『ヒルマ・アフ・クリント』展


 人間の身体も含めて、自然に存在するものの細部を知れば知るほどに明らかになる完璧なデザイン。その全容に覚える驚きと感動が原動力となって、頭の片隅に思い浮かぶ存在。それを神と識り、その御技に近づこうと筆を動かし続けた画家。それが筆者の中でのヒルマ・アフ・クリント(敬称略。以下、単に「アフ・クリント」と記す)の揺るがないイメージである。
 「ヒルマ・アフ・クリント」という名前は、あのカンディンスキーやモンドリアンに先行する抽象画家としてよく知られるようになったと記憶するが、その表現手段も、彼女が主軸を置いた神秘主義者としての姿を抜きに語ることはできない。
 瞑想あるいは交霊によるトランス状態を介して神の真理に至ろうとする神智学を若い頃から学んでいたアフ・クリントにとって、抽象絵画は目に見えないメッセージをキャッチした精神活動を直に表すのに最適な選択だった。具体的に在るものから遡ってその根源に行き着くのを可能とするその「術」は一枚の画面の上で種々様々な事象を融合し、創造された世界の向こう側を窺わせるのに長けている。ダーウィンの進化論や原子論といった自然科学に関する知見への関心を強く持ちつつ、精神的な高みへと至ろうとするアフ・クリントの思想ないし信条にこれほど合致する表現はない。
 言葉にできる教え、生き物の形象、感情的な色彩その他諸々の要素を活かして画家が真っ直ぐに追い求めるものは、例えば白と黒、女性と男性といった二項対立の破壊と創造を主題とする〈白鳥、SUWシリーズ、グループⅠⅩ〉、あるいは東京国立近代美術館で開催中の『ヒルマ・アフ・クリント』展のハイライトというべき〈10の最大物、グループⅣ〉を構成する作品群に込められた確かな主張となり、雰囲気に満ちた空間をその場に作り上げる。後者についてはその一枚、一枚限りで鑑賞しても①命の開花や時間の実りを言祝ぐ色彩に目を奪われ、②その画面構成においてはシンメトリーに描いているようでいてその実、各部分で相対的な違いを見せる点が動的な印象を強く残す。③思うままに積み重なり、重なり合ってを繰り返すモチーフも記号楽譜のような音楽性を獲得して、大画面の向こう側に人々を引き込んでいく。
 本来、思想をテーマとする作風は個人的に苦手とするところなのだが、ことアフ・クリントに関しては、上述したように、相当に開かれた鑑賞体験を得られる分、思想信条の合う合わないを全く気にせずに楽しむことができた。また彼女自身、変化に富む画家でもあったので、その作風をスウェーデンの王立芸術アカデミーで学んでいた頃のアカデミックな絵画から即興的な水彩画に至るまで変貌させている。後者については神智学をより科学的に体系化した人智学の提唱者、シュタイナーの元で学んでいたことの影響が大きかったそうなのだが、そのダイナミズムを俯瞰するだけでも非常に興味深い。個人的に前者の時期の作品だと〈ユリを手に座る女性〉、後者の時期の作品では〈花と木を見ることについて〉が特にお勧めしたい作品となるのだが、〈ユリを手に座る女性〉の巧みな画面が失われてもなお、〈花と木を見ることについて〉に宿る神聖が絵画という技法の奥行きを証明していて面白い。個性というものはその後に宿るでものしかないのだな、と鋭い教えを目の当たりにさせる。
 アフ・クリントについてはドキュメンタリー映画も作られていて(『見えるもの、その先へ ヒルマ・アフ・クリントの世界』)、展示会で鑑賞できる資料集と合わせると画家の姿をより立体的に把握し得る。数多くの研究ノートを残し、学びの足を止めなかった彼女についてはその足跡を追うことが欠かせない。ともすれば商業デザインに近接し、区別がつかなくなる抽象画というジャンル性を横溢する「探究者」としての姿がヒルマ・アフ・クリントという画家を特別にする。そのアジア初の大回顧展、『ヒルマ・アフ・クリント』展は6月15日まで開催中である。グッズも充実しているので、お財布の紐を緩めてその世界観にどっぷり浸って欲しい。

『ヒルマ・アフ・クリント』展

『ヒルマ・アフ・クリント』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-03-13

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