浩一はなんとなく森の中を歩いていた。観光地と言えるほどの、何か目を引くような風景があるわけではなく、単調な緑が立ち並ぶ木に囲まれながら、土の上を歩いていた。このような目前に広がる風景を前にして、一昔前の作家ならそれなりに様になる比喩や擬人化を交えた文章をこらして、読者を感慨させたり、感銘をあたえたりすることができたかもしれない。しかし、今の時代においては、そのような文章を書くことはもはや徒労に近かった。19世紀後半に写真が誕生し、その後19世紀末に映像が現れ、映画が普及していく。そして、20世紀半ばあたりにテレビが広まっていき、21世紀になるとパソコンとスマホの時代がやってきた。今ではいたるところがディスプレイで埋め尽くされている。目は映像に慣らされ、視覚は長時間一方向へ進んでいく傾向にある。目の動きと、思考による文章の流れは関係しているのかもしれない。とにかく、風景を言語によって描写する必要性が著しく減衰した。よけいな絵を連想させる文章は嫌われるようになった。また、文章は絵を連想させるだけでなく、音を体感させる機能も持っていたが、この機能も同時に減衰していったと思われる。文章から、よけいな絵も音も剥奪されたことで、インターネット上に氾濫する文章は、意味が通りやすいものが多く見受けられるようになった。表現より説明に特化した文章が好まれ始めた。もはや、文章は表現のためのものではなかった。Twitterを始めとしたSNS社会の到来は、人間の目の動きと、思考によって文章を組み立てる方式、連想作用を、大きく変化させたはずなのだが、このあたりの詳細が見えてこない。また、Twitterが本質を突く短文を次々に生み出した。多くの人の間で、短い内容で人生の本質を見出そうとする試みが流行った。絵の連想と音の体感を排除したSNS型の文章は、説明に特化しており、鋭利さを備えていた。21世紀前半に多くの人がアフォリズム症候群に陥っているのではないかと、勝手に浩一は疑ったが、それも早とちりなのかもしれない。

 今見えている風景を、言語で詩的に表現するような試みはもう時代遅れなのだろうか。それにしても、現地で肉体を通して見る景色と、家からディスプレイを通して見る景色はどのように違うのだろう。簡単なことだ。後者は目だけで景色を見ているが、前者は自分の肉体全体が参加している。身体を通して実感することで、言葉で表現したいという意欲が生まれるのだろうか。しかし、自分は肉眼で見る景色を、ディスプレイを通して見た景色と違うという認識を持っているだろうか。知らないうちに、肉眼と外界の間に勝手にディスプレイを介在させているのではないか。ディスプレイ的視野は私たちの心と身体にまですでに浸食しており、もう昔の人々のように景色を体感することができないのかもしれない。しかし、詩的に景観を綴るというのも、また特定の時代に流行ったことなのかもしれない。

 映像の氾濫と、文章の説明化は並行して起こってきた現象なのだろうか。浩一は道から外れて、少し森の中の方へ入っていった。木々の中に切り株があったので、そこに座って心を落ち着かせてみた。文章からよけいなものが削ぎ落されて、読みやすくなった。思考はシャープなものになり、前時代的な鈍重な思考はもう誰もやりたがらない。都市化されて、映像に囲まれた環境の中で、新たに思考が作り直されていくらしい。直線的な思考が主流になり、寄り道をしながら曲がりくねった思考をすることに価値はないようだ。誰もが最短で本質にたどり着くことを望んでいた。インターネットが本質主義を加速させている。まどろっこしい文章は捨て去られていく運命にあるらしい。もし映像によって思考が簡素化されたのだとしたら、取り除かれた剰余のエネルギーは今何に消費されているのだろうか。また、ディスプレイの氾濫と同時に漫画の発達も、文章の在り方に影響を与えたはずであるが、このあたりも詳細がつかめないままだ。浩一は、空を見上げてみた。木の間から空が見える。今日は少し曇っている。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-02-08

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