日記

「私は成人男性が自己愛に駆られて両手を挙げかそかそ踊っているのは、カカポの求愛行動とグロさの観点で全然違うことを理解した方がいいけれど、あまりに自分がかわいい」
 

 人間の組成の七割は水であるらしいので、僕はもっとかそかそ音を立てながら遷移することができるはずです。他人が可塑的である(音楽の好みが変わるとか、人の好みが変わるとか、思想が変わるとか、諸々)のは見ていて「おもろいなー」と思う。でも、何故だか自分の持っている可塑の可塑性、じゃなくて可能性に対しては非常に無自覚というか、確たる自分のようなものが在るべきだとでも言うような枠に閉じ込められているのか、おいそれと変わったら負けだ、というような感覚がある。同時にいままでを全部放り出して脱皮したいと思わないでもないので困る。
 例えば僕は音楽が好きだということになっているけれど、おれが今までで一番音楽が好きだったのは高校一、二年の時だと思う。その時期と比べてしまうと、これを書いている現在のおれ(既に過去のものとなった、えーえん過去になり続けるおれ)はぜんぜん音楽好きじゃない。「音楽好き?それとも嫌い?」とかで言ったらめっちゃ好きだけれど、音楽さん、間違いなく以前の方が好きでした。
 ここで、「ええい、いまのおれが昔ほど音楽好きじゃないからなんやねん、今この瞬間は短歌好きなんや!!!!!文句ありますか!!!!」って開き直りたい。無理っす。寂寥感で立っていられなくなってしまう。音楽がめちゃくちゃ好きだった頃の僕は、自分から音楽を抜いたら干からびたミミズ、という勢いで好きだったんだもの、あの頃のアイデンティティが無くなってしまうという感覚が残る。
 おれには過去の自分が今の自分の土台になっているという感覚がありません。過去の自分がちゃんと堆積、雨降り、地固まってません。変化が、過疎が、遷移が起きるたび、鉤針で縫いかけていた編み物を全部ほどいてしまう感覚があります。ほどいたらまた、新しい柄を目指して縫いはじめます。そして、縫い直して縫い直して縫いまくった作りかけの布はまた、三年後くらいに全部全部ほどかれて絆されて、結局僕はまた毛糸と鉤針を持って呆け面でさみしいな。ほどく前の、作りかけの模様が全部消えちゃってかなしいな。
 でもこの、昔の自分と今の自分が地続きでないということに救われている部分もあって、例えば中学二年の一番荒れてた時期の自分が今の自分と結びつかないのはむしろありがたい。あの頃の自分は殺さなければならない。
 あーあ、脱皮して、脱皮したことを悲しまずに済めばいいんだわ。まだできねぇけど
 自分可愛さにかそかそかそかそと両手をあげておどっているおれ
 ここまで読んでくれる人、いるんか?いたらありがとうございます。
 

日記

日記

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-17

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