雨上がりのシアニン

雨上がりのシアニン

 鏡守町一丁目の長い坂を上った先に、大きな古いお屋敷がある。もう誰も住んでおらず、子どもが寄り付くためか、壊れた門は立ち入り禁止の札の付いた黄色いテープで塞がれていた。そのためか、小学生の間では嘘か本当か、奇妙な噂がいくつも立っていた。
 ある雨の日の下校中に、ぼくは少し先の曲がり角を曲がっていく、よく見知った後ろ姿を見た。ぼくは思わず雨が当たるのも忘れて追いかけた。けれども、角を曲がった先には誰もいなかった。確かにぼくはその姿を見たはずだった。あの時と変わらない、肩まで伸びた長い髪に、茶色い鞄と、水色の傘。ぼくは、しとしとと雨の降り続ける中、立ち尽くして目の前に続く坂道を眺めていた。不思議にも、あのお屋敷へと向かう坂道だった。

 彼女の名前は(もり)姫子(ひめこ)といった。教えて貰ったわけではない、彼女の鞄に付けられたネームプレートをぼくが勝手に盗み見たのだ。当時、彼女はふたつ上の六年生で、同じ学校のようだったけれど一度も顔を見たことがなかった。彼女と初めて会ったのも、ちょうどこの日と同じような雨で、あのお屋敷の前に、茶色い鞄を背負って、水色の傘を差して立っているところにばったりと出くわしたのだった。
「知ってる? このお屋敷にはお化けが住んでるんだって」
 最初にそう教えてくれたのは、他ならぬ彼女だった。雨の中、一人でじっと突っ立っている彼女の方がよっぽどお化けみたいだとぼくは思った。
 きっと、こういうのを一目惚れというのだと思う。あの時の彼女の姿を、ぼくは今でも鮮やかに覚えている。薄ぼやけた景色の中で、彼女だけがはっきりと、一人だけ、その空間に浮かび上がっているように見えた。
 ぼくは雨が降ると必ず放課後にお屋敷に行った。そうすると、必ず彼女はそこにいた。彼女はいつもお屋敷の前でじっと入り口を見つめていて、ぼくはそんな姿を見るとどきどきして、心踊るような思いになった。ぼくが行くと、彼女はよく「あなたもお化けに会いに来たの?」と言い、ぼくは「まあね」と返したりした。
 彼女とはいろいろな話をした。習っているピアノの先生が気にいらないとか、学校はつまらないからよく仮病を使ってずる休みをするとか。彼女はとても色白だったので、きっと大人はみんなその仮病に騙されたのだと思う。彼女はぼくに名前を訊くこともなかったし、ぼくも知っていたけれど彼女の名前を呼ぶことはなかった。
 その内に彼女は、ぱったりとぼくの前に姿を現さなくなった。ぼくはそれでもお屋敷の前で彼女を待ち続けた。最後に彼女と会ったのは、一度きりだった。それは、ぼくにとってとても不思議な出来事だった。
 長く続いた雨の日だった。ぼくがお屋敷に行くと、彼女はぼうっと門の前に立っていた。ぼくは思わず駆け寄って話しかけた。すると、彼女は今までずっと会えなかったことなど、まるでなかったかのような平然とした顔でこちらを見た。
「あなたも来たの」
 彼女はそう言って、何でもなさそうに視線を前に戻した。彼女の視線の先にはお屋敷の入り口があって、その日だけはいつも締め切っていたお屋敷の扉が少しだけ開いていた。ぼくはそれを見て、何故だかとてもいやな(・・・・・・)感じがしたことだけはよく覚えている。
「ねぇ、あなたはどこか別の場所へ行きたいと思ったことはある? ここから離れて、どこか遠くに」
 彼女はぼくのことを見もしないで言った。ぼくは、不安になりながら答えた。
「ぼくはないよ。だって、お父さんもお母さんもいるし、この町が好きだから」
「そう……、わたしはあるわ。だって、この世の中はつまらないことばかりだもの」
 そうして、彼女がもう一度こちらを見た。ぼくは、その瞳がまるで海の底のように深く沈んでいくような気がして、怖くなった。
「あなたも一緒に行く? この先には、きっと私たちが見たこともない世界が広がっているわ」
 彼女が手を差し出す。ぼくは思わずその手を取ろうとして、ぱっと引っ込めた。決して、そこに行ってはいけないような気がした。
「ぼくはいいよ」
 はじめて彼女の誘いを断った。彼女は「そう」と言って、再びお屋敷のほうへ向いた。ぼくは彼女を引き止めるべきだっただろうか。けれども、そうすることもできなかった。じっとお屋敷を見つめる彼女を見て、彼女がどこか遠くへ行ってしまうような悲しさだけがあった。
 その日以来、彼女と会うことはなかった。後に六年の担任の先生に聞いたところでは、しばらく病気で入院したあと、転校したらしかった。

 当時の彼女と同じ学年になって、いろいろなことを考えるようになったけれど、まだぼくの頭の中には彼女の姿が貼り付いたように残っていた。最後のあの日、彼女は何を言いたかったのか、そもそも彼女はなぜいつもあのお屋敷の前にいたのか、ぼくは彼女のことで知らないことばかりだった。
 下校中に彼女の後ろ姿を見てから、ぼくの中の気がかりな気持ちはどんどん膨らんでいき、ついにもう一度あのお屋敷に行くことに決めた。それは、相も変わらず五月のいやな雨がしとしとと降る日だった。お屋敷の手前まで来ると、以前は門を塞いでいた黄色いテープと立ち入り禁止の札がなくなっていることに気が付いた。
 いつの間になくなったのか、と僕がぼんやりと考えていたときだった。門の内側から飛び出してくる影を見つけた。それは勢いよくぼくの方へと向かってきたので、ぼくはよける間もなくそれに追突されてしまった。
 わっ、とぼくは叫び声をあげて尻餅をついた。飛び出してきたそれも、同じように地面に倒れたようだった。
「いたた……」
 ぼくが顔を上げると、目の前にいたのは女の子だった。それは、学校で見たことのある顔だった。確か一つ下の学年だったと思う。
 一緒に地面に座り込んだその子は、呆然とした表情で固まっていて、何を考えているのか分からない、ぱちくりした目がじっと僕の顔を見つめていた。小柄で、顔も幼くて学年よりももっと年下に見えた。
「あ、あの」
 ぼくが何か言おうとしたら、再び門の奥から、誰かが声を上げながら飛び出してきた。
「もう! 外に出ちゃだめって言ったのに……あっ!」
 その声の方を見て、ぼくは思わず自分の目を疑った。なぜなら、門から出てきたのは、今ぼくの目の前でへたり込んでいる女の子と全く同じ姿をしていたからだ。目の前の子と全く同じ服装で、全く同じ顔と髪型で、その子は門の前に立っていた。
 ぼくがわけも分からず当惑していると、門から出てきた方の子が額に手を当てて「あぁ、やっちゃった……」とため息した。
 混乱した頭でぼくは目の前の子に視線を戻した。すると、そこで見たものに、再びぼくは目を見開くことになった。なぜなら、目の前にいた女の子はいなくなっていて、そこにいたのは小さな白い動物に変わっていたからだ。

「わたしは五年二組の野宮茉莉(のみやまつり)。この子は、シアニンっていうんだって」
 ぼくたちはお屋敷の門を入って横に回ったところにある、少し広く間を取られた中庭に来て、そこにあるすすぼけた花壇の縁に腰かけていた。シアニンっていうんだって、という、まるで目の前で抱かれている白い動物が自分で名乗ったかのような言い方が気になった。
 シアニンと呼ばれたその生き物は、白い短い毛に覆われていて、顔はうさぎのようで、けれども耳は短く、尻尾は生えていなかった。それに、瞳がぞっとするほど深い青で、見つめていると吸い込まれそうな気がして、ぼくはすぐに目をそらした。ぼくはこの生き物が何というか知らなかった。けれども、茉莉と名乗った女の子は、それをシアニンと呼んで何の疑問もないかのように膝の上に乗せていた。何だか、この子も少し変な子なんじゃないだろうかと思った。
「ぼくは六年一組の東藤(とうどう)悠哉(ゆうや)だよ」
「ふうん、悠哉くんっていうんだ」
 最初から名前呼びで言うその子に少し不信感を抱きながら、ぼくはうなずいた。
「その子は一体何なの?」
「シアニンは友達だよ。わたしがここに初めて来たときに出会ったの。ずっと昔からここに住んでるんだって。前はここにも人が住んでいたんだけれど、いなくなっちゃったから寂しいみたい」
 やっぱり変な子だ、とぼくは思った。なるべく早くここから立ち去ろうと決めたとき、茉莉が言った。
「シアニンはね、人の真似が得意なんだよ。どんな人でも真似できるの」
 真似、という言葉が頭をぐるぐると回った。さっき見たのは、決してそんなものではなかったと思う。門から飛び出してぶつかって来たとき、確かにシアニンは茉莉と瓜二つの姿をしていたのだから。真似というよりは、変身だとぼくは思った。
「その子、本当に大丈夫なの? 何か危ないことされたりするんじゃないの?」
 ぼくがそう言ったのは、単純にこの一学年下の、同じ学校に通う子が心配になったからだ。けれども、彼女は少しむっとした顔をして言った。
「危ないことなんてしないよ! シアニンは友達だもの。わたしの話をいつも聞いてくれるし、とっても優しいんだから」
 そんな子のことは放っておけば良かったのだけど、不思議とそうすることもできなかった。それはきっと、シアニンのことと、あの時に見た、森姫子の後ろ姿が気がかりだったからだ。

 翌日も、ぼくは下校中にお屋敷に立ち寄った。思った通り、茉莉はそこにいた。あの中庭の、すすぼけた花壇に腰かけて、シアニンを抱きかかえていた。
「晴れてる日は、シアニンはおしゃべりができないみたい」
 相変わらずおかしなことを言う女の子だった。茉莉は、ぼくが来ると、彼女の方から勝手に色々と喋りはじめた。シアニンといつも喋っていること、学校のこと、友達のこと。ぼくが大して返事もしないのにぺらぺらと喋り続ける彼女を見て、元気な子だな、と思った。
「お姉ちゃんはね、すっごく優しくて、いつもわたしと遊んでくれるの。この髪もね、お姉ちゃんが教えてくれたんだよ」
 茉莉はそう言って、後ろ頭をこちらに向けて髪型を見せてきた。なんという髪型なのか知らないけれど、髪を編みこんで後ろで結ぶ複雑な形をしている。教えてくれた、というけど、きっと彼女が一人で結んでいるわけではないだろう。
 「お姉ちゃん」について話すとき、茉莉は殊更に機嫌が良かった。お姉ちゃんがいかに優しくて、大人っぽくて、素敵な人であるかを茉莉は熱弁した。
「とにかくね、お姉ちゃんはすごいんだよ。わたしも、今は背も小っちゃいし子どもだけど、いつかお姉ちゃんみたいになりたいんだ」
 茉莉は向日葵のように笑いながら言っていた。よほどお姉ちゃんのことが大好きなんだな、とぼくは聞きながら思った。

「じゃあね、シアニン。また来るからね。今度は一緒にお話ししようね」
 茉莉が中庭にぽつんと座っているシアニンに向かって言った。シアニンは何を返すでもなく、こちらを向いたままじっと佇んでいた。この猫ともうさぎともつかない生き物が「お話し」をするなんてぼくには到底思えなかった。茉莉が勝手に言っているだけで、本当は心の中で会話をしているだけなのだろうと思った。
 いくらか話していても分かったけれど、茉莉は明らかにおかしな子だった。立ち入り禁止の札がなくなったとはいえ、こんな古さびたお屋敷の中庭で、シアニンと二人きりでいて、なのにぼくと話すときは底抜けに明るかった。つい先日はじめて会ったばかりのぼくに、まるで友達と話すようにクラスでのことや家族の話をするのもおかしかった。だから、本当ならこんな子とは早いところ離れた方がいいと思った。
 けれど、そんなぼくを引き留めていたのは、そんな彼女とシアニンと出会ったのが、他ならぬこの場所(・・・・)であったからだ。
 ――知ってる? このお屋敷にはお化けが住んでるんだって。
 そう言った森姫子の言葉をぼくは思い出していた。野宮茉莉というおかしな女の子と、シアニンという不思議な生き物とこの場所で出会ったことは、ぼくには何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「それで、あのぅ……」
 気づくと、茉莉がこちらの方を向いて何か言いたげにもじもじしていた。その姿を見て、ああ、とぼくは察した。
「分かったよ。また来るよ」
 そう言うと、彼女の表情は、ぱあっと明るくなった。
「よかった! 友達が一人増えたね、シアニン!」
 茉莉は楽しそうにシアニンに話しかけた。シアニンは相変わらず何もせず、こちらをじっと見つめている。
 まぁ、いいさ、とぼくは思った。きっと、こんなことも今だけのことだろうと、自分にひとりで言い訳をした。

 ぼくは夢を見た。別に初めてのことじゃない。森姫子の夢だ。ぼくがまだ彼女と会えていた頃の夢。ぼくは時々、時計を巻き戻したかのように彼女と会っていた時の夢を見た。一方通行で、切ないばかりだったけれど、幸せだった頃の夢だ。
 ある時、彼女がこんなことを訊いてきた。
「ねえ、あなたは好きな人はいる?」
 ぼくは彼女に対して好意を寄せていることがばれたのかと思い、心臓が飛び出るかのような思いがした。
「い、いないよ」
 ぼくは必死で落ち着いたふりをしながら言った。すると、彼女はぼくの心の内なんかまるで関心がないかのように語り出した。
「そう。私は、初恋の人ならいるわ。家庭教師の先生」
 好きな人の初恋の話なんて聞きたくもなかったけれど、彼女がお屋敷の門を見つめながら淡々と話すのを、なんだか心地よく聞き入ってしまった。
 家庭教師の先生は、背が高くて痩せぎすで、髪が少し茶色がかっていた、声の高い男の先生だった。お母さんはその先生の高くてお調子者っぽい喋り方を嫌っていたみたいだったけれど、森姫子はそんな先生の声が好きだった。先生は、二人きりでのお勉強の時には、自分を「姫子ちゃん」と呼んで優しい声で語りかけてくれたからだ。
 彼女はそんな先生に憧れていたけれど、先生は五年生の時に辞めてしまい、家庭教師は別の人に代わってしまった。新しい先生は真面目な女の先生だけれど、彼女からしたらつまらないだけの先生らしかった。だから、あの先生のことは、彼女にとってはひとときの「初恋」の出来事だった。
「その先生に今でも会いたいの?」
 そう尋ねると、彼女はその日はじめてぼくの方を向いて、色のない表情でぼくをじっと見つめてきた。ぼくは思わずどきっとして目をそらしたけれど、彼女は何事もないかのように前に向き直った。
「分からない。会いたいかもしれないし、別に会いたくもないかもしれない。でも、会えたとしても何も言えることもないから、きっと会っても仕方ないんだわ」
 彼女はそうとだけ言って、それきりその話をやめてしまった。ぼくはそんな彼女の横顔を見ながら、彼女の初恋がまるでぼくのその時の思いと重なるような気がして、胸がぎゅっと苦しくなった。
 彼女と恋の話をしたのはそれきりだ。ぼくも彼女も、好きな人の話をすることは最後までなかった。

 それから、僕は放課後にお屋敷へ行くのが日課になった。僕が行けば、必ずそこに茉莉とシアニンはいた。
 シアニンは、ことあるごとに「人真似」をして見せた。ある時は茉莉に、ある時はぼく、ある時は学校の先生の姿などに変身した。それは不思議な光景だった。シアニンは瞬きでもする間に人の姿に変わり、また、ふとよそ見をした時にはもう元の姿に戻っていた。ぼくは、そんなものを目の当りにしたら、シアニンのことを信じないわけにはいかなかった。でも、目の前で自分とそっくりに変身された時には、なんだか不気味なような、気持ちの悪い思いに襲われた。
 ある時、ぼくがお屋敷の中庭にやって来ると、そこには茉莉と茉莉の姿に変身したシアニンが一緒に何やら話しながら遊んでいた。
「あっ、悠哉くん!」
 茉莉はぼくに気づくと、満面の笑顔で迎えてくれた。茉莉に変身したシアニンと、本物の茉莉の見分け方は簡単だ。茉莉はいつだってころころと表情を変化させるけれど、シアニンはそこまで真似することはできないようだった。茉莉が陽気に笑っている横で、シアニンは何を考えているか分からない無表情で突っ立っていた。ぼくが「まるで性格の違う双子みたいだ」と言うと、茉莉は「双子だよねー!」と言って自分と同じ姿のシアニンに抱きついた。
 そんな風にして三人で話していると、茉莉が不意にそわそわと体を揺らし始めた。ぼくは何となく察して声をかけた。
「もしかして、お手洗い?」
 すると、茉莉は少し照れたような様子で言った。
「う、うん! ちょっとごめんね!」
 茉莉はそのまま小走りで門の方へ駆けて行ってしまった。その場にぼくとシアニンだけが取り残される形となった。考えてみれば、シアニンと二人きりになることなど、これが初めてだった。そう思うと、思わず体が強張ってしまった。
「悠哉くん?」
 そんなぼくの様子を察してか、シアニンがぼくの名前を呼んだ。振り向くと、シアニンは茉莉の姿のまま、口元に大人っぽい小さな笑い――それは茉莉が決してすることのない――を浮かべてこちらを見ていた。それを見て、ぼくの胸が思わずどきっと鳴った。
「きみは、まだぼくのことを疑っているの?」
 シアニンは、茉莉と同じ声で、茉莉とは違うどこか大人びた口調で言った。ぼくはそんな口調と、初めて「ぼく」などと言って語りかけてくるシアニンに驚いた。
「疑う?」
「まだ、ぼくを危ないやつだと思う?」
「別に……、思ってないよ」
 ぼくはどぎまぎとしながら答えた。
「茉莉が楽しいなら、ぼくは何だっていい」
「ふうん」
 シアニンは、目を細めて笑いながら言った。
「悠哉くんは、茉莉が好きなんだね」
 不意にそんなことを言われて、ぼくは顔が一気に熱くなるのを感じた。
「好きだなんて!」
 思わず大きな声で言ったけれど、それを否定しきれずにぼくはうつむいた。シアニンの方から、くすくす笑いながら「ごめんごめん、冗談だよ」と言う声が聞こえた。
 ぼくがどこか気まずい気持ちでいると、どこで用を足して来たのか、茉莉が門の方から戻ってきた。
「あっ、シアニンが笑ってる! 何があったの?」
「何でもないよ!」
 ぼくがまだ顔が熱くなっているのを感じながら言うと、またシアニンの方からくすくすと笑う声が聞こえた。何だかいいように遊ばれている気がする。
 日が暮れると、ぼくと茉莉はシアニンを残してお屋敷を後にした。そんな風にしている内に、ぼくもすっかりシアニンに心を許してしまっていたようだった。
 もしかしたら、そのことがいけなかったのかもしれない。

 あるどしゃぶりの雨の日、ぼくはまさか今日はいまいと思ったけれど、放課後にお屋敷に向かっていた。すると、その途中、少し離れたところ、ちょうどお屋敷に向かう長い坂の手前に茉莉の後ろ姿を見つけた。
「あっ、茉莉――」
 ぼくは思わず言いかけて止まった。なぜだろう、いつもの茉莉と様子が違う気がした。その後ろ姿はいつもの茉莉と変わらない。水色の傘をさして、黄色い長靴を履いていることだけが違っていた。それだけだというのに、何かぼくの中で言い知れない不安がよぎっていた。
 茉莉が坂の方へ曲がっていったので、ぼくは足が濡れるのもかまわず走って追いかけた。曲がり角を曲がって、お屋敷に向かう坂道を見上げると、そこにはもう茉莉はいなかった。
 何かが違う。ぼくの中で不安がどんどん膨らんでいく。
 ぼくは速足で長い坂道を上っていった。お屋敷につくと、門の前に茉莉はいた。ぼくが来たのにも気づかないように、傘をさしたまま突っ立って、お屋敷の方を向いていた。
「茉莉!」
 ぼくが叫ぶと、茉莉はようやくぼくに気づいてこちらを見た。
「悠哉くん」
 茉莉は小さな声でぼくの名前を呼んだ。大雨の音でかき消されるかのような小さな声だった。
「何してるんだよ。さすがにこんな日にシアニンもいないだろ」
 すると、茉莉は同じ小さな声で言った。
「お姉ちゃんがいないの」
「えっ?」
「お姉ちゃんがどこにもいないの」
「お姉さんは茉莉の家にいるんじゃないのか?」
 ぼくが訊くと、茉莉はふるふると首を小さく振った。
「お姉ちゃんは、いつも優しくて、いつもわたしの話を聞いてくれて、わたしの髪を結んでくれるの。なのに、お姉ちゃんがどこにもいないの」
 明らかにいつもと様子が違う。ぼくは茉莉のほうにかけ寄った。
「どうしたんだよ」
「悠哉く――」
 彼女は言いかけて、はっと気づいたようにお屋敷の方を見た。つられてぼくもそちらを向いた。それを見て、ぼくはぞっとした。
 いつも閉まっているお屋敷の扉が開いているのだ。あの扉はいつも鍵が閉まっていたはずだ。その扉が、その時は半分くらい開いていた。中は薄暗くて見えなかったけれど。
「お姉ちゃん」
 茉莉はか細い声で言って、ふらりとそちらに向かって行こうとした。ぼくは思わずその手首を掴んだ。
「やめなよ。危ないよ」
「でも、お姉ちゃんがいるかもしれない。シアニンも……」
「いないよ。そんなところにお姉さんはいない。シアニンもこんな雨なんだから、どこかに隠れてるに決まってる」
 そんなやり取りを数回繰り返した。それでも茉莉はしきりにお屋敷の扉を気にしていたけれど、どうにかお屋敷から離れさせた。
 ぼくは茉莉の手首を掴んだまま速足で坂道を降りた。それで、いつも茉莉と歩く帰り道を進んでいった。
 茉莉とぼくが分かれるところで、ぼくはずっと茉莉の手首を掴んでいたことに気づいて、急に恥ずかしくなって手を離した。
「ごめん。痛かった?」
「大丈夫だよ」
 茉莉の声は少し明るくなっていて、表情もいつもの元気を取り戻しているように見えた。
「送ろうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。悠哉くんも気を付けてね、また遊ぼうね」
 そう言って小さく笑うと、茉莉はきびすを返して自分の帰り道を歩いて行った。
 茉莉、と声をかけそうになって、言いとどまった。その後ろ姿が見えなくなるまで、ぼくはそこに立ち尽くしたままじっとそこを見つめていた。

 茉莉がお屋敷に来なくなったのはその次の日からだった。さらさらと小雨の降る中、ぼくは茉莉を待ち続けたけれども、夕方になるまで茉莉は来なかった。
 その次の日も、その次の週になっても、茉莉は来なかった。さすがにぼくは心配になって、昼休み、彼女の教室まで行くことにした。
 六年生の教室は校舎の三階にあって、五年生の教室は二階のちょうど真下のスペースにある。去年までいた場所だけれど、普段関わることのない一学年下のスペースはまるで知らない場所のように感じて、緊張した。
 五年二組の教室の前に立って、はじめはこっそりと扉の窓から中を覗いてみたけれど、茉莉の姿は見当たらなかった。しばらくしてから、ぼくが考えあぐねていると、中から一人の女子が出てきたので、思い切って話しかけてみることにした。
「ねえ、このクラスに野宮茉莉って子、いるよね?」
「えっ……茉莉ちゃん? 茉莉ちゃんならお休みしてるよ」
 その女子は知らない上級生から話しかけられて、少しびっくりした様子をしながら答えた。
「お休み?」
「うん、先週から急に来なくなって、ずっと」
 何故だか胸騒ぎがした。ぼくはその子にクラス担任の先生の名前を聞くと、一階の職員室に向かった。
 五年二組の担任は松岡先生。茶色がかった髪を後ろで結んでいる女の先生で、ぼくが四年生の頃に算数を教えてくれたので、よく知っていた。
「松岡先生」
 ぼくが職員室の入口から呼びかけると、先生はすぐにこちらを向いて、ぼくのところまでやって来た。
「東藤くん、久しぶりねえ。どうしたの?」
「あの……先生のクラスの野宮茉莉さんについて聞きたくて」
 言うと、先生はぴくりと眉を震わせた気がした。
「野宮さん? 藤堂くん、彼女と知り合いだったの?」
「まあ、少し……。それで、教室に行ってもいなかったので、クラスの子に聞いたら先週からずっと休んでるって」
「そうなのよ。お母様からは風邪だって聞いているけど、随分長引いているみたいね」
 松岡先生は困ったように笑いながら言った。それで、ぼくは言うべきか少し迷いつつ、先生に言った。
「実は、野宮さんが休む前、何か様子がおかしくて。お姉ちゃんがいないとか何とかって。それまではいつもお姉ちゃんの話を楽しそうにしてたんです。いつも遊んでくれるとか、髪を結んでもらってるとか」
 ぼくが言うと、松岡先生の顔がみるみる青ざめていった。
「東藤くん、本当に野宮さんがそれを言っていたの?」
「はい、本当です」
 言うと、先生は口に手を当てて迷う様子をしながら、ぼくを職員室から少し離れた、人通りの少ない空き教室の前と連れ出した。そして、こちらを振り向いて言った。
「ごめんね。野宮さんについては、まだ教えられないの」
「やっぱり、茉莉に何かあったんですか? お姉さんのことですか?」
「……藤堂くん、落ち着いて聞いてね」
 先生は真剣な面持ちでぼくを見た。
「野宮さんのお姉さんは、二年前に事故で亡くなっているの」
 ――ごつん、と頭を何かで強く打たれるような心地がした。
 窓の外からざあざあという音が聞こえる。いつの間にか雨が降りだしていたようだった。先生に何か言おうと思うも、声が出ない。何を言ったらいいのかわからない。目の前の先生が歪んで見えた。
 茉莉は確かに言っていた。「お姉ちゃん」のことを、いつも楽しそうに話していた。茉莉が嘘を吐いていたようには思えない。
「東藤くん?」
 先生が心配そうに声をかけた。ぼくは、それに答えることもできず、頭の中が真っ白になったまま、ただ頭だけを下げて自分の教室に戻った。

 雨は放課後になっても降り続けていた。ぼくは帰りのHR(ホームルーム)が終わると、誰よりも早く教室を出ていき、傘も差さずに雨の中を走った。気持ちが悪い。少しでも早く家に帰りたかった。ぼくはお屋敷に寄ることもせずに、まっすぐに家に帰った。
 びしょびしょに濡れて家に着くと、何で傘を差さなかったのと母親に叱られた。言われるままにお風呂場に行って、シャワーを浴びる。水の音がやけにうっとうしく感じた。
 お風呂場を出ると、ぼくはバスタオルでがしゃがしゃと頭を拭いた。心の中では、先生の言葉が何度も駆け巡っていた。茉莉のお姉ちゃんはもういない。茉莉のお姉ちゃんはもういない。そう思うたび、頭をぶんぶんと振るう。
 そうして、ようやく服を着て、洗面台の前に立った時だった。ぼくの後ろに森姫子が立つ姿が鏡に映っていた。あの時と同じ格好、あの時と同じ背丈に、あの時と同じ肩までの長い髪、そして、あの時と同じ、真っ黒い瞳を見開いてぼくを見ていた。
「やめろよ、シアニン」
 思った以上に冷静に言葉が出た。
「彼女はもういないんだ」
 ぼくは、鏡越しにぼくをじっと見つめる森姫子の姿に言った。すると、その口がゆっくりと開いて、記憶の中の彼女と寸分も変わらない声で言った。
「寂しくないの?」
「寂しいと言ったら何か変わるのかよ」
「あなたが望むなら、いつまでも一緒にいてあげるよ」
 森姫子がぼくをじっと見つめながら言う。その淡々とした口調、あの頃と少しも違わない口調に、ぼくはひどくいらついた。
 ――彼女が、そんなことを言うわけがない。
 ぼくは鏡越しに見合っていた視線を下げ、水道のレバーをひねって、両手で思い切り自分の顔に水を浴びせる。そして、言った。
「ぼくはそんなこと望んでない」
「寂しくないの?」
「寂しくないよ」
 ぼくは声を抑えつつ、叩きつけるように言った。すると、さっきとはうって変わって、ひしゃげたような低い声でそれ(・・)は言った。
「嘘つき」
 顔を上げると、ぼくの後ろに映っていたのは、森姫子ではなく、ぼくの姿だった。ぼくと同じ姿で、まるでぼくを責め立てるように睨めつけていた。
 ぼくはぞっとして、思わず後ろを振り向いたけれども、そこには誰もいなかった。頬を伝って、あごから水が滴り落ちた。ぼくは、ただぎゅっとこぶしを握り締めて、そこに立ち尽くすことしかできなかった。

 外に出ると、雨は止んでいて、既に日が落ちようとしていた。ぼくは急いで走ってお屋敷に向かった。ところどころに落ちている水たまりを踏むたび、ばしゃりと水が飛んでズボンを汚したが、そんなことは気にも留めなかった。
 もうすぐお屋敷に向かうあの坂道に着くというところで、シアニンがぼくの行く先に立った。それはさっきと同じ、鏡に映ったぼくの姿で、ぼくをじっと見つめていた。
「何をするつもり?」
 シアニンは言った。録音した自分の声を聴いているようで、気持ち悪い。
「茉莉を助ける」
「助ける?」
「お前が連れ去ったんだろ」
 シアニンは、ぼくの姿のまま露骨に顔をしかめてぼくを睨んだ。
「違うよ」
 目の前のぼくが厳しい口調で言う。
「彼女がぼくを選んだんだ」
 ぼくはもう話す気もなく、再び走り出してシアニンの横を通り過ぎた。シアニンは立ったまま、身動きもしなかった。ただ、すれ違う時、シアニンが小さく呟く声だけが聞こえた。

 角を曲がり、お屋敷へと通じる長い坂道を駆け上る。急な坂に足がつりそうになったけれど、構わなかった。
 お屋敷の門の前に着くと、ぼくは一息をついてお屋敷の方を見た。壊れた門の向こう側、お屋敷の扉はいつだったかと同じで、半開きになっていた。ぼくは歩いて門の間を通り、古くなりすっかりさび付いた扉を開けた。
 初めて見るお屋敷の中は、びっくりするほどの広間になっていた。どこもかしこもほこりまみれで、ところどころにくもの巣が張っていた。そして、広間の真ん中に大きなベッドが置いてあり、どこからか西日が差して、そのベッドの周辺を照らしていた。ベッドの上には女の子が寝かせられていた。その女の子が茉莉であることは、近くで見なくても分かった。
 ぼくは中に入ると、ゆっくりと茉莉の方へ歩いていった。一歩踏み出すたび、床がぎしりと音を立てた。
 茉莉はベッドに横たわったまま動かなかったけれど、胸だけが上下していたので息をしていることが分かった。西日が差して、真っ白く照らされた茉莉の顔は、まるで死んでいるかのように美しかった。
 ぼくはそっと床の上に座り込んだ。もうすぐ日が沈む。音のない広間の中で、彼女が目を覚ますまで、ぼくはいつまでも待ち続けた。

雨上がりのシアニン

雨上がりのシアニン

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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