ノイズ
自分の想像をどこまで広げられるか…という自分との戦いをする為に作りました。ということで、とても読みづらいです。ごめんなさい。
それでも面白がって読んでくれるなら嬉しいです。
あなたは画面を見ている。ノイズが掛かったブラウン管テレビの画面を見ている。ただ、見ている。そこには何も映っていないのに、あなたはぼぅっとそれを見ている。あるいはじぃっと、食い入るように見つめている。時々まばたきをしながら、見ている。
10秒が経った。画面は依然、ノイズにまみれてそれ以外は映らない。目の前を大量の蚊が飛び交うように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。やけに白と黒が点滅して、ブツブツとうるさいブラウン管テレビの画面を見ている。ただ、見ている。そこにはモノクロになった砂粒のようなもの以外、何も映っていないのに、あなたは飽きずにそれを見ている。まるで何かに取り憑かれたかのように、ずっと見つめている。時々まばたきをしながら、そこに映る何かを見逃すまいとして、かじりつくように見ている。
60秒が経った。画面は依然、砂にまみれてそれ以外は映らない。目の前を大量の蚊が飛び交うように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。目の粗いやすりで削った石のようにざらざらとして、やたらと眩しく光るブラウン管テレビの画面を見ている。ただ、見ている。そこには無彩色の砂漠が延々と続き、歩けど歩けど砂漠以外は何も映っていないのに、あなたは顔を背けずにそれを見ている。あたかも目が画面に縫い付けられてしまったかのように、じぃっと見つめている。時々まばたきをしながら、いつかそこに何かが映ると信じ込んでいるかのように、熱心に見ている。
3600秒が経った。画面は依然、砂漠が広がりそれ以外は映らない。目の前を砂ぼこりが舞っていくかのように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。黒い点々を異様な程に明るい光が覆っている…あるいはその逆…白い点々を異様な程に暗い闇が覆っている、ブラウン管テレビの画面を見ている。そこは科学技術によって生まれた微妙な芸術作品で満たされ、それ以外は何も映っていないのに、あなたは夢でも見ているかのような目つきで見ている。相変わらずぶつぶつとうるさい画面の中の芸術を、ぼぅっと見つめている。時々まばたきをしながら、絶えず変わっていく白と黒の芸術を目に焼き付けるように、ギラギラとした視線で見ている。
86400秒が経った。画面は依然、科学技術と芸術の融合体のような世界を見出し、それ以外は映らない。目の前をスプレー上のインクが飛び散るかのように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。白と黒のインクないし染料ないし光が混じることなく、水と油のようにぐるぐると混ざり合っていく、パレットと化したブラウン管テレビの画面を見ている。
…いや、本当は実際に映像が流れているのかもしれない、とふと思いつく。あなたはノイズなど見ておらず、実際は水と油がぐるぐると交わり続ける映像を見ている。微妙な芸術作品がそこに現れては消え、消えては現れていくのを、ただ黙って、魅了されたように見ている。その光景はあなたの意思とは関係無しに断続的に流れ続け、あなたはそれに文句一つ付けず延々と見ている。ある時にはどす黒くパレットを汚し、またある時にはスランプのような空白だけが続く代わり映えの無い映像を、あなたは思考を放棄した時と同じ表情で見ている。
やはりぶつぶつと耳鳴りのようにうるさいが、あなたはそれには気付いていない…もしくは気付いた上で気になることは無く、平然と無視を決め込んでいる。あるいは既に慣れてしまったのか。聴覚が欠落しているのか。いずれにせよ、あなたはあなたの鼓膜を震わす唯一の音に、一切の関心を抱かず、視覚にばかり神経を集中させている。水と油のように混ざり合わないパレットと、それらを使って描かれる芸術の世界へと没頭している。まるでそれだけがあなたの全てであるかのように、あなたは一人、果てしなく続く映像の世界をただひたすら見ている。時々まばたきをしながら、白と黒だけで構成されたパレット上の芸術作品を忘れまいとするように、じっと動かずに見ている。
172800秒が経った。画面は依然、水と油のように相容れない白と黒が、芸術とも落書きとも受け取れない世界を作り出し、それ以外は映らない。目の前をそれぞれのしぶきが飛び散るように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。黒いアスファルトに生じた水溜まりの上を大粒の雨が降り注ぎ、波紋が濡れた地面へ地面へと広がっていく様を放送し始めた、ブラウン管テレビの画面を見ている。
ただ、見ている。…………はずだ。あなたは雨の降りしきる凸凹な地面を、何も考えず、特別これといった深い理由も無しに見ている。たまに人が通るのか、水が反射する陰がチラチラと動き回り、天空からのものではない滴が跳ねて溶けていくだけの様子を、あなたは死んだ魚の目つきで見ている。“ただ見ている”とは、そういうことだ。
雨の勢いはまるで一定であり、強くもならなければ弱くもならない。大雨とも小雨とも言えない中間の激しさを保った雨が、白と黒のアスファルトの町を穿ち続けている。限りなく灰へと濁った青空を映す水溜まりと、辛うじて夜でないと判別できる周囲の明るさに、雨は亀裂を生むかのごとく滑らかに落ち続けている。または打ち上げられたロケットが果ての無い深淵へと消えていくように、雨は逆さまの世界を高速に上昇して宇宙の真理へと辿り着く前に頑強な天井に突き当たり砕けていく。砕けた先で何が待っているのかをあなたは知らないが、地面を穿った…または天井に砕けた幾億もの雨粒は、そうして真っ黒いアスファルトへと浸み込み、この過程を永遠に繰り返している。ひどく冷たげな輝きを湛えた街を、ただどうにも出来ずに鋭い身体で叩きつけている。
音にはわずかな意味が生まれ、やがては知らず知らずのうちにそこに付加されている。「雨音」というノイズがそこに付加され、ブラウン管テレビから絶えずそれが漏れ出ている。そしてやはりあなたはそのことに気付かない。あるいは気付いてこそいるが、画面が映し出す雨に溺れた白と黒の町を監視するのを使命とするかのように、まるでそれ以外の五感は無意味だと言うかのように、さらさらやぽたぽたといった画面から絶え間なく流れ出る音をそのまま右から左へと流し続けている。あなたはひたすら視覚だけを頼りとして、何も起こらない日常的な雨の世界を、あたかもそこの住人になったかの如く、どんな変化も起こさないで食い入るように見つめている。そうして外部からの干渉も何も無く画面の向こう側で降りしきる雨もまた…雨に延々と穿ち削られていくだけのアスファルトの町もまた、あなたと同じように変化を起こす素振りも無く、ただそれぞれの過程や存在を続けている。それは消極的と呼ぶにはあまりに無機質であり、どちらかといえば無気力や倦怠感などと呼ばれるものであると言えよう。そして無意味な場面を幾度となく繰り返すその様は、まさしく狂気に近しい何かも孕んでいるのではないだろうか。
あなたはまだ画面を見ている。大粒の雨が何度もそこだけビデオで再生され続けるようにアスファルトへ打ちつけられ、血のように水溜まりが広がっていき、やがてはそういった真っ黒な水にその町が侵食され溺れ圧迫されていくのを…その中に魅惑的なものでも見つけたように、じぃっと見ている。真剣なような、それでいて怠惰なような無表情で、だらだらと流れ続けるゾンビ小説のような光景をいつまでも見ている。恐らく無意味で無価値なことだと分かっていながら、あなたはそれでもやめられずに見ている。そして一種の洗脳のようなものを、薄っすらとそこに感じ取っている。
604800秒が経った。画面は依然、白くて細い針のような…見るからに攻撃的な雨に打たれ続け、それに抵抗も無く受動的に延々と存在する黒いアスファルトの町を傍観し、それ以外は映らない。目の前を削られた石のカスが舞い落ちるように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。どこを見ても、どこまで行っても白と黒の砂漠しか見当たらず、そんな無数の砂粒が太陽光を反射してやけに眩しく光るブラウン管テレビの画面を見ている。
それは以前あなたが見た光景とほとんど同じではあるが、最早その時と受ける視覚的な印象は全く別のものになっている。白と黒がひどく点滅し、歩けど歩けど無彩色な砂の海…確かにあなたの見える光景は同じだが、今やその景色もはっきりと明瞭になり、わずかながら色彩がそこに付け足されているのだ。それは上手くチャンネルを合わせられたということだろうか。あなたはそれについて知る由も無く、知ろうともしないが、恐らくはあなたがそれについて考えた時にそういった結論へと至るのだろう。チャンネルを上手く合わせられればその分ノイズは消失し、より鮮明な映像が映る。それは今のあなたにとってはどうでも良いことであり、実際にはあなたはこれまで一度もチャンネルを合わせようとテレビを弄ったことは無い。それでも画面がはっきりとし出しているのは、ブラウン管テレビがひとりでにチャンネルを切り替えているからだ。それはつまり、そのテレビ自身が意志を持っているということに他ならないのだが、やはりあなたは画面以外に興味を示さず、砂ぼこりの舞う白と黒の…今では少量の色彩が追加された世界を、吸い込まれるように見ている。
あなたは何も考えず、どこまでも続く砂漠の世界を見ている。それは雨の町とは違って人っ子一人存在せず、したがって足跡も一つとして存在せず、まっさらな小丘だけが凸凹と続いている世界だ。あなたはそこに砂漠の生物を見出そうとするかのように熱心に観察し、身じろぎ一つせずまるで石になったように画面の前に居座り続けている。やたらと眩しいブルーライトとやらには既に慣れているのか、それとも今見ている世界が外の世界だと認識し、窓の外を眺めていると考えているのか、あなたは画面の光に目を細めることも無く、平然とした様子でカラカラに乾いた砂の世界を見ている。もしも後者の仮説が正しいのであれば、あなたはやがて画面の向こう側へ…つまり、明るい日差しの世界へ行けると確信して、画面に手を触れるなり頭を突っ込むなり、色々と試し始めるに違いない。しかしあなたは未だそれをしないので、まだ現実と虚構との区別がついているということなのだろう。あなたはただ画面を見続けている。
あるいは意識自体を画面の向こう側へ飛ばしているのだろうか。自身の身体を置いてけぼりにして、画面の向こう側に広がる白黒…プラスαの世界へ、精神だけが入り込んだ状態になっている、と? …あなたは知らず知らずのうちに、身と心を乖離させる技術を手に入れたということだろうか。しかしそれであれば結局のところ、精神を切り離して見るその先もまたあなたの作り上げた“画面の向こうの世界”であり、実際には画面に頭を突っ込むことと何ら変わりないことをしているのではないか。あなたはそれに気付いているだろうか。
砂漠は相も変わらず、カメラのレンズに砂粒が当たるようなぶつぶつという汚い音を奏でている。そしてそれはあなたに少なからず影響を与えているようだ。あなたは雨の町からこの世界へ移る時に、初めて音が変わるのを感じ取ったのだろうか。今までは視覚にばかり集中していたあなたは、今では聴覚にも意識を傾けるようになっている。これはあなたにとっての大きな一歩であるのだろう。今までのあなたは五感の内の100パーセントを視覚で埋めていたが、短くも長い時間を経て、そのうちの10パーセントは聴覚で占めるようになっている…それがいわゆる“進化”というものであり、あなたは目だけの生物から目と耳の生物へと生まれ変わったということだ。あなた自身も気付かない一瞬の…画面が映し出すチャンネルが別のチャンネルへと移り変わった、その一瞬のうちに。それがあなたにとって良いことであるのか悪いことであるのか、その真偽が定かになることは決して無いだろうが、とまれそれはやはり現在のあなたにとって、それほど重要なことでは無いはずだ。ぶつぶつとした汚い音も、あなたはただそこに“ある”と認識しているだけであって、あなた自身が特別気にする素振りは全く見えないのだから。
だからこそ、あなたはある意味では何も変わっていないのかもしれない。約10パーセントの聴覚を得たとはいえ、あなたは依然音を忘れて画面を見続け、そこに映る砂漠の世界に意識を奪わせることであなた自身の存在を自覚している。あなたはもはや画面と切っても切り離せない状態になっており、あなたが呼吸をすることでそのブラウン管テレビも呼吸をしているのだと…あなたが成長することでそのブラウン管テレビも成長しているのだと、そういった錯覚に囚われる。
あなたはまだ画面を見ている。何もかもが砂で作られて、人の気配どころか生命全体の気配がしない…恐らくオアシスすらも存在しない、この世界自体が屍となった景色を見ている。そうして屍となった土地の上に、地層のように砂ぼこりが幾層も積み重なって膨れていき、埋もれ、窒息していく画面の向こうの世界を…そこをただ一人で佇んでいる切り離されたあなた自身を、あなたは魂が抜けてしまった時のように、ぼぅっと見ている。結局のところはこれが無意味で無価値なことだと分かっていながら、あなたはそれでもやめられずに…目を逸らせば死ぬのだという強迫観念に囚われているかのように、ずっと見ている。ただし、そこには一種の虚無感以外は何も無いことを、あなたは知っている…はずだ。
2678400秒が経った。画面は依然、出口も生命体も見つからず全方位が砂に囲まれたブラウン管テレビの視界を…延々と続いている白と黒とプラスαが蔓延り広がっていく世界をあなたに見せ続け、それ以外は映らない。目の前を光を乱反射する砂粒達が舞い上がって叩きつけられるように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。白と黒とその他の濁った有彩色で構成され、それらが水と油のように混ざることなく渦を成していく、効率的に非効率化されたような芸術作品達の墓場となったブラウン管テレビの画面を見ている。
今やこの光景は、あなたの見る世界の中では常套と化している。ブラウン管テレビが自動的にチャンネルを切り替えていく時、あなたはこの移ろいに一つの周期を見出し、その一部分として芸術的墓場の世界が存在していることを知っている。何十回、何百回と見ているうちにあなたは気付いている。そして気付いたからと言って特にどうすることもせず、ただ他人事のように見ている。実際、他人事なのかもしれない、とあなたは考えている。画面が示す一つ一つの厭世的で、閑散として、悠久のように続く空間はあなたにとっての他人事であり、あなたは目を逸らしたとしても消えることは無く、これからも永遠に続いていくのだろう、と。しかし、本当はそうではないとも思っている。画面の向こうの世界は偽物であり本物である、または虚構であり現実である、または嘘であり本当である、または幻であり物質である、または他人であり自分である。こういった二律背反があなたの中では白と黒のように螺旋を描いており、あなたの脳の中で無意識が存在する領域に現在進行形で…あなた自身もほとんど認知不可能な形で、深く奥底に刻み込まれている。
あなたはこの芸術作品が展示された世界の中にいる。画面を見ているのか、はたまたその向こうで作品を見ているのか区別がつかないあなたは、自分の身が確かに、美術館と化したブラウン管テレビの世界に置かれているのだと、半ば盲信的に信じている。そうしてもはや画面に頭を突っ込むことよりも狂気へと陥っているあなたは、あなた自身の五感が信用できないものへと成り下がっている事実に気付くことは無い。おそらく、これからも気付くことは無いだろう。または気付いたとして、あなたにはそれをどうにかする権利は残っていないだろう。ブラウン管テレビはあなたから独立して存在しており、その画面の向こうに映し出される光景もまた、あなたから独立して存在しているはずだ。仮にこの世界の全てが幻覚だったとしても、あなたの脳が認識できるのはあなたが見ていると信じたものだけであって、それはつまりあなたが幻覚を幻覚だと気付いても認められず、結局幻覚を見続けていくことに変わりは無い。よって、あなたにとっての美術的価値を飾ったこの世界は、あなたが今いる場所であると言える。あなたは自分が画面を見ているのか、以前より色彩が生まれた画面の奥の美術館にいるのかを何も分かっていない。
もしかしたら、本当にあなたはその世界に存在しているのではないだろうか。あなたは画面を見ているが、それと同時に画面の世界に存在している。全く同じ物質が同じ世界に同時に存在することは不可能だが、それぞれ別々の世界に同時に存在することは可能であるとすれば、まさに今のあなたの状況を否定することは出来ないはずだ。あなたは画面の前でじぃっと画面を見続けており、それと同時に画面の向こうで美術品の鑑賞を行っている。こうしてあなたは、チャンネルが切り替わったその先でも存在し続けることが出来るし、どちらのあなたも消失することは無い。あなたが画面を見ている限り、あなたは世界の中に有り続けるのだ。
このようにして異世界での生存権を獲得したあなたは、以前美術作品の墓場を歩き回り続ける。あなたの目の前の世界はあなたでありあなたではないのだから、それは永遠に奥へと広がっていても何も不思議ではない。あなたはブラウン管テレビの画面を見、内容が何も表記されていないような白と黒とその他の色彩だけの作品達を見ている。ただ、見ている。そして、ただ見ているだけだから、いつしか続く画廊の世界がループしていることにあなたは気付かない。もしくは、あなたの見ているこの景色があなたにとって見飽きることの無い代物だから、あなたは気付かないふりをしているのかもしれない。いずれにせよ、ブラウン管テレビの描く世界には限界があり、あなたが認識できる世界にも限界があり、その限界によって、あなたの視界を支配するこの美術館は、延々と続く円環のような無限ループに陥っている。しかし、その事実はあなたにとっての問題外らしく、あなたは一度も気に掛ける素振りを見せない。やがてチャンネルが切り替わり、また別の輪へ…つまり、砂漠や雨の降る街といった世界へ移動するまで、あなたは無機質に、白と黒とその他αの色彩を持つ美術作品を眺め続けている。
ふと、考える。無限の反対とは? 永遠の反対とは? あなたはずっと画面を見ている。または画面の向こうの世界を彷徨している。果たしてそれが途絶えることはあるのだろうか。つまるところ、あなたに終わりは来るのだろうか。あなたは画面の世界に頭を突っ込み、画面を割り、このブラウン管テレビから独立して存在することが出来るのだろうか。そして無限を終えたその先に、何が待っているのか…それらの答えを、おそらくあなたは持っていない。誰も知らないはずだ。あなたがそれを想像しようとしたところで、それは途方も無いことであることは分かりきっているし、もしかしたら、画面と一心同体であるあなたは、画面から独立した途端に消滅してしまうのかもしれない。消えることは誰にとっても…もちろんあなたにとっても恐ろしいことであるから、きっとあなたが無限のアントニムを実際に行う可能性はゼロに等しいのだろう。問題は依然として解決していないが、おそらくは…いや、絶対にそうであるに違いない。だからこの疑問は、まだ考えるべきではないのかもしれない。あなたは永遠に画面を見続けるべきである。
そうして無限にループする美術館を見続けているうちに、あなたはぶつぶつという音に色が付加されていることに気付く。それは雨音のようなものではなく、打楽器のような…もしくは鍵盤楽器のような、物質を弾く音である。小太鼓か、大太鼓か…いや、ドラム、スピーカーから出る雑音…鉄琴かもしれないし、ピアノかもしれない。とにもかくにも、あなたにとってそれは新鮮なことであり、これまでのどの音からも考えつかないような音色をしている為に、あなたは非常に驚いている。そしてそれが、あなたが聴覚を手に入れてから初めて明確に音を意識した瞬間だろう。それは綺麗な音色とは言えないまでも、少なくともあなたには決定的な影響を与えているように感じられる。いや、与えているはずだ。あなたは視覚から得られる色と共に、聴覚から得られる色を、今この瞬間に知っている。それはあなたの二回目の大躍進であり、あなたがブラウン管テレビの世界に順応している何よりの証拠となるはずだ。
または、あなたが画面から離れられない一つの理由かもしれない。今も、そしてこれからもあなたは画面の中の景色、音色が一種の見えない鎖と化して何重にも交差する世界に囚われ、それを気付かないうちに受け入れ存在していくのかもしれない。あなたは「見る」ことと「聴く」ことしか知らないのだから、その他の五感…嗅覚、味覚、触覚を知らないままにして、繰り返す画面の世界を同じように繰り返し続けるのだ。ニオイや温度の無い画面の世界において、それは必然的に帰結する推測だろう。あなたは今も、そしてこれからもニオイや温度を認知することなく時間だけを消費していく。その事実は変わることは無い。変える必要も無いはずだ。あなたはそれで満足しているのだから。またはその事実があなたの世界に影響を与えるとは考えづらいし、あなたはそんな事実を考えたことも無いだろうから。
そうしてまだあなたは画面を見ている。もはや画面の前のあなたと画面の向こうのあなた…どちらの方が現実で、どちらの方が幻なのか、あなたには区別がつかないことだろう。
31536000秒が経った。画面は依然、白と黒とその他の濁った有彩色で構成され、それらがマーブル模様のように混ざり合う、あなたのあなたによるあなたの為の芸術作品達が飾られた、無限に続く画廊を映し出し、それ以外は映らない。目の前を大量のインクが飛び散り霧散していくように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
あなたは画面を見ている。黒光りするアスファルトの大きな凹みに形成されていく水溜まりの上を、大量の水分子が水素結合して構成された大粒の雨が降り注ぎ、そこから生じた波紋が、ゆっくりと水没していく街の地面へと広がり、浸み込んでいく様を映し続けるブラウン管テレビの画面を見ている。
またこの映像だ、とあなたは思っているかもしれない。移り変わっていくチャンネルの中であなたは数えきれないぐらいこの世界を見ているし、そして今もまた見ている。あなたは延々と続く景色に若干飽きてきており、しかしそれでも画面を見続けなければならないと信じているから、画面を見ている。ブラウン管テレビの気の向くままに、あるいはあなたが思い込むままに、それはずっと繰り返されている。見飽きた雨降る街と、聴き飽きた雨のアスファルトに激突して下へと浸透していく音色を。頭の中がそれらで飽和されてもまだ何かあるのではないかと勘繰り、あなたは意識を画面の向こうのあなた自身へと集中させている。そこに何らかの意味はあるのだと信じている。そういったあなたの姿は時に滑稽なようにも映るかもしれないが、あなたは蓋し真面目であり、誰もが笑うべきでないことは確かなはずだ。あなたは確実に、しっかりとした意思を持って、つまりあなた自身が見るべきだと固く信じて、虚無の広がる殺伐とした雨降る町並みを見ている。
宇宙でも見ているのだろうか。ふと、そういった疑問が湧く。あなたが見続けているのはブラウン管テレビの画面ではなく、色も光も何も無い宇宙…果てしなく続く虚空…またはヴォイドと呼ばれるような世界であって、あなたはそこで際限の無い時間に囚われ、際限の無い空想に取り憑かれているだけでは無いだろうか。しかしあなたの想像力には限界があるから、いつまでもブラウン管テレビの世界をループし続けているのではないだろうか。つまるところ、あなたの世界に終わりは無く、あなた自身にも終わりは無く、今も、そしてこれからも、あなたはブラウン管テレビの画面を見続けるし、画面の前のあなたと画面の中のあなたは同時に存在し続けるのだろう。…ただし、この考えこそ一種の妄想であり、あなたはやはり変わらずに画面を見ている。ただ、それだけだ。
そして色がある。そこに、赤や緑といった鮮烈な色が。それはもちろんあなたのいる画面の世界の話であり、あなたはこの事実に気付いていない。それはゆっくりと、長い時間を掛けて起こった過去の現象だからであり、あなたは現在から過去を振り返ることを知らないからだ。だが実際に明瞭な色はそこにあり、あなたは色に溢れている雨の町を見ている。もはや白と黒の世界はどこにも無く、あなたは地面や建築物や空や雨や水溜まりや水溜まりに映った景色や流れゆく人々がはっきりと彩られた世界を、感動も何も無しに延々と眺めている。ただ、見ている。気が付けば他人事ではない沈みゆく世界を、何も出来ずに、それでも他人事であり続けようと非情な様子で、ずぅっと見ている。あなたはこの世界の住人であり、住人ではないのだから、当然のことだろう。そこに終わりを求めるべきではないし、終わりを求めるべきである。
あなたは画面を見ている。ただ、見ている…わけではない。この期に及んで何の情緒も得ずに画面の世界を見続けることなどあなたには不可能なはずであり、したがって今のあなたは雨が降り続ける町を何かしらの感情を伴って見ているのである。その上であなたは、どうあがこうとこの町を無限の輪から外せないことを知って諦めており、何もせずに画面の世界を見ている。あなたはあなたが傍観者であることを知っているから、無干渉を貫き画面を見続ける。だからこそ、ただ見ている。あなたは…画面の向こうで存在するあなたは、雨の町同様の一種の倦怠感に身を包まれ、身動き一つできずに悠久と続く世界を見ている。そうして正気を保ち続けている。もはやあなたにはそれしか出来ない。この世界があなたにとっての凄惨な場面であるとしても、見飽きたものであるとしても、あなたはこの世界において目を背ける術を知らない。ゆえに無限にループするチャンネル達に対してあなたには何の決定権も無く、自由にこの世界の行き着く先を変える…もしくはチャンネルを変える権利も無い。あなたは今も、そしてこれからも延々と続くブラウン管テレビの中の映像を見ていくのだ。
やがてそこにわずかな「焦り」を見出したことに、あなたは気付かない。それは溺れゆく運命だと分かっていながらなにも為すことの出来ないことへの焦りか、延々と繰り返し終わることの無い時間そのもへの焦りか、もしくはどちらもひっくるめての焦りか。いずれにせよ、あなたが知ることは無い。おそらく、これから先もあなたは知らないままでいるはずだ。これから先に起こり得る急激な変化は誰も…もちろんあなたも望んではいないはずなのだから。
あるいはこの全てがあなたの形而上にある側面から生み出されたあなたの錯覚であり、あなたが感じることの出来る五感は根本から間違っているとは言えないだろうか。あなたは始めから今まで幻を見ているだけであり、いうなればそれはあなたの持つ第六感というものではないだろうか。その可能性は常に小数点が付きまとうようなごくわずかなパーセントでしか表せないなのかもしれないが、それでもそれについて考察する余地は十分あるように思う。ただし、あなたがこうした思考に辿り着くのは現在よりもさらに先のことで、もしかしたらその思考にすら行き着かないのかもしれないが。とにもかくにも、あなたは画面を見ている。画面だけを見ている。そしてあなたは焦っている。これまでの時間が全て水泡に帰す時が来るのを恐れ、それから逃避を図ろうとするかのように画面を見続けている。あなたは焦っている。そこにはやはり、一種の無気力や怠惰が存在することをあなたは察し始めている。
ふと、雨の音が強くなったようだとあなたは気付く。画面から響くノイズが激しくなった、と。ただし気付いたところであなたにはどうしようもないことなので、あなたは気付かないふりをする。もしくは無関心、無干渉でこの問題を放置する。実際、雨音もしくはノイズが激しさを増したことは、あなたにとって大した問題ではない…はずだ。むしろ、それはあなたの聴覚が十分に機能している証となるわけであり、画面の向こうのあなたが実際に存在していることの証でもある。だからあなたはぶつぶつとしたノイズを気にすることは無い。気にしてはならない。あなたは変わらず永遠に画面を見続け、または無限に繰り返す世界を見続け、または地面と衝突する水の音…アスファルトの下の方へと流れる水の音に耳を澄まし続けるだけだ。ただそれだけであり、あなたがどうにかする必要は無い。そうして、あなたはまだ画面を見ている。じぃっと、乾いた目で見ている。
そのうちにあなたは人の声を聞く。一人、二人、三人、四人…数えれば終わらないほどのそれらは、あなたの目の前には存在せず、唯一、水溜まりが反射する光の中にだけ存在している。水溜まりの中だから、それらは歪んでいる。もしくは歪んでいく。雨粒に打たれ、アスファルトの凹凸に絶えず変形させられ、おそらく吹いている風にかき回され、歪んでいく。そんなそれらをあなたは知らない。人の声はすれど、こういった現象はあなたが見てきた世界の中では初のことである。水溜まりの向こうの歪んだ世界はとても不明瞭であり、それら一人一人が何を話しているのかもあなたは聞き取れないが、あなたは…画面の向こうのあなたは、じぃっと水溜まりの向こうの世界を見ている。
この世界に行けば、無限の輪から脱出することは出来るだろうか。…おそらく、あなたはそう考えている。画面の前のあなたの精神を切り離して画面の世界へと移ったように、画面の向こうのあなたの精神を切り離して水溜まりの世界へと移ることは出来ないだろうか、と。だからあなたは画面を見ている。画面の向こうのあなたは水溜まりを見ている。水溜まりが反射する光の粒子達を見ている。無数の声がする歪んだ喧騒の世界を見ている。もはや雨の音は止み、再びただの雑音ばかりが鼓膜を揺らし続ける。再びあなたは目だけの生物となっている。それでも構わない、とあなたは考えている。見飽きた世界はもう必要無い、と。知らない世界を知りたい、と。
あなたは画面を見ている。あなたは水溜まりを見ている。あなたは歪む世界を見ている。あなたは歪んで散り散りになった世界を見ている。あなたは粉々になった世界を見ている。あなたはノイズを見ている。あなたはブラウン管テレビの画面を見ている。少なくとも、あなたはそう思い込んでいる。喧騒はやがて雨音と混じり合い、ぶつぶつとうるさい耳鳴りのように響いている。
3155760000秒が経った。画面はとうとう、あなたが望む世界を映すようになったはずだ。そしてあなたはチャンネルの操作権を得た。あなたは自由に画面のチャンネルを変えられるようになった。しかし、あなたはそれに満足したのかチャンネルを変えようとはしない。画面の向こうで画面を見続けるあなたを見続ける。あなたは気付いていない。あなたは未だ、無限の輪を脱していないことに。あなたはまだ、気付くべきではない。
あなたは画面を見ている。ノイズが掛かったブラウン管テレビの画面を見ている。ただ、見ている。そこには何も映っていないのに、あなたはぼぅっとそれを見ている。あるいはじぃっと、食い入るように見つめている。時々まばたきをしながら、見ている。
10秒が経った。画面は依然、ノイズにまみれてそれ以外は映らない。目の前を大量の蚊が飛び交うように、ざらざらとした雑音を伴って、単調なモノトーンだけがそこに広がっている。
ノイズ
ここまで見たところで、私はチャンネルを変えた。
おそらく、あなたは私と同じ光景、思考を辿ることになるだろう。…全てのあなた…あるいは私が、これまでずっと見続けている誰かの幻でないのなら。