あれやこれや151〜160

あれやこれや151〜160

151 店長

 接客なんて向いてない。話すの下手だし、お世辞も言えない。
 それに、たぶん、人間嫌い。

 40歳過ぎて、ちょっと変えてみようか、なんて、縁があって飛び込んだブティックの店員。
 アパレル関係、死語で言えばハウスマヌカン。

 電話に出た。まあ、丁寧語は使えるが店長に注意された。1オクターブ高い声で話せ、と。
 はい、わかりました。
 素直です。褒められた。
 パート慣れしてない、と。

 ここは、絶対君主制、ではなく絶対店長制。やり手のカリスマ店長。社長も頭を下げる、メーカーの若い男性もひれ伏す伝説の店長。

 面接で女性のマネージャーに聞かれた。
「きついけど (店長の性格)大丈夫ですか?」
と、甘ったるい声で。
 スタッフはどんどん変わってきた。私が入った時には他の2名も入社半年以内。
 気に入らなければすぐ変えますから……とマネージャーの声が聞こえた。
 なんたって、売り上げを作っているのは店長だけ。売れるスタッフは……いらないのだ。

 世間知らずの奥様 (私)は、店長にいろいろ教えていただいた。最高の接客をして買っていただく。
 入ってすぐにミスをした。 
 カード会社の控えをお客様に渡してしまった。平謝りの私。
 店長は電話してくれた。
 大変お手数ですが……

 いいお客様で、14年間倒産するまでずっと来てくださった。翌日すぐに持ってきてくださった。

 そのあとまたミスをした。スタッフ2人の出番の日、売れないままにレジ締めの時間が迫ってきた。
 飛び込んできたのは初めて見る方だったが、勧めるままに、1日分の予算以上買ってくださった。
 びっくりして、値札を1枚取り忘れ……あ〜あ、あ〜あ。
 喜びも吹き飛んだ。
 翌日店長に話すと、たまに来る方で、電話してくださった。
 大変お手数ですが……

 店長に教えていただいたことは多い。二十歳で母を亡くした私は常識知らず。店長には中元、歳暮、誕生日にはプレゼントを渡すのが常識なのだ。
 店には年賀。旅行に行けば土産代も半端ではない。
 店の服を着て売る。社販で毎月買う。給料の2割、3割…………それが常識。
 金は貯まらない。それに、アパレル業界は離婚率が高い。

 おしゃれなブティック。
 ここは、見栄と自慢と悪口とが渦巻く女の園。 
 おそろしや、おそろしや。

 いろいろあったが、倒産するまで14年頑張った。
 途中ふたりは辞め、新しいスタッフはコロコロ変わった。

 店は自転車で10分。父が認知症になりデイケアの迎えがあるから辞めると言ったときも、仕事中に抜けさせてくれた。 (今思うとありえないこと)
 
 店長には大変お世話になりました。

『店長になりたかった』という作品もできました。

152 おかあちゃん

 中学1年の夏休みに引っ越しした。それまではよく母の買い物について行った。

 母は、平屋の小さな家の隣の、物置みたいな小屋の中でケトバシという機械を踏んでいた。金属の部品を足で踏んで加工する機械。
 学校から帰ればすぐに母のところに行った。ラジオがかかっていた。
 冬はストーブをつけているので、餅を焼いてその日の学校の話をした。
 母はガチャン、ガチャン、と足で踏む。1度やらせてもらったが、力が弱くてうまくできなかった。

 でき上がったものを届ける。私は自転車の荷台に積んだものを押さえながらついて行った。まだ無条件に母を好きだった時代。1日で800円になった、と覚えている。

 夕方になると買い物に行った。商店街の肉屋、魚屋、乾物屋は活気があった。
 天ぷら、フライは、揚げたものを買っていた。 
 おかあちゃん、今思うと手抜きだったね。

 八百屋でみかんを買う。当時は1キロいくらだったのだろうか? 2、3種類あり、いつも1番安いものを、それを2キロ買っていた。たぶん20個くらい。紙袋に入れてくれる。それを買い物かごに入れる。
 私は母の右側に、母の腕に自分の腕を絡ませて歩いた。なぜ、持ってあげなかったのだろう? 持ってあげたときもあったのかな?

 ときどきは少し大きな箱に入っているチョコレートを買ってくれた。100円しなかったけど、宝物をもらうより嬉しかった。

 中学になり引っ越しをすると、母は近くの会社にパートに行くようになり、学校から帰ってもいなかった。もう、誰もいないのが嬉しい年頃。
 毎日のように図書館で本を2冊借りてきて読んだ。
 炬燵に入り山に積んであるみかんを食べた。
 よく怒られた。
 すぐなくなる。重いのに……と。
 あの頃は、1度に5、6個食べていた。今思うとよく食べられたと思う。
 母は文句を言ったが、1日に2個まで、とか制限はしなかった。食べ過ぎると手が黄色くなると言われ、よく手を見ていた。
 下痢もしなかったし。

 父は田舎から出てきて靴職人になった。大量生産の時代になると景気が悪くなり、母は苦労した。
 私が高校の時、父は転職した。
 足の不自由な人の靴を作る。
 その会社に入り、ようやく余裕ができたようだ。

 両親は銀婚式から3年続けて旅行していた。北海道、山陽、四国。
 出発の日は姉と駅まで見送り、ふたりで小遣いを渡した。3泊くらいの旅行。思い出になったろう。土産を山ほど買ってきた。
 3年続けて行ったあとに母は亡くなった。
 私が二十歳の年、成人式の振袖も着ることができなかった。

 もう、母の歳をずいぶん超えたけど、まだ北海道も四国も行ってない。


【お題】 みかんは1日2つまで

153 春の想い

 YouTubeをいろいろ観ていて衝撃を受けた動画があります。
 トーマス・クヴァストホフをご存知でしょうか?


 トーマス・クヴァストホフは1959年11月9日に西ドイツのヒルデスハイムで生まれた。
 母は妊娠中につわりを抑えるため制吐剤としてサリドマイドを服用しており、この薬害によってトーマスは重篤な障害を持って生まれた。
 身長は134cmと低く足は長管骨に影響が出て短く形成され、アザラシ肢症により手も短い。

 肉体的なハンデを背負ったトーマスではあったが、17歳のころから声楽の勉強を開始し、ハノーファーの音楽院への進学を希望するが、「ピアノが弾けない」という理由により入学できなかった。
 トーマスはハノーファー大学に進学して3年間法学を専攻。卒業後は北ドイツ放送に入り、ラジオアナウンサーを務めたほか、テレビ番組の音声担当も行った。

 トーマスが音楽活動を始めたのは1984年のことである。
 ヴュルツブルク、ブラチスラヴァでのコンクールに入賞ののち、1988年にミュンヘン国際音楽コンクール声楽 (バリトン)部門に出場して優勝。
 歌手に専念し、1989年にはグスタフ・マーラー・フェスティヴァルにおいて『さすらう若者の歌』を歌い、1995年にはアメリカデビューを果たす。
 1998年の同音楽祭では世界初演となるペンデレツキの『クレード』でソリストの一人となり、そのライヴ録音は2003年度グラミー賞の最優秀合唱作品部門を受賞した。
 2003年、トーマスはザルツブルク復活音楽祭に出演し、オペラデビューを果たす。
 カーネギー・ホール進出が企図された2006年、トーマスはこれまでとは違うジャズの分野にも進出し、ドイツ・グラモフォンからアルバム をリリースした。

 2011年10月、喉頭炎と診断され、ジャズのステージからの引退を発表。次いで2012年1月11日、トーマスは自身の公式サイトで健康上の理由により歌手生活からも引退することを発表した。 引退声明の中でトーマスは
「自分の健康状態が、自己の持つ高い芸術水準を維持するには無理が生じた」
とした上で「新しい人生への挑戦が楽しみである」ことを述べた。 
 引退後は教職活動、2009年に自ら立ち上げた2年に一度の声楽コンクールである「ダス・リート "Das Lied"」での芸術監督としての活動を継続し、それらに加えて朗読の部門などで活躍している。 



「歌に関しては障害と一緒に評価されたくない、一人の歌手として評価されたい、自分はそれを求められるだけのレベルに達している」


「音楽の勉強がしたかったのだが、大学では楽器が弾けないからダメだと言われた。そこで個人的に歌を勉強することにした。重要なのはネガティブなことが起きているかどうかではなく、それにどう対処し、その状況から何を得るかである」

 10年半以上にわたって学び、キャリアを積んできたが、彼を突き動かしてきたのはある大きな動機だった。

「私が生まれたときから母は (サリドマイドを服用したことに)罪の意識を感じていた。
『その必要はない』と私がいくら言っても母はきかなかった。なので私は母に、私の人生と才能を最大限に活かした姿を見せたいと思った」


シューベルト 春の想い
https://youtu.be/oEOQ1buE3jc?si=38ptY8OjFeEJNyGA

154 百万本のバラ

 今日Yahooニュースで見出しを見てびっくり。 (2024.3.30)
 以前拙作『お気に入りの曲』で取り上げた歌手だから。

✳︎

 ロシア最高検察庁は、日本語でカバーされた「百万本のバラ」などのヒット曲で知られる国民的歌手アーラ・プガチョワさん (74)をスパイを意味する「外国の代理人」に指定するよう法務省に要請した。ロシア通信が29日伝えた。プガチョワさんはウクライナ侵攻に反対の立場を公言している。

 プガチョワさんは2022年9月、夫のテレビ司会者マクシム・ガルキンさん (47)が外国の代理人に指定されたことに抗議し、連帯のため自分も指定するよう訴えた。ガルキンさんは侵攻を批判し、政府系テレビの番組を降板した。

 プガチョワさんはリベラルな言動で知られる。「百万本のバラ」はカバーした加藤登紀子さんの代表曲でもある。

✳︎

「百万本のバラ」は、ラトビアの歌謡曲
『Dāvāja Māriņa』 (マーラが与えた人生)
を原曲とするロシア語の歌謡曲。
 もともとの歌詞は、画家や薔薇とはまったく関係ない。

 ラトビアは、小国ゆえに歴史的に近隣のスウェーデン、ポーランド、ロシア、ドイツなどによって絶えず侵略・蹂躙されてきた。
 独立への思いを抱きながらも、多くの時間においてそれを成すことができなかった。
 詩人ブリディスは、そんなラトビアの悲劇の歴史を「幸せをあげ忘れた」と表現し、これにパウルスが旧ソ連時代の1981年に曲を付け、女性歌手アイヤ・クレレがラトビア語で叙情豊かに歌ったのが最初だった。


 子守唄のように優しく歌いながら、実はそこには民族の自尊心とソ連への抵抗への思いが込められていたのだという。

 しかし、当時支配者だったロシア人は、原語のそんな意味も分からず、魅力的なメロディーだけを歌い継ぐこととなった。
 ボズネンスキーという男が作詞したロシア語の歌詞では、なぜかグルジア出身の放浪の画家ニコ・ピロスマニを題材とした“悲恋”が描かれ、それをロシアの人気女性歌手アーラ・プガチョワが唄って大ヒットさせたのだ。


 日本語でも歌われる「百万本のバラ」などのヒット曲で知られるロシアの国民的女性歌手アーラ・プガチョワさんは、ウクライナ侵攻を批判した夫が、ロシア政府からスパイを意味する「外国のエージェント (代理人)」に指定されたため、
「夫への連帯として、私も指定してほしい」
と訴える声明を発表し、侵攻を批判した。
 プガチョワさんは、侵攻を続けるプーチン政権に反対の立場を明確にした。
 プガチョワさんは2009年、60歳の誕生日に当時のメドベージェフ大統領から「祖国功労勲章」を授与されている。

 ラトビアは、1918年11月に独立を宣言したものの1920年まで内戦状態が続き、1940年には独ソ密約により旧ソ連の領土となった。
 そして、1941年から1945年までナチス・ドイツの占領を経て、再びソ連領となる。
 その間、1940年から1949年にかけて約8万にも及ぶラトビア人がシベリアに流刑され、また多くの国民が難民として国外に亡命した。
 この結果、1939年にはおよそ73%いたラトビア民族は、1989年には52%にまで減少した。
 
 この詩は大国の犠牲となった悲しみの象徴。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
 エストニアでは、ナチの占領期間に1万というユダヤ人が殺され、ラトビアでは約8万5千のユダヤ人が殺されている。
 バルトの神話、女神マーラは、ユダヤ人には生も幸も授けず、迫害と死を与えた……
 1982年に、「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわった。
 放浪の画家ピロスマニが女優マルガリータのホテルの前を花で埋め尽くしたという伝説をもとに詩を創作した。

 原曲の詩のまま、ロシアで訳すわけにはいかなかったのだ……

155 働いた働いた

 高校時代は遊んでばかりで就職先も決まらなかった。
 でも後悔してない。たくさん思い出ができたから……
 なんて、卒業アルバムに書いて、母を呆れさせた。

 自分で募集広告を見て面接に行った。車の免許は取ってあったから、仕事はトラックの運転手。下請けの小さな会社。日払いのようなもの。

 それでも車が欲しいから一生懸命働いた。ローン組むと言うから、手数料もったいないから、貯金と保険工面してかき集め、現金出してやった。毎月返せばいいから、と。
 買った車は夫のより高かった。宝くじでも当たったんですか? と担当に言われたらしい。
 
 頑張りを認められ、親会社が引き抜いてくれた。今度は引っ越しの仕事。
 おっちょこちょいだから、ガラス割って弁償したり、壊したのも2度か3度。話を聞くたび母は情けなく、心配に。でも、チップをもらえるので昼代が浮く……

 つなぎの作業服は、股のところがよく切れた。頑張っているのだろうな、と思いながらよく縫ってやった。

 車の金も全部返した。1ヶ月余分に取ってやったけど、気が付かないバカさ加減。

 皆どんどん辞めていくが、息子はバカだけど真面目だからリーダーになり、だんだん古株に。
 覚えれば手際良くなり、愛想もいい。でも計算は苦手だ。釣りを間違えて損をした。もう少し勉強しておけば良かった、と私に言った。
 今からでも勉強はできる。

 父が危篤になったのは3月の終わり。引っ越し業者には一番忙しい時期だった。病院にもなかなか行けない。催促して催促して夜遅くようやく会わせた。
 おまえが生まれたときには喜んでくれたのに、大きくなってからはほとんど会いに行かなかった薄情な孫。バイトと遊びと仕事で忙しく、施設に入っても1度も行ったことがない。冷たい息子だ。孫だ。
 それどころか、実家にも寄り付かなかった。ひとり暮らしをしたら、来るのは金を借りる時だけ。残業も、休日出勤も多いのに、趣味の釣りに注ぎ込み、何年経っても貯金はできなかった。貸した金は夫には内緒。
 ホント、母が一番バカだった。


 父の葬式の前後も仕事で遅くなり車で寝ていた。高校生の娘が、これも兄に負けずバカで、葬式なのに化粧をして私に怒られていた。怒っても落とさない。

「顔洗ってこいっ!」
 息子が言うと、娘はピューッと洗面所に走り落としてきた。
 すごいなあ。
 そういえば、妹たちと会うのも久しぶりだ。この息子は長男らしいことはなにもせず、なのに妹たちには子どもの頃から慕われていた。

 この息子は釣りのために結婚もせず、ゆくゆくはホームレス……なんて思っていたのだ。
 ところが新しく入ってきた事務の女性と結婚したのです。 (できちゃったの)

 彼女もつなぎの作業着を縫ってくれたと言う。
 
 今では転職して、釣船のキャプテン。


【お題】 引っ越し業者はつらいよ
 

156 四面楚歌

 中国の歴史など詳しくないのに、ドラマを観ていろいろ調べた。
 項羽(こうう)劉邦(りゅうほう) 
 呂后(りょこう)(せき)夫人 
 虞美人(ぐびじん)……

 観始めたのは劉邦の奥さんの方に興味があったから。恐ろしい中国三大悪女のひとり呂雉(りょち)、呂后。

 紀元前202年、項羽を制し天下統一を成し遂げた劉邦は、漢王朝を建国し初代皇帝 (高祖)に即位した。
 しかし世は真の平和を得たわけではなく、漢の周辺では相変わらず戦が続いていた。
 高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。

 2代目恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の妻呂皇后であった。
 呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意 戚夫人の子供を毒殺、更にその母の戚夫人を人間豚と呼ばれるほどの残虐な刑で殺害、恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。
(寵愛された戚夫人が、あまりおごり高ぶったため、呂后は皇太后になると、戚夫人の手足を切り、目をえぐり耳を削いだ。そして喉を潰して厠に!
 美女の末路がそれほど悲惨とは残念ですね。
 悲惨ではあるけれど、戚夫人は呂后を侮辱した。女の恨みというのは深いですね)

 映画『鴻門の会』のラスト。

「だが知る由もない。我が妻が息子たちを殺したことを。
 さらに知る由もない。400年後、我が帝国が地上から消え失せることを」


 項羽は「西楚の覇王」。
 ひとつの眼球に2つの瞳孔を持ち、身長が180cmを超える大男で怪力。敵には残忍で徹底的にやっつけるが身内には大変愛情深い。そんな項羽が愛したただひとりの女性が虞美人。

 まず『四面楚歌』の歌に魅せられてしまった。漢詩など興味はなかったのだが、漢文も苦手だったが、繰り返し聴いている。合わせて歌っている。『垓下 (がいか)の歌』

 ()や虞や、(なんじ)をいかんせん……

「項羽の陣営を幾重にも囲んだ劉邦の軍から夜、()の歌が聞こえてきます。項羽は敵に投降した楚の兵が多いことを知って驚きました。
 項羽のそばには常に最愛の女性、 虞姫(ぐき)と、愛馬の(すい)がおりました。項羽は詩を詠じます。

 力は山を抜き気は世を(おお)ふ。
 時利あらず(すい)逝かず。
 騅逝かず奈何(いか)にすべき 
 虞や虞や|(なんじ)を奈何せん。

 自分には山を動かすような力、世界を覆うような気魄(きはく)があるが、時運なく、騅も立ちすくんでしまった。騅が走らなければ、どうしたらいいのか。虞や虞や、おまえをどうしたらいいのだろう――。

「美人(これ)に和す」
「項王 (項羽)(なみだ)数行下る。左右皆泣き、()く仰ぎ視るもの()し」

 項羽は覚悟していました。敗れた自分は散ればいい。だが虞姫はどうなる? 項羽は虞姫ひとりを心から愛していたのだと思います。
(NIKKEI STYLE キャリアより)

 
 個々の戦の能力という意味で、項羽は飛び抜けた存在だった。劉邦は項羽を倒した勝因について、次のように述べた。
帷幄(ちょうあく)のなかに(はかりごと)をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、わしは張良(ちょうりょう)にかなわない。
 内政の充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、わしは蕭何(しょうか)にはかなわない。
 100万もの大軍を自在に指揮して、勝利をおさめるという点では、わしは韓信(かんしん)にはかなわない。
 この3人はいずれも傑物といっていい。わしは、その傑物を使こなすことができた。これこそわしが天下を取った理由だ。
 項羽には、范増(はんぞう)という傑物がいたが、かれはこの一人すら使いこなせなかった。これが、わしの餌食になった理由だ」 (PRESIDENT Onlineより)

 鴻門之会(こうもんのかい)で、項羽側が宴に招いた劉邦を討ち取る絶好のチャンスがあったが、項羽は敢えてそうしなかった。
 宴の席で討ち取る等、卑怯者の所業であるという項羽の考えは、常に正々堂々と相手にも自分と同じ条件を用意してやった上で倒すという彼独自の美学に基づくものであったが、劉邦を生き長らえさせたことは、後の項羽にとって命取りとなった。
 しかし、こうした項羽の生き方は、カッコいい男の生き様として中国民衆の心をとらえて離さず、今日でも項羽のファンは非常に多い。



【お題】 我が国の王様はピュアなので

 

157 目には目を

 史上最悪と言われた少年犯罪も死刑にはならなかった。
 当たり前だ。 少年犯罪で死刑にならないのは、少年法で定められている。
 それに、死刑になる決め手は、計画的犯行であることと、ふたり以上の被害者。

 世間がどんなに騒いでも、彼らはこの条件に満たないから、死刑にはならなかった。

 女のアナウンサーは叫んだ。
「許せません。軽すぎます。少女が報われません」

 昭和の終わりの、犯罪史上類をみない残虐な少年犯罪があったのは、比較的住んでいるところに近かった。

 知らなければよかった。興味を持たなければよかった。
 怒り心頭……はらわたが煮え繰り返り、脳みそまで沸騰した。

 明け方、目が覚めてしまう。娘を持つ親だから余計に許せない。
 許せない。許さない。
 報復を。どうする? 

 本気で考えた。宝くじで大金が当たったら、殺し屋を雇って同じような目に合わせてやる。
 去勢してやる……
 週刊誌を買い、本名を控えた。
 新聞にも投書した。採用されなかったが。

 年月が過ぎ、出所した犯人のひとりが再犯事件を起こした。
 主犯格もその後、再犯。
 更生などしない。更生させないのは世間のせいか?
 今でも思う。宝くじが当たったら……

✳︎

 鬼畜と言われた少年達は、ある朝、消えた。忽然と。

 少年たちはよその国の過去に来ていた。
 なぜなら、日本にそれは伝わらなかったから。

 中国や韓国は儒教の国で日本は仏教国だ。根本的に両国とは違う文化の上に成り立っている。
 それは遊牧民族の習慣で、家畜が発情すると扱いにくくなるため、行うのが一般的だった。 
 ゆえに人に行うことにも抵抗がなかったようだ。


 暗い部屋で、少年たちは泣き喚いた。

「ああ、あの報いなのだな」
 少女の顔が浮かんだ。もう思い出せもしない。親達でさえ見分けがつかなかったほどに変わり果てた姿で見つかった。
 

 少年たちは、順番に3人がかりで押さえつけられ、刃物で切りとられた。
 すぐに切断部分に棒が差し込まれた。

 その後、執刀者にかかえられて2〜3時間部屋を歩き回ってから横になって回復を待つのだが、手術後3日間は水を飲んではならず、大変な苦しみだった。

 水を飲めば尿が排出されず、栓を抜けば切ったところの肉がもりあがり尿道を閉ざし、死に至る。
 3日後、尿道の栓を抜いて噴水のように尿が出れば手術は成功であるが、死亡率は高い。

 1番年下のZは死んだ。
 生き延びたのは3人だ。

 それからは宦官としての訓練が行われた。どんな時でも王様を守らねばならない。
 重いものを背負い走る。
 体力のないYは、辛さに耐えきれず首を吊った。

 XとWは体格も良かったし知恵もあった。
 年月が経ちふたりは出世していった。
 
 Xは女官たちにモテた。
 死んだ少女も最初Xを頼った。
「助けて。なぜ助けてくれなかったの?」

 Xは側室にもかわいがられた。側室は王が滅多に訪れないので、寂しいのだ。王妃を陥れることばかり考えていた。

 ある日、女官のひとりが妊娠し大騒ぎになった。女官は責められたが、相手の名も言わずに自害した。
 女官の妊娠など、王宮ではありえないことだ。宦官たちが順番に機能を確かめられていく。
 Xは逃げたが捕まり、再び去勢された。そして、足の腱を切られ王宮を追い出され死んだ。

 主犯格だったWは王にも信頼され、部下にも慕われた。
 弁護士が、家庭環境を理由に減刑を訴えた。環境が違えば、リーダーにもなれた男だったのに……と。

 Wは人が変わったように王に尽くした。命の危険も顧みず王を守った。
 自分の罪を償うかのように。
 いや、手術によって性格に変化が生じたのかもしれない。

 寛大になり、むごいことを好まず、女性や子どもに対しても愛情をもった。正直で慈悲深かった。

 ついにWは宦官のトップになった。栄華も想いのまま。妻も娶れるし養子もとれる。
 が、Wは貧しい者のためにすべて恵んだ。
 王に尽くした。
 王は聖君だった。世のために、民のために、Wは王に尽くした。

 敬愛していた王が亡くなると、太子を聖君にするよう努めた。
 太子も幼い頃から賢く、聖君になるとWに誓っていた。

 誓いどおり貧民を救済して、多くの書籍を編纂し、外勢の侵略を阻んで城を築くなど、安定した政治を行った。

 しかし、自分の母親が側室に陥れられ、死んでいったことを知ると、変貌した。
 母親の死に関わった者たちを次々捕え、残虐に殺していった。

 王は暗君になった。暴君になった。鬼畜になった。
 諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑した。

 暗黒の時代。Wも何度も王をいさめ、怒りを買った。幼い頃は背におぶった優しかった方だ。
 Wは王を諭した。
 ついに疎まれ、拷問された。
 思い出した。
 自分がなにをしたか……
 どんなに酷いことをしたか……
 少女の顔が浮かんだ。
 Wは詫びながら拷問に耐えた。

 そして、またもや王を諭した。王はついに刀を振り上げた。


 臣下たちの怒りが頂点に達した結果、宮廷クーデターによって王は失脚した。この時、王の側近、寵姫は反対勢力の手により斬首刑。また正妃は廃位され、残された王子たちは全て処刑され、更に残された王女たちは全て奴婢にされた。

158 鮮やかな記憶

 昨夜夢を見た。前世の夢だ。やけにはっきりしていた。今までおぼろげに思ったことはあったがあまりに悲惨なので打ち消してきた。

 鮮やかな夢だ。見たくはなかった。心が崩壊した。吐き気がする。

 落ちていた鏡に自分の顔を写した。 
 人種が違う。国が違う。性別も違う。
 顔もぜんぜん違う。前世の私は美少年だ。
 あの女の息子なのだ。

 鏡の中の私は彼のおばあさんの年齢。
 なぜ、こんな歳になってから、わかったのだろう?


 僕はわずか10歳で死んだフランス国王ルイ17世。
 悲劇の王妃マリー・アントワネットの2番目の息子だ。
 兄は死んだ。

 革命が起きて、父は殺された。母とは引き離され、幼い僕は貴族的なものを忘れるため再教育された。
 王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込まれた。やがて教育には虐待が加わった。
 具合が悪くなるまで無理やり酒を飲まされたり、「ギロチンにかけて殺す」と脅された。
 暴力は激しく日常茶飯事となり、番兵までもが暴力に加担した。

 母が処刑されると、ほとんど光が入らない不潔な部屋に監禁された。室内用便器は置かれなかった。
 僕、フランス国王ルイ17世は部屋の床で用を足した。ろうそくの使用、着替えの差し入れも禁止された。
 この頃、僕は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。
 食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子から入れられた。
 呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、くる病になり歩けなくなった。

 その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や、のみとしらみだらけのベッドで一日中横になっていた。
 室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「暴君の息子」と長々と罵倒され、暴行も続いた。
 もはや僕に人間的な扱いをする者は誰もいなかった。

✳︎

 ルイ17世 (1785年3月27日 - 1795年6月8日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男。
 兄の死により王太子となった。
 革命後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世の処刑により、名目上のフランス国王 (在位:1793年1月21日 – 1795年6月8日)に即位した。
 しかし解放されることなく2年後に病死した。


✳︎

 ひとり暮らしの私は施設に収容された。
 入浴し着替えさせられた。医師の診察を受けた。この頃の私は栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に覆う黒や青や黄色のミミズ腫れ、無数の傷跡があり、爪は異常に伸びきっていて、もはや、一人では歩けなかった。

159 長靴を履いた女たち

 3人目の子どもが幼稚園に入った頃、パートで働き始めた。
 まだ医療費も幼稚園も無料ではなかった時代。住宅ローンの金利も5、5パーセント。夫の給料だけでやりくりするのは大変だった。
 口にすると、
「じゃあ、働け」
「……」
 結婚したときは、外に出さないで、押し入れに隠しておきたい、と言ったのはどの口だ?

 じゃあ、働くわよ、と求人広告を見た。条件はまず、近いこと。時間は幼稚園の送りから迎えまでの間。 
 今なら、午前中だけ、というのがあるが、当時はそんなのはなかった、はず。
 歩いて行ける食肉工場で、時間応相談というのがあったので、期待しないで行ってみた。
 面接したのは40歳くらいの男性。私はまだ30代。
 どうせ、ダメだろうと、言いたいことを言った。時間は9時から2時半。包丁は……怖いです……
 パートの女性はきついけど、大丈夫ですか? と聞かれた。
「はい、たぶん」

 働けることになった。
 幼稚園に連れて行ってから向かう。
 ビニールの厚いエプロンをして長靴を履く。包丁が苦手と言ったので、手前の台で、年配の正社員の女性Kさんの補佐を。
 Kさんは、30キロ入った鶏肉のコンテナを台に持ち上げて出す。私は目分量でビニール袋に詰めていき、Kさんが包丁でカットし1キロにしていく。
 黒板にその日の注文が書いてある。主に学校や会社から。
 皮なしの鶏肉のときは、皮を剥ぐ。
 そのあとは挽肉。袋に入れ平らにする。
 シシトウのヘタを取る。焼き鳥用。ひとつずつ悠長に持って取ってたら、年配の女性が飛んで来て、取り方を教えた。
 なにモタモタしてんのよ……というように。

 そこで、だいたいお昼になる。Kさんは台を掃除する。熱湯をかけ豪快に。

 昼は家に戻り1時から続きを。 
 別の長い台では、長靴を履いた女たちが骨付きの鶏肉の骨を取る作業をしている。
 私も袋詰めが早く終わると包丁を持たされた。研いである包丁は怖い。
 教えてもらったが、なかなかうまくさばけなかった。

 そのうち、不況で注文が減ったのか、パートの女たちは午前中で帰されるようになった。夕方4時までのパートは当分の間、午前中3時間だけ。

 ところが、入ったばかりの私は2時半までの契約だから、そのままだった。
 当然、非難轟々。
「なんで、あんただけ?」
と、露骨に言われた。
 課長に聞けば、帰されるのは4時までのものだと。

 非難轟々、まだ若かった。
 ひいきだ、なんだ…………
 長靴を履いた女たちがキャンキャンキャンキャン。

 誰が悪い? 
 Kさんは、気にするな、と言ってくれた。たぶん。 
 いい人だと思っていた。作業しながらいろいろ聞いてくる。
 子どものこと、旦那のこと。
 私は愚痴をこぼし、アドバイスをいただいた、つもり。
 どこかへ行けば、土産を買ってきてくれた。
「あんたにだけだから、自転車のカゴに入れておいたから」

 長い間働いていたKさんは、女の恐ろしさを教えた。
 肉を詰める作業。大量の肉の中に包丁が紛れていたことがあった。知らずに勢い付けて肉をつかんだら……
 恐ろしい女のゴタゴタ、嫉妬。
 少し前に働いていた若い女性は10キロも痩せたとか。

 男は面接をした独身の課長と若い男性ふたり。あとはKさん以外はパートの女性。私より年上の女性。
 
 キャンキャン言われていたようだが、ポーカーフェイスを装った。
 しかし、ある女性が私に告げた。
「Kさんがあんたの悪口言ってるよ」
 なに、懐いてるの? みたいな。

 これはショックだった。
 今なら、黙ってはいない。
「私、なにかしました?」
 くらい、言ってやる。いや、言えない。

 とても信頼していた方でした。
 だから、怒りで夜中に目が覚める。
 言ってやりたかった。
 葛藤……

 そして辞めた。仕事を辞めた。冷えで腰が痛いから、と。
 今なら辞めない。
 施設の女性蔑視の高齢の男性に、バカヤローと言われようが、ブタがブヒブヒ言っている、と思うようにしている。

 辞めるときに、世話になったからとKさんに茶を渡した。
 高い、木箱入りの高級煎茶。お茶が好きだと聞いていたから。
「お世話になりました。Kさんのおかげで今まで頑張れました」 



【お題】 長靴を履いた犬

160 忘れたの?

 もう20年も前のこと、雷で電車が止まった。外は大雨。
 最終の電車に乗っていた娘から電話が来た。
「タクシーも並んでて乗れないから迎えに来て」

 夫はすでに酒を飲んで寝ていた。朝は早い。仕事優先。
 真面目な両親の娘は、高校を卒業しても就職せず派遣を次々。毎日帰りが遅く、父親とは話もせず……母はオロオロ。そんな時期だった。

 私は運転できない。
 どうしようもない。タクシー待つしかない。そう言って切った。

 心配で眠れなかったが、しばらくして娘は帰ってきた。
 友人 (男)に電話して、送ってもらった、と。

 娘は母と違い青春を楽しんでいた。遊びまくり。真面目な母から見ればメチャクチャ。
 何度も怒ったが、
「今、死んでも悔いはない」
と口に出したくらい。
 ネイルの資格を取っても、医療事務の資格を取っても、仕事は長続きせず、親を心配させ呆れさせた。

 付き合う男も次々。すぐ嫌になる。
 虫歯が見えるから嫌、というのもあった。

 送ってきてくれた男性は地元の友人。その年、何人かで海に行ったりしていた。
 夜中に迎えに来てくれるなんて…‥いい人なのに、本命ではないらしい。 

 その年の夏は数人でよく出かけていた。
 車で迎えに来たその男性に私は挨拶した。
 キチンとした人だったが、恋愛には発展せず会うこともなくなっていた。

 2年くらい経ち、あの彼が亡くなった。
 知ったのは葬儀も終えてしばらく経った頃。
 交通事故だった。
 数人で飲みに行き、彼は泥酔。車の後部座席で寝ていた。運転したのは酔った仲間。
 彼だけが亡くなった。

「お線香、あげにいったほうがいいよね?」
 娘が私に聞いた。
 
 友人と線香をあげに行った娘は、母親の無念を聞いてきた。
 母ひとり子ひとり。
 母親に同情したのか、娘は何度か線香をあげに行った。
 母親は、運転した友人に怒り、訴えるとか。
「でも、酔った彼も車に乗ったんだよね」

 それきり行かなくなったが。その後、どうなったかはわからないが、思い出すことはあるのだろうか?

 どう見ても、自慢できるような娘ではないが。
 子どもができても、絶対絶対、手伝いに行ったりしないからね、と、母は思ったほどだ。

 今は2人の娘に手を焼いている。
 口もきかなかった父娘は一緒に酒を飲む。娘のために父は酒を選ぶ。

 もう、あの彼のことは忘れたのか?
 私も忘れていた。
 某サイトの『お題』で思い出した。

 投稿するようになって、思い出した方が何人もいます。

あれやこれや151〜160

あれやこれや151〜160

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-11

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  1. 151 店長
  2. 152 おかあちゃん
  3. 153 春の想い
  4. 154 百万本のバラ
  5. 155 働いた働いた
  6. 156 四面楚歌
  7. 157 目には目を
  8. 158 鮮やかな記憶
  9. 159 長靴を履いた女たち
  10. 160 忘れたの?