天井
驚くほど心が落ち着いている。若かったころはもっと思考がいつも暴れていたというのに。あのころは後頭部に何かよからぬものが詰まっていて、それが自分の行動を阻害しているかのようであった。いつもこの脳裏に沈殿している歪んだ諦念のおかげで、何もやりたくない心境に陥り、部屋の中で床に転がってずっと天井を見ていたいと思ったこともあった。さもなくば予定を入れまくって、とにかく何か行動を起こそうとして、壊れそうな意欲を奮い立たせたりした。とにかく中庸を取るということが著しく困難だったあのころ。怠惰であるか、またはその裏返しの勤勉であるか。何も行動に移せないときは、頭だけが異様に重かったりする。あの重さから解放されたいと常に思っていた二十代あたりの時期。脳内を駆け巡るこの嫌な思念の起源は何なのか。やはり、思春期からの過ごし方がよくなかったからだろうか、といういつもの結論に帰着しそうなのだが、それでは何も解決しない。そんな日々を過ごしていたはずだ。
しかし、今晴れて中年になってみると、あのころの重さ、苦しさが嘘のようだ。もうあのときの自分とは違う。今は頭も心も身体も、若い頃に比べてずいぶん軽くなった。それであるなら、今からでも何か取り組んでみようと思ったりするが、むしろ何もやる気が起きない。かつての軽度に鬱っぽかったときの方が、何事に対しても積極的に取り組んでいたようなところがある。重い頭を抱えていたので、心身には言い知れぬ疲労が募っていたのだが、却ってその疲労が行動に駆り立てるおかしな仕組みが出来上がっていた。疲労は自分が意識できぬ領域で、徐々に蓄積されていく。いずれ破綻がくることをあのころの自分は知っていた。そうして、実際身体を壊してしまった。
内面はいつも枯渇していた。干からびており、土壌にはひびが入っており、本当は何もしたくなかった。飢餓と窮乏の状態にあったはずなのに、外側から鞭打ってくる何者かがおり、それは自分であった。檻に入れられて抜け出せない自分のことを嘆いていたが、檻に閉じ込めたのは自分のはずだった。自分のことを急き立ててくる、もう一人の自分がいるようであったが、後者の自分の存在を意識することは難しい。今もできていないかもしれない。あのとき私を焦らせて、むやみに駆り立ててきた奴は誰なのだろう。自分の精神世界が最も厄介なのだ。まちがった選択をくり返してきたが、その事実にフタをして、無理に頑張っていると本当に自分の心理が自分でわからなくなる。今もこの病気から抜け出せていないと感じる。だから、今も治癒のためにこうして書いたり読んだりしているらしい。いや、治癒になっていないのかもしれない。むしろ病を深めるまちがった行為なのかもしれない。それも違う。本当はもう回復しているのに、いつまでも病んだ自分でいたいと思っている痛々しい人間にすぎないのかもしれない。おそらくこれが真実だ。
少しずつ過去を整理することができるようになってきた。自分の人生を一本の線にして、わかりやすくまとめること。それができなくて苦労をしてきた。過去を振り返ると、多くの痛い経験が蘇ってきて、回想を困難にするという問題がTの精神世界では起こっている。これらの経験を克服することが必要である。克服のためには、その経験を直視しても動じない強い精神を育てなければいけない。そのために自分は読書をしていたのではなかったのか。Tは自分に問うたが、今では自信がない。とにかく年を取ったことで、様々な痛い経験も、多くの努力も何か泡となって消えていく感じがする。今ここでわりと平穏な心を持って存在している自分は何者なのだろうとTは思う。とりあえず若い頃より行動意欲はなくなっている。心が落ち着けば、独りでいても何も問題ない。
天井