透明人間の殺し方➀

透明人間の殺し方➀

「次は、あなたの番」


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「決まったー! これでPKはサドンデスへと突入します!」
五月蝿い。
けたたましく絶叫する実況と、心臓の鼓動を止めんとばかりに叫びを上げるチャント。それらを振り払うように、大澤夏樹は、足早にペナルティマークへと向かった。
全てを溶かす様な熱気に包まれた人工芝を横断し、屈んでボールを設置すると、正面を向く。目の前には、血走った瞳のゴールキーパー。
その後ろには、赤い、大きな壁があった。
その壁は、上から血をぶち撒けたかのような赤黒さで、それでいて一つ一つの元素が蠢き、叫び声を上げている。その生理的嫌悪を刺激する光景から逃げるように、夏樹は目を瞑り、深呼吸をした。すると少しは緊張がほぐれたようで、その壁が人間で出来ている事が判った。赤黒い大きな旗を上下に犇かせ、赤いユニフォームを着たサポーターの男達。
皆、苦悶の表情で唾を飛ばしながら、夏樹の名前を叫び、罵声を上げ、ただ、ただひたすらに祈りを捧げている。
———外せ! 負けろ! 
数万人からの悪意に当てられて、夏樹は幽体離脱したような感覚になった。肉体は確かに存在して鼓動を打っている。しかし、出来の良い精巧な機械時計を眺めているような離人感があり、どこか他人事だ。
なぜ俺は、こんな暑い熱帯夜にサッカーなんてしているのだろう。
馬鹿みたいじゃないか。たかが玉蹴りの為に、大金をかけて。時間を叩いて。心体をすり減らして。死にそうなくらい緊張して。
「ははっ」
その余りの滑稽さに、夏樹は吹き出した。
そうだ。これはただの球蹴りだ。子供の頃から数え切れないほど繰り返してきたように、ただボールを足で蹴る。それだけだ。
そう考えると、今までの緊張が嘘の様にかき消え、自信が漲って来た。今までのサッカー人生を辿るように、一歩一歩、助走距離を取り、彼の体格に最も適した四十三度の入射角に位置つく。
サポーターの声にかき消されかけたホイッスルが響く。夏樹はワンテンポ遅れて走り出し、ゴール右下を狙い、右足を振り抜いた。ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射される。
夏樹はゴールを確信した。
しかし、相手キーパーは彼の助走時の体勢からコースを読んでいた。低いコースへの対応策として、通常では左足で踏み込む所を、右足で踏み込み、低く鋭いセービングに掛かる。
夏樹は、ボールがキーパーグローブに弾かれる音が聞こえた気がした。しかし、渾身の力で打ち出されたシュートの威力は凄まじく、キーパーの左手はなす術なく弾き飛ばされた。
ボールがゴールネットを揺する音が響き渡り、相手サポーターの脱力感が大きな波となって押し寄せる。
「……っしゃあ!」
夏樹は、右手でガッツポーズをしながら振り返る。項垂れるキーパーの顔を見てやりたい一心に駆られたが、踵を返してチームメイトの元へ向かう。
彼らは、夏樹の賞賛し、ナイスシュートと賛辞している。その声は、敵サポーター達の叫び声よりも大きく聞こえた。しかし、夏樹は違和感を感じた。
チームメイトの顔が、見えない。本来そこにある筈の、目や口、鼻。全てが欠落しており、顔面の部分だけを切り取ったかの写真のようだった。その、透明に透き通った顔の向こうには、広大な人工芝のピッチが広がっている。
「なんだ、これ」
その人間らしからぬ様相に、アドレナリンが霧散したのと同時に、夏樹は何者かに右足首を掴まれた。
「うわあ!」
情けない叫び声を上げ、彼は足元に視線を移す。五本の指が植物のつたのように絡みついている。立てられた爪は、皮を裂き、肉を断裂せんと力を込めている。そしてその後ろには、見知った顔があった。
「長谷川先輩……」
黒い短髪には砂埃が付着し、端正な顔は痛みに耐えて苦渋を刻んでいる。
そして、人工芝の代わりに、苦悶に歪んだ顔の下には土のグラウンドが横たわっている。
いつの間にか、夏樹は高校のグラウンドにいることに気づく。先ほどの鼓膜を破るようなチャントやサポーターの叫び声も消え、ただ、夕日に焼かれた校舎だけが無言で二人を見下ろしていた。
「夏樹……先生を、呼んでくれ……」
力なさげに俺の名前を呼ぶ長谷川。先ほど夏樹の右足首を掴んだ力はもはや無く、ただ救いを求めるように懇願している。
「ひっ……」
夏樹は、その手を振り払おうとするが、離れない。力はかけられていない筈だ。なのに、その右手を振り解く事が出来ない。重心を崩した夏樹は、その場で正面から転んでしまった。咄嗟に両手で受け身をとるが、頭を打ち付けた。硬い地面と骨が衝突し、焼けるような痛みが頭蓋に走る。横たわったまま、後ろを振り返ると、長谷川の右脚が視界に入った。
パーツを間違えたプラモデルのようだった。
大の字に倒れた先輩の右脚は、本来あるべき方向から直角にねじ曲がり、膝から上との接続が途切れてしまったように、力なく項垂れている。あり得ないほどの重症な筈なのに、血が一滴たりとも見当たらないのが逆に恐ろしい。生命感が、ないのだ。
「膝が……夏樹、膝が……!」
涙を滲ませ、夏樹を見つめる長谷川。すると、その絶叫に呼応して、長谷川の身体中のパーツが、右脚をスタートに屈折し始めた。右足と同様に左足が捻転すると、左腕に伝播した。夏樹の鼓膜を、長谷川の骨が軋み、肉が裂ける音が伝う。夏樹は、自分の耳を切り落としたい衝動に駆られた。
このまま、この音を聴き続けていたら俺の精神は崩壊してしまう!
誰か、俺の耳を、目を潰してくれ!
夏樹は必死の思いで、長谷川から離れようと、硬いグラウンドを虫のように這う。指先が細かい砂の粒子に摩耗される事など気にする余裕もない。掌に砂利が刺さり、砂が鼻腔から体内に侵入し、湧き立つ土煙に息が苦しくなる。それでも、長谷川の右手は振り解けない。
そして最後に、右腕が捻れると、長谷川に掴まれたままの夏樹の右足首は、その力に引きずられるままに音を上げて、ゆっくりと断裂した。

悪夢を見た時は、絶叫をしながら飛び上がるように目覚めるものと思っていたが、実際は違った。悪夢と現実が混濁する中、覚醒途中の脳みそを引き摺りつつ目覚めるのだ。目が覚めるや否や、夏樹は右足首を確認した。
「……ある」
視線の先には、十六年間連れ添った足首が確かに存在していた。誰かにつかまれた跡もない。夏樹はそのまま、逃げるように、悪夢の苗床であるベッドから這い出た。
脱衣所の壁掛け時計を見る。時刻は7時。あんな悪夢を見たと言うのに、夏樹はいつも通りの時間に起きた。寝汗で湿った寝巻きを洗濯機へと投げ捨て、脂汗にまみれた全身をシャワーで洗い流す。冷水を頭からかぶると、漸く目が覚め、客観的な思考ができるようになって来た。
久しぶりに見た悪夢をかき消す為に、以前集めた情報を掘り返す。どんな不可解な現象でも、必ず原因と対策が存在する。それらを徹底すれば、乗り越えられない困難はないと言うのが、夏樹の考えだった。
確か、脳の持つ記憶機能のキャパシティは1ペタバイト、つまり100万ギガバイトであるとするのが通説だ。これは一本当たり4〜8バイトを持つ映画およそ25万本にも及ぶ。
そして、その膨大な情報を処理する為に、人間は『夢』を用いている。
必要な情報を瞬時に摘出する為に、パソコンのフォルダを整理するのと同様に、散らかった情報を、夢を見ることで管理する。その際、溢れ出した断片的な情報が歪につなぎ合わさる事で、悪夢が誕生する。悪夢には、情報処理が敵わなかった記憶やオーバーフローした内容など、脳が忘れるべきと判断した記憶が現れるのだ。
……俺は、忘れたいのだろうか。
自問自答の答えを出す前に、夏樹は冷たく清涼な水の流れを止め、浴室から出た。
水を拭き取りながら自室に戻ると、ハンガーラックから、アイロンのかかったワイシャツ、センタープレスがしっかりと押された紺色のスラックス を取り出した。昨夜のうちに準備していたことが功を奏し、余裕を持って、清潔な状態の制服を着用出来る。
涼しげなコットンの生地感に満足しつつ、夏樹は、昨晩手入れしたカンガルー革製のスパイクを専用袋にしまうと、そのまま通学用鞄の中に詰めた。そして居間に戻ると、卓上の千円札を受け取り、無人の自宅を後にした。
肌にべったりと張り付いたシャツに不快感を感じながら、自転車を漕ぎ、駅へと向かう。今年は例年を遥かに凌ぐ酷暑になるようで、6月初旬の今日でさえ最高気温が32度にも至る。雲ひとつない空に、得意げな顔をした太陽が居座っていた。
「暑い……暑すぎる」
夏樹は駐輪場に自転車を止めると、白いタオルで汗を拭った。家から数分移動しただけだが、前髪が縮れるほどの汗をかいている。一通り汗を拭うとシーブリーズを体に塗り付け、駅へ入った。予定調和のような、狙いすましたタイミングでやってきた電車に乗り込み、冷えた人工的な空気を深く吸い込む。冷気が服の内側にも至るように、夏樹は制服の第二ボタンを開け、襟元をばたつかせつつ周囲を窺った。すると、通勤通学時間であるにも関わらず人の数は少なく、空席が目立った。それもその筈、彼の最寄り駅は上り線の始発に近いのだ。
夏樹は、比較的余裕のある席に腰を下ろして、ノイズキャンセリングイヤホンを装着すると、単語帳を開いた。ランダム再生を開始すると、新進気鋭の英国ロックバンドの曲が流れ始め、重々しいギターリフが外界を遮断した。そのまま、手元の単語帳に集中する。
ノルマの範囲が2週目を迎える頃、窓は都会の景色を映し、目的地へと到着した。
多くの社会人達と共にホームへと降り立つと、朝の池袋駅は人の熱気でむせ返るような暑さだった。スーツ姿のサラリーマンから、大きなバックパックを背負った外国人観光客まで、全員が何かに急かされるように、機敏に、雑多に動いている。
夏樹は都会人が作る流れに沿って地下道を進む。しかし、だんだんと社会人の数はまばらになり、クリーム色の階段を登ると、太陽光が反射する暑い道路の中、彼の本来のテリトリーである学生通りに出た。
先程とは打って変わって、制服を着た男女が、ゆっくりと談笑しながら歩いている。
何百回と見た風景の中、どの生徒達も酷暑の中浮き足立っており、笑い声が目立つ。夏樹は深くため息をついた後、音楽の音量を上げた。
数分歩くと、彼の所属する青城高校が姿を現した。駅から少し外れた位置に大きな区画を跨いで佇む校舎には、サビや汚れが一切存在しない。学校と言う前提知識がなければ、宗教施設の一つと思われてもおかしくはない、と夏樹は思った。
夏樹は時折、この純蓮さが気味悪く感じた。
この高校に通う生徒達は、色々な感情を抱えている。しかし、仰々しい純蓮さを纏った校舎は、それらに目もくれずに、全てをその純白で塗り潰してしまいそうに思える。葛藤、後悔、喜びをも飲み込んでしまいそうな巨大な校舎。それは、大人達の築き上げた城だ。どれだけ優秀な成績を収めようと、自分は管理される立場であり、この城に庇護される存在でしかない。
夏樹は、生徒の集まる校門をスルーして歩き続けると、道路を跨ぎ、桜並木を奥に進んだ。雨露が残る雑草を踏みつけて足を進める。一歩進む毎に、ぐしゃりぐしゃりという音がたち、太陽光で温められた雨水がローファーに入り込む。小さな水溜まりには太陽光が反射しており、目を開く事が出来ない程に眩しい。解放感のある澄んだ緑の中、朝の空気を噛み締める様に、夏樹は深呼吸をした。紺色のスラックスが太陽光を吸収し、加熱されるのを感じ始めた頃、それを見つけた。
その箱は、古びた桜の下にあった。
人々から忘れ去られたその箱を慈しむかのように、葉桜が優しく覆い被さっている。
昨年の夏、何気なく散歩をしていた夏樹が見つけた、公衆電話ボックスだ。電話線は断たれ、通電すらしていない、見捨てられた大きな箱。
薫風が吹き、木々が漣のような音を奏でると、夏樹の黒い髪が風に煽られ、首筋に心地良い空気が流れた。シーブリーズの香りが鼻腔に広がる。
「思っていたよりも涼しいな」
しかし、日光に晒されていてはまた直ぐに汗をかくと考え、すぐさま作業に取り掛かる。
夏樹は、先日設置した不法投棄の椅子を公衆電話ボックスの横につけた。
それを踏み場にして、公衆電話ボックスの天井に設置したソーラーパネルからポータブルバッテリーを取り外した。そして、開閉するたびに軋みを上げる扉を開くと、慣れた手つきで、バッテリーを携帯型扇風機に接続した。
反射材を張り巡らせた甲斐もあって、室内は思ったよりも涼しいが、念には念を入れ、先ほどコンビニで買った冷凍スポーツ飲料を扇風機前に置いた。冷たい風が室内の空気を循環させる。
自身で作り上げた快適な空間に満足し、夏樹は公衆電話ボックス内の椅子にもたれかかるように座った。すると、先程買ったサラダパスタを取り出し、遅めの朝食をとり始めた。
梱包を外し、ドレッシングを雑にパスタと絡ませる。甘い胡麻の香りと薫製チキンの匂いが立ち昇り、芳しい香りに彼の食欲は増進され、彼は貪る様に麺をすすりサラダを噛みちぎる。
食後、夏樹は、四隅に這うクモの巣に触れないようにしながら、本来電話帳が置かれるはずのスペースを探った。すると、手に小さな四角い物が当たる感覚と共に、それを掴み手元へ引き寄せた。夏樹の手元には小説が握られている。
(今回はやけに早いな)
隔週金曜日、夏樹はこの公衆電話ボックスで、顔も名前も知らない生徒と本の交換を行う。
初めは、自分以外にこの溜まり場を利用する不届き者の存在に、不愉快な気分になったが、相手はどうやら律儀な人間のようで、この公衆電話ボックスを利用する代わりに、幾つかの菓子と文庫本を置いていくのだ。流石に追い出す気にも問い詰める気にもなれず、夏樹はその置いて行った本と菓子の礼として、その本の感想と共に、自分の勧める小説を置いた。すると相手も、夏樹の渡した本に対しする感想を書いたメモと、新たな本をこの場所に置いていくようになり、不思議な本の交換会が始まったのである。
夏樹は、二つの本を同時進行で読むことを嫌うため、まずは自分の読んでいる時代劇の小説を読み尽くそうと、残り数ページの小説を取り出し、受け取った文庫本を鞄の中へとしまった。
脚を上に組んで文庫本を読んでいると、夏樹のスマホに着信があった。
夏樹はスマートフォンを取り出し、イヤホンのまま通話する。
「もしもし?」
『夏樹。お前今どこにいる?』
おっとりとした、伸びる様な声。
「前に話した溜まり場で朝飯食ってる。まだ、ホームルームの時間じゃないだろ?」
室内に設置した安物の時計を確認する。午前8時。登校の予鈴まであと30分以上ある。
『いやいや、今日は連絡事項があるからいつもより20分早く来いって言われたろ?
宇田の野郎、カンカンだぜ。悪いことは言わないから早く来い』
大袈裟に「ぷんぷん」と怒っている様な演技をしながら捲し立てるガク。
「まじかよ、完全に忘れてた。すぐに行く」
『おう、早く来いよ。お前がいないとつまらなくって仕方がないぜ』
そのままガクは電話を切った。
夏樹は、毎朝の穏やかな時間を奪われた事を不服に思いながら、バッテリーを扇風機から取り外して、サイド屋根の上へ設置した。そのままサラダパスタのゴミを抱え、溜まり場を後にする。軽快に水たまりを飛び越えて、桜並木に飛び出す。駆け足で坂を降ると、信号待ちで車道に並ぶ数台の間を走り抜けた。運転手の不快そうな視線が刺さるが、気にする間も無く、夏樹は車両用出口から校内に入った。
その間際、夏樹はふと、青城高校の向こうに見える、規制線が張り巡された巨大な空白の土地を眺めた。本来、そこには中学校が存在するはずだった。
しかし、2年前の夏、その学校は文字通り消失したのである。
2022年7月4日午後1時頃、〇〇中学校の校舎や備品など、全ての無機物が透明になる現象が発生した。透明化した物質達は実際に存在し、触れられるが、視認する事だけが不可能となってしまったのだ。当時、授業が行われていた〇〇中学は混乱状態に陥り、錯乱する生徒達、そしてその対応に追われる教員を脱出させる為に、近隣の警察及び救急、更には某国からの軍事行動の可能性を考慮して、自衛隊までもが出動することとなった。その後、日本政府を主体とした先進国の調査団体が派遣され、透明化した校舎に対してありとあらゆる調査研究が為されたが、透明化の原因や人体への影響など、何一つ判る事はなかった。それだけが現在民間に報道されている情報だった。その後、日本政府管轄の調査対象された〇〇中学校は、一般人の立ち入りが禁止され、現在も調査が行われていると言う。
その、存在するはずの透明な学校を見つめて夏樹は、今朝の悪夢を思い出した。
長谷川と邂逅する前、彼は見たのだ。透明な顔をした人間達を。

透明人間の殺し方➀

透明人間の殺し方➀

高校二年生の大澤夏樹は、尊敬する先輩の選手生命を絶ってしまった後悔に苛まれている。そんな彼の前に、透明人間が現れる。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-03

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