奈落の月
◇アテナ信仰
これは地球平面説が信じられていた神話の時代の話である。ある時、古代ギリシャにてアテナが降臨した。地面の下に広がるとされる冥界を支配するハデスを恐れて、人々は厚くアテナを信仰し、アテナの坐すパルテノン神殿へと足を運んだ。
地面の裏側には一体何があるというのだろうか。概念としての地面は、その上に有と呼ぶべき生活を生みだし、その下に広がる無と世界を強く断絶する。人々はいつだって形ある存在であり、無に還るとしたらそれは死ぬ時だった。死者は土に埋められ無に還る。それ故に、人々は地面の下に冥界が広がると信じていた。
アテナは死を恐れる人々を見ながら悲しみの涙を流した。真実を知っていたが、アテナはそれを言うことができなかった。冥界は地面の下に在るのではなく、もう一つの、裏側としての世界であった。ハデスは本来恐れられるべき存在ではない、アテナの伯父にあたる存在なのである。
人々は聖戦の時だとアテナを担ぎ上げ、ハデスを討つべく冥界への門を探した。そんな門などありもしないのに、である。
人々はオリンポス山の麓に冥界へと続く奈落を作り始めた。しかし、キリストが生まれる頃にはアテナはその姿を隠し、アテナ信仰は廃れていった。ただ、底知れぬ奈落だけがギリシャの地に残った。
◇奈落
「なぁ、ヨハン。そんな本なんて読んで面白いのか?」
「あぁ、面白いさ。僕たちのいるこの奈落について知れるのだからね」
「スラムの間違いだろ」
奈落の底に広がる貧民窟。そこに並ぶ家々のうちの一つには数人の孤児たちが暮らしていた。古代ギリシャについての本を読むヨハンに向かって、レオがケチを付けるのはいつものことだった。レオは外で遊ぶ方が楽しく、家で本ばかり読んでいるヨハンの気持ちが分からなかった。
「それよかヨハン。腹減ったー」
「そうか、もう夕飯の時間だね。準備しないと」
レオに言われて、夕餉を作るべくヨハンは本を閉じて台所へと向かおうとする。その時、家の扉が強く開かれ、一人の少女が入ってきた。
「ヨハン! レオ! ミーシアの居場所がわかったよ!」
その少女が家中に響く大音声でそう告げると、ヨハンとレオは顔色を変えて、その少女リルの元へと駆けた。
「本当なのか?」
「リル、ミーシアはどこにいるの!?」
普段は落ち着いているヨハンが珍しく動揺している様子にリルは驚いたが、一つ呼吸をおいて二人の質問に応えた。
「ミーシアは今、神殿にいるかもしれないの」
ヨハンとレオはキョトンとする。
「神殿? なんでまた」
「ミーシア、きっとアテナだよ。奈落の外から来た人が言ってたの。数年前に蘇ったとされる女神アテナは、アラバスターのように白い髪をしていたって」
そういうことかと呟き、ヨハンは唇を噛み締める。彼の妹であるミーシアは、生まれつき肌も髪も真っ白で、薄紅の唇と仄青い瞳は砂漠の中のオアシスのように美しかった。しかし彼女はひどく視力が弱く、陽に当たるだけで肌が爛れてしまうほど、光に弱かった。その上、その髪や皮膚や眼球や骨を呪術に使おうとする者や、病が治ると信じて犯そうとする者が絶え間なく彼女を狙っていた。だからヨハンら3人は、居を変え遮光をし、彼女を守り続けていたのだった。
「にしても、数年前? どうして今さらアテナなんて……」
レオはリルに問うと、腕を硬く組んだ。今にも駆け出しそうになる身体を抑えるように。
「……もしかして、聖教会?」
ヨハンの言葉に、リルは深く頷いた。
「そう。ハーデス軍に侵されたこの地を、奴らに殺された我らが同胞を奪還するために、アテナは再び降臨したのだ……って」
「殺された同胞……ってことは、地面の下、無しかないはずの場所から現れたミーシアをアテナに見立てて……戦神と担ぎ上げ、今度はハーデスに反旗を翻すのか? いや、ハーデスのいる冥界、裏側に送るために……地面に、生きたまま……?」
リルは「ヨハン」と声をかけて、思考に耽けるヨハンを静かに止める。周りが見えなくなっていたとみえ、ヨハンははっと顔を上げた。それを見てリルは安心させるようにヨハンに語りかける。
「まだ、わからない。アテナについての話を聞いただけだから」
自信なさげに語るリルを見て、いきなりレオが家の奥に駆け込む。そしてほどなくして、革造りの鞘を引っ掴んで駆け戻ってきた。
「レオ、それって……」
「そうだよ、おれの父ちゃんの半月刀。今が使うときだ。ミーシアを絶対に助けるんだ!」
ぎゅっと柄を握り締め、レオの手が震える。
「いやだよ、もう二度と……」
リルのまだ幼い声が響く。泣き出してしまったリルを見てからレオは俯き、そのまま頷くと腕で顔をめちゃくちゃにこすった。
「大丈夫、きっとまだミーシアは生きてる。アテナの儀式なら、何かしらの噂が立たないわけがない」
「レオ。きっとリルは君のことが心配なんだよ」
◇旅路
雪をいただくオリンポス山のふもと、水のゆたかなテンペの谷を出て、三人は遠いアテネの中心、パルテノン神殿に向かった。幼き三人にとっては果てなく続くように思われた長旅の夜毎、深い森や朽ちた小屋で、ヨハンは背負っていた弓の状態を確かめながら、数々の思案に耽った。リルに襤褸を被せ、半月刀を握りしめて眠るレオの横で、ひとり、寒さと不安から己を奮い立たすように考えを巡らせた。
アルテミシア。自然、野生、月を象徴した女神アルテミスに因んだこの名が、ミーシアの本名だった。知恵の、純白の、オリーブの女神アテナはまさしくアテネを象徴する神であり、アルテミスはいわば辺境の神だった。古代において子供たちは、歌や踊りをアルテミスに捧げる祭に参加し、それを一種の通過儀礼としてポリスに参画していく。
ヨハンには、かつてのギリシャがこの儀式に込めた意味がわかっていた。アルテミスはポリスにとって外部の存在だった。冥界に追放され、ポリスの共同体から排除されていたミーシア=アルテミシアを、ポリスの中核であるパルテノン神殿でアテナと重ね合わせ、生贄として再び排除するという見せしめは、ギリシャの内部からギリシャの外部を作り出し、追放することで自治と統一を達成するひとつの古典的出来事なのだった。
疲れ切った頭と身体を引き摺り、ようやくたどり着いたアテネの外壁を見つめながら、ヨハンは思う。僕たちは、地の底だった。明るいオリーブの木々の、香気豊かな生命の下、知性と太陽に煌めいた白い大理石の神殿の下、生と死さえも分かつ地面の下、それが僕たちだった。
僕はアテネの人々にも聖教会の人々にも、ハーデスにも与しない。三日月にも太陽にも屈しない。影と光をどちらも携えた半月、それが僕たちだ。
アテナとアルテミスの共通点は、彼女らが処女神であることだった。アルテミスは、ミーシアは決して侵されない。僕たちの魂は決して侵されない。
三人は、生まれてから一度も見たことのなかったアテネの壁の中へ入ってゆき、その遠い故郷の地を踏みしめた。かつてアテナがその槍でつつき、オリーブの木々を人々にもたらした大地を、オデュッセウスのように進んでいった。
◇奈落の月が鈍く輝く
初めて見るアテネは、光で満ちていた。木々が揺れ、建物の壁が眩く日光を反射し、人々が活発に行き交う。女神アテナの力のもとに守られ、繁栄した都市の姿が、そこにはあった。三人は、その圧倒的な力に気押されながら、幼きミーシアを救い出すため、前だけを見つめ、必死に歩を進めた。
やがてアテナの神殿は、そんな三人を威圧するかのように眼前に現れた。外壁に設置された彫刻たちが、じっと子供たちを見下ろす。大都市アテネの、女神アテナの権威と威光に、ヨハンは息を呑んだ。むしろ、この都市はアテナのために造られたのだと思い知らされるほどにの圧巻であった。思わず足を止めたヨハンの背中を、小さな二つの掌がぐっと押した。
「行くんだろ」
力に満ちた四つの瞳が、ヨハンの両側から彼をじっと見ていた。一つ息を吸い、ぎゅっと半月刀を握り直し、レオが一歩前へ出た。振り返り、促すようにヨハンに視線を送る。ヨハンはリルともう一度目を合わせ、大きく息を吸って前に進んだ。
神殿の中は、アテナに祈りを捧げる人々で満ちていた。巨大な大理石の円柱に囲まれた神域。その中央、人々が容易に手を触れられないよう、水で満たされた溝と番兵に囲まれた台座の上の、玉座のような大層立派な椅子に、白い髪の少女が座っていた。
(ミーシア!)
思わず叫びそうになったその名を、ヨハンは必死で飲み込んだ。ここで平静を失い、早々に捕まってしまっては元も子もない。何食わぬ顔で、何食わぬ態度で、ヨハンは再降臨したアテナを一眼拝もうとする人々の列の後ろについた。レオとリルもヨハンの意図を察し、彼の横に並んで静かに順番を待つ。段々と近づいてくるミーシアの姿。うるさく暴れる心音の中で、ヨハンはじっとミーシアの姿を見つめた。
アテナの復活とされる少女をおいそれと害するわけには行かないのだろう。ミーシアの体には傷のようなものはなく、顔色もそれなりに良かった。だがよくよく見ると、服の裾からわずかに覗く足首は鎖で椅子に繋がれ、青い両の瞳は虚ろであった。かつて、親がいた頃、山に囲まれて育った乙女は、都市の中心で、偽りの守護神として、その自由を奪われていた。
ぎり、という歯軋りの音が聞こえた。レオの拳が、怒りで震えていた。半月刀は目立たぬよう荷物の中に隠してあったが、今にもそれを取り出して兵たちに襲い掛かるのではないかと、ヨハンは気を揉んだ。そんなヨハンの目線に気づいたのか、レオはふと目を合わせると、「暴れたりなんかしないから安心しろ」というように、拳の力を抜き、少し微笑んだ。まもなく三人の番だ。
あと四組、あと三組、あと──
あと二人で彼らの番という時、それは起こった。
「ヨハン!」
神殿の中に、少女の声が響いた。ミーシアが彼らに気づいたのだ。彼女の目線を追い、番兵の、参拝者の、その場にいるあらゆる人々の目が三人に集中する。心拍が急激に上がり、一気に彼らの汗が滲む。
硬直するヨハンの横を、二つの小さな影が走り抜けた。半月刀を握りしめたレオが、小刀を握りしめたリルが、一気にミーシアの元へと駆けだし、番兵に襲いかかった。
「レオ! リル!」
貧民窟の路地を、テンペの谷間の岩場を、オリンポスの山肌を駆け抜けてきた小さな身体が躍動し、左に右にと兵たちの槍と手を躱す。小さな二頭の獣たちは、仲間を救うため、手に持った刃で時に鮮血を走らせながら、驚くほどの素早さで神殿を縦横無尽に駆けた。
だが所詮は幼い少年と少女。次第に追い詰められ、逃げ場をなくしていく。自身も兵たちから逃げ回り、どうにかミーシアに近づこうとしながら、ヨハンは必死に彼らの姿を目で追った。そしてついに、レオが兵に追いつかれた。
「レオ!」
叫んだ瞬間、ヨハンの目の前の人混みに、わずかな隙間ができた。その隙間は、奇跡のように、ミーシアのもとまで続いていた。時が止まったようだった。ヨハンは地を蹴り、台座へと走った。
「ミーシア、これを!」
涙を流しながら彼らを見つめていたミーシアは、その投げられた物を反射的に、しかし確実に受け止めた。
弓と、矢だった。幼少の頃、ミーシアが狩の時に使いこんだ、弓矢だった。
ミーシアが弓矢を受け取ると同時に、ヨハンも兵に押さえ込まれる。次の瞬間、彼の耳にヒュッという矢音が聞こえた。
ミーシアが放った矢が、レオを抑える兵を真っ直ぐに射抜いていた。驚く間もなく、二本目の矢が二人目の兵に突き刺さる。ミーシアは一本の矢も外すことなく、次々と兵を射抜いていった。もはやミーシアは偽りのアテネなどではなかった。そこに居たのは、狩猟の神、矢を注ぐ女神、アルテミスだった。
「おい、ヨハン! 行くぞ!」
呆気にとられるヨハンの両腕を、再び逃げ出してきたレオとリルがグッと引いた。
「台座の上にあげてくれ!」
彼らの身長より少し高い台座。ヨハンとリルの手を借りて、レオがなんとかその上によじのぼる。兵たちが迫ってくる中、ミーシアの足首をつなぐ鎖に向かって、レオは半月刀を振り上げた。
月明かりが照らす林の中。アテネから少し離れた小道を、四つの影が駆けていた。四人の少年と少女は、彼らが育った奈落の世界へと、笑いながら帰っていく。オリンポス山の麓、テンペの谷、その地面の下。そこは、彼らの家が、彼らの生活が、彼らの故郷がある場所。
瑞々しい生命たちは、半月のもとで、生を噛み締めながら、生きるために、地面の下へと戻っていくのだった。
奈落の月