旅の雀
早朝、公園に赴いてパンを食むために、街路を歩いていました。
初冬の寒さのせいもあり、風から顔を背けるようにして俯いておりました。
左脇には、ツツジが、青とも赤とも見える丸い実を、幾つも実らせてます。春と見紛うほどに、それは瑞々しく思えました。一方、脳裏に宿った風景と現状のさらされている温度の差で、余計に寒さが増しました。近年は近代文学の時代より、寒暖差が激しくなったと感じます。先月までは猛暑に苦しんでいた記憶があるのですが、それははたや私の妄想でしょうか。
諸々、近代文学の時代に憧れを抱くのです。
さて、光沢を放つツツジの実を数えながら歩いておりましたら、似つかわしくないものが茂みの陰に現じました。雀の横倒れです。生きているのか死んでいるのか、私の目には判別がつきませんでした。しかし、このまま放っておけば直に凍えて逝くだろう、そう思いました。
『幸福の王子』という童話がありますでしょう。フランスの作家だったでしょうか。小さい頃に、童話集に載っていたのを読んだことがあります。こちらはツバメですが、王子に奉仕した後に春を迎えることなく死んでいきます。そんな話を思い出しました。
もしも私が、このツバメの遺骸を見つけても、汚らわしく思って避けるのみでしょう。遺骸は土に還るか、保健所の職員に回収されて捨てられます。ただ、このツバメはたしかに、或る物語における英雄です。遺骸の発見者である私たちは、それを知らないのに過ぎません。
この雀がどんな生涯を送ってきたのか、私には知る由もないでしょう。しかし、鮮やかな電球に照らされた最期には、憧れすら起こってしまう。終着点には相応しく思えます。
雀の生葉隠れにして躑躅星
冴えた空にぞ飛び上がり往く
終着点です。
旅の、終着点です。
雀には此処が相応しかったのでしょう。
『津軽』という太宰の小説があります。冒頭に滑稽な一節があるのです。――滑稽ですが、否めないのです。
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
今朝の私の散歩も、規模を縮小した旅であります。渦中、鳥などを見ておりますと、蒼穹の全天が浮かばれます。私も鳥に言葉を託して、どこまでも飛び上がろうとします。原稿用紙の正方形の枠外に、はらいが飛び出るほどです。きっとそれは――。
閉塞的な社会の上にも、空は広がっていました。私は、言葉を用いて間接的にではありますが、風に立ち向かう羽を感じます。
苦しいから、旅をします。言葉はあらゆるものと私の精神を結びつけてくれます。下りたシャッター、横断歩道の子ども、声を上げる烏。私は旅をしながら、きっと、自分でない何かに成り代わろうとしているのでしょう。
逃避行的ですが、いいのです。今朝の体験は私の脳裏に染み込んでいますが、今文字に起こしているものは、全くの妄想かもしれない。それでもいいのです。言葉として残った此れは、旅の成果物です。
言葉にした途端、筆者の脚色は入るものでしょう? 雀の生涯は、誰にも知られない。ただ、存在したことを此処に書き残しました。
それでは失敬。また旅へ行ってきます。
参考: 『津軽』- 太宰治,『幸福の王子』- オスカー・ワイルド
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