透明人間ロックンロール

プロローグ

???:本校舎2階中央階段前 6月4日 土曜日 13:21 PM

その情景は、彼が子供の頃に観た映画と似ていた。
少女が不思議な世界に迷い込み、異世界の住人達の騒動に巻き込まれる古いアニメ映画。
そのワンシーン。食器達が躍り狂い、屋敷を訪れた主人公を持て成す場面だ。
彼の眼前では、教室の机や椅子、更には制作に使われたであろうトンカチや鋏が、狂ったように一人でに空中を動いている。
いつの間にか太陽が陰り、先程に比べて酷く薄暗い灰色の廊下を道具達が横断する。
ただ一つ違う点があるとすれば、道具達は訪問者へ歓迎のダンスを踊るのではなく、校舎を破壊していた。
ガラスを引っ掻く鋏。壁を乱暴に叩くトンカチ。黒板を打ちつける机。
ヒステリックに暴れ狂う道具達は、『学校が、憎くて仕方ない』と言わんばかりに発狂を続け、埃と人の汗とが混じった饐えた匂いの中、校舎が助けを求める様に叫び声を上げている。
廊下に響く4000ヘルツの周波数を感じ取った彼の脳は交感神経を活性化させ、口内に唾液が過剰に分泌された。彼はそれを、味わう様に舌で弄んだ後に一気に飲み込むと、ゆっくりとした足取りで前へ進んだ。
本校舎は二階、赤色に塗られた段ボールや黄色いプラスチックシート、色取り取りの装飾を施された廊下は、つい先ほどまで人の笑顔と笑い声で包まれていた。ある者は冷やかされながらも、ずっと気になっていたあの子と二人で校内を回る約束に胸を躍らせ、ある者は『最後の祭は真剣に取り組もう』と、一抹の儚さを感じながら、夜まで残っての作業の非日常感に酔いしれていたのかもしれない。
しかし、彼らは全員透明に染まり、慈しむべき、愛するべき校舎に傷を刻んでいる。

————本当に、あいつの言った通りになった……!
生徒達が築き上げた巨大な青春の城砦が崩れ落ちる様を目にして、彼は高揚していた。
彼は、学生の頃からずっと『何か』に飢えていた。
何も、学生生活に不満があった訳ではない。友人達と街に繰り出して重ねる悪行も、試合で他校を蹂躙するのも、好みの女子生徒を口説いてその熟れ切れていない甘みの溢れた肌を嬲るのも、嫌いではなかった。
しかし、ふとした瞬間にもう一人の自分が耳元で囁くのだ。
『この窓を割ったら、教師共はどんな反応をすると思う……?』
『一番多くの生徒を殺すなら、文化祭中に火を放つのが一番効率がいいとは思わないか?』
朝日に煌き、広大なグラウンドを映し出す窓を眺めたり、人の笑い声が反響する祭りの匂いの中で、彼は確かにその声を聞いた。黒い大きな影が、彼の青春に居座っていた。

彼は、黒い声から耳を塞ぎ続けて高校を卒業すると、有名市立大学へと進学した。めまぐるしく広がる世界の中、いつの間にか声は鳴りを潜め、彼が高校生活を思い返すと、友人や恋人との甘美な遠い春のみが浮かび上がる様になった。
大学3年生、就職活動が始まり今後の人生設計を考えた際、恩師が、問題児であった自分を育て上げてくれた様に、生徒の成長に寄与したいと考えた彼は、迷わずに教職についた。就職先は、都内の有名私立高校、青城高校。
初めて受け持った生徒達は、皆品があり、地方の公立高校出身の自分とは違う人種の様だと、彼は感じた。
年代の差もあるとは思うが、彼らが生まれてからの十数年で獲得した知性と親からの愛情は明らかに、自分のそれとは違う。そう思ったのだ。
そんな生徒達を愛おしく思う反面、風呂の浴槽に沈んだ人垢が浮かび上がる様に、彼の底に沈んでいた黒い衝動が確実に、残酷に忍び寄っていた。
そして今、遠い春に彼が望んだ光景が、目の前にある。
彼はその光景を愛おしそうに眺めると、横に落ちていた金槌を手に取り、窓ガラスを叩き割った。ガラス片が飛沫のように飛び散り、反射した太陽光が、破片を白い光で輝かせる。
「は、ははっ……!」
彼は、余りにも呆気なく、情けなく割れたガラスに、湧き上がる笑いを抑え切れずに吹き出すと、新しく手に入れた玩具に夢中になる赤子の様に、只管に金槌を振るった。
破片で自分の肉が裂かれるのも躊躇わずに、窓を、机を、黒板を、照明を、叩きながら走り回る。掌に刻まれた赤い線にすら気づかず、黒い服装で全身を包んだ彼は、校舎を凌辱する。
周囲の透明人間達が破壊する音の中、彼は走り、獣の様に叫んだ。
彼の体が限界を迎え、喉が酸素を渇望し始めた頃、廊下の奥、部活棟へ続く唯一の鉄扉が重々しい音を立てながら開いた。
————大澤夏樹……?
彼が何度か見かけた事のある生徒が、鍛えられた大きな体を扉の向こうから露わにした。
大澤夏樹は、この本校舎に群がる吐瀉物の様な香りに耐えかね、懺悔する様に扉の前で蹲った。それと同時に、彼は咄嗟に扉に飛び込み、2年3組の教室へと身を隠した。
————なんで、大澤がここにいる? それよりも、まだ、あいつからの合図が無い今、警察を呼ばれる訳にはいかない。大澤夏樹が元の道を辿って部室棟に戻るよりも早く、無力化する必要がある……

そう判断するや否や彼は、教室から教室へと扉を跨いで移動し、大澤夏樹へ距離を積めていく。
『本当に、それだけでいいのか?』
黒い影が、再び耳元で囁いた。2年6組の教室の中、彼は足を止めた。
『無力化するだけでいいのか? あいつの言った通り、この状況ならば、状況証拠など残る事もないだろう。監視カメラも全て破壊した今、お前は誰からも視認されない。』
彼の息が、早まる。
『殺してしまえよ。一人位、増えても変わらないさ』
黒い影は、捲し立てる様に彼に問いかける。
『それに、本当は気になっているんだろ? 人間を金槌で殴る感触が』
彼は金槌を手汗で湿った掌で強く握ると、窓ガラスが割れる音に驚き、2年7組の教室に背を預けた大澤夏樹の背後に迫り、右腕を振るった。

第一話:セピア色の箱

大澤夏樹:中央グラウンド 6月3日 金曜日 16:46 PM

土煙を切り裂き、青と燕脂の獣がグラウンドを駆ける。
グラウンド上に放たれた22匹の獣達は一つの球体を奪い合い、統率の取れた狼の様に鋭敏に、試合を決める一撃を狙っている。スコアは2対2。延長戦後半が間も無く終了しようとしていた。
その広大な闘技場の中央で、ゴールへと迫る影が踊る。
大澤夏樹は右にフェイクの動作を入れると、青いビブスを着た4番の視界から消失した。
燕脂色のユニフォームが揺れ、一迅の風となると同時に、中盤選手からスルーパスが供給された。
美しい弧を描きながら地を這い、最終ライン裏のスペースに向かう白黒のボールには、体を焼くような初夏の陽光が煌めいている。
————これが、最後のチャンス……!
夏樹は最終ラインを抜け、迫り来るスルーパスの軌道に合わせて強く加速する。
硬い地面をスパイクが削り、大腿四頭筋が収縮と膨張を繰り返しながら、彼の大きな身体を前へと押し出す。加速する身体、上がる体温に反比例して、視界はスローになり、余計な情報が遮断された頭は冷静になってゆく。
この瞬間、彼はあらゆる柵から解放され、相手からゴールを奪う為の動物と化す。
相手からゴールを奪い、敗北という死を突きつける燕脂色の獣に。

「キーパー、前出るな!」
開いたスペースを埋める為に前進するゴールキーパーを宥める声を上げながら、6番が夏樹の右側から猛然とプレスに駆けた。
6番は、夏樹よりやや身長が低いが、その身は青色のユニフォームがはちきれんばかりの筋肉の鎧を纏っている。夏樹の黒髪が揺れると共に、右側から痛みと共に6番の太い腕が伸びる。
「ぐ……っ!」
荒れる息の中、体をぶつける6番に進行を妨害され、夏樹は一段とスピードを落とした。
交錯する若い肉体。瞬間、夏樹の腿に矢が刺さる様な感覚が走った。どさくさに紛れてモモカンを入れようとする6番の殺気を感じ取ったのだ。夏樹は必死に体をぶつけ合い、6番の鳩尾に、審判から気取られない程度に軽く肘を入れた。
「ぐあ……!」
悶える6番の声が耳元で聞こえたのと同時に、プレスが弱まる。
その隙を逃さずに夏樹は6番の前に躍り出た。残るは相手キーパーのみ。
左から迫るボールの軌道とキーパーの重心を確認すると、夏樹はより一層の集中を自分に課した。彼らを鼓舞するベンチのチャント、監督の指示の声が消え、相手キーパーさえも消失した。彼の世界には、ボールとゴールしか無い。
この全能感にも似た孤独な世界を、彼は愛していた。
右足を振り抜いて相手キーパーの重心と逆方向、ゴールの左下隅を狙う。
ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射された。
(決まった……!)夏樹は、ゴールを確信した。
しかし響いたのは、得点を告げる福音ではなく、ポストを叩く無機質な金属音だった。
それと共に、世界が崩壊し、夏樹は現実へと引き戻される。

「くそっ!」
高所から落ちるような冷たい感覚を振り解き、夏樹はこぼれ球に駆け寄る。
横飛びをしたキーパーはまだ体制を崩したままで、足先さえ触れる事が出来ればゴールは容易い。夏樹はボールを蹴り込もうとしたが、数秒の差で、体勢を立て直した6番にクリアされてしまった。大きな楕円形の軌道を描いてピッチを切り裂くロングフィードを、敵中盤選手が収める。
「カウンターくるぞ! ディレイだ!」
夏樹の必死の叫びも虚しく、敵中盤選手が周囲のプレスよりも早くボールを供給し、フォワードが裏へと抜け出す。その展開は、奇しくも先程の彼と中盤選手の連携と同じ構造だ。
(嫌だ……負けるのは嫌だ……!)
夏樹は点数が決まる時の確信に近い絶望を感じ、自陣へと駆け出した。
それも束の間、前へ飛び出したゴールキーパーを抜き去り、敵選手は冷静にボールを流し込んだ。相手チームの歓声とベンチの叫声が弾ける。
肩を落とすチームメイトを尻目に、夏樹は自陣ゴールまで走り戻るとボールをセンターサークルまで手で運び、試合を即時再開しようとする。しかし無情にも、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響くと同時に、相手チームの歓声の大きさが増し、不快に彼の耳を突き刺す。
ベンチから駆け寄る敵選手達は、仲間の健闘を称え、勝利の絶叫を挙げている。
先輩達はピッチに倒れ込んで涙を流し始めた。彼らの最後のインターハイが終焉を迎えたのだ。浅い息の中、呆然とその様子を眺める夏樹の手からサッカーボールが零れ落ち、低く跳ねた。

試合終了後、互いの選手達が握手を交わす中、夏樹は敵選手から声を掛けられた。
「おい、10番。お前、わざと肘ぶつけたろ。それで外しちゃ世話ねぇな。」
ニタリと笑う顔は、日に焼けて浅黒い。厚い唇が赤黒いニキビで覆われた顔面から言葉を発している。勝利の興奮からか、乱れる息が気色悪いと夏樹は感じた。
「お前が外してくれたおかげで勝てたわ。ナイスパス!」
————低偏差値高校なりに、頭は動くみたいだな。
互いの健闘を称え合うかのように爽やかな笑顔で、夏樹にしか聞こえないように小声で話す6番。夏樹は何も言わずに、彼を真っ直ぐ見据える。
「進学校だか知らねえけど、中途半端にサッカーやるからこうなるんだよ」
夏樹は、身体の底から何か黒い物がゆっくりと這い上がるのを感じた。側溝に溜まったそれは、傷口から侵入して心を破傷風に感染させる。息が、そして体が苦しくなり、やがて思考が止まった脳は理性という免疫力を忘れてしまう。
一通り言い終えたようで、仲間と肩を組みベンチに下がろうとする6番の背中を、
「テメェ……!」
夏樹は、思い切りスパイクで蹴り飛ばしていた。
「ぐわ……!」
後ろから蹴られて前へ倒れる6番。硬いグラウンドに嫌な音が走る。
その草食動物的な貧弱さを感じさせる無防備な背中が、夏樹に眠る捕食本能に火をつけた。夏樹は起き上がる隙も与えずに馬乗りになると、拳を顔面に振るう。骨と骨のぶつかる感覚。
————俺だって、俺だって……出来る事なら、もうサッカーなんてやりたくねえよ……!
初めて殴った人間の顔は思ったよりも骨張っていて、殴るたびに手の甲に痛みが走り、その痛みが更に、夏樹の怒りを助長する。
周囲にいた全員が突然の出来事に驚愕していたが、すぐに我に帰り夏樹を止めようと迫った。手背に液体がつくのを感じながら、夏樹は先輩達から羽交い締めにされる。しかし、本来と違う方向に関節が向けられる感覚が不快で、彼に灯った火は更に煽られる。
筋肉質な腕を払い除け、右拳をふり折ろうとしたその瞬間、
「やめろ、夏樹!」
大きな声が校庭に響いた。
夏樹が声に振り返ると、部活指定のジャージを着て膝にサポーターをつけた生徒が夏樹を見つめていた。短い黒髪に一線から退いてなお衰えない筋肉。そして、夏樹の罪を糾弾する様な鋭い目つきを見て、夏樹は我に帰った。
眼前には血塗れの顔面。鼻血と口からの出血。目の下には青紫色になりつつあるアザがあり、涙が溢れている。夏樹の右手が強く痛んだ。

————————

茜色の空に、生温い風が舞う。先ほどの熱気が嘘の様に静まりかえったグラウンドには、生徒達がトンボをかける音だけが響いている。
「停部……ですか……」
夏樹はユニフォーム姿のまま、部活棟前の水道に面した階段で顧問から宣告を受けた。
横並びで階段に腰掛けるのは、加藤先生。夏樹は、彼の日に焼けた肌に刻まれた皺が増えている気がした。
「本来は訴えられてもおかしくないんだぞ! 向こうの選手達が、6番が言った事を聞いていたから良かったが……」
鼓膜を叩く強い口調で、夏樹はやってはいけない事をしたのだと再認識させられる。
「すみません……」
「謝るなら、俺ではなくて相手選手と、お前のチームメイトだな」
グラウンドを見つめる加藤先生の先では、部員達が試合の後片付けに入っている。
彼等はチームメイト全員で謝罪した後に、本来は敵味方共同で行う後片付けを全部担うと言ってのけた。理性的な彼等への劣等感で、夏樹はより一層黒く沈んでいく。
一際強い風が吹くと、彼は手の甲に痛みが走った。両手の甲の皮がむけ、ピンク色の肉が顔を覗かせている。
(何やってんだろう……俺)
にじむ視界の中、夏樹は煙の匂いを嗅いだ。ほんのり、レモンのような匂いもする。
「何、してるんですか……」
鼻声で上擦った声に辟易しながら、夏樹は横にいる先生に視線を向ける。
「見りゃわかんだろ。タバコ吸ってんだよ」
「校舎内全面禁煙っすよ……」
「だからだよ。これで俺もお前と同じ校則違反者だ」
煙を吐き出す加藤先生。
「今後またお前がやらかしたら、次は職員室でタバコを吸う。それでもやらかしたら次は校長室で吸う。俺を犯罪者にしたくなかったら、二度とあんな事するなよ」
「はい……」
「俺は正直、お前は部活を辞めるんじゃないかって思ってたよ、夏樹。長谷川との一件以降、お前はいつも苦しそうだ。練習中も授業中も、今日の試合中も」
夏樹は、無言で俯き何も答えない。
「いいか、あれは事故だ。お前も長谷川も、周囲の誰も悪くない。ただ唯一、危機管理が不十分だった俺を除いてな……」
「いや、先生は悪くないです。俺が、俺があの時無理したから……」
「そう思うんだったら、長谷川の為にもさっきみたいな暴力沙汰は二度とするなよ。いいな……?」
夏樹はゆっくりとうなずいた。加藤はそれ以降何も言わずにタバコを吸う。
その横顔は少し寂しそうで、昔見た父の表情に少し似ていると夏樹は感じた。
「ちょっとお願いがあるんですけれど、いいでしょうか……?」
夏樹は、沈黙を打ち破り、一つ無茶を承知でお願いをした。

————————

グラウンド整備が終わり他の部員が全員帰った後、夏樹は申し出通り自主練習を始めた。
前髪の隙間から見える夕焼けを一瞥しつつ、コーンを設置する。
並べたコーンをダブルタッチタッチで抜き去り、耳に流れる風と前髪が持ち上がるのを感じながら、右に体勢を流して左下のコースへ打ち込む。
乳酸が溜まった彼の両脚が重く、動きにキレが無いが、悔しさ、後悔、怒り、恐怖。
そんな思いを吐き出すように、一本一本のシュートに感情を込めてボールを蹴り込む。
この行為は感情の排泄行為に近い。
溢れる涙をそのままに、嗚咽することも躊躇わず、ひたすらに右足を振るう。
しかしシュートは大きく枠を外れ、部室棟と本校舎を繋ぐ渡り廊下に消えて行った。
彼は肩を上下させながら、部室棟まで歩く。スパイクのポイントがアスファルトで削れる音が無人の校舎に反響する。
今更こんな事をしても、負けという事実は変わらない。心の底から湧き上がる冷静な自分の声が、全て忘れ去りたい彼に、どうしようもない現実を突きつける。涙を流したまま、自動販売機の前を通り過ぎる。夏樹は躑躅の生えた中庭を見回すもボールが見当たらない。
「これ、貴方のボールよね?」
透き通るような声だった。夏樹がその声に振り返ると、ボールを手に抱えた女子生徒がいた。
身長は、夏樹より少し低いくらいで女子生徒としては高水準だろう。
すらっとした縦長の体格に着た白調のセーラー服が、黒い絹の様に艶やかな長髪を強調している。透き通る様な白い肌にシンメトリーに配置された漆黒の瞳が、夏樹を真っ直ぐ見据えていた。
「……泣いてるの?」
「え……?」
その刃物の様な鋭い美しさに目を奪われ、夏樹は、自分が泣いている事すら頭から霧散していた。慌てて涙を拭う。
「兎に角、これ。貴方のボールよね?」
「うん……ありがとう……ございます」
彼女からボールを手渡される。白く細長い指が少し、彼の指に触れた。
「文化祭直前でさえ試合があるなんて、可哀想ね。サッカー部」
「まぁ、そうっすね……」
緊張や涙を見られた羞恥心で、夏樹はうまく返答できない。そんな彼をよそに、彼女は軽やかなステップで距離をとった。
「ねぇ。そのボール、あたしに投げてみてよ」
「は……?」
「いいから。早く」
「う、うん……」
彼女の膝くらいの高さに、夏樹は優しくボールを投げた。
彼女の黒い髪が流れ、はかなげな細い脚が動くと、インサイドで運動エネルギーを吸収した。吸い付く様なトラップ。その後、ボールを身長程に浮かせてヘディングを放つと、ボールは25度の軌道で夏樹の手元へと飛び帰った。
「す、凄いな! 経験者……なのか?」
夏樹は、笑顔で声を張り上げていたのに気づく。その表情が間抜けだったのか、
「ようやく、笑った」
彼女は、真っ直ぐに微笑んだ。夕風が吹き抜け、直ぐ横に生えた柳の梢が揺れる。
————風だ。この子の笑顔は夏に吹く風に似ている。
「私の文化祭で、つまらなそうにしている人を見たく無いの。明日、楽しんでね」
踵をかえして夕陽が反射する本校舎に消えていく彼女を、夏樹は呼び止めた。
「な、名前……! 名前を教えてくれないか!」
「西園寺薫。またね、大澤夏樹くん」
手を振ると、几帳面な足取りで本校舎へ向かう西園寺。夏樹が初対面のはずの彼女は、なぜか彼の名前を知っていた。
茜色の太陽が、夏樹を赤く染め上げていた。

————————

着替えを終え、帰宅しようと昇降口で校内靴からローファーへ履き替えていると、夏樹はマネージャーである吉田裕香と鉢合わせた。
「先輩、まだいたんですね。お、お疲れ様です……」
茶色がかったミディアムヘアーに囲われた大きな黒い瞳が、活発さを印象付ける。
しかし、その視線は夏樹を捉えずに明後日の方向を向き、声が震えている。
「お疲れ。それじゃ……」
夏樹も、うまく彼女と目を合わせられないまま、直ぐに去ろうとする。
暴力事件を起こした自分のような男と、学年でも上位に入る成績を維持する文武両道の優等生が話して言い訳がないと考えたのだ。
「ま、待って下さい!」
しかし、夏樹は吉田に呼び止められた。
「手の甲…そのままだと、文化祭楽しめないですよ。絆創膏あるんでよかったら使って下さい」
スクールバッグを漁ると、吉田は最近流行の4コマ漫画のキャラクターが描かれた絆創膏を差し出した。
「ありがとう……ははっ」
そのキャラの必死に目を潤ませる姿が先の自分と重なり、夏樹は思わず笑ってしまった。
「今、ちいたんの事笑いました?アンチなんですか先輩……!」
「逆だよ逆。ありがとな」
「ならよかったです。ところで、明日、先輩どうするつもりですか?」
「明日? まぁ、停部になった事、先輩達にも同期にも言えてないから…」
「違います、文化祭の事です!」
またも遮る吉田。
「だ、誰かと回るんですかって、き、聞いてるんです……」
夏樹が、そのテンションの切り替わり具合に驚いて彼女の顔を見ると、サッカー部らしからぬ白い肌が真っ赤に染まっていた。先程と異なりまっすぐに夏樹を見据えている。
夏樹はその姿を見て心臓がどきりと脈打った。
「あぁ、今のところ予定は無いな」
「そうなん……ですね」
時間が止まったような静寂が昇降口を包む。
「あの、よかったら……」
「裕香ー!早く帰ろ!」
昇降口のドアから女子生徒の大きな声を出しながら手招いている。
吉田と共にいる所を夏樹が何度か見た事のある一年生だ。
「あぁ、もう……! なんでも無いですお疲れ様でしたお大事に!」
吉田は、顔を真紅に染めた後、ヘッドバンキング宛らに頭を下げ、そそくさと駆けて行った。
柔軟剤のような甘い香りが残穢のように漂う。
「あ、明日、先輩のコーヒーカップ乗りに行きますから!」
去り際に昇降口のドアからひょっこりと顔を出して、声をあげる吉田。
流麗な髪がさらりと揺れる。おうと夏樹が適当に返事すると、吉田は笑顔でかけて行った。

夏樹がある場所を目指して中庭へ出ると、6月の夜に生温い空気が横たわっていた。
薄暗い中庭は普段は部活後の生徒で賑わう場所だが、さしずめ明日の準備だろう。
既にどの部活もとうに練習が終了したようで、周囲には誰もいない。
漆黒に染まる周囲を、数少ない古びた外灯だけが頼りなく薄い黄色に照らし、静寂の中、夏樹のローファーが地面を蹴る音だけが木霊している。
暗闇とは奇妙なもので、人間を文明から分離させて原始的な生物へと回帰させる。
暗闇の中、人は平等に感覚が研ぎ澄まされ、普段は感じない音や匂い、物体に恐怖を感じるのだ。それは今の夏樹も同様だった。
————俺は感覚が鋭い方だと思う。
雨が降る前の風の匂いとか、季節が変わる前日とかをはっきりと五感で把握できる。
その中でも特に、殺気に対しての造詣が深いと思う。日頃から、勝敗を決するゴール前での駆け引きをする俺にとって、人が抱える強烈な敵意や悪意は日常の一つなのだ。
俺は、殺気を矢印で捉える。試合中相手キーパーが右側を警戒すれば、相手から右側に矢印が向く。先の6番の選手とのマッチアップでは、あの鱈子唇野郎は、俺の右脚に対して明らかな殺意を持っていた。それと同様の矢印が今、俺の背中に向けられている。
明らかに、付けられている。

追跡をする相手として6番が挙げられたが、夏樹は確証が持てずにいた。
角で曲がると、教職員用道路に差し掛かる。
夏樹は未だに視線は感じるが、殺意は感じなかった。試合中に感じる、刺すような殺気ではなく、ただ、興味を持つ相手に対して視線を向けているだけのような好奇心に溢れた生温い視線をの様な印象を彼は受けた。
背後で物音が聞こえ、夏樹は咄嗟に振り返った。
しかし、やはり後ろには誰もいない。
夏樹が音源の上を見上げると、屋上から掛かった大きな垂幕が風に靡いていた。
明日の演目を宣伝する、絵具で大きなイラストの書かれた緑色の垂幕。
(さっきの音は、垂幕が校舎とぶつかる音か?)
不完全燃焼感の中、夏樹はイヤホンを装着し、イギリスバンドの名曲を流した。
オアシスのワンダーウォール。後悔を歌った曲だ。彼の気分に当てはまっており、気怠げで少しかすれた歌声が夏樹の耳に心地よかった。
教員用出口から校外に出ると、夏樹は信号を無視して静まりかえった道路を跨いだ。
遠くに見える繁華街が、夜凪に揺蕩う漁業船のように煌めくが、その情景に気づかずまま、歩く。桜並木の間をさらに奥に進み、ドクダミの匂いを不快に感じながら草原を踏み進めると、彼の目的地である、公衆電話ボックスを見つけた。日に焼けてセピア色に染まったガラスの中に、古びた公衆電話とカビの生えたパイプ椅子が置いてあり、消えかかった蛍光灯がそれらを照らしている。
夏樹は、錆び付いて開くたびに金切り声をあげるドアを開くと、荷物を電話の上に置いた。
少し鼻につく湿った空気が彼を迎え入れる。
(無いとは思うが……)
夏樹は、四隅に這うクモの巣に触れないようにしながら、本来電話帳が置かれるはずのスペースを探る。すると、手に小さな四角い物が当たる感覚と共に、その四角いものを掴み手元へ引き寄せた。小説があらわになる。
(今週はやけに早いな)
隔週土曜日、夏樹はこの公衆電話ボックスで、顔も、名前も知らない生徒と本の交換を行う。
どうやら相手は律儀な人間のようで、必ず土曜日に、夏樹の渡した本とその感想を書いたメモ。そして向こうが貸す新たな本をこの場所に置いていく。しかし、今回は1日早い金曜日に本があった。加えて、夏樹が前回貸した本を探そうとするも見当たらない。
一年の夏から始まり数十回は繰り返したやりとりの中で、初めての事だ。
手元にあるのは、古典部が活躍する小説。これは、前回夏樹が貸した本でも無い。
夏樹が不思議そうに背面の粗筋を見ると、この巻は文化祭が舞台のようだ。
しっかりと時節を意識した本のチョイスに夏樹は苦笑した。
(やっぱコイツは気の利く人間だ。今回は偶々、本を読みきれなかったんだろう)
徐に小説のページをめくると、小さな白い紙がひらりひらりと舞い落ちた。全身の筋肉疲労で体勢が苦しいが、狭い室内で屈んでなんとか拾い上げる。
丁寧に折られたコピー用紙を広げると、彼は言葉を失った。
『青城祭で皆が消える』
ワープロで打ち込まれた文章を呆然と眺める彼の上で、蛍光灯が頼り無く点滅していた。

第二話:祭の前

大澤夏樹:西大宮駅付近 6月4日 土曜日 7:11 AM

夏樹は肌にべったりと張り付いたシャツに不快感を感じながら、自転車を漕ぎ駅へと向かう。
今年は例年を遥かに凌ぐ酷暑であり、6月初旬の今日でさえ最高気温が32度にも至る。雲ひとつない空に、得意げな顔をした太陽が鎮座していた。
(暑い……暑すぎる)
駐輪場に自転車を止めると、夏樹は白いタオルで汗を拭った。柔軟剤の香りが優しく彼を包み込む。家から数分移動しただけだが、彼は前髪が縮れるほどの汗をかいている。
暑さから逃げる様に電車に乗り込むと、冷えた人工的な空気が彼を包んだ。
通勤通学時間であるにも関わらず人の数は少なく、空席が目立つ。
それもその筈、彼の最寄り駅は上り線の始発に近いのだ。夏樹は、余裕のある席に腰を下ろしてノイズキャンセリングイヤホンを装着すると、単語帳を開いた。
フーファイターズの曲が外界を遮断し、彼に音の膜を付与する。

単語帳が2週目を迎える頃、窓は都会の景色を映し、目的地へと到着した。
夏樹が、多くの社会人達と共にホームへと降り立つと、朝の池袋駅は人の熱気でむせ返るような暑さだった。スーツ姿のサラリーマンから、大きなバックパックを背負った外国人観光客まで、全員が何かに急かされるように機敏に、雑多に動いている。
夏樹はこの景色が好きだった。
この激動の流れに乗る事で、高校生ながら立派な都会人の一端になれた気がするのだ。
夏樹は、都会人が作る川の流れに沿って地下道を進む。
ゆくゆくは、一流大大学へ進学しこの流れに堂々と乗りたい。そう彼は思っていた。
しかし、だんだんと社会人の数はまばらになり、クリーム色の階段を登ると、太陽光が反射する暑い道路の中、彼の本来のテリトリーである学生通りに出た。
先程とは打って変わって、制服を着た男女がゆっくりと談笑しながら歩いている。
一見普段と変わらない風景に思えるが、どの生徒達も酷暑ながら浮き足立っており、笑い声が目立つ。夏樹は深くため息をついた後、音楽の音量を上げた。
夏樹は校門をスルーして歩き続けると、道路を跨ぎ、桜並木を奥に進む。
昨夜少し雨が降ったせいか、草っ原は湿っており、一歩進む毎にぐしゃりぐしゃりという音を立が立ち、足の中に温い雨水が侵入する。人混みから解放された澄んだ緑の中、朝の空気を噛み締める様に、夏樹は深呼吸をした。
周囲の小さな水溜まりに太陽光を反射しており、目を開く事が出来ない程に眩しい。紺色の制服のスラックスが太陽光を吸収し、加熱されるのを感じながら、公衆電話ボックスに入りこむ。安寧の場所で心が休まったのか急に食欲が湧き、今朝買ったサラダパスタを取り出した。遅めの朝食だ。
ドレッシングを雑にパスタと絡ませると、甘い胡麻の香りと薫製チキンの匂いが立ち昇った。芳しい香りに彼の食欲は増進され、彼は貪る様に麺をすすりサラダを噛みちぎると、狭い室内に耐えかねて右脚を上に組んだ。
食後、文庫本を読んでいると、ガクから着信があった。夏樹は慌ててスマートフォンを取り出し、イヤホンのまま通話する。
「もしもし?」
『夏樹―。 お前今どこにいる?』
おっとりとした伸びる様な声。
「今、前に話した公衆電話ボックスで朝飯食ってる。まだホームルームの時間じゃないだろ?」。
『いやいや、今日は開会式あるからいつもより20分早く来いって昨日言われたろ?
宇田の野郎、カンカンだぜ。悪いことは言わないから早く来い』
大袈裟に「ぷんぷん」と怒っている様な演技をしながら捲し立てるガク。
「まじかよ、完全に忘れてた。すぐに行く」
『うし! そんじゃ、早くこいよ。今日はお前に活躍して貰わないと困るからな。サボって帰ったりすんなよ?』
電話はそれで途切れた。
————さしずめ文化祭で、ガールハントに洒落込むとか言いだすに違いない。
俺は恋愛している暇などないというのに。そう考えた瞬間、昨日の黒い衝撃がフラッシュバックし、美しい漆黒の髪とすらっとしたシルエットが浮かび上がった。
(西園寺は違う……! 第一、まだ昨日初めて話したばかりだろうが)
夏樹は、ため息を吐くと、手にとっていた文庫本を見つめる。
1年間本の交換をした事で分かったのは、相手が女性である事。彼女の好みが学園系、特にノスタルジックな描写の多い小説である事。部活動に所属していない事。イベントの時にはプレゼントを忍ばせてくれる事だけだ。直接連絡を取り合ったり、話したいと思った事はあれど、匿名性の関係性だからこその心地良さもあり、夏樹は今の距離感が心地よいと感じていた。
ふと夏樹は、昨夜は無かった、前回貸した小説があるか確認しようと、公衆電話下の秘密の棚を探る。すると指に2冊の本が触れた。
(文庫本が、ある)
それは、彼が貸した江戸川乱歩の名作選と、交換相手が次に貸してくれたであろう、文庫本の2冊だ。
それを取り上げると同時に、夏樹は背筋に悪寒が走った。
————じゃあ……昨日の本は誰が置いたんだ……? それに、あの文章は……
俺は、文庫本で栞代わりに使っていた、あのコピー用紙を取り出した。
『明日、青城祭で皆が消える』
ゴシック体で出力されたその無機質な文章を見つめると、何故だか、昨日の試合を思い出した。ピッチを切り裂くロングフィード。ゴールに迫る敵フォワード。敗北という、死が迫る感覚。
ブーッというバイブレーションが室内に響いた。ガクから鬼電がかかってきている。
ボーッと考えている間に再起ほどの額の電話から10分が経過していた。
「やっべ、急がないと!」
夏樹は、サラダパスタのゴミを抱えると同時に、強引に扉をこじ開けて校舎へと向かうと、新たに回収した2冊の文庫本を走りながらバッグにしまった。
(こういう嫌な予感だけは必ず当たるんだよな……)
水たまりを飛び越えて、桜並木に飛び出すと駆け足で坂を降ると、車道に並ぶ数台の車の間を走り抜ける。運転手の不快そうな視線が刺さるが、気にする間も無い。
生徒が集中する校門を避け、車両用出口から校舎に入る。
すると、車両出口に設置された赤や青のケミカルな色で彩られた入場門が彼を出迎えた。
丁度軽自動車が一台通れる横幅に、縦は5メートルくらいの大きな長方形の形状。
鉄製の門を跨いで設置されたそれは、学校を訪れる人々を全て飲み込まんと大きな口を開き、遅刻寸前の自転車通学の生徒達が黄色い声をあげながら中を潜っていく。
(門というか、トンネルだな、こりゃ)
昇降口に入るにはこの巨大な入場門を潜るしかない。騒ぐ男女を尻目に走ると、赤と青のステンドグラスを介した色のある光が左右から夏樹を照らした。
深紅に染まった光が、夏樹が昨日見た血液を思い出させる。
生温い血と人の顔に張りめぐった骨の感触。夏樹は、右手を握って、目を瞑る。
入場トンネルを通り抜けると、車両出口を真っ直ぐに全力疾走し、ボーカルの絶叫を聴きながら中庭を突っ切った。
階段も廊下も全て何かしらの装飾を解かされており、本来の校舎の面影などどこにもない。
ホームルーム開始のチャイムに急かされ、ポップコーンやチュロスの匂いを感じる中、
『明日、青城祭で皆が消える』
夏樹は、あの文言を繰り返し脳内で唱えていた。

————————

夏樹が教室に着くと、既に全校集会の直前であった。夏樹は宇田の刺さる様な視線を浴びながら、急いでクラスの列に加わって体育館へと向かった。
巨大な鼈甲色の箱は、右から、3年1組から1年7組まで、来た順番に各クラス規則正しく並んでいる。夏樹の2年4組が、空いているスペースへと並ぶのと同時に、生徒指導部長の不機嫌そうな声が走る。
「えー静かに。漸く最後のクラスも来たという事ですし、そろそろ開会宣言を始めようと思います」
周囲に配置された教員達が興奮する生徒達を叱責する声の中、開会式が始まった。
見慣れた老いぼれ校長の、昭和時代この学校で起きた学生運動の話を、夏樹があくびをしながら聞き流していると、女子の話し声が聞こえてきた。
「星野の話だるすぎ。あいつこの前もこの話してたじゃん」
「もうボケてんじゃ無い? けど、この学生運動の話ってうちの七不思議と繋がってるの知ってる……?」
気怠そうなボブカットの女子生徒と、髪を一つに束ねた快活な女子生徒がヒソヒソと話している。彼らが持つ、共通の秘密の物語を。
「何それ、面白そう」
「昭和にここで学生運動があって、当時の生徒がバリケート作って立てこもったのは皆知ってるじゃん」
「うん」
「その時の生徒の一人が透明人間だったんだって……! 透明人間が警察に捕まった生徒を解放したり、警察が仕掛けた爆発物をこっそり廃棄したらしいよ」
「嘘だー。さすがに少年漫画の読みすぎでしょその話考えた人」
「その時少年漫画なんてないっしょー!」
二人の女子生徒は、同時に吹き出して『あはは』と笑う。
その声で無駄話が宇田にばれ、二人は連行されてしまった。
二人が一笑に伏した『透明人間』というワードが、夏樹は頭から離れなかった。
————透明、人間。透明人間だと……?
それじゃあ、あの紙は、どういう意味なんだ。
透明人間の伝承を用いたいたずら書きだったら、『青城祭に透明人間が現れる』とか、『青城高校の透明人間が復活する』とかにするはずだろう。それこそ、文化祭のコマーシャルの役割もできそうだし。『全員が透明になる』なんて、何の意味もないだろ。
一人思想にふける夏樹の前で、その少女の話を聞く、もう一人の生徒がいた。
青年は、伊藤学。夏樹や友人達からは、ガクと呼ばれている。茶色い短髪に少し焼けた肌をしている爽やかな好青年である。彼は夏樹と同じく、高校からの編入生であり、彼の数少ない友人でもある。
————こういう学校の秘密ってワクワクするよなあ。うまく言えないけど、好きな子との秘密の共有みたいな? ちょっとした罪悪感と高揚感が混ざった感じ。
大抵はトイレで自殺者がいるとかがいいとこだけど、ウチのは一級品だもんなあ。
まあ、秘密なんて基本知らない方がいいのかもしれないけれど。
彼は神妙な面立ちで、宇田に連れて行かれた二人の女子生徒を眺めた。

文化祭に水を刺すのは忍びないと考えたのか、珍しく十分もしない内に校長の話は終わり、青城高校のオービーが壇上に上がった。内臓脂肪で膨れた巨躯を重そうな足取りで、前へ進めるその姿は、どの生徒も、どの日本国民も一度は見たことのあるものであった。
「おい。あれ塚本じゃね?」
「民衆党の重役じゃんかよ。ここのオービーだったんだ」
生徒のヒソヒソと話し声が、虫の様に体育館に蠢く。
「ここだけの話、父さんの会社が大分エンジョ貰ってたらしい」
「お前、それ言って大丈夫なのかよ。まぁ、爺ちゃんもそういう事多いって言ってたけどよ」
小声で話す男子生徒達。その自慢が混じった声色が恨めしいと夏樹は感じた。
塚本龍之介は、衆議院議員として名を馳せる大物政治家だ。夏樹もテレビで何度か見かけたことがある。有名製薬会社の研究職の出身で、幅広い薬学への知識に裏付けられた医療施策が功を奏したという。
「えー。皆さんおはようございます。青城祭がこんな素敵な天気で迎えられる事を、一人のオービーとして嬉しく思います。私の場合、頭が太陽光を反射して大変なんですけれども」
にっこりと笑いながら、豊かな腹部に反して寂しい頭部をさする塚本。それと同時に生徒達からどっと笑い声が上がる。
「何はともあれ、人生においてたった三回しかないこの晴れ舞台を、精一杯楽しんで下さい。皆さんの創意工夫に溢れる催し物を楽しみにしています」
塚本のお辞儀と共に拍手。笑顔で手を振る彼の頭部に太陽光が反射した。
「えー。今年の青城祭ではなんと、塚本先生にも最終評価に参加していただきます。現役の政治家にご意見をいただける機会など滅多に無いですから、皆しっかりと励む様に」
横から校長が口を出す。
「おい、まじかよ。これ最優秀賞とったら、塚本とコネクションできるんじゃね?」
「そしたら、父さんの会社に公的事業任されちゃったり……!」
生徒達が再度ざわめいたのを教師が注意したのち、生徒代表による開会宣言へ移った。
「生徒代表。2年5組、西園寺薫」
無愛想な声が、夏樹が昨日聞いた名前を読み上げた。その瞬間、期待に犇く体育館が静まりかえった。
「はい」
彼女は、透き通る様な声で返事をすると、教員からマイクを受け取り壇上へ上がる。
等間隔の歩幅で、彼女は静寂に満ちた体育館を切り裂く。
「生徒会長、西園寺です」
しゃがれたマイク音声で挨拶すると、生徒に向かって御辞儀をする彼女。一つ一つの仕草がスムーズにつながり、夏樹は流麗なイメージを感じとった。心なしか、彼女が動く度に体育館全体に活力が漲る気さえする。
「今年のテーマは花です。私の名前も花に関したものなので、少々気恥ずかしいのですが」
そう言って苦笑する彼女。毅然とした雰囲気に、10代特有のあどけなさが灯る。
「ご存知とは思いますが、ご親族の手を借りる事も外部業者と提携する事も自由です。ただし運営規約や先生方のアドバイスには最大限、従う様にお願いします」
————あの子は、生徒会長だったのか。通りでどこかで見たことあるなと思ったわけだ。
堂々とした振る舞いに彼女の自信と経験が裏付けられていると夏樹は感じた。
西園寺の声は、静まりかえった水面に滴が落ちる様に、ゆっくりと、美しく均一な波を発生させて生徒達の鼓膜に刻まれる。そんなイメージが湧く程の、流麗で透き通った声だ。
そんなことを考えながら白と青の基調にした夏服を身につけた彼女を眺めていると、夏樹は彼女の視線から自分に矢印が向いている事に気付いた。
夏樹はその視線が、昨日の夜に感じた、興味を孕んだ好奇心の矢印に似ていると思った。
そんな夏樹の考えを見透かしている様に、ゆっくりと花弁が開く様な笑みを浮かべる西園寺。夏樹は思わず心拍数が上がった。
それも束の間、体育館全体を見渡し、
「クラス内外問わず協力し、最高の青城祭にしましょう。ここに、青城祭の開催を宣言します!」
満面の笑みを浮かべると、西園寺は高らかに口上を述べた。
生徒達は、彼女の宣言を待ちわびていたかの様に、堰を切り、大声をあげる。
体育館に降る生徒達の祭へ対する歓喜の雨の中、彼女は壇上を降りる。
————最後の言葉が、人との交流を最小限に抑えている自分に当てられた物に感じられるのは、自意識過剰だろうか。
制服を揺らし、一人所属クラスの列へと戻る彼女から夏樹は目が離せなかった。

透明人間ロックンロール

透明人間ロックンロール

夏は死の匂いがする。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-13

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. 第一話:セピア色の箱
  3. 第二話:祭の前