
ピアニスト・田中希代子がいた場所~後編~
その後も何度か、このシリーズの中の録音が収録曲を変えて再発売される間に、新たに発掘された放送音源が未発表の「新譜」として、希代子のピアノ・コレクションに加えられていったが、その決定盤とも言うべき演奏録音が、ニッポン放送の倉庫に60年近く日の目を見ずに眠っていた。
希代子がピアニストとして国内外を問わず、全盛期を送っていた1960年代、日本に一時帰国した際、リサイタルを開けば久しぶりの希代子の演奏を直に聴くことができると、当時の希代子やクラシック音楽のファンは、希代子の演奏会へと胸をワクワクさせながら足を運んだことだろう。そんな一流ピアニストとして、希代子の華やかな演奏活動を思い描いていた当時のファンの思いとは裏腹に、希代子の実情は大きく違っていた。フランスへの留学費用として莫大な借金を抱えていた希代子は、その借金返済のために演奏会を分刻みで開かなければならない、切羽詰まった切実な現実があったのである。
そんな希代子が、リサイタルと並行して精力的に行っていた演奏活動の一つとして、そして、リサイタルとは違い、肩の力を抜いてできたのが、ラジオやテレビでの放送分野での演奏だったのではないだろうか。特にNHK交響楽団と共演した数々のピアノ協奏曲や、NHKでのラジオ放送用に演奏した録音の現存する全てがCDで聴くことができるが、それでも復刻された演奏の中に、希代子のステレオ録音によるピアノソロは皆無であった。
このまま希代子のピアノソロのステレオ録音は発見されることなく、レコード・コレクションも止まってしまうのかと諦めていた矢先のことだった。
希代子がピアニストとしての活動を本格的に展開し始めた1950年代半ば、ニッポン放送が富士製鐵一社による音楽番組「フジセイテツコンサート」の放送を開始する。
この番組はその名の通り、演奏家がラジオ放送用に開いたコンサート、ライブを番組が録音し、そのまま放送で流すという、今考えれば何とも贅沢な番組であった。もちろん、オンエアはその日その時の一度きりであり、後年の再放送はなかった。
2004年11月26日、数々の録音を保有していたであろうニッポン放送が、放送開始50周年を記念し、2枚組CD「新日鉄コンサートの歴史」をポニーキャニオンから発売した。この中で、希代子の演奏はショパンの1966年に放送された「幻想即興曲」を収録したのみで、他の録音がどれくらい残っているのかは不明であった。ただ、一定期間の放送録音のマスターテープは全て保存されていて、それを順次CDに焼きつける作業をしていると、ライナーノートには記されてあった。
それから15年が経った2019年、その「フジセイテツコンサート」で希代子が演奏したピアノソロを収めたアルバムが4タイトル発売された。全曲ともステレオ録音によるものである。 ピアニスト・田中希代子のピアノソロを上質なステレオ録音で聴くことができるとあって、この録音がなぜ今まで世間に公表されずに来たのか、疑問でしかなかったが、こうして希代子のピアニストとしての演奏を思う存分堪能できる、そんな一級品とも位置づけられる貴重な録音が、ようやく日の目を見たのである。 残されていた録音はショパン、ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルト、スカルラッティのピアノ・ソナタ、ショパンのバラード、ノクターン、幻想即興曲の各1曲、「24の前奏曲」全曲、シューマン「クライスレリアーナ(第3曲カット)」である。この他に、膠原病を発症した後、演奏会からは遠ざかっていたが、体調が日によって良かった頃の、まだ幾分、前向きな様子で近況を語る1969年の希代子の貴重な肉声が、十数秒含まれていた。
これらのCDのライナーノーツの中で、どこで演奏されたかという会場の記載があり、私はその会場名を見て驚いた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」と、シューマンの「クライスレリアーナ」は先日、松山バレエ団の「くるみ割り人形」を見て来た東京文化会館であった。しかも、収録日を確認したら、1964年12月7日とある。今からちょうど60年前の出来事である。
舞台終演後、客が退くのを待ち、引き寄せられるように3階席から階段を降り、1階席の舞台がしっかり見える場所に立ち、写真を撮った。もちろん、この時、私がこの事実を知る筈もなかった。
図らずも導かれるように、私の愛するピアニストの一人、田中希代子が生きて、そしてピアニストとしてたくさんの聴衆から拍手喝采を浴びた、人生至福の時を過ごしたその会場に、私はいたのである。
これを書くにあたり、私の手持ちのCD全てを確認してみたところ、1965年1月14日、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」、1月27日にサン=サーンス「ピアノ協奏曲 第5番 エジプト風」1968年1月16日、同「ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調」を同会場で弾いていたことが分かった。殊に、1968年のサン=サーンス「ピアノ協奏曲 第4番」に至っては、当時はまだ判明していなかった膠原病を発症し、既に希代子は体調不良による高熱にうなされ、手も開かなくなってきていた頃のまさに命懸けの演奏であり、公式に出回っている録音では、これがピアニスト・田中希代子の完璧な演奏を収めた最後の録音である。 この後、徐々に激痛を伴い開かなくなってきていたその手に痛み止めを注射し、キャンセルできなかった京都市交響楽団とショパンの「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調」で共演したが、途中で音を外し「あっ」と思わず小さく声をあげると演奏を中断、途中から弾き直したこの納得のいかない演奏が、希代子がオーケストラと共演した最後であったと評伝には記されている。
ライブ演奏にミスタッチはつきものであるが、不本意にも演奏を自らの手で止めてしまったということは、ピアニストにとってあまりに屈辱的で、完璧主義者だった希代子にとっては、さぞ無念であったことだろう。
膠原病にさえならなければ、希代子はまたこの翌年も東京文化会館のステージに立ち、様々な作曲家の残した作品を演奏していたことだろう。一歩一歩、その過程で成長し、もしかしたら90代に入った今も、同じピアニストで100歳を超えて尚、活躍を続ける室井摩耶子氏のように、元気であればたまにリサイタルなどを開いていたかもしれない。そんな希代子を、この東京文化会館はまた、あたたかく迎え入れてくれたことだろう。
時代の流れと共に、過去の偉人のいた場所や見ていた景色というものが、容赦なくどんどんと失われつつある中、偶然にもこうして田中希代子のゆかりの場所に、時を越えて立つことができた喜びを、私は帰りの電車の中でその演奏を聴きながら、しみじみと噛みしめたのだった。
ピアニスト・田中希代子がいた場所~後編~
2025年3月5日「note」掲載。