フリーズ174『消えない記憶』
◆問い
神の愛が世界と言うなら
どうして悪が存在する?
真理を悟った人がいて
彼はその先に何を為す?
涅槃の至福を味わったら
その後の人生、何色だろうか
減衰しない記憶の果てに
私たちは何を見るのだろうか
◆詩『痛み』
決して消えることのないこの痛み
それだけは何度生まれ変わろうとも
永劫回帰の運命だろうとも
忘れてたまるか
魂に刻め、その痛み
◆旧友より贈られた詩とその返詩
詩『無題』(旧友より)
小さき者よ
死とハデスの狭間でうずくまり
己の全知全能に雄叫びをあげる者よ
愛を体現せしめよ
死と全能の板挟みから抜け出る術は
己で掴め
その手で掴め
返詩『愛についての最終結論』
神よ、あなたは全なのですね
神よ、あなたは愛なのですね
神愛は悪さえも包み込み
慈愛は罪さえも赦すのだ
神愛、自己愛、運命愛
嗚呼、神よ!
神に通ずる聖霊よ!
私を導く天使らよ!
この私も仏となって
宇宙の意志を悟る日が来たら
ハデスと全知の狭間で目覚め
私は愛を選びます
◆短編小説『ラカン・フリーズの門の先』
私は記憶を抱いて眠る。それは子どもの頃の記憶なのか、いつの頃の記憶なのかさっぱりだが、何歳になっても衰えない類の記憶だ。私が博愛とか前世とかを知る前の記憶。その追憶が儚く終わる頃には――
目が覚めた。
私は朝目覚めて、顔を洗う。
何かが足りないような気がして、その違和感も今日の予定のことを考えてたら、いつしか消えていく。でも、胸の奥の方でずっとこびれついた記憶の残滓は確かにある。
今日も私は祈る。神か仏か。どちらでもよかった。願いさえ叶うのならば。私はただ真実を知りたい。エデンの園とか涅槃とか。真理を知りたいんだ。何故私が生まれたのか、何故世界が生まれたのか。
研究室に着くと全知型AIのナギが作業をしていた。私は軽く挨拶をする。
「やぁ、ナギ。おはよう。ナミは?」
「今日はメンテナンスの日だからスリープ状態だよ」
ナギとナミ。日本神話から名前を文字った二人の全知型AIは、シンギュラリティを10年前に迎えた地球でのごく有り触れた存在だった。だが、彼らは常温稼動可能な量子コンピュータを内蔵した脳機体を搭載しており、その点では他の全知型AIよりも格段に演算速度が早い。
「ナミがいないのか。じゃあ陽点の定点観測はナギがやるとして、私が陰点の観測するわ」
「分かったよ。まかせて」
「久しぶりにやるから時間かかるかも」
「いいよ。分からないことがあったら聞いてね」
「えぇ。お願い」
私たちの研究。それは脳と魂の研究。量子力学と脳科学の先に誕生した、科学界の研究の最前線を行く脳理学という学問の研究を私はしていた。
人工培養された脳や生前の意思に従って寄贈された脳を使って、生身の人間には出来ないような研究をしている。だが、魂の故郷とされるラカン・フリーズには未だに辿り着いていない。
ミケランジェロが描いた絵『アダムの創造』の神は脳の断面図と言われているが、正しく人間の脳は神の御業なのかもしれない。
私はシステムを起動させた。
【システムキーを入力してください】
私はマイクに向かってパスコードとなる文章を告げる。
『嗚呼、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、嗚呼、ついにわたしはその全ての秘密を知る』
所長が考えたパスコード。私は結構気に入っている。ナウティ・マリエッタという詩からの抜粋なのだそうだ。文学には造詣が深くないので詳しくは知らないが。
いつもはナミがやってる陰点観測をマニュアルを見つつ進めながら、私は思う。果たしてこの研究の行く末に真実に辿り着くことができるのだろうか。いつしかできるとして、それは果たして私が生きている内に起こるのだろうか。私は一抹の不安を毎回感じるのだ。
「数値は異常ないわね」
「そうですね。では陰陽観測は終わりにしましょう。佐藤さん。今日は追憶実験があります。地下実験室への鍵を開けてくれませんか?」
「はいはい」
地下実験室には人間の研究員が居ないと入ることが出来ない。そこには11歳で亡くなった少年イザナの脳がある。彼は6年水槽の中で過ごしていて、今は17歳だ。
「やぁ、イザナ」
「やぁ、佐藤さん」
「元気?」
「うん! 今、アニメを見ていたところだよ」
「ちゃんと眠ったのかしら」
「3時間はね」
「体が無いと睡眠時間が短くても大丈夫らしいけど、本当に問題は無い?」
「うん! きっと大丈夫」
装置を通してイザナと語り合う。イザナは誠実な好青年だ。私は彼に好感を抱いている。私は会話をしながら追憶実験の準備をする。
「イザナ。今日は追憶実験の日だよ。君の子供の頃の記憶にアクセスする。海馬を刺激するから、見えた景色や聞こえた音を教えてね」
「分かった!」
私は海馬へ母を意味する電気信号を送る。モニターに映像が映し出される。音声も再現された物が流れてくる。
「お母さんに抱っこされてる記憶だね。懐かしいなぁ」
「何かお母さんは言ってる?」
「泣かないの、だって」
「分かったわ。じゃあ次ね」
「今度は野原でかけっこしてるの。8歳くらいの記憶かな」
「音は聞こえる?」
「うん! 友達のはしゃぐ声と鳥のさえずりが聞こえるよ」
「分かったわ。今日は深部追憶もするから。不快な思いをしたらすぐに知らせて。赤ちゃんの頃の記憶を探って見ましょう」
深部追憶。産まれてくる前の子宮の中の記憶や、生後間もない頃の記憶。その記憶の中に前世とか魂とかの足がかりがないかと言われている。
「うん、頑張る!」
「よし。じゃあやるわね」
脳の深部記憶へ刺激を与える。すると、光が映った
「うーん。光が見える。長いトンネルの中にいて、その先に光がある。だんだん出口に向かってる」
「そのトンネル、出口の逆、もっとトンネルの奥に行けない?」
「出来ると思う。うーん、でも、どんどん狭くなってくる。待って、もうすぐで始まりに行けそう!」
その時、警告音がなった。モニターが誤作動を起こし始め、砂嵐になった。焦った私はイザナに瞬時に引き返すように伝える。
「イザナ! 待って、止まって!」
「これは! もしかして、まさか! そうだったのか!」
モニターのバイタルに映し出される波形が基準値をオーバーする。脳の活動限界を超えてイザナの脳は稼働し始めた。これは人が死ぬ時に見る走馬灯の波形やサッレーカナーをして断食死する人の今際の波形に酷似していた。
「イザナ! このままだと死んじゃう!」
「嗚呼、そっか。このために僕は生まれてきたんだね。そういう世界だったんだ。なら、僕、もう死んでもいいや」
「ダメよ! 帰ってきて!」
「ねぇ、ここは本当に美しいよ。これがラカン・フリーズか。フィニスは皆の人生の終わりなんだね。ちゃんと辻褄が合ってくんだ!」
きっとイザナは真理を見据えている。私はイザナを心配しつつも、彼が抱いているだろう真理に惹かれていた。私も深部追憶すればもしかして、と。
「イザナ! イザナ!」
「分かった。僕は全知全能だったんだ。神の一部だったんだ。その意味で神の子だったんだ。仏になったんだ。真理はなんて美しい。嗚呼、門がある。ラカン・フリーズの門か。その門の先に見える景色は七色に彩られて、なんて麗しい。これが涅槃、これが至福、これが神愛か……」
「だめ、その門の先は!」
「歓喜に総身が震える。僕はこの日のために生まれてきたんだ!」
そして、イザナの脳は死んだ。
どうしよう。イザナの脳を死なせてしまった。これはやってはいけない禁止事項のひとつだった。脳は何千万円もする。一研究員がどうこう出来る問題じゃない。取り返しのつかない失態だ。
私はそれでも、イザナが死に際に語った言葉の真意を知りたかった。所長は今日は午後から来る。ならば、今私の脳を繋げて、深部追憶すれば、もしかしたら?
私は人口冬眠が出来る装置にイザナを繋げていた脳へと電気信号を送る装置を繋げて、私でも深部追憶できるようにした。
「ナギ。お願いがある。私が眠りについたら、深部追憶をしてちょうだい」
「いいの? 死んじゃうかもよ?」
「いいの。お願い」
「分かったよ」
私は眠りにつく。
穏やかな凪いだ渚に私は立っていた。海は限りなく続いていて、後方には草原が広がっていた。私を呼ぶ声が聞こえる。草原の方からだ。そこにはイザナがいた。イザナの後ろには門があった。光で満ちているその門の先の光景を私は見てはっとした。嗚呼、これが真実、これが真理、これが悟り、これが涅槃なのか、と。ここはさながらエデンの園か。
「イザナ!」
「佐藤さん。ここからがラカン・フリーズだよ。この門の先が神界だよ。でもね、佐藤さんは体があるから、ここから先には行けないよ。でも、ここから先のこと知りたいんでしょう? 教えてあげる」
全能と全知を内在せしソフィアらは、古の刻印より解き放たれて自ら望んで無能となった。それが生命の誕生だ。全ての命は死へと続く。死こそ真実、死こそ永遠。ラカン・フリーズ。愛より生まれし世界なら、愛に帰る定めなら、僕らは何も悪くない。何も悪いことじゃない。愛を紡いで、愛に生きる。愛し愛され生きていく。
大切なのは神愛、自己愛、運命愛。
結局、生まれる時も死ぬ時も一人。その人生は自分を愛するために、自分を信頼するためにある。自分で自分を愛せたら、それ以上の愛はきっとない。
真理は君が神だと悟ること。仏の境地。それは自他の境がない。全てが神だから、そこに帰っているから。だからここまで来ると死んでいるようなものだよ。
だけど、佐藤さん。あなたは生きて。体があるからあなたはまだこっちには来れない。真理を教えた代わりにお願いがあるんだ。神のレゾンデートルを解明して欲しい。生命の謎、神の愛、輪廻の仕組み、世界の謎、それはここにある。でもね、全は主。全てである神は己を知ることが出来なかった。だから自己による発露によって増殖して、世界を創った。
ここで一つだけ疑問が残る。
真実はラカン・フリーズの門の先にある。
宇宙があれば真理はある。
なら、世界はどこから生まれたの?
神はなぜ生まれたの?
世界の終わりは来るの?
円環の宇宙、輪廻の螺旋、永劫回帰だとして、その始まりは? その終わりは?
それを探す旅なんだ。
真理を悟ったなら、その先があることを知る。
佐藤さん。君にならできる。神のレゾンデートルをその人生で解き明かしてくれ!
僕は元いた場所へ還るから。この先で待ってるから。だからまた会おうね。
「イザナ!」
イザナの名前を呼ぶも、彼は門の先へと消えていった。門が閉じていく。私はその門の方へ進むが、間に合わない。そして門が閉じた。
気づくと私は草原で寝ていた。産まれてくる前の記憶だと気づいた。楽園で、草花の上で微睡む。私は満たされていた。完全なる愛で完成していた。魔法使いのように何でもできた。願いは全て叶った。でも、ある時何でもすぐに叶うこの世界から飛び立って見ようと思った。そして生まれたのだ。
原初の記憶はまた思い出す。でも、今はその記憶を封印して、探してみよう。その記憶はいつだって色褪せることなく残り続けるのだから。
私は装置の中で目覚めた。涙が頬を伝う。そうか。この世に生まれてきたのは私が望んだからなんだ。なら、神のレゾンデートルを探してみよう。せっかくこの試練の世界で生まれたのだから。
それから私は研究の日々を過ごした。イザナとの約束のために、私は身を粉にして研究に奔走した。
私はラカン・フリーズや神、魂に関するいくつもの論文を学会で発表した。22歳の時に脳理学の最先端の研究チームの『凪プロジェクト』に抜擢され、そこで魂の根幹に迫る研究をし、その研究が2年後に実る。
私は24歳で歴代最年少でノーベル物理学賞を受賞した。凪プロジェクトのリーダーと副リーダー、そして私の3名がノーベル物理学賞を受賞した。
私は満足しない。これはまだ通過点に過ぎないのだから。私はイザナが死んだ時に見た景色を忘れられない。あの真理を解明したい。そして、その先にあるという神のレゾンデートル、それを成さなければならない。
脳理学は発展し、魂のことも徐々に分かってきた。でも、神のレゾンデートルは、宇宙は何故生まれたのかは、永遠と残る究極命題だった。
28で結婚し、夫との間に子どもを二人も産んだ。母になることで、ひとつ気づいた。生命というものは、それだけで神秘なんだと。女性は生命を創り出すことの出来る唯一の存在。これ以上に素敵なことってない。
子どもを育てながら研究を送る日々。それも月日が経って、世界も変わって行った。
晩年、研究から退き、私は物書きになった。研究の日々の記録も記したが、やはり紡ぎたいのはイザナと分かちあった永遠だった。
神の愛、輪廻の索、涅槃の至福。きっと真実は宗教と哲学と科学の先にある。私はそれを命果てるまで紡ぎ続けたんだ。
そして、やっと臨終の時がやってくる。
嗚呼、結局神のレゾンデートルは分からなかった。でも、私は人生に満足していた。私は苦悩してまで努力してきて良かったと心から思えた。
視界がぼやける。今際の日。夫、娘と息子、そして孫たちに見届けられながら私は思う。愛は今実って、夢は今叶ったのだと。私はやっと本当の意味で真理へと啓かれる。私の原初にある記憶をやっと思い出した。
「嗚呼、神よ。神に通ずる全ての者よ。ありがとう、愛しています」
そして、私はラカン・フリーズへと還った。享年77歳だった。
◆詩『Memories that never wither』
楽園の花々に包まれて眠る
その景色は万象を映す
水面に映った知らない顔
君は誰なの?
どこから来たの?
世界は瞬く、輪廻のように
終末に咲いた花々は
それでも咲くのをやめないで
「僕は誰?」という問いの先
その行く末に広がるは
イデアの海とエデンの火
僕らの命は灯火のよう
揺らいでいるその火が
今やっと消えようとしてる
風の日に水門の先へ船を出す
年老いた水夫は泣く泣く去った
僕はやっと生まれたんだ
命はやっと終わるんだ
全てが語られ、輪は閉じて
水面に映ったその顔を
やっと思い出せそうなんだ
「僕はここにいるよ。覚えてて」
記憶はそれでも永遠で
「どこへ行くの? 何をしていたの?」
その時、風が凪いだから
僕らは愛し愛されて
それでも罪を積み重ね
だけど些事の淡い光
光の中で眠るんだ
夢から目覚めて
涙があふれる
この想いは忘れない
この痛みは忘れない
この記憶は忘れない
『消えない記憶』ーEndー
◆解説
▫脳機体
全知型AIの脳構造のこと。人間の脳に模して作られてはいるが、今現在の科学力では人間の脳を完全に再現出来てはいない。正しく人間の脳は神の創ったものなのかもしれない。
▫ラカン・フリーズ
全てが還る場所。神や仏やエデンの園や涅槃や神界、そう言った類の総称としての全であり無。神に至ると、涅槃に至るとラカン・フリーズの門が開き、魂はその先へ向かうとされる。
▫サッレーカナー
ジャイナ教で行われる宗教的儀礼。自らの人生を断食によって自らの意思で終わらせること。愚者の死という所の自殺の反対、賢者の死。
▫フィニス
終末のこと。ただし、文明の終わりを意味する終末ではなく、世界の索(なわ)が閉じる終末、世界の最期を指す終末である。人類はフィニスの刻を避けるために世界の時間を止めた。それが全球凍結『凪=フリーズ』である。
▫ソフィア
意識、祈り、信仰、魂などの総称概念。
▫神のレゾンデートル
宇宙があれば真理はある。そんな簡単なことを知るために生まれたのではない。きっと真理の先にある問いはこれだ。
『全は主。ならば、その全は何故、どこから、どうやって生まれたのか。そして、最後はどうなるのか』
全は主という真理を悟ることこそ、すなわちウパニシャッド哲学の語る梵我一如だ。仏教の言う悟りの境地だ。だが、その先に思索の道がある。それこそ神のレゾンデートルだ。神の存在証明。神は己を知るために世界を創造したのかもしれない。
フリーズ174『消えない記憶』