わたしは知っている、君の最期を。
高木柊には未来を見通す力があった。
それは特別便利なわけでもなく、運命というものに自分の未来が勝手に決められるような非情な能力だった。
どうせならと、人の役にたてるよう他人の人生に関わるが、他人の運命を変えるほど、自分の人生も変わった。
いつしか、自分の人生は悲劇のものとなり、高木柊は生きる事に絶望する。
しかし、高校生の時に高木柊の心を変える一人の男の子が現れたのだった……。
なぜあなたは、私の運命に紛れ込んだの?

私は、人生の初めてを知らない。
未来ばっかり、余計に知っている。
「おはよう、ひいらぎ」
「………………」
二階の自室をでて、食卓のある居間に出れば、母は挨拶してくれる。
「おはようさん、ひいらぎ」
「………………」
新聞を広げてた父は、母の言葉で遅れて気付き、優しい顔で挨拶してくれる。
でも、そんな光り輝いた朝の光景が、今の私には受け入れられなくて、ただ、辛かった。
「ひいらぎ、もう高校二年生か。毎日見てると気付かないもんだけど、でかくなってるよなー」
父は、新聞を畳んで置くと、自分の顎に手をやって、感慨深いように、うんうん頷く。
「母さんもそう思わないか? 他の家の子供を見ると成長が早いしなー」
「そうね、子供はすぐに大人になるもの。びっくりしちゃうわ」
…………知らねーよ、そんなの。
「そうだ、みんなそろそろ旅行にでもいかないか? 今年のゴールデンウィークは長いし、少しの遠出なら長く泊まれるだろう」
「いいわね〜! そうしましょうよ、ね? ひいらぎ」
「………………」
なんで、私に振るわけ? 勝手に決めればいいじゃん。勝手に言い出したんだから。
「ん? どうした、ひいらぎ」
「ひいらぎ? ひいちゃーん?」
ひいちゃん? 今さらなにその呼び方、キモい。
「ひいらぎ、少しは返事でもしたらどう……」
「うるさいッ!! 黙れ!! お前らが行きたいだけだろ!! 私を巻き込むな!!!」
ばんっと、机を叩いて立ち上がって、周りに叫び散らかす。
シーンとした、ないはずの音が突然聞こえだして、二人は時が止まったかのように、ぴたり、愕然としている。
……あっ。やっちゃった……。
ほんとはそんなの、そんなの思ってないのに、思ってないはずなのに。私に根付いた化け物の花が、そう言えと囁いてくる。
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ……ッ!!
「ごっ、ごめん。私、学校行く」
そう、逃げるように、そそくさとその場を離れた。
なんてやつだ、私というやつは。今の『高木柊』はただの、クズじゃないか。
くそっ……。くそっ……!
今日は、新学期と新入生の入学式。
みんな、初々しい顔立ちに、少し背丈に合わない制服を着て、次々に名前が呼ばれる。
はいっ、と元気な声で返事をして、新入生代表の子が、式辞を読み上げる。
私が、記憶、という情報の中で、何度も経験した入学式。それを、彼らは初めて、という形で体験しているのだ。
……羨ましい。なんと、羨ましいことだろうか。
式が終わって、教室に戻って、教科書やら、学校新聞のような告知のプリントが配布されたり、担任になった先生のありがたい話を聞かされたり。
そんなこんなの、面倒な一日が終わって、放課後。
わいやわいや、談笑やらふざけた男子で賑わう廊下を、ただ独り、『高木柊』は歩く。
第一と第二の校舎を繋ぐ、外にさらされた通路にでて、鉄の屋根やら白いコンクリートの柱で支えられた、簡単な造りのその通路を、ただ淡々と、何も想う事無く歩く。
きっと、自分の人生は、こんな簡素な道を作業的に、終着点に辿り着くだけのような、味も魅力もない、ただの徒歩移動。
つまんないなぁ、今の私は。『高木柊』は、とてもつまらない。
短い通路を歩いて、そして、第一校舎の入口に入ろうとする時だ。
なんの前触れも無く、ぶわっと、記憶が、断片的に、突然流れ込む。
なんだ? いきなり。しかも、いつも感じる頭痛がなにもない。一切ない。なぜだ?
いつもの儀式のような、毎回の頭痛もなく、ただ知らない風景が映し出されて。
そこには一人のやんちゃそうな男の子が目に映り、「柊センパ〜イ!」とにこにこ笑いながら、私の隣を歩いていて。
そんな、幸せにも視える空間のあと、突然真っ白な、質素な空間に私が座っていて。
先程感じた幸せが、ぶち壊された。途方もない悲しみに、その『私』は襲われていた。
なんで、なんで。
しばらくして、現実に戻ってきた。
サッシのような、簡単な造りになった、第一校舎への入口に立っていて、周りを歩く生徒は、不思議そうに私を見つめたり、一人分の幅を取っているからか、ちょっと邪魔そうな視線を送る者もいたり。
(なんだったの……? さっきの……)
私は、不思議そうに、考え込むように、少し俯いた。でも、いや、今は考えるときではないと、すぐに歩き出した。
第一校舎に入って、下駄箱の列に向かうと、二年生の私の組の、下駄箱の側面に背を預ける、スマホをイジってる男の子がいた。
その男子生徒は、普通の男子より背が小さく、平均的な身長の私より、少し上ぐらい。それで、胸元に新入生が着ける花を象った祝いのバッジを着けていて。
なにより、その子の顔は、さっき、新たに思い出として頭に流れ込んだ、やんちゃそうな顔の男の子だった。
「……? おっ! センパイ来た!」
えっ?
「ども、初めまして、春野ケイです! オレ、センパイと会うの楽しみにしてたんです!」
なにっ? えっ? 私のこと知ってるの?
「えーっと、なにからいうべきかな……。あっそうだ。……すぅーっ、よし。センパイ、オレと付き合ってくれませんか?」
……はっ?
センパイ、センパ〜イ!
「センパイ、センパ~イ!」
うっ、うざい……。
「一緒に帰りましょーよ~、ねーセンパ~イ」
この子、うぜぇ……。うざすぎる。
「ねーセンパ~イ」
黒髪の短髪で、ちょっとぼさぼさっとしてる、刺さったら痛そうな、ツンツンヘアーのやんちゃな男子生徒。
多分、センパイって言ってるし、新入生のお祝いバッジ付けてるし、絶対一年生だよな……。
「センパ~イ」
……にしてもうざい。
なんか言った方がいいのかな? 私が見た、この先の未来もある。出来れば関わりたくないんだけど……。
「センパイに話しかけてから、ぜーんぜんセンパイの声聞いてないっすよ~? その可愛い声を聞かせてくださいよ~」
……ぐぐっ。うざい。そして、キモい。どうにかして遠ざけたい。なにか言わなければ、なにか、なにか。
「あっセンパイ、ちょっといいっすか?」
私の手を掴み、ぐっと、でも、優しく静止させてきて。私の頭に手を伸ばしてくる。
なっなに……!?
「やっ、やめて!!」
パシッ、と手を振り払う。思わず、目を瞑っていた私は、そっと瞼を開けた。
「おっ、ちゃんとホコリとれた! すげーでかいホコリだ~!」
……へっ?
なんか無邪気に、わいのわいの、きゃっきゃ喜ぶ彼は、どこか、子供っぽくて。どこか、一人の女の子に恋をする、一人の男の子に見えて。
「センパイについてたホコリすげーっすよ! ほら! こんなでかい白い綿ぼこり!」
なに、言ってんの? そんな、喜ぶ事?
そんな喜ぶ事じゃ、そんな、喜ぶ事じゃないじゃな……、
「ぷふっ、くふふ、あははははは!」
私はなぜか、彼の行動が可笑しく思えて、ついつい笑ってしまう。
「あっ、センパイ笑った! そんな変な事してないですよ、オレ!」
彼には失礼だけど、可笑しくて可笑しくて。
笑って、笑って、ひとしきり笑って。
笑い疲れたら、彼はむくれた顔をしていて。
「センパイひどいなぁ~。でもセンパイ、ちゃんと笑えるんですね。さっきからずーっと無愛想だったからやっと笑ってくれて嬉しいっす!」
そっちの方が可愛くて似合いますよ。なんて、一言余計な事も、言ってくれて。
なんだろう。なんなんだろう、この子は。
なぜか、この子ともっと、いたいと思えてきて。
でも、それは、叶わないというのは、知っていて。
あなたも、仲良くしては、すぐにいなくなるんでしょう?
あなたも、私から離れるんでしょう?
だってあなたは、あなたは。
(私の記憶に映るあなたは……もう……)
あなたの、春野ケイの葬式を。
……見てしまった。
本来の私。
ある日、六歳の何ヶ月かの日、だったかな。
ビッグバンが起きるみたいに、突然、そう突然に言葉に代え難い痛みが、身体中を巡った。
始まりは、頭痛からだった。
「ままー、頭いたいー」
「あらあら、大変! ちょ~っとまっててねー」
ガサゴソ。
母が、薬用品を詰めた箱を取り出していた。すると、入っている頭痛薬の表示に目を通していて、不思議に思って訪ねてみる。
「なにしてるの~? ままー」
「ちょっとねー、お薬探してるの」
今の私なら分かるけど、きっと五、六歳に使える飲み薬なんてなかったのだろう。
だから、母は「うーん……」と唸って冷蔵庫を漁りだした。
ひとつのペラペラした冷却シートを、私の元に持ってきてくれる。
「いくよー? せーのでいくからねー?」
前髪を掻き分けられ、フィルムを剥がした冷却シートを準備する母。
びたーん!
「気持ちいい~!」
「よかったー、とりあえず冷却シートしかないけどお薬、買いに行く支度するからね」
きゃっきゃ喜ぶ私に、母はふふっと笑ってくれる。
それからしばらくして、だ。
頭痛が酷くなり、身体がふらふらと、意識もせずに揺れだしてから、自分の身体が心配になりだす。
吐き気もだんだん伴うようになって、もうだめだ。そう思う暇もなく、いつの間にか、ソファに横たわっていた。
「大丈夫!? ひいちゃん!? ひいちゃん!!?」
母はとても心配気な声で、ゆっさゆっさ、私の身体を揺らす。
自然と息も荒くなってきて、揺さぶられるのが辛いほど。
「……ゃん! ひいちゃ……、……じょうぶ!?」
やめて、揺らさないでとも言えず、いつの間にか母の声は、朧がかかったように、ぼやけていた。
「ま……ま……、ま……」
ひたすら母を呼んでた気がする。そうでもなきゃ気を保ってられなくて。
「きゃーーーー!!」
母の悲鳴が聞こえて、気付くと、目の前には今朝食べた固形物、にんじんやら、ブロッコリーやら、おかゆみたいになった米粒とかが、黄色い液体とともに口元に広がっていて。
次第に腰の辺り、股間を中心に、仄かに温かい濡れた感覚が広がっていて、その時は気付かなかったけど、おしっこも漏らしていた。
「あぅ……、ぅ、ぅぅ、……ぅ」
次第に身体が小刻みに震えだし、腰に鉛がびっしりこびりついたかのように重く、鈍い痛みが宿る。
それは腕や足など、筋肉が集中した部分にも広がっていて、筋肉痛みたいな痛みも走り始めて。
し、死ぬ。死ぬ……。
ただ、死の概念もない幼子の私が、同じ概念を感じて、同時に恐怖にも苛まれた。
ぐちゃぐちゃになった、口の中で歯がかち鳴る。
顔が表情だけでなく、鼻水と涙でも汚くなる。
もう、死の一歩手前だった。
色んな感覚がどんどん、どんどん薄まっていく。
何も感じないようになって、気付ける間もなく、ほんの刹那に途切れていた。
ぷつりと。
病院?
最初に見えたのは、母の安堵した顔。
夢を見たような暇もなく、ふと、意識が戻ったのだ。
次第に、曖昧だった五感がしっかりしてくる。
「大丈夫!!? ひいちゃん!!」
「……まま?」
母はびっくりしてた顔をすぐに安堵に変え、ぐわっと覆い被さってきた。
「よかった、よかった……!!」
大人気ない泣き声をあげて、ぎゅっと、抱きしめてくれる母。
「ここは……?」
周りはよく、テイキケンシン? で来る場所で。
「ここは病院、ひいちゃん救急車で運ばれたのよ」
「きゅーきゅーしゃ……」
確かに、あの独特な、変なあまにがい? 匂いもするし、看護師のお姉さんもいる。静かな中で、談笑する声も壁の向こうで聞こえてくるし、一体何だったのだろう。そう思った。
そしたら、突然、シャボン玉のような透明な泡が、どこからか浮いてきて。
「……? なに、あれ?」
ただ私が、疑問符を浮かべていると、母の頭上辺りまで漂ってくる。
母に、あれはなにかな? そう訪ねようとした時、
「うわっ!!?」
泡が私を吸い込んだのか、急に目の前が真っ暗になり、いつの間にか、五感というものが消えていた。
学校?
「うわっ!!?」
消え失せた五感が再接続されるような、急に不時着した感覚。
どすんとした感覚の後には、どこか浮遊感が残り、あとに違う匂いが鼻につく。
「ぅく……???」
木がなにやら汗? とか変な色んな物を吸い込んだ、鼻につく香り。
(なんか、臭いような、木でできたやつの匂い)
気付くと私は、鉄パイプの骨組みに木を乗せた机に椅子、それに座っていた。
次第に肌に、生暖かな風が感じられる。
「あった……かい? 春……?」
あれ、春って、なんだろう。
自分の中に知らない、『季節』という感覚がある。
(ここは……?)
陽気な、それこそ日向ぼっこしたい気温。
でも、周りのみんなは、私と同じように椅子に座っていて。なにやら薄い本、今の私の頭にある知識でいうノートに教科書、シャーペン、消しゴムを揃えて、カリカリ書いてるものもいれば、ボケーっと前を見てる人間もいる。
「えー、それでこの数式はこうなるわけだ。高橋、ここ答えてみろ」
「はい」
目の前の席の人、ぴっしりした服を着た男の人は、すらすらと答える。
周りの人も、そのぴっしりした服、制服と呼ばれるものに身を包んでいて、私もそれを身につけていた。
(頭の禿げてるおじさん……、確か山田先生)
目の前には、デブッチョハゲのおじさんが、スーツを着て立っている。
その人は、確か数学の先生。
「あれ? 数学? ……先生?」
私が呟くも、周りは胡乱げな目線を寄越すものが少数。
私は、みんなといるのに、ただ独りのようで。
孤独感に苛まれる私に構わず先生は、チョークを押し付くていく。カンカン、ガンゴン。
合わせるように、黒板がギシギシと鳴り、どこか黒板が泣いてる気もする。
(読める……?)
黒板に書かれている、今までなんと無しに、見てた絵だと思ってたものが、文字として認識できて。
そう言えば、思い出そうとすると、それらの文字について、必死に書いて練習した気がする。それに、文章の意味というもの……仕組みを理解して。
他にも、この学校と呼ばれる場所で、いろいろな『勉強』をした事を思い出した。
それに、友達とか、人間関係でいじめとか、複雑なものがあるのも知ったな。
そして、中学生に進級して、勉強はただ難しく、人間関係は上下関係がある事も知ったっけ。
そうだ、私は今、高校生の『高木柊』。
決して、ひいちゃんと呼ばれた時代の高木柊ではない。
早めの反抗期を迎えて、そして色んな事に挫折して、両親とケンカして泣かせてしまって、色々を経験して形成された高木柊。
「うわっ、また……!!」
全てを理解した瞬間、また感覚が消えて、浮遊感に包まれた。
これは、なに?
ボディーガード先輩。
「君、こういうサークルなんだけど入るかい?」
「……え?」
気付けば、目の前に男性が立っていた。
痩せ型の体形の彼は、私にプリントを差し出していて。
「あ、あの。つかぬ事をお聞きしますが、ここはどこですか?」
突拍子もない出来事の連続に、自分で頭の中の記憶を探るという事を忘れて訊いてしまった。
今、気付いた。
「え? ここ大学だけど、どうしたの?」
「……???」
私がはてなを浮かべていると、男性も首を傾げて、あら不思議。同じポーズ。
「まあ、いきなり話しかけた俺が悪い。困惑しちゃったよね? とりあえず、このプリントだけでも」
「え、ええ……」
大学、そうだ。大学に入ったんだ。
今の私には、いつの間にか蓄えた知識と記憶がある。
(ふーむ、サークル……か。入ってみるかな)
私に手を振り、見送ってくれる男性に、愛想を含めた苦笑いを浮かべ、帰路につこうとした。
その時だ。
また、感覚が遮断され、いつの間にか場面が切り替わっていた。
「いやー、わがまま聞いてくれてあんがとね、ひいちゃん」
「……えっ、えっ?」
気付けば、周りは海で、私は砂浜に体育座りしてる。
遠くの夕暮れが綺麗で、海も黄昏に染まっているけれど、問題な事に、私の隣に男性が。
しかも、話しかけてきてるし、顔を見れば、サークルに誘った男の人。
なんでこの人、ちゃん呼びしてきてるんだ? なぜ、なぜ……。
……いや、思いだした。
「まさか、俺達、付き合うなんてね。自分でもびっくり」
この人はがくとさん。
私を、サークルに誘って、そのサークルにいたヤリチンの被害に合わせた張本人。
もちろん、がくとさんも責任を感じて、必死に私を守ってくれた。
でも、必死になりすぎて、男の人が話しかけてきただけで、相手からガードしたり。
いっとき、この人が先輩だから、ボディーガード先輩なんて呼んでたっけ。
「ひいちゃん、こんな俺を好きになってくれてありがとうね」
そう、私はこの人に告白した。
自分でも馬鹿らしいけど、こんな私に必死になってくれるのが、ただ嬉しくて。
彼の事が、可愛く思えて、気付けば惹かれてた。
「ふふ、ふふふ」
「んー? 何がおかしいの? ひいちゃん」
「いえ、なーんでもないですよ。ボディーガード先輩♡」
「あーっ! また、その呼び方した! 俺、そう呼ばれるの嫌いって言ったじゃーん!」
「ふふふ、あはははははは!」
楽しい、楽しいな。
そうやって、ひとしきり笑って。
彼の方を見ると彼がいなくなってた。
「……???」
気付くと周りは、スーツ服に身を包んだ人がどたばたとしていて、私も女性用のスーツを着てた。
「……あれ?」
なんで。そう思うが、その思考を阻害するように、周囲は慌しくしていて、考えようにも人が話しかけてきた。
「高木さん! これっ、取引先の!!」
……取引先?
ぼんと置かれた書類には、細かい文章が並んでいて、見ているだけでいやになりそう。
書類の先には、ノートパソコン。隣には、分厚くなったファイルがズラリ並んでいて。
周りの人を見れば、バタバタ移動する者や、血走った目でパソコンに向かい合う者。
はたまた、少し離れた所に設置されてるプリンターが変な音を出し始めて、近くにいた男性が「あれ!? まさか壊れた!?」なんて言う始末。
これは仕事場、だよね? 私の記憶にも就職した思い出あるし。
(え~~~、やだー。とりあえず、自分の仕事やらなくちゃいけないや~ん)
残業にもなって、疲れ切って終わらせたのに「飲み会行こうぜ~!!」なんて言ってるハゲの上司をぶん殴りたいが、私は業務中に大事な事を思い出したのだ。
「どうだーい? 高木くんもいかないかーい?」
……、うん殴りたい。
でも勘弁してやろう。私のこれからの用事の方が大事。見逃してやる。
会社をでて、いつもの帰り道とは違う道を辿り、小走り程度に早く歩いていく。
ヤバい、待ち合わせに遅れる。
ある噴水広場に着くと、あの時の彼がいて。
コートを身に纏い、片手をポケットに突っ込んで、スマホをいじる彼は、どこか様になっていた。
こそこそと、足音を立てないよう忍者歩きして近付く私。
彼の元に辿りついては、ニヤニヤしながら彼の肩を、とんとん叩いた。
「せーんぱい! お久しーです!」
「おっ……! ひいちゃん久しぶり! で、なにその挨拶?」
「へへへ、私流のご挨拶ですよー」
「まったくもー」
ひとしきり、二人で笑って、街に繰り出す。
お買い物して、ちょっとお高めのアクセサリー買ってもらったり、二人で本屋に立ち寄ったり。
たまに好きな本の議論になって、疲れては、オシャレなレストランにいって。
お腹いっぱいになって、最後に飲んだ赤ワインで頭の中も、曖昧な気持ち良さでいっぱいに。
「せんぱ~い、そろそろ結婚しましょーよー」
べろべろに酔った私は、心の片隅に置いといた物を意図もたやすく言葉にしてしまう。
しっかりとした場面に言おうと思ってたのに、勿体ない。
まったく自分てやつは、つくづく。
「うーん、でも、ひいちゃんの仕事落ち着いたにしよーね?」
「うわ~ん、うわ~ん! せんぱいがいじめりゅ~!!」
「こらこら」
がくとさんの腕にしがみついている私に、イヤそうな素振りを見せない、苦笑いな仕方ない、というような表情。
あー、居心地がいい。
これがずっと続けばいいのに。
「……ぬっ! あそこにラブホが! 隊長、初めてを今日やっちゃいますか!!!」
「な、なにその軍隊みたいな」
まあ、いいよ。
赤い頬をさらに紅くして、私の言うがままに付き合うがくとさん。
大学の時は、ヤリチンに連れて行かれそうになったラブホだけど、ようやく本来の使い方が分かった気がする。
がくとさん、好き。
死。
気付けば一軒家のキッチンに立っていた。
「……あれ?」
私、今何してるの? ……えーと、あっそうだ。確か、朝食を作っていて、それで。
「んー? どうした、ひいらぎ。そんなボーっとして」
振り返ると、あの人だと分かるけれど、でも老けたなぁ……顔の彫りが深くなったなぁ、と感じるがくとさんがいた。
「あー……いや、なんでもないのよ、あなた」
咄嗟にそんな言葉がでて、えっ!? て自分でもびっくりする。
そうだ、今の自分の記憶にある。
あのあと、付き合ってたがくとさんと結婚して、息子も産まれた。
「まあ、たくとが最近帰ってきたから、思いにふけるのは分かるけどな」
「たくと? 誰?」
「んー?? 何言ってるんだ、俺達の息子だろ? まったく、ボケ始めたんじゃないのか」
そうだ、たくとは息子の名前。
手のかかる、やんちゃな子で反抗期とか大変だったけど、がくとさんと二人で、しっかりあの子に向き合ってきた。思い出した。
それで、今は老夫婦になって、私達で生活してるんだった。
「まったく。あまり間食しすぎるなよ。お前は太りやすいんだから」
「な、なによー! もう知った口で、一言余計なのよー」
「そりゃ知った口にもなるだろう、四十年は付き添ってるんだからな」
四十年……、確かに……そうね。
「そうだ。今度、気分転換にどこか出かけないか? 遠い所の方が新鮮味もあるだろうしな」
「そうね、そうしましょ」
ふふふ、と笑うと老いたがくとさんもつられて「何もおかしくないだろ?」と言いつつも微笑んでくれる。
「ふふふ、……あっーーーー」
そこで、意識が途切れた。
今度はあとから、あとから浮遊感が纏わりついてきて、先程よりも遅く、感覚がちょっとずつ、接続されていった。
一番先に感覚が戻ったのは、嗅覚だった。
ホコリ臭い匂いを感じたあと、次第に、本当の暗闇を感じるようになって、ゆっくり瞼を開ける。
「あっ、起きた……! 母さん、俺だよ!? 分かる!?」
知らない、中年男性の声が聞こえる。
聴覚も、戻ってきたんだ。
でもこの必死な声。懐かしいかも……、でも私が知ってるのは、もうちょっと若い声だなぁ。
視線だけを動かしてみる。
どうやら私は、ベッドに横たわっているようで、回りはカーテンが覆っていて。
その少々のスペースに、中年の男性と白髪のおじいちゃんが、私を見つめていた。
「よかった、最期くらい目を覚ましてくれたんだな」
そういうおじいちゃんは、どこか、旦那に似ていて。中年の男性も息子のたくとに似ている。
上手く今までが思い出せない。
今の私の記憶にあるのは、七十歳近くなったがくとさんと、遠い、お出かけの約束した所までの全ての『キオク』。
「母さん、半年前から倒れたっきり目覚めなかったんだよ!? 分かる!?」
へー、そう……なんだ。
私、倒れたんだ。
「よせ、もう長くないと言われただろう、たくと。伝えたい事だけ話せ」
「で、でも父さん!!」
ああ、私、死ぬんだ。
確かに、さっきまでより感覚が薄い。
「ひいらぎ、今までありがとうな。すぐに跡を追うからな」
あー、やっぱりそうなっちゃうのかー。
あはは、でも大好きな人にすぐ跡を追うだなんて、言われて。嬉しい……。
「母さん……! 今まで迷惑かけてごめん……! 全っ然恩返しできなかった……、ほんとごめん!!」
いいのよ、別に。あなたが幸せなら、それでいい。
「母さん……、これだけは言っときたい……! 俺を産んでくれてありがとう……!!」
あー、意外に来るなー。目がつーんってしてる。
私の両目からは涙しか出なくて、でも、それでも。これは伝えたい。
「……が……くと、さ……。たく……と……、あり……が……と……、ぅ……」
必死に声帯を絞り出した声は、すごいしわがれたおばあちゃんの声で、私はババアになったんだなぁ、と痛感する。
そして、今度は確かな浮遊感がやってきて、どんどん目の前が暗くなっていった。
二人が、なにか言ってるのは聞き取れるんだけど、ぼやけててよく分からなくて。どんどん、その声も聞こえなくなってゆく。
どんどん、どんどん。……どんどん、どんどん。
何もなくなっていくような感覚の中、テレビの電源を切るように、呆気なく、ぷつんと『私』が途切れた。
「が……くとさん、たく、……と」
いつの間にか、誰かがそう言ってるのに気がついて。しばらくして、幼い自分の声だと気付いた。
ふとした瞬間だけど、気付けば、夢を見たあと突然起きるように、感覚がしっかりと戻っていて。ゆっくり、瞼を開けてみる。
ぱち……。ぱち、ぱち。
瞼を瞬かせ、風景の一部と思っていたものが、母の顔だとしばらくして気付いた。
「大丈夫!!? ひいちゃん!!」
そう言って泣きそうになる母。
回りは見覚えのある部屋。
ここは病室と呼ばれる所。
しかも、一度感じた、見たようなこの一連の情景。
(デジャブ?)
あれ……? デジャブって言葉をなんで知ってる?
なぜだ? なぜ……、
「よかった、よかった~、ひいちゃ~~ん……!!」
ずびずびびと鼻水すすって、みっともない泣き声を上げて私に抱き着いてくる母。
やっぱり、知っている。
「お母……さん……」
このあと、なにもない、てんかんの持病を持ってるのかもしれないと、おじいちゃんの先生に診断される。
てんかん? なにそれー、と当時は思っていたが、今はそれへの知識がある。しかも、一人の『高木柊』の人生の中で知り得た知識、経験が。
一体、なんだったんだ?
なに、これ……。
「ひいちゃん、もう小学生かぁ。お母さん感激しちゃうなあ」
そういう母を尻目に、炒めてあるしっとりチャーハンの朝食をはむ、はむと口に運ぶ。
ちょっと冷めてるチャーハンを、もちゃもちゃ食べながら、朝食に脂っこいもの出さないでほしいな、なんて頭の隅でぼやいてたり。
でも、母の愛情がこもってる、この食事が食べられるのは今だけなんだろうなぁと、子供らしからぬ発想をしていたり。
とりあえず、うまい。うまいうまいうまいうまい、うまい!
「ひいらぎ、お父さんそろそろ行くな? ママ、ご馳走さま、朝食にしては脂っこいかも、美味しいけど」
なんて、父は代弁してくれて、やっぱりそうだよね~なんて、父の正論なご感想にうんうん頷く。
「あらあら、美味しいだけでいいのにぃー。作るのも大変なのよー? まったく」
ごめんごめん、と父は言いながらネクタイを締め直して、「じゃっ」と手をあげて居間を出ていく。
私はこれまた子供らしくなく、口に含んだチャーハンを咀嚼しながら、手を上げ返して、反応した。
父は、ちょっとびっくりした顔をしつつも、すぐに微笑に変えて、家を出ていっていく。
「ひいちゃん、あれからいきなり大人っぽくなったよねー」
ごっくん、口の中の物を嚥下して、粒も残さず食べ終えた平皿。それに向けて、手を合わせる。ご馳走さま。
母に皿を渡して、美味しかったよ、とその一言だけを伝えては、母の背中をぽんぽんたたく。
「お母さん、いつもありがとうね。感謝してる。学校行ってくるね」
そう、子供の声ですらすら言うもんだから、母は「はっっ!?」と父の分の皿を洗ってた手を止めては、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「お母さん、感激しちゃうよぉ……。ひいちゃん、ほんっと大人になったぁ……」
ぐすんぐすん、そう泣いて大袈裟な事を言う母に、ちょっと言葉にしすぎたかな……、と宥めるように抱きしめ返す。
「ううん、お母さんの事、大好きだから。ちゃんと言葉にしないとなって。そんなに泣かないで」
ぽんっ、ぽんっ、と母の背中を手のひらで叩き、どっちが親で子なのか分からないような中、そろそろ行くね、と母の抱擁から離れる。
「うんうん、ごめんね。学校頑張ってね、いじめられないでね」
そう優しく諭す母に、ありがとう、そう言うだけで母はまたボロ泣きする。
もうめんどくさいから、そそくさと離れて、水色のランドセルを背負っては「行ってきます!」と振り返りがちに残して。
「いってらっしゃーい」
母は手を振って送り出してくれて、外への扉をガチャリ、開く。
春にしては少し照りの強い陽光に、寒さも覚えるそよ風。
とてもいい天気だ。とても、とっても。
ある程度の道のりでは、誰とも出くわさずに歩く事になる。
そして、今、自分の中にある情報……。『キオク』という形で道を辿る程に、次々思い出す思い出は、確かに私という存在が辿ったもの。
一人の『高木柊』が辿ったその道は、ある程度の変化では変わらない事を知った。
例えば、今歩いてる、このアスファルトの狭い一本道。
家の塀が壁となり、その上から、漏れ出す木々の葉っぱ。そして、道端に小石がひとつ。
これは本来、無視して記憶の私は通る。
しかし、以前、ちょっとした好奇心で蹴ってみた。
蹴っても、ただ『蹴った』という事実になるだけで、私のこれから起こる事はまったく変わらない。未来予知したかのように、どんどん目の当たりにしていくのだ。
今の私は、一人の『高木柊』を見届けた、もう一人の『高木柊』。
どうせなら、悔いのないようにと、人助けは出来るだけするように、私はした。
ちょっと重たそうにしてるおばあちゃんが、歩道橋を渡ろうとしていたり。
怪我した五歳ぐらいの男の子が泣き喚いていて、その傷の手当てをしてあげたり。
そのような他人の人生に関わるような事をした時、以前ほどの痛みではないが、激しい頭痛がやってきて、また情報が流れ込んできた。
記憶という形で流れ込んでくるそのデータは、以前の私の思い出にあった記憶とは違う、少々の変化が訪れていて。
例えるのなら、交友関係が代わっていたり、これから身近の人と話す、大事な用件が変化していたり。
それぐらいの変化だけど、確かな変化だ。
二、三回ほどの人助けだけど、それで確信した。
人に干渉する度合いが大きい程、私のこれからの人生が、変化するという事だ。
しかも、結構の頭痛もセットという、めんどくさい効果付き。
ゲームのプレイヤーが、物語の分岐があるゲームをしていて、これからするはずのRPGは知ってるけど、少しでも違うルートに行く行動をすれば、プレイヤー自身がダメージを受けてそのルートの先が分かる。
そんなプレイヤーに超迷惑な能力が、私にはあるのだろう。
いやぁ、面倒くさいったらありゃしない。
そしてこのあと、小学校に登校して休み時間になると、私が後悔したリストの中の、ひとつの事柄に直面するのだ。
「おーぉい、おまえー、全っ然喋らないよなー、口あるのかー? おーぅい」
いじめっ子のガキ大将、と呼べるくらいやんちゃそうな男の子が、一人の男の子に話しかけている。
てかあの子は、いじめっ子のガキ大将になる存在なんだけどね。
ボブカットのなよなよな男の子は、少し無愛想に、でもほんの少し嫌そうな顔をしていじめっ子の事を無視していた。
「おい! 聞いてんのかよー!」
そうしつこく、ダンっ! とボブカット男子の机を叩いて、いじめっ子はずずいと、彼にその顔を肉薄させてみせた。
知っている。やっぱり、知っている。
このあと、いじめっ子のいじめはどんどんエスカレートしていく。
ボブカットの男の子は、その年齢で知るには早すぎるほど、どんどん酷いいじめを受けていき、最終的にはグルになった男の子二人も加わって、掃除に使う雑巾をいれたバケツの水を飲ませたり、暴力を振るったり、次第には大怪我させて学級問題にもなってた。
その後の男の子は、当然、不登校になっていって、私が中学二年生頃に聞いた噂だと自殺してしまったと。
中学卒業してふと気になった時、卒業アルバムを見たけど、小学校のアルバムには載ってた名前が、中学のものには載っていなかった。
彼は、本当に迫害されて、死んだのだ。
彼は緘黙症だったとも聞いて、一時期場面緘黙の事も調べていた記憶がある。
男の子は、彼は、死ぬ。……死ぬんだ。
ずっと後悔してた。
自分の人生が多少変化するぐらいなら、彼を助けたい。いや、助けなければならない。
助けなければ、助けなければ、助けなければ。ただ、そう思ったんだ。
「あなた、ちょっとしつこいんじゃないの?」
席を立ち上がり、意を決して彼らに近付いた。ボブカット男子は無愛想のまま、顔がこちらに向いて、いじめっ子は「はぁ……!?」て顔して、こっちを見る。
「こうきくん、嫌がってるじゃないの!」
「嫌がってるって、全然イヤそうな顔してねーじゃん!」
そうじゃないんだよ。
君も、この子が死んだ事を聞いた時は、凄い動揺していた。その後もきっと、苦しんでいたはずだ。
君のためでもある。君のためでもあるんだよ。
「たいきくん、これはあなたのためにいっておくわ。こういうのはよくない!」
そう、いじめっ子のたいきくんに強く言う。
言うんだけれど、当然、この年の子を諭すことなんて簡単じゃなくて。
「そんなん知らねーよ! 別にどーでもいいだろ! お前は引っ込んでろよ!」
そう言って、乱暴なたいきくんは、私の体をばんっと突き放して、体重の軽い私はいとも簡単に倒れてしまった。
いてて、と尻もちつく私に、周りは反応しだして「あっ! たいきくんがひいらぎちゃんに暴力ふるった!」「ひいらぎちゃんかわいそうだよ!」なんて批判の嵐が聞こえだす。
「し、知らねーよ! こいつが勝手に突っかかってきたんだよ! 俺は悪くねーよ!」
お尻のヒリヒリ感に耐えて、彼に反論しようと立ち上がりかけた時、ズンっ!! と頭を中心に物凄い重力がかかった。
何も無く、ただ突然に衝撃が走り、あの時のような、頭が勝ち割れるような痛みが頭部を中心に拡散していく。
切れ味の鋭い日本刀で身体の真ん中をすっと切られて脳みそが露見するように、涼しさも感じるかのような激しい熱感、言葉にし難い痛みが頭を襲う。
「ぐあぁぁぁああッ!! ああああああぁぁぁあッ!! いだい!! いだい!! いだい!!」
赤く熱した鉄の塊を、直接脳に当てて沸騰させられてるような、どうしようもない痛みに、ただ痛い、痛いと頭を掴んでじたばたと身体を動かした。
永遠にも感じる痛みの中、どんどん、次第に痛みを忘れていく。
私はいつの間にか、太陽が照らす色鮮やかな空間にいた。とても陽気な 生暖かな場所だ。
気付けば、しっかりと身体の感覚もある。
周りを見渡すと、制服を着た若者がいて、私も高校の制服を着ていて。
桜がひらひらと舞う、希望にも満ちたようなこの場所でみんな、泣いてたり、やったー! と喜んでいたりしてる。
周りの景色を見てる中、気付くと前にはボードがあって、数字の羅列の後に合格、不合格が書かれていて。
どうやら、受験結果の確認の風景らしく、そう言えばここで私はどきどきしながら、自分の受験番号探してたな、と思い出す。
そして、まあ合格してたし、この光景の中でも合格してるでしょと、記憶の通りに受験番号を探し当てた。
不合格。
私の受験番号の後には、不合格。とただ淡々に書かれていて。
(あれ? おかしいな)
私の持ってる受験番号の書かれた紙と照らし合わせ、ちゃんと確認する。
あれ、合ってる。
……??? 不合格……???
そこからまた、感覚が遮断され、浮遊感が身体を襲った。
私という存在は、母胎の中にいる胎児のように身体を丸めていて、瞼を開くと私は、高校生ぐらいの身体で。
体育座りを、ぎゅっとした体勢を解いて、今浮いてる暗闇の空間に、身を任せてみる。
すると、目の前にシャボン玉のようなものが、ふよふよ、ふよふよ浮いて、近付いてくる。
中には一人の「高木柊」が映し出されていて、生活様子と云うべきか。一定の場面が映し出されては、次に次にと、映る映像が変わる。
その中の私は、記憶の通りアパートを借りてるんだけど、なんか様子が変。ずーっと家にいてごろごろしてたなーと思ったら、深夜の時間帯に急に支度をしだして、外に身体をくりだす。
向かった先は食品工場で、どうやらアルバイトしてるみたいだった。
そう言えば、今、この映像の私の記憶のようなものが、頭の中にある。
それは受験に失敗して、フリーターになって、一人暮らしでアパートを借りるも、お金が足りず、夜の仕事をしたり、風俗嬢やコンビニ店員など、色々な経験をしていた。
記憶の捜索に更けていると、気付けばシャボン玉に映る映像はだいぶ代わって、六十歳ぐらいの自分が映し出されていて。
その自分は、なんか変で、口を開けて「あ、う……、あえー」て言い出したと思ったら、急に走り出したりして。
今まで記憶の中にある、認知症の老人がするような行動で。
よく見ると、なにやら同じような老婆や、老人が周りに沢山いて、受付など病院のような造りが見れることから、なにかの施設だと思われた。
そう言えば、老衰して動けなくなった母を入れた老人ホームが、こんなだったような。
ま……、まさか……ね。
でも、怖いことにこの私が可笑しくなりかける頃の記憶が、既にインプットされていて、ヒヤッとした恐怖に襲われながらも、少しづつ記憶を探っていく。
もう、奇行を行うようになった記憶は曖昧だが、それまでの記憶は確かにある。
大学に行くはずだった私は、アルバイト漬けの毎日に置き換わっていて、サークルで出会うがくとさんとも、そもそも出会うフラグがないからだろう。一生独身でいて、ただ独りでストレスに苛まれ、本来の結婚して出来た家族に見送られる最期ではなく、六十代早々に認知症にかかって、ただひたすらに可笑しくなっていく人生に変化している。
なんで、なんで。なんでなんでなんでなんでなんで……!?
なんでこうなったの!?
私の、あの苦労した幸せな人生は!? どこに行ったの!? こんなただ寂しい人生をなんで送っているの!?
やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだッ!!
………………………………………………………………………………。
……あっ、そうだ。あの、いじめに関わったからだ。
私の記憶に入ってる。あの子は死なずに、あれから明るくなって、高校生まで同じ学校に通ってた。遠巻きに、助けられて良かったと思っていたんだ。
きっとあの子に深く、深く、深すぎる程に関わって、人生を変えてしまったんだ。
だから、私の人生が……。
私の、人生が……。
……壊れた。
もう、……イヤだ。
『高木柊』にもう、うんざり。
あれから私は、他人の人生に関わらなくなった。
それは、単なる人間関係への、怠惰、堕落ではない。
自分の人生が、さらに壊れるのが、ただ、怖くなったからだ。
あの、いじめっ子たいきくんを止めたあと、気を失った私は、保健室でぱっと起きて。
「あ、高木さん。大丈夫?」
「先生?」
「あなた、泡吹いて痙攣しちゃっててね。私が来たときには白目むいてたからびっくりしたよ」
「す、すみません……」
保険の先生はもう事を進めて、ちゃんと、母に連絡してくれていた。
先生と母との相談で、早退の後に、近くの病院で軽い検査を受けることになった。
もちろん医者には、何も言われない。言われないどころか、不思議な顔をしていて、持病と診断されていたなら、それなのかもしれないと、母に診断結果を伝えていたな。
それからの学校生活は、きっとあんな事があったからだろう。急に、クラスメイトがぶっ倒れて痙攣するから、怖いと感じたのだろう。
私は、次の日からただ独り浮いた存在として、誰にも関わられなくなり、話しかければ怖がられて、すぐさま逃げられるような、ただ畏怖の存在となってしまった。
誰とも関わらず、関われず、自分の未来が思い出として、『キオク』として、呪いのように私の心に深く根付いてきて。
私の生気を吸い取って、醜い黒い花を咲かせたそいつは、その自分の姿を誇示するように、どんな時もいかなる時も、私の意識に入り込んできた。
寝ていても、両親と楽しく話している時も、ふとした瞬間に、そいつは背後から襲いかかってきて。
ああ、自分の人生が視えるというのはこんなにも怖いんだなって、認識してしまった。
「ひいちゃん、最近元気ないよ? 大丈夫?」
母は、私の瞳を覗き込んで心配してくれるけれど、見つめ返す母の瞳孔の奥には、こんな自分を煙たがるような、邪魔そうに見つめる母の姿が視えて。
もう、……もう何もかもが怖くなって、苦しくなって、信じられなくなって、イヤになって。
私という存在は、元の『高木柊』とは違う、鬱屈とした孤独を象徴するような、誰も信じない、なにごとにも希望を持たない、ただ暗い陰の存在として形成されていった。
私は小学校を卒業し、中学に進学した。
私が見た、ただ孤独な生涯を全うする『高木柊』は今でも、変わらなくて。
その『高木柊』は良い方向に変わる事も、さらなる絶望に変わる事もなく、ただ『そのままの高木柊』だった。
本来、この世界線の『高木柊』が交友を持つはずだった人間が話しかけてきても、私はもういい、疲れるからと友達にならなくて。
その場合でも、私の立てた見立てでは、その時点でその人の人生も変化するわけだから、自分の未来も変わるはずだ。
しかし、頭痛や情報が頭に流れ込んでくることはなく、関係を持たなかった、という事実に変化しただけだった。
きっと、自分から行動を起こして相手の人生に関係しなければ、相手の将来は、変化しないということなのだろう。
自分が必要なければ、ただそれだけになるだけで、未来さえも変わらない。
そんな事実が、私『高木柊』は要らない存在なのだと、そう告げられている気がして、今さらだけどさらに落ち込んで。
でも、ああ、やっぱり。と納得も出来て、今のこの『高木柊』は誰にも必要なく、迷惑もかけず、ただ独りで死のうと、決心もできた。
やっぱり、人一人の存在じゃあ、誰も要らないよね。他の人もそうであるように、『高木柊』も特段、特別な人間ではないのだ。
私は、要らない存在なんだ。
変態うざ人間、春野ケイ。
時は今、高校二年生。
あれから一週間、彼は、めっちゃくちゃ纏わりついてきた。
うざい、うざすぎる。そう、最初に感じた印象を、再認識させつづけるように。めっちゃ、めっちゃ絡んできた。
(うぜぇ……)
今までの、どんな私の記憶でも、どんな私でも、お気に入りだった屋上。
その屋上で、こっそり昼休みに弁当を食べていても、すーぐ来るし。
まるで、どこにいるか分かっているかのように、しばらくすると姿を現すのだ。
「ででーん! どーもー、春野ケイでーす! みんなのアイドル、そして君だけのプリンス、春野ケイのお出ましだぜ~!?」
…………うぜぇ。
ほんっと、うぜぇ。
「ケイくん、うざいよ」
「えっ、まじっすか……、オレ落ち込みモードに突入まっしぐら~……、がーん……」
…………うぜぇ。
この子はなにかと、私の記憶の中にはない、知らない行動をする。
そもそも、あの時見た『キオク』は、頭痛もなく、なにもなく。ただ、ただ温かい映像を、場面場面で見せるような、優しいもので。
そんなのを、断片的に見たものだから、彼がこれからする行動なんて、分かるはず無くて。彼自身もひたすらよく分からないやつ。
私の、今の『高木柊』の運命に紛れ込んできた、特殊な因果を持つ存在。そんなイメージを、彼に抱いていた。
だから、私が心の中で、彼に付けているあだ名は因果くん。
因果くんは、「かなしみ~……」なんて落ち込んだ顔をしながら、ほんとは落ち込みなんて知らなそうな、嘘っぱちの雰囲気を纏っている。
ほんっと、うざいなぁ……。
「……ふふ」
「……? センパイ、オレなんか変な事しました?」
めざとく、私の変化を目につけてくる因果くんに、私は「いや……」と呟き、そのあとにこう続けた。
「因果く……じゃなくてケイくんが今まで触れ合ったことのない人だから、さ」
「……ふーにゅ、そうすかねー? オレみてーなうざいやついっぱいいると思いますけど」
うざいって自覚あったんだ。それならもう少し、アピール控えめにしてほしいけれども。
「そうだ、センパイ。今度カフェいきません? 女子はあーゆーとこ好きでしょ?」
カフェ? 勝手にオシャレが好きな、そこら辺の女子と一緒にしないでほしいけど。……でも。
人に関わって、私の人生が、こんなに変わらないのは初めてだし、たまにはいいかも。
「……じゃあ、いいよ。いこっか、カフェ」
「じゃあ、てなんすかじゃあって! センパイ、口数がめっちゃ少ないっすよねー。オレにもっと心開いてくれてもいいんすよー? 心を開いてプリーズ♡」
そんな事をいって、ズキュンっ、と胸の当たりに両手でハートを作る、因果くん。
うぜぇキモいしつこいの、三拍子を具現化したような彼だが。そんな彼に付き合うのも、悪くはないかもなんて、ちょっぴり思ったり。
「あれれ~? センパイなんでちょっとニタニタ笑ってるんです~? いやだー、キモ~い」
お前が言うな! この変態うざ人間!
ウィンナー野郎。
「……それでセンパイ、そのゲームがめちゃめちゃ難しくてー、たまにバグるという折り紙付き! クソゲーなのか神ゲーなのかよう分からんのですよー」
ちょっとチャラめの、見慣れない私服を身にまとう、因果くん。彼の咲かせるゲーム話を、私自身、あまりゲームしない人生送ってるんだよなーと。そう思いながら、とりあえず、馬耳東風する。
街中の雑多を、二人で歩く。頷く事もしない私に、飽きもせず彼は、話しかけてくる。話かけてくれる。
「おっ、そろそろカフェっすよ! 最近行くようになったんすけど、意外に安くて美味いんすよね~」
そう言って、指差す因果くんの先には、歩道に寄り添うように建てられた、コンクリートと木造で設計されている、童話に出てきそうな洋風な家。
カフェの前に立ち、因果くんが率先して木造の扉を開けると、カランカランと硬質な鈴の音とともに「いらっしゃいませー」と、女性店員が出迎えてくれる。
ちょっとシンプルな、質素な緑のエプロンをかけた、ワイシャツのぴっしりした服装の店員さん。
店員さんは、ほんわかとした笑顔を振りまいており、どうぞこちらへ~と席に案内してくれる。
「メニューはこちらになります。どうかごゆっくり彼女さんとお過ごしくださいね」
……えっ!? ちょっ!? えっ!?
カップルじゃないんだけど!!
「ありがとうございます~」
いやいやいや、因果くんも「ありがとうございます~」じゃねーだろ!
わたしらカップルじゃねーっての!
「センパイどーします~?」
弁解するにも、店員のお姉さんは店の裏に回ってしまう。私はただ、あ~、と口をぽかんと開けて、店員さんの残像を見つめていた。
「ちょ、センパイ、なんか心ここにあらずみたいな変な顔になってますよ!?」
あへー? なにがー? 私らカップルじゃないよー?
「おーぅい、センパ~イ」
私の目の前で、ひらひら手を振る因果くんから、目線を降ろす。
すると、『ウィンナーコーヒー』と書かれているのが見えて、「……!?」てびっくりする。
あれ!? 私の記憶にはない言葉!?
そう言えば、カフェとか、コーヒーはあまり飲まなかったっけ?
そうだ、確か、飲むとお腹壊しやすくなるから飲まなかったんだ。
だ、大丈夫かな……?
「あ、センパイ、正気の戻った顔になった。……えーと、オレウィンナーコーヒー頼みますけどセンパイはどーします?」
えっ!? 因果くん、ウィンナーコーヒー頼むの!? あのお弁当やら、なんやらで引っ張りだこの、子供に大人気! ウィンナーさんがコーヒーに浮いてるんだよ!? そんなん飲める!?
「え、えー……、じゃーふつーのカフェオレで」
「分かりました! 店員さーん、カフェオレとウィンナーコーヒーひとつずつー!」
「はーい」
お姉さんが奥の方で返事をすると、注文をしばらく、待つことになった。
因果くんこと、ウィンナーコーヒーを頼んだウィンナー野郎は、「ふんふーん♪」と鼻歌を歌いながら、メニュー表を眺めていて。
そんな彼を見つめて、よく見ると目鼻とか整っていた。童顔というか、幼い顔してるんだなーと、観察ながらに感じたり。
こういう顔は、女装させると可愛いんだよね、なんて自分のいたずら好きな『高木柊』が、不敵に笑って、見え隠れ。
「おまたせしましたー、こちらウィンナーコーヒーとホットカフェオレになりますー」
そう言って、店員さんがトレーから、コーヒーカップを私達の前に並べる。
……あれ? ウィンナーさんがいない。
ウィンナーさんがいるべき所に、ふわふわのホイップクリームが乗っていて。そこはウィンナーさんの居場所ですよ、とホイップクリームさんに伝えたい。
「あれ? センパイ、どうしたんです? ずっとオレのやつ見て。もしかしてこういうやつの方が良かったとか……?」
え……? いや……? ただウィンナーじゃないのが気になってるんだけど……、どうしよう。
なんて伝えれば。
「いや、その、ウィンナーが乗ってないから……気になって」
「ぶふっ、……く、くく……あはははは! く……くく、ぐひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
え? え? ……え? なんでそんな笑うの?
「そんなに笑わなくても……」
「だっ、だってウィンナーが乗ってるだなんてそんなバカな事言うから……! くふふ、あはははははは!」
……??? ウィンナーコーヒーはウィンナーが乗ってるやつじゃ、ないの?
………………?????
「くふふ……はぁっ。センパイ、ウィンナーコーヒーはホイップクリームの乗ったやつの事言うんすよ?」
「えっ、……マジで?」
「マジで」
えええええぇぇぇぇぇぇ~~~~~~!!?
今日はカフェにて、因果くんことウィンナー野郎から、ウィンナーコーヒーの真実を教えてもらった。
そして帰宅後、お腹を壊した。
かわええやないかー。
ミーンミンミンミン、ミーンミンミンミンミンミン。
最初は鬱陶しく、うるさく聞こえてたセミの鳴き声が、いつの間にかBGMとして聞けるようになった頃。
「うぎゃー! センパイやめてー!!」
そんな女の子みたいな、キャンキャンと悲鳴を上げるのは、うざいキモいしつこいの春野ケイ。
「ええやないか、ええやないかー。君は素材がいいから可愛くなれるぞ~」
ひ~、と尻もち付いた因果くんは、ブンブンと頭を振っていて。
しかし、私は容赦しなかった。
「覚悟~!」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
あれから四ヶ月。時代に合わせて、いつもよりも暖かい、逆に暑いと思う日もあった四月の春。それから、そんな夏日が普通になって、逆に、極端に猛暑になっていたり。
普通に、ほんと普通に、四十度の気温を超える日ばっかり。もう外に出られない、出てられない季節だ。
なんか、年が積み重なる事にどんどん暑くなってるような。
もう、暑さにうんざり。
「うー、あづい~」
今日は、今が十時頃ということもあり、少しづつ暑さが再燃されてきた事に、文句をぶーぶーたれていた頃だった。
ピロリン。
スマホのメッセージアプリが通知を鳴らす。それはすぐに、スマホの画面に光と文字を灯させた。
「えぇ~???」
母に電気代、うんぬんかんぬんで、エアコンは日中だけ。そんな事実に、いややいややと襟元を掴んで、パタパタさせている時に。そんな時に限って、いや~な通知音を私のスマホに鳴らせやがって。
分かってる。通知音きた時点で、誰なのか分かる。
なぜなら、今の『高木柊』には交友関係がなく、後輩のアレと家族しか、連絡交換してないからだ。
「なによ~」
そう言ってスマホを広い上げると、開いたアプリにはやっぱり、『ケイ』というアカウントに新着が来ていて。
『柊センパイ、寂しいですよー。センパイの顔一週間見てないっすよ~。会いたいよ~』
気持ち悪い、気色悪い文章とともに、『ぴえ~ん』と書かれたスタンプを送ってくるもんだから、つい。
『だまれ』という一言を送ると、『ぴえーん』のスタンプを高速連打してきて。
うわっ、うざいうざいうざいうざいっ!
『やめろ』『ぴえーん』『ぴえーんはもういい』『ぴえーん』『ちゃんと返事して』『ぴえーん』『てきとーにやってんだろ』『ぴえーん』
もおーう。
話にならなくて、やっと普通の文章打ってきたなーと思ったら、今度は『オレ、自分のうんこ食べて死にますよ? いいんすか?』なんていう。
『勝手にどーぞ』『ぴえーん』
という、スタンプがまたきたから、あーもう分かったよ、って。頭をむしゃくしゃに掻きむしっては、
『じゃあ家に来れば』
ってメッセージを送った。
今まですぐに返事が来るから、途端に反応が来なくなって、既読だけ。
あ、あれ? もしかして私、やばいことした? 家に誘ってる、変態な先輩みたいになってる?
や、やべー。
やべー。
額を掴んで、ずーん……と落ち込んでる時だ。
ピロリン。
…………ん?
その体勢で視線だけ昇らせては、文字の羅列に目を通す。
『住所、教えてください』
「うわーん!! センパイ悪魔だー!! うわーん!!」
にゃはは、なにを言うとる。そなたから我がトラップに引っかかったのだぞよ?
「ええやないかー、ええやないかー。ちゃんと住所も教えてあなたに会ってあげてるんだから、私の我がままも聞いておくれー」
「ひいぃー!!」
そう、あのやり取りから、一時間弱で因果くんはきた。
我が家のインターホンが鳴って。
興味津々な母を、どうにか遠ざけながら部屋に通して。
なんか彼は、超ガチガチな正座をする程、緊張していて、気分転換にトランプをした。
因果くんが、いつものへらへら態度が戻りかけてきた時に、ふと聞いてみたんだ。
「ケイくん、なんであんな緊張してたん?」
そう言うと彼は、意外な事をぼやき始めて。
女の子の家に来たのは、初めてだと。
「オレ自身、女子に話しかける事なんてなかったから」
へへへ、なんてはにかむ彼に、あまり人は見かけによらないな、と思ったワンシーンであった。
そして、今。
「うぎゅぅ、センパイ、恥ずかしいよ~」
何いってんのー、と背中をバシバシ叩いて、私が使ってる姿見の前に立たせたら、彼は思いのほか、静かになった。
きっと今までの、男である自分が映っておらず、女の子のような、否。一人の女の子がそこに、立っていたからだ。
我ながら、いい出来だ。
後ろから覗き込んだ私は、うんうん頷き、彼もちょっとした、放心状態に陥っていた。
いやー、やっぱり女装似合うと思ったんだよ~。自分の見込み通り。
「センパイ、オレ……キレイ……」
オレじゃない、とぼやく彼に、ふふんと得意げに言ってやる。
「化粧したらもっと、もーっと可愛いと思うんだけどな~?」
「……じゃぁ、お願い……よー、かな」
ぼそぼそ言う因果くんに、ニンマリ笑って、ぐへぐへへ、と化粧箱を取り出しにいった。
「センパイ、なんか人が変わりましたよね」
「んー?」
私の勉強机の椅子に座った因果くんは、私に顔を向けて、ぽんぽん、パフを叩かれている。
「なんか、凄い明るくなった。別人」
「そうかなー?」
なんて、とぼけてみせて。
パフの次は薄ピンクの口紅を塗ってあげた。
「全然、違います。確かにオレの知ってるセンパイだけど、でもやっぱりびっくりする」
そうか、そうなんだ。
私、変わったんだ。変われたんだ。
そういえば、今年の夏からだったな。しっかりと暑い、暑さがキツいと思うようになったのは。
確かに、今までは暑いと感じても、なんか感覚が薄くて。肌の上に軽いラップをくっつけているような、鈍い暑さだった。
そうか、そうか。
私、いつの間にか変わってたんだ。
「なんか、ありがとね。ケイくん」
「………………」
彼は、軽く纏わせた肌色の、パウダー上からでも分かるくらい、ほっぺたを紅くしていて。
それより前から、仄かに上気していたけど。今は真っ赤っ赤。
「ほら、唇をむにゅってしてみて。んま、って」
「こう……すか?」
むにゅむにゅ、と不器用に唇を動かす彼の顔は、やっと完成。
とても色っぽくて女である私も惚れてしまうぐらいの美しさだった。
人は、可愛い、かっこいいで顔を選ぶけれど、ただ性別を超えた美しさでも、一目惚れするんだなって。
「…………ごくっ」
「?? センパイ??」
一瞬、よく分からないものに呑まれたけれども、彼の呼ぶ声にハッとして、そして若干あたふたしながらも気丈に冷静を装った。
「ほら、見て! すっごいキレイだよ!」
そう言って手鏡を彼に向けながら手渡して。
彼はただ、ぽかんと口を開けていて。
「……すげー…………」
キレイさえも言わず、ただ見惚れていて。
どんな姿も、見惚れる姿も、ただ美しくて。
いいなぁ……。いいなぁ……。いいなぁ……。
これを私の物にしてみたい。これを私の物にしたい。
ただ、そう思えて。ただ、そう思っていて。
「……パイ! センパイ! ちょ、やめて!!」
「ぁ、はあ、はあ、はあっ、はあッ、……」
気付けば彼を押し倒していて、あれ? なんで、こんな事をしているのだろう。
なんで、こんな事をしているのだろう。
ただ、それしか考えが浮かばなくて。疑問だけが頭を埋め尽くしていて。
でも身体は勝手に動いていて、彼をそのまま貪ろうと、彼の顔に近付いていった。
「センパイ、オレの事、求めてくれるんですか?」
気付けば彼は、恋する乙女のように、私を見上げていて。
それでようやく、身体に力が入るようになった。
コントロールができるようになって、『なにか』から制御権が渡される。
「ご、ごめん! ごめんね!?」
すぐさま彼から離れた私はわたわたと手を振り、自分らしくもなく、いや本来の自分らしく、てんぱって謝り続ける。
「いえいえ、ちょっとどきどきしました。本音を言うとあのまま襲われたくなったり」
「な、な!? なにいってるの……! そんなバカな事は言わんといてよー! もぉーう!」
バシバシ、と彼の二の腕を意外に強く、叩きながら。そっか、なんて思っちゃった。
それからは、化粧したケイくんと最近あった事とか、好きなマンガとか、私が興味を持てるようにか、恋愛系のノベルゲームの話で盛り上がって。
意外に、意外とケイくんとの好きなジャンル? ていうのかな。恋愛でも純愛が好きだったり、ファンタジーならとことんダークな、人間の汚い所が垣間見える、そんな作品が好きだったり。
同じ好き、がある以外にも、感性が合ったりして、(あれ、なんでこんなにも共感するんだろう)と思った。
時には、意見が食い違って、持論バトルになるけれど、それもどこか話題のスパイスになって、ひとつのアクセント。
(そうか、私はケイくんと、この子とちゃんと触れ合ってなかったんだ)
彼に言われて、自分、変わってきたんだなって思った。
でもそれは、ただのテンションの問題で。この子の、ケイくんの事は理解しようとしなかったんだ。
「なんか、ごめんね。ケイくん」
「ん? 急になんすか? センパイ」
急に謝りだして、彼はそれの正解通り、不思議そうな顔をする。
する、するんだけど、それがどこかとぼけた顔に見えたのは、気の所為なのだろうか。
「キャー! ひいらぎ! 大変だよー!!」
部屋に一人、ケイくんの事をボケーっと待ち続けていると、急に、母が大声をだした。
「彼氏くんが!! 彼氏くんがー!!」
彼氏!? 彼氏じゃねーよと突っ込みたくなったけど、母がこんなに慌てた声を出す事は、滅多にない。
きっと、余程の事があったのだろう。
すぐさま私は自室を飛び出し、二階を降りた。
奥の、洗面台とお風呂がある部屋の前で、母はわなわなと足元の影を見下ろしていて。
どうしよ!! どうしよう!! ともうパニックになってしまった母に寄って、「何があったの!?」と事情を問うた。
「そ、そのっ!! 彼氏くんが!! 男の子が!!」
全く要領を得ない母に、構ってられないと奥に進んで確認すると、その影は、倒れたケイくんだった。
彼は、「そろそろ帰るんで化粧を落としたいんですけど、洗面台借りていいですか?」と確かに、そこに向かっていた。
向かって、しばらくして、そこに行けば倒れている。
まさか、……まさか。
彼の葬式を見てしまったのは、その死因は、病気かなにかなのか?
顔は綺麗に、化粧が落とされている。しかし、ただ鼻血が鼻から滴れていて、横たわる形で倒れているのだ。
早く、早く、救急車を呼ばねば。
あなたなら、もう。
「いやはや、申し訳ないっす。センパイ」
救急車で運ばれた彼は、緊急入院になった。検査も合わせての経過観察ということで、安静になった今、面会が出来ている。
「心配したんだよ!! そんな軽いノリにしないで!!」
頭の裏をわしわしかいていたケイくんは、その手を止めて、ベッドから起き上がった膝元に置いた。
「………………」
なんで、そんな顔をしてるの? なんでそんな、そんな、
「安心した顔を、しないでよ……」
悲痛な、叫びともいえぬ、消え入るような声で呟いて、自然に涙がでる。
頬を伝って流れる、熱いそれ。次第にそこが、涼しくなって。そう感じたと思ったら、彼は口を開けて。
「ありがとう、センパイ」
なに……、それ。なに……それ。
彼は、嬉しそうに、優しく笑っていて。
そんな顔がむかついて、むかついて。
つい、言おうとも思ってなかったのに、口走った。
「ケイくん……!? 死なないよね!? ……死なないよね!?」
でも、思ってた言葉ではなく、勝手に求めてる言葉ではなく。
彼の口からは、
「そう、オレは死にます」
それからは、彼の事を問い詰めた。
冗談だよね、じゃあなんで死ぬの、って。
彼は、はぐらかすばかりで、ただへらへらしてて。
ふざけんなって。お前は死ぬんだぞって。
むかついて、むかついて。
気付けば、面会時間が終わっていて、帰るしか無くて。
悔しい。悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
次の日から、部活も補習もないのに学校に登校した。
「ねえねえ、今日一緒に遊ぶ!?」
「え……? いや私、忙しいし」
「私、運ぶの手伝おうか!?」
「君、部員じゃないんじゃないの?」
今までの知識から、自分の能力、その発動の見立てで、他人の人生を変えるように話しかけまくった。
他人に関わる、それだけで頭痛と記憶が手に入るはずなのに。全然ない。
自分の未来が変わる事も、ケイくんの未来が変わる事も、無くて。
「きゃーーーー!!」
もうやけになって吹奏楽部の練習中に突撃して、演奏をぶち壊して、近くにいたトランペットを吹く女の子から楽器を奪って他の子に投げつけたり。
「いだい……、いだい……ッ」
「なにするのよ!? あんた!!」
「…………」
結果、その子に痣を作ってやったのに、何も無くて。
ただ怪我させたという事実になった。
それから、私は毎日学校に行って暴れ回って、両親を呼び出す程に問題を起こし続けた。
「柊さんの問題行動が目立ちます。彼女の精神状態もありますので、しばらく停学というのは……」
「すみません、ウチの娘が……」
それでも、なにも変わらなかった。
なにも、なにも。
残ったのは、両親からの失望と学校からの停学処分。
そして、……虚しさ。
「なにか変わりましたか?」
病室で二度目に会った彼は、全て知った顔をしていて。
なんだよ。なんなんだよ、お前。
「その様子じゃ何も変わらなかったみたいですね」
ここまでしてやったのに、なんで死ぬんだよ。
なんで……。
「センパイ、ないしょで屋上行きませんか」
「……うん」
…………知らねーよ、そんなの。
水色の病院服に、身を包んだ彼。
彼は、その服よりも色の濃い空を見上げていて。
「センパイ、こうしてみるとオレ達ちっぽけじゃないっすか?」
「……そんなの、知らない」
私はただ俯き、無愛想に答えた。
「あれれ、あんなに明るくなったセンパイが逆戻りっすか? あれれ~?」
なんで、へらへらしてられるんだよ。
「まっ、こんないい天気を見てると気分晴れると思うんすけどね~、オレだけかな?」
知らないよ。
「もう、疲れた。そろそろ帰るよ」
彼は白いフェンスに両手で掴まって、よっ、よっ、と身体を後ろに倒したり、起こしたり。
私が振り返ると、彼も肩を少し連動させて私に振り返ってきて。
その表情は見てないけど、どこか笑ってた気がした。
「じゃあね」
そう言って私が歩き出すと、しばらくして彼の声が聞こえて。
「センパ~イ、じゃあね~」
なんて言うから、今さらなによ。
そう、思いながら振り返ると、突然、私は彼に向かって走り出した。
彼は、フェンスの向こう側にいた。
それは、この屋上、五階もある病院の下の土地が、顔をちょっとでも出せば見えるわけで。
「じゃっ!」
と軽く手を上げて、ぴょん、と彼は飛び降りてしまい、その後に遠い地面の方で、軽い打撃音が聞こえて。
その後に女性の甲高い悲鳴や、だらしない男性のうわーっ!!? て声がした。
………………えっ?
虚空。
「ひいらぎ、ひいらぎ。……ひいちゃん!!」
「……えっ?」
「大丈夫……?」
心配した母の顔が、俯いた私の顔を覗き込んでいた。
「……んー、大丈夫……かな?」
そう言って、母に、にこり、笑って返事をする。
「大丈夫じゃないじゃないの……?」
だって……。
そう続けた母は、私の頬を掴み、軽く頬をなでてくれて。
「あなた、泣いてるじゃない」
「…………え?」
母がなでてくれたところは、体積が減ったからか。涼しくなって、冷たいと感じるようになって。
自分の反対の頬を触って、涙が流れていたことに今、気付いた。
ここは葬式場。春野ケイの通夜を、終わらせたところだった。
「うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああッッッッッッ!!!」
私は知っている、君の最期を。
「お邪魔します……」
「あら、あなた、来てくれたのね! どうも、春野ケイの母です」
あれから、葬式が終わったあとの数日後。
ある程度立派な、二階建ての一軒家の中に入って、自己紹介された。
彼の母という人物は、春野恵美という方で「めぐみさんって呼んでね」って、言われた。
「さて、あの子は自分が死んだらあなたに自分の日記を読ませてほしいって言っててね」
通夜の後にも、この人に同じ事を言われた。
「……だから、絶対きてね」
「えっ……?」
戸惑いに表情が揺れ、彼のように綺麗な、一人の母を見送ったあの日。
悩んだ。
でも、絶対。その言葉で仕方なく。
呼ばれて、来たくもないのに来てしまったこの家。
先に、居間に案内されることもなく、二階に連れてかれ、彼の部屋と思しき一室に、迎えられた。
「持ち帰って読んでもいいけど、是非、あの子のこの部屋で読んであげて」
その言葉を残して、めぐみさんは私を一人にした。
部屋の中は綺麗に整頓されていて、めぐみさんはそのままにしてある、そう言っていたけど、とてもそうは見えなかった。
綺麗に本棚を並べられ、彼が好きだと言っていた最新ゲーム機も、隅にお行儀よく片付けられていて。
そして、部屋の真ん中。目の前にある机の上に、リングノート状になった茶色い表紙の日記帳。
これを読んでね、と言わんばかりに置いてあって、静かに、でも床がギシギシなりながら、近くに歩み寄った。
『春野恵 未来日記』
その表紙には、知らない人の名前が書かれていて、でも彼の字だと分かる、あの汚い字だった。
一ページ目。
『俺は今十二歳。中学に上がった頃。突然未来を見るような変な能力? を手に入れた。事実を確実にするためここに書いてみる。』
二ページ目。
『やはり未来を見通す能力ではあるようだ。しかしある程度の先の未来しか見れない。もう少し確かめようと思う。』
三ページ目。
『この能力にはある程度分岐した複数の未来を見れるみたいだ。鏡をみて自分の瞳孔を見つめるとその選択した未来が見れた。もう少し確かめよう。』
四ページ目。
『この日記を未来日記としよう。ある程度の未来を書き写し、比較してみるとする。』
五ページ目からはその未来を見たと思われる詳細な事柄が書かれていた。
形式的に代わり映えしないので、少し、飛ばし飛ばしに読んでいくが、二十ページ目で気付く。書き方が、変わっていた。
二十ページ目。
『鏡とにらめっこして未来を見てたら、鼻血が出てた。あと今頭痛い。オーバーヒートみたいのもあるのかもしれない。気をつけるべし。』
……鼻血。
もしかして……、あの時のは……。
四十ページ目。
『なぜか、未来を見ていると自分が死ぬ事になっていた。なぜだ、他の未来を見ても、理由が変わるだけで必ず死ぬ。なぜ、これは代償か? しばらく未来を見るのは控えよう。』
四十一ページ目。
『変わらない。一ヶ月程置いて見ても俺は必ず死ぬ。どういうことだ。まだ死にたくない。まだ死ぬまで三年はある。なんとか考えよう。』
四十五ページ目。
『だめだ…、ある程度行動に移せば過程は変わるが必ず死ぬ事になっている。まだ、恋愛もしてないのに、人生を楽しみきってないのに死ねない。』
それからずっと、試行錯誤の事しか書かれておらず、ようやく違う事が書かれていたのは、八十ページを超えてからだった。
『あるひとつの未来に、ぶすっとした表情が第一印象の女の先輩に出会う未来があった。その未来はどの未来よりも楽しくて、どきどきして、理想の恋愛をしている自分だった。どうせ死ぬなら幸せに死ねる未来にするか。いや、そうしよう。今からこの未来になる行動をする。』
(………………)
八十二ページ目。
『どうにかこの未来の路線にたてたが、驚く事にこの先輩も未来を見通す能力があるらしい。複数の分岐ルートで先輩の過去を聞く時があって、それで色んな苦労をしたと聞いた。どの未来も俺が死ぬ時になって、彼女は明るく、心を開いてくれるようになった。でも最後の最後で凄い泣きつかれて、死なないで、死なないでと言われた。俺はこの選択をしたのは正しかったのだろうか?』
八十三ページ目。
『よし、決めた。ここからは先輩を幸せにできる方向に舵を切ろう。その方が使命感みたいでかっこいいし、生き甲斐がある。そうしよう。』
九十ページ目。
『先輩に会えた。相変わらず、イメージ通りのぶすーって顔してるけど、めちゃめちゃ可愛い。彼女を最後まで幸せにしてあげたいけど、ただ手助けするくらいしかできないなんて、無念だなぁ。』
九十五ページ目。
『そろそろ、タイムリミットだ。先輩は明るくなってきてくれて一番最善の方法を選んできた。でもまだ、なにかが足りない気がする。彼女の家に遊びに行くルートがある。これが一番良さそうだ。もっと見てみよう。』
九十六ページ目。
『そろそろ俺が死亡する時期に入る。突発的な病気になって死んだり、突然死したり、交通事故にあったり。救いはねーのかってぐらい必ず殺しにかかってくる。先輩の家に行って押し倒されるシーンがある。どうせなら、一線を超えたい、エッチな事とかキスだけでいい、めっちゃしてーと思ったけど、なぜかその運命のルートがない。そもそもなれないのかもしれないし、作れても今までのが崩壊する可能性がある。自分勝手な事だし、まあいいや。でも、童貞は卒業したかったなぁ』
ぷふっ。
なぜか、最後の最後で彼らしさが出ていて笑ってしまった。
そこまで真剣に考えといてそれかよ! カッコ悪いだろ! って彼の日記に叱りつけたくなる。
でも、そうか。やっぱり、キスぐらいしとけばよかったなぁ。
その後はきっと、入院して書けなかったのだろう。
めぐみさんがそのままにしてある、机の上に置いたままということから、あれからは書いてないのだなと、ちょっぴり思いを馳せて。
もう彼の痕跡は見れないのか、なんて残念に思ってしまい、最後にぱらららーとめくると、終わりの方に数ページ、文字が書いてあるのが見えた。
軽いあとがきかな? なんてその始まりのところを開くと、『センパイへ』と右上に書かれていて。
作文のタイトルみたいに書かれたそれを見た瞬間、両目からいきなり涙が溢れ出して。
ぶわっと、ダムが決壊して滝みたいに流れるみたいに、凄い勢いでぽたぽたと机を濡らしていって。
「な、なんで急に……」
私はなぜ、泣いてるんだ。彼の事が、彼の行動が気に入らなかったのに。
こんなの読んだら、またあなたの事が好きになっちゃうじゃない。
せめて、大事なこの日記だけは濡らさないようにと、目元をぐしぐしとすぐに擦るんだけど、全然止まる気配はない。
ひっくひっくと、自分のイヤな部分を、ゆっくり吐きだしながら。
どんどん、ゆっくりでも、確実に逃がしていく。
彼に、しっかり向き合わなければならない。
彼に、向き合う準備をしなければならない。
彼の、私の大事な日記を机の隅に置き、あの子のどんな言葉も受け取れるよう、しっかり自分をあやしていった。
「……すん、すんっ。ふう、……よし」
やっと、涙が収まって目元がヒリヒリするようになったから。よいしょ、と立ち上がっては、机の日記を手に取った。
ペラペラリ。パラッ。
『センパイへ』
なーに。
『センパイ、そう言えばオレの下の名前のケイってやつ、どんな漢字で書くの? て結構うざかったすよね?』
お前が言うな。
『実はあれ恥ずかしくて言えなくかったんですよね。母さんが恵美って書いてめぐみって読むんすけど、そこから恵をとってオレは春野恵、恵をケイと読むんです。女子みたいじゃん、可愛いーって言われそうでいやだったんですけどー、』
ふーん、それで?
『えーと、それで終わりです。すみません。』
終わりかよ! なんだよ、まったくもー。
次のページを捲って、ようやく、白紙になって。もう、終わりか。
そう、寂しさをまた、覚えてしまった時。
さらにページをめくると、
『追伸』
……ん?
『やっぱ、付け足し。センパイ、こんなグダグダで悪いんですけど、今のセンパイはどんなセンパイですか? オレが見てきた暗かったセンパイですか? オレが聞いた過去の優しいセンパイですか? きっと答えは決まってますよね。オレ、がんばりましたから。今のあなたなら大丈夫。これからを幸せに生きられる。やれる。やれる。やれるはずさ。オレが保証しますよ。あなたが死んだ先で不幸だったよー、ぴえーんなんて言うのならオレが叱りますから。そうなる前にオレが支えて、見届けますから。』
……ありがとう。春野恵くん。
『がんばれ!!!』
最後のひとページででっかく、そう走り書きされていて。
それを見ただけで、私はもう、大丈夫。
私は、孤独な『高木柊』ではない。醜い化け物の花に蝕まれる、要らない、つまらない、『高木柊』ではない。
そんな花を、食い千切ってでも生きようとする、幸せになって、誰かを幸せにする『高木柊』だ。
今の私なら大丈夫、大丈夫。
私は知っている、君の最期を。
私は知っている、君の全てを。
もう、大丈夫。
もし、これを見てるもう一人の『私(あなた)』がいるのなら伝えたい。
もう大丈夫だよ。
わたしは知っている、君の最期を。