向学心への不信
向学心なんてすべて嘘。学びたいという意志なんて虚構なのではないのか。結局学びたいという欲求しかないのではないか。卑しい欲望しか自分は持っていないのかもしれない。こんなに無理をしてまで学問にこだわってきたのはなぜなのだろう。何を知りたかったのだろう。やはり承認欲求だろうか。誰かに認めてほしいから、こうしてたくさん学んで、自分の成果を文章にして自己を誇示しようとしてきたのではないのか。他にも理由はある。学ぶことで、自分の認識が揺らいで自分が作り変えられるような喜びはある。確かにこれが一番楽しいかもしれない。学ぶことで自分が変わっていく。自分が生まれ変わるような喜びがある。これがあるから、本を読もうとしてきたのではないのか。学問にこだわってしまう理由は二つ、卑しい承認欲求と、自分が変わりたいという歪んだ願望。どっちもくだらないのかもしれない。そんな欲や望みから離れてみれば、自分には学ぶことの意義など何もなくなるのではないか。その方がいいのではないのか。安易な読んだり書いたりする生活から離れられて、もっと理想的な生活を送れるのではないか。私は学ぶことで、学びの価値を貶めているのかもしれない。読んで書くごとに、自分の可能性を狭めて、細い道へ入り込んで、何もかもが行き詰っているのではないか。いっそのこと、もっと対人関係で馬鹿なことでもした方がいいのかもしれない。認められたいと、自分を変えたい。そんなことを望んでいるのなら、何も読書にこだわる必要などない。人との触れあいの中でも充分経験できるのではないか。いや、しかし読書でしか味わえないものがある。それを自分は言語化できていないが、知っているのだろう。あのときの衝撃からだ。あの時期だ。あのときに読書に、文学にのめりこんだ経験があるから、まだこだわってしまうのだ。文学の世界には、学問の世界には、何かあるのではないか。自分はそう思っているのではないか。まだ可能性を見出したいと思っているのではないだろうか。その思い自体は、例え稚拙であったとしても、安易に否定していいものでもない。自分の思いこみに過ぎないが、ここは譲れないところではないか。やはりあのときに戻ってくる。
自分の人生はまだ始まっていないのではないかという、なにか幼稚な感傷に支配されそうになる。これまでの自分の努力はすべて虚構であり、内容がなかった。過去の残骸に囚われていてはいけない、新たに前を向いて行動を起こそうとする。過去を否定して、前だけ見ていようとして過去に復讐されるのくり返し。このループから抜け出したいと思いつつも、それでも人生は何も始まっていないという、いつもの邪念がやってくる。これまでの経験を括弧に入れてしまって、括弧の外側に立って新たに自分を作り直そうとする手法が実は自分を追い詰めていることに気づくべきなのだ。わかってはいる。だから過去を受け入れようとして、過去の痛い経験を何度も反芻しようとしている。それで変わると思っているのだが、変わらないのかもしれない。
他人から認められたいと、自分を変えたいという卑小で稚拙な願望が自分を読書へと向かわせている。そんなくだらない願望のために人生を棒に振ってしまったのか。多分自分には一生、芸術や文学の尊さはわからない。俺は芸術からも文学からも締め出されている。下手の横好きの哀れな人間。そうして、実社会でも疎んじられている。どこにも安定して腰を下ろせる足場がない。だから自分の思想を持ちたいと思うのだが難しい。考えるのが面倒になった。和也は窓を開けてベランダに立ってみた。もう少しで夜が明ける。そろそろ雀たちが鳴き始める。多くの人たちが寝静まっている地に光が射すあの時間帯。
結局、まだ他人のことも自分のこともよく知っていない。知ろうとしていない。ずっと自己の表層のところでとどまろうとしてしまうからだ。もっと深くに潜り込んで、精神を鍛練するべきだろうか。しかし、表層にとどまり表層を維持して生き抜こうとする人々を嘲笑う側に回りたくもなかった。やはり、自分は浅はかな表層の人間でい続けようと思っているところもあった。
向学心への不信