温かい雨

初めての東京の梅雨に感じた鬱屈と詩情の私小説

 梅雨が来るたび思い出す出来事がある。
 その年の初め、私は東京に引っ越した。小学校五年生だった。
 最初のうちこそはにぎやかな都会に浮かれていたが、二か月もするとずり剥けの肌に、唐辛子を塗りこまれるような、皮膚がひりひりするような苦痛を毎日味わうようになった。私はいじめにあっていた。

 「ねえ昆野さん、今日これから学童行こうよ」
 その日雨宮さんと上田さんに急に誘われた。二人は六年二組でも目立つ女子だ。聞こえるように悪口を言ってくる七八人の中心人物とも、特に仲が悪い印象はない。二人は私を誘うことがまるで当たり前だとでも言うように、くだけた、親し気な表情をしていた。三呼吸ぐらい置いてからうなずいた。
 その日は朝から降ったり止んだりだった。私は花柄と水玉の傘を追って歩いた。二人は楽しげに話し込んでいる。時折振り向いて話をふった。一言二言私も答えた。
 降り注ぐ雨は肌に触れても温かく、絹糸で撫でられているようだった。街路樹の緑が柔らかな雨を受けて、遠くになるにつれて白くけぶっていく。灰色の街に等間隔に並んでいくその萌黄の点々のライン。
 二人に言ってもいいのだろうか? 初めての東京の梅雨に感じた詩情を。私は黙って二人の傘を眺めた。銀色の骨を伝い、雫がランドセルを濡らしている。私の言葉は喉の奥でつっかえていた。

 学童には二十人くらいの小学生が集まっていた。皆まとまって行動することもなく、好き勝手にばらけている。
 「昆野さん、本好きだよね。そこの本棚に色々あるよ。」
 二人はそう言って、合流した子供達と外へ出た。私は小さなホールに取り残された。確かに棚には本があった。だがどれも子供が読む幼稚な本に見えた。テラスから外を見る。雨は上がり、学童の庭に沢山の水溜りが出来ている。低学年から高学年までの子供が遊んでいた。笑い声を上げ、水たまりを踏んで、雀の子の様に飛び跳ねている。私は部屋をうろうろして、頭の中で空想を回した。

 陽が傾いて水溜まりを染めた。結局一度も遊ぶこともなく、私はくだんの二人と学童を後にした。果たして、心に想うことは話すべきか止めるべきか?目の前で軽妙にかわされる会話を聞きながら、私はついに口を結んだまま別れた。
 また雨が降り出した。私は傘をささなかった。雨が生っ白い肌を撫でて雫を作った。再び空想が渦を巻く。少しも冷たく感じなかった。

                  了

温かい雨

温かい雨

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-26

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