くすんだホワイトパール

くすんだホワイトパール

くすんだホワイトパール

 その車は奇妙な色をまとっていた。ベージュというには透き通って、ホワイトというにはくすんでいた。ネイビーにしては明るすぎるし、どうにもその車には固定の色をつけることができなかった。だから僕はその車の色にくすんだホワイトパールという名前をつけていた。僕はいつからか、その呼び名をとても気に入った。今でも母と会話をするときには、その呼び名を使う。
 幼い頃、まだ小学六年生だった自分は、その車、くすんだホワイトパールのワゴンRが嫌いだった。
 しかしそれは、その車自体が嫌いだった、というわけではないのも確かだ。僕が嫌いだったのは車に付随した経験だった。あの夏、一匹の蛇を、僕らを乗せた車は轢いたのだ。
 
 もともと母さんは運転があまり得意ではなかった。よくよそ見をして、前方の車にぶつかりそうになった。そのときはいつも僕が小さな悲鳴をあげて、やっと母さんはブレーキを踏むのだ。僕が責めたてると、母さんは決まって「大丈夫よ、わかっているから」と言うのだが、その言葉が本当なのかは、あの頃の僕にはわからなかった。

 小学六年生の夏休みの午後、僕らはプールへ行った。それは小さな市民プールで、今思えば特別楽しいものはなかったかもしれないが、それでも子どもの自分にとっては、数少ないイベントだった。
 そのプールは足がつかなかった。だからよくビート板や浮き輪などを使って、ぷかぷか浮いているのが好きだった。体中を伝う温い水の感覚と、高い天井を見つめて、浮かんでいると、体の筋肉がほぐれ、水と一体になったような気がした。
 母さんが僕を背中に乗せて、平泳ぎをして、よく二十五メートルの端から端までを、まるでボートに乗るようにして渡った。時折、背中から落ちて、プールの深い水のなかに体が沈むと、青いゴーグルの外には、多くの遊泳客たちの下半身が丸見えになって、水のなかの世界で、僕は必死に息を止めて、その光景を目に焼き付けていた。
 プールを上がると、くたくたに疲れ切った体で、売店に向かい、そこのカップラーメンを食べてから、車で帰った。
 母さんは乾ききらない髪を窓をあけて乾かし、夕方の光が時折、町の家々の間から差し込んだ。塩素の匂いを感じながら、口のなかで甘いストロベリーの飴を転がす。県民の森の付近に差し掛かった。そこはあまり好きな場所では無かった。暗く淀んだ空気が粘っこく湿り気とともにまとわりつき、光は濃い緑の木々が吸収し、その横道はしんと静まる。
「寝ないの? 疲れたでしょ」
「うん。疲れた」
「椅子たおして寝ちゃいなさい。寝たらすぐよ」
 そのとき、森が息を吐き出した。風がひゅっと窓から入り、塩素の香りが途端に消えた。
「きゃっ」
 その悲鳴はわずかに聞こえた。はっとして前を見ると、なにかがするすると道路を横切ろうとしていた。風が運んだ木の枝かと思ったけれど、それはあまりにも大きくて白かった。
 そして、ぐにゅり、と車が浮かんだように沈んだ。何かを踏み潰して、車は少し進み、母さんがブレーキを踏んだ。行き交う車も人もおらず、外に出るのを躊躇した。母さんは驚いてしまったのか、じっと前を見つめ、それから息を吐き出し、シートベルトを外した。
「ダメだよ。どこ行くの?」
「何か轢いちゃったの。ちょっと待っててね」
 母さんがドアを開けようとするから、僕もシートベルトを外した。
「どうしたのよ。ここにいなさいな」
 そう言って心配げに俺を見つめる母さんに首を振って拒否をした。
「俺も行くよ」
 外に出ると、夏の暑さが遠のいていた。薄暗い夕暮れ時、森の傍の道に転がるなにかがいた。はち切れた体に、僕はヒッと声をあげた。母さんが「ほらほら。見ないの」と言って瞼を閉じるように言った。でも、僕は見ないといけないと思った。
 そこに死んでいたのは一匹の白い蛇だった。長く太い体が踏み潰され、口から臓器のようなものが飛び出していた。目はかっと開き、真白の体に鮮血が飛び散っていた。
 母さんと僕は五分ほどかけて県民の森の入口に向かい、看板に書かれていた管理人番号を見つけると、そこへ電話した。十分ほどで職員を寄越すと言われ、僕らはほっとした。
 そうして、また五分ほどかけて蛇のいた場所に戻った。
 しかし、そこであり得ないことが起きた。なぜか、蛇の死体が消えていたのだ。
 薄暗い夜道には血のひとつも残っていない。蛇はまるで最初からいなかったかのように、その道には小枝だけが転がっている。僕が小枝を拾っているうちに、母さんはもう一度電話をした。蛇がいないことを伝えると、他の動物が持っていったのかもしれないから気にしないでと言われていた。母さんが確認するように「飛び散った血もですか?」と聞くと、薄らとした声で管理者は「ええ、飛び散った血もです」と答えていた。その帰り道は言葉もなく、僕らは出来事を忘れ去ったかのように、翌日から蛇の話は閉口した。

 この話をしっかりと話せるようになったのは、何年かあと、僕が中学生になってからだ。それはワゴンRを売ることになったときのことで、査定人に言われたことを母さんが僕に話してくれた際に、僕はあの一匹の蛇を思い出した。
 僕らの乗っていたワゴンRを査定に出したとき、とても奇妙なことがわかったと母さんは言った。それは車検などでも言われてこなかったことで、今回になってはじめて指摘されたという。というのも、それは色のことだった。僕らの乗っているワゴンRの色が、査定人によると少しおかしいというのだった。
「どういうこと?」
「ほら、よく言っていたじゃない。うちの車って色がさ、何とも言えないって」
「くすんだホワイトパール」
「そう。くすんだホワイトパール」
 僕と母さんは確かめ合うように頷く。それから母さんはぼうっとした目で、窓の外を見つめた。
「ワゴンRにあの色はないのよ。あんなにくすんだ色ははじめてだって、査定人さんが言ってたの」
「でも、もともとホワイトパールだったんでしょ? ちょっと汚れてくすんだだけじゃないの?」
「いいえ。違うわ」
「違う?」
 母さんは「あなたのお父さんが亡くなるまえに買ったのは言ったわよね」と僕の瞳を確かめる。僕は父さんの話にいつも動揺してしまう。父さんは僕が生まれてすぐ亡くなった。確か、交通事故だった。だから母さんはあの日、蛇を轢いたことを悔やんだし、僕だって父さんのことを想起して、閉口したのだ。母さんは目線を外すと「おかしいわね」と笑った。
「あのときは、ネイビーだったのよ。ほら、父さんがネイビーが好きだったから」
 そう言って、母さんは一枚の写真をポケットから取り出した。赤子の僕を抱いた父さんがネイビーのワゴンRのまえではにかんでいる。母さんが撮ったらしい。
「でも、いつから? 僕の知ってる車はずっと……あの色だったよ?」
「父さんが死んだあとかな……段々色が抜けていって、気づいたら、ああなっちゃった。査定人さんも経年劣化でこうはならないって言ってたわ」

 ワゴンRで最後の運転をすることになった。母さんがどこに行きたいかを尋ねながらシートベルトを締める。どうしてワゴンRを売ることになったのかを、僕は知らなかった。それでも母さんの決めたことだったから、行きたいところに行こうと言えた。
 朝から海へ行った。それはまた夏の日だったから、多くの海遊客で賑わっていた。駐車場はいっぱいで、海にはいけそうになかったけど、窓を開ければ潮風が入って、磯の香りが鼻をくすぐった。
 多くの場所を巡った。道の駅で買い物をし、車で山を登ったりもした。午後も過ぎていくと、家に帰ることになった。帰りの車内は沈黙のなかで、静謐で緩やかな心地良い時間が流れていた。
「これで最後、ね」
「うん。あとは帰るだけ」
「どうして売っちゃうの?」
「どうしてだろうね」
「父さんのこと?」
「まあね。忘れるってわけじゃないのよ」
「わかってるよ」
「なんで死んじゃったのかしらね」
「わからないよ」
「ずっと一緒にいるって言ってくれたのに」
 ヘッドライトが点く頃、僕らはふと、慣れ親しんだ道を通った。すぐ近くに県民の森があるのを、僕も母さんもわかっていた。
「昔、蛇を轢いたよね」
 僕の声に母さんは何も言わない。ウインカーが県民の森には向かわない道へと行くために、カチカチと音を立てている。
「お祈り、していかない?」
 カチ、と音が止んだ。母さんはハンドルを握り直すと、こちらに顔を向け、「そうね」と一言微笑んだ。
 駐車場は空いていた。土曜日なのに、ほとんど人がいないようだった。車を停めて、ドアを開けると、懐かしい匂いがした。
 森は変わらず、そこにあった。夏の夕暮れを携えて、光を吸収し、暗く透き通った空気を吐き出している。あの頃感じた淀みや粘りのある感じはなかった。僕らは入口から森に入っていった。
 道はどこも荒れていた。管理が行き届いていないのか、通り抜けできない道もあった。森の奥へ向かって、僕と母さんは何も言わず歩いていた。お祈りするだけのはずが、僕らは森のなかに吸い込まれているようだった。濃い木々が揺れ、鳥が飛び立つように音を立てる。蝉や虫たちのざわめきがどこからも聞こえてくる。その森のなかで、僕と母さんは立ち止まる。目の前にいつの間に男が立っていた。夏だというのにコートを着て、深くハットをかぶっている。
「はじめまして。ようこそ。森へ」
 男は顔も見せず、深々と頭を下げた。母さんが僕の手を掴む。
「大丈夫です。決して悪いようにはしません。ただ少し、お話がしたいのです」
 男はパッと振り返った。コートの背中は細々としていた。長身で細い男だった。彼は歩きだし「さあ、こちらへ」と言った。
 僕と母さんは顔を見合わせ、頷きあうと、男についていくことにした。危なかったら引き返すこともできる。森の奥へ向かって、男は歩いて行く。足音はほとんどせず、僕らの土を踏みしめる音だけが響いている。森はどこまで続いているのか。段々と暗くなる森のなかで、人の気配も薄れ、僕らはそこへたどり着いた。
 そこは奇妙な場所だった。丸いテーブルと、背もたれの小さな椅子が三つ、森の中に置かれていた。彼は椅子を引くと、僕らを先に座らせようと「どうぞ」と言った。僕は会釈して椅子に座り、母さんもゆっくりと腰を下ろした。彼は座ると、そのハットを取って、机においた。そこではじめて彼の顔が見えた。母さんも僕も言葉を失っていた。そこにいたのは、蛇だった。
「どうも、蛇男とでも呼んでください」
「蛇男」僕が声をもらすと、蛇は細く横に長い口を緩めた。
「ええ、そうです。蛇男。別に悪い存在ではありません。人間と同じ生き物ですから」
「はあ……。それで、蛇男さん……? はどうして私たちを?」
 母さんが困惑しながらも言葉を紡ごうとする。僕は意外にも受け入れている母さんに驚いた。蛇男はこくん、とその青緑の蛇頭で頷いた。鮮やかな色だと思った。
「蛇というのは、あまり表には姿を見せません。蛇が姿を見せるのは、本当に大事なときなのです。あなたたち二人に事の顛末を教えてさしあげます」
「事の顛末?」僕の声に蛇は頷く。
「あなたのお父さんに救われた一匹の蛇の人生のお話です」
 蛇男はそれからゆっくりと語った。僕はじっと耳を澄ませていた。彼はとてもはっきりとした口調と、低く滑らかな声で、その話を聞かせてくれた。
「その蛇は昔から気弱で、いじめられっ子でした。何をやってもダメで、よく怒られ、よく殴られ、どうしても生きるのが辛い蛇だった。どうしてかと言えば、彼の体は他の蛇と違って白くくすんだ色をしていたからです。だからある日、彼はこう思ったのです。他と違う自分は車に轢かれて死んでしまおう、と。その蛇は掟を破り、外に出ました。
 ですが、簡単には死ねなかった。車の行き交う道を何度も見過ごすことになります。死のうと思っても死ねないものなのです。それが生き物の本能です。
 夕暮れ時、もうすぐ日が落ちる頃、蛇はやっと決心をしました。一台の通りかかった車を標的にしたのです。蛇はゆっくりと、ゆっくりと地面を這って、道を通りました。車が蛇を轢こうとします。これで死ねる。そう思った矢先でした。車が突然、急ハンドルを切りました。まるでその蛇を避けるかのように。
 車は電信柱にぶつかりました。乗っていた男の半身は潰れて、もう助からない状態でした。蛇は急いで車のなかに向かいました。そこには血を流し、気を失う寸前の男がいました。男は涙を流していました。ですが、蛇を見るとわずかに微笑み、生きててよかったな、と呟きました。蛇は泣いて謝りました。どうすればいいかと問いました。男は最後の力を振り絞って答えました。妻と息子を頼む、と」
 森は静けさを帯びて、今か今かと夜を控えていた。母さんが困惑したように震えていた。僕はその手を握りしめた。蛇男は慎重に話を続けた。
「蛇は男の妻と息子を見つけました。そして男の妻が悲しむ姿に胸を撃たれた。そして、一台の車を見つけます。それは男の乗っていた車と同じ色をした車でした。
 蛇は毎日のように泣きました。いつしかその体が溶けるほどに泣きました。蛇の溶けた体は車に染みついていきました。あの車は経年劣化で色が抜け落ちたのではありません。白い蛇に染まっていったのです。長い時間をかけて。
 そして、それからいくらか経って、あなた方に厄災が降りかかろうとしました。ええ、あなた方は知らないでしょう。ですが蛇にはわかります。その未来ではきっとあなた方は亡くなっていたはずです。それも交通事故です。だから、あの日、あなた方を守るために、蛇は二人に幻想を見せました。覚えていますね。あなた方は白い蛇を潰した。あの僅か十分足らずの間が、あなた方の命を救った。とても信じがたいかもしれない。ですが、これが真実なのです」

 帰り道、車を運転する母は、どこか晴れやかだった。あの話を聞いたあと、蛇男は僕らにこう告げて、夜の森を帰した。
「時に信じることはなによりもの救いになります」
 僕らはこの話を胸にしまい込んだ。蛇に出会ったことも、そして父さんが蛇を救って、その蛇が僕らを救ったことも。きっと誰に話しても嘘だと思われてしまうだろう。
 暗い夜道、街灯が照らす駐車場に車を停める。夏の風を感じながら、僕は車の肌を撫でる。母さんがそんな僕の隣にしゃがみ込み、車のくすんだホワイトパールに手をあてる。
「蛇さん。私はあなたを許す。あの人の言いつけを守ってくれて、ありがとう。だから、もう死のうとしないで」
 僕らはしばらくの間、そうして車の傍にいた。父さんの優しさが、風に乗って僕らに伝わった。一滴の涙が、その場に落ちる。
 くすんだホワイトパールは涙の色にそっくりだった。


                                    〈了〉 

くすんだホワイトパール

くすんだホワイトパール

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-03-22

Copyrighted
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