桜の血
 「街角の 桜溜まりの霞より 赤へ赤へと 春を消し去る」
 「何それ」
 「短歌だよ」
 「…ふぅん」
 噎せ返る程に春が充満した学校の帰り道、いつもの河川敷を、りっくんと2人で歩いていた。今日は大学3年の始業式で、今日はとても調子が良くて、明日からも調子が良いままだといいなぁと思っていた。数日前までしっかりと調子が悪かったので、私はまだ、春を満喫出来ていなかった。春に混じる、幾度と繰り返されたであろう「入」と「卒」の空気感を肌で感じとる。
 私が春を満喫する為に詠んだ短歌は、私たちの周りの空気を少しだけ澱ませた後、りっくんの「ふぅん」と一緒に風に乗って消えていった。桜の木がこれでもかと咲いていた。風が強かった。りっくんの声は高くて柔らかくて、どんなに風がうるさくても私の耳にちゃんと、届いた。
 「ねぇ、空気清浄機なら私を殺す価値があると思わない?ほらだって私、こうやってすぐ空気汚しちゃうから。」
 「何それ」
 りっくんがふっと笑った。2度目の「何それ」が冷たく刺さって、私は少しだけ、りっくんにバレないように顔を歪ませた。寂しい。
 4月を10日も過ぎた桜は、散って散って街角のあらゆる隅に小さなピンク色の山を作っていた。隅っこすらまでもをこんなに鮮やかに染めあげる春は、とても優秀だと思った。私は隅っこがお似合いの人だったので、孤独を優雅に着飾り、隅っこで幸せに暮らしていた。そんな私をりっくんが引っ張り出したのだ。ずるずると。
 「あれだけピンク色をしてるんだから、きっと元は赤だと思うんだよね。」
 ピンクの山と、風に乗って舞う花びらを見ながら私は呟いた。
 「香澄がそういうならそうなのかもね。」
 りっくんがまた、ふっと笑って私を肯定する。
 「それでね、桜の木の中が真っ赤なんだ、冬のうちだけはね。そんな真っ赤な桜の木に、雪が積もるでしょ?そしたら綺麗なピンク色が完成するの。可愛いはそうやって完成するの。私の血だって、可愛くて最強な桜色なんだから!!」
 「そうかもしれないね。」
また、ふっと笑った。りっくんの優しさが、春みたいにふわふわして掴めなかった。掴みたかった。
 「だからさ、もし、来年の冬に雪が降らなかったらさぁ……」
 私はりっくんにお願い事をした。お菓子を買って欲しくて親にねだる子供みたいに、甘えるようにお願い事をした。
 「私を、殺してくれる?」
 春の風が吹いた。隅っこにまた、ピンクが溜まった。
 「うん、いいよ。」
 ペットボトルの蓋を開けて欲しいとお願いした時と同じ、「うん、いいよ。」が帰ってきた。お菓子よりも軽いお願い事らしかった。りっくんの目を見ると、静かな、深い黒が広がっていた。正しい、と感じてる時の目だった。
 「あれ?空気清浄機じゃなくていいの?香澄を殺す価値があるのは空気清浄機だけじゃなかったの?」
 「だって空気清浄機に意思無いし。空気清浄機の次に許されるのはりっくんだけなの。」
 乾いた笑みと、正しい瞳で、りっくんは私を見つめた。今の優しい殺約で、私はやっと安心できた。
 私の血が赤くないのは生まれつきで、怪我をする度に驚かれて気味悪がられた。
 「へへ、可愛いでしょ?」
 予想通りの周りの反応に、私はそう言って笑ってみせた。空気は変なうねり方をして、しっかりと部屋を澱ませた。ピンク色は嫌いだった。可愛いけど、嫌い。
 「あれ?香澄さんの血の色、可愛いんだね。」
 「は……」
 高校1年の時の春の健康診断、採血検査をりっくんと横並びで受けた時だった。自分の腕に刺さり吸い取られていく血を見るか、それすらも見れない人達が多い中、りっくんは顔色一つ変えず、私の腕から出ていく血をうっとりとした目で眺めていた。
 「桜色だ。」
 事情を知る看護師さんは困った顔で私の顔色を伺った。びっくりした。でも、なんだかとても嬉しかった。りっくんは、ピンク色を桜色と言った。私の血の色も桜色だって。ピンクは嫌いだけど、桜色なら愛せる気がした。
 もう何回も何回も、物心ついた時から血を赤にするための手術をした。血を全部入れ替えても、入れ替えても入れ替えても、私の身体の中の雪は、新しい真紅の血をピンクに染めた。それでも調子のいい日は普通に学校に行けるし、時々何ヶ月も起き上がれなくなる事以外は、ごくごく普通の女の子だった。
 出席番号が隣のりっくんと初めて出会った入学式と、りっくんに血を褒められたあの健康診断の日はとても調子が良くて、その後半年の間、私は調子が悪かった。次に調子が良かった日はもう秋めいていて、入学式と健康診断の2日間で時が止まってしまった私の学生生活を早送りする方法など何処にもなく、既に出来上がったスクールカーストの門は頑丈だった。ピンクの血だって事もクラスの皆にばれていた。私が教室に行くだけで、空気は澱んだ。着丈な振る舞いはさらに空気を歪ませた。それでも私の人生は薔薇色で、学校はとても楽しかった。空気なんてどうでも良くなる程に。なのに、りっくんが私の薔薇色の人生を灰色にした。「桜色の香澄さんだ」って。馬鹿にされてるのかと思った。全然違った。りっくんのせいで、私は感情が増えてしまった。知らない方が薔薇色だったのに。
 「大切な事は、先に気付いた人が気付けなかった人に教えてあげればいいんだよ。」
 「気付かないままでいいよ。」
 「気付かないふりしてただけじゃなくて?」 
 「そんな事ない。てゆか私、ずっと寝てたし。」
 「よしわかった。じゃあ今度僕が香澄に〝寂しい〟を教えてあげる。」
 この時に、多分、薔薇が枯れた。 
 「この感情は、大切な人を守る為のものだったりするからね。」
 「でも、一番要らない感情だと思うな。」
 「向けられたことも、向けたこともあるでしょう?」
 「知らないよ。それにもう私、大人だよ。」
 「わかった。じゃあ今度僕が香澄を怒らせてあげる。怒らざるを得ない環境に僕が連れてってあげる。」
 この時に、完全に灰色になった。多分。
 灰色になってしまった後の私は、本当に酷かった。りっくんがなんだか冷たい日は寂しくて寂しくて頭がどうにかなってしまいそうだったし、りっくんが誰かから悪く言われてるらしいと聞いた日には、原因となった人に怒りのままに水筒のお茶を全てぶちまけたりした。そんな事になってるとは知らないりっくんが、そんな事になっていたと知った時、あろうことか「香澄がちゃんと人間らしくなったんだね。」と言って、にこにこと微笑んだ。
 「でも、香澄。聞いて。怒りは言葉の銃撃戦じゃなきゃダメなんだよ。お茶をかけたらその瞬間にこちらの負けなんだ。言葉の銃は正当防衛で、正論防衛だよ。」
 私だって何発撃たれたか分からないりっくんの言葉の銃。りっくんが染めた灰色のせいで更にまた撃たれた言葉の銃。この時、あぁ、りっくんになら撃ち殺されてもいいなと思った。
 大学を卒業する一歩手前で、私は起き上がれなくて調子の悪い日が続いた。冬を迎えた頃、まるで冬眠に入るように滾々と眠り続けるようになった。眠る時間は日に日に長くなり、1月末に眠りについた時、次に目を覚ましたのは春だった。周りのみんなはもう社会人なのに、私の心はずっと学生のままで止まっていた。
 りっくんは私を殺す為に警察官になった。あの殺約は忘れていなかった。
 「寝てる間にまた手術をしたんだよ。」
 「そうなんだ。今、何色?」
 「……桜色。」
 「そっか。」
 「あとね、香澄の余命、あと2ヶ月だって。」
 「ふぅん。」
 何となく、自分のからだだから、何となくだけど、分かっていた。 
 「雪は?降った?」
 「降らなかったよ、だから…」
 何となく、寝てたけど、分かっていた。額に冷たいものが静かに当てられた。それが何なのかも、最初から分かっていた。何も、怖く無かった。
 「香澄に〝恐怖〟を教えておくべきだったね。」
 「知らなくていいよ。もう必要ない。」
 「そうだね。」
 ふっと笑ったりっくんは、まっすぐ、正しい目をしていた。
 「大丈夫、きっと上手くいく。」
あ、ピンクに染まったりっくん、ちょっと見てみたかったかも。
桜の血