短編いろいろ

アトモスフィア

「発射用意。五秒前、三、二、一、」
ボタンを押し込む。エンジンの轟音に続き、発火したエネルギーは小さな鉄の躰を突き上げる。そのまま、空中へと真っ直ぐに進んでいった。
「いけ……そのまま……いっちまえ……」
もじゃもじゃした白髭の隙間に、なけなしのえくぼが現れた。皺の刻まれた手は興奮に震えながら、傍のノートを取る。小型ロケット「イカルス38号」は規則正しい推進を続けている。モニター越しにも伝わってくる尾部の炎の勢いに、老博士は熱視線で応えた。
だが、いよいよ問題の大気圏の高さに差し掛かった時。円錐形の先端は何かにぶつかったように弾かれてしまった。途端に、ロケットは頭をひっくり返して緩やかに、発射した時よりも速度を上げつつ落ちていった。噴出する炎は、息絶える寸前のように途切れ途切れになっていた。
ロケットが海に到達し、飛沫を上げるのを地上のカメラが捉えた。博士は舌を打ち、鉛筆を机に叩きつけた。悪態をつきながら立ち上がると、モニターの向こうの空、衝突地点を睨みつける。だが何にぶつかったというのか、そこには虚空があるのみだ。爪を噛んでいると、管制室のドアを勢いよく叩く音がした。
二度目の舌打ち。漸く我に帰った博士は、インターホンが子供の悪戯の勢いで鳴らされていたことに気づく。インターホンとドアの打音の繰り返しに、あいつらは飢え死にするまで諦めないだろう、早く撒いた方がましだと考えて解錠許可のボタンを押す。鉄の自動ドアが音もなく開いて、バランスを崩した男が転がり込んでくる。真新しいスーツにネクタイを締め、ヘルメットを被った若者だった。
「博士、またですか。無許可の飛行物打ち上げは駄目だって言ってるじゃないですか」
「うるせぇ。こっちの勝手だろうが」
「全く……貴方が宇宙開発に偉大な貢献をしたから許されてるようなものです。通常だったら逮捕案件ですからね」
博士は答えなかった。乱れた文字で埋め尽くされたノートの38番と辛うじて読める所に、大きくばってんをつける。暫く室内を意味ありげに見回していた若者は、博士に近づくと背後からノートを覗き込んだ。
「また駄目だったんですか」
「ああ。勢いが足りねぇのかねぇ」
「僕、思うんですけど。イカルスって名前が良くないんじゃないですか。イカルスって空を飛ぼうとして、翼が太陽で溶けちゃって、落ちちゃう奴でしょ」
博士はまた答えなかった。ロケットの名前を変えるつもりは微塵もなかった。聴かされてきた話の中で、空を目指す者。それにあやかってつけた名前だから、博士は気に入っていた。
計算式だらけの老いた脳を休ませていると、ぱらぱらと軽い何かが落ちる音が耳に入り込んだ。見ると、博士の計算録が床一面に散らばっている。落とした犯人であろう若者だったが、何食わぬ顔で拾い上げつつ、一枚ずつ目を通していった。
「ばか。あんま触るんじゃねぇよ」
「ごめんなさい。部屋を一応調べてこいってお達しなんです。まぁ、博士のことですし、怪しい物は無いと思いますけど……」
纏めた紙を揃えて元あった場所に丁寧に戻す。若者の目は、机上に置かれたものを捉えると、みるみる見開かれていった。そこには、コルクで密閉された一本の瓶があった。その中身が問題だった。瓶の半分くらい、正体不明の白い粉で満たされていたのだ。
若者が取り上げて驚嘆するが早いか、椅子にゆったりと腰掛けていた博士が勢いよく立ち上がって、目にも止まらぬ速さで瓶を奪った。
博士は瓶を指で撫で付けていたが、暫しの沈黙にはっとして振り返った。幸い、若者はまだそこにいて、立ち尽くしたまま博士を見開いた瞳で見つめている。こいつが帰って、あらぬ騒ぎになる前に弁解をしなければならないだろう。博士は溜息をつきつつ、口を開いた。
「遺骨だよ。家内のな」
今度は若者がその口を閉した。ぶっきらぼうな言葉を所々で詰まらせつつ、博士は続けた。
「宇宙に行きたがってた。俺はいつでも連れて行ってやれた。でも体が弱かった。誰でも行けるようになる頃にゃ大病をしちまって、そのままだ。せめて骨だけでもって矢先に、宇宙飛行禁止令だよ」
怒りか悲しみか、博士は手を震わせながら瓶を静かに元の場所に戻す。白衣の背中が、いつになく小さく縮こまって見えた。
「言っとくけどな、失敗するのは俺のロケットの問題だけじゃあねぇ。大気圏到達距離で、必ず何かにぶつかって落ちる。ここに何かあるんじゃねぇかって思ってる」
若者は指先のモニターを見た。だがいくら目を凝らしても、穏やかな青空が広がっているのみだ。
「何もありませんよ」
「普通は見えねぇ何かだよ。ったく、開発の絶頂期に禁止令とか出しやがって」
博士のヒートアップしていく怒号に、若者はそそくさと部屋をあとにした。
それからいつしか日が傾き、月が出て、夜が更け、朝日が昇る。これが十回ほど続いたのちには、博士の次発の準備は整っていた。あいつが好きだったワインの瓶から白い粉をひと匙、小瓶に移しかえる。腕一本分ほどの小型ロケット「イカルス39号」は、今日も特別な乗客をひとり載せて、発射台に取り付けられるのだった。

曲がった腰で、博士は滑車のついた台をよろよろと外に出した。ロケット発射をもっと間近で観察するために、暇つぶしで造った管制機だ。山頂に近い発射台の傍から、博士は大海原を眺めた。イカルスたちの残骸が無数に浮かんでいるのは、博士のしょぼくれ果てた目では見えなかった。海沿いの住人と海上保安官たちの文句も、もうすっかり遠くに聞こえる。それでも役所の者が来なくなったのは、若者の計らいであろうか。博士にはわからなかった。そんな若者が来たことも、頭からすっかり抜け落ちてしまったのだった。
「ごめんなぁ……。俺もすぐ、そっちに行くからなぁ……」
ワインの瓶は、すっかり底をついてしまった。雲の隙間から、朝日が水平線を縫って差し込んでくる。博士は時計の秒針を確認しつつ、震えの止まらない指先でボタンを押した。轟音が耳を劈いて、熱風が枯れた博士の五臓六腑に直接染み渡ってくる。祝杯をあげるように、瓶を持つ手を朝日に透かした。
そのとき。少し視界を取り戻した博士の目は、奇妙なものを捉えた。柔らかい光は、二度も屈折して瓶越しの博士に届いた。瓶を顔からずらすと、今度は一度だけ屈折する。いや、直射じゃなく、なぜ屈折する?隔てるものは何も無いはずだ。
いや、隔てるものがあったのだ。指から瓶が滑り落ちた。太陽光は屈折して届き、博士の影をおかしな位置に作っている。空に何かがある、と仮説したのは紛れもなく博士自身だったが、それが何なのか探ろうともせず、ずっと部屋に篭っていた。あいつの、俺の夢を叶えるために、ただ実直に、イカルスを何度も打ち上げては落っことしていたのだった。
博士は最早立ち尽くすほかなかった。呆けているところに、ぱりん、と乾いた音がした。瓶はとっくに割れている。何の音だろう。見上げると、博士は眉を顰めた。青白くなり始めた空に、亀裂が走って見えたのだ。ちょうど、大気圏あたりの高さだった。いつのまにか、ロケットが消えているのにも気がついた。博士は慌てて、側にあった小型望遠鏡を覗き込む。
亀裂に照準を合わせると、何か雨粒よりも大きいものがぱらぱらと溢れている。その遥か先に、橙色が小さく燃えているのがわかった。博士は叫声を上げた。それは、見まごうことなくイカルスの炎だった。炎はそのまま、規則正しい速さで望遠鏡越しの視界から小さくなっていく。
博士の腰は伸び、かつてのスピードを取り戻した体でその場を駆け巡った。見たこともない材質のガラスのような欠片が降り注ぎ、博士の石灰色の肌に細かく突き刺さっていくのにも厭わなかった。博士は若さを久方ぶりに取り戻して、ひとりで何人分もの宇宙開発者の成功を祝うように叫び、泣き、踊り狂った。
「あはははは!やったぞ、ーー」
しかし、博士が天に向かって妻の名を呼ぶが早いか、その熱を全身に感じるのが早いか、博士の身体は一瞬にして見えない熱波に焼き尽くされてしまった。天へと突き上げられた拳から溶けて、見事に骨だけが残る。やがて一番大きなガラス片が骸にぶつかって砕け散ると、一迅の風が白い塵芥を巻き上げて、空に開いた穴へと突き抜けていった。

短編いろいろ

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自由に?書いてきた短編をつめていく。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-15

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