彼女のTシャツに、大きく活きの良い「肴」の文字がプリントされていた。
「いらっしゃーい」
「そのTシャツ、イカしてる」
 夏休み。暑いし、何もやる気が出ないので、今日は二人で昼間から宅飲みだ。これぞ女子の嗜み。
「なんか、変な漢字でしょ。外国人が着てそうな」
「知らないで着てたのか」
 そんなことだろうとは思っていた。
「それは『さかな』だ」
「マジ?」
「うん」
 私が頷くと、彼女は硬直した。冗談だろうと笑っていた表情が、徐々に真顔になっていく。
「そんなに嫌か」
「嫌、というか……もっとすごいものかと思ってた。『ここに宝がある!』みたいな」
 胸元の「メ」の部分を指さしながら。そう言われると、宝島の地図に見えてくる。
「えっ、さっき知ってて『イカしてる』って言った?」
「言った」
 でも、私は本当のことを知っている。彼女が思い浮かべている『さかな』どころではない、素晴らしい真実を。
「それは『さかな』だが、『酒のつまみ』という意味だ」
「マジ?」
「うん」
 私が頷くと、彼女の目が輝いた。
「宝はここにあったんだ!」
 しかし、目の前にはまだ缶チューハイが出されただけで、飲み始めてもいない。
「じゃあ出してくれよ……チータラ」
「任せろ」
 催促して、ようやく肴が出てきた。
「よっしゃ」
「乾杯」
 肴、肴、肴。肴を食べるとハイになる。私は酔ってもあまり変わらないと言われるけれど、内心はハイになっている。本当だ。
「こいつら、全部肴だったのか……」
 彼女は神妙な面持ちで言う。あたりめ、柿ピー、枝豆。全部肴だ。
「海を泳ぐ魚は、何なの?」
「『うお』だ」
「は?」
 納得がいかないらしい。でも、ここからは私もよく知らない。
「『さかな』という読み方は、こっちの『肴』から来ているらしい」
「つまり、魚イコール肴」
「むしろ、魚ならば肴」
 見つめ合う。考えることは。
「竿、持ってたよね?」
「ああ」
 今度の肴は、自分で釣る。

 ペンキの雫のように、一面に白いものが染みついている防波堤の上。私たちは夜明け時の海に竿の先を向けた。
「狙いは何?」
「サバだ」
「了解」
「行くぞ」
 青いルアーの頭を一撫で。構え。そして、投げる。
 私と彼女の動きは綺麗にシンクロして……はいなかった。彼女は棒立ち。
「どうした」
「いや、投げ方教えてよ」
「もう一度やる。よく見ろ」
 彼女は素人だ。しかし私も素人だ。投げ方だって、さっき動画でちょっと見てきただけだから、詳しくなんて教えられない。
 糸を指で止め、留め具を開ける。そして構え。ルアーの重さを竿先で捉える。そして振る。竿のしなりを利用して、糸を開放すると同時にルアーを飛ばす!
 ……決まった。飛んだ先は見ずともわかる。遥か水平線へ。そして、魚を連れてくるはずだ。
「ちょっとしか飛んでないけど、良いの?」
「なんだと」
 冗談だろうと思って顔を上げると、ルアーはおおよそ五メートルほどしか飛んでいなかった。
「今のは動きを見せるために力を抜いただけ。次は上手くやって見せる」
「よし、あたしもやる」
 今度こそ。二人で竿を振る。
 確かな手ごたえ。私はさっきの数倍は遠くに投げることができた。彼女も、私の半分くらいは投げている。
「ここからどうするの」
「少し沈めたら、ゆっくりと巻け。ルアーの動きで魚を誘うんだ」
「よっしゃ」
 しかし、投げた距離はまだまだ短い。リールを巻けば一瞬でルアーが手元に戻ってしまう。
 綺麗なまま戻ってきたルアーを見て。水だけを湛えたバケツを見て。
 私は直感した。ボウズだ。
 ところが次の瞬間、彼女が騒ぎ出す。
「ちょっと、何か掛かった!」
「慌てるな。どうせ根掛かりだ」
「なにそれ?」
「地球を釣っている」
 彼女が竿を止めても、水面下に動きはない。そこに生命はないのだ。
「無理に引っ張ると糸が切れる。任せろ」
「はい」
 竿を受け取り、針の外れる角度を探る。ところが、一向に外れる気配がない。それなのに、リールを回すと引っ張れてしまう。
「これは……何がいるんだ」
 まるで、地球の手を引っ張り出しているような感覚だ。まさかそんな化け物に針を掛けてしまうとは、私たちはある意味持っている。
 格闘すること数分、ついに地球の手の正体が水面に現れた。
「見て、何か引っかかってる」
「なんだこれは……」
 彼女のルアーに引っかかっていたのは、海水をたっぷり含んだ麻袋だった。要はゴミだ。
「マジ? これって海に眠る宝物だったりしない?」
「そう思うなら持って帰れ」
「……無理」
 こうして、我々の初めての釣りは、無事にボウズで終わるのだった。
 しかし、女だというのにボウズは似つかわしくないから、尼と呼ぶことにした。誰が、なんと言おうと。

 後日、学科の男子で釣りができるヤツを捕まえて、しっかりとした装備でしっかりと肥ったサバを釣ってもらった。私たちが通うのは工業大学であり、女子一人に対して男子は十人以上もいる。港町だから、釣りができるヤツも相応に多い。とはいえ分け前が減らないように、最も純粋に釣りを愛し、食には全く興味のないようなヤツを選んだ。
「はい。釣れたよ」
 私たちが二人掛かりでも歯が立たなかったことを、いとも簡単に。
 しかし、これでヤツは用済みだ。ここからはいよいよ私の出番。
「これより、神聖なる洗礼の儀式、サバ折りを行う」
「儀式!」
「ヤバい宗教じゃないか」
 サバ折り。それは、サバの鮮度を逃さないための、重要な通過儀礼。やり方は例によって動画で見てきた。
 鰓から指を入れ、頸の辺りに力を掛けると、綺麗に頭が折れる。すかさずバケツに張った海水で清めるのだ。血を抜き切ったら、氷水を張ったクーラーボックスへ。
「一丁上がり」
「あたしもやる!」
「そういうわけだ、もう一匹頼む」
「おう」
 私が見込んだ通り、彼は次々とサバを釣り上げた。多分、ここのサバは側線の辺りに食欲センサーを持っている。しかし、それでは食欲のないヤツの竿から逃れることはできないのだ。
 一時間のうちに四匹。期待以上の釣果だった。とはいえサバは魚界でも有数の俊足だ。我々だけで食べ切れるかどうかは不安があった。
「よし、ご苦労だった。お礼に二匹やろう」
「結局くれるのかよ」
 そして我々は、持ち帰ったサバを塩レモン唐揚げにした。調理は彼女の担当だ。実はこれで意外とできる。
 今日のために私も「肴」のTシャツを取り寄せた。通販で適当に買ったから、サイズが結構大きかった。いわゆる萌え袖だ。邪魔なので袖を捲った。
 ついに。
「これぞ、我々の肴」
「宝はここにある!」
 乾杯。

「肴」の文字が示すものとは? 真相を探るため、我々は防波堤へ向かった。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-30

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