労働
ある試料のpHを測定するために滴定をしていた。こんな初歩的な試験をしていても、同じ作業をすれば同じ結果が出ることに、ときおり感動しそうになる。同じ結果が出るためには、試験者がある程度作業に慣れている必要があるが、もっと根本的な問題として、様々な器具や試料などが、同一規格で作られる必要があり、そして、その器具や試料を作るための原材料があり、それらを調達するためには、発掘、輸送などの膨大な労力と費用がかかる作業が必要になるはずだった。直樹は自分が行っている些末で卑小な労働が、実は世界とつながっているのだと考えて、時々感嘆したり怖くなったりすることがあった。そして、これはなにも労働に限ったことではなく、日ごろの生活や娯楽を経験する場合でも、自分が見えないところで多くの労働に支えられていることで、私たちの日常は形成されていた。無意識の感情は誰かの労働によって担われているところがあった。複雑に張り巡らされた網目状のネットワークについては、もう誰も全貌を把握してないらしい。人間が作り出した巨大な機構に、人間が飲み込まれて、その中で労苦や快楽や怠惰を経験している。もはやこの社会を俯瞰することは不可能なのだ。社会の外に出たつもりになっても、しっかりと網の中に飲み込まれている。私たちの無意識は、社会が担っている。機械はますます私たちの日常生活に忍び寄り、感覚を浸食し、思考の在り方も変えていっているはずなのだが、なかなかそこまでは議論が及ばない。人間が作ったものに人間が飼いならされていくこの過程を把握することは難しかった。
朝起きてから、夜寝るまでの間の生活のほとんどに科学が行きわたっている。すでに科学漬けにされているにも関わらず、いやされているからこそ、科学技術の過剰を警戒する声はくり返し現れた。しかし、そのような人たちは科学技術がどのように生まれ、どのように維持されるかにはあまり関心がない。消費者の観点から訴えられる科学技術への批判に、直樹はあまり関心が持てなかった。生産の現場が見えないところへ追いやられていく過程は、死が追いやられていく過程と似ているのかもしれない。都市社会の完成によって死は病院の中に押し込まれ、死は縁遠いものとなっていく。死と同様に、生産ということに多くの人が興味を持たなくなった。店頭に並んでいる商品は、どこからか降って湧いて出てくるものだと思っているようであった。そういう人たちが科学的事実を批判して、古代や中世の思想を持ち出してくることに違和感を持つことはあった。しかし、自分がまちがっているのかもしれないと思うこともある。
ちらちらと面倒な思考が点滅をくり返して、存在を主張してくる。今から本格的に実験に取り組むので、労働用の思考に切り替えたいと思った。仕事に集中するときの思考とはどのようなものなのか。意識は一点に集中され、己の肉体的存在は忘れ去られる。小説的思考は厳密に捨て去られる。小説を読んだり街で遊んだりしているときの自分とは、別人になっている。この二つの世界の往来はつらい。この苦しさを理解してくれる人はどこにもいない。平日の自分と、休日の自分は明らかに違う人間になっている。そんなことは当たり前だと言われるだろうが、直樹にとっては深刻な問題になりつつある。
すでに今日の時代においては唯物論が支配的になっていた。周囲に存在する物質も自分の肉体も原子から成ることはわかっている。空気も原子で満ちている。熱や光や音は原子からできていない。こうして考えていくと、人間の心というものも原子でできているとは言わないが、何か物質的な類のものなのではないかと考えたくなるときが直樹にもあった。しかし、このように考えるのは気分が良くない。直樹だって、心の存在はもっと謎めいたものであると信じたい。このような苦しみに苛まれるときがときにあったが、世間ではこんなことを考える人間は疎んじられる。直樹はもう芸術を鑑賞できる能力は、自分にはないのだろうと思った。人文系の学者や、芸術関係の人たちが、唯物論に支配された今日の社会を憂いたり、古代の思想の大切さを訴えたりしている。直樹なりに主張は理解できるのだが、自分が今抱えている苦しみを慰安してくれそうにはないと思った。
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