a.

切なくなるのはそういう歌を頭の中で繰り返すとき。心やわになってしまう。
この森(翠がかった霧がいつも立ちこめる)にはかつて想いを寄せた人たちが歩き回っている。いつでも、ここを歩くときは懐かしく思う。
過去に干渉はできない。せめて過去に戻り同じ体験をすることも叶わない、けれども大事な宝物のように追想してしまう。
僕は彼らが好きだった。
   
漂う人たちの中で、いつも僕が強く懐かしむ人。自分の少ない人生の中で一番に焦がれた人だ。
――もう別れて、実際には僕のことなど嫌いかもしれない。でもこの森の彼は、あの時と変わらないように、歩くときは傍にいてくれた。もう自分は大きくなったのに、彼の表情は小さな頃の僕の姿をとらえている。
すべては夢のようである。自覚も認識もしている。
この森はただの記憶の、
もう一歩踏み出そうとすると、決められた駅で停車するみたいに、彼だけが止まった。 
振り返る。微笑むようなよくわからない表情。
僕はひとりになった。先へ行け。俺は君と先へは行かない。たぶん彼はそう言いたいのだ。そして僕はそれを自覚している。僕を嫌いだなんかじゃなくて、いつものように。
何度もこの森へ来ては彼に会い、しまいにはひとりで歩く。この流れは決まって繰り返された。
なぜ自分は森へ戻ってくるのか。独りで歩いているうちに淋しくなってしまう。彼が隣にいた記憶を思い出し、求めて。  
ここはあたたかいけれど、胸がいたい。

ひとりで歩くしかないことは分かっているけれど、何もかも振り切った現実は歩けない。この森で僕は、僕の起源を感じることができる。だからまた、霧が立ち込めるここに来る。
今は空っぽの隣。いつか隣にいるのを望む。

b.

森にどんどん人が増えていく。さて、これは誰のなせる業でしょう。誰にしかなせない業でしょう。
狼のような眼をした本当はやさしい人。別の夢で見た景色の中では、川の向こうで「俺と同じになるまでは話はできない」と言っていた。やさしい人。
雪国で生まれた凛とした狐のようなお顔立ちの殿方。
少しの間留まった、あの人たち、あの人たち、あの人たち。本当に出会うべきは誰だったのだろう?
<もし世界が箱だとしたら、僕は壁に埋め込まれた何らかの像だろう。像は踊っている。風をつかみ、手放し、雪のつめたさで遊ぶ>
人々の目は虚ろになっていく。嘘が分かったとしても僕が招き入れたから。
だとしても、森はあの頃よりもどんどん穢れていく。

c.

さて、これは誰の業だったでしょうか。
本当に出会うべきだった人のことを想い浮かべて、森を焦土に化してしまえ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. a.
  2. b.
  3. c.