
目薬
体には全く問題はないのだが、四十を越したら急に目が悪くなってきた。老眼である。四十を越すと誰でも近いものが見えにくくなるもんだ。そうみんなから言われ、そういうもんかと頭の中では納得しているのだが、どうして四十なんだ、五十でも六十でもいいだろう、と看護士の妻にたずねた。
「解剖学やったんだろ」
「解剖学を習ってもそんなことわからないわよ、生理学で目の調節を教わったから、少しは知ってるけど、何で四十なのかなんて習わない、ジェロントロジーの領域かな。年をとるとどこの筋肉が弱ってくるとか、そういうことよ」
老人学か、社会学者がやってるが、老人の目玉には役立たない。まあ、福祉や市役所にがんばってもらうためには大事な学問だ。
「だけど、目のどこが悪くなるんだ」
「目のレンズの調節をする筋が疲れるからって習ったけど、レンズそのものの弾力性が弱くなるからとも言われているわ」
「レンズって奴は何でできているんだ」
「ゼラチン」
「うそだろ」
「のようなもの、だけどそれが縮みにくくなれば、筋ががんばってもだめね」
「レンズってのは水晶体って奴だろ」
「あら、知ってたの」
「そりゃ、そのくらいはな、白内障を身体検査で調べられたとき、医者が、水晶体が濁っていると白内障だと言ってた」
「まあ、そうね」
「それで、水晶体をガラス玉に取り替えれば、白内障はなくなるんだと言ってた」
「ガラス玉じゃくて合成樹脂よ」
「水晶体と筋のどっちにしろ、何で四十で疲れちまうんだ」
あ「なたの言っているのは、どうして死ぬんだとと言うのと同じ、眼がそうなんだから仕方がないじゃない、やけに四十にこだわるのね」
「俺が四十だから、子供はまだ作れるのに、目だけはやく老人になる理由を知りたい」
「目はあっちの玉よりづーっと使っているからよ」
「なにいってんだ。新聞がめえにくくなってこまる」
「老眼鏡作ればいいじゃない。
「それにすぐ疲れるようになった」
「目薬を差したらいいじゃない、今度、眼科の友達に聞いてみるね
「いい目薬を教わったわよ、今日夜勤だから、自分で薬局に行って」
というわけで、老眼は眼鏡を作ることにして、目の疲れの薬を買うことにした。
からだは丈夫で、ビタミン剤を飲んだことがない。今まで薬局に行って何か買ったことがない。
職場は家から特急で二駅先の高層ビルの中にあり、家内が夜勤の日には職場のビル中にある商店街で買い物をして帰る。
その日、自分の夕食を買ったあと薬局に寄ったのだが、あいにく臨時休業だった。職場から家まで電車で20分、駅をでて10分のところにあるマンションが我が家である。
駅に降りて、その日は町の商店街の定休日であることに気づいた。
しょうがない、明日に買うことにするか、とマンションに向かって歩いた。駅からまっすぐに通りが延びており、その周りにある食堂や個人商店がならんでいる。みなシャッターがおりている。
五分ほど歩くと、大通りにつながる細い道がある。角に薬局の木の看板があった。いつも気づかずに通り過ぎていたようだ。路地には個人宅が続いているが、先のほうに薬局と書かれた明かりの入った看板が見えた。
行って見るか。
間口の小さな薬屋だ。ガラス戸から中の薬棚が見える。自動ドアではなく、手で引き戸を開けてなかにはいると、禿頭のじいさんがカウンタからいらっしゃい、と声をかけてきた。
カウンターで目薬の名前を言うと、
「わからない」と言う、「それでどうしました」と聞くので、老眼が進み、眼が疲れたことを話した。
「これがいいですよ、目にさしても飲んでもいい目薬り」
飲んでもいいとはどういうことだろう。
「老眼鏡はお持ちじゃないのですか」
彼はうなずいた。
「細かなものを見ようとると、眼は一生懸命見ようとするので疲れるのです。目を無理に使わないようにするのが一番ですが、この薬を使えばすぐよくなります」
主人は箱に入った目薬を棚から取り出し、彼の前に置いた。
からだそのものも疲れやすくなっていることを言って、栄養剤を飲んだほうがいいか聞いた。
「いやいや、そりゃ無駄ってもので、この目薬をお湯にでもお茶にでも一滴たらして、飲んでご覧なさい、目を見張るように、元気になりますから」
じいさんが小さな目で彼の目を見た。いくつぐらいなのだろうか。目尻にしわがずいぶんたくさんあるが、黒目が水晶の中の黒い宝石だ。透き通るようにはっきりしている。老人の眼ではない。頭と顔の様子からは七十は過ぎているだろう。
箱を手にとって、値段を見た。意外と安い。
「それじゃそれいただきます」
ともかくその目薬を買った。
じいさんは、「ありがとうございます、その目薬は疲れたと思ったとき、いつでもお使いください、なにかったらご相談ください」と、目薬を袋に入れてわたしてくれた。
礼を言って家に帰った。
さっそく使用方法を読んで目に差した。1回一滴で、一日5ー6回であるから、かなりの量を使う。
彼はシステムエンジニアである。SEということだ。セキュリティーエンジニアでもある。そういったこともあり、働いているIT会社でも便利がられ、部長補佐になっている。いつもコンピューターと向かい合っている。
三つのディスプレーをつくに並べ、三つの画面をにらむこともある。
三つも、四つも目があれば楽になるのにと思いながら仕事をしてきた。眼が疲れるわけである。
買ってきたもので食事をすませ、いつもの寝る時間にベッドにはいった。もちろんその前に目薬をさした。
朝起きて顔を洗って、すぐに目薬をさした。
家内が家に帰るのは10時ごろだろう。彼は8時には家をでる。
仕事場でも何回か目薬を差した。さす度にすっきりとするので、癖になりそうだ。
その日は仕事がスムースにすすんだ。
家に帰って、買った目薬を見せた。
「一日さしたけど、気持ちがいいよ、眼がすっきりするんだ」
「IT企業に勤めているんだから、目は大事にしないといけないわよ。処方箋通りにやんなさいよ」
彼の買った目薬を見た。
「私が言ったのじゃないわね」
駅の薬屋が休みで、うちの商店街が定休日だったので、横道にあった薬屋によったことを説明した。
「そんな店あったっけ、なんていうの」
「あ、覚えていない」
目薬を入れてくれた紙袋にも店の名前はなかった。
「明日見てみるよ」
妻は目薬の説明書を読んだ。
「こんな目薬始めてみる。使いすぎは多眼症になるから気をつけるようにだって、多眼症ってなんだろう。はじめてきくな。今度眼科の先生にきいてみよう、さあ食事にしよう」
そういって目薬を返してくれた。
寝る前にも朝も一滴づつさした。
その日からしばらく、複雑な作業がまっている、夕食は食べて帰ると家内に言ってでかけた。
コンピュータ画面で細かな作業を集中して行い、それでも、朝10時からお昼の休憩1時間はさんで夜の八時までかかった。途中で数回目薬を差したが、肩が張って疲れている。
そんなとき、薬局のじいさんが、この目薬は飲んでも栄養剤になると言っていたのを思い出した。
昼休みに、パンを食べた後、缶コーヒーに目薬を一滴垂らしてのんだ。なんだか体が軽くなる。心理的な効果だなと理解しつつもくせになった。
それから、仕事中に疲れたと思ったときは、その目薬を一滴、お茶、水、コーヒーなどに垂らして飲んだ。
目薬をそのように使い始めて一月がたった。なんだかめっきりとからだが張って元気になった。家内にもそう言われた。
「うん、目薬のおかげだ」というと、変なのと笑われた。
その日、電気を消して、ベッドに入り目をつむった。ところがぼんやりと天井が見える。目を開けてみた。暗がりの中で目をつむっているときより、はっきりと天井がよく見えた。目をつむったが、少し暗くなるが、周りが見える。なんだかおかしい、そう思いながらも寝てしまった。
次の朝、家内は夕方に夜勤に出かけているので、自分ひとりだ。顔を洗っているときに流しと鏡が見えた。目をつむっているのにである。顔をふいて、鏡を見ると、額の毛の生え際に丸いものがある。よく見ると、小さな眼が髪の毛に皮膚にうずもれてあった。ほんの小指の先ほどの小さな眼だ。黒眼もある。ただ瞼がなく開いたままだ。
後ろの方にパジャマの柄が見えるのに気がついた。何だと振り返っても、画像はかわらなかった。パジャマの模様が見えている。
どうして自分の着ているパジャマの縞がらが見えるんだ。パジャマを脱いだ。とたんに後ろの景色が見えるようになった。
何だ。目の前の景色と、後ろの景色が同時に見えている。
後ろを振り返ってみると、後ろの景色に統一された。
後ろを向いて鏡を見た。背中の真ん中にに小さな眼がある。
夢ではない。手を伸ばし背中の眼を右指でさわってみた。背中の皮膚を触ったのと同じ感覚だ。髪の毛の中の眼も同様だ。
会社に行く時間に間に合わないといけない。あわてて食事をして、目薬をいつもの二つの眼にさして家を出た。
電車に乗って座って目をつぶる、だが、電車の中がよく見える。背中の眼はランニングシャツの内側を見ている。
仕事場で、コンピューターを見つめて仕事をしていて、感じたことがある。いつもより楽だ。額の毛の中の眼が働いているので、三つの眼で画面を見ていることになる。
だがからだは疲れるので、ついつい、コーヒーに目薬をたらして飲んでしまう。からだがすきっとする。三つの眼に一滴づつさした。すっきりする。背中の眼は役に立っていないのでささない。
その日は仕事がとてもはかどったが目薬が切れそうになった。帰りに、あの薬屋によった。入り口の上の看板に大きく薬屋と黒く書かれているが、その下に小さく、「眼宝堂」とあった。
薬局のじいさんに額の目を見せた。
「使い過ぎですよ、多眼症だ、いずれ眼は消えるから気にしなさんな」
そう言って目薬を二本棚から取り出した。
「もし、早くその眼をとりたかったら、除眼剤があるからいってくださいよ」
と送り出された。
額の眼は知らないまに消えていった。
背中の眼はあまり使う機会がなかったのか、その前に消えていた。
多眼症はきになるが、目薬を飲むと体の調子がいいので、それからも一日に数回、目薬をお茶に入れて飲んだ。
それから一週間、舌の先に眼ができた。舌を口から出すと、空が見えた。食べ物を口に入れると、ぐちゃぐちゃに噛み砕かれるのが見えた。気持ちが悪いので、薬屋にいくと、じいさんが、
「口眼炎ですな」と、口内除眼薬を売ってくれた。舌の先の眼に塗れということだった。三日ほどで眼がなくなった。
今度は左手の小指の先に眼ができた。指先の眼は景色をよく映し出してくれる。
薬屋に行くと、じいさんが、眼疣(メイボ)になっちまいましたな、そいつは遷るかもしれないし、治るのに時間がかかる。皮膚用の除眼軟膏をだしましょう。
と言うのでそれを買った。
寝る前にそれを指先に塗ったのだが、次の日はまだまだ消えていなかった。
その日の通勤電車のなかでのことだ。腰掛けていて、電車が揺れ、前に立っていた女の子の短いスカートが、ふわっと彼の手にかかった。
あ、彼は顔を赤くした。小指の眼が女の子のスカートの中をみんな見てしまった。彼は眼をつむったたままうつむいていた。女の子がおりて、駅の名前を見ると、自分が降りる駅をとっくに通り越していた。
電車を降りて2駅戻って会社に行った。
その日、コンピューターのキーボードを打つ早さが格段に早くなった。一本の指先に眼ができたからである。
夜寝る前に眼疣の除眼軟膏をとりだした。だがふと考えた。コンピュータのタッチがあんなに早くなったことだし、それに、このままでいいや。
除眼軟膏を塗らなかった。
今、すべての指に眼疣が感染して、彼の十の手指すべてに眼がある。
指の動きがすこぶる早くなっただけではない。世の中丸見えである。
目薬