わかめ

わかめ

わかめ

 アルコールを飲みすぎたの、と彼女は言った。震える手は悲しみに帯びていた。僕はその手を握りしめていた。精神病棟の裏庭はどんよりと曇った灰色空に締め付けられて、梅の花は咲いたばかりなのに、重々しさと苦々しさにいまにも萎れてしまいそうだった。
 タバコの煙が宙に舞う。その匂いは十八才の僕には少しばかりキツくて、誰よりも懐かしかった。父さんがよく吸っていたあの匂いと同じだったから、僕は自然と彼女にぬくもりを感じていた。彼女は震える手で、その灰を落とすと「明日退院なんだね」と言った。
 僕は力強くうなずいた。迷いはなかった。
「外行っても、お酒とかタバコとか、やんないほうがいいよ。私みたいになっちゃう」
「やらないよ」
「そうね。君はやらないタイプだった」
 彼女は確信したように笑うと、タバコを灰皿に押しつぶして、新しいのを取り出した。新品の白く真っ直ぐなタバコが彼女のかさついた唇に挟まれる。カチッと音がして、ライターの火がついた。ぼうっと浮かび上がった炎が彼女の手の中で、青く青く燃え上がる。彼女はまた煙を吐いた。
「なんで退院するの? 突然だったじゃん」
「挑戦してみたいんだ」
「挑戦」彼女は口の中で確かめるように反芻する。
 暗く病んだ瞳のきらめきが僕に向かう。僕はその黒い瞳に飲み込まれてしまって、目が離せなくなる。僕は「働きたいんだ。それでいつか君と暮らしたい」と言った。
「無意味な試みね」
「無意味でも、無価値でも、やってみるさ。ほら、どこに住みたい?」
「どこでもいいよ。君と住めるならどこでも。私はまだ働けないから、家でお留守番」
「僕が働いて、帰ってきたら君が味噌汁でも作ってるんじゃない?」
 彼女はくすりと鼻をならして笑う。
「私、料理なんてできない。作れるようにはなりたいんだけどね」
「じゃあ、君も挑戦する?」
「しようかな……味噌汁。なに入れる?」
「わかめ」僕は即答した。
「いいよ。わかめの味噌汁ね」
 僕らは立ち上がる。手を握りしめあって、歩きだす。病棟のチャイムが鳴ると、散歩中だった人たちが一斉に帰り始める。これが僕と彼女の別れになる。明日はもう会えないことをわかりきって、僕らはなにも言わないでいた。別れの挨拶なんて、したくはなかった。僕はもう行かないといけない。
「またね」彼女は階段をのぼっていった。

 あれから一年が経った。僕は一九才になっていて、ちょうど春のはじまりとともに梅の花が咲きはじめた。彼女とは連絡がつかなくなって、もう半年が経とうとしている。僕は働くのをやめて、大学に進学した。彼女の言ったとおり、すべては「無意味な試み」であったのだ。
「でもね」と僕は言った。「挑戦に失敗なんてないんだ。なにかに挑戦することが大切なんだ。経験という価値が、僕らには残る」
 もしも彼女が、この言葉を聞いたなら、こう答えると思う。「じゃあ、なんでこんなにも悲しいの?」と。
 あの日の彼女の吐いた煙が、いまもこの世界に漂っている。それが時折僕の脳裏に声を生み出し、僕は過去を思い出し、泣いて、叫んで、もがき苦しんで、それでも生きることをやめないでいる。僕は、きっと挑戦しつづけているんだ。生きることは挑戦なんだ。
 アルコールを飲みすぎたの、と彼女は言った。
 僕のただひとつの心残りは、彼女の作った味噌汁を飲めなかったことだ。僕は代わりにアルコールを飲むはめになるんだ。きっとね。

                                   

                                    *了*

わかめ

わかめ

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-03-21

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