代筆屋さん

代筆屋さん

1.街の青年

 人里から離れた深い森の奥。山道をのぼり、くだり、再びのぼり、歩き疲れて見上げた木の麓に溢れ出るちいさな沢の畔に、その代筆屋はひとりで暮らしていました。渓谷の狭間をなぞるように走る道は鬱蒼としていて昼でもなお暗く、ときおり梟が鳴きました。夜になれば虫の音も混ざりますが、梟と虫の他には、苔むした水源から雫の滴り落ちる音が延々と木霊するだけで、あとは何も聞こえません。
 洞穴(ほらあな)の奥の、陽の光も風もほとんど届かない暗くて静かな一角に、小さなテーブルと、古びたランプと、ささやかな羽ペンと、乾きかかったインク壺がありました。建て付けの悪い腰掛けはまるで平衡感覚を失っていましたが、その腰掛けに座って外の明かりをぼうっと眺めている者こそが、この洞穴の主であり、森に住む変わり者であるところの代筆屋なのでした。
 代筆屋はたいそう偏屈で、捻くれ者で、そのうえ寂しがり屋でしたが、とびきり上手な字を書きました。そしてどういう訳か代筆屋の書く文字は、手紙を送られた者が元より文字を読めなかったのだとしても、その意味を捉えることが出来るのです。



 春、芽吹き始めて淡く光る緑色の木々の間を、代筆屋を頼りにやって来る者が居ます。森の入り口から山道をのぼり、くだり、再びのぼり、だんだんと暗さを増す険しい道を、土を踏む音をさせながら歩いてきます。次第に深くなっていく森を分け入った人影は、ちいさな沢の畔で足を止めました。どうやらここか。独り言ちてから洞穴を覗き込むと、奥に揺らめく灯りが見えました。

「代筆屋さん、こんにちは」

 返事はありません。それでもランプの灯りが消えずにいるので、おそらく聞いているのだろうと思い、言葉を続けます。

「手紙を書いて欲しいのです。僕の元を離れていこうとする恋人を、引き留める手紙を」

 洞穴からはやはり何の返事もありませんでしたが、街の人からそういうものだと聞いていましたので、青年はさらに口を開きました。

「彼女は奉公先の街の、花売りの娘です。僕は花の名前や種類について詳しくないけれど、それでも彼女がどんな花よりも美しくて、凛々しくて、笑った顔はどんな花よりも可愛いことはわかります。くたくたになるまで働いて、安アパートの使い古したベッドに横たわる時、彼女の笑った顔を思い出します。そうすると不思議と疲れが軽くなって、また立ち上がれるようになるのです。彼女が僕の傍で笑ってくれるなら、僕はどんなに過酷な状況でも耐えられる、そう思うのです。
 先月、実家で兄が倒れました。僕は兄の代わりに家業を継がなければならなくなりました。街を離れることになります。この街を離れてしまったら、彼女とは、もう、会えなくなるでしょう。それでも僕は、彼女を失いたくありません。どうか、彼女が私に着いてきてくれるように、手紙を書いて欲しいのです」

 森の静かな空気の中に青年の声の余韻が吸い込まれていきます。さわさわ、ざわざわと木々が風に揺れて、それから、それまで何の音もしなかった洞穴に、ぴちょん、とわずかな音がしました。続いて何かを広げる音が、ややあって、ペンを走らせる音が響きます。
 やれやれ、どうやら書いてくれるらしい。青年はほっとした心持ちで近くの岩の上に腰を下ろしました。水気を含んだ苔がズボンの尻を湿らせましたが、そのくらいなら耐えられそうです。
 朝靄(あさもや)が消えて、太陽が燦燦と大地を照らし、その太陽が西の地平に沈み始めたころ、洞窟の入口に一枚の封書がひらりと舞い落ちました。代筆屋の手から離れたものです。
 青年は駆け寄ると、ありがたそうに封書を握りしめて、代わりに一握りの豆をそっと置きました。乾燥した茶色い豆は代筆屋の好物であると伝えられていたのです。
 礼を告げた青年は、元来た道を帰って行きました。あとには梟の鳴く声と、虫の声、水源からの水音だけが響いていました。


***


“花売り娘さま

 あなたから受け取った花はすべて枯れました。もう、あなたの手から新しい花を受け取ることもないでしょう。あなたはとても美しい娘でした。今後、あなたほどの美しい娘に私が出逢うことはないでしょう。

 私は故郷に帰り、あなたとは違う道を歩きます。あなたはあなたの道を、輝かしい笑顔で歩き始めます。そこには私の影など存在しません。幸せだった私たちの記憶が、きっと二人の背中を後押ししてくれる。私たちの歩く道は、この先で交わることもないでしょう。

 さようなら。
 どうぞ私のことは早く忘れてください。

 かつて、あなたの恋人だった者より“



2.貴族の娘

 晴れて温かな陽射しが降り注ぐある朝のことでした。森の入り口に一台の馬車が停まりました。その馬車は豪奢な装飾を贅沢にあしらったもので、馬車を引く馬たちの立て髪は絹のように滑らかになびき、蹄の音も小気味良く、いずれも気立ての良さそうな穏やかな表情をしていました。
 蔓薔薇と小鳥の意匠が施された美しい扉が開いて、姿を現した女性もまた、華奢なレースと今にも馨しい芳香が漂いそうな花々の飾りで覆われて、おおよそ暗い森には似つかわしくない姿をしておりました。しかし、桃色に染まった頬と浅瀬の海の色をした瞳には、揺るぎのない決心が見てとれたのです。
 娘は、鬱蒼と積み重なる森を見上げました。覚悟を決めたようにひとつ頷くと、森の小道へと足を踏み入れます。普段、邸宅の庭で歌声を聴かせてくれる小鳥の声も、甘く優しく頬をなでる風も、ここでは見当たりません。あっという間にエナメルのつま先は土に染まり、呼吸は乱れ、黄金色の髪が汗で額に貼り付きますが、足を止める気配はありません。
 山道をのぼり、くだり、何度か転びそうになりながらまたのぼり、服に付いた汚れを振り払ったその目線の先に、ちいさな沢が見えました。聞いていた通りだわ。娘は誰にともなく呟くと、その向かいに口を開けている洞穴を覗き込みました。

「ごめんください」

 応える者はありません。ですが、洞穴の中でランプの焔が揺らめいているのが見えました。

「代筆屋さんに、お願いがあって参りました」

 誰も聞いていなければそれまで。とにかく此処へ辿り着いたのだからと、娘は街で聞いた通りに、胸の内を吐露し始めました。

「さるお方にお手紙を書いて欲しいのです。その方はとても心の優しい方ですが、その、お家が、あまり余裕のない暮らしぶりをなさっているため、残念ながら字を読むことができません。ですが、代筆屋さんのお書きになるお手紙は、文字の読めない者でも感じとる事ができると聞きました。
 わたくしは、とある貴族家の娘です。遠縁の者との縁談が纏まりつつあるのですが、わたくしには心に決めた相手がいます。そうです、先ほど申し上げた、お手紙の送り先のお方です。
 彼ほど心根の美しい方を知りません。自らも決して裕福ではありませんが、常に他の者を気にかけ、困っている者には迷わず手を差し伸べるのです。あの方と共にある時こそがわたくしの心の平穏であり、あの方のまなざしの中にいる時こそが真実のわたくしなのです。
 次の新月の晩にわたくしの部屋の窓を叩くよう、あの方に伝えてほしいのです。そうしたら、わたくしは全てを捨てて、あの方と共に、どこか遠い地で暮らす決心を致しましょう」

 娘が語り終えると、きっぱりとした語尾が辺りに漂うようでした。それを掻き消すかのように風が吹いて周りの木々を揺らし、更には娘の髪をかき回します。じっとりとした空気が滴るように、沢の水源とは違う何かが、ポタリ、と音を立てました。音は洞穴の中から聞こえたようです。続いて何かを広げる音が、追いかけるように羽ペンを走らせる音が響き始めました。
 ほっとした娘はどこかに腰掛けようと辺りを見渡しましたが、服を汚さずに座れそうな処は見当たりません。仕方なく、立ったままで過ごすことにします。つま先を見ると、山道で付いた泥が乾きかけているのが見えました。ポケットから柔らかな布を取り出して、慈しむように拭きました。


 娘の髪の色にも似た黄金色の陽が傾き始めるころ、洞穴の入り口に一枚の封書が舞いました。代筆屋の手から離れた手紙です。
 娘はゆっくり歩み寄ると、屈んで拾い上げました。感触を確かめるように封筒の裏表を眺め、それから、満足した表情で小柄な鞄から布に包んだ焦茶色の豆を出します。布ごと洞穴の入り口に置いてから、ちょっと考えて、他の包みも置きました。中には小麦と卵で作られた甘味が少しばかり入っています。
 ふわりと柔らかく微笑んで、娘は元来た道を戻り始めました。あとには梟の鳴き声だけが、空白を埋めるように広がりました。


***


“愛しいあなたへ

 あなたを愛していたのは本当のことです。けれど、わたくしの命は領土内の民のもの。領主の娘としてのわたくしは、いついかなる時にでも、民のことを考えていなければならないのです。わかるでしょう?
 あなたの前に立つ時、わたくしの心は満たされていました。あなたには感謝しかありません。あなたが幸せに包まれるよう、祈っています。

 わたくしには民への責任があります。
 わたくしには父や母への恩があります。
 わたくしには未来があります。
 そのどれもが、欠けてはいけないものです。
 すべては初めから決まっているのです。

 暖かな羽布団に包まれて、軽やかな衣類を身に纏い、華やかなパーティーで夜風を浴び、カフェとショコラで気を鎮める。そんな夜をいくつも過ごし、子を産み育て、羽毛のような愛で包み込む。それのどこが可笑しいのでしょうか。
 わたくしの暮らしは民への愛に他なりません。花が咲くように、花が散るように、そのように過ごしてきたのです。

 どうか、あなたが愛に包まれてこれからを過ごしていかれますよう、祈ります。“



3.とある老婆

 ある晩のこと。山道を老婆が歩いていました。杖を手にしてはいますが、その目は(めし)いているためか、何度も転びながら山道を歩いてきたようです。疲れ果てた老婆の耳が水の滴る音を捉えた時、老婆は立ち止まりました。きっとここに違いない。そう思うと「ねぇ」と口を開きます。その声は掠れていましたので、梟の鳴き声に少しだけ似ていました。

「見ての通り、私は目が見えないんだ。どうか答えてほしい。ここは、代筆屋の居る場所なのかい?」

 洞穴の中で本を読んでいた代筆屋は驚きましたが、事情を察すると、ゆっくりと本を伏せて、洞穴の入口まで足を運びます。老婆はその気配を読み取ったのか、ほんの少しだけ口元を緩めました。

「そうかい。ここで合ってるってことでいいんだね。それじゃあ、どうか私の話を聞いて、手紙を書いちゃくれないか」

 老婆は街で聞いた通りに、その場で静かに語り始めました。

「私の目が見えなくなったのは、ちょうど成人を迎えたころだった。驚いたし、嘆いた。両親も兄妹も、貧しいながらもそれなりに手を尽くして、私の目をもう一度見えるようにしようと駆けずり回ってくれた。指折りの名医の元や、高名な学者にも会わせてくれたものさ。その結果はご覧の通り、この年になるまで回復もせず、くたびれ果てた両親は早くに亡くなり、兄妹も年齢よりだいぶ年老いて見えるのだと聞く。
 私は、私の目を奪った何かを憎んでいる。私の両親と兄妹の時間を、見えたはずの景色を奪った何かを、許すことができない。光の溢れる世界を見ている者が羨ましい。妬ましい。なぜ私だけが光を奪われなくてはいけないのか。なぜ、私が。
 私はもう、嫉妬と欲に雁字搦めになったんだ。光がなくとも感じられたはずの、風も、温度も湿度も、何もかもが煩わしい。こんな世界を愛することができない。だから決めたんだよ、もうこの世を去ろうって。何もかも終わりにしたいんだ。
 今まで世話になった。さよなら。終わりだ、終わり」

 ひとしきり語った老婆はその場にぺたりと座り込んで動かなくなりました。代筆屋は少しだけ慌てましたが、どうやら老婆は座り込んだだけのようです。
 代筆屋は、残してあった飲み物と、以前に貴族の娘が置いていった菓子を出してきました。飲み物はすっかり冷め切っていましたし、菓子は湿気っていましたが、老婆の手元に置くとそれなりのものに見えました。老婆は恐る恐る手探りで菓子と飲み物を手繰り寄せると、少しずつ口に含みました。ゆっくりと咀嚼して、つかえないように飲み込んで、甘い香りのする息をつきました。

「本当にこんな世界、滅びてしまえばいい」

 呟きが足されると、洞穴のインク壺から、ぴちょん、と音がしました。見れば、インクがなみなみと注がれています。
 老婆の言葉は透明なインクになりました。代筆屋は洞穴に戻り、ガタついた椅子に腰掛けると、テーブルに便箋を広げて羽ペンを持ちました。それから、文字を記す微かな音だけが、静かな森に満ちていきました。
 東の空がほの白く光り始めたころ、代筆屋は老婆の手元に一通の封書を置きました。老婆はうとうとと眠っておりましたが、すぐに目を覚ますと、代筆屋が居るであろう方向に顔を向けて「世話になったね」と言いました。服のポケットから豆の入った袋を取り出すと、それを代筆屋へ渡しました。老婆は杖をつきながらも確かな足取りで帰路につきました。
 袋は美しく編まれた華奢なレースで作られており、代筆屋の手の中で、控えめな朝の光を浴びてきらきらと輝くようでした。

 それから程なくして老婆がこの世を去ったあと、老婆の部屋の大切なものを保管しておく引き出しから、その封書が見つかりました。老婆は盲目でしたから封書など残せるはずはありませんでしたが、誰かが「そういえば森の代筆屋のことを聞かれた覚えがある」と言い出したため、老婆にゆかりのある者たちが皆で開封することにしたのです。
 封を開くと、不思議なことが起こりました。広げられた便箋は白紙でしたが、皆の頭の中に、生前の老婆の声で、言葉があふれてきたのです。


***

“親愛なる皆様

 どうか、もう私のことを気にかけるのはやめてください。
 盲いた私のために差し伸べてくれた手のぬくもりを、かけてくれた言葉の温かさを、私は忘れません。
 たとえこの目に映すことが出来なくても、世界は美しく、喜びにあふれていました。視力を失ったのがあなたではなく、私でよかった。みじめな思いをしたのが、私で良かった。
 本当に感謝しています。

 ありがとう、そして、さようなら。“


4.ほんとうのところ

 青年は、街に戻る道すがら、郵便配達夫に手紙を託しました。それから思い切って部屋の荷物をまとめると、ひと思いに両親と兄の待つ家へと帰郷しました。すべては手紙に託してある。大丈夫、きっと届く。
 実家に戻り、両親から思いのほか歓待を受け、兄から頭を下げられると、青年の中に巣食っていた憂鬱や煩わしさといった気持ちが軽くなるのを感じました。自分は期待されている。それに応える時がきたのだ。実際のところ、奉公へやらされた時には疎外感を覚えていたのですが、どうにかこうにか目を逸らしながらやり過ごしていたのです。花売りの娘は、そんな青年にとっての希望であり、逃避先でもありました。
 あぁ、今ごろ花売りの娘はどうしているだろうか。自分の元へ来る準備を整えているのではないか。いや、そんな事はないだろう。花売り娘とて住み慣れた地を離れてまで自分について来る程の情熱を持ち合わせてはいるまい。
 不思議と募る焦燥にも似た感情に動かされるように、青年は両親の薦めた相手との結婚を決めました。


***


 貴族家の娘は、屋敷へ戻ると着ていた服を洗濯婦に預け、ゆっくりと湯舟に浸かりました。春先の森とは言え夕暮れ近くまで歩いていたことで、身体が芯まで冷えきってしまったのです。
 手紙は馭者に託しました。馭者は信頼のおける者ですが、念には念を入れて幾ばくかの小銭を渡してありました。きっとあの方は迎えに来てくださる。娘は、愛しい男が月のない夕闇に紛れて部屋の窓を叩くところを想像し、窓から顔を出した娘の姿に安堵して溜息を漏らすところ、それから、優しく微笑む男と手に手を取って夜半の街を駆け抜けるところを想像しました。なんて素敵だろう。きっとあの方もそれを望んでくれる。ふくふくと肌触りの良い薔薇の香りの泡に顔をうずめながら、温かな湯の中でうっとりと目を閉じました。
 それからしばらくの間、娘は《《ほうける》》ことが多くなりました。娘の両親は、元より夢見がちな娘のことを特に心配せず見守り、縁談は滞りなく準備が行われていきます。娘は夜になると月を見上げました。新月までを指折り数えて過ごし、晩になると枕元に華奢な靴を置いて眠りました。
 待ち望んだ新月の夜、娘の部屋の窓を叩く者は現れませんでした。翌朝は泣き腫らした顔で過ごしていた娘も、月日が経つにつれてそのような顔を見せなくなりました。娘のために誂えた花嫁衣装や装飾品、特別な日の宴のメニュー、新しく移り住む邸宅の庭木、贅を尽くした家具や調度品などを選ぶことに時間を割かれていたのです。
 それでも次の新月の晩には夜空を見上げておりましたが、更に次の新月がやってくる数日前に、娘はとうとうカーテンを閉じました。縁談の相手が思いのほか素敵だったこともありますが、もう引き返せない所まで来たのだと気が付いたからです。


***


 こじんまりと整えられた狭い部屋は、老婆が生前に編んでいた美しいレースがそこかしこにありました。窓からの光を弾いて輝く繊細なレース編みは、まるで、老婆がこれまでに積み重ねてきた優しい言葉の輪郭で編み上げたもののようでした。
 老婆の部屋はきっちりと片付いており、数日分の衣類と、数枚のタオルと、最低限の食器とわずかな食料があるばかりで、どうやら不要なものは処分されたあとのようでした。自らがこの世を去るタイミングを見計らったかのようで、周りの者たちは口々に老婆との別れを惜しみながらも、老婆のささやかな気遣いを賞賛しました。
 美しいレース編みは、縁のある者たちがそれぞれ持ち帰り、思い思いに飾りました。ある者は玄関棚の花瓶敷きとして、またある者は小柄な額に入れてリビングの壁に。そうしていると、皆に愛された優しい老婆が微笑んでいるようで、どこか暖かな気持ちになるのでした。



5.代筆屋さん

 ほんとうのところ代筆屋は、けっして代筆屋などではなかったのです。代筆屋が手紙にできるのは依頼主本人の本当の気持ちだけ。依頼主から溢れてくる言葉以外の言葉が雫となってインク壺に滴り落ち、それを吸わせた羽ペンから出る文字こそが手紙となるのでした。青年の言葉からは淡い紅色のインクが、貴族の娘の言葉からは濃い群青に細かく煌めく金粉の入ったインクが、それぞれインク壺に満ちました。代筆屋は、そのインクを使って羽ペンの赴くままに、筆を動かしただけだったのです。
 代筆屋はなぜ自分が代筆屋をしているのか、よくわからないところがありました。わかるのは、洞穴が自分の体にしっくりくる事や、ガタつく椅子にすんなり腰掛けられる事、それから、羽ペンが自分の手にしっくりと馴染んでいる事くらいです。
 一度だけ、自分のための手紙を書いたことがあります。数少ない意識の中から思うことを、思いつくまま口に出してみました。ほとんど数滴のインクしか現れず、書いた文字はほんの数文字で、おまけに書いた代筆屋本人には何が書かれているのかわからなかったのです。諦めて封をすると、それは二度と開くことが出来なくなりました。
 ただ、インクの色が森を煮詰めたような深い緑色をしていたことだけを、ぼんやりと覚えているのです。

 しんしんと月の輝くころ、代筆屋は洞穴から顔を覗かせます。依頼主が置いて行った豆を手にすると、洞穴の隅にある小さな戸棚から、古びたミルを取り出しました。

 カリコリカリコリ。

 ちいさなちいさな音が、しんと静まり返った森の中に響きます。沢まで出てポットに水を汲み、古めかしい電熱器で湯を沸かします。
 やがて芳しい香りが洞穴から漂うと、ほうほう、と梟が鳴きました。りりり、りり、と虫の音が追いかけます。代筆屋はひびの入ったカップから飲み物をすすり、湯気の中に溜息を溶け込ませました。

代筆屋さん

代筆屋さん

深い森の奥で、不思議なインクで書かれる手紙のお話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-08

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