恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの
第11部 絶望的で綺麗なもの 編
第81話「絶望的で綺麗なもの」
わたしを愛したあの人に
わたしは這い入る
右目、左目へと
人格まで
わたしは辿り着く
「ハポン、アルゼンチンタンゴのCDはないの?」
夕方、郊外を走行速度60キロ。遅すぎず、速くもない目立たない運転で進むクラシック風の軽自動車ミラジーノ。助手席に座るリリアナは、座席の角度を45度のリクライニングにして、西に傾いた光による窓ガラスからの紫外線を気にしながら、退屈しのぎを用意するよう私に要求をした。
「ピアソラ のリベルタンゴが入ってるCDはあるけど」
リリアナはスプレータイプの日焼け止めを取り出して、顔に噴射した
「リベルタンゴ? いやよ。ピアソラ ならリベルタンゴを聴かせておけばいいなんて安い考えよ。アルゼンチンから日本に来日するバンドネオン奏者は必ず演奏するでしょ? きっと日本人のバンドネオン奏者も日本で演奏する時は必ずリベルタンゴを演奏するでしょ? 日本の聴衆は軽くみられているのよ。知ってた?」
「リベルタンゴは良い曲なんだけど…」
こいつは、やっぱり面倒くさい女なんだ、と。途中下車してもらったほうが良かったんだろうか…と、まあ私自身にとっての退屈しのぎに成ればいいのだ。荷物になるか、ならないかが問題だ。うーん……これは大きな荷物になってる気がするよ?
「マテ茶が飲みたいんだったよな?」
わたしは、助手席でマテ茶欠乏症?の禁断症状が垣間見えているリリアナにある提案をしてみることに
「そうよ、ハポン……そう、そうよ、それを持ってきて!」
「それについてよく考えてみたんだ」
「何をどうのように考えたのハポン? こういうときには論理的な思考でないとダメよ。中途半端な演繹法でワタシの眼を眩ませようとしても無駄よ」
「提案だ、リリアナ」
「聞きましょう」
「マテ茶が飲みたいんだよな?」
「はい、ワタシはマテ茶が飲みたいです」
「マテ茶ならいいんだよな?」
「はい、ワタシはマテ茶が飲みたいアルゼンティナ女です」
「カルディに行く」
「カルディ?」
「カルディコーヒーファームだ」
「そこは何ですか?」
「輸入食品専門店だ」
「まあ! そんなところがあるんですね!!」
「そうだ、だが…問題がある」
「……それは何ですか?」
「カルディは大型のショッピングモール内にあり、多くの客が集う為に、私たちの存在が、人目につくということだ」
「まあ! それは大変ですね!って、何かやましいことでもしたのハポン?」
「そこで、だ」
それから私はリリアナに“変装”の重要性を説いた
「服装についてだが、ここに書きかけのノートがある」
「ノート?」
「ああ、まあ……小説だ」
「小説? 何の?」
「わ……わ、わ、私が書いているものだ」
「ハポンが書いたの? 恥ずかしいの? 小説家なの?」
「こ、こ、個人的に書いているものだ」
「どうしたの? 緊張しているの? ワタシが美しすぎるの?」
「誰にも見せたことがないからだ!」
「ああ! アブノーマルなやましいことをしたのね!!」
「それはなんか違うぞ」
「ハポン、それで?」
「ああ…それでだが、この私の書いている小説は、ストックホルム を舞台とした推理小説になる予定で、登場人物には、モーリスという記者がいる。ある事件の為にストックホルム の駅に着いたモーリスを旧い型式の日本車でクラリスというマンハッタン出身の男が出迎える。クラリスはモールスを乗せたあと、車内で自らの職歴である土木関係の話をする。そこでは、労働者の責務と、工場側の過失の有無とがモーリスに問われる。そんな会話の中で、車はある民家の前で停車する。そこで、年の割に若い金髪の女性と面会する」
「年の割に若い金髪の女性ね」
「そこで私は、今からモーリスになる」
「そうするとワタシは、今から若い金髪の女性になる?」
「変装をするための準備は、人目につかない小さな店で補うしかない」
「ハポン……ワタシはね」
急に改まった口調でリリアナが言った
「パパを探しているの。日本の何処かにいるはずなの。ハポンの本当の用事が何か知らないけど……ワタシはハポンの手伝いをするわ」
リリアナは、私の胸ポケットのハンカチーフの包みに眼を向けた
「だから、お願い、ワタシのパパを探す手伝いをしてほしい」
「特徴はないのか?」
「青い眼、それと、背が高い」
「青い眼? 名前は?」
「パパの名前は偽名だったみたいなの」
「偽名? 結婚詐欺みたいなことかい?」
「ママは、パパの仕事は“比較神話学”の学者さんだって言ってたの」
「ということは、大学の先生なのかな?」
「ワカラナイ」
リリアナは、便りを待ちぼうけしたままのポストを開けて確かめるかのように、助手席の収納スペースのグローブBOXを開け、そっと、頼りない手つきで探り、CDを取り出した。カーオーディオに取り込まれた後、その沈みから流れてきたのは、作詞北野武 作曲玉置浩二の“嘲笑”だった。
「夕焼けが綺麗ね」
西日が車内の落ち着く場所へと三角形のシルエットを作った。
その頂点のところで、リリアナの瞳に遠い風景が浮かんでいるのが視えたーー
「アルゼンチンに“エペクエン湖”っていう、夕日がとっ ても綺麗に見える湖があるの。ワタシにとっての思い入れの深い湖なの
その大好きな綺麗な湖のほとりに、“ビジャ・エペクエン”という村があるの
そこはね、かつてはとても賑わっていた観光地で、鉄道からの観光客がたくさん訪れて、ホテルも、商店もあって繁栄してた
ワタシが生まれる前の話よ
でも“気候変動の大雨”で、水没してしまったの
賑わっていた街は廃墟になった
ワタシのママが言ったわ『先祖が住んでいた』って
ママはよくこの湖の話をしてたの
ワタシに『こうして生きていられるのは、先祖を助けてくれたノアの方舟のお陰よ。これは大事なことよ? いい? リリアナ、ワタシタチは、ノアの直系の子孫だということよ』って
もちろん、ワタシの近い先祖を助けたのは、ノアの方舟ではないわ。それは古すぎる話で、神話だもの
ノアの話は、日本にも伝わっているのよね? 日本の神話で言うと、何に当たるの? 古事記のイザナギとイザナミの話は、大洪水の前の話なの? ハポンはどう考えているの?
まあ、とにかく、でも、ママは本当のことのように幼いワタシに話したから、子供の頃は信じていたけど
だけど、今生きている人たちはみんなノアの末裔ということになるのよね? 特別なことではないわ
それで、ね、その街は洪水からの25年後に水位が下がったわ
これは本当の話よ
水の底にあった水没していた街がまた現れるようになったの
今では住む人もいるわ
ただ、再び現れた街は色合いを失っていたわ
写真のフィルムみたいに、薄れて、白骨化したみたいに
当たり前だけど、一度人々の前から消えたものは、その分だけ“ある色味”を何処かの記憶の中に預けてしまうわ
永遠を記憶に預けてしまうの。いい?
〈現実に浮かんでゆく時間〉と〈過去に沈んでゆく時間〉とが【同時進行である】ってこと
でもね、ワタシは思うの
夕焼けはどんな時も形を変えながら、その綺麗なものを、綺麗なものとして、過去からの記憶の流れを保管して、美しい湖としてのエペクエン湖を成り立たせて浮かべ続けてきたんだろうなって
それはきっと、“絶望的で綺麗なもの”
それで、ワタシは一体、何を見たいんだろう? 同時進行である現実と過去とに在るエペクエン湖の夕日? ひょっとしたら、どちらでもなくて、中間に或るものを求めているのかもしれないわ」
私が知らない湖。でも、きっと見たことがある景色として、イメージが、形を変えられる神のようなものとして、私の住んでいる日本にも投射され、投影されたものが映し出されているのだと、何故だか思った。プラトン のイデアみたいなものなのか? 隣り合わせの拾ってきたアルゼンチンの女性の瞳に既視感を視ているのは、理由があるのだろう。
「今日は何日だ?」
「9月の23日ね」
「あと、2日間か」
第82話「そして、動き出す時間」
リリアナと私は、人口比率が高齢者に大きく傾いた、つまり、過疎化が進行している町にある「ブティック」に立ち寄り、変装を無事に完了した
無事に完了するまでが長かったーー
私たちは高架下の商店街を見つけると、駐車場を探すも見当たらないため路上駐車することに。車から人目を忍びつつ降りると、高架下の薄暗さに人目など何処にもないことに気づいた。見渡すと、シャッターが下りたまま閉店しているところばかり。リリアナは「ハポン、この場所は何だかぞくぞくするわ……」と、私の服の袖を掴んで付いて歩く。風の流れもなく時間ごと滞留したままで、ビジャ・エペクエンの過去に沈んでゆく時間を思い起こさせた。ここは表面上は水没していないだけで、深いところでは沈んでしまっていた。しかし、店と店との間の隙間にわずかな光が落ちていて、それが時間の繋ぎ目になっていた。通りに捨てられた自転車の軋みにその分だけの時代に取り残された時間を見た。人の気配がない。服が売っている店など、まだここには残されているのか? そう思いながら袖を掴まれながら歩く私にリリアナは「ワタシタチは神隠しにあったのよ、ハポン。ここは、亜空間よ」と、表情に仄暗い心理状態が日本文化探究のそそりへとメタモルフォーゼしていた。高架下のシャッター街に沿って歩き、空き地に差し掛かった。そうなるともう、引き返すしかなかった。リリアナのメタモルフォーゼは完成を見なかった。振り返り、シャッター街を逆回りに沿って辿った。シャッターは動かぬまま、風も吹かぬまま。行く道には気づかなかった角度があるだけ。
「待って」。背後に呼びかける声があった。私は袖を掴んだリリアナの方を振り向いた。振り返ると、リリアナの姿はなく、袖を掴まれたままの感覚だけが残っていた。「リリアナ!」と、私は呼んだ。声はシャッター街に沿って通り抜けていった。私は元来た道を早歩きで戻った。見渡せば通りのすべてが見通せる。ひょっとして、電柱の影に? それとも、シャッターの奥に? 私の目が実像を照らしているのか不安になった。見えていない何か、視界の外に出てしまった分が何かあるのだろうかと。私は取り残されてしまったのだろうか。独りきりになってしまった恐怖が私に降りた。子供の頃、外で遊んでいた夕方、友達が帰った後の家までの帰り道、背後に、影に、何かに引きずり込まれそうになる感覚。私は最初に下りた場所まで戻った。乗ってきた車のミラ・ジーノにも、リリアナの姿はなかった。「リリアナ」と、私は呟いた。そのまま、目が滲んだ。子供の頃の帰り道、同じことがあったように思った。その取り残された過去が、この取り残された高架下のシャッター商店街に転がって、私を再び不安にさせているのだと思った。だけど、どうしてリリアナを、何の関係もない彼女を巻き込んだのか? 私のうちの物語に、どうしてリリアナを引き込んでしまったのか? どうして? どうして? なんで……物語は、いつも何かを巻き込んでいってしまうんだ? 途方に暮れたまま私の物語の足だけが、商店街を行ったり来たりした。 涙が、通りに跡を残した。目が滲んだまま視界が霞んだ。もう、私の五感のうちの視覚はこの場では使い物にならない。多分、他の五感もダメだろう。表面上のこと以上に何かを感じることができなかった。胸ポケット、そこにはハンカチがあった。リリアナが包んでくれたハンカチ。それで涙を拭った。包まれていた花を手に取った、まだ萎れてはいない。手に取った花の茎をくるくると回してみた。
風が通り抜けた。
「これは、タンポポだね」
小さな身体の頃に近所の女の子が教えてくれた。私はそのとき女の子の世界観を修正せず、誤解された認識を改め直すことをしなかった。近所の空き地で、子供背丈では埋まりそうな草木が生える場所。そのまま、その記憶。それが本当に、大切なこと。タンポポではない茎をくるくると回しながら、タンポポの綿毛よりも柔らかい、表情を女の子が浮かべて、キスをされた。誰かと唇を重ねるとき、唇に“残った感覚”。唇で『記憶』を残そうとしたココ。
残された五感のうちの何かが、この場では必要だった。あの時、あの時と一緒だと思った。ココと別れた道すがらーー田舎道があって、カエルが大合唱しているーー曲がり道と、小道ーー低空飛行の鳥、木々のざわめきーー木漏れ日、そして、夕暮れーー川底、暗闇ーー黒い渓谷を抜け、モンキチョウのような姿に導かれて、暖かな空気に暖を取ったことーー螺旋になって時間と時間が入り乱れるーー私は商店街の店と店との間の隙間にもう一度、リリアナの姿を見ようとしたーーもう一つの時間に薪を焚べる男がいるーー着火剤に火が点く、
わずかな光が、大きくなった。
その光の花粉に誘われ、その隙間へと入っていった。
鳥居があって、潜った先には
「ブティック ココ」
恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの
同時進行の〈イデア〉