偽者と本者
私が美咲の名前を見たのは、何の変哲もない火曜日の朝だった。
スマートフォンの画面に浮かび上がる文字列。「自殺速報」という見出しの下に、彼女の名前と年齢が冷たく並んでいた。瞬間、私の脳裏に幼い頃の美咲の笑顔が浮かんだ。
自殺速報が始まったのは半年前のことだ。ある日突然、自殺者が出るたびに、その実名と年齢が即座に全国に配信されるようになった。テレビ、ラジオ、スマートフォン、街頭の電光掲示板。逃れようのない情報が、私たちの日常に組み込まれた。
最初は衝撃的だった。知らない人の名前が次々と流れる。でも、人間の順応性は驚くべきもので、すぐにそれは日常の一部となった。ニュースの天気予報のように、自殺速報を見ても心が動かなくなっていった。
そんな中で、彼女の名前を見たのだ。
沢村美咲。28歳。
私の幼馴染だった。
信じられなかった。彼女が自ら命を絶つなんて、微塵も想像できなかった。
幼い頃の彼女は、いつも明るく笑っていた。クラスの人気者で、誰とでも仲良くなれる天真爛漫な性格。困っている友達がいれば真っ先に駆けつけ、悩みを聞いてくれる優しい子だった。
大人になってからは疎遠になっていたが、それでも彼女の存在は私の中で輝き続けていた。だからこそ、この自殺速報が信じられなかった。
「誤報だ…」
私は思わず呟いた。そうに違いない。彼女が自殺するはずがない。きっと何かの間違いだ。
私は立ち上がり、上司に休暇を取ると告げた。幸い、今日は重要な予定もない。上司は不思議そうな顔をしたが、私の様子を見て黙って頷いてくれた。
オフィスを飛び出し、まっすぐ彼女の実家に向かった。途中、何度も彼女の両親に電話をかけたが、誰も出なかった。不安が募る。
実家に着くと、そこには葬儀の翌日特有の静けさが漂っていた。玄関には弔問客が置いていった花輪がいくつか並び、家の中からは片付けの音が聞こえてきた。
インターホンを押すと、疲れた様子の美咲の母が出てきた。私を認めると、悲しそうな顔で頷いた。
「あら、麻衣ちゃん…」
その声に、現実が重くのしかかってきた。それでも、私は信じたくなかった。
「菜摘さん……。美咲はその…本当に亡くなったんですか?」
私の言葉に菜摘さんは黙って頷いた。その瞬間、私の中で何かが崩れ落ちた。
「どうして…」
言葉にならない思いが込み上げてくる。立っていられずふらつく私を、菜摘さんは家の中に招き入れてくれた。
リビングに座り、菜摘さんから話を聞いた。美咲は3日前から連絡が取れなくなっていたという。心配した両親が彼女のアパートを訪ねたところ、そこで彼女はすでに亡くなった状態で発見された。遺書はなく、自殺の理由は分からないままだった。
「就職してから、美咲は変わったの」菜摘さんが静かに語り始めた。「3年前からかしら。急に忙しくなって、家に帰ってくる回数も減ったの。でも、電話では明るく話していたから...」
その言葉に、私は違和感を覚えた。3年前...私たちが疎遠になり始めた頃だ。
「仕事は何をしていたんですか?」
「よく分からないの。人材派遣の仕事をしているって言ってたけど...詳しくは聞いてなくて」
人材派遣。その言葉が引っかかった。美咲は大学卒業後、一般企業に就職したはずだ。いつの間に転職したのだろう。
私は美咲の部屋を見せてもらうことにした。そこで何か手がかりが見つかるかもしれない。
美咲の部屋に足を踏み入れた瞬間、そこには彼女の気配がまだ残っているように感じた。整然とした部屋は、彼女の几帳面な性格を物語っている。しかし、その完璧さがどこか冷たく、彼女の心の内を隠しているようにも思えた。
部屋に漂う静けさの中で、私はふと学生時代のことを思い出した。あの頃、私たちは毎日のように一緒に過ごしていた。放課後にはよく公園で遊び、時にはお互いの家で宿題をしながらふざけ合ったものだ。美咲はいつも明るく、周りを笑顔にする存在だった。彼女と過ごす時間は、私にとってかけがえのないものだった。
高校生になってからも、彼女とは頻繁に連絡を取り合っていた。進路について悩んだ時期も、お互いに励まし合って乗り越えた。彼女は大学進学を選び、私は就職する道を選んだが、それでも関係は変わらないと思っていた。
しかし、大人になるにつれて次第に疎遠になっていった。仕事や生活に追われる中で、3ヶ月に1度くらいしか連絡を取らなくなった。
そんな彼女が、自ら命を絶つなんて想像もしていなかった。
呆然と立ち尽くしていると、デスクマットから少しだけはみ出している名刺が目に入った。「sOMeOnE」という文字が印刷されている。それは人材派遣サービスの名刺だった。一般企業ではなく、この企業に就職したのだろうか。
名刺を手に取ると、その手触りが妙に現実感を伴っていた。これが、美咲の自殺の謎を解く鍵になるかもしれない。そう思った。
次の日、私は「sOMeOnE」のオフィスへ向かった。名刺に記された住所は街中にあり、小さなビルの一角だった。ドアベルを鳴らすと、中から若い女性が現れた。
「こんにちは、『sOMeOnE』へようこそ」
その女性は微笑みながら私を迎え入れた。オフィス内はシンプルで清潔感があり、壁には様々な役柄について説明するポスターが貼られていた。
「今日はどんなご用件でしょうか?」
私は少し戸惑いながらも、美咲について尋ねた。「沢村美咲という方についてお伺いしたいんですが...」
女性は一瞬驚いた様子だったが、すぐに落ち着きを取り戻した。「申し訳ありませんが、個人情報については守秘義務がありますので、お答えできません」
当たり前の事だ。ここに来た時点でこうなる事も視野に入れていたが、いざそうなってみると何もできない自分が無力で仕方なかった。
そんな私を見兼ねてか、女性は一度咳払いをして言葉を綴った。
「ただ、美咲さんは非常に優秀な方でした。多くのお客様から感謝されていましたよ」
その言葉から、美咲がここでどれほど努力してきたかが伝わってきた。しかし、それだけでは彼女の死の理由には辿り着けない。
お礼を言ってオフィスを後にした私は、心の中で決意を固めていた。美咲が関わっていた「sOMeOnE」というサービスを自ら体験することで、彼女の感じていたことや見ていた世界に少しでも近づけるかもしれないと思ったのだ。
その夜、私はスマートフォンを手に取り、sOMeOnEのウェブサイトにアクセスした。依頼フォームを開き、少し考え込んだ後で入力を始めた。
依頼内容:喫茶店で話ができる人
希望する人材:無言でも気まずくない親友
送信ボタンを押すと、30秒ほどで当日の予約完了メールが届いていた。
本文には喫茶店の店名、待ち合わせの時間、目安となる席まで細かく書かれていた。
翌日、待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、目安となる席に一人の女性が座っていた。彼女は私を見るなり、親しげに微笑んで手を振った。
「麻衣ちゃん!久しぶり!」
その自然な振る舞いに、私は少し驚きながらも席に着いた。
「町田さんですよね?」と私が確認すると、彼女は優しく頷いて「なんでそんなによそよそしいの」と微笑んだ。
私たちは最初は他愛もない話題から始めた。天気のことや最近観た映画の話など。町田さんは穏やかで聞き上手だったから会話はスムーズに進んだ。話の流れから、「実は、最近幼馴染のことで色々考えていて...」と切り出すと、町田さんは優しく頷いてくれた。
私は少し躊躇しながらも、勇気を出して尋ねた。「沢村美咲という人を知っていますか?」
町田さんの表情が一瞬硬くなったのを見逃さなかった。彼女は慎重に言葉を選びながら小声で答えた。
「最近見ないんだけど、美咲ちゃん元気?」
その言葉に少しだけ胸を痛めたが、私は深呼吸をして、自分の状況から説明することにした。
「実は先日、自殺速報で美咲の名前を見たんです。彼女は私の幼馴染で...でも、私にはそれが信じられなくて。きっと誤報だと思っているんです。」
私の声は少し震えていた。町田さんは黙って聞いていたが、その目には同情の色が浮かんでいた。
「美咲のことを少しでも知りたいんです。彼女が最後にどんなことを考えていたのか...」
町田さんは長い沈黙の後、ため息をついた。
「守秘義務があるから、詳しいことは言えないけど...」彼女は言葉を選びながら続けた。「美咲ちゃんは本当に素晴らしい人だったよ。」
「どんなふうに素晴らしかったんですか?」
町田さんは少し考えてから答えた。「美咲ちゃんはどんな役割でも完璧にこなしてた。でも…少し前から何かに悩んでいるようにも見えた。」
「何かに?」
「そう。これは私の勝手な考察だけど…美咲ちゃんはギャップに 悩んでたんじゃないかしらね。演じている自分と、普段の自分とのギャップ。こういう仕事やってるとね、オンとオフの差がどんどん無くなってきちゃって病んでしまう子が多いのよ」
町田さんは考察は概ね当たっているのではないかと思った。美咲は多くの役柄を演じる中で、自分自身を見失ってしまったのだろうか。
「最後に会った時、美咲は何か言っていましたか?」私はさらに踏み込んで尋ねた。
しかし、町田さんは静かに首を横に振って答えた。
「もう随分と前になるし、その時の美咲ちゃんは割と元気な気がしたから、他愛もない会話しかしていないわ」
「そうですか…」私はそう言ってコーヒーを啜り「今日はありがとうございました」と町田さんにお礼を言った。
喫茶店を後にする頃には、新たな疑問と共に、美咲への理解が少しだけ深まった気がした。
町田さんと別れる際、彼女は私に優しく微笑みかけた。「美咲ちゃんのことを大切に思ってたのね。きっと彼女も、あなたのことを大切に思っていたはずよ。」
その言葉に、私はそっと笑みを返した。
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喫茶店を後にした私は、まだ多くの疑問を抱えたまま帰路についた。町田さんとの会話は、美咲の一面を垣間見せてくれたが、それでも全体像は掴めていなかった。
数日後、私は再び美咲の実家を訪れることにした。玄関のチャイムを鳴らすと、少し疲れた様子の菜摘さんが出てきた。
「あら、麻衣ちゃん、また来てくれたの」
菜摘さんの声には悲しみと疲労が混ざっていたが、私を見ると少し表情が和らいだ。
「お邪魔します。もう少し美咲のことを聞かせてもらえませんか?」
菜摘さんは黙って頷き、私をリビングへと案内した。
テーブルに向かい合って座ると、菜摘さんは静かに話し始めた。
「美咲のことは、私より麻衣ちゃんの方が詳しいと思うから、私から話せる事は少ないけど最近の美咲のことを知りたいのよね?」
私は頷いた。菜摘さんは少し考え込んでから続けた。「大学を卒業してからは、一般企業に就職したのよ。最初は順調そうだったわ。でも、3年前くらいから様子が変わったの」
「3年前...」私は思い出そうとしていた。
「そう、ちょうどあの子が一人暮らしを始めた頃よ」母が言った。「覚えてる?美咲が駅の近くにアパートを借りたって言って、あなたも引っ越しを手伝ってくれたでしょ」
「はい、白いアパートで、2階の角部屋でしたよね」
母は少し寂しそうに微笑んだ。「そうそう。自立したいって言って...でも、その頃から急に忙しくなって、家に帰ってくる回数も減ったの」
「電話ではどうでしたか?」私は尋ねた。
「電話では相変わらず明るく話していて...私たちは何も気づかなかった」母の目に涙が浮かんでいた。「あなたとも、最近はあまり連絡を取っていなかったのよね?」
私は申し訳ない気持ちで頷いた。「はい...仕事が忙しくなって、だんだん疎遠になってしまって...」
母は優しく微笑んだ。「そう責めないで。美咲も同じだったのよ。忙しさに紛れて、大切なものを見失っていたのかもしれないわ」
しばらく沈黙が続いた後、母が突然思い出したように言った。
「そういえば...美咲のアパートを片付けていたら見つけたんだけど...」
母は立ち上がり、棚から3冊のノートを取り出した。
「美咲の日記みたいなの。私には読む勇気がなくて...でも、あなたなら美咲も許してくれると思うわ」
私は震える手でノートを受け取った。3冊もあるとは思わなかった。ここに美咲が過ごした空白の3年間が記載されている。大きな手掛かりだ。
「ありがとうございます。大切に読ませていただきます」
家に帰った私は、深呼吸をして最初のノートを開いた。表紙には「1年目」と書かれていた。最初のページには、3年前の日付が記されていた。
「2人には内緒で、自分の可能性をsOMeOnEという会社で試す事にする。人々の理想を演じる仕事。少し怖いけど、わくわくする」
やはり就職先に関しては、両親に内緒にしていたらしい。
ページをめくると、最初の依頼の詳細が書かれていた。
「明日から初めての仕事。『セレブリティ・ガーデン』という結婚式場で、花嫁の親友役を演じる。緊張するけど、頑張ろう」
私は息を呑んだ。具体的な場所が書かれていたのだ。これは手がかりになるかもしれない。
翌日、私は「セレブリティ・ガーデン」を訪れた。華やかな外観に圧倒されながら、緊張した面持ちで受付に向かう。
スマートフォンに保存していた美咲の写真を見せながら、私は受付の女性に尋ねた。「すみません、3年前のことなので覚えていないかもしれませんが、この人に見覚えはありませんか?結婚式に参列していたはずなんです」
受付の女性は少し困惑した表情を浮かべたが、写真をじっと見つめた後、親切に対応してくれた。「申し訳ありません、私自身は覚えていないのですが...少々お待ちください。当時の担当者を呼んでまいります」
待っている間、私は落ち着かない気持ちを抑えようと深呼吸を繰り返した。ロビーの大きな窓からは、美しく手入れされた庭園が見える。きっと美咲も、この景色を見ながら何かを感じていたのだろう。
しばらくすると、40代くらいの女性スタッフが現れた。
「お待たせしました。3年前の結婚式についてお聞きになりたいとか?」
私は緊張しながら説明を始めた。美咲のこと、彼女がこの結婚式に参列していたこと、そして彼女の突然の死。言葉を選びながら話す私の様子に、スタッフは真剣な表情で耳を傾けてくれた。
「はい、確かにその日の結婚式は覚えています」スタッフは少し考え込んでから答えた。
「花嫁の親友のスピーチが素晴らしくて、みんなが感動していましたから」
「そのスピーチで、覚えていることはありますか?」私は期待を込めて尋ねた。
スタッフは目を閉じ、記憶を辿るように話し始めた。「それはもう…幼い頃からの思い出や、花嫁の良いところをユーモアを交えて語っていました。会場全体が笑いと涙に包まれて…本当に素晴らしいスピーチでした」
その言葉を聞きながら、私は美咲の姿を想像してみた。あまり想像はできなかったが、全身全霊でその役を演じていたのだろう。
「…他に何か印象に残っていることはありますか?」
スタッフは少し躊躇した後、静かに話し始めた。
「実は…式の後、その方が一人で泣いているのを見かけたんです。とても複雑な表情をしていて…」
その言葉に、私は驚きが隠せなかった。その時の状況を想像しても、美咲がなぜ泣いているのか全く分からなかったからだ。
「どこで泣いていたんですか?」私は声を震わせながら尋ねた。
「庭園の奥にある小さな東屋です。誰もいない場所だったので、私も偶然見かけただけで…」
なぜそんな人気のないところで泣いていたのだろう。ますます分からない。
「その東屋…見せていただけますか?」
スタッフは少し迷った様子だったが、私の真剣な眼差しを見て頷いてくれた。
庭園を歩きながら、私は美咲の足跡を辿っているような気がした。色とりどりの花々、整然と刈り込まれた植え込み、そして小さな噴水。全てが美しく、幸せに満ちている。
東屋に着くと、スタッフは静かに言った。「そこです。あの日、彼女はその椅子の近くで泣いていました」
私はその椅子に手を置いた。3年の時を経て、美咲の温もりはもうそこにはない。
「ありがとうございます」私は深々と頭を下げた。「こんなに詳しく教えていただいて…」
スタッフは優しく微笑んだ。「お役に立てて良かったです。彼女のことを大切に思っているんですね」
私は黙って頷いた。言葉にできない思いが胸に溢れていた。
「改めて私も考えてしまいます。どうして美咲さんのような人が…?」スタッフが静かに呟いた。
「私にも分かりません…。だから今こうして、美咲の痕跡を辿っています」
スタッフは優しく頷いた。
結婚式場を後にしながら、私は美咲の日記の言葉を思い出していた。
「花嫁が涙を流して喜んでくれて、嬉しかった。でもそれと同時に、自分が怖くなった。私はあそこまで自分を偽れるんだ」
泣いていた話が聞けたおかげで、美咲の複雑な思いが、少しずつ見えてきた気がした。彼女はあまりにも演じ切れた自分が怖かったのかも知れない。
そうだとして、まだ多くの謎が残されている。なぜ美咲はこの仕事を選んだのか。そして、何が彼女を追い詰めたのか。
私は美咲の足跡を追い続けることを決意した。彼女の真実を知り、そして彼女が最後に見つけようとしていたものを理解したい。それが、私にできる唯一のことだと思った。
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結婚式場から帰った私は、美咲の日記を読み進めることにした。1冊目を読み終え、2冊目を手に取る。表紙には「2年目」と書かれている。深呼吸をして、ページをめくった。
美咲の文字が、様々な役柄とその経験を語り始める。
「今日は、大企業の重役の秘書役だった。大事な商談の場で恥じないように送られてきた要望を熟読して完璧にこなせた。商談後にご馳走していただいたご飯は私が今まで食べてきた何よりも美味しかった」
「公園でのデート。初めて彼氏ができた女子高生の役。相手の男性は、初々しい恋愛を体験したかったらしい。手を繋ぐときの緊張感、はにかむ笑顔…全てが新鮮だった。もう体験する事はないと思っていた何かが取り戻せそうだった」
「今日は、外国人観光客のガイド役。流暢な英語で日本文化を説明しながら、相手の興味に合わせて柔軟に対応した。言葉の壁を越えて心が通じ合う瞬間があり、世界がぐっと広がった気がした。英語が話せてよかったと思った」
そして、次のページで私の目に留まったのは、「理想の彼女役」という文字だった。
「今日の依頼は、理想の彼女役。相手の男性は大学を卒業したばかりの新社会人で、恋愛経験が少ないという。彼の理想に合わせて、優しくて知的で、少しおっちょこちょいな彼女を演じた。彼が徐々にリラックスしていく様子が印象的だった」
私は息を呑んだ。さらに読み進めると、興味深い記述が目に入った。
「彼との会話の中で、彼が大手IT企業のサイバーセキュリティ部門に就職したと知った。その企業の名前は『テックガーディアン』。彼は新しい環境に不安を感じているようだった。私は彼の夢を応援する彼女として、励ましの言葉をかけた」
日記には、依頼主の外見的特徴も記されていた。「優しそうな丸顔で、黒縁の眼鏡をかけていて、少し緊張気味な表情が印象的だった」という描写が目に留まった。
「テックガーディアン」...この会社に行けば、彼に会えるかもしれない。
翌日、私は「テックガーディアン」のオフィスビルの前で待機することにした。夕方の退社時間帯、社員たちが出てくる様子を観察していると、ふと目に留まる人物がいた。
優しそうな丸顔で、黒縁の眼鏡をかけた男性。少し緊張気味な表情は、3年経った今でも変わっていないようだった。私は思わず声をかけていた。
「突然すみません、少しだけお時間をいただけませんか?」
男性は驚いた表情を浮かべたが、丁寧に応じてくれた。
「はい、何でしょうか?」
私は深呼吸をして、尋ねた。「3年前、sOMeOnEというサービスを利用されましたか?」
「…えぇ。覚えてますよ。ですが…どうして貴方がその事を…?」
私は男性の問いには答えず続けた。
「理想の彼女役として来た女性のことを覚えていませんか?」
男性の表情が変わっていく。懐かしさ、そして困惑が入り混じっているようだった。
「…覚えてますよ。信じられないぐらい僕の理想通りの役を演じてくれたので…」
「実は、その女性は私の幼馴染で...」私は言葉を詰まらせた。
「美咲が...先日亡くなったんです。そして、彼女の日記に、あなたとの出会いのことが書かれていて...」
男性の表情が曇った。「そんな...信じられない...」
私たちは沈黙の中、美咲のことを思い返していた。
「当時のことを詳しく教えていただけませんか?」私は静かに頼んだ。
男性は深いため息をついてから、ゆっくりと話し始めた。
「僕は田中と言います。沢村さんを通して、僕の人生は変わりました。彼女は...まるで本物の彼女のようで...僕はその時初めて、自分が何を求めているのかを理解できたんです。それまでの僕は...」
田中さんは少し照れくさそうに笑いながら、sOMeOnEに依頼した理由を語り始めた。
「大学生活は...正直、あまり楽しくなかったんです」彼は目線を落として続けた。「勉強ばかりで、恋愛とか友人関係とか、そういうものを全て後回しにしてきました。でも、就職が決まって、ふと気づいたんです。このまま社会人になって、本当にいいのかって」
彼の言葉に、私は静かに頷いた。多くの人が経験する不安だろう。
「それで...理想の彼女とデートをしてみたいと思ったんです。少なくとも、そういう経験がどんなものか知りたくて」田中さんは恥ずかしそうに微笑んだ。「そんな時にsOMeOnEの広告を見て...」
当時を振り返りながら田中さんは穏やかに言葉を綴った。
「美咲が演じた彼女役はどうでしたか?」
「驚きの連続でした」彼は目を輝かせながら答えた。「僕がsOMeOnEに提示した情報は全て完璧に網羅していたんです。でも、それだけじゃなくて...」
彼は言葉を探すように少し間を置いた。「沢村さんは、僕の性格や何に心を動かされるかを完璧に読み取っていたんです。おそらく、僕が提供した情報を元に分析したんでしょうね。だからこそ最高のパフォーマンスができたんだと思います」
「分析…」私の口からポツリと溢れた。
「例えば...」田中さんは懐かしそうに目を細めた。「僕が何気なく言った好きな本の話から、その本の作者の他の作品まで詳しく知っていて、その世界観について語り合えたんです。まるで長年の親友のように」
彼の話を聞きながら、私は美咲の姿を想像していた。きっと美咲は、相手の心に寄り添うことに全力を尽くしていたのだろう。
「でも、あまりにも想像以上で...正直、戸惑いもありました」田中さんは続けた。「こんなに完璧な人が本当にいるのかって。でも、それ以上に、心が温かくなるような不思議な感覚がありました」
私は黙って聞いていた。美咲の演技力と洞察力に改めて驚かされると同時に、彼女がこの仕事にどれほど真剣に向き合っていたかを感じた。
「そして、お別れの時...」田中さんの声が少し低くなった。「沢村さんは、ほんの少しだけ自分のことを話してくれたんです」
私は思わず身を乗り出した。「どんなことを?」
田中さんは優しい表情で答えた。「彼女は言ったんです。『人の幸せを願うのは得意だけど、自分の幸せを願うのは下手なんです』って」
その言葉に、私は胸が締め付けられる思いがした。それは、まさに美咲らしい言葉だった。
「その時の彼女の表情が忘れられないんです」田中さんは続けた。「少し寂しそうで、でも同時に温かい笑顔を浮かべていて...まるで、自分の本当の姿を一瞬だけ見せてくれたような」
私は黙って頷いた。美咲の言葉の裏には、きっと彼女自身の葛藤があったのだろう。人々を幸せにすることに全力を尽くす一方で、自分自身の幸せを見失っていたのかもしれない。
「その言葉を聞いて、僕は思わず『でも、あなたは今日、僕を幸せにしてくれました』と言ったんです」田中さんは少し照れくさそうに続けた。「すると彼女は、本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれて...」
その瞬間、私の目に涙が浮かんだ。美咲の笑顔が目に浮かぶようだった。彼女は、人々を幸せにすることで自分も幸せを感じていたのかもしれない。
「沢村さんとの1日は、僕の人生においても特別なものになりました」田中さんは静かに言った。「勉強のために犠牲にしていた時間を全て取り戻せしてくれたんです。それもたった1日で」
私は深く頷いた。美咲は、演じることを通じて、多くの人々の人生に影響を与えていたのだ。そして同時に、自分自身との対話も続けていたのかもしれない。
「ありがとうございます」私は心からの感謝を込めて言った。「新しい美咲の一面を知ることができました」
田中さんは優しく微笑んだ。「いえ、こちらこそ。沢村さんのことを思い出す機会をくれてありがとうございます」
私たちは静かに別れを告げた。美咲の存在は、確かにここにもあったのだと実感しながら、私は次の手がかりを探す旅を続けることを決意した。
家に帰ってすぐ、3冊目を手に取った。表紙には「3年目」と書かれている。深呼吸をして、ページをめくっていった。
3冊目は今まで以上に詳細な記述が並んでいた。依頼内容や依頼者に関する情報が事細かに記されており、美咲がいかに多様な役割を演じてきたかが伺えた。
「今日の依頼は、単身赴任中の母親の代役。娘の授業参観に参加してほしいとのこと。本当の母親は海外出張で帰れないらしい。娘は10歳。好きな食べ物はオムライス。苦手な教科は算数…」
細かな情報まで記録されており、美咲がいかに真剣に役を演じていたかが伝わってきた。
別のページには、こんな記述もあった。
「依頼者は35歳の会社員。両親に紹介する彼女役を頼まれた。『真面目で礼儀正しい』がキーワード。趣味は読書と料理。将来の夢は、小さな雑貨店を開くこと…」
美咲は単に役を演じるだけでなく、その人物になりきるために徹底的に準備していたようだ。
さらにページをめくると、より複雑な依頼の記録が現れた。
「今回は、詐欺事件の証人者。被害者の方が警察に被害届を出す際の同行を依頼された。『信頼できる第三者の証言が必要』とのこと。事件の詳細、被害状況、犯人の特徴まで全て暗記した。緊張するけど、これも大切な仕事...」
法的な問題に関わる依頼まで引き受けていたことに、私は驚きを隠せなかった。
そして、ある依頼の記述に目が留まった。
「『ただの娘』の依頼。依頼者は60代の女性。実の娘とは10年以上音信不通だという。『最後に会った頃の娘の姿を見たい』と涙ながらに頼まれた。これまでの依頼の中で、最も心が痛んだ...」
美咲の言葉には、深い同情と複雑な思いが滲んでいた。
日記には、美咲自身の感情の変化も記されていた。
「最近、自分が誰なのかわからなくなることがある。朝起きて、今日は誰になるんだろう、と考えるのが日課になってしまった。でも、依頼者の喜ぶ顔を見ると、それも悪くないのかもしれない...」
この記述を読んで、私は美咲の内なる葛藤を感じずにはいられなかった。彼女は多くの人々の人生に寄り添い、その瞬間の幸せを提供していた。しかし同時に、自分自身のアイデンティティを失いつつあったのではないだろうか。
次のページには、こんな言葉が綴られていた。
「私は誰なのだろう。これまで演じてきた全ての役割が私の一部なのか、それとも本当の私はどこかに隠れているのか。この仕事を続けていく中で、その答えを見つけられるだろうか...」
美咲の言葉に、私は深い共感と同時に、言いようのない不安を感じた。彼女は自分自身を探す旅の途中で、何かに躓いてしまったのではないか。その思いが、私の中でますます強くなっていった。
最後のページに辿り着くと、そこには美咲が最後に受けた依頼について詳細に記されていた。
「今日の依頼は、単純な悩み相談だった。依頼者は28歳の女性。私と同い年だ。」
美咲の文字は、いつもより少し乱れているように見えた。
「彼女は、自分の人生に辟易としていると言った。普通の家庭で生まれ、普通に学生時代を過ごし、普通に大人になって、普通に生きている。そんな彼女が、『このまま死を待つだけは嫌だ』と言った時、私は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。」
息を呑んだ。美咲の言葉が、まるで目の前で語られているかのように鮮明に感じられた。
「彼女は私に尋ねた。『どうしたらいいですか?』と。その瞬間、私は自信を持って答えられると思った。これまでの3年間、sOMeOnEの仕事を通じて、様々な人生に触れてきた。多くの悩みを聞き、解決策を提案してきた。きっと、完璧な回答ができるはずだと。」
しかし、次のページに書かれた内容に、愕然とした。
「でも、言葉が出てこなかった。頭の中が真っ白になり、何も答えられなかった。これまで経験したことのない、初めての失敗だった。」
美咲の文字が、さらに乱れていく。
「答えに詰まる私を見て、依頼者は静かに微笑んだ。『それが答えですよね。そうですよね』と。彼女は何かを悟ったかのような表情をした。」
美咲がその時感じた戸惑いと苦悩を想像した。どんな依頼に関しても完璧に応えてきた彼女が、初めて言葉を失った瞬間。それは美咲にとって、どれほど衝撃的な経験だったのだろうか。
「彼女の家を後にした後も、私はずっと考え続けた。なぜ答えられなかったのか。そして気づいた。私自身も、同じ悩みを抱えていたのだと。」
その言葉に、胸が痛んだ。美咲も、普通の人生に疑問を感じていたのかもしれない。多くの人の人生を演じながら、自分自身の人生の意味を見失っていたのかもしれない。
「数日後、依頼者の名前が自殺速報で流れた。」
その一文から、美咲の中で何かが崩れ去ったんだと思った。
「彼女の最後の言葉が、頭から離れない。『それが答えですよね』。私は彼女を救えなかった。いや、むしろ私の沈黙が、彼女を死へと追いやったのかもしれない。」
美咲の言葉には、深い後悔と自責の念が滲んでいた。
「私はこれまで、多くの人の人生の一部を演じてきた。でも、本当の意味で誰かの人生に寄り添うことができたのだろうか。誰かを本当の意味で幸せにできたのだろうか。」
その問いかけは、美咲自身への問いでもあったのだろう。美咲が抱えていた葛藤を痛いほど感じた。
「もしかしたら、私はただ表面的な幸せを演じていただけなのかもしれない。本当の幸せ、本当の生きる意味。それを見つけられないまま、私は多くの役を演じていたのかもしれない」
最後のページには、美咲の迷いとも取れる言葉が記されていた。
「あの日依頼、うまく動けなくなってしまった。どうしたらいいのだろう。自分自身と向き合うべきなのか、それとも...。本当の私とは何か。本当の幸せとは何か。それを見つける力が、もう私にはないのかもしれない。」
そこまでで、終わっていた。
日記を閉じ、深いため息をついた。美咲が自殺を考えるに至った経緯が、少しずつ見えてきた気がした。美咲は知らない間に、自分自身の幸せや生きる意味を見失っていたのだ。
そして、最後の依頼者との出会いが、彼女の中で何かを決定的に変えてしまった。自分も答えを持っていないという事実に直面し、これまでの自分の行為に疑問を抱いたのだ。
美咲の日記を胸に抱きしめた。彼女の苦悩、葛藤、そして最後の迷い。それらを知ることで、美咲の選択をより深く理解できた気がした。
自殺速報は誤報ではなかった。
美咲は本当に自ら命を絶ったのだ。
理解すると同時に堰を切ったように涙が溢れ出した。美咲の最後の言葉、最後の思い、そしてその選択。全てが一気に押し寄せ、抑えきれない悲しみと後悔が胸を締め付けた。
床に崩れ落ち、美咲の日記を抱きしめながら、声を上げて泣いた。美咲との思い出、そして二度と会えない現実。それらが交錯しながら、心を激しく揺さぶった。
泣き崩れながら、美咲への思いを心の中で叫んだ。
その夜。
私はもう届くはずのない美咲のLINEを開いた。最後に会話したのは3ヶ月前の誕生日を祝ったメールだった。
それなりにやりとりをしているのにも関わらず、文字の美咲は元気そうだった。私に心配をかけないように“私の中の美咲”を演じてくれていたのかも知れない。
届くはずのない美咲に向けて、文字を綴った。
美咲へ
自殺速報で美咲の名前を見た時、信じられなかったよ。まさか美咲に限ってそんな事…。誤報だ。って心の底から思った。
こんなことになった後じゃもう遅いけど、美咲もたくさん頑張ってたんだね。無理してたんだね。
気付いてあげられなくてごめんね。
正直私も、思うところがあるよ。普通の毎日は幸せだけど、つまらないなぁって。
だから、美咲がいなくなっちゃったこの世界より、美咲と同じ場所に行きたいって少しだけ考えちゃった。もちろん怒りにね。
でも、それだけの理由でそっちに行ったら美咲は責任感じちゃうだろうし、私に引っ張られちゃう子もいるだろうから、もう少し待ってて。
またいつか必ず、美咲に会いにいくから。
送信ボタンを押して、既読がつくはずのないメッセージを改めて見返した。
何かを書きたい一心で走らせた割には良くできていた。
明日起きた時、目が腫れていませんようにと願いながら目を閉じた。
明日からもまた“普通の日常”を生きる為に。
偽者と本者