白虎と蟻

白虎と蟻

 蝶の死骸を運ぶ数匹の蟻達を、退屈そうに遠くから眺めている、おかしな蟻がいた。
 名を三太郎という。
 彼は、この世界の仕組みについて知りたくて、考えたくて、いつも思案を巡らせていた。


 俺達の様な蟻は、虫けらは、どうして産まれてきたのだろう。
 それこそ、あの働き者達に運ばれている、既に息絶えた蝶だって、何のために産まれてきたのだろうか。
 俺は、命というものを不思議に思う。必ず、何かしらの意味がある筈だ。
 生まれて、老いて、病んで、死んでいく。人間達はこの事実を、生老病死と呼ぶそうだ。
 以前、お寺の近くの林を歩いていた時に『シュギョウソウ』という人間が、斯様な言葉を繰り返し呟いていたから、よく覚えている。
「生老病死か……。俺たち生き物は、その宿命から逃げられない訳だ。つまり、生まれてきた本質を、この肉体だけに見出す事は、極めて難しそうだ」
 何故、その考えに至ったのかは、俺自身もよく解らなかった。
 生まれて老いて、病んで死んでいく事が避けられない道ならば、その道自体が世界の仕組みであったり、本物の答えになるのではなく、その道を歩いていく上で、答えを見つけるのではないか、と俺は思う。


 三太郎は、その独り言を続けながら、ただ、巣の周辺を散歩していた。
 彼が蟻としての、巣の一員としての勤めを放棄している事は、他の仲間達にも知れ渡っていた事で、今更、三太郎を責める様な蟻もいなかったのだ。
 大きな理由として、三太郎は自分の食べる分は自分で用意できるだけの、体力があった。


「おかしいとは思わないか。俺は歩いて、適当に虫の死骸を食べているではないか。これは、自己保存のための、活動のひとつだ。自らの肉体を維持するための、行動に過ぎない」
 他の蟻達は、斯様な三太郎の疑問に「馬鹿馬鹿しい」と一蹴して相手にしなかった。
 しかし、当の本人にとっては、この「食べないと死ぬ、死なない為に食べる」というごく当たり前の行いこそが、疑問の始まりであった。
 すると、老いた兵隊蟻の一匹が、三太郎の頭を軽く叩いて言った。
「良いか、三太郎。我々は肉体を持ってこの世界に生きている。肉体の維持には飲食が必要だ。即ち、我々にとって食べること、飲むことこそが、生きている間に全うすべき、全てなのだよ。こんな簡単な事さえも分らんか」


 生きる為に食べる、飲む、肉体を維持する。その理由は生きる為に体が必要だから……。
 いいや、違う、違う、違う。
 我々は、盲目の心を持っているのだ。何のために生きているのか。そこを考えるべきなのだ。
 俺は、一匹の蟻として生まれた。何故だ。皆は、蟻という生命の形で生まれた事を、不思議に思わないのか。
 生きる事を、何故当たり前であると許容できるのか。
 いや、許容する事は、生まれたからには生きるしかないのであって、是非を問う事ではない。
 問題は、生きる目的に対して無知極まりない、ただ漫然と歩き、食い、傷つき、力尽きる日を待っているだけではないか。
 人間という生命は、この主題に対して積極的に取り組む者達も大勢いる。
 だが、なにゆえか、蟻に生まれた者達は皆が考えない。考えない事に対して、善も悪も無い日々が続くのだ。


 嫌だ、嫌だ、俺は蟻だ、けれど蟻で終わりたくない。
 もっと生きる事について真剣に考えて、生まれた意味、命の意味について、胸が張り裂けんばかりに考え続けたいのだ。
 でなければ、我々生命は、この大きな地面の上を歩き回る『呼吸をする塵』ではないか。


「では、お前にはもう少し、高くて広い視野を与えよう」
 声の主の姿が見えなくとも、蟻の三太郎は、疑問に思う事も無く、叫んだ。
「嗚呼、俺は、もっと知りたい、知るために努力をしたい」
 蟻の三太郎の視野には、真っ白な虎が映った。
 白虎は、まるで三太郎と出会うのが、これが初めてではないと言わんばかりに語った。
「かつて、お前が蛙や鳥であった時、一人の人間として生きた時、お前は何度も同じ課題を見つけて、それに意気揚々と取り組んでいた。私はそれを、嬉しく思う」

 一匹の蟻にとって、護法善神の白虎が語る言葉の全てを、すぐに理解する事は難しかった。
 しかし、その言葉のひとつひとつが懐かしく思えて、これまた妙であった。
「自分」というひとつの生命は何度も生まれ変わっている、それを可能にする魂がある、そのため「自分」は何度も姿形、名前を変えて、生まれる場所さえも選んで、この地上に命を得ている。
「何故だ、万象は何故、生きるのだ」
 真に小さな生物であった蟻の三太郎は、今ではその肉体を一時的に手放して、彼の魂はありとあらゆる世界の、鳥獣、魚、草花、樹木、そして人間の身体を通して幾星霜の月日を体感していた。
 これは、唯物的世界の束縛を離れるだけの、その学びを得るだけの、修行による業を積み上げた三太郎の、自分自身への果報であった。


 どれほどに修行を積んだとしても、必ず壁にはぶつかる。
 道理が解らず、疑問に立ち止まり、指針が持てない、その様な輪廻を迎える日が来る。
 だからこそ、三太郎は今までの輪廻転生で心に刻んだ経験、感動、学びの徳を以てして、将来の修行、その続きを助けるというものであった。
 今まさに、護法善神の手助けもあり、一匹の蟻の三太郎は、物質界の制限を超越した体験を、再び得ていた。これは、全て過去に彼が生まれて、老いて、病んで、死ぬまでの記憶の、巻物の様な物である。それが、魂には一切の情報漏れも無く、また、過剰も無く、一切が記録されているのであった。
 彼の魂は、自身や他の生物、その全てが生きる理由を知るために、今、学び直している最中なのだ。


 あの時の俺は、そう、一匹の蛙だった。楽観的な性格で毎日を暮らしていたが、ある親子の姿を目にした時、心底から疑問と葛藤が浮かび上がった。
 雨上がり直後の池で、母蛙と子供のおたまじゃくしが、一緒に歌を唄っている様子を見ていた。ただそれだけで俺にとっては、胸の中で何かが込み上げてきて、号泣してしまったのだ。
「美しい、美しい、母と子が仲良く歌を唄う姿は、尊いのだ」
 親子二匹の邪魔をしてはいけない、と配慮した俺は、ゲコゲコと鳴きながら、急いで林の奥へと跳ねていった。
 油断していた。その場所で、俺を狙っている蛇がいるとは、気づかなかったのだ。
 蛇に丸のみにされて、俺は、死んだ。


 白い虎よ、白虎よ、護法善神よ、俺は、この蛙として生きた一生涯に、不思議な点を見出した。
「うん、それは、なんだ」
 何故、俺は母と子が声を揃えて歌っている姿を見ているだけで、泣いてしまったのだろう。
 これは、ただ泳いで、跳ねて、虫を食べて、鳴くだけの蛙であれば、そこまで心は動かない筈だ。
 間違いない。俺には、心が動いて涙するに至るまでの、相応の理由があったのだ。
 これよりも以前に生命として生きた、当時の「自分」に答え或いはきっかけがある筈だ。
 頼む、その姿も、もう一度体験させてくれ。俺は知らなくてはならない。
「良いだろう」


 この姿は、間違いない、人間だ。人間の赤ん坊だ。
 俺にも人間として生まれて、考えていた時間が、学んでいた時間が充分にあったのだな。
「それはどうだろう」
 白虎の声が響く。その言葉の理由は、すぐに解った。


 赤ん坊の姿をした俺は、口からボタボタと血が溢れてきた。
 生まれながらにして、不治の病に体を蝕まれていたのだ。
 哀しい顔をした母が、すぐにタオルで拭いてくれた。
 すると、母は俺に「大丈夫、怖がらないで」と語りかけて、子守歌を唄い始めた。
 本当は、母の方が最も不安で、怖かったのだ。
 自分が腹を痛めて産んだ子供が、毎日血を吐いて、泣きじゃくる。
 健康な体で産んであげたかった、幸せにしてあげたかった。
 その自責の念が、母の心を傷つけていた。
 だが、母には救いがあった。それこそが今、自らの腕の中で泣いている、赤ん坊の存在であった。


「私はお母さんだから、この子の為ならなんだってできる。強くなれる、愛している」
 神仏の加護により、過去の生涯を追体験している俺は、俺の魂は、泣いていた。
「おかあさん、おかあさん、愛してくれてありがとう、ありがとう」
 赤ん坊だった時の俺も、全く同じ事を一心に想っていた。
 すると、夢から目が覚める様に、瞬きをした時の様に、目の前はむき出しの地面に戻っていた。俺の姿も、やはりちっぽけな一匹の蟻だ、三太郎だ。
 だが、魂は打ち震えていた。
「白虎よ、小さな畜生である俺にも理解できた、思い出せたぞ。病に罹る事はつらくて苦しい事だが、しかし、悲劇ではないのだ。あの赤ん坊だった時の俺は、生まれてから二年も体を維持できなかった。それでも、人間としての一生百年を捧げても、受け取り切れないほどの愛を受け取った。決して孤独ではなかった、人間らしく身の世話をしてもらい、最期には、人間らしく弔ってもらえた。生命の尊厳があったのだ」

 護法善神の白虎は、一度、深く頷いて応じた。
「よくぞ思い出し、学びを汲み取ったな、三太郎。これで解っただろう。お前が蛙だった時に、母蛙とおたまじゃくしが一緒に歌っている、至って普遍的な愛の姿に、この上ない喜びを見出せた理由を。赤ん坊だった過去の記憶から生まれた感動が、蛙として生まれ変わったお前に、親子愛は掛替えのないものである事を、気づかせたのだ」

 そうして、白虎は目蓋を閉じて、語り続けた。
「お前が気づいた通り、命あるものにとって病とは、つらく、苦しい、可能であれば避けたいものだ。だが、病を生まれ持った赤ん坊のお前は、その難題に正面から向き合った。また、その修行を助けてくれる、素晴らしい母にも恵まれた。真の哀しみとは、病によって死ぬことではない。悲劇なのだと語られる物事も、生命の修行的観点から見れば、どれほどに優れた書物よりも優れた、生きた教書である」


 蟻の三太郎は、深々と頭を下げて、白虎の説法に聴き入っていた。
 三太郎は、心の内で感涙にむせびながらも、魂の眼は澄んでいた。
「ありがとう、白虎。俺は、蟻として生まれたこの身を大切にして、感謝して、同じ巣に暮らす仲間達や、産んでくれた女王蟻の為に尽くすよ。それが、今の俺にできる精一杯の『生老病死』なのだ。ほかの三つの苦しみについても、気づくべき時、学ぶべき時が来たら、その日の俺が感動と共に、学んでくれるに違いない。人間達はこれを四苦八苦と呼ぶかも知れない。ただ、一匹の小さな畜生に過ぎない俺からも、この生老病死について語る事が、もし赦して貰えるなら、言葉にしたい。生老病死は難しい事ではない。生きる事そのものなんだ、きっと」

白虎と蟻

白虎と蟻

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-06-30

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