会話

こんなことを言葉にしても、それは言葉だから、一体なんなのだろうかということになるのだろうけど。
それでもつらつらと書いたものです。

皆が知っているけれど、気がつかないこと

 樹があります。コンクリートに塗装され尽くされたこの道にも、樹があります。
 その合間に、ブロック塀や路肩やタイルの隙間に、名も知られなく、それどころか、だれにも見られることもなく生えている草花があります。

 せかせかと歩き、自転車や車に踏まれようとも、桜じゃないからと見向きもされない街路樹も、ただただそこにあります。

 土は固く締め付けられ、痩せているのに、それでも立派にいます。それで枝葉を伸ばして、邪魔だからと整備され、切られること毎年です。
 しかし何とも草木は言いません。
 けれど、僕は耳を澄ませます。特別な才能じゃありません。凄く草木、ましてや石っころですらも、僕に言葉でない声ですべてを語り聴いてくれて、包んでくれます。
 そこには、裁判所の天秤みたいなことはいっさいありません。訪れるものを拒まず、訪れなくても何も言わず。いつもいて、いつもいなく、自身が踏みつぶされようが、病気や伐採で困難にあっても、ただただ風に任せています。

 最近は観葉植物というものが、広く知られるようになったようで。どうして?
 動物よりも世話はかからないけれど、騒がしくもないけれど、愛情を注ぐ人は、それは多くの労力をかけているもので。
 その人たちはいいます。元気がいいか元気がないか病気になっているか、ほんの些細な変化に気づき、手間をかけます。そうすることで、目一杯にこたえてくれるんだと。

 草木に言葉はありません。人と話すような会話はありません。動物みたいにかわいらしく直にリアクションをしてもくれません。ただ居るんです。

 誰だって、耳を、いいや感覚を澄ませば、草木の声が聴こえて、そして僕らが発する声も草木は聴いてくれます。
 言葉じゃないから、心で。心にくるからじんわりと、しかし芯の部分に確かにそっと。
 これが会話なんじゃないかな、僕は思うんです。
 今、人がこんな会話ができるかどうか、僕は迷います。こんな僕の言葉よりも、草木にあいにいった方がよほどいいでしょうね。

会話

このただぽつりぽつりこぼした言葉たちが、なんらかを発せたらそれは幸いです。

会話

自分たち人は、少なくとも私は誰の仲間か。 機械なのか。いいえそれは違います。と誰もが言う。けれど、機械のような会話しか行きかっていないような気がします。 自然は、そこにいます。私の身体も自然です。けど意識ばかりが威張ってしまいます。意識以外のものを排するのがこの社会なのですから。 だからこそ、声を聴いていきたいと思うのです。誰でもが持っているその耳。失いやすいその耳。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-19

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