恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの

恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの

第11部 絶望的で綺麗なもの 編

第81話「絶望的で綺麗なもの」

第81話「絶望的で綺麗なもの」

 わたしを愛したあの人に
 わたしは這い入る

 右目、左目へと

 人格まで

 わたしは辿り着く



「ハポン、アルゼンチンタンゴのCDはないの?」

夕方、郊外を走行速度60キロ。遅すぎず、速くもない目立たない運転で進むクラシック風の軽自動車ミラジーノ。助手席に座るリリアナは、座席の角度を45度のリクライニングにして、西に傾いた光による窓ガラスからの紫外線を気にしながら、退屈しのぎを用意するよう私に要求をした。

「ピアソラ のリベルタンゴが入ってるCDはあるけど」

リリアナはスプレータイプの日焼け止めを取り出して、顔に噴射した

「リベルタンゴ? いやよ。ピアソラ ならリベルタンゴを聴かせておけばいいなんて安い考えよ。アルゼンチンから日本に来日するバンドネオン奏者は必ず演奏するでしょ? きっと日本人のバンドネオン奏者も日本で演奏する時は必ずリベルタンゴを演奏するでしょ? 日本の聴衆は軽くみられているのよ。知ってた?」

「リベルタンゴは良い曲なんだけど…」

こいつは、やっぱり面倒くさい女なんだ、と。途中下車してもらったほうが良かったんだろうか…と、まあ私自身にとっての退屈しのぎに成ればいいのだ。荷物になるか、ならないかが問題だ。うーん……これは大きな荷物になってる気がするよ?

「マテ茶が飲みたいんだったよな?」

わたしは、助手席でマテ茶欠乏症?の禁断症状が垣間見えているリリアナにある提案をしてみることに

「そうよ、ハポン……そう、そうよ、それを持ってきて!」

「それについてよく考えてみたんだ」

「何をどうのように考えたのハポン? こういうときには論理的な思考でないとダメよ。中途半端な演繹法でワタシの眼を眩ませようとしても無駄よ」

「提案だ、リリアナ」

「聞きましょう」

「マテ茶が飲みたいんだよな?」

「はい、ワタシはマテ茶が飲みたいです」

「マテ茶ならいいんだよな?」

「はい、ワタシはマテ茶が飲みたいアルゼンティナ女です」

「カルディに行く」

「カルディ?」

「カルディコーヒーファームだ」

「そこは何ですか?」

「輸入食品専門店だ」

「まあ! そんなところがあるんですね!!」

「そうだ、だが…問題がある」

「……それは何ですか?」

「カルディは大型のショッピングモール内にあり、多くの客が集う為に、私たちの存在が、人目につくということだ」

「まあ! それは大変ですね!って、何かやましいことでもしたのハポン?」

「そこで、だ」



それから私はリリアナに“変装”の重要性を説いた



「服装についてだが、ここに書きかけのノートがある」

「ノート?」

「ああ、まあ……小説だ」

「小説? 何の?」

「わ……わ、わ、私が書いているものだ」

「ハポンが書いたの? 恥ずかしいの? 小説家なの?」

「こ、こ、個人的に書いているものだ」

「どうしたの? 緊張しているの? ワタシが美しすぎるの?」

「誰にも見せたことがないからだ!」

「ああ! アブノーマルなやましいことをしたのね!!」

「それはなんか違うぞ」

「ハポン、それで?」

「ああ…それでだが、この私の書いている小説は、ストックホルム を舞台とした推理小説になる予定で、登場人物には、モーリスという記者がいる。ある事件の為にストックホルム の駅に着いたモーリスを旧い型式の日本車でクラリスというマンハッタン出身の男が出迎える。クラリスはモールスを乗せたあと、車内で自らの職歴である土木関係の話をする。そこでは、労働者の責務と、工場側の過失の有無とがモーリスに問われる。そんな会話の中で、車はある民家の前で停車する。そこで、年の割に若い金髪の女性と面会する」

「年の割に若い金髪の女性ね」

「そこで私は、今からモーリスになる」

「そうするとワタシは、今から若い金髪の女性になる?」

「変装をするための準備は、人目につかない小さな店で補うしかない」

「ハポン……ワタシはね」

急に改まった口調でリリアナが言った

「パパを探しているの。日本の何処かにいるはずなの。ハポンの本当の用事が何か知らないけど……ワタシはハポンの手伝いをするわ」

リリアナは、私の胸ポケットのハンカチーフの包みに眼を向けた

「だから、お願い、ワタシのパパを探す手伝いをしてほしい」

「特徴はないのか?」

「青い眼、それと、背が高い」

「青い眼? 名前は?」

「パパの名前は偽名だったみたいなの」

「偽名? 結婚詐欺みたいなことかい?」

「ママは、パパの仕事は“比較神話学”の学者さんだって言ってたの」

「ということは、大学の先生なのかな?」

「ワカラナイ」

リリアナは、便りを待ちぼうけしたままのポストを開けて確かめるかのように、助手席の収納スペースのグローブBOXを開け、そっと、頼りない手つきで探り、CDを取り出した。カーオーディオに取り込まれた後、その沈みから流れてきたのは、作詞北野武 作曲玉置浩二の“嘲笑”だった。


「夕焼けが綺麗ね」

西日が車内の落ち着く場所へと三角形のシルエットを作った。
その頂点のところで、リリアナの瞳に遠い風景が浮かんでいるのが視えたーー


「アルゼンチンに“エペクエン湖”っていう、夕日がとっ ても綺麗に見える湖があるの。ワタシにとっての思い入れの深い湖なの
その大好きな綺麗な湖のほとりに、“ビジャ・エペクエン”という村があるの
そこはね、かつてはとても賑わっていた観光地で、鉄道からの観光客がたくさん訪れて、ホテルも、商店もあって繁栄してた
ワタシが生まれる前の話よ
でも“気候変動の大雨”で、水没してしまったの
賑わっていた街は廃墟になった
ワタシのママが言ったわ『先祖が住んでいた』って
ママはよくこの湖の話をしてたの
ワタシに『こうして生きていられるのは、先祖を助けてくれたノアの方舟のお陰よ。これは大事なことよ? いい? リリアナ、ワタシタチは、ノアの直系の子孫だということよ』って
もちろん、ワタシの近い先祖を助けたのは、ノアの方舟ではないわ。それは古すぎる話で、神話だもの
ノアの話は、日本にも伝わっているのよね? 日本の神話で言うと、何に当たるの? 古事記のイザナギとイザナミの話は、大洪水の前の話なの? ハポンはどう考えているの? 
まあ、とにかく、でも、ママは本当のことのように幼いワタシに話したから、子供の頃は信じていたけど
だけど、今生きている人たちはみんなノアの末裔ということになるのよね? 特別なことではないわ
それで、ね、その街は洪水からの25年後に水位が下がったわ
これは本当の話よ
水の底にあった水没していた街がまた現れるようになったの
今では住む人もいるわ
ただ、再び現れた街は色合いを失っていたわ
写真のフィルムみたいに、薄れて、白骨化したみたいに
当たり前だけど、一度人々の前から消えたものは、その分だけ“ある色味”を何処かの記憶の中に預けてしまうわ
永遠を記憶に預けてしまうの。いい? 

〈現実に浮かんでゆく時間〉と〈過去に沈んでゆく時間〉とが【同時進行である】ってこと

でもね、ワタシは思うの
夕焼けはどんな時も形を変えながら、その綺麗なものを、綺麗なものとして、過去からの記憶の流れを保管して、美しい湖としてのエペクエン湖を成り立たせて浮かべ続けてきたんだろうなって

それはきっと、“絶望的で綺麗なもの”

それで、ワタシは一体、何を見たいんだろう? 同時進行である現実と過去とに在るエペクエン湖の夕日? ひょっとしたら、どちらでもなくて、中間に或るものを求めているのかもしれないわ」

私が知らない湖。でも、きっと見たことがある景色として、イメージが、形を変えられる神のようなものとして、私の住んでいる日本にも投射され、投影されたものが映し出されているのだと、何故だか思った。プラトン のイデアみたいなものなのか? 隣り合わせの拾ってきたアルゼンチンの女性の瞳に既視感を視ているのは、理由があるのだろう。


「今日は何日だ?」

「9月の23日ね」

「あと、2日間か」

第82話「そして、動き出す時間」

第82話「そして、動き出す時間」

リリアナと私は、人口比率が高齢者に大きく傾いた、つまり、過疎化が進行している町にある「ブティック」に立ち寄り、変装を無事に完了した


無事に完了するまでが長かったーー

私たちは高架下の商店街を見つけると、駐車場を探すも見当たらないため路上駐車することに。車から人目を忍びつつ降りると、高架下の薄暗さに人目など何処にもないことに気づいた。見渡すと、シャッターが下りたまま閉店しているところばかり。リリアナは「ハポン、この場所は何だかぞくぞくするわ……」と、私の服の袖を掴んで付いて歩く。風の流れもなく時間ごと滞留したままで、ビジャ・エペクエンの過去に沈んでゆく時間を思い起こさせた。ここは表面上は水没していないだけで、深いところでは沈んでしまっていた。しかし、店と店との間の隙間にわずかな光が落ちていて、それが時間の繋ぎ目になっていた。通りに捨てられた自転車の軋みにその分だけの時代に取り残された時間を見た。人の気配がない。服が売っている店など、まだここには残されているのか? そう思いながら袖を掴まれながら歩く私にリリアナは「ワタシタチは神隠しにあったのよ、ハポン。ここは、亜空間よ」と、表情に仄暗い心理状態が日本文化探究のそそりへとメタモルフォーゼしていた。高架下のシャッター街に沿って歩き、空き地に差し掛かった。そうなるともう、引き返すしかなかった。リリアナのメタモルフォーゼは完成を見なかった。振り返り、シャッター街を逆回りに沿って辿った。シャッターは動かぬまま、風も吹かぬまま。行く道には気づかなかった角度があるだけ。
「待って」。背後に呼びかける声があった。私は袖を掴んだリリアナの方を振り向いた。振り返ると、リリアナの姿はなく、袖を掴まれたままの感覚だけが残っていた。「リリアナ!」と、私は呼んだ。声はシャッター街に沿って通り抜けていった。私は元来た道を早歩きで戻った。見渡せば通りのすべてが見通せる。ひょっとして、電柱の影に? それとも、シャッターの奥に? 私の目が実像を照らしているのか不安になった。見えていない何か、視界の外に出てしまった分が何かあるのだろうかと。私は取り残されてしまったのだろうか。独りきりになってしまった恐怖が私に降りた。子供の頃、外で遊んでいた夕方、友達が帰った後の家までの帰り道、背後に、影に、何かに引きずり込まれそうになる感覚。私は最初に下りた場所まで戻った。乗ってきた車のミラ・ジーノにも、リリアナの姿はなかった。「リリアナ」と、私は呟いた。そのまま、目が滲んだ。子供の頃の帰り道、同じことがあったように思った。その取り残された過去が、この取り残された高架下のシャッター商店街に転がって、私を再び不安にさせているのだと思った。だけど、どうしてリリアナを、何の関係もない彼女を巻き込んだのか? 私のうちの物語に、どうしてリリアナを引き込んでしまったのか? どうして? どうして? なんで……物語は、いつも何かを巻き込んでいってしまうんだ? 途方に暮れたまま私の物語の足だけが、商店街を行ったり来たりした。 涙が、通りに跡を残した。目が滲んだまま視界が霞んだ。もう、私の五感のうちの視覚はこの場では使い物にならない。多分、他の五感もダメだろう。表面上のこと以上に何かを感じることができなかった。胸ポケット、そこにはハンカチがあった。リリアナが包んでくれたハンカチ。それで涙を拭った。包まれていた花を手に取った、まだ萎れてはいない。手に取った花の茎をくるくると回してみた。
風が通り抜けた。


「これは、タンポポだね」


小さな身体の頃に近所の女の子が教えてくれた。私はそのとき女の子の世界観を修正せず、誤解された認識を改め直すことをしなかった。近所の空き地で、子供背丈では埋まりそうな草木が生える場所。そのまま、その記憶。それが本当に、大切なこと。タンポポではない茎をくるくると回しながら、タンポポの綿毛よりも柔らかい、表情を女の子が浮かべて、キスをされた。誰かと唇を重ねるとき、唇に“残った感覚”。唇で『記憶』を残そうとしたココ。

残された五感のうちの何かが、この場では必要だった。あの時、あの時と一緒だと思った。ココと別れた道すがらーー田舎道があって、カエルが大合唱しているーー曲がり道と、小道ーー低空飛行の鳥、木々のざわめきーー木漏れ日、そして、夕暮れーー川底、暗闇ーー黒い渓谷を抜け、モンキチョウのような姿に導かれて、暖かな空気に暖を取ったことーー螺旋になって時間と時間が入り乱れるーー私は商店街の店と店との間の隙間にもう一度、リリアナの姿を見ようとしたーーもう一つの時間に薪を焚べる男がいるーー着火剤に火が点く、

 
 わずかな光が、大きくなった。
 その光の花粉に誘われ、その隙間へと入っていった。



鳥居があって、潜った先には

 
 「ブティック ココ」

第83話「それぞれのバックヤード」

第83話「それぞれのバックヤード」

あの人々は、それぞれのバックヤードへと姿を消した



バックヤードとは、小売店舗あるいは博物館等の施設で、通常の利用客や来場者が立ち入らない場所を指す。英語で「裏庭」を意味するbackyardに由来するが、日本語独自の用法である。
(ウィキペディアより)



 かつて、デパートというものがあったーー

駅前に建築されるデパートの定義は時代とともに変化していった。
時代の流れがあり、デパートの需要は疾風怒濤(私どもにとってはゲーテの時代のシュトゥルム・ウント・ドラングのような転がり方だ)の大型のスーパーマーケットの増加やファストファッションの専門店や通販の流行で、つまり顧客の細分化で客足が減り、それは景気や顧客の求めに応じたことでもあるが、多くはスーパーマーケットなどの隆盛に対抗するためのアイデンティティー保持の手段だった。
私どもが多く携わった時間は、デパートがまだ高級路線を押し進めている頃で、その頃がデパートの質という意味で最も品のある接客や商品を自信を持って提供出来ていた時代だった。

客層へのこだわりは私どもにとっては、特別なことではなかった。
それよりも、自分を高める良い物を求めて来店されるお客様であれば、市民の階級など気にすることではなかった。
質素な身なりだったり、雑然とした身なりのお客様もいれば、随分と着飾った身なりのお客様もいる。
接客を通じて思うのは、人間の質というのは身なりの奥から感じ取ることができて、その引き出しを開けられているかどうかによることだ。
どんなに着飾っても、その人自身の引き出しにはない物であれば、ただの装いでしかなく、それは、見て感じ取ることができる。
ただ、身分相応でということでは決してなくて、私どもが用意するのは、ある意味でのスイッチだといえる。
私どもが一人の人間に携わる部分は、後押しの部分だと思ってやってきた。

身に付ける物によって、表情が明るくなったり、品の良い立ち居振る舞いなったり、姿勢が良くなり、なんと言っても、その人に自信が見えてくる。
自分に合う物とはそういう物のことだ。
そういった自己形成のサポートをしてきたと思っている。


しかしながら、今では大型スーパーマーケットに役割が移った。私どもの高い意識のサービスは、大量生産の中で萎み、手に取りやすさと、安易な気分転換の方法に負けた形で。だから、私どものデパートはこの街の最後の一葉となった。
色褪せた記憶と共に消えていく残り火となり、もう何年経つだろうか。その間に出会った様々な人の流れというもの。
それは表と裏の本流と支流の流れで、私どものバックヤード、つまり店員の入れ替わりも含めてのことだ。テナント化によって延命しようとしていたが、テナントが段々と減ってきている。デパートはひとつの街だったが、その街の人口は減り、その形を留めるには大きすぎた。
この抜け殻となったデパートの跡地には何が“入り込む”のか?

今は、世界的に流行している「新型マナヴォリックウィルス」の時代だ。
客足が減ってしまい、もうここは終わってしまうのだろう。

私どもの時代を往来していた人々は、それぞれのバックヤードへと姿を消した



ーーそんな最後の一葉に、訪れたひと


「随分と雰囲気のある客だな」

自分の仕事柄なのか、デパートを行き交うお客様の服装には目が届く

それは白い服を着た女性だった。
とてもシンプルな服装だったが、妙な艶がある。
耳には目立たないが品の良いピアスがある。
髪型はギリシャ彫刻の女神 のように短めのパーマだ。
ああ、ミロのヴィーナスのようだ。
海外の美術館なんぞに行かなくても、ここで足りる美がある。
それと、胸元のネックレスの紐がその何層にも積み重なった何かを頷かせる。
それに穏やかな品の良さがそこにはあるといった様子だ。
しかし気になるのが、その彼女の全体的な白を基調とした穏やかな雰囲気の中に青白さを感じさせることだ。
それに、まだ何処かでその白さが定着しきっていない。


「シャネル のN°5のパルファムに合う普段使い用の服を探しているの
 白を基調としたワンピースがいいのだけど」

そのミロのヴィーナスはシャネルを身に纏っていたようで、そうなってくると、ヴィーナスの白い陽と、シャネル の黒い陰があり、大きく頷かせるものがある。だが、その調和を欠く何かが気になってしまう。

「私どもが仕立てる商品は、スーパーマーケットやファストブランドの物とは違います。一人ひとりのお客様の求めに応じたものを仕立て提供することができます。古い言葉で申しますと、テイラーメイド専門店です」

そのシャネルを纏ったミロのヴィーナスは、店内に飾られた2枚のマーク・ロスコの複製画に何か興味を惹かれた様子だ。
絵画の中、縁を辿る目線。眼の動きだけで魅入ってしまう。沈黙さえも美になっている。この目の前にいるヴィーナスは、クールな表情も持ち合わせている。このヴィーナスには、ひょっとすると黒い服が合っているのでは? 沈黙の中の美には影が落とされているように見える。いやいや、それとも青なのか? フランス人が何処かに赤を潜ませているように、青い炎を。しかし、やはり彼女の表情、青みがかっている。そう……これは、“青白さの系統”なのだろうか?
ヴィーナスの視線はまだ複製画の上に置かれている。飾っているロスコの2枚の画には、色そのものの型を見せるようにサンプル的に色が数種類を塗って置かれている。

「あなたはきっと、この中に置かれた白色に調和を求めるのね
 だけど、この隔たりが融解してゆく様子を想像できる?
 私はロスコの絵画の中で、色彩を失う瞬間があるの
 それは本当に調和と言えるのかしら?」

ヴィーナスが言い放ったその瞬間に、ただ好きで飾っていたロスコの複製画の中には私どものある重心が置かれていたことに気がついた

「あなたがどうやってシャネル のN°5に白を定着させるのか見せてくれる?」

「お客様、失礼ながら私どもの仕立てによって、その求められる白にシャネル のN°5のパルファムを定着させ、調和を得ることは間違いなく可能です」

「自信があるのね?」

「私どもはこのロスコの複製画を前にして、ではこれが紛い物で見る価値がないと言い切ってしまうことはできません」

そう言ってから、バックヤードに戻って生地サンプルを取って戻った

「それは?」

「シャネル のワンピースに使われている生地です」

「紛い物はいらないわ」

「これはただのキャンバスで、この生地は物語の基盤になるのです」

「その石は?」

「これは私どもが衣服と共に提案しているジュエリーのサンプルです」

「アイオライトね?」

「意味合いは、羅針盤です」

店内には、ピアソラ のHORA CEROが流れた


 彼女の名前はココといった


その後、例の「マニュアル」によって、自分の適性をAIなんかに勧められて大型スーパーマーケットの管理部門の責任者として勤めることになった。
新たな商売は、主にお客様への接客はAI店員が行っている。見た目は人間そっくりで、AIか人間かなんて判別できない。
私はこの時代の流れに戸惑いがあった。
しかし、どうせ判別できないのなら、管理部門の責任者として働いている自分が店頭で直に接客しても構わないわけだ。
接客は私でやることにした。
商品管理はAIがやってくれる。
この、いや、今は様々なことが分断されている。
今の若者、特に流行のウィルスが蔓延していた時代に成長期や学生時代を過ごした彼らは、この時代に変わってしまった何かの違和感など感じていないのかもしれない。
日々の仕事の中で、生活の中で感じとるそういうことに慣れるしかないのか。

AIがお客様と対面して使う、いや、選択する「言葉」と、
人間がお客様と対面して、感じとって発する「言葉」とは違う。

そこにはプライドがある。
言葉に“乗せる”自分の人生の背景がある。
私はそう思う、古いタイプの人間だ。

「言葉」を話せるようになった猿にはわからない


管理されたAI主導のやり方に不満を抱えていたところ、ココからの誘いがあり、退社して、私はブティックを経営することになった


 昔、見たことがあるそれは
 死に近づく青みがかった光だよ

 ココさん、物事は調和へと向かうだろうか?



店の扉が開いた、入ってきたのは男性
その顔を見たとき、何故だかココさんのこと、思い出した

第84話「サフラン色の導線、ため息の上昇」

第84話「サフラン色の導線、ため息の上昇」

 こじんまりとした店内に、品の良い香りが漂う
 鼻腔いっぱいに広がったあと、香りはカウンター後方のバックヤードへと
 その導線に奥行きが感じられるーー



「いらっしゃいませ」

ベストを着た中年の身なりの良い男性が私の接客に応じた


「お探しのものがあれば、どうぞ」

遠くもなく、近くもないカウンター越しの距離感から、落ち着いた声が届いた。
聞きたいことがたくさんあった。

「外国人の女性を見ませんでしたか」

身なりの良い店員は見ていないと話し、私は肩を落とした


 ーーため息


行く当てのない息が通り抜けることもなく、その場に滞留した。
肩を落とした私は、ため息の重さと共に足下へと視線が向かった。
店内のBGMが沈潜に入ったようにピアノの音を落とした。
ビル・エヴァンスだと分かった。
だけれど、曲名は私の脳裏に応じなかった。


ーーその代わり、応じたのは壁に飾られた一点の絵画だった

誰の作品かは分からない。
ブラウン管のTV画面を観ているような感覚。
ただそこには、地平線のような色の奥行きが広がる


色が揺らめいていた
蝋燭(ろうそく)の火のように
形をとどめないのに、それが「火である」と分かること
それは、生きている?(滲んでいる?) 
それは、動いている?(漏れている?)

下から湧き上がってくる層があり
上からやって来る力の圧さがある

そう思っているところに、不意に拡大して迫る色ーー



 ……私は、10秒の間だけ止まっていましたか」


その静止に気づいたのは、間が合ってのことだった

「お客様が静止していたのは、より長いものでしたよ」

私の間に入らずに干渉者の視点として見ていた店員

「それはマーク・ロスコ の絵画です」

印象は固有名詞になり、沈潜の中をくぐった

「この画は、印刷ですよね」

複製された物の中に、確かな舌触りがあった。
この背景に何かがあるように思えてくる。
何かを見ているんだ、という感触が。

「本物はもっと大きなサイズになります。出来れば本物が欲しいところですが、これは個人の所有らしく、例えオークションに出品されて購入するとしても、全く手が届かない物になります。ですが、このサイズでも感銘を受けるような光の地平があるように思えませんか?」

店員は私の印象に接したようだった

「店員さん、この絵画の題名を教えてください」

「サフラン色、です」

「サフラン色?」

「サフラン色は、インドの国旗の黄色の部分の色らしいですが、この作品の中での印象では、赤と、金色に近い黄色が見えます」

「もう一度見ると、何か変わるだろうか」

そう言ってから、私はふと、店内を見渡し始めた


 落ちたあとは、上がるしかない

 それか、落ちたあとの反動で上がるのかもしれない


視線は上がり、視界に別な景色が応じ始めるーー壁に飾られた絵画ーーそれは、ため息の上昇とも云える


 
 
 ーー今度は、店員の番だった


印象というものは大事なもので、パッと目に入る第一印象をどう維持するか?
中身が伴わない印象は、却って与えない方が良い。
だから、何らかの深みを感じたなら、相応な接客で応じたいと思っている。
どうやら、ロスコの絵画のように饒舌さを欠いた言葉が今は必要なのだろう。

「ココさんをご存知でしょうか」

印象深い言葉の響き、それがココという単語が含む魅力になっている。
多分そうなのだろうと思ってきた。
それが、言葉を受けた側のパッと何かが明るく灯ったような印象に繋がったことの証として。

「……店員さん。この店の名前と、ココとの関係が何かあるんですか」

聞きたいことがたくさんあったのだと、そうして分かってくる

「お客様は、あの花をお持ちですか」

大事なことを思い出したように、男性のお客様は胸のポケットから慎重な手つきでハンカチを取り出し、中身を開けた

「この花の事も知っているんですか」

私は、後付けしたベストの内側の収納スペースから、ダブルガーゼの生地のハンカチの包みを開け、一輪の花を取り出した

「店員さん、あなたはnew leavesのメンバーですね」

私はうなずくことの代用である、微笑むという仕草で応じました

「そうすると、この場所は……」

「集会場のようなものです」



どうやら、バックヤードへとご案内する方であったようです

第85話「使いかけの友情を試すとき」

第85話「使いかけの友情を試すとき」


カウンターの後方から、バックヤードへと招かれた
通路には写真が飾られていた
 


 
「ココさんがもう亡くなっていることはご存知ですか?」

写真が並べられた通路を歩く間、先導する身なりの良い店員は後方の私へと振り返り、私の眼と、服とを並行に見ながら言葉を並べた

「知っています」

文脈を並べ替えることなく私が返すと、再び前方を向き先導を続けた

「それにしても、長い廊下ですね」

店内のカウンター越しからは暗がりになっていた為、バックヤードの奥行きが底知れないものとして、余計に間延びしてゆくように感じた

「この通路の長さは、村上春樹の小説の……」

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドですね
 大丈夫ですよ、あんな危険な思いをすることはありません」

「それとも、ミヒャエル・エンデの……」

「モモですね
 残念ながら、時間についての魔法はありません
 それに私はカシオペアという名のカメではないのです」

共通の小説を読んでいることに、共振する思いを感じつつ、私の眼に振れた先はスポットライトが当てられた廊下の一枚一枚の写真へと赴いた

「この写真たちは、店員さんの思い出ですか?」

私がそう投げてみると、身なりの良い店員の背中が伸びたような縮んだようなで、時間の伸縮でもって、何処かちょうど良い塩梅(あんばい)を見つけようとしているようだった

「私ども…いえ、私の
 そして、彼らの思い出です」

身なりの良い店員は写真を一瞥することなく、再び廊下を先導し続けた

スポットライトは、確実に何処かへと向かっていることを指し示したーー



一隅の景であるのか、いつかの瞬間である通路の写真たちは、何処かへと向かうにつれて現在から過去への時間の逆戻りをさせているように見えた。
それらは何かの象徴というよりも、ただの瞬間にあったものたちで、通り過ぎたままの一角に残されたもの。忘形見でもない、名前のない形。あるいは、名前があったであろう形。瞬間を取り留めていた頃のこと。微かな水の音が聞こえる。
包むようにでもなく、響くようにでもない。見えないけれど、感じることができる音として。過去へと向かうにつれて、それが大きく、近づいてくる。黒い渓谷の川の水とは違う。この闇の中には、あの不気味さはない。この暗がりの中では、
現在から過去への綱として流れる水の音。

「お客様、まずは手を清めます」

案内されたのは、手水鉢(ちょうずばち)が置かれた日本庭園風の一角だった。
曲がり角でもあった。
そして、その先には明るいものが見えた。
手渡された柄杓の先に、水滴が滑った。
先端で止まると、光の玉となり、そして落ちた。
左手、右手、口と水で清め、身なりの良い店員の動作を横目で真似た。
すぐ傍には東屋があり、畳の小上がりになっていた。
そこが待合室であると通され、身なりの良い店員は待つようにと伝え、その場を離れた。


待合室には、掛け軸や、日本画が飾られて、和風そのものだった。
10畳よりは広いであろう空間には洋風が入る隙間がない。
いや、隙間はあるのだが、あえての隙であり、それ自体に意味があるようだ。
畳の小上がりの待合室はそんな空間だった。

畳の上で、足を伸ばして寛(くつろ)いでみたーー


それから横になって、あれこれと考えることをやめた


 彼女は奇妙なことを話していた

 「実は、さっき車を運転していて猫を引いてしまったんです」

 注ぎ口を間違えて

 そして飛び出してきたのは、きみ


 土砂降りの中で、ヘッドライトは、きみを映さなかった
 可哀想な猫
 横たわって

 それをハンドルを切って、通り過ぎ
 しばらくしてから、考えに辿り着く

 それを包む布がなくて、身に纏ったシャツ
 手で抱えるには軽すぎた、軽過ぎた

 雨が、コンクリートの裂け目へと流れ
 血が、服をつたって逆さまに昇る
 天と地を取り違えたみたいに

 注ぎ口を間違えて

 きっと、飛び出してきた



考える隙間に、

「あなた達に与えられた猶予は、あと3日間
 -恋した瞬間、世界が終わる-」

残された時間はあと、1日とーー


「お客様、お待たせしました
 準備ができました」


畳の上で眠っていた私は、どのくらいの間?と、また時間について身なりの良い店員に確認しようとしたが、それをやめた。
長い間か、短い間か、それはきっと問う必要がない。

神職の服へと着替えた身なりの良い店員に、靴を脱ぐようにと云われ、案内されたのは、幣拝殿(へいはいでん)だった。
祈祷に来たわけではないのだが、と言いそうになるも、ここは神職になった男性と、何か…そう、ココを信頼してみることにした。


ーードンッ


そう考えるうち、和太鼓が拝殿内の空気を外へと押し鳴り、私の余計な心配ごとも出て行った



 掛けまくも 畏(かしこ)き 伊奘諾(いざなぎ)の大神



短い祝詞の奏上が始まった。
神職の服装になった男性は奉仕の人だったのだという感慨を持った。
大麻(おおぬさ)での祓い、金幣(きんぺい)の鈴の音が邪な思いを祓った後、玉串(たまくし)を手渡された私は拝殿の鏡の前へと案内された。

それを神前に備え、勧めに応じ、3礼4拍手のあと、拝殿の鏡に自分の姿を見た


六根(むね)の内で思うことは、このブティックに来れたこと、あとは、ココの縁があってのこと、それと……リリアナの所在だった。
2礼して、後に下がった。

一連の儀式の後、神職の服装の男性が私に語り始めた


「先ほどのお探しである女性は、おそらくここには入れないのだと思います」

「入れない?」

「はい
 この土地は少々、特殊な結界になっています
 条件を満たしてないとブティックには入れないのです」

「そうすると、リリアナは何処に?」

「おそらく、ブティックの外にいると思います」

私はその言葉を聞いて慌ててその場を後にしようとすると

「これをその女性に渡してください
 おそらく、サイズが合うのだと思います」

手渡されたケースには衣装が入っているのが見えた

「ココさんからの注文があったものです
 いずれ訪れる誰かのためにと、頼まれていました」

「ココ……」


「これは、ある意味でオートクチュールの物を超えます」

「一点ものを?」

「そうです
 もっと大きな、色んな思いが込められています
 このたった1着の中に、様々な人の六根(むね)の内が
 入っているのです」

「きっと大事な願いなんですね」

「はい、私どもーー

 私は、大事なことを忘れていました」

「大事なこと?」
 
「私ども、だったのです」

私は、神職の男性の言葉の後、拝殿の鏡に見えた姿は私であり、私であり誰かであり、誰かからの私であるのだと思った

「それと、お客様にもよろしければお仕立ていたします」



長い廊下へと向かう私に、ココは“彼ら”から紹介状が届くだろうと言っていたことを神職の男性は呼び止めてから、私に言伝した


ブティックのドアを開け、鳥居を潜った先、高架下の商店街を歩いた

店と店との隙間に光の玉が落ちていた。また滑るように動いて、光のつなぎ目ができ、その取り残された時間、近所の空き地の子供背丈では埋まりそうな草木が生える場所に、タンポポではない茎をくるくると回しながら、私の姿に気づいたリリアナがいて、タンポポの綿毛よりも柔らかい表情を浮かべたーー

私たち二人は、車内へと戻った

エンジンを掛けると、
ピアソラ が取り上げた古典タンゴのTaconeandoが流れた

第86話「メルクリウスの相違と相関関係」

第86話「メルクリウスの相違と相関関係」


 善いがあるには、悪いがなければ成り立たない


ではどちらが先に出たのか

どちらというわけでもない
それは、たまたまの偶然



偶然というものは、恐ろしい
それで持って、決められてしまうほどの力がある



それは、光線が2つに別れたとき

たったそれだけ
それだけで2つの面が出来てしまう



そして、憧れ

憧れを持つことはもっと、怖い
それも別な面への憧れ持つとき



手を取り合う相手を間違えていた

人類は、人類同士で手を取り合うべきだった


『メルクリウス』

「メルクリウスは(錬金術でいうところの、すなわち、無意識の)作業(オプス)の始めに位置し、終りに位置する。メルクリウスは原初の両性具有存在ヘルマプロディートスであり、一旦は二つに分れて古典的な兄-妹の対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光」、すなわち、「賢者の石」という形態をとって光り輝く。メルクリウスは金属であるが同時に液体でもあり(「メルクリウス=水星」を象徴する金属は水銀)、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり、『諸対立を一つに結びつける対立物の合一の象徴なのである。』」
「メルクリウス」の変容性と多様性は錬金術の根本表象であり、すなわち、「メルクリウス」は我々の無意識、心的世界の一つの表象といえる。
(ウィキペディアより)



こなれたタンゴに見せかけたステップ
かつての原型を留めているだけの
なぞっているだけの

面影を見て聴いている間
かつてのピアソラ を現代的な解釈によって震わせる
そこにはピアソラ の骨格だけが忠実に、親しみをもって、懐かしさを残す


この、現実の生活が変わってしまうのなら、

もう、生きていたくない


好きな店がなくなる
好きな食べ物がなくなる
好きな服がなくなる
好きなメーカーがなくなる
好きな番組がなくなる
好きな芸能人がなくなる
好きな息抜きがなくなる
好きな居場所がなくなる

好きな人がいなくなる


面影がなくなる



この、心の作用を止めて終(しま)えるのなら

人が心の中で苦しむ理由がなくなるのなら

優しさで脈打つこと
苦しさで脈打つこと

これは等しい



だから、もう、安楽死を選ぶ


 

第87話「夢の中の現実」

第87話「夢の中の現実」

 

 例えばそう
 時間は、夢の中にも流れているーー



  夢の中の無時間的に思える出来事たち
  顔を替えて表される
  すり替えられる右眼と左眼
  すり替えられる陰と陽
  現実を模倣しているのか、それとも現実が夢を


 ーーわたしは駅前の通りを歩いています

 何処かへ向かうにつれて人通りが寂しくなる相関関係があるようです

 記憶だけを残し潰れた商店街の跡地が並び、
 それがまた記憶を掘り起こしてゆきます。
 
 「マンション」というには、古く、
 「アパート」というには、新しい。

 どこか団地のような雰囲気、
 駅から徒歩5分ほどの物件。

 そんな近さにある人目につかない質素な建物


 ーー懐かしい匂い

 室内に入ると狭い2LDKの間取りで、2つの部屋が

 リビングはモノトーンの色調で統一されていて、
 棚には何かの花が一輪だけ、いつもの花瓶に生けてありました。

 懐かしい匂いの正体はこれではありません

 室内には花の匂いと、主張を抑えたシャネルのN°5が入り混じり、
 【干渉】し合うように漂っていました。

 【干渉】し合う匂いで、室内には別な記憶や時間が掘り起こされます
 

 ーーリビングに小さく丸い木製のテーブルが置かれました
 

 肩を丸めたわたしと、懐かしい物たちーー漫画の原稿用紙ーースクリーントーンーー鉛筆ーー消しゴムーーGペンーーペン先ーーインクーートレース台ーー近所のダイドーの自動販売機で買った缶コーヒーが1本ーーその影から羽をバタバタさせて、マイマイガが飛ぶーーテーブル上をカーテンが仕切り、その仕切られた先のTV画面にはメトロポリスが放送されていますーー古い映像が欠けた塊のように煙霧をつくるーー大好きな祖母、ばあばの気配がテーブルを隔てた空間に感じるーーでも、手を伸ばすことができないーー夜更かしを続けるわたしに、朝を報せる窓のスズメの音ーー不健康な生活リズムーーカーテンの向こうから子供の誘い声がーー柔らかい日差しが部屋の中を照らすーー盆踊りの放送が流れて、太鼓の打音が木靈する夕方ーー黒い種子のようなものがわたしの前に置かれーーその向こうのカーテンを隔てた場所には白い種子が置かれるーーテーブルの前に人が通りーー徐々に人溜まりができるーーその人溜まりが開く瞬間に入ってきたのはーー【わたし】ーーテーブル越しにある瞳に気づくとーーテーブル越しで入れ替わり立ち位置が逆にーーテーブルの上に、シャネルのN°5のパルファムが置かれるーーその向こうのカーテン越しには、シャネルのアリュールの瓶ーー欲望に塗れた話しに夢中な客の口と眼がシンプルな黒いワンピースでドレスアップした姿に集まるーー遅れてやってきた背の高いバーバリーの黒ではないコートを羽織っている客ーー青い眼が視界に入るーー迎えに座るその人は、左手でグラスを持ち、品の良い飲み口をグラスの縁に残すーー混ぜ合わせた氷の音に会話の切り口を見ているーー落ち着いた香りが漂うーー推し量ることができない官能的な匂いーーその人の左手が回内、回外するーー大好きな祖母のばあばの気配が消えるーーわたしは、頼まれて「カルト作品を作る」ーー「過程」と「結末」を探るための実験ーー不完全なシナリオで、埋もれてーー留まり、拡張し、置き換わり、組み替え、別なものになるーー「新型マナヴォリックウィルス」ーーわたしは同人誌を手伝いながら、背景の仕事や、スクリーントーン貼りなどを任されるうちに独自なやり方を発見し、それを試してみたい欲求に、負け、こっそりと、わたしの色使いへと侵すーー夜な夜な更けてゆくわたしの筆が下細い線を引き合わせた先に誰かの姿を浮かべるーー「カロドポタリクル」がテーブルに置かれるーー置き手紙だけが残るーー


  もうこのアパートは安全じゃないわ
  いい、アリュール。聞いて欲しいの

  私の遺伝子を盗みにまた誰かが来るわ

  その時、アリュールの身も危ないの

  ごめんね。その理由は話せない


  私は、都会の喧騒が好きだった
  考え方の異なる色んな人々で溢れていて
  都会は孤独だけど
  そんな中で誰かと繋がった時に生まれる感情

  だけど、アリュール
  あなたに会って
  田舎というものが、恋しくなったの

  私の価値観になかった
  その憧憬

  私はずっと無理をしていたのかも
  都会が合っていると思ってた
  でも、田舎の静けさが好きだと分かった

  喧騒の中で踊り、踊り終えて、私たちのことを考えた

  だから、アリュールを
  いや、アリュールが大切な人を助けたい

  私は、“次の人”へ賭けてみる

  そして、アリュール
  あなたが受け入れなければならないことは
  誰でもいつかは亡くなるということ


 ーー夢の中のテーブルの上に置かれた薬
   
  カロドポタリクルの錠剤

  わたしが外へ出るために出来ることは、
  わたしの分身を作ること。



タクシーの車内にてーー


雨は上がらず、益々、深く
深淵へと達するまで
その箱を埋めるまで
誰かのことを決壊させるまで
終わらない様相を帯びているように視えます

 
車内の外には、夜明けに浮かぶ月の名残りと、空に居続ける赤い星ーー


わたしの白いブラウスを昨日の血が染めてしまいました。血の匂いは消えたけれど、少しの滲みなのに以前とは別なものに替わってしまったように感じます。
何処かで禊でもしたい気持ちです。この赤い何かが居残り続けることの違和感。
それにあの娘が手当てとして貸してくれた赤くなったハンカチ。こっちは元の色には戻れそうにありません。

「メトロポリスは観終わったけど、これからどうするの?」

メトロポリスを鑑賞後のわたしたちは、運転手の紹介でnew leavesのメンバーの家で一晩を過ごしました

わたしの左眼は、昨夜のうちに幸いにも家の主人である町医者によって適切な治療を受けることが出来ました。
その町医者であり、new leavesのメンバーでもある高齢の男からは「傷がもう少し深ければ失明していましたねえ。この傷痕は残りそうだなあ。ま、あなたは根性ありそうだから、何とかなるでしょ? 大体が根性でなんとかするんでしょ?」と、配慮が行き届いた優しい気遣いが……。


「あのう、どうしてわたしたちを助けてくれたんでしょうか?
 それに……これから一体どうしたらいいんでしょうか?」

あの娘が、朝になっても深々と続く雨模様に何となくの方向性を見ているような車内の不確実性に気づいたみたいです

「つまり君は、確実性…人生に保険が欲しいというわけだね? その人生に必要な保険として、例えばそう、犬が欲しいと思っている。何故かというと、生涯のうちのどの時期を孤独で過ごすのかによって、人生自体の進行度合いが決まってしまうからだ。パートナーを得ることが出来ても、子孫を残せず、古来から続いてきた人類の役目に助力することが出来なく、さらに、死別や離婚などをして、何かの線が途切れたのだと感じたとき、新たな線を見出すにはとても前向きなエネルギーが必要になることを知る。そのエネルギーを一人っきりで産み出すのはとっても大変だと。そんなとき、傍にでも自分の傷を舐めてくれるような犬がいれば、立ち直ってやっていけるかもしれない、と。そんな保険が欲しいのだね」

「その時になってみないと分からないことに、今から予防線を張ることは悪いことではないわ」

わたしは長ったらしい男の話が、益々、この雨を長続きさせてしまうようで、この手の話題はうんざりよ、という気持ちを言い換えてみました

「保険の起源は、ギャンブルだったとする話がある。その時代の『ギャンブル』というものは交易関係にあり、損害に繋がることとは、盗難や天災が主だった。極論を云うなら、ギャンブルの損害を穴埋めする手段が保険であり、そのギャンブルというのは、人が外界と関わるときには、それ自体がギャンブル的な行為になっている。他者と交わらない人生などないのだから、人生は常にギャンブル的な行為であり、確実性の中には不確実性が含まれているというわけだ」

 保険の前史として、紀元前2-3世紀の中国やバビロニアにおいて、商人が荷物を
 紛失・強奪された際の補填が行われていた。また、紀元前1世紀のロドス島で
 は共同海損が運用されていた。地中海貿易では冒険貸借(bottomry)という、
 保険金を商船の出航前に受け取り、商船が無事に商売を終えると保険金に利子
 をつけて返還する仕組みがあった。
 (中略)イスラーム圏は利子を利用する点やギャンブル性を根拠に保険をシャ
 リーアに反すると考えるため、タカフルという共済や頼母子講に似た商品を販
 売している。
 (ウィキペディアより)


「ええと、つまり何が言いたいの?」

「つまり、彼らの『マニュアル』だって確実なものではないというわけだ。彼らが伝えた国民への行動規範は生き方の一つ一つを細かく指示しているが、ただの保険なんだよ」

「国民に相当な貸付を行ったということかしら?」

「ただ、僕らにも保険が必要ではある」

男は、手荷物から古いノートパソコンを取り出しました

いつの物かは分かりませんが、角ばった形で、小さなリュックでは微妙に入らないかもしれない大きさでした。男の仕事用の手提げカバンにはちょうど良いサイズのようです。
車内の席の並びは昨日の距離感が記憶されたままで、後部座席の端から、わたしと、あの娘と、男の人。
わたしは、あの娘越しに男のノートパソコンのデスクトップ画面に映る幸せそうな家族の姿を覗き見ました。

「彼らのコンピュータは、地下にある。それは主に、人の好戦的な意志をコントロールする為に使われた。戦争や紛争や殺傷能力のある道具を用いた事件が起きなかったのはその為だ」

「それは良い事なのではありませんか?」

あの娘は純粋な心でそれを見たようです

「しかしそれは、感知した者の気力を削ぐことでコントロールされている。安楽死が続いたことも不思議ではないだろう?」

確かに…と、ゆっくりと深くうなずくあの娘の頭の動作越しにデスクトップ画面がわたしの視界から消えて、また見えてくると、何かのファイルが開かれていました

「好戦的な気持ちと、昂る気持ちとは紙一重であるということだ」

「保険かギャンブルのファイルでも開いたの?」

「僕らが開発したコンピュータは、地上の上から離れることに重きを置く。詩のように不思議な空間へと連れてゆくものだ」

「そのパソコンを使って何処かの星に移住しようとしているの?」

男はファイルの内容を確認するように目で追っているようです

「この世の“外”に、コンピュータを置くことに成功した。だから、誰も、干渉する事はできないはずだった」

「ひょっとして……そのコンピュータに誰かが干渉したのですか?」

あの娘は男の表情の焦りを見ていたようです

「さっきのあの男……あの見覚えのある顔の客は、それは“テレパシー”そのものとか、コンピュータを作る以前に、人間に組み込まれているとか…あのワクチンには魂が混入されていて、魂の浸食によって、あなたの立ち位置をそっくりそのまま変えてしまうとか…言っていました」

「あの男は誰なんですか…?」

「それに、あの男は、この“ココ”にも何かをしようとしてた」

「動力が必要だということさ」

男は開いたままのファイルに目を落としたまま腕組みをしたようです

「僕らは、クローンみたいなものなんだ
この星にいるほとんどの人間が」

「クローン?」

「そう、オリジナルがまだ何処かで生きているのか分からないけど、
この星はクローンの集まりなんだよ」

「どうしてそんなことが…?」

あの娘も腕組みを始めました

「その【鍵】となるものが地上にあるんだよ」

「その【鍵】となるものって?」

「それは、遺伝子の中にある。みんなのじゃなく、誰かの。誰かの遺伝子の中に隠されている」

「彼らはそれを探しているの?」

「そう。彼らにはとにかく『干渉』するための方法が必要だったんだ」

この今朝の雨が上がらずに、益々、深く、深淵へと達するまで、その箱を埋めるまで、誰かのことを決壊させるまで終わらない様相を帯びているように視えたのは、この男の表情の曇りにまで転移することを予告していたかのように思えてきました。男は、頭を抱え始めました。すると、隣に座るあの娘にまで、その様子が転移して、同じ場所まで落とされるように、あの娘も頭を抱えてしまいました

「マニュアルも所詮は、作り物です。作り物の物語には、作り物の嘘を交えることができます。だから、人工知能を包括する人工知能のようなものを作ればいいのです」

「あなた…もしかして、運転手さん?」

すっかり存在が薄くなっていた運転手さんが出てきましたよ

「はるか昔に、神が与えた物語を忘れてしまった私たちは、作り物の物語によって人類を紡いできました。ですが、“紛い物”の、不自然な想像では、もうダメなのです」

「しかし、神が人類に与えた“あの本”は、何処かにあるはずだ」

男は運転手の言葉に何か気づくことがあったようです

「わたし、頼まれたんです。白い服の人に」

「白い服? それは、もしかして女の人かい?」

男は、今日初めてわたしの方に顔を向けました

「ええ、そうです。その人に、


  ーーあるシナリオを完成させてほしいのですーー

 
そう、頼まれました」


 あの時、わたしの内側で響く声の主から頼まれたこと

あの瞬間ーーわたしーーの考えの中に読み起こされる『物語』が上書きされて、
わたしの“眼”が「未来」と「過去」を『(仮の)現在』として線で結んだーーでも、鈍い痛みが走りーー左眼の傷がその先の視えるはずのことを妨げます

「わたし、預かっている本があるんです」

それでも諦めず、何かを思い出そうと努めたとき、以前に居たココがわたしに“読んでほしい”と貸してくれた本があることを思い出しました。
借りたまま返さず、しかも、読まずにいた本。

これですと、リュックの中身を探ってから取り出したのは、二冊の本でした

「この本は…僕も知っている」

「一冊は、隣りに座るココが貸してくれた詩集です」

隣に座るあの娘はわたしの方を向いて頷きました

「お客さん、その詩集はわたくしも持っています」

運転手が会話に入って来ました

「new leavesに入会すると貰えるんですよ」

そう言って、運転手は助手席の収納スペースのグローブBOXを開けてから、運転に注意しつつ、後部座席に居るわたしたちに見えるように片手で本を取り出しました

「そして、面白いことに…」

と、運転手が伝え方に注意してなのか、少し考える間を置いて

「黒い服の男たちも同じものを持っていると言われています」

「……同じものって? つまり……new leavesと黒い服の男たちは、仲間?」

運転手と男の顔を覗くこうとしましたが、不意の恐れがそれを躊躇いました


運転手は問いに回答せず、会話を続けました

「詩集の中に、このような詩がありますね」



 長い雨は、止まず

 迷っていた
 どこへ行くのか

 道に迷った


 抜け道がある
 きっと底のほうにね
 溜まっているそれを掻き分けて
 そしたら見つかる

 見つけられるか?

 積み上げてきてしまった
 いろんな悲しみ
 それの多さに底さえ見えない

 命が見える
 自分の命が見える


 抜け道がある
 きっと底のほうにね
 溜まっているそれを掻き分けたら
 そしたら見つかる

 長い雨を掻き分ける、書き分ける


「何なんですか、この詩集は?」

「物語…ではある」

男が口を挟みました

「運転手、このタクシーの車内には足りないものがある」

「足りないもの? はて…何ですかね……ロマンス?…あ、ひょっとして…女性性? あ、女性的な魅力が欠けている!!」

わたしは、何言ってるのこの×××と聞こえないほどの“つもり”の聞こえても構わない声を漏れ出しながら、運転手の軟弱な顔に眼の力で過酷なプレッシャーをかけてみることにしました、しましたよ? あれ、どうしたの? こっち見てご覧なさいよ? ん? 誰のことを言っていたの? わ・た・し????

「というのは、冗談です。ココさんが魅力的ではないわけありませんからね」

そうよね。あの娘に魅力がないわけないわ。
そうよ…って、あっれー? わ・た・し・は?

「ちょうど彼らからメッセージが届いているんだよ」

「メッセージ?」

男は、隣に座るあの娘の膝にノートパソコンを置き、わたしにも見えるようにしました


 

恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの

同時進行の〈イデア〉

恋した瞬間、世界が終わる 第11部 絶望的で綺麗なもの

メルクリウス マーク・ロスコ 高架下 シャッター街 ビジャ・エペクエン エンキドゥ 芭蕉 ゴジラ ビル・エヴァンス ディケー サッポー デルポイ 古代ギリシャ 紀元前6世紀頃 パピルス文書 オルフェウス メトロポリス ファミレス 鳳凰 安楽死 ココ・シャネル アリュール 地上の上 路上 ログアウト マニュアル ビートニク 恋した瞬間、世界が終わる

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第81話「絶望的で綺麗なもの」
  2. 第82話「そして、動き出す時間」
  3. 第83話「それぞれのバックヤード」
  4. 第84話「サフラン色の導線、ため息の上昇」
  5. 第85話「使いかけの友情を試すとき」
  6. 第86話「メルクリウスの相違と相関関係」
  7. 第87話「夢の中の現実」