幻の川本葉子役 追悼・いしだあゆみ
女優・いしだあゆみさんの追悼です。
私が文章を書くようになってから、足かけ5年になる。本格的に小説やエッセイを書き始め、人様に公にするようになったのは、2022年の夏の頃のことだったから、厳密に言えばそんなに長い間文章を書いている、というわけではない。
そんな中でも、人様にお見せしたらクスッと笑われてしまうような、そんな拙い文章ではあるけれど、物語を書いていると、もしこれがテレビドラマや映画になったらキャストは誰にしようか、そんな夢みたいなことを考えて、物語を書いたりそれを読み返したりするのが、時に楽しみの一つになっている。
昨年、埼玉文学賞に応募した「路地裏」がまさにそれだった。受賞には遠く及ばなかったが、もしもまかり間違えて受賞したら、その先には、大須健太作「路地裏」なんて、山田太一、向田邦子のように、NHKあたりでドラマ化されるかもしれない。そんな空想に浸っては、幻の自作の映像化を想定して配役を誰にするか、本気で悩んだものだった。
妻に先立たれた愛妻家である75歳の男・川本善吉役には、ちょっと年を取りすぎているが毒蝮三太夫を。それから、芯の強い潔癖な確固たる信念を持った凛としたその恋女房・川本葉子役にいしだあゆみをなんて考えて、彼らの演技を頭に思い浮かべては楽しい時間を過ごしていた。
いつかこれが本当にそんなことにでもなったら、絶対この配役でいこう。しかし、お二方の年齢を考えると、そんなに悠長なことは言っていられない。何とかして一日も早く実現させなければ。そう思っていたが、それはもう、私がどう頑張ったところで私の文才を抜きにしても、永遠に叶わぬ夢となってしまった。
3月17日午後、私はその幻の映像作品、「路地裏」の川本葉子役にキャスティングをしていた女優のいしだあゆみが、3月11日に他界していたことをWebニュースで知った。つい先日、NHKで1969年の「紅白歌合戦」が再放送されていた際、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を溌剌と歌っていた、若き日の彼女の姿を目にしたばかりだった。もう半世紀以上も前の映像である。殆どの人が死に絶えてしまうような、そんな昔の出来事になってしまったのかと、些かの寂寥感に苛まれながら、当時を知らない私は白黒のリマスター映像を食い入るように見つめていた。
彼女も鬼籍の人になってしまったかと、悲しいとか寂しいとかそんな在り来たりな思いはなく、ただぼんやりとそのWebニュースの記事を、ピンと来ないまま見ているだけだった。
私が彼女に自分の原作のドラマに出て欲しいと思い、それを夢見てキャスティングしたのには理由があった。
後に再放送された向田邦子の一連のドラマ「阿修羅のごとく」「冬の運動会」ドラマ人間模様「胡桃の部屋」松本清張シリーズ「最後の自画像」の四本からはじまり、松本清張スペシャル「疑惑」連続テレビ小説「芋たこなんきん」「座頭市」「雨の日の訪問者」金曜プレステージ・山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」「やすらぎの刻~道」と、確かに見たと記憶しているドラマはざっとこんなものだが、本数にしてみたらそんなに多くはない。その中でも、女優業進出の転機となった向田邦子ドラマが、私が初めて見た彼女の作品かもしれない。当時三十代の彼女はどこかミステリアスで、クールビューティーとでも言おうか。「阿修羅のごとく」で演じた三女・滝子役のような、その潔癖という名の防護服から溢れ出る、何とも爽やかな清々しい色香が、いしだあゆみという女優を下品な女優にしなかった理由かもしれない。
そんなたくさんの作品の中でも、私が特に好きだった作品は向田邦子の「冬の運動会」である。根津甚八演じる主人公・北沢菊男の相手役で、美容師・竹森日出子役が素晴らしかった。どんな風に素晴らしかったか、今説明しろと言われても、具体的に何が良かったと説明するのは難しいのだが、特に強く印象に残っている。
もう一つ、「雨の日の訪問者」もフィルム撮りと、随所に流れるフォーレの「エレジー」が、降りしきる雨をバックに佇む彼女にぴったりで、何とも言えぬ不思議な魅力を湛えていた。
年齢を重ねてからの彼女も実に魅力的だった。連続テレビ小説「芋たこなんきん」で演じた仕事に誇りを持ち、不正や曲がったことが大嫌いな、権力に屈しない正義感漲る秘書役を好演し、視聴者に清々しい印象を与えた。金曜プレステージ・山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」で見せた、渡瀬恒彦のバイオリン教師の妻役も秀逸だった。倉本聰脚本の「やすらぎの刻~道」のマネージャー役も、向田邦子の「阿修羅のごとく」の滝子を彷彿とさせる、眼鏡をかけた融通の利かなそうな、どこか潔癖な印象を与える彼女とリンクした役だったように思う。
歌手としては「ブルー・ライト・ヨコハマ」「あなたならどうする」と、ヒット曲にも恵まれて「紅白歌合戦」にも10回出場している。
何年か前に出演した「徹子の部屋」では食器もワンプレートで済ませ、空になった食器棚にハンドバッグや、その他諸々の物を収納しているという話をされていた。
甲状腺の病気を患っていたとは初耳であり、それが原因でこの世を去るとは思ってもいなかっただけに、ごく稀なケースではあるのだろうが、甲状腺の病気の怖さも彼女の死をもって思い知らされる結果となった。
歌手から女優へと見事に転身を遂げた、いしだあゆみという女優が輝きを放っていたことを、いつまでも私は覚えていたい。
大事な女優が、また一人、旅立ってしまった。私が書いた川本葉子役を演じられる素晴らしい女優が、この世からいなくなってしまった。
いつか叶えたかった私の夢が、この世界に住む誰かの夢が、また一つ、幻となってしまった。
幻の川本葉子役 追悼・いしだあゆみ
もし自分の作品が映像化されたら、絶対に出演して欲しかった女優の一人であったいしだあゆみさん。もう永遠に叶うことのない私の夢となってしまったが、それでもそんなことを考えさせていただけて、楽しい時間を与えて下さったいしだあゆみさん。どうぞ、やすらかに。
2025年3月17日 書き下ろし。