通学路
今日は休日。特に予定もないので、通学路の横にあるベンチに腰掛けて座っている。特に何をするでもない。疲れているので何も考えたくない。ただぼんやりと、周辺の草花と、並木道に植えられた桜の木を見ていたいと思っている。日頃から、よけいな思考が回りだす習性のある浩一は、今くらい無心でいようとした。だが、無心になろうとするとまたよけいな思考が回りだす。いつものことだ。平常心を心がけようとするのは、臆病な人間には難しい。言葉というものは、なんだかすらすらと出てきてしまう。思考によって言葉が形成されて、その言葉が自分の感情を規定していっているのではないかと、思わなくもない。それとも、やはり感情が初めにあって、その後に思考と言葉がやってくるのだろうか。底の方には様々な衝動があるのだが、観測できる強い衝動にのみ、言葉というレッテルを張り付けて、自我の方でその存在を認めてやっているだけかもしれない。そうして、何度もレッテル貼りをしているうちに、その衝動は確かな感情として認められる。思考と衝動の間で様々な駆け引きが行われることで、自分の感情世界が徐々に形成されていく。自分の思考や感情を決めているのは何なのか。浩一は、自分が放つ言葉にまったく責任が持てない。
このあたりで思考するのが面倒になったので、外の世界を眺めてやる。前方では二人の老夫婦が通り過ぎる。穏やかな朝である。すでに残暑の時期もすぎて、心地よい空気の中で、生命の意気が衰えてくる寂しさを感じている。逆方向から、散歩で犬を連れた中年の女性が通り過ぎる。本当にこういうふうに、何も考えずに、ただ外側の世界を淡々と観察する世界で生きたい。自分の内側で、むやみに言葉を並べることは、さして有意義ではないなと思っている自分がいる。だが、それをやめられない。浩一は、自然を眺めるのが好きだと自分では思っているのだが、実際のところは何も外の世界を見ていない。いつも内側の方へ引っ張られる。だから、内へ向かう引力を断ち切ろうとして、意識的にいつも外の世界を無理に見ようとする。放っておくと内の方へ向かってしまう。物よりも言葉の方が好きなのだ。物を見るというのは疲れることだ。自分の中で、自分が作った言葉と戯れている方がずっと楽だし、頭を使わないで済む。頭を空っぽにして外側の世界に集中する方が、実はずっと頭を使う作業なのかもしれない。言葉で考えるというのは、局所的な作業なのだろうか。
浩一はベンチから立ち上がって並木道を歩いてみた。前方から東南アジア系の人々が自転車に乗って向かってくる。このあたりも外人が増えた。朝は静かでいいものだ。頭から言葉が抜けていく。周囲の景色と一体化できそうな気分になる。脳内を駆け巡る言葉からおさらばして、景色と同化したいと浩一は少し思った。しかし、言葉から抜け出たと思ったその途端、言葉が襲ってくる。思考に絡めとられる。そうして、また苦しみに満ちた過去がうっすらと蘇ってきたりして、いつもの雑念だらけの状態になって、もう周囲の景色など、どうでもよくなってしまう。それでも今並木道を歩いている感触は嘘ではない。少しは自分の気持ちも和らぐから、こうして散歩しているのだろう。また、何かこうして言葉でごまかそうとしている。実際のところ、何か思考することで自分をいつもの地点に置いて、自分を安心させているところがある。言葉と縁を切ることができることを夢見て、言葉と格闘することが課題なのだ。
通学路