
天使解体
天使解体
羽化すると、痛いらしい。
それもとびきり。だからほとんどの人は死んでしまうか、サナトリウムで一生を終えてしまう。そしてそういう人たちは決して天使とは呼ばれない。天使もどきと呼ばれて死んでいく。なぜなら本当に天使になった子どもは決まって空に飛んでいってしまうから。
——儚い存在なんだよ、と祖母は教えてくれた。
あらわれては消えてしまう、うたかたのような存在。僕はまだ幼かったけれど、それが寂しいことだけは理解できた。
僕がはじめて彼女を目にしたのは午後の海辺だった。西日の焼けたオレンジ色の波が押し寄せる光景がいまでも目に焼き付いている。その波が引いたとき、少女の顔は薄らと見えた。まるでまだ眠っているかのように瞼を閉じた少女。その小麦色の体躯が海に洗い流され、波から現れたとき、異様なまでに突出した背が見えた。大きな幼虫でも生まれてくるのだろうかと思った。その翼みたいな肩甲骨と姿を、人々は天使もどきと言った。それが彼女の名だった。
「天使になるには痛みが伴い、その過程で亡くなったのでしょう」
淡々と伝えるテレビ画面のアナウンサーがひどく物憂げな顔でいる。
夕食は喉を通らなかった。祖母はそんな僕に「嫌なもんを見たねえ」と言った。
「そうかな?」僕は笑顔を浮かべてみる。祖母は不思議そうに首をかしげた。
「どういうことだい?」
「彼女、綺麗だったよ。天使みたいで」
ぶふっと祖母がコタツに味噌汁を吹いた。僕は急いでティッシュを取り出しそれを拭う。
祖母がため息をつきながら、
「バカ言ってんじゃないよ」と僕を睨んだ。
やっぱり駄目か、とわざとらしく頬をかく。でも正直なことは言いたくて、僕は目を逸らしながら、あのときを思いだす。
「まあ、ちょっとは気持ち悪さもあったよ。肩甲骨のあたりが、ぐわーって大きくなってて、ばさって、いまにも飛び上がりそうだった。でも、僕が言ってるのは、あの女の子のほうだよ。とっても綺麗な顔してた。それが天使みたいだったって意味」
「なんだい。死人に恋したのかい?」
「そういうわけじゃないよ。なんか、あの子、虐待されてたみたいで」
「へえ。どこで知ったんだい?」
「ネット。それで、学校でもいじめられてたっぽくてね、家も学校も生きられなくなったから、あの子は空を飛ぼうとしたんじゃないかなって思ったんだ」
「はあ、それのどこが美しいんだい?」
「彼女は懸命にそれでも空へと手を伸ばしたところ」
祖母はやっぱり駄目だこの子、みたいな目で僕を見たあと、テレビを消した。
ああ、消しちゃった。と落胆している間に、よたよたと立ち上がった祖母は皿を台所に運び、水道の蛇口をひねって、洗い始めた。
その背中が悲しげに曲がっていて僕はなんともいえない気持ちになった。
「まあ、天使になる子ってのは、大体そういう子だね。この場所から飛び出したい、ここじゃないどこかへ行きたい。そういう子が天使になって、空に飛んじまう」
「それは悪いことなの?」
「いいや。ただ、あんたもいつか天使になっちまうんじゃないかと思ってね」
思わずきょとんと目を丸くしてしまった。祖母はそんなところに寂しくなっていたのか。思わず微笑んで「大丈夫、おばあちゃんが死ぬまではここにいるよ」と言った。水道の音が止まると、祖母は振り返り、僕を見た。僕はにししと笑ってみせる。
「ふん。まあ、あんたがどこにいこうが関係ないけどね」
「ちょっと! いい話だったじゃん」
「うるさいよ。さっさと食べて寝なさいな。明日は学校だろう」
「うー、おばあちゃんの意地悪〜」
祖母はまた皿を洗い始めた。僕はもう食欲も回復して、目の前のご飯を一気に平らげる。それにしても、僕が天使になってしまう、か。それはきっとないな、と思う。
僕には帰る場所があって、おばあちゃんがいる。今のところは空に行きたいわけでもない。僕はあくびを噛みしめて、今日の夕食を食べきった。もう一度テレビをつけたときにはもう、クイズ番組がはじまっていて、天使のことについて誰も触れていなかった。
明日からまた、学校がはじまる。
天使症候群は、休み明けに多く発生する。みんな学校から逃れるように、天使になる。僕はもう中学二年生だった。クイズで最近の子どもたちが絶望世代と呼ばれていることを問題にしていた。当たり前だ。少子高齢化に、天使症候群。もうこの国は、世界は、どうなってしまうんだとみんなが囁きあっている。
僕はゆっくり瞼を閉じ、海に流れ着いた天使もどきの少女を思い返す。彼女もきっと、最後まで空に手を伸ばしていたのだろう。そう思うと、胸の奥のほうが、じんと痛んだ。
天使解体