まだ指折り数えられるくらいの、ほんの少し昔の話で、僕は山道を歩いていた。
 どうして山なんか登っていたのかはもう思い出せないけど、きっと大した理由もなくて、ただ漫然とした散歩の延長みたいなものだったと思う。
 そうしてフラフラと、確か夕飯のメニューなんかを考えながら、感傷もなにもない寛ぎで山の葉を眺めて歩いていると、不意に端の藪からガサガサと音を立てて、昔話に出てくる猟師のような簑を被った老人が目の前に現れた。
 僕は素直にその老人の出現に驚いた。ただ、普段山なんか行くこともない引きこもりがちな矮小な僕の脳ミソは、まあ山だしそんな人もいるだろうと変に納得してしまったし、なによりそんなコスプレチックな猟師の出現が妙にツボに入ってしまって、驚きはすぐに引っ込んで、何の警戒もなく、譏笑のひきつりを隠しきれない微笑みで「どうも」なんて軽い挨拶が口から溢れた。
 そんな僕の声かけに老人は立ち止まって、こちらをジッと見つめると、乾いた布のような物を握った皺だらけの腕をヌッと付き出して、ただ「け」と言った。
「け?」
「ゆがして、け」
 老人はその握られたカチカチに乾いた布を僕に押し付けてくる。されるがまま、仕方なくそれを受けとると、なにやら満足した様子で、皺だらけの顔をまた笑顔で更に深めて、ゆっくりと藪の中へ戻っていった。
 吹き抜けてくように過ぎ去った展開と、コミカルな猟師の発言と強引さに呆気に取られて、未だに現状を掴めずにオロオロと辺りを見渡すけれど、人の気配はどこにもなくて、案外なにかしらの夢を見ていたようにも思う。
 ただ老人に渡されたものが、物的質量をもって僕の手に握られている以上、今ある現実がどうしようもなく連続した出来事であったことを示してしまっている。
 そうしてちっぽけな脳ミソでグルグル考えているうちに、次第に現実が追い付いて来て、老人に渡されたものがいったいなんなのかに意識が向き始めると、フツフツと、どうやらそれが布でも何でもなく、ある生物の乾ききった干物であることに気がついた。
 その生物の目はしっかりと閉じられて、顔も肉球も、肉が剥き出している部分は何もかもクシャクシャになっている。布と間違えた毛皮に覆われたその身体も、またクシャクシャと酷く縮んでいるようだけれど、僕の手に握られたみすぼらしい干物は、狐以外のなにものでもなかった。
 老人は僕にただ「け」とだけ言った。
 田舎の叔父が僕にお菓子をくれたとき、同じ言葉を呟いたことを思い出した。

 家に帰って、沸き立つ湯気をただジッと見つめながら、狐の味なんてものをグルグルと考えていた。臭みはあるのかとか、昔食べた鹿肉と比べてどうとか、肉食の動物の肉はあまり美味しくないらしいだとか、そういった普通のことを。
 そうした興味に伴って、僕の中で執着に近い狐を食べるという覚悟が、フツフツと目の前で揺れる湯気のように沸き立っている。今日、狐を食べなくてはならない。たった今、味を知って、そうしてそれを己の糧にしなくてはならない。そんなふざけた感情が溢れて止まない。
 干からびた狐の干物は、カチカチに固まって刃物を全く通さなかった。金属を撫でるみたいに刃が引っ掛かりもしない。
 老人は(多分)茹でて食べろと言った。寧ろそれ以外何も言わなかった。狐の調理法なんて知らないから、僕は彼の言う通りにしか出来ない。
 仕方がないから、僕は狐をそのまま湯だった鍋に直接入れることにした。
 勿論いくら萎んでるといっても、狐は僕の前腕ほどの大きさがあったから、パスタでも茹でるみたいに鍋に少し立て掛けて、そのカチカチの干物が解れるのを待った。
 
 そうして暫くすると、徐々にその身が膨らんでいるように見えた。水に入れると膨らむ恐竜の玩具みたいに、狐は干からびていた姿から次第に艶感を増して、そのリアルな生体を取り戻していく。
 不意に、その狐の目が開いた。お湯をほとんど吸ってしまって、火を止めるかどうか迷っていたときだった。
 狐は目を見開いて此方の存在を確認すると、少し間を置いてから、どうやら自分の現状を察知したようで、急に跳ね起きて、さっきまで浸かっていた鍋を蹴り倒してその場から逃走した。
 僕はそんな狐の後を、包丁を持ちながら必死に追い回した。今日、狐を食べなくてはならない。たった今、味を知って、そうしてそれを己の糧にしなくてはならないみたいな、やっぱりそんな変な気持ちで。
 独り暮らしの小さな部屋は、逃げ回るような場所もなくて、狐を追い詰めるのに大して時間はかからなかった。
 トイレのドアの前でガタガタ震える狐を見れば、当然躊躇いがあった。動物を捌いたことなんて勿論無くて、魚の頭ですら、最後に落としたのはいつだったろうなんて考えている。けれど不思議と、やっぱりどうしても、そのときの僕は狐を食べなければ気が済まないでいた。
 そうした自己の板挟みで、自然と涙が溢れてくる。僕はただ狐に向かって「ごめんね」なんて捕食者の傲慢を振り撒いて、握る刃物を振り下ろした。
 一回目は躊躇いが勝った。包丁は僕の躊躇いによって、ゴム毬に振り下ろしたみたいに、中途半端に狐の身体を跳ねた。
 狐はキャンともワンともいえない鳴き声をあげて、少し切れた傷口からタラタラと赤黒い血を静かに流している。
 狐はまた一層ガタガタと震えを増して、今度は静かに目を閉じた。
 僕はそんな狐を見て、情けなくタラタラと涙を流して、また「ごめん」と再度刃物を振り下ろした。


 そうして食べた狐の味を、僕はもう思い出すことが出来ない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-29

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