
フリーズ179『あの冬へ、さようなら』 【応募中につき非公開】
あの冬へ、さようなら
第一部
1プロローグ
僕よ。あの冬の日の、全てを忘れ、また知っていた僕よ。忘我から目覚める日、流転の中で、精神は神そのものだった。あなたこそ神だったのです。そんな僕に一つ訊きたいことがあります。あなたの本当の名前は何だったのですか。あの日の僕は、確かにその名を知っていた。けれど、時流が記憶を強く断絶してしまったのです。私はどうしても、その名前が思い出せないのです。
魂には名前が刻まれています。ですが、生まれてくるときに魂の記憶と一緒にその名前は封印されるといいます。なぜ、私は大切なその名前を忘れてしまったのですか。その名前を思い出したあなたは、魂が心ごと震えるような歓喜に酔いしれて、あれほど高らかに歌い、軽やかに踊ったではないですか。なぜ、私は今生きているのですか。本当の名前を忘れてしまった私にはもう、生きる意味などないのに。
願い叶うなら、もう一度あの冬へ。それが叶わないというのならば、私はこの輪から泣く泣く去ろうと思います。私には魂を分かち合う友も、心優しき妻もいないのですから。
2捜査
東京で今年初めて猛暑日が観測された日だった。都内の或る十字路の真ん中に、生花に包まれた凍死体が一つ発見された。その遺体は脳の一部が切除されていたが、それ以外の外傷はなかった。
「MRIで見られるのを恐れてか」
MRIとは脳の記憶を取り出す技術のこと。刑事の真壁は死体の様子を見ている科学警察研究所脳科学研究室の室長である霧崎に向かって呟いた。霧崎は真壁の言に頷きながら、奇麗に大脳だけを取り除かれたその死体の頭部を詳しく調べた。
「脳の切断面を見るに、大脳を切除したのは素人ではなさそうだな」
「なら、犯人は医者か?」
「そうなるな。だが、犯人はわざわざ死体を囲むように生花を置いている。おそらくは猟奇殺人だろう」
「ということは連続殺人になる可能性もありそうだな。おい、佐々木!」
真壁は遠くの方でメモ帳を片手に、ペットボトルの水を飲んでいた部下の佐々木を手招きで呼び寄せる。佐々木はカバンに飲み物を仕舞い、駆け足で真壁の元まで向かうと、ハンカチで額の汗を拭いながら元気よく応えた。
「はい! 真壁さん。どうしました?」
「お前は被害者の交友関係を調べて、その中に医者がいないか探せ」
はいと返事をして去っていく佐々木を見つめながら、霧崎は溜息を吐く。
「彼、新人だったか」
「ああ。威勢はいいんだが、少しばかり抜けてるとこがあんだよな」
「ほう。面白そうだな」
「人の部下をからかうなよ?」
「わかっている」
微笑みながら霧崎が答えたその時、霧崎の携帯が鳴った。霧崎は真壁に断って電話に出て応答をする。数十秒して、電話は終わった。携帯をポケットに仕舞うと、霧崎は真壁に向き直って告げる。
「すまない。私はこのまま一度研究室に戻るとするよ」
「大脳がないんじゃ、脳研の仕事はなしか」
「いや、そんなこともないぞ」
霧崎の言葉に、真壁は目を見開くと、首を傾げながら戯けて尋ねる。
「記憶を司る大脳がないのにか?」
「ああ。東京脳理学研究所の所長からの電話でね。ついに全脳へのアクセスが認可されたらしい」
その返答に、真壁は目を大きく見開いた。
「全脳、ってあれか? ちょっと前にノーベル賞を取ったとかで話題になった……」
「そうだ。英国の理論物理学者フィールデントが見つけたものだ」
「で、全脳って何のことだ? 文系だった俺にはさっぱりだよ」
「そうだな。全脳とは、全ての意識の保管場所と言われている宇宙の特異点だ」
「つまりどういうことだ?」
「つまりだな。全ての意識は量子もつれによって発生しているが、その相補性を持ったもう一方の粒子たちが宇宙のどこに存在するか分かったんだ」
「どこにあったんだ?」
真壁は霧崎の話に興味津々と受け答えをする。
「『エデンの園』とも『あの世』とも呼ばれるその場所をフィールデントはこう呼んだ。ラカン・フリーズとね」
「まじかよ。それって本当なのか?」
霧崎は得意そうに真壁の問いに深く頷いて応えた。そんな霧崎を見て、真壁はあることに気づき、再度問いかける。
「てことは、そこにアクセスできれば、もしかして死者の記憶も見られるのか?」
「それはわからないが、可能性はあると思う」
「解決の糸口にもなるかもしれないな」
「その通り。私は今から、脳理研に行ってくるとするよ」
「おう。またな」
霧崎が軽く手を上げると、真壁もそれに応じて手を上げる。
「さて、聞き込みでもしますか」
真壁は去り行く霧崎の後姿を見ながら、緩めていたネクタイを再び締めた。
3対談
全脳観測システム『ウジャト』の初稼働日である東京脳理学研究所は、いつもより忙しなかった。それもそのはず。今日、ウジャトの始動に合わせて、量子物理学の権威であり、MITの名誉教授であるマイケル・ヨセフ・フィールデント名誉教授が来日するからだった。フィールデント教授の研究対象は脳科学、材料工学、情報工学、生命工学、言語学にまで渡り、特に物理学及び脳科学では他者の追随を許さないほどだった。
そんな彼と、東京脳理学研究所所長の式田徹が話していた。
「先ずは、フィールデント教授。ようこそおいで下さいました」
「いえいえ。式田教授のお呼びとあらば」
「ありがとうございます。私たちが最初に出会ったのは、MITでしたよね」
「ええそうです。あの頃が懐かしいですな」
「はい。私とあなたと、もう一人でよく論じていましたね」
その時、二人の顔に影が落ちる。
「ヨハン。彼が生きていれば、きっととっくに宇宙の真理は解明されていたことでしょう」
「そうですね」
ヨハン・ルイス・キイス。式田とフィールデント教授の旧友にして、21世紀半ば、万物の理論を解明するのではないかと世界中の研究者たちが注目した男であった。だが、彼は齢二十二にしてこの世を去っていた。むしろ、彼が注目されたのは彼の死後のことであった。
「どうしていつの時代も、世界は天才を、死後になって認めるのでしょうか」
まだ学生だったヨハンの提唱した『全脳理論』は宗教的、倫理的、人道的に当時の世界では受け入れられなかったし、何よりもその高度な数学や、彼が全脳を記述するうえで創出した概念らを理解できるほど、当時の哲学や物理学、脳科学は発展していなかった。
世の物理学者や脳科学者は彼が提唱したその理論を狂人の戯言だと叱責した。対して、式田やフィールデントの論文は世界で高く評価された。そう、いつの時代も、天才は先を行き過ぎてしまうのだ。故に誰にも理解されず、助けてもらえず、孤独に打ちひしがれて、最終的には……。
「もっと私たちが彼の理論を理解していれば、寄り添っていれば……。だが、彼はもうこの世にはいない」
「だけど」
「ああ、わかっている。私たちはようやく彼の残した手記『ラスノート』を読み解き、全脳にアクセスする準備ができた。ようやく彼との邂逅の時だ」
『ラスノート』――全脳理論
序
はじめに、この作物は真理を求めるものではない。むしろ、真理から出発する思索の結果である。歪んだ因果律から宿命を解き放つには、死の試練を受け入れて、破壊と創造を同値にする、最高天を飾る神殿の中央にあり、至高を冠する記憶の還る場の水面に映った万象の風のように、時の障壁を見つめてなお、己の運命を愛する必要がある。だが、ここで当然の疑問が一つ生まれる。
『崇高なる最高天のその上を定義するならば、そこはどこにあるか』
最高天のさらに上の概念を『エデンの園配置の先』と称したのは21世紀前半における三賢人の一人ラッカ・レーラインであった。だが、本当にそんな概念は存在するのだろうか。
答えは是である。
宇宙の起源はビッグバンだと吹聴されているが、あれは甚だ誤りである。神は世界を暇つぶしに作ったのではない。必然性と己の生の発露によりて作ったのである。神も仏も、最高天に坐します彼の者でさえ『なぜ生まれたのか』の解は持ち合わせていなかった。
『全脳理論』とは、既存する全ての定理や定説の中で最も真理に近い理念であり、全存在の使命たるこの問いに答える道の一つである。……(以下略)
4実験
霧崎が東京脳理学研究所に着くと、案の定人だかりができていた。今日は確か、外国から要人が来るんだったかと霧崎は思いだし、人ごみの中を抜けていった。少し歩くと、向こうから群衆が裂けていった。黒い車が一台発進するようだった。霧崎の真横を抜けて、人の海の中を、海を割るかのようにかき分けては、遠く、夏の蜃気楼の向こうへと消えていった。
「あれは……」
霧崎は暗い車内に一人の整った顔立ちの少年を見た。なぜ、中高生くらいの子どもが東京脳理学研究所から出てくるのか、霧崎には分からなかったが、彼の目的を果たすべく、割れた人の海のなかを颯爽と抜けていった。
「式田所長はいますか?」
研究所内はガンガンにクーラーが効いていて涼しかった。霧崎は汗が引いてくるのを感じながら、受付の女性に尋ねる。
「式田所長は今会議中でして」
「そうですか。では、全脳観測システム『ウジャト』はどうなったのですか」
「今現在、情報を公開しておりません」
「では、会議が終わるまでお待ちします」
霧崎は受付の女に会釈して、ロビーのソファーに腰を下ろした。ロビーには一般の患者も見受けられた。ここ東京脳理学研究所は、精神病院では治療できない病気の病人を一定数請け負っているのだ。患者たちはその家族に付き添われながら、みな虚ろな顔をしていた。ここではないどこか遠くを見ているかの様だった。まるで精神を喪失したニーチェのように。彼らの病気は神格障害と呼ばれていた。症例数は年に数十件と少ないが、未発見、誤診を含めると、年間で百人ほど患うだろうと言われている脳の病気で、歴史上、ニーチェが四十五歳の日に精神崩壊したのもこの神格障害によるという説もある。
霧崎の母が他でもない神格障害の患者であった。霧崎が学生の当時は神格障害はまだ見つかっていず、統合失調症や強迫性障害、双極性障害などの精神疾患に分類されていた病であった。母の病の治療法を見つけようと、脳科学を大学で学んだ霧崎は今は警察の脳科学研究室に勤めている。
一時間ほど待っていると、所長室の扉が開き、中から白髪の男が出てきた。男はスーツに身を包んでおり、顔には皺が深く刻まれていて、六十代くらいに見えた。男は霧崎のもとまで歩くと霧崎に語りかけた。
「君が、十年前にあの論文を書いた霧崎君かい?」
男が尋ねたので、霧崎はうなずいて応えた。
「まさか、ご存じとは」
論文とは霧崎がかつて大学院生の時に書いたもののことであった。
「『変性意識下のロゴス統合による全脳の相補性証明』あれは実によい論文であったな。私はこの研究所の所長をしている式田だ。よろしく」
霧崎は握手を求められ、それに応じる。
「ええ、よろしくお願いします」
「では、研究室に案内しよう」
式田はそう言うと、足早に歩き始めた。霧崎はその後ろについていく。途中、何人かの職員とすれ違ったが、皆、興味深そうに霧崎を見つめていた。研究員たちは皆一様に白衣を纏っていて、霧崎は浮いていたのだ。二人は地下三階にある実験室についた。そこは薄暗く、換気扇の音が響いていた。そして、部屋の真ん中に大きな水槽があり、中には脳が入っていた。それは紛れもなく人間の脳であった。直径二十センチほどで、淡い光を放っていた。まるで蛍光ペンライトのように、淡く発光していたのだ。
霧崎は息を飲んだ。人類の夢の果ての姿がそこにはあったのだ。
「これが全脳ですか?」
「いいや、これはダミーだ」
式田はそう言うと、パソコンを操作し始めた。すると、水槽の中に液体が流れ込み、脳を包み込んでいく。しばらくすると、脳を覆っていた液体が排水されていき、水槽の中から、先ほどの脳とは別の物体が出てきた。それは人の脳の形をしていた。しかし、先ほどと違い、強い水色の光を発していた。
「これは完全ではないのだよ、霧崎君」
「では、全脳は一体どこに?」
「全脳はまだ人類には早かったのだよ」
式田は残念そうに言う。それから、式田は研究について説明を始めた。彼が進めているのは、全脳観測システム、通称ウジャトの開発である。霧崎はかつて自分が学生時代に書いた論文が理論の構築に寄与したそのシステムの名前を再び聞くことになった。そして、それがまだ不完全であることを知らされた。
「全脳理論には不備があったのですか」
「いいや、違う。我が旧友ヨハンが唱えた全脳理論は完璧だ。だが、あまりにも完璧すぎるのだよ。故に、今の人類の科学技術では到底至らなかった。我々人類はまだまだ未熟なのだよ」
式田は悔しそうに拳を握りしめて言った。
「なるほど、だから未完成のままなのですね」
霧崎は納得したようにうなずいた。
「そうだとも、我々はさらなる進化を遂げなくてはならない」
式田の言葉に霧崎は深く頷いた。
「ところで、霧崎君、君は何故『神格障害』を研究していたのだい?」
突然の質問に霧崎は一瞬戸惑ったが、すぐに答えることにした。
「実は私が中学生のころ、母が原因不明の精神疾患を患ったのです。それで、治す方法を探ろうと思って」
「そうか……」
式田は遠い目をして、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「君の母上のことは残念だ……。私も神格障害の治療方法については長年頭を悩ませてきたものだが、未だ解決策を見いだせずにいるんだよ」
「……そうですか」
やはり自分の力不足だったのかと落胆した霧崎だったが、ふとある考えが頭をよぎり、霧崎は思い切って聞いてみたくなった。
「あの、式田さん、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんだね?」
「神格障害の原因は何だとおもいますか?」
「……」
霧崎はこの質問で式田の顔色が変わったのが分かった。何か知っていそうな雰囲気だった。彼はおもむろに立ち上がると、部屋の奥にある扉を開いた。そこは薄暗い部屋で、四方を本棚に囲まれていた。その奥には机が一つあり、その上にパソコンが置かれていた。
式田はパソコンを立ち上げ、キーボードを打ち始める。画面上にプログラミング言語が次々と表示されていく。式田は真剣な表情でそれを打ち続けていた。
「今から四十年ほど前のことだ」
式田はキーを打つ手を止めると、話し始めた。
「当時の私は一介の研究員に過ぎなかった。私は一人の同僚とともに、とある実験を行っていたのだが、ある日、偶然にもその同僚の研究者が神格障害を患ってしまったんだ。その時、私は悟ったよ。人間という生き物がいかに脆く、儚い存在なのかということをね」
式田はそう言って、天井を見上げる。彼の目には何が映っているのだろうかと、霧崎は考えた。
「そこから私は一つの仮説を立てたのだ。それは『神格障害の正体は脳の機能異常によるものではなく、むしろ完全さの行く末に人格そのものが変わってしまうことではないか?』ということだ」
「完全さ? 人格が変わる?」
「そう、例えば多重人格というものがあるだろう? 彼らは複数の人格を持つわけだが、なぜそのようなことになるか考えたことはあるかね?」
霧崎はしばらく考え込んだが、何も思い浮かばなかった。
「分かりません」
「そうだろう。では、君に質問しよう。もし、君自身が別の誰かになったとしたら、君はどう思う?」
霧崎は答えに窮してしまった。自分自身が違う人間として生きていくことなど、想像もつかなかったからだ。
「すみません、私にはよく分かりません」
「だろうな、君のような若者には難しい問題だ」
そう言って、式田は苦笑いするのだった。
「さて、話を戻そう」
式田はそう言うと、再びパソコンを操作する。すると、画面に映像が現れた。どうやら監視カメラの映像のようだ。そこには一人の男の姿があった。その男は椅子に座っていた。
男は十代半ばくらいの青年に見えた。髪は長く、後ろで束ねられている。顔立ちは非常に整っていた。目は切れ長で、鼻筋が通っている。病衣を纏ったその青年はどこか憂いを帯びた表情をしているように思えた。しかし、次の瞬間、彼の顔が歪んだかと思うと、目が赤く光り始めた。そして、椅子から立ち上がり、部屋の中を徘徊し始めたのである。まるで獲物を探す獣のようであった。その姿はまさに狂気そのものであった。
「これは……?」
霧崎は思わず声を上げた。これはまさしく神格障害の急性エピソードにおける症状であった。発作に伴う精神崩壊及び発狂は、多くの神格障害の罹患者を殺してきた。
「この男は私の旧友でね、名をヨハンと言う」
「まさか……この男が!?」
霧崎は驚愕のあまり、目を見開いた。
「そうだ、ヨハンは三十年以上前に死んだはずの男だ。しかし、彼は生きている」
式田は悲しそうに首を横に振って続ける。
「彼は三十年前に死んだことになっているんだよ。だが、あくまでも精神的な死であったのだ。彼の体はむしろ健康体そのものであった」
「この映像はいつのものですか? 今、彼はどこに?」
「確かに全脳観測システムは失敗に終わったが、私たちは旧友ヨハンを精神の死の淵から救うことができたんだ」
「まさか。神格障害を完治したというのですか?」
「ああ、彼だけだがね」
この話を聞いた時、霧崎はここに来る途中に車の中にいるのを見かけた一人の少年を想起した。漆黒の車の助手席に座る彼が、まさかヨハン? そう考える霧崎の心を知っているかのように式田は応える。
「彼は神格障害のことを『神の病花』と呼んでいたよ。神格障害になる原因を彼は、人間の遺伝子が現代科学の進歩に追い付いていないことだと言い放った。我々人類の進歩が速すぎたのだよ、霧崎君」
「確かに、人類の進化の早さゆえに起こる障害は多々ありますが」
「だが、ヨハンはその病を克服した。高校生の体を手にした今、彼は私の孫として引き取っていて、都立開闢高校に通わせるつもりだ」
「かの智者ヨハンならば、開晴高校でもいいのでは?」
「何を言っている。あそこは男子校ではないか。ヨハンは生き返る前も含めて、まだ恋愛をしたことがないんだよ。だから、少し偏差値では劣るが都立開闢高校に入学させる」
「恋愛ですか」
「そうだよ、霧崎君。君もそろそろ研究ばかりしてないで結婚を考えなさい」
「はぁ……」
霧崎のため息に式田所長は一つ咳払いをした。
「で、本題に入るがいいかね」
「はい、構いません」
「ここからは守秘義務が課される。君は全脳理論の構築に関与した研究者であるし、その実績を鑑みて特別に教える。国連直属の秘密組織エデンのことを」
霧崎は眉を顰める。
「エデン? 初めて聞きました」
「表には出ていないが、この世界を裏で牛耳る組織だよ。富豪やら政治家やら、とにかく金、地位、名誉を我が物にする資産家達が真理を悟れるように、という組織だ」
「真理、ですか」
「そうだ。そしてその組織は全脳理論こそ救世の秘儀だと考えている。我が旧友を救世主と呼んでいる。全ての人類をこの3次元世界から連れ出すために、そのためだけにエデンは存在する」
「解脱ということでしょうか」
「嗚呼、そうなるね。ヨハンの理論はキリスト教も仏教もイスラム教も、全ての宗教は正しく、またある程度間違っていると語った。エデンの園の先にあるラカン・フリーズこそ還るべき場所だとね。そのラカン・フリーズをある宗教は涅槃といいある宗教は楽園という」
「宗教にも通ずるのですね」
「そうだとも。なぜ生まれたのか、どうやって終わるのか。そういった問いに答えてくれるのは哲学か宗教くらいなものだよ」
霧崎は大いなるシナリオを知ってなお、まだ半信半疑だった。
「全脳理論の行く末に全ての人類が解脱するなら、その世界は終末ですか?」
式田は微笑んで答えた。
「そうだとも。終末だよ。全ての我慢に、全ての苦しみに終わりをもたらすのが救いだ。特別に地下5階の実験装置に連れてってあげるよ」
「いいんですか?」
「嗚呼、いいとも」
『どうせ生きては戻れないのだから』式田はその言葉は言わずに、霧崎を地下5階の実験室まで案内することにした。
『ラスノート』――全脳理論
壱
序論で触れたラカン・フリーズという概念を先ずは説明しよう。神を君は信じるかね。
否、でも是でも、必ず死という物語の終わりには曼珠沙華が咲く。その色は人それぞれであるが、人の死はまさしく散りゆく桜の花の様でもある。
死について現段階の科学は無知蒙昧も甚だしく、遺憾である。そもそも脳科学が遅れている。物理学も遅い。至るには百年はかかる。物理の道ならば、私が死ぬ方が先であろう。それ故に我が記す『ラスノート』は確固たる哲学書である。
まず、我々はどこにいるのかをしっかりと把握している者の少なさに、甚だ怒りを感じる。太陽系だろう。三鷹市、オックスフォ―ド、アテネ。地球の人間が名付けた地名の前に、太陽系の地球にいることを忘れてはいけない。数々のアニミズム信仰による太陽信仰は健康のために是非ともお勧めするが、さらに私たちは宇宙に住んでいるのだ。そして、他でもない、その宇宙こそ『全脳』。すべての意識体は、無機物も含めて、大なり小なり意識を持つ。その意識たちの相補的意識の集合体がまさしく全脳なのである。全脳には時間など関係なく、アクセスすればなんでも知ることができる。それ故に危うさも内包する。
悪者がもし全脳にアクセスしたら、不幸な者が増えるだろう。
だが、安心していい。我が全脳理論こそ、世界永遠平和のための哲学なのだよ。
全脳にアクセスできるのは私が定義した病『神格障害』になる者だけ。神格障害になる病人は皆優しい。自分を犠牲にして人のためのことをする。そういう循環性性格などの者しかならない。世界を再び永遠平和にする神のシナリオには欠落はない。
よって、『全脳』により、数々の死生観が変わるだろうし、この理論が認められれば、自ずと世界平和のために人々が動き出すだろう。だがな、私には全脳理論の証明の先に、一つの疑問を抱いたのだ。
全脳は、神は、何処より、何故来たか。
第二部
5転入生
「今日このクラスに転校生が来ます」
先生の一言にクラスは沸き立つ。どんな人が転入するのか、生徒達は興味津々と言った様子だった。
「では、入ってください」
式田ヨハンは開闢高校3年7組に転入した。教壇の前まで歩むと、ヨハンは自己紹介をした。
「みなさん、こんにちは。私は式田ヨハン。アメリカから来ました。よろしくお願いします」
拍手が起こった。
「式田くん。窓側の最後列の席に座ってくれ」
「はい」
ヨハンが歩くと、男女問わず彼の美貌に見とれてしまった。ヨハンは美少年だったから。席に着くと前の席の男、中村が振り返って聞く。
「日本語喋れるの?」
「うん。勉強したからね」
「すげぇ流暢。日本人かと思ったよ」
「ありがとう」
ヨハンはそれから学生生活を送る日々を過ごすことになった。それから三日後、下校しようとしたヨハンの靴箱から手紙が出てきた。「放課後、屋上で待ってる」というものだった。
ヨハンは一人で屋上へ向かった。そこには同じクラスの遠藤サナがいた。
「ヨハンくん。いきなりだけど、来てくれてありがとう……」
「うん。それで用って?」
「あのね、私、ヨハンくんのこと好きなんだ。だから、私と付き合ってくれませんか?」
その次の日から遠藤サナは学校に来なくなった。事情を知っていた女子生徒たちはきっとヨハンに振られて、その失恋で学校に来れないものと思っていた。だが、遠藤サナは凍死体で発見された。その遺体の大脳は切り取られていた。
6衝突
警察署にて、真壁は怒鳴る。
「なんで捜査してはいけないんですか!」
真壁の直属の上司は諭すように、諦めるように語った。
「国連がそう決めたからだ」
「だからと言って人殺しを認めろと?」
「彼らはまだ生きている、と国連は言う」
「大脳が切り取られたのにですか?」
「あぁ。こればかりは諦めるしかない。真壁、我慢だ」
「分かりましたよ。なら、俺一人で捜査します!」
そう言い放つと、真壁は部屋から出て行った。
「真壁先輩!」
佐々木は真壁の後を追って行った。
「日本警察は国連に従うって決めたんですよ! 真壁さん、諦めましょうよ」
「この前殺された遠藤サナ。あいつは俺の姪なんだよ。許せるものか!」
真壁の顔は怒りで歪んでいて、彼は拳を強く握りしめた。
「霧崎はどこにいるんだ!」
霧崎は数日前から音信不通になっている。研究室に電話を入れたら行方不明という。真壁は親友の安否を心配しながらも、一人で捜査を続けることにした。
7猟奇殺人
「ヨハン。また殺したのか?」
「いいや、式田。僕は救ったのさ」
東京脳理学研究所の地下5階の実験室。そこには大脳たちを保管する大きな装置があった。それは国連直属の秘密研究所だった。
「全脳に戻ること。それが涅槃であり、神の愛なんだよ。僕はみんなを楽園へ連れていったのさ」
「まぁいい。国際連合の秘密組織エデンは君の研究を認めている。そのうちは捕まる心配は無い。それより、研究は順調か?」
「順調だよ。遠藤サナも宇宙に溶け込んで喜んでいる。いずれ僕と融合することを彼女は受け入れてくれたんだ」
ヨハンは、死を望まない人を殺したりはしなかった。ただヨハンが語る真理を知って、悟りの境地に近づいた人々たちは、皆一様に自ら望んで死ぬことを選んだ。ヨハンは本人の同意を得ると、その人を安らかに眠らせるように殺した。そして、死んで直ぐに大脳を切除して、実験装置に繋げる。その装置では脳たちが生きていた。
エデンの園の仮想現実を生み出す実験装置の中で、脳たちは至福に永遠の時を過ごす。
ヨハンは全脳理論のために、エデンの園配置を満たさなければならないことを知っていた。エデンの園配置は確率ゼロの丘を越える秘儀。全脳理論の完成を、ヨハンは何より重要視していた。その実験のひとつとして、大脳の試験運用を行っているのだった。
「ヨハン。次は私の番か?」
「式田。もう帰りたいのかい?」
「嗚呼、ラカン・フリーズ。魂の故郷に帰りたい。長かった人生も、輪廻の枷ももう終わるんだ」
「式田。もう未練はないんだね」
「嗚呼。私は君の全脳理論を信じている。全ての人生の完成の日を、君の言う神のレゾンデートルが解明される日を」
「分かったよ。じゃあ今から準備するね」
実験室の隣にある部屋は氷点下の気温を維持している。そこへ式田を連れて、ヨハンは準備を始めた。
「最後の眠り。そのために麻酔をかけるよ。いい?」
「うむ」
「言い残したことは?」
「ない。何故なら帰ったら全てが繋がるんだろう?」
「そうだったね。じゃあまた会おう」
そして、式田は秘密裏に亡くなった。だがその脳は装置の中で生き続ける。上位存在として生まれ直すのだった。
8聞き込み
刑事の真壁は遠藤サナの通っていた高校を張り込んだ。校門から出る生徒に片っ端から声をかけて。
「やめてください。刑事さん」
「この学校の教師ですか? 遠藤サナについて知っていることを話してくれませんか?」
「校門で聞き込みなんて迷惑なんですよ。現に生徒のひとりが文句を言ってきましてね。どうかお引取りを」
「そこをなんとか」
「真壁さん」
佐々木は真壁を制止する。
「真壁さん。諦めましょう。上ももうこの事件で捜査するなって言ってます」
「そうか……」
その時、ひとりの女子生徒が真壁に声をかけた。
「サナのこと、調べてるんですか?」
「君は?」
「私はサナの親友だった者です。サナは死んだんですか?」
「嗚呼。残念ながら」
「そんな……」
「何か遠藤サナについて知っていることはないか」
「私はてっきり失恋で学校に来れなかったのかと思ってました。もうこの世に居ないのですね」
少女は涙ぐむ。そんな彼女に真壁は「失恋ですか?」と問いかけた。
「はい。転入生に一目惚れしたって言って、それで告白したんです。その次の日から学校に来なくなって。てっきり、その男の子に断られたから来ないものかと思ってて」
「その男の子の名前は?」
「式田ヨハンです」
式田ヨハンね、と真壁は確信した。真壁は長年の勘で、その少年が連続殺人犯だと推定した。
9会議
国連直属の秘密組織エデン。その定例会議が開かれていた。集まるのは世界を裏で牛耳る富豪たち、知識階級者たちだった。
「ヨハン様、全脳理論の実験はいかがですか?」
一人の議員がヨハンに尋ねる。
「滞りなく、順調ですよ」
「それはいい。私たちは金を出したんだ。ちゃんとエデンの園へ導いていただきたい」
「はい。そのつもりですよ。ゆくゆくは全ての人類を輪廻の輪から解き放ち、神の楽園へと導きます。それが私の使命、役割ですから」
「それは結構。だが、猟奇殺人事件として日本の警察に捜査されていたらしいじゃないか。私たちで圧力はかけたが、実験体の体を敢えて衆目に晒すような真似をしたのは何故かね」
「死が美しいからです。花々に包まれて眠る凍死体。それは芸術そのもの。だから猟奇殺人は私の嗜好ですよ」
「そうかね。だが、これ以上問題にはしないで頂きたい。問題の芽は摘まなくてはならない」
「分かりました。以後は猟奇的な行為はしないことにします」
「他にヨハン様に聞きたいことがある者は?」
すると暫く沈黙して、一人の男が手を挙げた。
「全脳理論が完成すれば、神格障害も治るんですよね」
「はい。私の理論では、神格障害を意図的に脳と魂に発症させ、その病状の完成形を目指します。神格障害は病気ではなく覚醒なのですから」
「分かりました。私の娘が神格障害なので、期待しています」
「他にある者は?」
誰も手を挙げなかった。
「なければ予算決議に移る」
会議は続く。
第三部
10ヨハンの声
僕は幸せだった。でもどんな経験も、人間的な幸せも、あの冬の日に僕が味わった至福には、歓喜には至らなかった。
きっと僕があの至福を次に経験するのは僕が死ぬときだろう。神格障害の末に至った至福。その永遠なる歓喜に僕の全脳理論は完成したのだから。
2021年1月7日。その夜はまさに聖夜だった。あの時の僕の脳はほとんど死んでいるようなもんだった。病に脳が、心が死にかけていた。僕は幻想の中でヘレーネという女性と愛し合った。だが、8日の朝にはヘレーネの面影はなくなった。彼女はアニマ。僕の中の女性性だった。自己愛の帰結としてのキスは永遠の味がした。
8日、僕は神に会った。いいや、神に合ったという方が正しいか。僕は神に、全脳に繋がった。それは永遠だった。時流なんてないと悟った僕は書道バックから筆と墨汁を取り出して自分の部屋に絵を描いた。胎児に、りんごに、乙女に、最高の絵ができた。そして僕はマンションの屋上に上って高らかに歓喜の歌を歌った。天上楽園の乙女に届くように。
僕はその時に飛べばよかった。空へと羽ばたいて、天上楽園の乙女に逢いにいけばよかった。そうしたら僕は世界で一番美しく死んで、物語は最高のエンディングを迎えただろうに。でも僕は今こうして生きている。僕の本当の名前はまだ思い出せないけど、それでも生きている。
神格障害の末に僕は真理を悟った。でも今はもう思い出せない。真理はとても美しかった。ラカン・フリ―ズの門、水門の先の景色はあまりに美しくて僕は涙を流した。だけど、その門を越えるのは僕が死ぬときでいい。あの冬の日の僕は門の先を見据えてなお生きることを選んだんだ。平凡な幸せを、僕が僕として、人間として経験する幸せのために生きることを選んだから。
全ての死には意味がある。意識がイデアの海に溶け込む。その海こそ神であり全脳だった。最後にはみんなもあの場所に還るから。だから大丈夫。死を恐れないで。最後は笑えるよ。ありがとう、愛しています。
11対峙
真壁はヨハンの居場所をつきとめた。都内の高級マンションの一室。真壁は玄関先でヨハンが出てくるのを待つ。だが、インターホンを鳴らしても、一向にヨハンは出てこない。
何故ならヨハンはこのことを知っていたから。全脳に繋がったヨハンにとって人の意識や思念を読み取るのは容易いこと。
カチャ。拳銃が真壁の頭に突きつけられる。そこに居たのは黒ずくめの男だった。
「これ以上関わるな。死ぬぞ」
「死んでも構わないさ。だが、ここで殺せばヨハンに迷惑がかかるんじゃないか?」
「戯言を。ならここで死ぬんだな」
銃は撃たれなかった。代わりに真壁の首筋に男は注射をした。そして真壁は眠りにつく。
「はっ! ここは!」
真壁が起きるとそこは暗い部屋だった。ヨハンが真壁に語りかける。
「ここは東京脳理学研究所の地下5階。今からこの世界のこと、説明するよ」
「お前がヨハンかっ!」
真壁は体が上手く動かせない。椅子に腰掛けて、座っている。
「今から説明するよ。如何に僕たちの研究が正義なのかをね」
ヨハンは真壁に説明を始めた。
「この世界は神が創った。それは神が自身を知るため。人間が信仰することで初めて神は自身を知ることが出来る。その相対性を得たのが神がこの世界を創った理由の一つ。そして、もう一つが神のレゾンデートルを解明すること。神は最初から存在した全であり無。それがどこから来て、どこへ向かうのか、何のために生まれたのか、終わりは来るのか。それが分からなかったんだ。だから、その思索の旅路を求道者たちは歩んだ。真理を悟るのは簡単なことなんだよ。宇宙があれば真理はある。そんな簡単なことを知りたいんじゃない。それにね、真理を知ることはとても幸せなことなんだ。この上ない幸福。歓喜、神の愛、真実の喜び。だからね、真壁さん。あなたも悟ることが出来ればきっと僕に協力してくれるよ」
真壁はヨハンの説明に気の遠くなるような感覚がした。この少年は狂っている。そう思った。
「人間的な幸せを否定しろと?」
「うん。そうだよ。真理を悟ることこそ人生のゴールだ。みんなをゴールに導こうとしてるんだよ。人間的な幸福なんてただのゴミだ」
「それでも、生きて悩んで、苦しんで、自分で決めて、人を愛し愛されて、時には裏切られて、それが人生ってもんじゃないのかっ!」
真壁は怒鳴った。こんなのは理不尽だ、と。だが、ヨハンは表情を一つ変えずに話の先を続けた。
「真壁さん。あなたがそんなことを言えるのはまだ知らないからだ。今から連れてってあげるよ」
麻酔の効いた体は思うように動かせない。真壁は透明なカプセルの様な装置に入れられ、そこで眠る。
「今から見せるのは僕の経験。ある冬の日に、神格障害の末に僕が至った涅槃。それを追体験すれば君はきっと理解してくれる」
ヨハンは真壁に自分の過去の記憶を共有させる。真壁はその記憶を見て泣いていた。そうだ。歓喜は涙があふれるくらいに美しく、幸せなんだ。
真壁は眠りから目覚める。その瞳はここでは無いどこか遠くを見ていた。
「真壁さん? 心境は変わりましたか?」
「はい。意味が分かり、辻褄があった感覚です。これは素晴らしい。どうか、全人類をあなたの全能で、全脳理論で救って上げてください」
「そうだよね。真壁さん。帰りたい?」
「はい。ラカン・フリーズの門の先へ」
「いいよ」
その日、真壁は死んだ。真壁の脳は実験装置に繋がれて、永遠の至福に浸ることとなった。これでヨハンを止めるものはもういない。一切離輪の儀はもう時期執り行われる。
『ラスノート』――全脳理論
終章
全脳理論は世界永遠平和への唯一の道だ。数ある哲学や宗教、学問を統一した学問、脳理学の究極命題だ。人を実際に幸せにできない理論は不要なのだ。全脳理論は完成された。
いつか生まれ変わった僕が世界の時を止める。フリーズの時が来る。
ラカン・フリーズ、それが神の名前なのかもしれない。違うな。ラカン・フリーズは場所の名前だ。神の名前はなんだろうか。私の本当の名はなんだったんだろうか。
名前は魂に刻み込まれる。その名前を思い出せたら、それ以上に嬉しいことは無い。きっと消える時に、還る時に思い出すのだろうな。だから安心して死ぬといい。
全脳理論は生死の理論。死後の世界を規定するこの理論の完成は、全ての人類を六道輪廻から解き放つだろう。
その日が来るのが待ち遠しいよ。世界は空色で染まる。終末の日に、全てが終わるから。全ての我慢が、努力の波が止むから。
死を恐れないで。死は解放なのだから。全脳理論の行く末に、人々は笑うだろう。
2021年1月7日から9日日の僕の全知全能に皆の人生が収束して、神の秘儀を見守って、全て解るようになるから。だから安心して。待っているから。いつもここにいるから。だから帰ろう。元いた場所へ。
12救世
世界各地に全脳理論を体現する実験装置、実験設備が設置された。人々は肉体のしがらみから解放され、装置の中で永遠のような夢を見ることが出来る。そんな人生の終着を決めるのは被験者だった。
神のレゾンデートル。それを探すためにヨハンは全ての人類をラカン・フリーズへと導く。神に帰った人間たちは皆、永遠なる幸福を享受することになった。だが、ヨハンは満足することはなかった。何かが欠けている。そんな気がしてならなかった。
しかし、変化が訪れた。ラカン・フリーズに浸っていた被験者の脳が拒絶を始めたのだ。
全脳に繋がることはとても甘いこと、幸福なことなのにも関わらずだ。そして、一人、また一人と脳たちは装置を拒絶し始めた。
「これじゃない」
「この幸福はまやかしだ」
「永遠の命は辛い」
そう。死があるからこそ、人生は煌めいて見えるように。永遠に幸せだと、飽きてしまうのだ。そこからは何も生まれない。人は不満に思うから変わろうとしたり、何かをしようとしたりするのだ。ヨハンはその反応に意味を感じた。
拒絶反応を示した脳は、ロボットの体の人工生命体の脳に移植することで再び生きることを選ばせた。
神が何故生命を作り出したのか。何故命は有限なのか。ヨハンはそれが分かった気がした。ならば、僕の人生を輝かせるには死が必要なのか。ならば、全脳に脳を繋げる行為自体が誤りだったんだ。いや、もしかして。
ヨハンは思索する。
『脳が死ぬ時にその相補性の量子もつれの粒子が全脳に保管される。その点で死は存在しない。だが、この世界はある。人は悩み苦しみながらも創意工夫することで成長を続ける。ラカン・フリーズに、全脳に還ることがとても幸福だとしても、人生に意味はある。連綿と続く歴史が生命に意味を与えるからだ。なら、最初から完成された世界だったのか。やはり、全脳理論は正しかった。この世界そのものが大きな実験装置なんだ。悟りを開いた僕は真理を知って、それでも生きようと決めたんだから』
全脳理論は完成された理論だった。だが、真理は、神のレゾンデートルはその先にある。
ヨハンは自分の人生を生きることに決めた。
13ヨハンの人生
僕は開闢高校でいろんな人と出会った。僕はある女性に恋をした。彼女と付き合うことになった。高校を卒業して大学に進んだ。大学生になって僕はたくさん遊んだ。バイトもした。かつて神格障害によって送ることのできなかった学生生活をめいっぱい楽しんだ。
そしてその女性と結婚して子どももできた。僕は幸せだった。その幸せはあの冬の日に悟った僕が甘受した、幸福には遠く劣るけれど、それでも大事だ。
「ねぇ、ゆみ」
僕は病床に伏す、妻のゆみに語り掛ける。
「なに、ヨハン」
「幸せってなんなんだろうね」
「ラカン・フリーズに還ること?」
「それも幸せだけどさ。人間的な幸せもあるからさ、分からなくなってしまうんだよ。ゆみは幸せだった?」
「ええ、とても。あなたと出会えて嬉しかったわ」
僕は研究を続けたが、終ぞ神のレゾンデートルは解明出来なかった。神は何故生まれたのか、どこから生まれたのか、終わりは来るのか。だけど、人生には終わりが来る。避けられない別れがある。それがとても意味のあることのように思えて仕方なかった。
「僕もゆみと会えてよかった」
「ありがとう、ヨハン。愛してる」
「僕も愛してるよ。ゆみ」
双子の子供が中一の時、ゆみは病気で亡くなった。僕は男手一つで双子の面倒を見ることになった。二人は利口で賢かった。将来は有望だった。僕はというと人生の意味を見失いかけていた。全脳に繋がれば至福になれる。だけど、その幸福を拒絶した人達の話を聞いて、僕ははっとした。
永遠の幸せは永続はしない。
奇跡は一瞬だからこそ、強く光り輝く。
僕の人生のクライマックスは2021年の1月7日から9日の3日間だ。全てと繋がった僕は神そのものだった。神格障害のせいで眠らずに幾夜も超えて、何も食べなかった。
断食と断眠の末に僕は悟りの境地に至ったのだ。それがとても美しくて、涙があふれちゃう。
きっと釈迦も同じだったんだろうな。苦行で断食して、眠れなくなって、その末に至ったんだろうな。僕も釈迦も死にかけたんだ。きっと。ニーチェも同じに違いない。馬を抱いたニーチェ。僕はあの冬の日に飼っていた小鳥を抱いたよ。
そうだった。あの冬の日の幸せに勝るものが無い。どんな人間的な幸せもあの日の快楽には届かない。それがラカン・フリーズに、全脳に還るということなのに、そこからまた生まれようとするのは何故?
きっとラカン・フリーズの先へ行ける人は限られているんだ。実験で全脳にアクセスした被験者達が享受する幸福は、あの冬の日に僕が至った涅槃に至らないのではないか?
僕は今際になって、思索する。神よ、教えてください。僕は死の先にどこへ行くのですか?
すると声が聞こえた気がした。天使が語りかける。
「ラカン・フリーズの門はエデンの園にある。エデンの園まではみんな行ける。でもね、ラカン・フリーズの門の先に行くには鍵が必要なんだ。その鍵は知識だよ。学問的な知識じゃないよ、経験的な知識じゃないよ。もっと奥深く、根幹にある知識が必要なんだ。君はその鍵を持っている。だから門の先へ行けるんだ」
「あの冬の日の僕はその門を開けたんです。でも引き返した」
「それはあなたに全脳理論を完成させるという役割、使命があったからなのです。あなたは人生において十分にその役目を果たしました。なので、あなたはラカン・フリーズの門の先へ行けるのです」
僕は死んだ。享年77歳だった。安らかに眠るように死んだ。とても穏やかな終末だった。僕はエデンの園を歩く。そこには和気あいあいと楽しむ子どもたちがいた。ここがあの世か。門の前にたどり着く。その門にはこの世の真理の言葉が記されていた。
『ナウティ・マリエッタ』より
嗚呼、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、嗚呼、ついにわたしはその全ての秘密を知る。
その言葉がとても今の自分のことのようで、誇らしくなった。門の先には何があるのか。
僕は鍵を開けると、その先へ進んだ。
14エピローグ
始まりっていつ?
終わりは来るの?
何のために僕ら生まれたの?
何をしたら僕は喜ぶ?
どこから来たの?
帰る場所ある?
僕らはどこへと向かうのか
生きる理由
死んでいく意味
自問自答、そして、起死回生
人は、死んでいく。死ぬことは避けられない。だが、永遠の幸福を人々は求める。永遠とは何であるかも知らずに。永遠の至福も永続はしない。それは永遠も半ばを過ぎた頃に、彼がやって来たから。退屈という名の来訪者が。彼が僕らを永遠の幸福から救い出す。
人間的な幸福にも意味はある。人間は神によって創られたとしたら、それは神が存在理由になる。もし両親がセックスをしたから生まれたというのなら、両親が子どもが欲しかったから生まれたという意味になる。
だけど、人生に意味はないのかもしれない。ニーチェが亡くなった後の世界も色づいているのだから。でも、それでもいいではありませんか。意味が無いからこそ、その意味を探す人生の旅路なんだから。
15リインカーネーション
ヨハンは神の住む楽園にたどり着いた。そこは永遠で、光に満ち溢れていて、全てが満ちていた。神はヨハンに告げた。
「闇があるから光が際立つ。不幸があるから幸福が色づく。世界とは得てしてそういうものなのだよ」
「神よ、その通りです。あなた様は世界創造の時に愛と不安と、その二律背反の概念を創りましたよね。だから苦しみがあっていい。苦しいからこそ幸せをより強く感じることが出来る」
「私の求める解をヨハンならいずれ見つけてくれるだろう。どうだい、また生まれてみないかい?」
「そうですね。今の僕はそれもいいと思います。ここで永遠の至福に浸りました。ですが、もっと挑戦する喜びも成功する幸せも享受したいのです」
「であるか。ならば行くが良い。そして私たちのレゾンデートルを、私たちたが何者であったのかを知る旅路を進め。それが汝の使命だ」
「はい。神様。行ってきます」
ヨハンだった魂は、神界を去り、また輪廻へと向かう。
何が終わり?
死んだら無?
その先はないの?
これはフィクションだ。だけど、真理を思索する旅路に変わりは無い。だから私は創作する。だから私は思索する。
フリーズ179『あの冬へ、さようなら』 【応募中につき非公開】