雨の日

雨の日

雨の日

 犬。犬。犬男。犬。犬。犬男。
 機嫌良く歌を歌っているのは今年で七歳になる姪だ。最近覚えた曲の替え歌らしい。絵を描くのが好きで、今もクレヨンを握り込んで夢中で画用紙に向かっている。
「何描いてるの?」気になって覗き込んでみると画用紙には、頭部は犬。それより下は人間という奇妙な生き物が描かれている。頭に対して胴体が妙に長く不恰好だ。
「犬男だよ。身長二メートル」俯いたまま口角を上げて答える。
「ふーん。さわちゃんが考えたの」
「わたしは考えてない。犬男は普通に犬男だから。本当は犬だけど、言葉を話すために人の形になった」真剣な表情で手を動かしながら淡々と教えてくれる。「犬なんだけど、人に言いたいことがあるの」
「そっか。でも頭が犬だからワンしか言えないかもよ」
「うんとね。それはまあね。とおるくんは今日大丈夫なの」いつのまにか話が変わっている。
「うん。今日はそろそろ」
 窓の外に目を向けると雨に包まれているのが分かる。六月に入ってから蒸し暑い日が続いている。行かなければいけない。そろそろ。

 *

 階段をのぼりきって地下鉄から地上に出る。傘をさした多くの人が行き交っている。背負ったリュックの中のAのノートが濡れないように気を遣いながら人の波に入っていく。
 ほとんどは駅から近いキャンパスに向かう学生たちだが、その中にひとり、スーツ姿のサラリーマンらしき男が向こう側からこちらに向かって近づいてくる。手にしている傘は骨が折れてしまっており、身を屈めて雨を凌いでいる。そのせいで顔はよく見えない。すれ違う時、かすかに聴きとることができるくらいの声でしきりに何かを呟いているのが分かった。
「言わんこっちゃない。言わんこっちゃない」繰り返している。すれ違ってから、振り返ったがすでに角を曲がっていったようで男の姿は見えなかった。

 午後からの教室にはすでに友人たちが集まっており、授業が始まるまでの時間を過ごしていた。夏にはまだ早すぎる季節だがエアコンが効きすぎている。中には眠っている学生もいるようでかすかな寝息があたりに響いている。声をかけながら近づいて行ったがAの姿がないことに気がついた。
「Aはまだ来てないのか」誰に対してというのでもないがそう言うと
「知らないな。家で寝てるんじゃないか」と友人のうちのひとりの答えが返ってくる。
 それは意外なことのように感じられた。とりあえずグループの近くの空いている席につきながら今朝のAとのLINEを確認したが、いつも通りに返信が来ていて異常なことは何もなかった。たしかに今日この授業でAに借りていたノートを返すことになっていた。そうこう考えているうちに横開きの扉を開けて教授が教室に入ってきたので、ざわめきが収まっていく。事情があって少し着くのが遅れているのだろうとすぐに思い直して、一旦このことは忘れることにした。
 結局授業が終わってもAが姿を現すことはなかった。
 一応LINEを入れておいて様子を見たが、反応はなさそうで、Aの家までノートを持っていくことにした。レポートの提出日が迫っていて、翌日から土日を挟むので、今日中にノートを返すことができなければ何かと困るかもしれない。Aが住んでいるアパートは大学から遠くなく、歩いても二十分くらいの距離だ。雨が降っているしバスにしようかなと考えながら、昼過ぎからのアルバイトには少し遅れそうなことをメールしておいた。店長の吉本さんからは相変わらず間もなく返事が返ってくる。
(了解! 篠崎に伝えておくねー)吉本さんのメールは軽い。

 *

 気の無い音を立ててバスが到着した。何人かの乗降客が目の前を通り過ぎていく。雨足が強くなってきているので狼狽えて駆けていく人もあれば、用意しておいて傘を掲げて早足にその場を去っていく人もいる。時間のことを思うとあたりは随分と暗い。
 一番後ろから二番目の椅子の窓際に腰を下ろす。靴が湿っている。車内アナウンスが響いて発進する。二駅くらいだからと窓の外を眺めて過ごすことにした。少し経つと通路を挟んで隣の椅子に座っていた老人が立ち上がって歌い始めた。ぎょっとしてそちらに目を向けると、腕を振りながら、目は天井を見つめている。車内アナウンスが老人に静かにするように呼びかける。
 そばで呆気に取られていると、ふいに前の方の席から若い男がこちらに向かってきて、老人の腕をつかんでぐっと押さえた。静かにしていてください。みなさん困っています。若い男は次の停車駅で老人を抱えるようにして降りていった。車内には静かさと、少しの気まずさが残った。バスは何事もなかったかのように、次の停車駅のアナウンスを告げて発進した。

 Aのアパートの前に人の影が見えてくる。さらに近づくとそれは大柄な人間で、スーツ姿。そして蛙の頭が乗っかっている。二メートルはあろうかという背丈だ。僕は昔自分が飼っていた蛙のことを思い出した。もしかしたら、この蛙の頭をした人はあの蛙かもしれないなと思った。
「今日はAはいないんだ」蛙が口を開いた。滲み入るような低い声だった。「悪いけど、今日のところは帰ってくれないか」聞いていると、何故かそれが当たり前のことであるかのように思えてくる。
「分かりました」気がつくと僕は答えていた。

 帰宅すると、壁に吊るしてあるカレンダーに目が止まり、六月十日に大きな丸印をつけた。そしてその隣に記した。
「ノート返却のこと」
 

雨の日

雨の日

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-04

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