追憶

 彼を知っていた。
 亡き母の書付を整理していた妻が、ふと手を止め、稍あって古い写真をゲオルク・ヘッケルへ差し出した。
「これが、エーリッヒ・シュトルツ」
 彼を初めて目にした。
 とうに世を去った父親の傍らに、場違いに若く、美しい青年が立っていた。居並んだ、いずれも都市の名士であろう老人たちの中で、彼の孤独は際立っていた。
 盛装の人々。背景に写り込んだ緞子(どんす)の襞と花器の生花。覚えがあった。彼をそこへ存在させているのは、決して彼自身の功績や評価ではない。上位者から付与された権威、彼の人格はその肩書に相応しいかのみによって許される。骸骨によく似た老人たちの列の端で、エーリッヒ・シュトルツは感情のない(ひとみ)をこちらへ向けている。
 十三年前に姿を消した青年について、妻はこれまでも多くを語らなかった。対して彼女の妹はずっと率直で辛辣だった。
 エーリッヒ・シュトルツ。高名な学者だった彼女らの父親に取り入り、文字通り破滅させた青年。父親の不名誉な最期のために、妹は当時の恋人を失い、現在も尚、独身だった。
 ゲオルク・ヘッケルはエーリッヒ・シュトルツに対面したことはなかった。妻との婚約の寸前に、博士は青年と無理心中を図った。青年は生き残り、間もなく行方知れずになった。
 博士の遺産相続人に、エーリッヒ・シュトルツも名を連ねていた。心中事件のあった、まさにその山荘。
 しかし、とゲオルク・ヘッケルは義妹の言葉を遮る。
 彼は博士の助手だったのだ。そして実質上、身よりもなかった。博士との関係に抗えるだろうか。
 涙を浮かべた義妹は嘲笑った。
 彼は既に十九才だったのだ。掴まり立ちの子供ではあるまいし、嫌ならいつでも出ていかれただろう。
 その通りだ。──父の事業を継ぐはずだった兄が死んだとき、自分には拒否することもできた。作家などという不安定な将来を見限り、唯々諾々と兄の代役に収まった。
 リヒャルト・ケストナー博士の長女と結婚するはずだったのは、兄なのだ。
 喪服姿の妻はやがて、青年に遺された田舎の別邸について口にする。彼は十三年間一度もそこを訪れていないし、誰も手がつけられず荒れ放題になっている。それがずっと負担だったのだと。
 亡母の通夜のこのとき、ゲオルク・ヘッケルは青年を捜し出そうと思い立つ。古い写真を譲り受けるには十分な理由だった。

「エーリッヒ・シュトルツ…君だね」
 彼もまた、喪に服しているかのような黒い衣服を着ていた。
 それが三十二才になったエーリッヒ・シュトルツの日常の姿なのだと、ゲオルク・ヘッケルは知っている。
 目を(みは)った。
 彼は、写真の中の彼ではない。十九才の硬く未成熟な線は消え、美しさだけが微塵も揺るがずに彼の上へあった。彼の容姿は(いささ)かも破壊されず、それでいて最早過去の彼ではなかった。
 鋼色の眸が暗い栗色の髪の陰から、哀切な光をゲオルク・ヘッケルへ射ていた。
 首筋に視線を感じた。命ぜられて青年を見つけ出したルドガー・ワーグナーが、笑い含みに会見の顛末を眺めている。

「村で人を雇っては如何です」とルドガー・ワーグナーは云った。
 埃っぽい室内の空気に顔を顰めながら、声音だけは愉快そうに弾んでいる。
 エーリッヒ・シュトルツは山荘の権利を手放す書類に署名した。代価も受け取らなかった。彼を見送ったその日のうちに、ゲオルク・ヘッケルは問題の邸を訪れた。
 かつての博士と青年のように、使用人すら伴わない。ワーグナーだけが雇用主の酔狂を面白がっている。
「社長お一人で邸中の掃除をするのは骨が折れるでしょう」
 いずれ事業を引き継ぐはずの側近は、決して手伝おうとはしない。
「必要ない」とゲオルク・ヘッケルは云った。調度類から覆いを払うたびに、十三年分の塵が辺りに立ち込めた。
 晩秋の空気は既に凍てつき、開け放った窓は殆ど用をなさないかに思えた。
「余計な人間を中に入れたくない」
 ゲオルク・ヘッケルはあるひとつの部屋に辿り着き、立ち尽くした。以前の主寝室は寝台のあった場所に未だそれとわかる床板の痕跡を留めていた。室内は不均衡で酷く間が抜け、不気味だった。この部屋で博士は溺死させた──そう思い込んだ青年を寝台へ横たえ、その傍らで自ら猟銃の銃爪をひいた。
 どうにか体裁を整えた小部屋の長椅子で、ゲオルク・ヘッケルは夜を明かした。それ以外の場所に手を付ける気概は失せていた。
「貴方は、博士に似てらっしゃいますよ」
 エーリッヒ・シュトルツはそう云った。何か不本意なように思った。彼と自分こそ近しいのだと感じていた。
 長椅子に横になったまま、古い写真を暖炉の炎に翳した。印象画の中に古代の神々の彫像がまぎれているように、エーリッヒ・シュトルツの容貌は際立って美しい。右隣にリヒャルト・ケストナー博士が立っている。左肩にエーリッヒの右肩が隠れている。身長は博士のほうが稍高い。居並ぶ都市の名士たちに比べれば、博士ですら若造に見える。だが、「父親のような」と形容するのに相応しい。現在のゲオルク・ヘッケルは、確かに当時の博士のほうに年令が近かった。
 自分はただ、美しく──弱く、従順な青年を所有したいだけなのだろうか。たった一晩だが、エーリッヒ・シュトルツとは様々な話をした。彼は孤独と、苦悩と諦念とをゲオルク・ヘッケルに語った。時にその整った口辺には匂うような笑みがのぼった。自嘲の笑みが。ある瞬間に、ゲオルク・ヘッケルは明確に彼を手に入れたいという衝動に突き動かされた。だが、抑えた。エーリッヒ・シュトルツはやはり小さく苦笑した。
 写真を上衣(うわぎ)の内隠しに収める。ゲオルク・ヘッケルは埃臭い毛布を引き上げ、曖昧な眠りに引き込まれながら、ワーグナーは何所ヘ行ったのだろうとぼんやりと考えた。

 山荘の庭には初夏の花々が咲き乱れている。
 ゲオルク・ヘッケルは商売柄、ひとつひとつの花を丹念に観察しつつ庭を歩く。日頃扱っているような、異国の地で採集し改良した花々の派手さや珍奇さはない。どれも有り触れた、素朴な花だが、よく手入れが行き届いている。
 かつてのゲオルク・ヘッケルは、妻となるはずの娘の父親が生物学の権威でありながら、嫁ぎ先の事業にまるで関心がないことをしばしば居心地悪く感じた。学者たちが近年になって「発見」した諸々は、園芸業者にとってどれも既知の経験則だったのだと、皮肉が胸の裡に去来することもあった。博士はそうした俗世間の感覚が気に入らなかったのだろう。
 妻に云わせれば、もとより博士は自身の娘たちに殆ど関心がなかった。義務として縁談の席に現れる博士の心が、あの頃一人の青年に熱狂的に支配されていたという事実は、奇異でならなかった。
 咲き乱れる花々に、いつか伝え聞いた話を思い出す。妻か、その妹から。博士の邸宅に住み込んだ青年は、よく庭に出て花々を観察していた。形質や、性質の違いを。一人きり、群落の陰で書籍や帳面を膝に広げ、何時間も。本来生物学を志向していたわけではない彼は、少しでも博士の学問分野を理解しようとしていたのかもしれない。
 博士が彼を捜して庭に降りていくと、かえって青年は困惑しているように見えた。

 エーリッヒ・シュトルツは初め、印刷所を経営していた義理の父に連れられ、ケストナー博士の(もと)を訪れた。母親が亡くなり、義父は小さな弟妹を連れて別の都市へ移ることになったが、血の繋がらない彼を伴っていく気はなかった。
「少しは、お役に立てるかと。それに、中々に器量もいい」
 シュトルツ氏は義理の息子をきちんと見たことがなかったのだろう。
 彼は美しい。
 そして余りに明晰で──病的なまでに他者の期待や思惑を読み取る。
「……あの方は気難しくて、周囲の人間を皆、対話が不可能な存在と見做していた。私はあの方に、合わせることができたというだけ。それ以外には、何もない。私には、あの方がより一層、孤立していくのが手に取るようにわかった…しかし、唯一の対話相手としてあることが、私の矜持の支えでもあった。あの方は云った、異性や肉親への愛などは、所詮遺伝子の差配する動物的な本能に過ぎないのだと。だから、種の保存にも反するこの感情こそが、真に理性的な愛なのだと。私たちを遠巻きにして、名だたる人々が囁き交わしている揶揄とまるで同じことを仰るので、おかしかった。けれど私は、切実な心で〈本当に〉と尋ねた。幾度誓われても、私は信じ切ることができなかった。だから私は、心の何所かで、あの方の破滅を願っていた…」
 庭の外れに潜戸(くぐりど)がある。その下の地面に麦藁帽子が落ちている。あちこち擦れて日に灼けているが、雨晒しになった形跡はない。手に取ると、日差しとは違う温みが残っている。湿った人肌の残滓が籠もっている。
 潜戸を出ると、小道が丘の裾へ下りている。橄欖(オリーブ)色の装飾帯(リボン)の麦藁帽子を片手に、ゲオルク・ヘッケルは左右から差し掛かる木々の梢の木漏れ日を踏んでいく。山鳥の鳴き交わす声、木々の葉擦れの音が世界を充たして、それ以外、人間の存在を示すどんな気配もない。
 やがて渓流が小道に沿い始め、大きく蛇行した淵のほとりに低木や下枝(しずえ)に隠された草地があるのを見つけた。土地の者ですら、知らなくては通り過ぎてしまうほどささやかな空間が。低木の繁みを分け、ゲオルク・ヘッケルはそこへ立ち入っていった。水辺に立っていた青年が振り向いた。
 青年は足を止めたゲオルク・ヘッケルに近づき、その手から麦藁帽子を受け取った。
 そうだ、村で庭師を雇ったのだ。ゲオルク・ヘッケルは決まりの悪さに苦笑する。
「何故だろう、君のことをずっと以前から知っていた気がする…」
 青年は鋼色の(ひとみ)を上げ、何も答えずに口許に仄かな表情を匂わせる。木の間を渡ってきた風が、暗い栗色の豊かな髪を揺らす。端正な面立ち、脆く壊れそうで怖くなる。青年はゲオルク・ヘッケルを真っ直ぐに見つめたまま、物云いたげに目を細める。
「君は…」
 年令は、まだ十九才だ。そう、もっと歳を重ねているべきだと思う。あと十三年分──。
 青年は静かに口を開いた。
「僕の、何をご存知だというのですか」

 エーリッヒ・シュトルツは立ち止まり、廊下の端へ身を避ける。博士の次女が数人の友人たちとやってくる。短い挨拶のあと、エーリッヒは今朝彼女に呼び止められ頼まれた用件を報告する。辞去する背中に娘たちの密やかな歓声と、次女の冷めた説明が聞こえてくる。
「堅苦しくて疲れてしまう」
 エーリッヒは邸の階段を上がる。博士の書斎に入る。博士は外出している。ほっと息を吐く。エーリッヒは部屋の隅に与えられた机の上の、博士宛の郵便にざっと目を通す。それから博士の両袖机に近づき、不都合がないか確かめる。
 書斎の隣に広い書庫がある。エーリッヒの母親の再婚相手は、死んだ前夫が遺した印刷所を経営していたが、博士の著書の出版に何度か携わり、書庫の管理や蔵書を収集する仕事を引き受けていた。居を移すにあたって、義父はその一部をエーリッヒに引き継がせ、報酬の代わりに血の繋がらない息子の生活と学業の面倒を見てくれるよう博士に申し入れた。人間嫌いで有名な博士が、面識もない青年を引き取る道理がない。自身の子供たちだけを連れていくつもりの母親の再婚相手には、他に打つ手がなかったのだろう。
 エーリッヒは傍観していた。義父の目算が外れ、不本意ながら移住先へ伴われていくのも、この都市に置き去りにされ、母の遺産も尽きて大学を退くことになったとしても、どちらでもよかったし、どちらかに決まってから受諾の言葉を発すればいいと考えていた。
 母が死んだ秋の一日、エーリッヒは義父に連れられ、初めてリヒャルト・ケストナー博士に面会した。博士は神経質そうに指を組んだまま、しばしエーリッヒを眺めていたが、やがて試すように質問を始めた。エーリッヒは答えるうち、自分の解答を完全に理解できる相手との問答を快いと思いだした。悪意ある誤解や曲解や、相手の無知から発言が理解されないということが、博士とは決して起こらなかった。そんな相手を他に知らない。博士もまた、どんな問いかけにも的確な答えを返すエーリッヒに、段々と興味を抱いたようだった。
 いつも綱渡りをしている気分だった。この邸宅での生活も、大学や、博士の用件で訪ねる先のどんな場所でも、生家の夕餉の食卓がつづいているようだった。酒に酔った母親は、息子をその父親と同じく無制限に(けな)し嘲笑していい相手と捉えていた。それでいてエーリッヒは、彼女にとって近所のどの家の子女よりも出来が良い、自慢の種だった。善人で気の弱い義父は、会話の最後に必ずエーリッヒのほうを振り向いた。いつでも顔色を窺うように。夫婦の幼い子供たちは賢しくて、世話を焼いてくれる年の離れた異父兄を、どれだけでも使役してよいものと心得ていた。
 あの食卓が嫌いだった。
 ひとりきりになりたかった。他者の思惑を読み、適応することに疲れていた。食卓の支配者だった母親が突然の病で呆気なく死に、上面(うわつら)の関係性は解消された。解放された。──それなのに、未だあの夕餉はつづき、仮死状態の心には「寂しさ」という不可解な感情が充ちている。
 現在も尚エーリッヒの立場は曖昧で、家族や客人でもなければ、他の使用人たちとも異なる。かつて母親にそうしたように、ここでは博士の動向に神経を尖らせた。どんなに遠い足音も、聞き逃すことはない。今、書斎の入口に立ち止まった。重みのある、カツカツと明快で、せっかちな歩調だが、決して乱暴ではない。母親のように床板をたわませ、己の権威を知らしめるような真似はしない。それでも博士の足音は、何所か他者を竦ませる響きがある。先ず長椅子に上衣をかける決まった空白、すぐに両袖机のほうへ近づき、そこへ揃えられた郵便や執筆に必要な文献を検分する。やがて足音は書庫へ向かう。
 エーリッヒは梯子段に浅く腰掛け、頁に目を落とした俯き加減の姿勢を無理に維持する。まるで気づいていない素振りをしながら、ケストナー博士が扉の前で自分に見入っている気配を全身に受け止める。気づいていることを気取られてはいけない。緊張のあまり頰が紅潮する。胴着姿で衿許(えりもと)をほんの僅かに弛めている。そうでなければ書庫での仕事に誠意が見出されないのではないかと、いつも敢えてそうしている。秋の空気は冷え冷えとして、だのにそっと吐き出す息は熱い。博士はじっとエーリッヒを視ている。エーリッヒは博士に絡め取られていくのを感じる。
 やがて、博士はエーリッヒに声をかける。
 エーリッヒは思わず梯子段から立ち上がった。
「ああ、邪魔をしてすまない」
 博士はどうにか、和やかな調子を伴わせようとする。いつでもあまり成功はしていない。かえって拗ねたような物云いになり、それがエーリッヒには憐憫に似た感情を起こさせた。
「少し、耳に挟んだのだが」
 博士は自身の下の娘の名をあげる。「あれが君に自分の郵便を出してくるよう指図したそうだね。そんなものは断ってしまえばいい。誰にでもやれるような雑用を君がする必要はない。わかるね」
 エーリッヒが詫び言を口にすると、博士はゆっくりと首を振る。「君を責めているのじゃない」仄かな苛立ちが滲んでいる。
 だからエーリッヒは口を閉ざす。これ以上博士の意に反してはならない。例え反駁が胸に浮かんでも、博士の主張はすんなりと理解しなくてはならない。
 博士はまだ何か用件を探すようにしていたが、あまり仕事に根を詰めないよう云い置くと書庫を出ていった。エーリッヒは安堵と同時に、いつも物足らなさを覚えた。博士のあとを追っていきたい衝動が日増しに高まり、困惑した。

 長い冬の爪先が、一夜にして邸の庭を白く覆い、エーリッヒの居場所がまたひとつ失われる。眩いばかりのその朝に、エーリッヒ・シュトルツは廊下の窓から初雪の(おもて)を無感情な眼差しで束の間見下ろす。
 博士の書斎を訪ねる。日除の引かれた室内は酷く薄暗く視え、少し斜に椅子にかけた博士の姿も背後からの逆光に埋没している。
 輪郭だけのその男性的な体躯が、とても大きく目に映る。
 博士は短く挨拶を返して、吸いかけの煙草を消した。
 エーリッヒが入口近くの自身の席について間もなく、博士は躊躇いがちに切り出した。
「そこは冷えるだろう。こちらで仕事をするといい」
 そう云って不自然に空いた両袖机の一角を視線で示した。
 どうするのが正解だろう。どう反応すれば、博士は気分を害さないのか。
 数拍の間を置いて、エーリッヒは書きかけの書簡と筆記具と椅子を抱え、博士の(もと)へ向かった。
 書類や文献の散らばった博士の机の右側面に、そっと椅子を据えた。礼を述べ、平静を装って仕事を再開した。然程重要でない相手への書簡の代筆は、当初の想定を逸して博士がエーリッヒに託すようになった役目のひとつだった。
「寒くはないか」とまた博士は尋ねる。エーリッヒは弱く笑って否定する。実際のところ、高熱にうかされたようにのぼせていた。
「歳を取ると、暑さ寒さにすら鈍感になる。遠慮せず暖房を強めるといい」
 エーリッヒはまた弱く笑う。そうしてから、今の反応は拙かったろうかと悔やむ。博士は何所か心ここにあらずといった風情で、新しい煙草に火を点けた。
「……煙草は、不快ではないかね」
「いえ…」
 母親の再婚相手は喫煙者ではなかった。実父のことは覚えていない。ただ、「父親」という男性からは煙草の匂いがするような気がしていた。
 博士は無言でエーリッヒの動作を視ている。博士の存在に押し潰されそうになる。
「君の文字はとても綺麗だ」と、不意に博士が呟く。「文面も、丁寧に良く考えられている。君は私の考えを云わずとも理解してくれるので、とても助かっているよ」
 書斎の扉が叩かれ、心臓が跳ねる。エーリッヒが立っていかれないうちに、応答した博士の声と同じくらい不機嫌な夫人が室内に入ってきた。
 博士の配偶者。
 死んだ母親とは少しも似ていない。こんなにいつも険しい表情をして、堅実でもなければ堂々ともしておらず、息が詰まりそうなほど完璧な身拵えなどしていなかった。
 なのにエーリッヒは夫人を畏怖した。
 ケストナー夫人は初めから、書庫係の雇い人などそこにはいないものと見做している。
 エーリッヒは気まずく椅子に腰を下ろし、虚空に消えた自分の挨拶がそこへ落ちたかのように便箋へ視線を注いだ。博士と夫人との会話が何故こんなに呼吸を苦しくさせるのか、わからない。
「あれのことですけれど」
 長女の見合いについて。(なかだち)から手紙がきている。少々事情は変わったが、良い話なので進めてはどうかと。
 夫人は端から、良人の意向をそのまま先方へ伝えると決めている。博士は、であれば何故わざわざ聞きにくるのかと腹を立てている。娘たちのことは、母親に任せている。それが最も合理的な判断なのだからと。
 夫人はあっさりと引き下がる。「そうですか」
 やがて博士は椅子に深く背を預けた。
 室内に冬の日差しの立てる音だけが低く充ちている。
 博士は疲れたような眼差しで、しばらく天井を見ていたあと、指に挟んだままだった煙草を置いた。
「あれと話すのには苦労する」
 不自然さのない苦笑が伴っていた。エーリッヒは戸惑い、巧く反応ができない。博士は頓着せず書類に目を戻す。
 先程までの緊張が消え失せている。
 エーリッヒだけが博士の所有する空間にいることを許されている。

「──エーリッヒ、気づいているだろうが…」
 娯楽に飢えた使用人たち、いつも居心地が悪そうな応接間の訪問者、博士の名刺を携えて行く先の奇妙に愛想のいい人々、父親に顧みられない娘たち、そしてケストナー夫人。皆、気づかないわけがない。
「懸想をされるのは不快ではないだろうか」
 博士は怯えている。初めて恋をした青年のように、博士は冗長にエーリッヒに問いかける。
 こんな姿を、誰も知らない。
 エーリッヒ・シュトルツの背に棚板が突き当たる。書庫の狭い通路で、博士は書架に手をかけ、無意識にかエーリッヒの退路を塞ぐように立ちはだかっている。視野は博士の体で覆われ、煙草の残り香が全身を包む。
 不快ではない。それに、初めてではない。例えば、ずっと以前に父の印刷所にいた印刷工。
 幼い頃から印刷所に立ち入るのは禁じられていた。母親は一人息子を医師か弁護士か官僚か、そういったものにするつもりで、死んだ父親の仕事に触れさせなかった。
 雇い人たちはそんな「跡取り息子」を侮蔑した。
 あの日、古くから勤めている印刷工が、女主人の留守にエーリッヒを中へ招き入れてくれた。他の工員たちは昼食に行って、そこは無人だった。
 彼は印刷室を一巡りしたあと、エーリッヒを抱き上げ、お父さんを覚えているかと尋ねた。覚えていない、とエーリッヒは答えた。
「それでは、私が父親代わりになってやろう」
 彼が何を意図しているのかわからなかった。ただ、特別扱いをされているのが誇らしかった。自分は気に入られ、親切にされている。覚えず口許がほころんだ。男は急に表情を強張らせると、エーリッヒの頬をゴツゴツとした手のひらで撫でた。
「お前は綺麗な子だ」
 生温かい皮膚と、汗ばんだ感触、爪の中には顔料が入り込んでいる。彼は何か猥褻なことを囁き、そのまま手をエーリッヒの首筋へ滑らせたようだった。
 あれが官能であったのか、汚される戦慄か、もう記憶にない。
 男はぎょっとして振り返る。母親が印刷室の戸口に立ち、含み笑いの粘つく視線を二人に注いでいた。
 今では、あのとき邪魔が入らなければ、男が何をするつもりだったのか予想がつく。エーリッヒは己の心理が当時から少しも変化していないのに思い至る。──何にせよ、自分が必要とされたことは確かではないか。自分は求められた。関心を向けられ、触れることを厭われなかった。存在を必要とされた。
 むしろ、嘲るようなあの母親の視線こそ、脳裡にこびりつき、いつまでもエーリッヒを苛んだ。
 男が急に姿を消したのは、母親が云うように印刷所の金を盗んだからではなく、あの出来事のせいではないのか。母親には印刷や出版のことは何もわからない。それで偶々(たまたま)シュトルツ氏が雇われ、やがて義理の父になったのも、元はといえば自分が原因だと思考を玩んでは小さく苦笑した。
 寄宿学校の教師や舎監、書肆(しょし)の店員、そういった存在が立ち現れては消えた。
 彼らは皆、打ち解けた話し方をし、エーリッヒに仕事を任せ、時には怠惰や悪事まで聞かせたが、いつも伴侶や友人と唐突に去っていった。
 何が己に欠けているのかわからない。
 母親は分不相応な教育や礼儀作法をエーリッヒに身につけさせ、自身ではそれらにまるで無頓着だったが、息子の評判が他者の口に上り、学校で優秀な成績を修めると、我がことのように──そう、正しく我がこととして歓んだ。エーリッヒなしにはいられなかったのは、息子を誰よりも虐げた母親だけだったのだ。
 その母親も、既にこの世にない。
「君を愛している、エーリッヒ」
 博士はそう告げると、不器用な手つきでエーリッヒの頬に触れた。肌は冷たく、乾燥して、手入れの行き届いた清潔な手だった。
 博士を押し退ける力が十九才のエーリッヒにはあった。荷物をまとめ、邸から立ち去ればよかった。だが、そうしなかった。
 仕立師、金銀細工師、博士の同僚や暇を出された大学秘書、上等の衣装や装身具に飾られ供をする先々の綺羅のような名士たち。或いは強要されているのだと憐れみ、また別の人物は博士が籠絡されたのだと揶揄した。どちらも正しくない。エーリッヒには、書庫の管理人と博士の「恋人」であることの間に差異が見出だせなかった。求められていることを完璧にこなし、存在を保ちたいだけ。
「……僕も、先生をお慕いしています」
 だが、自己を許されたいという欲求は、きっと愛とは異なるのだろう。
 ──驚いたな。
「リヒャルト・ケストナー博士にあんな一面があったとは」
「学者としての栄誉を極めれば、自ずと反対のほうへ興味が向くのさ」
「あの〈助手〉を見てみろ。あれでは聖ヒエロニムスが宗旨替えするのも無理はない」
「全くだ。博士の研究が済んだなら、是非貴重な標本を譲り受けたいね」
「研究費が嵩むぞ」
 喧騒と、半ば掻き消された室内楽にはち切れそうな広間の中でも、哄笑はエーリッヒの耳に届き、傍らに立つ博士にも聞こえていたろう。博士は決して取り合わなかった。俗物どもの囁き交わす雑音など、気に留める価値はないと云った。
 大学での仕事にもエーリッヒは同伴した。自身も博士の部屋から授業に出るようになった。戻れば博士の用件をこなし、博士が学生に教えるときにはそっと隅に控えていた。
 博士と共にある時間が一日の大半を占めるようになった。
 それでも、初めの冬は手探りで、密やかで、穏やかだった。誰も信じはしないだろうが、博士は優しく、寛容だった。だから、何かひとつでも行動を誤れば、全てが失われるのだと信じた。薄氷を踏む思いで「恋人」らしい振る舞いをしてみる。尤も、それがどういうものだが、よく知っているわけではない。
 邸の人間が寝静まったあと、博士の居室から戻るときには、博士は階段の上がり端まで見送りにきて、名残惜しそうに握り合わせた手を解くと、エーリッヒが階下の薄闇に見えなくなるまでそこに佇んでいた。博士の視線から切り離された瞬間、安堵と共に云いようのない不安を覚えた。
 自己が解離していく。

 エーリッヒは博士の机で原稿の校正をする。左手は早春の光の差す天板に置かれ、その上へ書類に目を落とす博士の右手が重ねられている。時折、呼吸よりも自然な動作で博士の指がエーリッヒの手の甲を撫でる。エーリッヒは懸命に仕事に没頭する。
 書斎の扉が叩かれる。さっとエーリッヒは手を隠す。邸の執事が入ってくる。受け答えの間、博士の右手はまだ卓上に、エーリッヒの手を覆っていたままの形で取り残されている。エーリッヒは何喰わぬ顔で作業をつづけるが、頬に朱がのぼっている。立ち去り際、執事はちろりとエーリッヒの様子を盗み見る。扉が閉まると、博士が小さく笑う。
 触れ合い、抱擁し、口づけた。寝台に並んで身を横たえることもあった。それでも、博士は自身で肉体的な快楽を得ないことが、エーリッヒへの献身であり慈愛だと思っていた。
 どうして、ご自分でなさらないのですかと、エーリッヒ・シュトルツは問いかけた。
「この老いた肉体で、君を汚すのはしのびない」
 博士は云った。まるで、一方的に愛撫を与えられ、(ねや)の灯りの中に裸身を晒していることなど恥辱ではないと、博士は思っているようだった。
「エーリ、君は美しい。愛おしく、悩ましい。私は君に触れ、君の姿を視ていられるだけで十分だ…」
 エーリッヒはいつも固く目を瞑っていた。
 大学の博士の研究室には、かつて少壮の研究者であった頃、博士自身が各地で採集した標本や試料が古びた硝子瓶に封じられ、保管されていた。エーリッヒが保管棚の前に立ち、見入っていると、博士は傍らへやってきてエーリッヒの背に手を当てた。今や斯界の権威となり、机上で理論を扱うだけの己に博士は自嘲気味だった。あの頃、あの未だ何者でもない青年のときに出会えていたら。どれほど心強く、幸福であったか。博士は云った。博士はエーリッヒと同じ、青年の年令と肉体を希求していた。そうすれば、現在以上に完全な関係を得られると信じていた。
 本当だろうか。
 エーリッヒは口を閉ざしたまま、博士の横顔を見つめた。この臆病なひとが、圧倒的な立場の差や権威という盾なしに、同等の相手と向き合えるのだろうか。現在の博士がエーリッヒを寵愛するのは、決して反撃されない相手だからではないのか。それを博士は自覚していない。
 そして、エーリッヒにとっても博士は、父親ほどの年長の、栄えある上位者であり、そうではない博士を「恋人」として捉えることができるのか、わからなかった。
 君がいてくれて嬉しい、と博士は云う。
 エーリッヒは問う。
「君を愛しているんだ、エーリ」
 そうではない。
 知りたいのはそれではない。存在を求めてくれるのは、どんな利益があるからなのか。それがわからない。そんな根本的なことを、未解答のまま放っていられる心が、エーリッヒにはわからない。
 愛しているとは、わからない。
 例えば、エーリッヒは時折「お父さん」と口走った。
 気を失うような交歓の果てにその言葉が洩れると、博士は少し傷ついた表情でエーリッヒを見下ろし、静かに身を傍らへ横たえた。
 エーリッヒには後悔と憐憫があった。
 それ以外には。
 エーリッヒの体を抱き寄せ、「愛している」と博士は云った。
 どうして、とエーリッヒは問いかけつづける。

 初夏になると、博士は田舎の別邸へ移った。既に夫人も姉妹たちも同行しなくなって久しい。その夏は僅かな使用人すら連れなかった。ただ真新しい旅装のエーリッヒだけが伴われている。
 いつからかエーリッヒを蝕むようになった発作は、周囲の環境に原因があると博士は考えていた。都市には醜悪な視線や雑音が溢れている。それらから隔絶され、付ききりで介抱をすれば、エーリッヒの突発的な呼吸困難は治ると博士は信じた。
 村で雇った未亡人が邸内の仕事にきている間は、博士はエーリッヒを散策へ連れ出した。午後の光の中で博士の著作の執筆を手伝い、夜は博士の肩に凭れて時間がゆっくりと崩れていくのを見つめた。全ての音は後景へ退き、博士の存在がいやまして大きくなっていった。
 エーリッヒの発作は次第に重篤になった。血の気が引くように全身が冷え切り、呼吸ができなくなり、訳のわからない不安に思考は乱れた。博士はエーリッヒを抱きかかえ、症状が治まるまで忍耐強くそうしていた。頻りに大丈夫だと囁きながら、体をさすり、外界から守るように腕の中へ庇った。その声と体温と、大いなる者としての存在が、確かにエーリッヒの発作を鎮めた。だが、発作の原因が博士であることを、エーリッヒも、おそらく博士自身も気づいていた。
 この発作は、かつて死んだ母親の前で起きていたものだ。あの頃は受け止めてくれる相手などいなかった。部屋の隅で体を折り曲げ、窒息の恐怖すら感じながら、苦痛が過ぎるのを待っていた。だから、博士が悪いのではない。
 博士の腕に抱かれ、短い呼吸を継ぎ、朦朧とした意識の中で、エーリッヒはこのひとを失いたくないと思った。
 博士が愛しているのは偽りのエーリッヒ・シュトルツでしかない。
 何もかも完璧でなくてはならない。
 ひとつでも誤れば全て失われる。
 何の役にも立たない自分を、果たして博士は今のように寵愛するだろうか。
 或いは青年の年令を失い、博士の意のままにならなくなっても。
 博士が年老い、エーリッヒの言葉を理解できなくなっても。
 いつまでこの偽りをつづけられるだろう。
 しかし、これ以外にどんな生き方があるというのか。

 散策の途中で見つけた小川の淵の草地に布を敷き、その日、梢を渡る風は温み、燦爛たる日差しが酒杯を透かして葡萄酒の色の影を落とした。
「エーリ、あまり深みへ入ってはいけない」
 水辺から博士が呼びかける。
 エーリッヒは腕を差し伸べる。博士は少し躊躇いを見せたが、苦笑しつつも裸身になり、水に入った。浅黒く、老いの兆候の顕な肉体が、水の中でエーリッヒの体を捕まえ、戯れに唇を重ねる。エーリッヒは博士にしがみつく。幼い異父妹が、シュトルツ氏にそうしていたように。
 肌を通して博士の温もりが伝わる。爪先は川底に辛うじてついている。川水は確かな力でふたつの体を押し流そうとする。ただ、抵抗をやめれば。
 今はそうしない。いつでもそうできるとわかっていた。

 川面から突き出した枯れ枝は青年の肩に似ている。晩秋の水は凍てつき、低く囁き交わしながら青年の鼓動を凍らせ、置き去りにしたまま、時を刻みつづける。
 立ち尽くしたゲオルク・ヘッケルの間近を、男が半狂乱で駈けていく。衣服のまま渓流へ飛び込み、川底の起伏に引っかかっていた青年の体を掻き抱く。水から引き上げられた青年の顔は血の気が失せ、彫刻のような唇の隙間から川水が溢れ頬に伝う。男の吼えるような哭声(こくせい)が無言の木立に谺する。
 ゲオルク・ヘッケルは潜戸(くぐりど)を抜ける。山荘の庭には花々が咲き乱れ、そこに音はなく、厚く雲の垂れ込めた空から白い日差しが降り注いでいる。庭師の青年は何所へいったろう。花々の間を抜け納屋に入る。屈み込んでいた青年が振り向く。腕には猟銃が抱えられている。
「やあ…それを何所で見つけたんだい」
 十三年前、リヒャルト・ケストナー博士は青年と無理心中を図った。
 入水に失敗し、青年だけを死なせたと思い込み、自ら猟銃の銃爪をひいた。
「貴方は、それを聞いて、疑いを抱いたのではありませんか。本当は、私があの方を殺したのではないかと」
 そこへ立っているのはゲオルク・ヘッケルの知るエーリッヒ・シュトルツだ。喪に服しているかのような黒い衣服、年令を重ねても尚、痛ましいほどに美しく孤独な青年。
 自嘲の笑みを湛えて、三十二才のエーリッヒはゲオルク・ヘッケルを見つめている。
「そうであってほしい」
 ゲオルク・ヘッケルはエーリッヒ・シュトルツに歩み寄り、神聖さに打たれながら、その頬に触れた。
 体温のない、死んだような体。
「そうであったなら、私は救われるように思ったんだ…」
「何故」
「君に救われてほしかった」
 エーリッヒはゲオルク・ヘッケルに問いかける。「私に、何を期待するのですか」

 エーリッヒ・シュトルツは邸の階段を降りる。その秋の日、破滅へと降りていく。
 博士の寵が隠れないものになるにつれ、使用人たちのエーリッヒへの態度は慇懃になった。彼らは主人の「恋人」に相応しい横柄さを期待し、それが裏切られると、エーリッヒの上等な衣装やさりげない反応に執拗な視線を向けた。いつでも、目が絡みついた。だから博士が不在のときには、エーリッヒは書庫へ閉じ籠もっていた。
 博士は(あら)ゆる外出先にエーリッヒを伴ったが、唯一の例外は長女の見合いの席だった。エーリッヒは自身の心に仄かな嫉妬が燻るのを感じた。同時に自分が「他者」でしかない現実を思い知り、不格好な関係性をしか作り出せない惨めさと、博士と亡き母親への不条理な憎しみに身を灼かれた。
 その頃、邸内には静かな波乱があった。
 発端は博士が遺言状にエーリッヒの名前を書き加えようとしたことだった。
 長女の婚姻を契機に、自身の所有する財産をどう分与するか、博士は弁護士に意向を伝えた。「助手」であるエーリッヒ・シュトルツには、あの田舎の別邸と付随する土地、そして村の小作人を。それへ夫人が異を唱えたのだ。
 博士にしてみれば、妥協の上の不本意な分配だった。殆ど顧みられない田舎の山荘に、何故夫人が拘るのか。詰問しても承服できないとしか答えず、博士は苛立ちをつのらせた。夫人が明白に反抗を示したのは初めてだった。席を外したエーリッヒの背にも、書斎の扉を抜けて平行線の口論は鉛の雨のように打ちつけた。
 遺産など求めてはいない。そう訴えても、博士は慈しむような眼差しでエーリッヒの手を取り、云い含めた。粗末な財産だが生活の支えにはなる、君の将来の憂えを払いたいのだと。博士の目の中の自分が幼く無力であることに、エーリッヒは愕然とした。
 また同じだ。死んだ母親にとっても、息子は何もできない子供だった。期待を背負わされ、それに適応しつづけることを無言で強いていながら、エーリッヒの能力をまるで評価してはくれなかった。
 食卓の支配者がいなくなり、解放されたはずだった。なのに、エーリッヒはかえって、世界が根底から失われたような気がした。
 こんなにも歪な自分に、別のかたちの人生など訪れるわけがない。
 わかっていたのだ。
 なのに、こうして生きつづけている。
 嫌気が差す。
 輝くばかりの秋の日、その午後も博士はエーリッヒを置いて留守だった。普段は寄り付かない使用人が、書庫の扉を叩いた。博士に来客がある。何か聞いているだろうかと。
 エーリッヒは何も知らない。
 要領の良い使用人は、もし差し支えなければエーリッヒに応対してもらえないかと、卑屈な身振りで願い出る。気難しい主人のことは、気に入りの「助手」に任せてしまえばいい。仮に邸宅から火を出しても、それがエーリッヒの判断であれば、何ら咎め立てはないと使用人たちは心得ている。
 エーリッヒはもう一度、訪問者の名を尋ねる。
 ウィルヘルム・ラインハルト。大学の学生だというが、エーリッヒには聞き覚えのない名前だった。

 そして、エーリッヒは玄関へ降りていく。弛めていた衿を直し、上衣(うわぎ)に袖を通して。柱に寄りかかり、待ち飽きたように爪先で床を叩いていた訪問者は、エーリッヒを一目見るなり笑い出した。
「本当にこんなところに住んでいるのか」
 あけすけな大声を発して、ひとつかふたつ年長の青年はエーリッヒに好奇の視線を注いだ。
「何度か大学で見かけた。そちらは俺みたいな不良学生を知らないだろうが」
 教授の助手なのだろう、と聞かれて、エーリッヒは頷く。
「ご苦労なことだ」
 ラインハルトは堂に入った不躾さでエーリッヒの肩に腕を回し、(のぞ)き込むようにした。
 思わず視線を逸らすと、大きく開いた衿許(えりもと)と喉仏が目に入った。博士とは異なる煙草の香りが強く匂った。衣服を奔放に着崩しているのに、ラインハルトの年令がそれを見苦しく思わせずにいる。よく見ると上質な仕立ての上衣も、手入れはまるでされていない。胴着の釦孔には時計の鎖の痕跡だけが残っている。
 息を詰めて眼差しを受ける。ラインハルトの口角に笑みがのぼる。
 日に灼けたように赤みがかった金の髪、ぎらつくような翠色の(ひとみ)
 どうしてか、同世代の青年をこれほど間近に視たのは初めてのような気がした。
「名前は?」
「エーリッヒ…シュトルツ…」
 ラインハルトはエーリッヒを今一度舐めるように眺めまわすと、体を離した。
「先生は今、外出している」
 突き放すようにエーリッヒは云った。もう聞いている、とラインハルトの返答は愛想がない。
「何か、言伝(ことづて)があれば…」
「別に話をしにきたわけじゃないが」
 首筋をさすり、ふとラインハルトは「お前でも用件が済むかもしれない」エーリッヒを見遣る。
「少しばかり、借金を頼まれてもらえると助かるんだが」
 あっけらかんと、酒色の支払いに窮して売れるものは皆質に入れてしまった、父も兄も前回の無心にまだ腹を立てていて取り付く島もない、そんなことを語りだした。
 博士に連れられていくような店なら、エーリッヒひとりでも支払いの必要はない。十分な小遣いも与えられていた。しかし、ラインハルトの唐突な要求をとても受け入れることはできなかった。
「そんなことをして良いか、わからない…」
 予想に反して、ラインハルトはあっさりと引き下がった。その代わり、どういう算段か、少し外で話さないかと云った。
「外出して良いか、わからない…」
 廊下の先で聞き耳を立てていた女中が、小さく吹き出した。確かに、幼稚な回答だった。
「では、次までに聞いておけ」
 ラインハルトは気にしたふうもなく、話題を転じると、今度は或る有名な舞台女優の名を口にした。そしてエーリッヒに、隠し子だというのは本当かと問うた。虚をつかれたエーリッヒは、まさかと口走る。ラインハルトは笑って手を打ち鳴らした。
「賭けはもらったな」

 険しい面持ちで車を降りた博士は、玄関にエーリッヒの姿を認めて破顔する。足を止めた博士の背後を、夫人と長女が無言で通り過ぎる。長女だけがエーリッヒの挨拶に小さく目礼を返した。
「どうしたね、エーリ。こんなところで」
 博士は、留守をさせたエーリッヒが自身の帰りを待ち兼ねていたものと、他愛なく信じている。ふと、エーリッヒの心に温度のない感情が差し入った。
 訪問者の名を聞き、博士は怪訝そうに眉を顰めた。
 ウィルヘルム・ラインハルトは確かに学生のひとりだが、取り立てて目をかけているわけではない。それどころか自堕落な品行で悪名高く、授業にも碌に顔を出さず、教員たちもとうに匙を投げている。裕福な父親の寄付金のお陰で除籍されずに済んでいるようなものだ。博士は淡々とした口調で説明した。それでいて、奇妙に嫌悪は示さない。博士には、ラインハルトの素行の悪さを云々する「良識」のほうが、唾棄すべき対象なのかもしれない。
「大方、他の教授連に断られたので、私のところにやってきたのだろう。君が心を悩ませる必要はない」
 だが数日もしないうちにエーリッヒはラインハルトと再会する。

 授業のあと博士の研究室に戻るエーリッヒを、ラインハルトは講堂の壁に凭れて待ち受けていた。エーリッヒは努めて歩調をゆるめないようにした。ラインハルトは構内の並木道に肩を並べ、平然と話し始める。
「外出の許可は取れたか?」
「いや…」エーリッヒは殆どそのことを忘れていた。
 咥え煙草の煙が顔にかかり、エーリッヒが不快な反応をみせると、ラインハルトは吸いさしを無頓着にその辺りへ捨てた。
「この間はお前に助けられた」
「何もしていない」
「実は賭けをしていたんだ。お前が女優の隠し子かどうか。俺は違うというほうに賭けていた。あれは天然モノだって」
 おかしな表現だとエーリッヒは反論する。例え女優の子であろうと、人工物ではないだろうに。
 ラインハルトは朗らかに笑った。
「面白い奴だな」
 とにかくお前のお陰で急場がしのげた。それに、お前には興味がある。食事に行ってもいいか教授に忘れずに聞いておけ。ラインハルトは矢継ぎ早に用件を投げつけ、現れたときと同じように一方的に立ち去っていった。
 エーリッヒは呆気にとられていた。
 博士はいつものように机を立ってエーリッヒを迎えた。額に口づけを受けるとき、ラインハルトの煙草の匂いが移ってしまっていないか、ふと気にかかった。
 彼に会い、話したことを伝えた。博士は表情を曇らせた。
「エーリ、あの男が何を企んでいるのかわからないが、しつこく付きまとうようなら私に命ぜられたと云って拒絶すればいい。それとも、私が話をしようか?」
 エーリッヒは、ラインハルトに会ってみようという気になる。酷く強張った口調で博士に問いかけた。
「先生は、これまであの方のことを教えてはくださいませんでしたね」
 エーリッヒの心理を量りかねて、博士は不安げに視えた。エーリッヒの心は憐憫で充ちた。
「確かに、君にも同じ年頃の友人が必要だな…」博士は云った。「だが気を許しすぎてはいけない。あれは君とは正反対の青年だ、エーリ。君とは違うのだよ」

 そう、あまりにも違う。
 小さな食卓を挟んで、エーリッヒは終始考えつづけていた。ウィルヘルム・ラインハルトは同じような年令の青年だというのに、何故こんなにも他者に気遣わずにいられるのだろう。
 煙草と酒と安い大衆料理を代わる代わる口に運びながら、云いたいことを云い、聞きたいことを聞く。悪怯(わるび)れることも、迎合することもない。本当に同意することだけに同意し、理解不能のことにはわからないとはっきりと表明する。しかし、相手を──エーリッヒを否定したり、貶めたりはしない。
他所(よそ)の大学から移ってきたんだろう?」
 ラインハルトは尋ねる。「教授の(もと)で学位を取りたかったのか?」
 そうではない。
 元々は法学部に籍を置いていて、科学は嫌いではないが基礎的な授業を受けた程度だ。しかし、本心で弁護士や官僚になりたかったわけでもない。医学部でもよかった。ただ臨床医になるのは無理だと思った。ひとの相手をするのは苦手だから。研究をするなら、法学でも医学でも遺伝学でも大きく違わない。大学を移ったのは、博士にそう勧められたからだ。
 博士は、エーリッヒを自身の力の及ぶところへ置きたかったのだろう。──そのことはラインハルトには話さなかった。
 ともすればとりとめもなく、冗長になるエーリッヒの語り口に、ラインハルトは不可解にもきちんと耳を傾けていた。彼を信頼したわけではないから、かえって率直な思いが口をついた。ラインハルトの選んだ店は騒々しく、エーリッヒは向かいの青年と自分とが、喧騒の殻の中にいるような気になった。同じ場所で対等に向き合っている。
 静かな部屋の中で、エーリッヒが僅かにでも声を発すれば、博士はエーリッヒを引き寄せ、手を取り、一言も聞き洩らすまいとする。それとは全く違った。
「俺はそうだな、どうせなら話題性のある分野がよかった。量子力学…」
 ラインハルトの声はしばしば周囲の喧しさに掻き消されたが、エーリッヒは問い直したりはしない。断片的な言葉から相手の考えに見当をつけ、当たり障りのない反応をする。いつもそうしているように。きっとラインハルトも、エーリッヒの話す内容など殆ど心に留めてはいないだろう。どうしてか、エーリッヒは自身にそう云い聞かせるようにした。

 誘っておきながら、代金はエーリッヒが払った。以来、それが暗黙の決まりになった。
 博士は何も云わずエーリッヒの上衣に小遣いを押し込んでやり、理解ある恋人の姿勢であろうとした。だが博士の目は、エーリッヒの肌の上へ「痕跡」を求めずにはいられなかった。
 潔白を確かめるように隈なく口づけを印し、最後にエーリッヒの体を掻き抱いても、博士の目の中から怯えが消えることはなかった。
 エーリッヒは失望した。博士は恋人の裏切りではなく、自身が決して取り戻すことのできないものに怯えている。ラインハルトの所有する、エーリッヒと同じ年令と肉体が、無条件に愛しい青年を奪い得ると信じている。まるでエーリッヒには、意思も分別もないかのようだった。
 ウィルヘルム・ラインハルトはきっと、昼食代を節約できて都合がいいのだろう。他所で云い触らす話題を求めているのかもしれない。彼には他にいくらも親しい友人がいる。博士を除けば(ろく)に会話する相手もいない自分とは異なる。
 だから期待をかけてはいけない。
「それじゃあ、お前は何が好きなんだ?」
 食卓の向かいでラインハルトが追求した。「法学にも医学にも、生物学にも興味があったわけじゃないんだろう? ではお前は何がやりたかったんだ」
 エーリッヒは返答に窮した。
「自分の欲求もわからないのか?」
 煙草を指に挟み、ラインハルトは愉快そうに口角を上げる。おかしな云い方だ、とエーリッヒは呟いた。
「お前が苦しまずにやれることは?」
 ラインハルトに問いかけられ、ひとりでいることだ、とエーリッヒは胸の裡で独白する。
「……僕の生まれた家は印刷所をやっていて、死んだ父の部屋には壁一面の本棚があった。僕は父の部屋を使っていて、そこにある本を少しずつ、大人になるにつれ段々と読んでいった。子供の頃、僕は何となく、いずれは自分がこの印刷所を経営することになるんだと考えていた。──実際は、新しく父になったひとが引き継いで、そして廃業したけれど。でも、本を読んでいるのは好きだった。魂がひとりきりになれるから。博士にも、元々書庫を管理する仕事で雇われたんだ」
「今は教授が父親か?」
 ラインハルトの半畳が、核心を突いたかのようにエーリッヒの口をつぐませた。ラインハルトは髪を掻き上げ、わざとらしくおかしげな口調でつづける。
「父親が三人もいるとは、俺には耐えられそうもない。一人でも持て余しているのに」
 エーリッヒは自嘲気味に小さく笑った。
「僕は〈父親〉なんて知らない。みんなただの想像だ」
 時折、ラインハルトの馴染みの女たちが会話に割って入ってきた。彼女たちはむせかえるような化粧の匂いを発散させ、空いた椅子に体をねじ込んでくる。手を取らんばかりにしてエーリッヒに色目を使った。ラインハルトはぞんざいに、そいつには恋人がいるからよせとからかう。女たちは嬌声を上げる。それがどういう女性だか執拗に知りたがる。ラインハルトは黙って眺めている。当然、彼も学内の噂を知っているだろう。信じているのかは、わからない。
 エーリッヒは次第に息苦しさを覚える。死んだ母親が、化粧の匂いと脈絡のない話し声とともに蘇ってくる。体の不調を訴える母親は、幾度医者にかかるよう促しても聞き入れず、それでいて自身の辛さを延々と語り聞かせ、この世で最も不幸な人間であるかのように振る舞いつづけた。病名を告げられたあとも、医師の指示に従わず、独断で服薬をやめ、見る間に衰弱して、それでも自分の非を認めなかった。最期までエーリッヒを(なじ)り、哀れみを求めつづけた。子供じみた母親の相手をしていると、自身の心に襤褸(ぼろ)や野菜屑を投げ込まれているような気持ちがした。母親は病死したが、もしかしたら自分が死なせたのだったかもしれない。
 呼吸ができない。肩で息をするエーリッヒを目にし、ラインハルトは女たちを追い払う。何がエーリッヒを苛みつづけているのか、ラインハルトは知らない。
「お前は、そうだな──いっそのこと、別の町で一からやり直したらどうだ?」
 だからそれは、青年らしい向こう見ずな軽口に過ぎない。

 やがてエーリッヒは博士のところへ戻る。発作のあとの、朦朧として熱ぼったい体で。無言で縋りつくと、博士の声には喜びが滲んでいる。大丈夫だと博士は耳許に囁く。幼児のように膝に抱き取り、背をさすり、大いなる存在は何も知らないままエーリッヒの全てを受け入れ、守ろうとする。そこにエーリッヒの意思など必要ない。何も感じず、考えなければ、このひとの腕の中で生きていられる。心を失えば。だが、それができない。

 酒杯を置き、博士はエーリッヒの傍らへ腰を下ろすと、そっと手を取った。
「君の父上へ手紙を書こうと思う」
 夜半の居室には二人きりで、何の音もなく、鎧戸を打つ風と遠い街路の反響だけが、時折耳に届いた。酷く孤独だった。長椅子の周囲の灯りが二人を浮かび上がらせ、その光の外にはただ、広大な闇があった。
「エーリ、君を私の養子に迎える。そうすれば、もう異論を差し挟む者もいなくなる。私と君が、正式に保証される」
 博士は慈愛と哀しみの入り混じった眼差しでエーリッヒを見つめた。もう一方の手でエーリッヒの手から、殆ど口のつけられていない酒杯を取る。博士は体を折り、エーリッヒの水滴に濡れた指に唇を当てる。
 跪いているように視える。
「保証が、必要なのですか」
 口をついた反駁とは裏腹に、エーリッヒは他でもない己の心が、それを切実に求めているのを知っていた。
 博士はゆっくりと身を起こすと、無言のままエーリッヒの(ひとみ)(のぞ)き込むようにし、やがて頬に触れた。
「いいかい、エーリ。私がどれほど君を愛していても、私のいなくなったあとでは君を助けてやることができない。これはひとつの方法だ。私は、君のためにしてやれることは、全てしてやりたいのだ。わかるね、エーリ」
「……そうすれば、先生は安心できるのですか」
 エーリッヒは云いようのない憎しみが博士へ躍りかかるのを抑えられなかった。自身の不合理な心理に動揺した。自分のものではないかのように、涙が頬を伝った。
「奥さまは、反対なさいます」
 それを口にすると、博士の眉間に明らかな不快が刻まれた。「あの女がどう云おうと関係ない」博士の声はついぞエーリッヒには向けられたことのないほど低く厳しかった。エーリッヒは後悔と怯えに突き動かされ、度を失った。
「お嬢さまたちだって、良くは思われないでしょう…」
「エーリ、これは私と君についての問題なのだ」
「でも、先生は僕の父ではありません。お嬢さまたちの父親です」
 博士は溜息を吐き、途方にくれた面持ちでエーリッヒを見遣った。初めて目にした青年の反応に、理解が及ばず苛立っている。博士にこんな表情をさせている。エーリッヒは「失敗」の悔しさに顔を背ける。
「エーリ、何が君を苦しませるのか、きちんと教えてくれ。それでは何もわからない」
「こんな僕は先生には価値がないでしょう。貴方は、いつも独りよがりです…」
 立っていこうとするエーリッヒを、博士は離さない。力付くで引き戻し、のしかかり、貪るように口づけた。エーリッヒは腕を回し、博士の体にしがみついていた。これほど狂乱して抱き合ったことはなかった。もう博士は体面を気にかけることさえしない。
 博士は云った。
「君を愛している。君の全てだ。例え君が、私に父親を求めているとしても、それでも構わない。君を愛させてくれ。そのためなら、何も惜しくはない」

「──君は、ケストナー博士を殺したのかい?」
「貴方は、そうであってほしいと期待するのですか」
 エーリッヒ・シュトルツに問いかけられ、ゲオルク・ヘッケルは答える。
「君は博士の(もと)では息ができない。呼吸が止まる前に、遁げ出さなくてはならなかった」

 けれど、何所へも遁げることなどできない。

 ラインハルトがいない。
 もう数日になる。エーリッヒ・シュトルツは訝しみながら博士の研究室へ戻る。博士は机の前に立ち、上衣(うわぎ)の隠しに片手を入れ、卓上の新聞に目を落としている。小さく振り向いてから、新聞をエーリッヒに差し出す。
 普段博士の身辺では目にすることのない、猥雑な大衆新聞だった。大きく、ラインハルトの姓と父親の写真、娼館での喧嘩騒ぎの顛末と、彼が資産家の次男であることが報ぜられていた。
「……すぐに出てくるだろう。だが、今度ばかりは教授連が黙っていまい」
 エーリッヒは奇妙に凪いだ心で記事を何度も読み返した。如何にもありそうだ、と得心がいき、どうして博士が深刻な反応をしているのか、よくわからなかった。
 博士はエーリッヒから新聞を取り上げ、卓上に放る。抱き寄せるように背に腕を回し、髪を指で整えてやりながら、ゆっくりと云い聞かせた。
「エーリ、君には何の責任もない。君が心を痛める必要はないのだ。ラインハルトは元よりこういう青年だ。君は心の優しさに付け入られてしまっただけだ。或いは、この醜聞を君に関連付ける人間がいるかもしれないが、耳を貸してはいけない。君に累が及ぶようなことはない。私がついている」
 博士の中に、未だ不安は根を下ろしていたが、今はそれを補って余りある威厳が蘇っているのを、エーリッヒは見て取る。
 博士は歓喜している。

 給仕が(かしず)くのは、博士の同伴者だからだ。上質なものだけを選んで拵えられた料理も、金彩の器や銀器、卓上の生花まで、何もかも本来、エーリッヒ・シュトルツに与えられるようなものではない。
 食卓は他の客から離され、音楽はひそやかで、何らの不備もないよう、支配人が常に神経を尖らせている。それでも尚、博士はエーリッヒの食事が進まないのを目にすると、簡単にそれらの心遣いをやり直させようとする。
 名士たちは一介の青年に敬意を払う。博士は少し退いたところで自身の「助手」が申し分のない会話をこなすのを見守っている。彼は自分の後継者だと、博士は人々に告げる。そのときに、リヒャルト・ケストナー博士の権威はエーリッヒ・シュトルツへ付与され、以後エーリッヒはそれ以外の何者でもなくなる。
 やがて秋が爛熟したまま日ごと世界から失せ、博士は遅ればせにエーリッヒの外套を作ろうと思い立つ。去年の冬の外套は、一年古いというだけで愛しい青年には相応しくない。仕立師が呼ばれる。店主は依頼主の意向を汲んで、良質の生地を次々に広げ、その値段については一顧だにしない。博士は椅子にかけ、仕立師が青年にあてがう服地を検分しては、もっと良いものはないかと注文をつける。馴染みのはずの仕立屋は、ふとした弾みか或いは故意にか、エーリッヒを「ご子息さま」と呼称する。博士は訂正することはない。
 夜の街路を走る、暗い車内で軽く博士の肩に凭れ、座席の上で重ねた手や、広間を抜け出し、人気のない物陰でそっと戯れること、湯浴みのあとで鏡の前に立ち、博士の指で耳の後ろへ香水を擦り込まれ、首筋に口づけを受けることが、これらの代価なのだろうか。上等の装いや名声で飾られるほど、エーリッヒは自己があさましく、みすぼらしくなっていくように錯覚した。
 シュトルツ氏への手紙の件を、博士は口にしない。だが、夫人の反対を押し切るかたちで、遺言状にはエーリッヒの名が書き加えられた。あとになってエーリッヒはそれを聞かされた。
 日常が途切れることなくつづいている。不可解でならない。
 自我が空虚になっていく。
 他の教師の講義に出、エーリッヒは博士の研究室へ戻る。博士は必ず机を立ち、エーリッヒを迎える。授業は有意義だったかと問われれば、曖昧に口許をほころばせる。博士はエーリッヒの額に口づける。
 だが、その日はそうならなかった。

 有無を云わせず並木道の木立の陰へ連れて行かれた。ウィルヘルム・ラインハルトはエーリッヒを見遣り口角を上げる。
「俺も晴れて勘当の身だ。お前には挨拶くらいしておこうと、わざわざきてやったんだぞ」
 帽子を目深に被り、襟巻きで口許を隠したラインハルトは戯画的だった。彼は本気だろうかとエーリッヒは訝る。金が必要なのかと、それで探るように問いかける。
 ラインハルトは大仰な身振りで説明した。
「父の顔に泥を塗った出来損ないの息子は、今後一切当家と関わりを持ちません。──と、親父と兄貴に一言一句違わずに誓った。署名もした。但しそれぞれ別の部屋で」
 まさか「手切れ金」が二重取りされたとは、生真面目な父親や兄は思いもしまいと、ラインハルトは大声で笑う。構内を行き来する学生たちが侮蔑するような表情で一瞥していく。ラインハルトは上衣の隠しに紙包みを探り当て、エーリッヒに投げてよこす。食べかけの葡萄の房が入っている。
 酔っているのか、とエーリッヒは詰問する。その瞬間に、まるで酔いが醒めたかのようにラインハルトはふと老成した眼差しをし、苦笑した。
「それなら、どうしてここに」
「云っただろう、お前に別れを告げにきたんだ。短い付き合いだったがな」
「いなくなるのか」
「ああ、そうだ」
「何所へ」
 ラインハルトは推し量るようにエーリッヒを眺め、稍して都市の名と頼る知人がいることを語る。黙り込んだエーリッヒの様子を見定め、ラインハルトは何気ないように切り出す。
「お前もくるか?」

 じきに博士は気づくだろう。定刻は過ぎている。戸口から廊下をみはるかし、エーリッヒの通る道筋を辿り、授業がとうに終わっているのを確かめるのにそう時間はかからない。博士は大学内を捜し回るだろう。エーリッヒはもうそこにはいない。
 息を切らせ、主人の車も使わずに駈け戻ってきた「助手」を、使用人たちは好奇の沈黙で見守る。彼はやがて、戻ったときと同じように足早に邸宅を出ていった。夏の旅行の折に買い与えられた鞄をひとつだけ抱えて。
 使用人たちは口を揃える。──お帰りになってすぐ、再び何所かへ外出されたようでしたが、旦那さまはご存知かと。
 瀝青(れきせい)の空に星が架かる。灯の点った酒場の店先を、混雑した市の軒を、エーリッヒは通り過ぎていく。賑やかな通行人の群れを避け、呼び込みにも耳を貸さず。足を止めれば追いつかれるような気がした。追ってくるのは博士であり、博士以外の何かだった。エーリッヒは自己から遁げているのだと思った。だから脇目も振らず立ち止まらなかった。
 ラインハルトは正確な宿の所在を告げなかった。ようやく訪ね当てた安宿の、光沢の剥げた客室の扉を叩くと、ラインハルトは意外そうな顔つきをした。
「本当にきたのか?」
 泥濘(ぬかるみ)に足を取られた感覚がした。
 ああ、やはりそうだ。
 自分が歓迎されていないのを理解した。
 それでもラインハルトは、エーリッヒを室内に招き入れた。脱ぎ捨てた衣服を適当に部屋の隅へ放り、長椅子を勧めるが、エーリッヒは腰を下ろすことができない。
「荷物はそれだけか」とラインハルトは問いかける。エーリッヒは頷く。自分自身が居た堪らなくなった。忙しなく荷をまとめながら、本当に必要なものなど何もないのだとわかった。しかし、それでも持ち出してきた最低限度の物品は、全て博士が何不自由のない生活と共にエーリッヒに買い与えたものだった。
 子供の駄々と同じだ。
 自分は無力だ。
 瓶に半分ほどの葡萄酒、千切った余りの麵麭(パン)が粗末な卓上に載っている。腹は減っていないかとラインハルトは促すが、エーリッヒは首を振った。酒は? 首を振る。明日の朝一番の列車だとラインハルトは告げる。
「いいのか…」
「何だ、遁げてきたんじゃないのか」
 エーリッヒはもう答えることができない。
 敷布が乱れたままの寝台にラインハルトは脚を大きく開いて座り、酷く前屈みの姿勢でエーリッヒを眺めていたが、上衣を脱いだらどうだと云った。エーリッヒが釦を外す指先に、ラインハルトの視線が注がれている。エーリッヒは納得する。必要とされているのは代価でも、それで自分の存在を許されるなら、何が異なるというのだろう。
 ラインハルトは立ち上がり、エーリッヒの肩から上衣を落とすと、いい仕立てだなと云った。「教授に作ってもらったのか?」
 そうだとエーリッヒは答える。
 ラインハルトは上衣を寝台へ放る。
「これもか?」
 粗野な青年の指は乱暴に鎖を引いて、胴着の隠しから時計を取り出し、見るからに高価な装飾を()めつ(すが)めつして、卓に置いた。
 みんな外してくれ、とエーリッヒは云った。
「これも?」胴着の釦をいくつか開け、ラインハルトは鋭く音を立ててエーリッヒの絹の襟締(タイ)を解く。そのまま鈎のように曲げた人差し指で顎を持ち上げ、息を殺すエーリッヒの面差しを間近に見入った。
「……値の張る女もいくらか知ってはいるが、こんなのは見たことがない。化粧もしていないんだろう。お前、本当は人工的に造られたんじゃないのか? そんなことを云っていたな。これは宮殿の絵画室でお目にかかるような代物だ。お前、本当に人間か?」
 わからない、とエーリッヒは云った。「生きているかどうかも、わからない」
「俺と寝ていいのか?」
「ああ…」
 ラインハルトは笑い出し、体を離した。
「好きでもない男と寝るな」
 動けないエーリッヒの衿を直してやりながら、つづけた。「女ともな」
 ラインハルトは長椅子に横になり、エーリッヒには寝台を使えと云った。
「最後に灯りを消してくれ。ついでに、明日の朝は起こしてくれ。俺は朝が弱いんだ」

 丁寧に手入れされた指先の向こうで、ラインハルトが寝息を立てている。長椅子に体躯を伸ばし、気がかりも気遣いもなく。寝台で体を丸めるエーリッヒのことなど、夢寐(むび)の片隅にも留めていない。
 エーリッヒは自身の指先を見つめる。爪に丹念に鑢をかけ、化粧水で拭い、香脂を塗り込んだ手。博士は手間のかかるその工程を、まるで愉しんでいるようだった。
 博士は眠っただろうか。
 片手を取られ、博士の肩に寄りかかりながら、エーリッヒは静かに本を読み上げる。ふと、博士は教壇の上からそうするように、エーリッヒに問いかける。視線はエーリッヒの指先に注いだまま。エーリッヒは細心の注意を払って解答する。博士は満足げに、良い答えだと微笑する。
 贅沢を与えられるより、あのひとときだけで十分だった。何故こんなにも誤ってしまったのだろう。
 どうしてか、このとき明確に博士を愛していると感じた。

 駅の停車場を博士は真っ直ぐにエーリッヒのほうへ近づいてくる。エーリッヒは呼吸ができなくなり、蹌踉めく。博士が抱きとめ、傍らに立つラインハルトに罵声を浴びせる。
 エーリッヒは頭が真っ白になる。耳を聾するような怒声。それでいて、博士に縋りつく。
 ラインハルトは何も答えない。煙草を咥えたまま。面罵されながら、無感動にそれを甘受していた。
 博士はエーリッヒの手首を痛いほど強く掴み、もう一方の手で庇うように胸に抱き寄せ、ラインハルトを(なじ)る。この発作すら、彼に非があると信じている。エーリッヒは虚ろに無精ひげの伸びた博士の顎を見上げた。
 博士は一晩中エーリッヒを捜していたのだろう。
 ぼんやりと、絶望した。
 停車場に列車が入ってくる。ラインハルトは煙草を投げ捨て、足許から荷を取り上げると、エーリッヒのほうだけを向いて「どうするんだ」と尋ねた。エーリッヒは何も答えられない。
 ウィルヘルム・ラインハルトは鷹揚に口角を上げてみせた。
「そのつもりになったら、いつでもくるといい」
 彼は一人で列車に乗り込み、そのまま二度と再会することはなかった。

 博士は寝台に肘をつき、指を組み合わせた上へ額を押し当て、ずっとそうしている。祈りを捧げているようだとエーリッヒはその姿を見つめる。博士はエーリッヒを責めなかった。叱りもせず、湯を使わせ、清潔な夜着を着せ、手厚く寝台に入れた。エーリッヒはされるがままになっていた。もう遁げ出そうとは考えなかった。それでも、持ち出した鞄は邸宅に連れ帰られるなり、何所かへ隠された。
 博士は(おもむ)ろに、エーリッヒに詫びる。このところの夫人との(いさか)いが、エーリッヒに肩身の狭い思いをさせていたのだろう。それで、こんな無謀な真似をしたのだろう。これからは、誰であろうと一切の口出しはさせない。だから、我が身と将来を無下(むげ)にするようなことはしないでほしい。
「エーリ、君は何も悪くない。私にも覚えがある…君のような青年の頃、或る種の無軌道な人間は、全く正反対の相手に興味を示し、近づいてくる…私もそうだ…青年のときには、そうした無軌道な男が、何か本来の自分にはない展望を与えるように錯覚をする…それで心を許し…だが、いずれ裏切られるのだ。未熟な日々の過ちだ…けれど、君はついていかなかった。君は立派な青年だ。もう、このことは忘れてしまうといい…」
 変化のないエーリッヒの眼差しに、博士は不安にかられ、問いかける。「彼を愛していたのかい?」
 エーリッヒは首を振った。「誰も、愛してなどいません…」
 博士は毛布越しにエーリッヒの胸へ顔を伏せたが、稍して部屋を出ていった。
 もう博士と対話することもできない。存在する理由を失ったのだ。

 博士は邸に閉じ籠もっていたし、どんな仕事にも手を付けなかった。エーリッヒが必要とされることはなかった。博士はエーリッヒに、今は心身を休めるよう云い含めたが、無為な日々はかえって酷烈にエーリッヒを苛んだ。
 書庫の隅に小さな窓があり、簡易な椅子と木箱とその上へ積まれた修復途中の本があった。その小さな空間にエーリッヒは入り込み、窓枠に凭れるようにして、いつまでも外の世界を視ていた。日差しは白く、朧げで、世界には色がない。既に晩秋だった。
 腕を持ち上げるのさえ気怠かった。何か仕事はないだろうかと博士に問いかけても、博士は鈍重な身振りで紫煙を払い、休んでいなさいと答える。博士も同じ病に囚われている。動くことがこんなにも大儀だのに、思考することだけはやめられない。
 博士は或いは、悪夢を視ている。その虚妄の中では同じ青年の年令をして、何を畏れることもなくエーリッヒと抱き合う。未だ何者でもなく、負うべき係累もない少壮の研究者であった頃、助手として、友人として、エーリッヒがいる。君を愛しているとリヒャルト・ケストナーは告げる。「お父さん」と愛しい青年は呼ばわり、悪夢は覚め、しかし冷たい部屋の中で指の間の煙草が灰となって崩れる。
 エーリッヒは窓の外を視ている。
 博士がいつものように仕事を云いつけてくれれば、例え寝台の上で求められることでも、何事もなかったかのように日常に戻り、そして心は失われていくのだとわかった。それが最も合理的な行動だ。そうとしか生きていけないのなら、他に何があるというのだろう。生きつづけている他に?
 それでも、破滅の期待が脳裡をよぎる。ラインハルトが、彼らしい横紙破りな方法でこの窓の外へ現れ、エーリッヒに合図を送るのではないか。おかしなことだ。とうに気づいている。決断を他者に肩代わりさせたいだけだ。それに、ラインハルトは戻らない。寄宿学校の教師や、舎監、書肆(しょし)の店員がそうだったように、彼は戻ってきはしないし、連絡をよこすこともない。ただ短期間、同じところへ居合わせたというだけ。彼らにとって、自分は何者でもない。
 廊下に接した扉の外でざわめきと怒声が起こる。稍して博士の足音が書庫に入ってくる。博士はエーリッヒの居所を見つけ出し、床に膝をつき、丸まった背をさする。怯えさせてすまないと詫びる。あの使用人たちは解雇したと告げる。
 博士は、エーリッヒ自身にも理由のわからない頬の痕跡の意味さえ、全てわかっていると確信する。
「ここでは安心して心を癒やすこともできないだろう、エーリ」
 博士の執着が、傲慢が、己を雁字搦めにしていると知りながら、エーリッヒ・シュトルツはそこにしか寄る辺がない。
 ずっと他者のために生きつづけてきた。だとすれば、自己のためにしてやれることはひとつしかない。

 仕立て上がったばかりの外套、新たに買い与えられた一揃いの旅行鞄、清潔な水と果物、砂糖菓子。
 客室に落ち着くと博士は持参した毛布でエーリッヒをくるみ、列車が都市を離れる間、肩に寄りかからせ、折々に顔を(のぞ)き込んでは欲しいものはないかと尋ねた。エーリッヒは何も答えなかったが、博士は水や果物や砂糖菓子を、意思のない人形にそうするように手ずから口へ運んでやった。エーリッヒは黙ってそれらを飲み下した。
 村の未亡人は急の来訪に文句を云いながら、幼い孫娘と共に山荘の窓を開けて回る。寝室の窓は博士が開け、家具の覆いを払い、寝台にうずくまるエーリッヒが誰の目にも触れないようにする。これで大丈夫だと博士は信じる。あの夏の日のように、全てが正常に戻るだろう。
 エーリッヒは殆ど口を利くこともなかった。
 博士は村の市で購った花々で寝台の周囲を飾り、それがどんなに希少で高価でも頓着しなかった。エーリッヒが薄く瞼を開いたとき、部屋は暖かく、卓には上等な菓子や果物が用意されていなくてはならなかった。それらが手のつけられないまま干からび崩れると捨てさせ、また未亡人を買いにやらせた。
 エーリッヒはひとつづきの眠りの中にいて、それは目を覚ましている間も同様だった。博士の愛撫を受け、食べ物を口に運ばれるときにも、思考はひとつの場所を彷徨いつづけていた。哀しみはない。かえってそれだけが心を支えてすらいた。だがあるとき、厚く雲の垂れ込めた夕方、目を開くと博士はいなかった。天井を見つめているうち、発作の前兆が忍び寄ってくるのを感じた。体温が失せていき、次第に呼吸ができなくなる。理由のわからない不安が膨れ上がり、寝台を下り、己の中に渦を巻く不安から遁れるように露台へ出た。裸足のまま、枯れた草地を進み、へたり込んだ。現実が頭上からのしかかってきた。思考が消え失せ、ただ呼吸をする肉体だけが残った。そのとき、自己が消失した。駈けつけた博士に抱き竦められ、連れ戻されるまで、エーリッヒは自己も思考もない肉体のまま、むき出しの現実の只中にいた。
 もう、ここが何所なのかわからない。
 博士は身を投げ出すようにして寝台のエーリッヒを抱き、沈黙をつづけていたが、やがて体を起こすとエーリッヒの頬に触れて云った。
「ラインハルトを呼び戻そう。そして君たちが共に暮らせる住まいを見つけよう。何も心配はいらない。私が全て良いようにしよう。だから、君がここを立ち去る必要はない。もう苦しまなくていい」
 博士は柔和な笑みを口許へ湛えていた。エーリッヒは小さく首を振ったが、それに気づくことのないほど、眼差しは憔悴し、虚ろだった。
 博士は顔を覆うと、押し殺した声で懇願した。
「……私の傍にいてくれ」

 未亡人の証言では、その日リヒャルト・ケストナー博士はずぶ濡れのまま戸口に現れ、腕に抱いた青年を見下ろし、死なせてしまったと云った。(くりや)で手伝いをしていた孫娘は、証人としては幼すぎたが、それでも祖母の発言を裏付け、主人に抱かれた青年の腕が、力なく垂れ下がっていたことを話した。
 少なからぬ村人が、年老いた未亡人が少女の手を引いて助けを求め村に戻ってくるのを目にした。また、現に彼らが駈けつけたとき、山荘の寝室には未だ硝煙の匂いが立ち込め、寝台に崩折れた博士の手には猟銃が固く握られていたし、傍らに横たえられた青年には息がないように見えた。全身に博士の血を浴びた青年がまだ生きているのに気づいたのは、遅れてやってきた村の医師だった。
 おそらく、別邸近くの川で入水を図り、死にきれず、青年だけを死なせたと思い込み、後を追ったのだろう。青年との関係は──それが憶測の通りであるなら、妻子もあり、高名な学者で代々の名士でもある博士には、死を思い詰めるのに十分だと考えられた。事件の直前には青年が別の恋人と遁げ、博士によって連れ戻されたのだという噂も広まった。
 昏睡と、それによる衰弱から回復すると、青年は程なく姿を消した。何も持たず、誰にも行方を告げなかった。博士の墓所に人知れず手向けられた花だけが、彼の失踪を伝えていた。
 ケストナー夫人は彼を捜すことなく、全てを放棄し、自身の死まで沈黙を貫いた。

 エーリッヒ・シュトルツが最後に見たのは、見知らぬひとのようになった博士の顔だ。
 それは、銃弾のために半ば破壊されたからではなく、血潮に染まった寝台で、あのとき朧げな視界の中に視た、まるで安らかに目を閉じたようなその表情さえ、エーリッヒには見覚えがなかった。博士の顔を、初めて視たような気がした。あれほどエーリッヒを規定し、求めたひとは、いなくなってしまった。ひとりきりだ。一人で生きていけるのだとわかった。

 その十三年間を誰も知らない。
 再び見出されたとき、エーリッヒ・シュトルツは三十二才で、独り身のまま、ある町の片隅に日々を送っていた。大学講師の職を得ているものの、名士たちに取り巻かれた往時の姿はない。天井の傾斜した粗末な下宿に住まいし、最低限度の道具の他には一抱えの書籍しか財産と呼べるものはなかった。寡黙で、社交的ではないが、下宿の主人である老未亡人は彼を息子のように頼っていた。口さがない学生たちにとっても、この酷く人目をひく青年は忍耐強く、温和な講師で、しかし決して必要以上に打ち解けることも、彼が自らの経歴や過去を語ることもなかった。いつでも黒い衣服を着て、まるで別の場所に生きているかのような眼差しを不意に見せた。他愛なく滑稽な噂話がいくつも彼を彩っていた。

「……けれど、知るひとのない町で日々を送っていても、ふとしたときに私は過去の自分と出会うのです。私には、埋めることのできない欠落がある。何気ない日常の中で、それを痛感する。生きているというただそれだけのことが、私にはうまくできない。他者にとっては瑣末な誤解や困難が、払い除けることもできず、重くのしかかってくる。そのとき、私は今もあの方が私のすぐ後ろにいるのを感じる。私は、私自身から遁れることができない…」

 貴方は、私に何を期待するのですかとエーリッヒ・シュトルツは問いかけた。
 君に救われてほしい、とゲオルク・ヘッケルは云った。
「あの頃、私は君を知らなかった。ほんの隣合わせの場所にいながら、とうとう君と会うことはなかった。そして君は消息を絶ち、若かった私にも、きっと君のためにできることは限られていただろう。けれど今なら、君に自分の人生を選ばせてやれるかもしれない。他者に定められたのではなく、強いられて選択するのでもなく、君には君の人生を生きてほしいんだ」
 指を滑らす頬は冷たく、ゲオルク・ヘッケルは自身の昂る感情だけが、その彫像のような美しい面差しに染み入ることもなく伝うのを感じた。エーリッヒ・シュトルツは哀しげに目を細めた。
「何ひとつ他者の介在しない選択があると、貴方は本当に思うのですか。自己を形作るのが他者であるように、それがどんなに強いられた選択であろうと、自らの選択に他ならない。私が私の人生を生きなくてはならないように、貴方は貴方の人生を生きなくてはならない。私は、貴方ではない」
 ゲオルク・ヘッケルはエーリッヒ・シュトルツの唇を塞ごうとした。

 細い煙が朝未(あさまだ)きの天井を緩慢に動いている。ゲオルク・ヘッケルは長椅子で毛布にくるまったまま、視線を彷徨わせる。ひとつだけ鎧戸の開け放たれた窓から仄白い光が室内へ差し、窓の下の椅子に脚を組んでルドガー・ワーグナーが煙草をくゆらせている。
 暖炉の火は(おき)となって燻っている。
「お目覚めですか?」とルドガー・ワーグナーは無頓着に声をかける。「何もこんな狭苦しい部屋でお休みにならないでも宜しいでしょうに」
 ゲオルク・ヘッケルは錆びついたような体を起こし、窓越しに枯れ草の蔓延(はびこ)った庭を見る。
「……あの青年は、どうしたんだ」
「というと?」
「君が殺して、川に投げ込んだのか」
 ワーグナーは苦笑する。朝は明度を増していき、見ると晩秋の空には灰のような雪が舞っている。
 やがてゲオルク・ヘッケルは長椅子から立ち上がった。
「今まで何所へ行っていたんだ」
「おや、社長が放り出された業務の後始末に、寝もやらず駈け回っていたというのに、随分ですね」
 ワーグナーは一息、長く煙を吐き出し、言葉をつづける。「それと、エーリッヒ・シュトルツは町へは戻らなかったようです」
 答えない雇用主を見遣り、側近は起伏のない声で問いかける。
「追わせますか? 列車はわかっていますから、今ならまだ容易でしょう」
「……いや、必要ない」
 ゲオルク・ヘッケルは云った。
 エーリッヒ・シュトルツは再び姿を消した。彼の人生をこれ以上知る必要はない。
「あの少年は同行したようですね」
 エーリッヒには不可解な少年がまとわりついていた。ヨーズア・ウェーバーという名の、年令よりも幼く、傲岸で、破滅へとひた走るような少年が。何者かに依存されなくては存在できない彼の空虚さが不憫だった。
「だが、私は私の人生を生きなくてはいけない…」
 独りごちると、ワーグナーは朗らかに請け合った。
「ええ、何もかも貴方の思うがままです」
 ゲオルク・ヘッケルは小さく笑いを洩らし、上衣(うわぎ)の隠しから古い写真を取り出すと、しばし眺めたあと熾火の上へ捨てた。
「手配してくれないか。ここを取り壊し、土地も処分する」
「宜しいので?」
「ああ、全て過去のものだ」
 振り向くと、写真は既に黒く縮んで崩れ、そこに留められていた記憶も読み取ることはできなかった。
 どうしてか、ありもしない黒い花のように見えた。

追憶

追憶

自己を許されたいという欲求は、きっと愛とは異なるのだろう。 「喪失」へ至る物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-26

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