思考の断絶
自分に素直になるためではなく、自分を欺くために思考してしまう。思考は自分で自分を隠すための遊戯にすぎないのなら、思考などやめてしまえばいい。と言いながら思考してしまう。思考が邪魔であった。十代のころに思考に毒されてから、ずっと思考に振りまわされて、素直な感情にたどり着けないもどかしさを抱いてきた。思考が迂回と倒錯に満ちた人生を歩ませ、よけいな道化と虚栄と意地と見栄と欺瞞を強いてくる。子供のころからずっとそういう生き方をしてきたから、他の生き方がわからない。本の読みすぎでカッコつけたことを言うのが得意になっただけなのじゃないか。むしろ複雑で曲折した思考が、素直な感情という幻想を生み出しているのではないか。思考の果てに現れる境地を勝手に自分で作り出して、その境地にいつか至れる未来を描いて、酔いしれているのではないか。思考がよけいな浪漫を生み出すのだとしたら、思考は害悪だ。思考から離れろ。言葉を捨てろ。思考と格闘しようとするから、却って思考に溺れて思考に陶酔する愚鈍な結果に陥る。もう一切思考と縁を切れ。思考に夢を見出すな。言葉は次から次に出てくるから厄介なのだ。勝手に自分で複雑にしておいて、思考の螺旋の中で溺れている。どこで分裂が起こったのだろう。思考が分裂を促すのだろうか。言葉自体が持っている特性。いずれ素直な自己に帰れるという不可能な境地を目指して、言葉を浪費する悪循環。やめてしまえ。断ち切ってしまえ。
だが、和也はそこまで強い人間ではなかった。思考に溺れる旨味を知ってしまっていた。言葉というぬるま湯の中で、何も見出さず、ただぐるぐるとまわることに愉悦感を得ている自分がいた。これではよくないと思うことがたびたびあった。しかし、言葉を紡ぐことでしか得られない境地はやはりある。それは信仰のようなものかもしれない。浅はかな信仰であったとしても、和也は捨てきれなかった。結局俺はファリサイ派の側だろうという哀しい確信を和也はかなり以前から持っていた。どれだけ学んだところで、自分は道から外れた人間にしかなりえないと思っている。俺はきっと信仰からも見放されている。それでも言葉でしかたどり着けない世界というものはあるはずだった。自分はそこを目指せるほどの価値のある人間ではない。もう脱落して、気楽に生きた方がいいのかもしれない。偉そうなことを言うなよ。今も十分気楽に生きているじゃないか。自分は何かを背負っているような物言いはやめろ。
言葉による思考に、人よりも時間を費やしたことで心は穢れただけだった。さして何か実りがあったわけではない。人よりも頭がわるくなっただけだった。俺は何をやっていたのだろう。それでも自分にとっては必要だったのだろう。自分の頭をわるくするための思考をしないと、精神が安定してくれなかったのだ。勝手にそういう方向へ思考が進んでいこうとするのだからしかたがない。これでも若い頃に比べるとかなり落ち着いた。何度も非生産的にまわり続ける思考をなだめて、平静さを勝ち得るために自分なりの工夫と苦労があった。しかし、そんなことは他人にとってはどうでもいいことだ。後に残ったのは言葉の残骸。今ではこの残骸を拾い集めて、なんとか文章にして自分を慰めている。どこからか嘲笑が聞こえてきそうである。もう思考は止まりそうだ。ここまでがんばったからよかったじゃないか。きっと人間は文章を自分のものとして飼いならしすぎたのだ。人間はまた何か新たな思考法を見つけるよ。今はきっとその過渡期なのだよ。人間は機械に頼らずとも、自分の心身のみでまた何か新たな世界を広げる。読んで書くということが人間の最終段階ではない。そう信じておこう。そうじゃないとやりきれない。とは言っても、もはや機械はそこら中に氾濫しているのであって、人間の精神世界が機械の影響を受けていないわけがない。
思考の断絶