いじわるなミューズ
…私は、あなたの詩。
詩人
昔、ある所に詩人がいた。
詩人は売れっ子で、国じゅうからもてはやされ、彼を知らぬ者は誰一人いなかった。
そして、金持ちでもあった。
しかし、詩人は決して幸せそうな顔はしなかった。
なぜなら、彼のそばには、いつも詩の女神がいたからである。
最初の記憶は赤ん坊の頃、彼は母親に抱かれて子守唄を聞いていた。
とても安らかで、幸福に満ちていた。
すると、どこからが声が聞こえてきた。
母親とは違う声に、彼は戸惑いと不安を覚えたが、その歌とも囁きとも取れる、ポツリ…ポツリ…とこぼれる言葉に、えも言われぬ心地良さを感じて耳をかたむけるようになった。
それは、彼がはじめて聞いた詩であった。
母親の子守唄と、心地良い声が、同時に聞こえる。
まだ言葉のわからない彼にとって、意味の無い声だったが、彼は声を聞くことを選んだ。
母親の腕の中で、優しい眼差しを注がれながら、彼は得体の知れない声によって心を満たしていた。
それが、すべての始まりだった。
彼は少年の頃から詩の才能があって、学校ではよく先生に褒められた。
ある時、町で詩のコンクールが開かれることになった。少年は、先生の薦めで応募することになって、期限までに提出する詩の内容を考えていた。
とは言え、まだ子どもだった彼にとって、大事なことは他にもあった。
「今度は、僕が勝つからな!」
彼は友達と、ボードゲームをしたり、ソリで土手道の草の上を滑って遊んだり、木の上に自分たちだけの秘密基地を作って、それぞれが集めた宝物を見せ合った。
彼は、両親と旅行に行った時、海で採ったヒトデや貝殻。友達は、近所で見つけた変わった形の石や、叔父からもらった珍しい鉱石。
彼らは互いに相手の宝物を気に入って、交換し合って満足した。
そして、これからもっとコレクションを持って来て、この秘密基地をいっぱいにしようと、約束を交わした。
その時……
……またあの声が聞こえてきた。
ポツリ…ポツリ…と呟くような……。
少年になっていた彼は、詩の意味を理解していた。
彼は幼い頃から、当たり前のようにその“声”を聞いて育った。
“彼女”は、生まれたときから彼に寄り添い、彼にしか見えない存在だということを知っていた。
彼の詩の素質は、彼女の詠う詩によって磨かれたものだった。
しかし、少年には今までとは違うことが起こった。
彼の脳裏に、詩が閃いたのだ。
それは、強烈な体験だった。頭の中で、すでに完成された文章が浮かび上がり、その魅力的な言葉は止めども無く流れ続ける……
「どうしたの?」
その場で固まったまま、微動だにしない彼の様子を見て、友達が不安げに声をかける。
「書かなきゃ……」
彼は、バネのように立ち上がると、そのまま木をするすると滑り降りて、家に向かって駆けだした。
彼は、自分を呼ぶ友達の声を聞いたが、それよりも早く詩を書き取りたくて、紙とペンを持っていなかった自分を呪った。
彼の詩は、コンクールで入賞した。
優勝したのは大人が書いた詩だったが、彼の詩は子ども部門に収まりきれるものではないと見なされ、大人の部に参加しての入賞だった。
先生やクラスメイトたちは、口々に祝ってくれた。
「……おめでとう」
友達も、喜んでくれたが、態度はどこか、よそよそしいものに変わっていた。
彼は、詩に翻弄されてばかりではなかった。
あれから、彼の詩があまりに秀逸なので大人が手を貸したという噂が流れて、彼の両親と教師が奔走してなんとか疑いを晴らしたのだが、そんなことはどこ吹く風で彼は、友達を含めた仲間たちと遊ぶのだった。
ある時、彼は仲間たちから釣りに誘われて、大物が釣れたら皆に自慢しようとか、大人達には内緒で焚き火をして焼いて食べようなど話していたのだが、その時も彼の頭の中に詩が降りてきた。
しかし、彼は魚釣りの話が楽しくて、それを無視した。
彼は仲間たちと鱒を釣って、自分たちでおこした火で焼いて食べた。それは楽しい一日だったが、あの時降りてきた詩の内容を思い出すことは、二度とできなかった。
またある時は、両親とクリスマスの買い物に出かけた時、市場の賑わいと、広場で飾り付けられる大きなモミの木に、両親は心躍らせたが、彼の心は虚無感で満たされていた。
出かける前に浮かんだ、素晴らしい詩を忘れてしまったからである。
詩が浮かぶと、頭の中が開けたようになって、泉のように湧く美しい言葉に、彼は感動を覚えるのだが、用事を済ませた後では、決まって夢のように記憶から消えてしまう。
それから彼は、詩が浮かんだら意地でも書くことを優先した。
彼の誕生日、彼の家では、両親と友人たちが、お祝いのご馳走や贈り物の用意をして、彼の帰りを待っていた。
「…ただいま」
彼がドアを開けると、皆が一斉に彼の名を呼んで、祝福の言葉をかけた。
彼は一瞬固まって、それから口元に笑みを浮かべながらも、目が宙を泳いでいた。そして、ごめん…と、小さく呟くと、そのまま自分の部屋に駆け込んでしまった。
「まったく、仕方ないわね…この子は」
あきれる両親と諦め顔の友人たちを尻目に、彼は机にかじりついて詩を書いていた。
青年になった彼には、思い人がいた。
彼は、詩の才能を世間に認められて、詩人として身を立てている。
声
彼の詩集は出版されるたびに、瞬く間にベストセラーになった。
彼の詩をもとに曲が作られ、それは演奏会や芝居の中で流され、有名歌手によって歌われた。
彼を慕う者は増えつづけ、貴人からのパーティーに誘われることも珍しくはなかった。
そんな中、彼は会場で、ひとりの令嬢に出会った。
彼女は、さる資産家の娘で、彼の詩に惚れ込んで密かに彼を追っていたのだ。
彼は、彼女の美しさと詩への造詣の深さにすっかり心を奪われて、ふたりが親密になるのに、そう時間はかからなかった。
「お父様に、会ってくださるのね?」
「もちろんだよ」
公園の樹の下で、ふたりはいつものように詩を読み合っていたのだが、彼の突然の告白に彼女は目を輝かせた。
「お父様は、貴方の事を褒めてらしたわよ」
「これから、会いに行こう。君の父上は、僕達の事を祝福してくれる」
「……どうしたの?」
彼は、急に押し黙り、少しよろけて樹の幹に片手を付いた。
「大丈夫!?」
心配して駆け寄る彼女をよそに、彼はそのまま空を仰ぎ見て独り言を呟いた。
「もう、たくさんだ……」
「本当に大丈夫?顔色が悪いわよ」
「何でもないよ、心配させてすまない」
彼は姿勢を立て直すと、ゆっくりと息をした。
そして、おもむろに胸ポケットからペンを取り出し、手に持っていた、ふたりが敬愛する詩人が編纂した、古典詩集のページを捲りはじめた。
「くそっ!」
彼女の前では決して見せない、言葉遣いと荒々しい態度で毒づきながら、彼は詩集の余白や何も書かれていないページを探しては、文字を書き込む。
彼は、樹の幹にページを開いた詩集を押し付けて、一心不乱に書き殴った。
すぐそばで見守る彼女の表情が、戸惑いから恐怖に変わっても、彼がペンを止めることはなかった。
彼が、落ち着きを取り戻して顔を上げた時、彼女の姿は消えていた。
すべてを理解した彼は、指輪と一人で住むには広すぎる屋敷を売り払い、喧騒や噂話から離れるため、郊外にある家を買い、移り住んだ。
新しい部屋、新しい家具、何もかも新調した環境の中で、彼はようやく一息つく事ができた。
彼は、すべてを手放したつもりだった。捨てられなかった、一冊の詩集を除いて。
ページを捲ると見える、塗りつぶすように書き殴られた禍々しい文字。
しかし、その内容は、神々しいほどに美しい。
「抗えなかった……」
彼は、机に伏せて、詩集に顔を付けたまま、すすり泣いた。
それでも、涙で文字が滲む事を気にする自分がいる。
「……詩の女神よ」
彼は、涙声で懇願するように祈る。
「…私から、離れてくれ」
…なぜ?
それは、初めて聞く“詩”以外の声だった。しかし、彼はもう、何にも驚くことはなかった。
「もう、私を惑わせるな。お前のためにどれ程苦しんだか」
…どうして?
その声は、彼が幼い頃から聞いていた詩の呟きそのままで、それでいて、からかうような、あやすような、くすぐるような響きで、謎めいた余韻を頭の中に残すのだった。
「私はお前のために、家族や友人とも疎遠になった。お前のせいで人生が、思い出が、すべて詩に塗りつぶされてしまった。そして、そのせいで…私は、愛する人を失った!」
…あなたが選んだことよ。
「何だと!?」
…私はあなたに、詩をあげたの。
詩の女神は、はっきりと言った。
…あなたが、詩人として詩の女神の加護を受けるのに相応しいことは、あなたが生まれる前から知っていたわ。
…私は、あなたに詩を与え、あなたが詩を完成させて、世に送り出すのよ。
「勝手なまねをするな!私はそんなこと頼んでいない!」
彼は立ち上がり、部屋を見上げて、声のする方に向かって叫んだ。
「なぜ?わざわざ大事な時に、詩を与えたんだ!?なぜ?大切な人と過ごす時間と詩を選ばせたんだ!?どちらかを選べば、選ばなかった方は永遠に失われる…」
…詩の泉が枯れることはないわ、何度でも存分にお書きなさい。
「ふざけるな!私の人生を返せ!」
…なら、なぜ詩を選んだの?
彼は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
…私が与えた詩を、あなたは選んだ。それだけのことよ。
彼は黙ったまま机の詩集に目をやると、開いたページの涙で滲んだ文字が見えた。
「…確かに、詩は美しい」
…もっと書きなさい、詩人よ。
「でも、私は…自分の詩が書きたい」
…詩は、愛なのよ。私にとって、あなたは詩そのものなの。
…あなたは詩人であり、詩そのもの。
…忘れないで……
詩の女神の声は、消えた。
この国には、詩の女神に魅入られた男がもう一人いる。
この男は、先ほどの彼と違って、詩が世に認められることはなかった。
男は、たくさん詩を書いて、コンクールに応募したり、本を作って自費で出版したが、彼の作品が世間の人々の目に触れ、評価されることは、ついぞなかったのである。
時は流れ、男の髪に白髪が交じるようになっても、男は詩を書くのをやめなかった。
男は今、町外れにある小さな家に、ひとりで暮らしている。
男は、人生のすべてを詩を書くことに費やし、その為に財産を失い、家族もいなかった。
しかし、男には、唯一無二の友があった。
それは、今や誰ひとり知らぬ者のいない、国一番の詩人であり、国の宝、詩の女神の贈り物、と称される、先ほどの“彼”だった。
「遅れてすまない」
友
彼、もとい“詩人”は、コートの雪を払ってから家の中に入った。
世間からもてはやされる詩人にとっても、この男は、唯一無二の友だった。
「友よ、なぜ言ってくれなかった?」
この男、詩人にとっての“友人”は答えた。
「すべては、私が選んだ事だ。私は、私の生き方を全うしたい」
かつて、友人の実家はそれなりに裕福だった。それで友人は、富豪が主催するパーティーや貴人の社交界に出入りしていた。そこで、詩人と知り合うのだが、この頃はまだ、友人の詩は好評で、詩人と引けを取らないとまで言われていた。宮廷で、詩の朗読会に招かれたこともある。しかし、なぜがある時を境に友人の詩は評判を落とし、友人は姿を消した。
詩人は、友人のことが気がかりだったが、自身の生活が、詩の執筆や出版の打ち合わせ、講演会や門下生への教育などで、多忙を極めた為に、すべてを済ませてから、ようやく友人を探し出したのだった。
「水くさいじゃないか、詩の女神に魅入られた者同士だろうに」
「誤解しないでほしい。私は、女神に背いたのだ」
友人もまた、“声”を聞いて生きてきた。
そして、その声に従い、一時は社交界の花形になったが、どうしても自分で考えた詩を書きたくなって、声を無視するようになった。
「…私は、女神に与えられた詩によって、何もかも満たされていた。名声を得て、一族の誉れとなり、妻と出逢い、子どもにも恵まれた。…それなのに、私は…ああ!…私は自分の身勝手な欲望を押さえることが出来なかった!」
詩人は、頭を抱えてうずくまる友人に駆け寄り、その両肩に手を置いた。
「身勝手なものか!、詩人なら、誰でも詩を作る喜びを知っているはずだ。与えられたもので、満足できる訳が無いだろう」
「いや…違う」
暖炉の炎が、燻りながらも、息を吹き返すように、再び揺れながら踊りだす。
「私は、愛していた。自分だけの詩を」
友人は体を起こすと、詩人の肩を掴んで向き合った。
「…そして、思い上がっていた。自分には才能があると。自分だけの力で詩人でいられると。それで、女神の与える詩を捨てて、自ら詩を書いて皆の前で読み上げた。そうしたら、どうだ!」
友人は、遠い目をして、動きを止めた。
「…もういい」
詩人は、友人の置かれた手を静かに外すと、体を支えながら椅子に掛けさせた。
「私は、君の詩集をすべて持っているよ。その事で話があるんだ」
友人は、自分の詩が誰にも見向きもされない事を知って、居た堪れなくなり、二度と社交界に足を運ぶことは無かった。それでも、諦め切れずに、今度は自腹を切って本を出して、市井の人々に理解を求めたが、すべては徒労に終わった。
「君は、私と違って、自分の意思を貫いたじゃないか。誇りに思うべきだよ」
「私が愛していたのは、詩ではなく自分自身だったんだ。本当に詩を愛するなら、女神に従うべきだった。それに、私は、家族がありながら詩作に没頭して、皆、私から去って行ったよ。実家からも、勘当された。女神に忠実な、お前が正しい」
ふたりは、暖炉の前で、肘掛け椅子にもたれながら、温めたワインを飲んでいた。
「私も、家族を捨てたも同然だ。今、私には君しかいない。私は普段、大勢の人に囲まれているけれど、心を許せるのは君だけだ」
ワインと部屋の温もりが効いたのか、友人はだいぶ落ち着きを取り戻して、詩人の話に耳を傾ける。
「君の、後援者になりたい」
「断る」
友人の意思は、固かった。
「私なら、君の本を世に広めることが出来る。国じゅうの出版社に掛け合って、君の書いた詩集をすべて発行することだって…何なら、国王陛下に献上して、君の才能を知らしめてみせる」
「また、恥をかかせるつもりか!?」
「違う!皆、知らないだけだ。君の詩は素晴らしいのに!」
友人の、器を持つ手が震えている。それを見た詩人は、自分のワインを飲み干して息を整えてから、穏やかな口調で、友人を諭した。
「君は、十分苦労したじゃないか。もう、すべてを私にまかせてくれ。君はただ、詩を書いてくれればいい。ここよりずっと暖かい場所で、たとえば、南の海沿いにある私の別荘とか…」
「お前はなぜ、私から人生を奪うのか」
そう言って、友人もワインを飲み干した。
「私の主人は、私だ」
「…ここの住人から聞いたよ、君が雑用をしていると」
「屋根履き、左官、石炭屋。皆が必要とする、大事な仕事だ」
友人は、毅然とした態度で詩人を見据える。
詩人は、気まずそうに、器を持った両手の親指を擦りながら、上目遣いで友人に食い下がる。
「実は、私は引退を考えているんだ。準備は済ませてきた」
友人は、少し驚いた顔をした。
「後継者は見つかったんだ。後は私の会社を受け継ぎ、富ませてくれるだろう。そもそも私には、詩集の印税や曲の歌詞や演劇の権利で、幾らでも金は入ってくる。何も心配はいらないよ」
「詩はどうしたんだ。お前まで、女神を捨てるのか?」
「誤解だよ!私はもう、十分詩を書いた。詩は、国じゅうに広まり、王家から庶民まで様々な人々に知られている。私の詩はこれからも、読まれ、詠われ、時を越えて受け継がれて行くんだ」
「それは、女神が決めることだ」
友人は、再び詩人に、厳しい眼差しを向ける。
「ああ、どうしたら誤解が解けるだろう。私は、君の詩集を作りたいんだ!」
「私の……!?」
「書いているんだろう?君が詩作をやめるはずがない」
友人は、黙ったまま頷いた。
「どうか、私にやらせて欲しい。こんなこと身勝手かもしれないが、私にとって君の詩は癒しであり、救いだった。それが、このまま埋もれてしまうなんて、耐えられない!」
友人は、幾分か表情が和らいで、そのまま詩人をじっと見据える。
詩人の懇願は、友人の頑な心を少しずつ、確実に溶かしていった。
「もう…今なら言えるよ。私は、君が好きだ。誤解しないでくれ、詩人として、尊敬しているんだ」
「わざわざ言い出すなんて、お前らしくもない」
そう言って、友人は笑った。
あれから、ふたりは話し合い、友人は、今までに書き溜めた詩の詰まった鞄を、詩人の前に持って来た。
「ありがとう、友よ!」
「お礼は、中を見てから聞きたいものだよ」
ふたりは、まだ若き詩人だった頃のように、楽しく語らいながら詩を読み合い、詠いあった。夜が更けても、家の灯りが消えることはなかった。
クリスマスが終わり、新しい年が訪れる少し前。製本の為に、詩人にすべての詩を託した友人は、風邪をこじらせて死んでしまった。
邂逅
詩人は、墓前に完成させたばかりの詩集を置いた。
新しい年を祝う人々が行き交う、街の賑やかさとは打って変わって、この墓地は静けさだけが満ちていた。
詩人が、墓石の雪を払うと、刻まれたばかりの碑文が見えた。
生涯、詩を愛した男、ここに眠る。
彼は、詩の伴侶にして、詩の父親。
詩に愛された、真の詩人だった。
友人を弔い、墓碑銘を刻んだのは、すべて詩人の手配である。
「君に見せたかった……」
詩人は、詩集の置かれた墓の前で、友人に向かって語りかける。
「君が人生をかけて作ったものを、私は形にすることが出来た。私は満足だが……」
詩人は、一瞬、空を見上げると、両手で顔を覆って俯いた。
「ぜ…君が、いないんだ……」
詩人は、肩を震わせて、ひとり涙を流した。
…詩は、愛なのよ。
あの“声”が、聞こえる。
詩人は、顔を上げると、声のする方を見た。
いつの間にか、周りは霧が立ち込めている。
「……詩の女神よ」
…わかったでしょう?
「詩の女神よ、何がわかったと言うのか?貴女の言葉は、いつも謎めいている」
…彼は、あなたに詩を与え、あなたが世に送り出したのよ。
…あなたは、私の詩を愛したように、彼の詩を愛して、すべてを捧げたの。
詩人は、霧を払うように手をかざして、声のする方に向かって目を凝らした。
霧の中から、明るい人影が浮かび上がり、徐々に大きくなって、詩人を包み込んだ。
…あなたが愛する古の詩人たちも、愛した詩のために生きたのよ。
古代、詩人として活躍しながら、散失した詩を集め、編纂に人生を注いだ人々がいる。
詩人は、それらの人たちに敬意を払う。
出会うたびに、畏れ多くも尋ねずにはいられない。
私は、貴方を尊敬しています。貴方は、心の師です。
教えてください。詩は、誰のものですか?
すると、ある人は、詩の女神の前では意味の無いことだ。と言って、笑って歩き去る。
行き先を尋ねると、詩の女神のもとへ、と答えた。
ある者は、詩作の為に寝食を忘れ、命を落とし、
ある者は、詩を追い求め、狂気の果てに身を滅ぼした。
ここにいる誰もが、詩を愛し、詩のために生き、詩のために死んだ。
そんな彼らに、詩の女神はいつも寄り添い、微笑んでいる。
詩の女神は、どこにでもいる。
彼女は、誰からも離れることは無く、等しく愛を注いでいる。
しかし、すべては同じ。彼女はひとりなのだ。
「私も、貴女のものに、なってしまった」
…私もよ。
…私は、あなたの詩。
…詩は、愛なのよ。
詩の女神は、詩人と海辺にいる。
…これが、あなたの“詩”なのね。
ふたりは、寄せては返す波の音を聞きながら、海と広がる空を眺めていた。
「ここは、素晴らしい所だ。ここでは、何でもできる。詩で、世界を作り出すことも」
詩の女神は、淡く光る体で揺らめきながら、詩人を見た。
「でも、これは本当の世界だろうか?」
彼女の表情は、わからない。
光の中に浮かび上がる、微かな影によって、愁いにも、喜びにも見えるのだ。
…ここは、あなたの世界よ。
…そして、私の世界でもあるの。
流れる雲を見送って、ふたりはまた、海を見遣る。
…ここでは、詩を書くのも、愛。詩を求めるのも、愛なの。
…詩を書くことも、読むことも、詠うことも、その詩に応えて生まれた心も愛なのよ。
…それがどんな形であろうと、愛によって作られたなら、それは真実よ。
友人は、ここでは何不自由なく、詩を作っている。
ただ、彼が言うには、ここでは、詩は、言葉なのか、音楽なのか、光なのか、わからなくなる。と、嬉しそうに話していた。
彼女は、言う。
…愛は、繋がり合って、やがて一つになるの。
海の向こう、現世では、いつもと変わらぬ時間が流れていた。
詩人が、墓前で倒れて亡くなっているのが見つかると、国じゅうが大騒ぎになった。
人々は、詩人の突然の死を嘆き悲しみ、国葬が行われ、国内はもとより、世界中の国々が喪に服した。
やがて、喪が明けた頃、墓の主が詩人の友で、しかも詩人が手掛けた友の詩集の存在が知られると、それは友情物語として、人々の間で感動を呼び、新たな伝説となった。
こうして、詩は、時を越え、国を超えて、いつまでも、どこまでも広まり、かつての国々が姿を変え、跡形もなく滅び去っても、世界から消えることはなかったのである。
詩人は、“彼女”によって、すべてを知ることが出来たが、今となっては、どうでもいいことだった。
…愛は、“ひとつ”よ。皆、ここに辿り着くわ。
ふたりは、海辺で膝を抱えながら、寄せては返す波を見ている。
「ところで…私たちの距離は、近すぎるとは思わないかい?」
…私は、“詩”なのよ。誰のそばにもいるわ。
ふたりは、いつの間にか肩寄せ合って、互いの顔を見つめ合う。
「私は、詩を愛したから、詩に愛されたのだね」
…私は、詩を愛したから、詩に愛されたのだわ。
淡く光る詩の女神の体と、詩人の体が溶け合って、ひとつになった。
「それにしても、おかしなことだったよ。私にとって、大事な人がいる時に限って、詩が降りて来たのは」
彼は、海辺の砂に寝転びながら、となりに座る彼女に問う。
ひょっとして、わざとかい?
彼は、じっと彼女を見つめる。
…さあ、どうかしらね?
彼女は、彼を見ずに、海に眺めたまま、長い髪を手櫛で梳いて、海から吹き抜ける、気ままな風に遊ばせた。
舞い上がる髪は、空に溶け合い、心地良い香りが、彼女の淡い光とともに彼を包み込む。
「いじわるな詩の女神だ」
そう言って、詩人は笑った。
いじわるなミューズ