銃と少女
夜が深まり、漆黒が辺りを支配する。街々は昼の面影を失い、まだら模様に浮かび上がった街の灯りが一層闇を際立たせる。その黒々とした建築物の塊は、一つの塊として独立した思考を持ち有機的に変動していた。夜の街はまるで巨大な生物のように、一種の意思を持ってその姿を豹変させた。
少女は、夜の街の一部へと溶け込んでいく。街の呼吸と少女の呼吸が同期する。深く息を吸い込んで吐き出し、そのまま意識を鎮める。やがて少女は街の一部になり、同時に背景になった。彼女は完全に街であり、同時に街は彼女である。
ひんやりとした嫌な感じがお尻から伝わってきた。屋上の床は11月の冷気を吸い込んでいささか凍えているようだ。だが少々不快ではあるが大して気にならないと、少女は無視してスコープを覗く。こんなこと仕事柄慣れっこだ。それよりも去年の盛岡での仕事のほうがひどかった、あの時は一晩中雪の中で待っていたんだと、少女はぶつくさとつぶやいている。
一旦スコープから視線を外し、慎重に風を確認する。ぴりっと空気は冷たいが、幸いにも風は吹いていない。最高のコンディションだ。少女はほっと胸をなでおろすと、再びスコープを覗く。左手でダイヤルを調節し、真正面のホテルの一室へと照準を合わせる。レンズ中央に映る十字は最上階の一室を覗き込んでいた。
少女はこれから起こることに思いを馳せる。
引き金を引き、長い銃身から弾丸が発せられる。弾丸は螺旋(らせん)運動を伴って空気を切り裂き、一本の直線を描く。0,2秒後には弾丸は部屋へと届く。窓は空いている。ノックもなしに不躾に入ってきた弾丸に男が気づいた頃には、無機質な天井一体が赤いアートへと変貌する。何度も頭の中で繰り返してきた映像。大丈夫、失敗はない。少女は大きく頷(うなず)く。まるで自分自身を安心させるかのように。
少女は引き金を引き、男は死ぬ。
のっぴきならないことだが、男は死ぬ。それは彼女が男に銃口を向けた時点で決まっていたことだ。
私は殺し屋で、彼は死ぬ。少女は口の中で反芻(はんすう)する。
私は引き金を引き、彼は死ぬ。そういう、
「そういう運命だからか。」
少女は背後から聞こえる声に耳を貸さず、ただ携帯電話のボタンを一つづつ押していった。
◇◇◇
「運命って信じるか?」
洋平は今朝の少女との戯れを思い出していた。
洋平の問いを、少女は無言で聞いているだけだ。口の中で飴玉を転がしながらテーブルの上の資料に目を通し、耳だけこちらに向けている。それでもかまわずと、洋平は続ける。「私は、信じる。」
その瞬間少女は少しだけ顔をしかめた。ああなんだこいつ信じてないんだなと、洋平は微妙な表情の変化から悟ることができた。
今日の仕事のブリーフィング。テーブルの上に置かれた数枚の資料と顔写真。そのテーブルをはさんで洋平と少女はソファに腰をかけている。少し古い空調がゴウンゴウンと轟音を立てながら動いているビジネスホテルの一室。洋平が仕事の時によく利用する部屋だ。
「お前はどうして運命を信じない?」
洋平が少女に問いかける。少女はぎろっと目だけ動かして洋平を睨みつける。その凍てつくような視線は鋭く、さすが彼女が殺し屋であるからだなと洋平は背筋をぞっとさせた。再び少女は目線をテーブルに戻し、その口だけを動かした。
「嫌い、だから。」
「運命が?」
「運命のせいにするのが。」
ほほう、と洋平は少々大げさに相槌を打ってみせる。少女は少々しらけた目でこちらを覗いているのだが、やはり洋平は全く気にかける様子がない。
「なかなか興味深いな。」
「・・・そうでもない。」
洋平の右頬だけが少し吊り上がる。どうやら肩すかしをくらったらしい。
「釣れないな。そんな事言うなよ、二年も一緒に仕事してきた仲だろ。」
「仕事と、プライベートは、別。」
今度は完全に洋平の両頬が吊り上がった。そしてそのまま豪快な笑い声を上げる。
「そうだ、その通りだ。まったくもって正論だ。これは失礼。キミは君の仕事をし、私は私の仕事をする。私とキミはそういう間柄だったな。」
少女は殺し屋、洋平はマネージャー、仕事上のパートナーではあるが、少女としては必要以上に互いを知るのはあまり好ましくないようだ。なるほど確かに、そこまで親密な仲ではない。
ひとしきり洋平が笑ったあと、少女の頬も緩んでいた。なんだ人並みには笑うのかと、洋平はなんだかほっとさせられた。
さて、と洋平はテーブルの上の写真に手を置く。ちょうど男のハゲ頭の上に。
「さて、仕事の話をしよう。」
今日のターゲットは百舌由紀夫(もずゆきお)。元衆議院議員、元首相、をはじめとした元づくしの遺跡のような男だ。この男を殺して欲しいという依頼で、方法は問わない。プライベートの旅行として仙台を訪れており、そのため付き人もいない完全なお忍びである。今夜男がとっているホテルの部屋も押さえており、しかも都合のいいことに向かいには閑散としたビジネスホテルが立ち並んでいる。その距離およそ200m。スナイピングが可能な距離である。ビジネスホテルの一室も押さえているから、そこから撃てばいい。
洋平は淡々と説明する。少女は頷きも瞬きもせず、ただテーブルの上の資料を見ながら口の中でもごもごとつぶやいている。その目線は右から左へ上から下へ、せわしなく動き回ってやがて一点で止まった。
「窓際。」
「は?」
「百舌さんを、どうやって、窓際に?」
ああそれか、と言いながら洋平は含み笑いした。これから殺害する対象にさん付けするなんてなかなか可愛いところもあるもんだ、などと思っているなどと少女は知る由もない。
「その点は大丈夫だ。」
「どうやって。」
「やつに日本酒を送る。」
少女はピクンと肩を揺らし、そこで初めて顔を動かして不思議そうに洋平の顔を覗き込んだ。
「そんなことで。」
「なーに、上手くいくさ。」
多少奇抜な作戦ではあるが、根拠は十分にある。洋平はしたり顔をしてみせた。
百舌は大の酒好きで有名である。しかも最上階に部屋を取るということは、それなりに目的もあるわけで。そんな輩が夜景を見ながら酒を飲まない訳がない。
「ほんとに。」
「上手くいく。」
少女はなかなか腑に落ちないようだ。そりゃそうだ。まだ酒の飲めない彼女はその楽しみを理解するはずがない。少女はやや首をかしげながらも、やがて再び目線をテーブルに戻りた。
「一応、信頼は、してる。」
「ありがとう、光栄だね。」
彼女はテーブルの紙をおもむろに手に取り、そのまま細かくちぎって灰皿の上で火をつけた。
「覚えた。じゃあ、また今夜。」
「おう。」
少女はソファに立て掛けてあったギターケースを肩にかけ、部屋の入り口へと向かった。その中には少女に似合わないような黒い鉄の塊が入っていることだろう。彼女の商売道具。人を殺すために作られた、彼女の銃が。
おかしな世の中になってしまった。世間一般と言われる常識人たちは、嘆き戰(おのの)き悲しみ同情するだろう。ああ、なんで少女が人を殺して生きていかなければいけないのだ、なんて因果な世の中だ、と。
あほらしい、全くもって馬鹿げている。洋平はポケットから煙草を取り出し、灰皿の火種で火を灯す。
人は生きている以上、誰かを殺しながら生きている。
今日食べたパンの小麦を作るために、何人が食べ物にもありつけず働いているのか。何の気なしに捨てた残飯にすらありつけず、何人が飢えで死んでいるのだろう。誰かが食べられるはずだった食料を奪って、私達は生きている。
生きるとは、きっとそういうことだ。
誰かが生まれ、誰かが生き延び、誰かが死んで。
命を循環させている。
洋平の仕事も彼女の仕事も、そう言った意味で人間の営みの上にあるのだ。
ではなぜ彼女は、彼女と同い年の世間一般がそうしているように生きられないのか。
それに関しては、とてもじゃないが語ることのできない理不尽でどうしようもない物語があるわけで。ただ失礼を承知で表してしまうのなら。
そういう運命だったのだ。
彼女は殺し屋として、光の浴びることのない世界で生きていく運命だったのだ。
洋平はただ深く吸い込み、そしてただ深く吐き出す。
残り火が灰皿の上でまだ燻っている。
洋平はしばらく、その火を見つめていた。
◇◇◇
ドアノブを回す。キイ、となんだか建付の悪いような音が聞こえて、外見の割に中身はぼろなのかなと、少女は余計な思考を巡らす。
偽造したマスターキーで部屋の鍵を開け、百舌の宿泊している部屋へと侵入する。正しくは元・百舌が宿泊していた部屋、である。ドアを開けると、生臭い匂いが鼻をつく。べっとりと張り付くような匂いが鼻腔に侵入し、甚(はなは)だ不快である。何度も見た光景であるが、決して慣れることはないこの光景。無機質な天井は真っ赤なアートへと変容した。窓際には日本酒の小瓶と、元・百舌が横たわっている。仕事の成否を確認しに来たのだが、これでは疑いようがない。特徴的なハゲ頭はすっかり風通しが良くなっている。
少女はしばらく死体を見つめ、ただ立ち尽くしていた。虚ろで膜のかかった丸い眼で、どす黒くなった元・百舌を見つめている。何を考えているのか、傍から見ている分には全く見当もつきそうにない。ホテルの一室に佇む少女の姿はなんだか不思議な色を持っていて、無機質な背景に映えていた。その色がどんな感情からくるものか、少女自身もはっきりと理解しているわけではない。
「罪悪感は消えたかい。」
少女はハッとする。部屋の入口付近にはいつの間にか幼い男の子がいた。少年はニコニコと佇んでいる。声の正体に気づいた少女は少し胸を撫で下ろした。
「キミはまだ、その感情に折り合いをつけられていないんだね。」
少年は人の心を覗くように、丸いクリクリとした目を光らせる。その無邪気な目を見つめることができず、少女は少年から目をそらした。
「キミはまだ、ターゲットの死を良心で捉えているんだ。だから仕事の度にこうやって割り切れないものを抱えていく。」
少年は表情を変えずに言葉をつなぐ。容姿と言葉が反比例しているが、少女は全く気にかける様子はない。
「分かっているんだろう?」
「最近どんどん増えているんだ。」
先ほどの少年の声よりもオクターブ低い声が、窓際から聞こえてくる。少女はゆっくりと顔を動かす。窓の横に、外国人と思しき初老の男性が立っていた。少女はゆっくりと目を瞑るが、彼らは消えない。
彼らは、共通の特徴を持っている。
額に穿(うが)たれた穴と、そこから溢れ出す鮮血。
元・少年と元・老人は一切の表情を変えず、少女をじっと見つめる。
「これ以上殺すと」
「君は抱えきれなくなるよ。」
「ケタケタ」
いつの間にか少年の横に女が立っている。若い、二十ぐらいであろう女。なんだかこちらの神経を逆なでするような笑い方をする女だ。少女は、いつの間に増えたのだと文句の一つでも言ってやろうかと思った。
「もう仕事ができなくなるね。」
「君の存在意義が消える。」
「ケタケタ」
少女は再び瞳を閉じる。ぎゅっと瞼を閉じて深呼吸をした。深く息を吸い込むと、すっかり忘れていた生臭い匂いが侵入し、少女はむせ返る。
「まあ、それもいいんじゃないかな。」
「こういう運命だったんだ。」
「ケタケタ」
刹那、ピクンと少女の肩が揺れた。運命、の二文字に少女は反応した。ぎろっと、刺すような眼光を放つ。だが三人は怖気付くはずもない。
「そっか、君は運命が嫌いだったね。」
「可哀想に、自分の運命が受け入れられないなんて。」
「ケタケタ」
少女は、自分の血液が徐々に沸騰していくのを感じる。
「違うよ、運命のせいにするのが嫌いなんだ。」
「そうか、そうだろうな。」
「ケタケタ」
「だって、君は決断を運命なんて簡単な言葉で片付けたくはないんだ。」
「あの日、路地裏での惨めな生活から抜け出すと決めた決断を」
「人を殺めてでも生き延びると決めた葛藤を」
「ケタケタ」
「今も生じつつある良心の呵責を」
「運命なんて、あらかじめそうであったと決めてしまうことは」
「キミにとっては許せるものじゃないね。」
「ケタケタ」
少女はわなわなと震えた。血液は完全に臨界点を超え全身が煮えたぎっている。少女はどんどん体内に溜まっていくエネルギーの発散する場所を探していた。今となっては一人増えていることなんてどうだっていい。
「でも運命からは逃げられないよ。」
「キミはどんどん沈んでいく。」
「キミがいるのは底なしの毒沼だ。」
「ケタケタ」
「君の両足はすっかり沼に埋まっていて」
「足掻くほどどんどん抜け出せなくなって」
「やがては足掻くことができなくなるほど」
「深く深くに沈んでいくんだ。」
「ケタケタ」
ガン、とエネルギーに任せて少女は足を振り抜いた。近くにあったゴミ箱が宙を舞って壁へと激突する。少女はもう身動きが取れない。多くの亡霊が唱える言葉が呪いのように少女の心に鎖を巻き付ける。呆然と立ち尽くし、心の中身が空っぽになったような非道い虚無感に襲われた。
「救われたいなら」
「外との繋がりを断つんだ。」
「良心を捨てろ。」
「君の持っているものをすべて精算するんだ。」
「毒沼へと引き込むすべての手を振り払え。」
「ケタケタ」
少女はギュッと拳を握り締める。
少年は手を伸ばし、歪な笑みを浮かべ言葉を。
少女に起爆剤を。
「さあ。」
「殺せ。」
「洋平を殺せ。」
「行け。」
「さあ。」
「「「「「行け。」」」」」
少年の手は、少女の手を引っ張った。
その手は彼女を沼から引き出したのか。彼女を沼に沈めたのか。それは誰にも、分からない。
ただ部屋の中からは、女の苛つく笑い声だけがケタケタと響いていた。
◇◇◇
そして私は今ここにいる。
地上50mのビルの屋上。向かいにはビジネスホテルがあり、私の銃口は七階の右から二番目の部屋を覗き込んでいる。
私はこれから起こることに思いを馳せる。
引き金を引き、長い銃身から弾丸が発せられる。弾丸は螺旋(らせん)運動を伴って空気を切り裂き、一本の直線を描く。0,2秒後には弾丸は部屋へと届く。窓は空いている。ノックもなしに不躾に入ってきた弾丸に男が気づいた頃には、無機質な天井一体が赤いアートへと変貌する。
私はポケットから携帯を取り出し、そのキーを一つずつ押していく。
「君は、今から自分が何をしようとしているのか分かっているのか。」
後ろから元・百舌が話しかけてくる。ついにお前まで化けて出やがったかタチが悪い、という誠心誠意の悪意を込めて私は舌打ちをした。
今から何をするか、簡単だ。
私が引き金を引き、洋平が死ぬ。そういう、
「そういう運命だからか。」
百舌が私の神経を逆撫でする。逆鱗とまでは言わないが、心の中のどこか触れて欲しくないところに触ってしまったのは確かだった。
私は運命が嫌いだ。何かといえば何でも運命のせいになってしまうのはとても腹立たしい。
幼い頃から孤児として育ってきたことも。引き取り手がなく路地裏で惨めに生活していたことも。まあ運命と言ってしまえばそうなのかもしれないが。
それでも私は、殺し屋として生きていくことを選んだ。初めて人を殺したあの日。公園を通りがかった初老の外人の心臓を一突きにし、懐から財布を奪ったあの日。生きるために人を殺していくことを、ひどい良心の呵責に苛(さいな)まれながらも。私は選んだのだ。私が、選んだ。
それを、運命などと!
元から決まっていただと、ふざけるな。運命なんて糞くらえ。
私が、そうなるべく選んだのだ。そこに運命などとふざけたものの介入は一切許さない。
なるだけ感情を表に出さず、私は携帯電話のキーを押し続ける。怒りで血圧が上がるとそれだけで照準がブレやすくなる。私は至って冷静に、11桁の数字を打ち込んだ。
「キミが今からするのは仕事ではない。私的な殺人だ。」
そうだ。私は今から人を殺す。己の意思で。
「殺し屋ではなく、ただの殺人鬼に成り下がる気か。」
さあ。私にはその二つの違いなんてよくわからないものだが。
「キミにはプライドが無いのか。」
「五月蝿(うるさ)い、黙ってろ、百舌。殺すぞ。」
だがさすがにこのあたりで我慢の限界。さすが元首相、よくしゃべる。もっとも、これが幻影だとすると喋らせているのは私の無意識ということになってしまうが。それに、死者に対してころすぞが脅し文句になるのかわかったものではない。結局、百舌は黙ってくれていたのだけれど。
私は今から通話ボタンを押す。そうして洋平に何とかして窓際まで来てもらおう。なんとかなるだろうとタカをくくってあまり考えてはないが、まあなんとかなるだろう。失敗した、助けてくれなんて言ったらおそらく、様子を見に窓を開けてくれるかもしれない。
あとは、いつもの仕事と一緒。引き金を引くのみ。
私は今、毒沼にはまっているらしい。ズブズブと体が沈んでいき、やがては顔まで埋まって息絶える。
正直この方法で、私が救われるとは思っていない。
底なし沼ははまったら最後、もう抜け出すことはできないのだろう。
そして既に私の両足はつかり、逃げ出すことなどできない。
ならば、と。
私が沈むよりも速いスピードで、全てを壊してしまおう。
私が沈んでいくのを沼の淵(ふち)で眺めている人たちを、私のこの銃で撃ち殺してしまおう。
私が救われるわけではない。ただ私だけが救われないよりもましである。
私の心も、少しは晴れる。
ふふっと、考えていたらおかしくなって笑ってしまった。さあ、あとここからはスピード勝負。私が壊れるが早いか、世界が壊れるが早いか。
きっとどちらが勝ったって、世界にはなんにも残ってはいないんだろうけど。
けど、私は、私が救われたい。他の何を犠牲にしたって。他人の運命とやらを犠牲にしたって。他人の運命をぶっ壊してわたしが生きながらえるなら、私は何のためらいもなく引き金を引こう。世界を片っ端から壊して回ってやる。とことんのところまで運命に抗ってやる。
なんとしてでも生きるのだ。
たとえそれが、人の道を踏み外すことになろうとも。
銃と少女