを見て、人間も狩りの失敗を楽しむことがあるのだな、と鳥は男にわずかながら親近感を覚えた。狩りが失敗しても笑えるのは、それでも生きていられるように、他の食事が摂れる場所があるか、代わりに食わせてくれる者がいるかして、守られているからだ。
男は釣り針に餌の小さなサカナを付けて竿を背中に引き、それを握る手で綺麗な弧を描いて、緩やかに前に振った。釣り糸は針に突き刺さったサカナに引っ張られてミミズのように細かくうねり、海に再度飛び込んだ。
人間がサカナよりも賢いとも限らないらしい。鳥はそこを離れた。飛び上がった瞬間、男は顔だけ鳥に向けて、弓のような細い眉をわずかに上げたが、眩しそうに顔を海に戻した。
漁村の中心近くに位置する、ヒバの木に囲まれた五十メートル四方ほどの草地に、小動物が複数いた。十歳前後の、人間の子供たちだ。見分けの付けづらい十人が、大声で叫び、笑い、駆け回っていた。しばらく旋回して様子を見ていると、規則が分かった。十人の中に捕まえる側の子供が一人いて、残りはそれから逃げる。捕まえる側の子供は、逃げる側の子供の誰かに触れることで逃げる側に移る。その時触れられた子供は捕まえる側に移る。狩りを模しているのだな。緑色のシャツの子供が、黄色い靴の子供を捕まえた。
その土地の入り口には石の壁があり、公園と書いてあった。
なるほど。公園は子供が走り回ったり、叫んだりするためにあるものなのか。
鳥は、ヒバの木の一つにつかまり、子供たちが大声で笑い、叫び、駆け回っているのを観察した。
何回か捕まえる側が入れ替わってから、子供たちの右奥にもう一人子供がいるのに気付いた。公園の隅の木に向かって、青いボールを両手でつかんで投げている。ボールは木にぶつかり、何度か跳ね返ってその少年の足元に転がる。少年はボールをつかみ、また投げる。たまに少し立つ位置を変え、投げる高さを変え、腕を振り下ろす投げ方から振り上げる投げ方に変えていたが、していることは変わらない。木にボールをぶつけるだけだった。少年は背後で相変わらず狩りの真似事をしている子供たちに、何か言いたそうにちらちらと見ていたが、当の子供たちは少年に気付いていないのか、少年に目をやることがなかった。そこには誰もいませんよ、幻ですよ、とでも言い出しかねないほど少年に無関心だった。全員同じ場所にいて、視界を遮るものは何もないのに気付かないなんてことがあるだろうか。
少年はでいだらぼっちではない。そこにいるのだ。鳥は不思議で仕方がなかった。鳥は一番近いところにいる逃げる側の一人に、あの少年はお前に見えているのかと尋ねようとすら思ったが、人間は鳥の言葉の意味が全く分からないということを知っていたのでしなかった。
鳥が、お? と思ったのは、逃げる側の子供の一人が突然立ち止まり、少年の方を見たからだ。ちょうど少年も、またちらりとそちらを見て、二人は目を合わせた。少年はこの機会を逃すまいと思ったのか、「ねえ!」と高い声を出した。
子供たちは一斉に静まり、少年を見た。二十個の目玉が少年を突き刺す。少年はまた呼びかける。
「ぼく、も、まぜて。いっしょに、あそば、せて」少年は途切れ途切れに、鈴のような細い声でそう言った。さっきまで何も干渉してこなかった少年に子供たちは顔を見合わせて、どうする? どうする? と目線を送り合って、その間に少年は不安そうに目線をきょろきょろさせている。やがて、青い帽子の子供が少年に「いいよ!」と言った。少年は途端に顔をぱっと輝かせ、ボールを放り出して子供たちの輪の中に入っていった。放り投げられたボールは、何度か跳ねて転がり、少年の足元ではなく何もない場所で止まった。
「じゃあお前がおにな。十秒数えろよ」青い帽子の子供が少年にそう言った。
「うん!」少年がにこにこと応えた瞬間、子供たちは、わー!と一斉に散った。統率の取れた集団だ。少年が、いーち、にーい、さーん、とゆっくり十秒数える。その間に子供たちは、公園の端までたどり着き、にやにやと少年を見ていた。
少年はゆっくりとした十秒を数え終わり、子供たちを追いかけ始めた。「おに」は鬼で、追いかける側の名前か、とそこで理解する。初めに狙われた背の高い子供は左右に動き、突き放し、鬼こと少年に触れられまいとする。少年は追いつけないと判断すると、標的を背が低い子供に変えた。だがそっちにも追いつけない。また標的が変わる。また追いつけない。少年は子供たちに比べ、あまりに遅かった。いっしょにあそばせて、と言っていた少年が子供たちに遊ばれていた光景に、鳥は、ツキノワグマを弄んでいたサクラマスを思い出した。あいつは結局殺された。だがこの公園には子供たちの進路を遮る壁もなければ、少年には子供たちに追いつける脚もなかった。
子供たちもさすがに驚いたのだろう。一向に誰も触れられないまま時間だけが過ぎ、少年は手を膝につき、肩を大きく上下させていた。暴力的な太陽に追い打ちをかけられ、少年の背中には一面に汗がにじんでいた。髪の毛から滴り落ちる汗と真っ赤になった顔とは対照的に、子供たちは汗こそかいているもののまだまだ余裕を見せていた。え? 俺たちさっきから走ってて、まだ走れるのに? そんな表情で少年を見つめていた。
「お前、遅すぎんだよー」赤いズボンの子供がそう言った。少年は荒い呼吸のまま泣きそうな顔で声のする方を向いた。汗が目に入り、慌てて目をこすっていた。
「誰か早く捕まれよー。暇だよー」ろくに走っていない、丸眼鏡をかけた子供が間延びして言った。
「もう疲れてんの? まじ?」背の高い子供が、信じられないといった調子で言った。少年は非難されるたびに、泣きそうな顔がより泣きそうな顔へ崩れていく。
青い帽子の子供が少年に近づいて、「もういいよお前。いいよ。俺が代わるよ」とうんざりした声で言った。いいよ、が口癖なのかもしれない。少年を追いやった後「よおーし。十秒数えるぞー! 一! 二! 三!」と声を張り上げた。
少年は捕まえる側、鬼からふらふらと離れる。不格好に前のめりで、重くなった脚を引きずるように鳥のいる方向に寄ってきた。
あれじゃあ追いつかれる。遅すぎる。
鳥は十秒後に少年が真っ先に捕まり、また誰にも追いつけず、今度こそ泣き出す場面を想像した。しかしそうはならなかった。十秒を数え終わった鬼は一番近くにいた少年には目もくれずに、真反対にいた眼鏡の子供を狙った。当の狙われている子供は、まさか自分が狙われるとは思わず走り出すのが遅れた。あっという間に鬼が距離を詰めて背中を叩いて離れた。鬼に代わった、正確には鬼にさせられた子供は、くそっと悪態をつきながらも愉快そうに、鬼としての役割を全うすべく近くの上下ともに黒い子供を狙った。
少年は遠くから様子を眺めていた。髪の毛は汗に濡れて平らに均されていたが、荒かった呼吸は収まり始めていた。膝から手を放し、腰に手を当てて体を反らせた。
その時、鳥と少年の目が合った。少年は、そこに鳥がいることに今気付いたようで、体を反らせて上下が反転したまま鳥をじっと見てきた。逆さの顔に見つめられるのはおかしな気分で、少年の赤茶色の瞳が印象的だった。
鳥があっと思った時には、不安定な体勢の少年は勢いよく右肩を叩かれ尻餅をついた。いつの間に鬼にさせられたのか、上下黒の子供は少年に手を貸すこともなく離れていった。ゆっくりと立ち上がった少年は周りの視線から、ようやく自分が鬼にされたことを理解したらしく、顔を歪ませた。
「おいあいつがおにだと終わんねえってー!」丸い眼鏡の子供が囃し立てた。隣で角ばった眼鏡を付けた子供が「誰か代わってやれよー。すぐ疲れるじゃん」と笑った。二人は背も服装も顔だちも似ていて、眼鏡を交換すればそのまま中身ごと相手に移れるかもしれなかった。
いいよが口癖の、青い帽子の子供がまた少年に近づいた。「ほんとにもういいよお前。俺が代わるよ」と言ってまた鬼を代わるつもりだったのだろうが、口を開く前に少年はくしゃくしゃの顔で「もういい!」と叫んで駆け出した。おいどこ行くんだよと言う、青い帽子の少年に小さな背を向けたまま、少年は放り投げられたままになっていたボールを腹に抱えた。短い距離だったが既に息が上がっており、それがまた少年の劣等感を膨らませたらしく、呆けた子供たちを無視して大股で公園の外に行ってしまった。
やがて坊主頭の子供が「なんだったのあいつ」と吐き捨てるように言った。
「知らん」白いシャツの子供がぶっきらぼうに答えた。
「てか名前は? 誰か知らん?」やけに肌が白い子供が高い声で誰にともなく尋ねた。
「僕は知らん」今度は黄色いシャツの子供と、俺も、と上下黒の子供が答えた。そのやり取りから察すると、子供たちは少年と今日初めて関わったようだ。
「いいよ。俺たちだけでやろ。元々そうだったし」
青い帽子の子供の言葉に、他全員がおのおの、おー、であるとか、だね、とか答えた。鬼がいなくなってしまったので、上下黒の子供が鬼に戻ることになった。
そう決まると子供たちは少年の存在をもう忘れたように、公園を再び縦横無尽に駆け回り始めた。黄色の靴の子供が、右肩を鬼に叩かれ、新たな鬼は、坊主頭の子供の坊主頭を叩いた。今の鬼は誰か、鬼が来た時はどこへ逃げるか、自分の近くには誰がいて、自分が鬼になった時は誰を狙うのが正解か、子供の遊びにしては駆け引きが面白いと感じるとともに、俺があの中にいたなら負けることはないなとも思った。人間は空を飛べない。
坊主頭の子供が息を切らし、膝に手を置いたのを見て、鳥はさっきの少年がどうにも気になりだした。子供たちを眺めることに飽きてきたからかもしれない。鳥は少年を追いかけた。大して時間は経っておらず、人間の、しかも十歳前後の短い脚ならまだ近くにいるだろう。すぐ見つかると思って、その通りにすぐ見つけた。
少年は腹にボールを抱えてうつむき気味に、漁村の北側へ歩いていた。鳥は道に並ぶ家々を、屋根から屋根へ飛び移っていく。鼻をすすって目をこする少年の頬は濡れていた。疲れが残っているというよりは、自分の体力のなさを責め立てるように大きく呼吸をしているのを見て、鳥は何とも言えない気持ちになった。自分から子供たちの輪の中に入りたいと言い、自分の体力のなさが原因で責められたのだから、少年の自業自得と言えないこともない。
少年は突き当たりを左に曲がり、十分ほど歩いて小さな家の前で立ち止まった。木造一階建ての小さな家の周りは、四角く手入れされた椿の生け垣に囲われ、全体から少年を慰めるような温かみが出ていた。少年は生け垣を抜けてポケットから鍵を取り出した。ふと、少年が鳥の視線を感じたのかこちらを向いて、えっと声を上げた。まあ、公園で見た鳥がここまで来ていれば驚くのもそうだろう。首をひねって訝しんでいる様子だったが、何かを思い出したように鳥を睨みつけ、地面に転がっていた小石をつかんだ。何をするのかと思えば、肩を大きく振りかぶり、鳥に投げつけてきた。だが鳥を狙ったであろうそれは、鳥を飛び越えて屋根に転がった。鳥がいる家の中で、音に反応したであろう足音が聞こえた。
少年は玄関扉を勢い良く開け、中に飛び込んだ。玄関扉が軋んだ音を立てて閉まった後で、鳥はもしや、と思った。俺のせいで自分は責められるはめになったとでも言うつもりじゃないだろうな。
まさか少年が一人で住んでいるわけでもない。あの少年と一緒に住んでいるやつはどんな人間だろうかと想像した。椿の手入れをしているのがその人間だとしたら、繊細で少年のように気弱だろうか。対照的に豪放なやつだろうか。
何の変化もない家を眺めて何分か経った時、玄関扉が開き、白い短髪の、しわがれた老人が現れた。老人は背が高くなく、老人らしく皺が額と頬に深く走っていた。
俺が人間だったらあいつくらいの年だろうか。
だがその赤く太い首は、盛り上がった胸は、浅く被ったつばの広い帽子から覗く赤茶色の瞳は、深緑の上着が肘までまくられたことで露わになった筋張った腕は、年季の入った力強さがあった。鳥は老人とツキノワグマを重ね合わせた。ツキノワグマと違うのは、老人はそれほど荒々しく見えず、毛むくじゃらでもなく髭も生えていない。シカやサクラマスを容易に裂き殺すような鋭い爪も持っていなかったが、老人の背負っている、長く黒い銃に、鳥は一瞬固まり、苦い顔をした。老人は猟師で、そんな鳥をちらりと見た。
忌まわしい銃の、軽く鋭い音は遠くからでも近くからでも、何度も聞いたことがあった。長く生きていながら、あの音には未だにどうにも慣れることができない。銃というのは腕利きなら数百メートルも離れたところから獲物を狙えるというから、俺が撃たれたのか他が撃たれたのか分からんからだ。
老人は少年が来た方向とは逆に歩き出した。西に構える、漁村を囲む山の一つを目指しているようだ。人通りはほとんどなかったが、たまにすれ違う若い女や壮年の男は、老人の背負っている物が銃だと分かると、わずかに眉間に皺を寄せて、関わり合いを避けるように顔をそらした。
「カズアキさん。今日も山に入るの?」
山道の入り口に来たところで、老婆が老人に話しかけた。
「おう。そりゃ猟師だからな」老人は芯の太い、しわがれた声で言って帽子を被り直した。
「ご苦労様ね。ああそうそう、今日、畑でスイカが取れたんだけどいらない? 今はソラ君が来てるなら食べない?」
「スイカ、スイカか。もうそんな季節か」
「六月が終わったばかりなのに、もう暑くて大変なの。すだれの掃除も終わってなくて」老婆は手で顔を仰いだ。
「本当にな。毎年暑さを経験しているはずなんだが、慣れんもんだよな」
「じじばばには苦しいわね。で、スイカはいかが?」
「ソラは多分食うだろうからほしい。今日いい鳥がいたら処理して持ってきてやるよ」
「またそんなこと言って。いいって。どうせ勝手に生えてきちゃってるんだから。私ひとりじゃ食べきれないから配ってるの」
「いいのか? お前、去年倒れたんだから肉は食っておけよ」 老人がそう言うと、老婆は目元口元に皺を寄せた。上品な笑みだった。
「あんたほど動かないから大丈夫だって。ソラ君に食べさせてあげなさいよ。私、孫がいないから人の孫を可愛がるのが趣味なの。これを言うのは三回目ね」
「ああ分かった、分かったよ。ありがたくもらう」
「じゃあ今日、終わったら家に寄ってね」
分かったよと言って山に入って行く老人を、鳥は見送って引き返した。
また海に来ていた。砂浜をつかむのは初めてで、爪の間に纏わりつく砂粒の感覚は心地良かった。凪いだ海は寄せ返し、休まず砂浜を洗い流す。サワガニのような小さな生き物が、自身の倍はありそうな貝殻を背負って鳥の足元を通り過ぎて行った。
時々、そのさざめきを貫いて、風に乗って運ばれた銃声が鳥の耳に届いた。
あの老人は、老婆のために良い鳥を殺せたのか。殺せていろよ。
鳥は急に体が重く感じた。
二時間程度飛んだだけで、俺の胸筋はもう疲れるようになっちまったのか。役立たずめ、もっと頑張れ。
眠るつもりはなかったが、翼をたたんでヤナギの流木にもたれかかると、急激に暗闇に吸い込まれた。
日が沈んで、全てを受け入れるようだった海が、全てを隠してしまうような不気味さを孕むようになった。ようやく目を覚ました鳥は飛び立った。海岸の端に備えられた防波堤で、麦わら帽子の男が、まだ釣りをしているのが見えた。
あの家には明かりがついていた。椿の生け垣は家を守るように、重厚で静かだった。開け放たれた窓越しにテーブルが見え、皿の上には綺麗な三角形に切り分けられたスイカが並んでいた。
「美味いな」老人の声が聞こえた。斜め上から老人と少年の手元だけが見え、老人は皿に手を伸ばしてスイカを一切れ取った。
「おいしいね」少年の鈴のような声は上機嫌だった。
「ソラはここまで来るのは大変じゃなかったか」
少年はうーん、と揺れた声を出した。
「新幹線に乗ったんだけど、間違えて」
「間違えた? 方向か」
「うん。おばあちゃんにどこ行くのって聞かれて、違って、次の駅で降りなさいって」少年が皿の上にスイカの皮を置いた。皮にわずかにかじり残されていた赤い部分が、少年の歯型で山脈のような模様になっていた。
「大変だったな」
「あとね、新幹線降りて、電車二回くらい乗って」
「ああそうだな。宮古駅からここまで、一時間くらいか」
「うん。宮古駅から、最初人が乗ってたんだけど、みんな、降りちゃって、ずっと静かで、怖かった」
「一人もか」老人の声はわずかに高くなった。
「うん、みんないなくて」
「そうかあ。よく来たな、今日は早めに寝ろよ。風呂は焚いてあるから」
「うん」
そこで老人は、そういえば、と切り出した。ずっと尋ねようとしていた、そんな声色で、「明後日には帰るのか」と尋ねた。つまり少年は普段は別のところに住んでいて、今だけ老人の家に来ているのだと、鳥は理解した。
なるほど俺がこっちに来たのと同じように、お前も遠いところから来たんだな。どれぐらい遠いんだか、お前のが遠いのか気になるな。
確かに家には少年と老人以外の気配はしなかった。ただ、この家は小さいが、老人が一人で住むには少し広いだろうに。
「うん、明後日の夜には帰ってきなさいって」
それを聞くと老人は寂しそうに、そうか、と言ってテーブルを片付け始め、カーテンが閉められた。
次の日も日差しは強く、鳥は漁村の背後を囲む山の一つでヤマメを捕まえて呑み込んだ。ヤマメもアユも捕まえ方は変わらなかった。味も大きく変わらないが、ヤマメの甘さが気に入った。
二匹目のヤマメを呑み込もうとした時に、短く鋭い音が響いた。はっと頭を持ち上げるとヤマメが喉に引っ掛かり、ひゅっと息が詰まった。鳥はまずヤマメを呑み込んでから耳を澄ませる。藪をかき分ける足音に、小枝が折れる音が続いた。かなり近くだ。鳥は音のする山の上の方へ、なるべく気付かれないように敢えて低く飛んで行く間、ヤマメの引っ掛かった喉が痛かった。
老人はほんの十数秒で見つかり、斜面をゆっくりと下りていた。そのまま進めばさっきまで鳥がいた場所にたどり着く位置関係だ。人間が人間用に整えた道もあるというのにお構いなしに進んで行くその右肩には、やはり銃が掛けられていた。
やがて老人は、さっきまで鳥がいた場所と、鳥が老人を見つけた場所のちょうど中間あたりで立ち止まった。鳥は真上から見下ろす形で近くの枝につかまった。老人の足元には、黒い土の上でキジが横たわっていた。真っ赤な頭と青い胸と、緑色の腹は、黒い土の上でよく目立った。老人は胸のポケットから麻袋を出した。
鳥はそのずんぐりと肥えたキジに見覚えがあったため驚いた。キジの右目の上には黒い斑点があった。鳥が漁村に来る途中見かけた、ヒメモチから飛び出したあのキジだ。どこまで行ったのかと少しは気になっていたが、俺と同じようにこんなに遠くへ来ていたとは思わなかった。あの時はツキノワグマともども間抜けだったな、と鳥はおかしく思い、今や間抜けどころか命の抜けた眼下のキジを哀れんだ。
なあ、どういう偶然かお互いにここまで来たのに、お前はあっけなく死んだじゃないか。お前が死んだからこそ俺は、お前がここまで来ていたことを知ることができたとは、皮肉だな。
老人は、ただキジを見下ろしていた。その顔は冷たいか、慈愛を含んでいるか、何の思いもないか、見えなかった。老人は手のひらを顔の前で合わせ、低く「許せよ」とだけ言って、キジの首をつかみ、優しく麻袋に入れて袋の口を紐で縛った。老人はキジ入りの麻袋を左手に提げ、山を下って行った。鳥は後を追う。一体、キジが老人の何を許すのだ。
老人は家に着き、そのまま中に入るものだと思ったが裏に回った。肩から下ろした銃を壁に立てかけ、老人は脇に置かれた椅子に腰かけた。何をするのかと思えば、腰に提げた袋から布を出して地面に敷いた。そして麻袋からキジを取り出し、尻部分の羽をむしりだした。それを見て、鳥は全身が強張るのを感じた。尻の羽が全て抜けると、老人は腰からナイフを取り出し、キジの翼の根元を断ち切った。重力に逆らうためにある両翼が、重力に逆らえずに落ちた時、鳥は、あぁと思った。死んだことはさておき、捌かれるのは同族として気分がいいはずもなかった。老人の動作は一つ一つが丁寧で素早かったが、無表情なその手際の良さがかえって冷徹に見えた。老人は羽の抜けたキジの尻に切り込みを入れ、そこを右手でつかみ、左手で脚をつかんだ。右手を勢いよく手前に引くと、胴の羽が首まで一度に剝ぎ取られ、その生々しい音に鳥は顔をしかめた。老人はふう、と息を吐いた。
羽をむしられたキジは惨めだった。ずんぐりとしていた体は随分と細くなり、青かった胸も緑だった腹も、つまらない肌の色になってしまい、老人に首をつかまれて家の中へ消えていった。カーテンが閉め切られて中の様子を見ることはできない。中ではキジが頭を落とされ、内臓を抜かれ、肉が切り分けられているのだと思うと鳥はまた顔をしかめた。
俺も、人間に殺された後にはあいつのようになってしまうのだろうか。
死ぬことが怖くなくなったのはいつからだろう。怖かった時期は確かにあった。でいだらぼっちの顔のない顔に、初めて見つめられた時を思い出す。殺されたならそれまで、潔く死ぬつもりだったが、だからと言って自ら進んで死にに行くことはない。生きられるなら生きたいと思っている。
あの老人は許せよと言ったが、許すわけがないだろう。手際よく処理されようが、残さず食われようが、人間が許されたいからやっていることで、許すかどうかは食われる側が決めることだ。少なくとも俺は許さない。俺が今まで食ってきたスモモもイチジクも、ミミズもカミキリムシも、アユもヤマメも俺を許してはいないだろう。
ここにいても暇になる。鳥は別の場所を目指した。ふと見上げた空はまだ強く晴れていたが、雲が増えてきていた。
公園に着くと、子供たちが昨日と同じ遊びをしており、鳥は昨日と同じヒバの木につかまった。丸眼鏡の子供が「あいつ狙えよ! 来るなって!」と叫んで後ろを振り返りながら逃げ、それを追いかける角眼鏡の鬼は、待て! と腕をめいっぱい伸ばしている。やはり二人は似ている。丸眼鏡の子供が公園の端に沿って曲がったところで脚がもつれ、前のめりに勢いよく転んだ。転びっぷりが派手だっただけあり、鬼は「大丈夫? 生きてる?」と声をかけた。呻きながらゆっくり立ち上がった子供は服に砂が纏わりつき、手のひらから血がにじんでいた。
「あいつ狙えって言ったじゃんか!」と叫ぶ顔は、目玉が涙で潤んでおり、鬼は申し訳なさそうにごめんて、と謝った。
あいつとは少年のことだろうなと見当をつけて、二人の視線の先に目をやると、二人の対角で心配そうに様子を見ていた。昨日ああなっておきながら懲りずに来たのか。距離があるからやり取りの内容は聞こえないのだろう。手持無沙汰に腕をぶらぶらと振っていた。
角眼鏡の鬼が、少年を狙って走ってきた。が、少年は自分が狙われていることにも気付かずに、「あの子大丈夫だった?」と間の抜けたことを言い、次の瞬間飛び込んできた鬼に左肩を叩かれた。
「お前鬼な!」と叫んで、角眼鏡の子供は逃げ出した。少年はげらげらと笑って遠ざかる背中を困惑した顔で見つめ、なんで! と悲痛に叫んだ。
青い帽子の子供が、わざと少年に聞かせるような大きい声で「あーあ」と言い、昨日少年を輪に入れた自分をなじるように頭をかいた。今回はいいよと言って、鬼を代わるつもりはないらしい。昨日のことだろう。呆れたように首を振った。
少年が誰にも触れないまま、十分は経っていた。最初は少年を小馬鹿にしながら逃げていた子供たちも、変化のない遊びに次第に苛立ちを募らせていた。
「あのさあいい加減にしろよ」坊主頭の子供が、少年をなじった。
「つまんねえよあいつ。脚遅いし」
つまんねえと言われた少年は昨日よりも酷く疲れて、地面に両手を付けていた。垂れた前髪の先から汗が滴り落ち、小さな水たまりを作っていた。太陽は衰えるどころかますます力を増し、陽炎が少年のそばに立った。揺れ動く背の高い陽炎は「早く立て、早く立て」と少年を煽る。
少年は右手を膝に当て、わずかに立ち上がったもののまたしゃがみ込み、深く息を吸うとようやく立ち上がった。陽炎のようにゆらゆらと、手を漕ぐように振って、坊主頭の子供に向かって行った。
「触られるな! 脚が遅くなるぞ!」黄色い靴の子供のそれは、やけにはっきりと鳥の耳に届いた。
「え? ほんと?」隣にいた白い肌の少年が、肌の色同様純粋さを振りまいて尋ねた。
「だって、昨日からまだ誰もあいつに捕まってねえじゃん。あいつに捕まったら菌が移って絶対遅くなるって」
「菌?」
「脚が遅くなる菌とか、そんなんだよ」
鳥は冗談かと思ったが、真剣な声色でそう言うのでいくらかは本気そうで、あまりの馬鹿馬鹿しさに、鳥は笑うこともなかった。心の底から何を言っているのだと思った。良い風をつかめないせいで飛ぶのが遅いのも、脚が遅いのも、それがどうすれば菌になって移っていくのだ。
そう思ったが、白い肌の子供はなぜか妙に納得したらしく、のろ菌だ、と言った。
「のろ菌?」
「脚が遅くなるって言ったじゃん。だからのろ菌。」自慢気な白い肌の子供は、鳥からは何も考えていないように見えた。実際に何も考えていないから、二人してそんな意味の分からないことが言えるのだろう。
少年はまた地面に両手をついていた。青い帽子の少年は、もう近づくそぶりもなかった。
二人のやり取りを聞いていた周りの子供が近づいて行った。
「何の話?」
「のろ菌だよ」
「のろ菌?」
「あいつ脚遅すぎるじゃん、捕まったら俺たちも脚遅くなるぞ」
「うええ嫌だそれ」
「それな」
「さっさと起きろよあいつー」
「無理じゃね」
「疲れすぎじゃね? 生きてる?」
「死んでそー」
「のろ菌早く起きろって!」
「起きろのろ菌!」
「もう俺たちだけでやっていいかー?」
「はーやーくー」
類は友を呼ぶとはこういうことか、と鳥は思った。何も考えていない子供が十人集い、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」と歌い、それに合わせて一斉に手を叩いた。
少年はもう一度「鬼さんこちら」の合唱が終わると膝を支えて立ち上がった。顔は真っ赤を通り越して真っ青になっていた。水面のサカナのように首を立て、殴りつけて来る太陽を睨み返して、必死に息をしていた。子供たちはのろ菌が立ったぞ、とまた囃し立てた。
何も考えていない子供が十人。鳥は傍観者だった。
どうしてだ。
人間だ。どうして俺は、こんなにも気分が悪い?
俺がミミズを潰すことと、あいつらが少年を虐げることの違いはどこだ? どうしてだ。
たまらず鳥はそこを離れた。後ろから、のろ菌を移されるな! と誰かが叫ぶ声がした。
ガキどもめ。
防波堤では今日も麦わら帽子の男が釣りをしていた。糸は海面に緩やかに伸び、サカナを餌に食いつかせんと誘っている。鳥が男の横に降り立つと、男は鳥を不思議そうに見た。昨日今日と横に来て、俺に何か用があるのか。そんな顔だ。
休みたいだけだ。お前さんの邪魔はしない。
穏やかそのものな海面で、糸が急に張りつめた。男は「来た」と小さく言って釣り竿の根元に付いている、銀色の巻き具の取っ手を摘んで、リズムよく回し始めた。糸が引き込まれ、釣り竿がしなる。見えないがすぐそこで、誘いに乗ってしまった哀れなサカナが、口に突き刺さった針を懸命に抜こうともがいているのが、竿の暴れ具合で分かった。
ヤマメだったら奪ってやろう。アユでも良い。
男はサカナの登場を今か今かと待ち構え、糸を引き込み続ける。サカナの影が深くから昇ってきた。男は右腕を竿から離し、左脇に抱えていたタモをつかむ。竿を支える左腕の筋肉が盛り上がった。男はタモを海面に向ける。サカナは永遠に手遅れになるまいと、海面下で、糸を引きちぎる勢いを見せていたが、男が横から掬い上げたタモにあっさり囚われてしまった。
網に入ったのは、全身が鮮やかに赤く、白いまだら模様のある奇妙なサカナだった。男の呟きを聞くに、カサゴと言う名前らしかった。前に突き出た唇は分厚く、鋭い背びれを持つカサゴは、不満を全身で表していた。男は網を引き寄せて針を引き抜くと、網を裏返して、自分を閉じ込めているそれを破ろうとしていたカサゴを、脇の白いバケツに放り込んだ。鳥がバケツに近づくと、男は「逃がすんじゃねえぞー」と、だるそうな声で言った。腰の低そうな顔と口周りの髭は、昨日も今日も、どうにも不格好だった。
バケツの中には目が大きくヤマメに近い体長の、背中が薄青いサカナが二匹と、小ぶりのハゼが五匹、それからようやく大人しくなったカサゴが親玉のように泳いでいた。カサゴは諦めて、キジのように鱗をむしられるのを運命だと受け入れているのか、それとも力を溜めていて、男が油断した隙に大暴れしてバケツを倒してやろうと企んでいるのか、むすっとした顔からは何も分からなかった。
男は小魚をつかんで、小さな頭に釣り針を突き刺し、釣り竿を山なりに大きく振った。餌を重りにまっすぐ飛んだ針は、十メートル程度先の海面に突き刺さった。巻き具が回されて緩やかに張る糸には、水滴が付き、太陽の光を反射して輝いていた。
男の横顔はカサゴの次に食いついてくるサカナを愉快気に待っていたが、鳥は妙な苛立ちを覚えた。
まただ。どうしてだ。生きてきた中で、そんな感情を抱いたことは滅多になかったはずだが。どうしてだ。あのジジイに殺されたキジも、自業自得で罵倒される少年も、お前には関係ないってことか。
突然、あの老人が今この瞬間、許せよと言いながら、キジを煮るなり焼くなりしているところが思い浮かんだ。
俺はどうかしている。
しかし鳥は思いついたままに、バケツを蹴ってひっくり返した。水をたっぷり抱えたバケツの縁が地面にぶつかる音、こぼれた水が海に注ぎ込まれる音。男は鳥の予想だにしない不可思議な行動にうろたえ、サカナをバケツに戻そうと手を伸ばしたが、その拍子に手から釣り竿が離れ、海に落下していった。男はさらに混乱し、麦わら帽子を後ろに放り投げて海へ飛び込んだ。突然解放されたカサゴたちはまさか鳥に救われたとは思わないまま懸命に暴れて防波堤から海に飛び込み、釣り竿を抱えた男をあざけるように、目の前を通って消えていった。
ざまあない。鳥は男の醜態が面白くて仕方がなかった。数秒前まで愉快に次の獲物を待っていたのが、鳥にバケツをひっくり返され、釣り竿を落とし、全身ずぶぬれになり、サカナには逃げられた。海から上がってきた男は鳥に激怒するでもなく、狩りの失敗をぎゃははと笑うでもなく、ただ、考えることができなくなっていた。
ふと、鳥の頭に水滴が落ちてきた。見上げると空は押し潰してくるような重苦しい灰色で、次の瞬間には盛大に崩れ落ちた。大粒の雨が鋭く鳥と地面と男を叩く。男は慌てて麦わら帽子を拾い、突然の雨をしのぐために被ろうとしたが、既に水浸しであることを思い出したのだろう。帽子を放り投げ、馬鹿馬鹿しい、という風にぎゃははと笑った。
鳥は鳥で、雨をしのぐために飛び立った。激しさを増す雨は鳥を嬲り、雨を吸い込んだ羽は重かった。
この二日間、人間に関わったせいだ。明日帰ろう。そう、帰らねばならない。
鳥は夜空を見上げて、これまで長く生きておきながら、夜空を見上げたことは少なかったと気が付いた。雲がいなくなった空には、所狭しと星々がまき散らされていた。力強い星も、漁村にいたなら強い光にかき消されてしまう弱々しい星も、全てが見えた。
夜空の中心では、夜空を切り裂く一筋の輝く雲のように、より一層星々が密集していた。凪いだ海に写された星の雲は、見たこともない巨大なサカナか蛇のように、ゆらゆらと泳いでいた。
「あれがアルタイルだ」老人は左に座る少年に体を寄せ、夜空のわずかに東側に指を差した。
「あのひときわ大きい星が見えるだろう。あいつがわし座の中心だ」
老人の説明に、何だっけ、織姫様ってあの星? と言う少年は、小さい体を椅子に深く沈めて首をかしげた。老人は、それはこと座のベガだな、アルタイルは彦星様だ、としわがれた優しい声で教えた。
雨は日没には止み、空を覆っていた雲はどこか遠くへいなくなった。濡れた地面を見なければ、降っていたことすら分からない。
二人はキジの肉が入った鍋を平らげた後、夜空を見上げるためだけに、わざわざ漁村の南にある崖に来ていた。真下に海を望んで突き出た崖は、漁村の南端の家から三十分ほど歩いた、鳥にとっては五分もかからずに行ける場所にぽつんとあり、古びた木の長椅子が一つだけ置かれていた。椅子の隣にある看板はこの場所の景色の良さでも書いていたのだろうが、海抜十五メートルという文字以外の部分は、夜の暗さに関係なくかすれてしまって読めず、鳥にこの場所の時間の流れを感じさせた。鳥は崖と海の間に備えられた低い木の柵に留まり、長椅子の二人を左後ろから見ていた。さっき一度老人がこちらを見たが、鳥に興味がなさそうに少年と星空の話を続けた。銃を持っていない時は猟師ではないらしい。
「あの赤い星は?」少年は夜空の底を指す。確かにそこに煌々とした赤い星が目立っていた。
「あれか。あれはアンタレスって名前だ。さそりと言う毒虫がいるんだがな、そのさそり座の心臓だよ」
確かに、と鳥は思う。あの星の赤さは血にも似ていて、何十億年も生きてきた体をこれからも繋ぎとめようと、さそり座を構成する他の星に、懸命に血を送っている心臓に見えなくもない。鳥は、自分の心臓が動いていることに安心した。
「心ぞう?」少年は、空にも心ぞうがあるの? と自分の小さな胸の内側で動く心臓を見下ろした。
「いや、本物の心臓があるわけじゃない。俺が生まれるよりもずっと昔に生きていた暇人が、ちょうどアンタレスを心臓の位置にして、星を線で結んでさそりを描いたんだ」
「線描いて? へんな人だね」少年は顔も名前も声も知らない、さそり座の生みの親に思いを馳せるように言った。
「そいつの夜は寝る以外、星を見るぐらいしかやることがなかったんだろうな」老人はふっと息を漏らし、暇人め、と呟いて腰をかけ直した。
あ、と少年が小さく声を上げた。何を見つけたのかと少年の顔が向いている方向を追うと、空の底、例の心臓アンタレスの左で、一瞬にして光が流れ、消えた。流星だ。
「じいじ今の見た?」右を向いてはしゃいだ声を出す少年に、老人はまたふっと息を漏らして頬を緩めた。
「ああ見えたよ」
「もう一回見えるかな」
「今日は流星群が見られる日だから、同じ方向を見つめていればきっと見える。にしたって、久しぶりに見た」
「前に見たのは? いつ?」少年の質問に、老人は首をひねった。
「いつだったんだろうなあ。久しぶりだということだけ分かるんだが、いつだったかというと分からん」
「ぼくが生まれる前とか?」
「そうかもしれん、だいぶ前だ。うん。そうだな。猟師をしてると眠るのが早くなるからな。夜空を眺めることなんてなくなっちまうんだよ」
へえ、と興味があるのかないのか分からない調子で、少年はまた空に向き直った。
少ししてから老人は、ただ、と口を開いた。
「たまには空を見上げてみる方がいい」
「なんで?」
「見ることが無くなると、空についてのことを忘れてしまうからだ。あの雲が出たらもうじき雨が降るとか、星座の名前とか、そういうものを思い出せなくなる」
空じゃなくても、大体のことはそうだな、と老人は自分に聞かせるように呟いた。
「でも、星座はたくさん知ってたじゃん」
「たくさん見てきたからだ。何度も見れば頭に刷り込まれていくもんだ」
「じゃあ、あれが消える前に願い事を言うとかなうって知ってる?」少年は新しく覚えたことを自慢する子供らしく尋ねた。
馬鹿が。あいつに触られたら感染するだの、流星に願いを言えば叶うだの、お前らはそんなにそう思いたいか。
老人は、新しく覚えたものを自慢する子供よろしく尋ねる少年とは反対に、長らく会っていない友を思い出したような表情で、あぁ、と呟いた。
「そりゃあ知ってるよ。でもそれは嘘だな」老人は鳥の考えを代弁するつもりではなかっただろうが、あっさりと言った。
「え?」少年は自慢をあっさりと切り捨てられたことによほど衝撃を受けたらしく、顔を老人に向けたまま固まった。
「流星は俺たちから見れば綺麗だが、所詮は」
「所せんは?」
「星屑だ」
「星くず」少年は老人の言葉を鸚鵡返しにした。信じられないといった様子で固まっている。
「あいつらは名前も付かない星屑で、地球に落ちてきてるんだよ」
「いん石じゃないの? 落ちてこないの?」
「落ちてはこないさ。落ちてきたら隕石と言うんだが、星屑だからそんなことはない。あいつらは地面にぶつかるよりずっと前に空で燃え尽きて消えてしまう。そもそも流星が光っているのは燃えているからだしな」
少年は、え、え、と困惑し、「じゃあただの小石にお願いしても意味ないじゃんか」と嘆いた。どうせ消えちゃうんだし、とも言った。
「そうだ、願い事を言うこと自体に意味はない。その行動を最初にやった人間が、そう思いたい人間だっただけだ」そう思いたい。鳥と同じことを言う老人は、少年には無慈悲に見えたようで、食べたサカナが腐っていたから口直しに食べたリンゴも腐っていた、そんな渋い顔をした。
「ただ、そう思うことで救われる人間もいるから長い間そう言われ続けているんだ」老人は思慮深げにそう言ってから、自分自身に言い聞かせるように、まあ流星に限らず大抵のことはそうだわな、と低い声で呟いた。老人の背中の影がさっきより深く見えた。
「ぼくは救われるつもりだったのに」頬を膨らせて少年はそう言った。年に似合わない、半分真剣、半分おどけた言葉に鳥は思わず笑ってしまった。老人も少年がそんなことを言うとは思わなかったのか笑っていた。救われるつもり、とは随分と傲慢だ。
「願いが叶うなら、何を願うつもりだったんだ」
少年はうんうんと頭を揺らして、か細い声で「脚が速くなりたい」と言った。
老人はしばらく思案するように押し黙って、そうか、そうか、と大きく頷いた。
「良かったよ」
「何が?」
「お前が頑張れば、どうにかなるものだからだよ。願わないと叶わないものや、願っても叶わないものじゃない」
「どうにかなるの?」
「なるさ。たくさん食べて、たくさん走るんだ。今すぐ速くはなれないが、いつかは誰にも負けなくなる」
「なるかなあ」少年はうつむいて、短い脚を揺らした。俺はそう思うよ、と言う老人が見つめる先で、また星が流れた。
「じいじは何をお願いするの?」
「俺か。俺は、願っても叶わないからな。強いてお前の健康だよ」願っても叶わない、と言った時、老人の声はやけに低かった。
「若くなりたいとか?」
「ああ、そうだな。そんなもんだよ」
「そういえば、倉庫に入ったことはまだなかったか」
少年は神妙に頷く。なんのこっちゃ、と言いたげに老人を見つめた。
「あの中に望遠鏡が入っていて、若い時はたまに星を見ていたんだ。星座の名前もその時覚えた。家が建って倉庫にしまってから触っていないから、もう四十年近く前か」
「今日持ってくればよかったのに」少年が言うと、老人はわざとらしく腕を組んで、ううん、と唸った。
「高い買い物だったが、四十年物だからな。倉庫にあったことを思い出したのが今日だったし、さすがに使えんだろうと思ってやめにしたんだ。悪かった」
「じゃあ、明日は望遠鏡使いたい」
「明日? 明日か。分かったよ」老人は微笑んだ。
「明日の猟は早めに帰るから、使えるようなら綺麗に磨いといてやる。あとは、星座の本が俺の部屋にあるから、そいつもほこりを払って持ってきてやる」
少年は念を押すようにはっきりと、約束だよ、と言った。
老人が、明日も早いからもう帰るぞ、と言って腰を上げた。慌てて少年はつられるように、深く座っていたため頭を振って、勢いをつけて立ち上がった。
老人の顔が鳥に向いた。表情ははっきりとは見えなかったが、鳥とじっと目を合わせてすぐに、興味を失ったように少年の手を引いて通り過ぎて行った。
「明日の朝は何?」
老人は鍵を取り出して答えた。
「明日も快晴だからな。冷や麦にしよう。ババアがスイカのついでに押し付けてきやがった」
少年は、ババアって言わないで、と膨れた。
「俺も嫌いってわけじゃないんだ。嫌いじゃないんだがなあ、あいつは孫がいなくて、お前を可愛がることにかけては俺の次だからな。スイカも冷や麦も量が多いんだよ」
「たくさん持ってきたの?」
「要らんと言ったんだが、小さい子は無条件に可愛いとか言って、無駄にな」
「僕もう小さくないよ」
一人で風呂に入れるようになったらな、と言って老人が開けた扉が軋んだ音を立てて閉まり、しばらくすると明かりが消えた。鳥は椿の生け垣が、二人の、明日には一人になる家を堅牢に支え、同時に穏やかに包み込む姿を眺め、そこを後にした。
少年を初めて見た公園のヒバの木に留まった。さっきほどではなくても星空の輝きは頭上を覆い、白い巨大なサカナが、小魚の群れを襲うような圧迫感があった。
俺の願いは何だろうな。馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しい。
だが、そうだな。できるものなら死ぬ前に、あの老人と話がしたい。
鳥は、全身に血を送り続ける自身の心臓の鼓動に安心感を覚え、溜まった疲れに誘われて、早くに眠りに落ちていった。
次の日も鳥は目を覚ました。空は、朝日を迎える準備を終える頃の濃紺だった。
鳥は太陽を背後に飛び立ち、その途中であっけなく死んだ。
銃弾は、鳥が痛みを覚える間さえも与えず、心臓を貫いた。
視界の端に現れたでいだらぼっちは、鳥をじっと見ていた。
鳥の頭には、昨日の夜二人と見た流星の景色が流れていた。
ああ冷たい。なあ老人よ。俺はあの星空の一つになるのだ。
星屑は空で燃え尽きるように、鳥の意識は空中で途切れた。
死体は直後に地面に落ちて、でいだらぼっちは再び消えた。
老人は銃を肩に掛け直し、今日一番目の獲物へ歩き出した。
流星と星屑