世間知らずなおじょうさま(猫乃世星)

世間知らずなおじょうさま(猫乃世星)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

「百聞は一見に如かず」という言葉があります。その言葉を見ていると、知識も大事だけれど経験はもっと大事だと改めて思います。
   しかし経験するだけでは、その一見は百聞と何も変わらないのではないでしょうか。一つ一つの経験から何かを学んでこそ、「百聞は一見に如かず」という言葉が真の意味を持ってくるのだろうと感じます。似たような出来事ばかりが我が身に降りかかってくる時は、それはそこから何か学ぶべきことを学んでいないからかもしれません。
   「人生には落第がない」という言葉があります。落第がないということはつまり、合格するまで何度も何度も繰り返し同じ経験をする、という意味であるそうな。
   ここに一人の女の子の話があります。彼女は「百聞は一見に如かず」という言葉を、きちんと体現できるのか――見ようによっては、これはそのようなお話でもあります。決め付けたくはないので、断定はしません。
   感謝をこめて送ります。

第一章 理宇、小学生

 理宇はみんなから望まれて産まれた女の子だった。
 母親のお腹から出てきた時は、難産だったためか、柔らかい頭が仙人のようにぐんにゃりと長く伸びていた。その上全身内出血で真っ黒で、お世辞にも可愛いとはいえない姿をしていた。赤ん坊を取り上げた瞬間、看護師が「かわいそうに」と思わず小さく呟いたのを、律子はしかと耳にしたという。ふうふう言いながら、地上に降りてきたばかりの我が子を一目見た時、律子は「おやまあ!」と小さく叫んで、看護師がそう言ったのも仕方ないと納得した。そう、後から何度も何度もおかしそうに語った。
 実を言うと、看護師が一目見てかわいそうにと言わずにおれなかったその真っ黒い仙人みたいな赤ん坊を、周囲に披露するのが律子は少し恥ずかしかった。だが恥ずかしいからといって隠す訳にもいかない。
入院中、病室に親戚が何人も訪れては祝ってくれた。その度律子は、赤ん坊を見た来訪者の表情をこっそり窺っていた。流石にはっきりと顔に出す人は少なかったけれど、どの来訪者も赤ん坊の容姿に少なからず驚いているようだった。
ただそのように訪れた親戚の中で一人だけ、特に驚きもせず他の来訪者たちとは全く異なる反応を見せた人間がいた。彼女は赤ん坊を一目見てにっこりと笑って言った。
「よかったなぁ。この子は色白の子ぉや」
 反射的に律子は、こんなに真っ黒なのにと苦笑する。すると彼女は、それは単に内出血しているだけだから安心しい、とやけに自信たっぷりに言って、にこにこしたまま帰っていった。
 律子は最初半信半疑であったが、なんと数週間後には彼女の言葉通り赤ん坊の肌から黒味は薄れていって、代わりに雪のように白くて綺麗な肌が現れた。頭の方も無事元通りに収まって、律子は産んでからようやく安心することができた。

 さて、理宇と名付けられたその女の子は、酷い夜泣きさえなければ手のかからない赤ん坊だった。他の若い母親からよく言われていたように、目を離した隙に何か物を口に入れるなんてことは決してしなかったし、テレビをつけておけば何時間でもじっと画面を見つめて大人しく座って待っていた。赤ん坊のその特性を利用して律子は、少し用事ができた時なんかはテレビをつけて理宇の傍を離れることにしていた。戻ってくると、理宇はいつでも必ずホットカーペットの上に座り込んで、真剣にテレビに見入っていた。あまりにも真剣な顔で大人しく座り込んでいるので見逃しやすいのだが、そういう場合ホットカーペットに温められておむつが茹っている――なんてこともしょっちゅうあった。理宇は赤ん坊ながら、テレビに関してだけはとんでもない集中力を発揮した。
 理宇が産まれてから丁度一週間後に、近所に住む律子の友人、松本香が男の子を産んだ。敦という名前の赤ん坊を連れて香はよく律子の家に遊びに来たし、律子もまた理宇を連れて香の家を訪れた。お互いの赤ん坊がまだお腹にいる頃から、律子と香はよく二人一緒にいたので、理宇と敦は生まれる前から一緒だった。
赤ん坊を二人並べて寝かせ、昼寝をさせている間会話に花を咲かせるのが、律子たちの日課だった。つい夢中になって話していると突然敦が泣き出して、二人して慌てて見れば、いつの間にか目を覚ましていた二人がおもちゃの取り合いなどで喧嘩をしている、ということはしょっちゅうあった。だが母親同士仲が良く、産まれる前から一緒だったことを知っているのか、二人の赤ん坊は喧嘩をしたところですぐに仲直りする。可愛い我が子たちが仲良く一緒にいるところを見ると、律子は心がじんわりと温かくなった。
 
 理宇はよく食べ、よく寝て、すくすくと育った。
ところでハイハイをするようになってから分かったことだが、理宇が何か物を口に入れたり危ない物に触れたりしないのは、自分の興味のあるものには非常な関心を示すが、それ以外のものにはとことん無関心であるからだった。無関心による理宇の大人しさに関して純粋に喜んでいた律子は、それが逆に悩みの種となろうとは、その時が来るまで思いも寄らなかった。
その時は瞬く間にやってきて、律子をとことん悩ますことになった。
我が子が自分で移動できるようになると、律子は理宇が見て覚えるようにと、平仮名五十音の表を冷蔵庫に貼っていた。すると遊びに来た敦がそれに興味を示した。まだ言葉を話せないので律子の人さし指を掴んで表の文字一つ一つを指し示し、「これなあに?」と視線で問いかける様は好奇心に溢れていて、愛らしかった。律子は一文字一文字を丁寧に敦に教えてやった。
 対して理宇は平仮名の表にこれっぽっちも興味を示さなかった。理宇はテレビにしか興味がなかった。テレビがついている間は、おむつが汚れて気持ち悪くても泣き声一つ上げない程の集中力を発揮するが、それ以外に関してはてんで無関心だった。平仮名表とか学習用のおもちゃの時計とか、そういう物は一切目に入っていないようだった。
自分の子のために用意した平仮名表を、よその子のためだけに使っているという現実に律子は悲しみを覚えた。
「このままじゃこの子はアホの子になる」
 おむつから湯気を立てながら、テレビ画面を真顔で見つめ続ける我が子の姿に、悩み過ぎて追い詰められた律子は決心した。
 幼稚園にはまだ早かったので、律子は理宇を子ども塾に通わせることにした。
塾には大勢の子どもと母親がいた。どの子も真剣にプリントや学習用のおもちゃに向き合っていて、傍で母親は、子どもが一つこなす毎に笑顔で褒めてやっていた。
ここなら理宇も学習するだろう、と律子は希望を持った。
だが現実は甘かった。
 理宇は何故か、学習を非常に嫌がった。一番簡単なプリントを目の前に置いても、いやいやと首を振り、「やりなさい」と律子が嗜めれば泣き出した。「なんで嫌なの。これくらいやりなさい」と叱れば、更に泣き喚く。この子には知識欲や好奇心といったものがないのかと律子は目の前が真っ暗になる思いだった。
 それでも根性で律子は理宇を子ども塾に通わせ、学習プリントを毎日決まった枚数やらせた。理宇は毎日毎日、泣きに泣きながらも、わがままだが素直な子ではあったので宿題はきちんとこなした。
「やだーべんきょやーだ」
 少しずつ言葉を話せるようになると、理宇は毎日勉強嫌だと言っては泣き叫んだ。両親共に関西人で自分も大阪に住んでいるのに、話し出した言葉が標準語だったのは、テレビの影響に違いなかった。生粋のテレビっ子である理宇は、両親の言葉よりもテレビに感化されている。
「お隣に聞こえるやろ。恥ずかしよ、あー恥ずかしい。理宇ちゃん毎日泣いてるな、ってご近所さんに思われてるで。理宇ちゃん恥ずかしよー」
 床でボールのようにごろごろと転げまわって駄々をこねる理宇。律子がそう「恥ずかしい」と連呼すれば、泣き声の音量は小さくなるものの、勉強している間はなかなか泣き止まなかった。理宇はとんでもなく勉強が大嫌いな子どもだった。

 理宇は敦と一緒に、私立の幼稚園に通うことになった。同じ幼稚園に、子ども塾と同じ頃通い出したピアノ教室の子もいた。友だちがたくさんいるのだから、理宇はきっと幼稚園を楽しめるだろうと律子は思っていたのだが。
 毎朝、理宇は敦と一緒に送迎バスに乗り込む。
「いやや! よーちえん、いきたない!」
 毎朝、理宇は不登校児になる素質満載の駄々をこねる。幼稚園に通い出してからようやく関西弁で喋るようになったものの、この世の終わりと言わんばかりの必死さで嫌なものを拒絶する様子は、幼稚園に通い出す前と何も変わらない。
「よーちえんなんか、いかんぞおー!」と叫び続ける理宇を、優しい性格の敦が慣れた様子で引きずっていって一緒にバスに乗せてくれる。窓ガラスを通して未だに「おのれええ」と往生際悪く叫んでいる、朝っぱらから今にも泣きそうな理宇の顔が律子の目に映る。どうしてこんなに小さいうちから勉強や幼稚園を嫌がる子になってしまったんだろうな、と律子は毎朝宇宙の神秘を思う。
勉強はともかく、幼稚園を嫌がる理由はよく分からなかった。実際、幼稚園からバスに乗って帰ってくるときは、いつもにこにこして今日あったことを嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねながら律子に報告していたから。なんだかんだ幼稚園を楽しんでいるようであるのに、どうしてあれ程毎朝嫌がるのだろうかと律子は不思議でならない。もしかすると、家を離れるのを――正確には、テレビから離れることを――渋っているだけなのかもしれなかった。甘やかし過ぎたろうかと不安になる。だが、まだ遅くないはずだ。今からでも、もう少し厳しく育てなくては、と律子は毎日のように自戒した。
 そんな律子の内心の戸惑いや決心など知る由もなく、理宇は元気に毎日を駆けていた。
 よく喋り、よく泣き、よく笑い、よく暴れ、よく喜んだ。感情がそのまま表情や態度に現れるのは小さい子にありがちなことだが、それを割り引いて考えても理宇は感情をストレートに全身に表す、純粋で単純な子だった。
たまに行事で律子が夫の司と幼稚園に行くと、たくさんの園児たちの中で、理宇は興奮して文字通りぴょんぴょんと飛び跳ねていたから、遠くからでもすぐに見つけられた。
理宇は誰とでもすぐに仲良くなれたが、直情的で傷つきやすくて、よく拗ねた。
野良猫のように気まぐれな態度をとる反面、友だちが怪我をすると、青ざめた顔であたふたと心配したり、卵アレルギーで洋菓子が食べられない子がいると「かわいそう。ケーキ食べられんねんて。つらい」と自分のことのように泣いた。
「みんなしあわせになればいいのに」とよく呟き、手抜き料理ばかり作っている律子に「ママ、いつもおいしいごはんつくってくれて、ありがとう」と笑う。そういう時律子は、我が子ながら天使のような子だと感じ、胸がじいんとして、こっそり泣かずにはいられない。
理宇はそのように純粋な子どもだったけれど、まだ幼いので、やはり友だちの間でトラブルはあった。幼稚園仲間に意地悪される度すっかりしょげかえって、しばらく塞ぎ込むことも多かった。だが律子にとって心底不思議だったことには、理宇はいくらひどいことをされても悲しむばかりで、一度も意地悪された相手に対して怒りの感情を示すことは決してしないのだった。一人だけ仲間外れにされても、宝物を盗まれて返してもらえなくても、多くの場合怒るという選択肢は端から頭にないようだった。律子が厳しく叱っても、盛大に泣いてしょげかえるものの、決して反抗することはなかった。理宇には怒りの感情が大抵欠けているようだった。
 ただ一人だけ、理宇が怒りを示す相手がいた。それは父親だった。
 理宇は他の誰に何をされても怒ることはないのに、父親に対してだけは些細なことでも過剰な程怒りを露わにした。まるで本来なら多数の人間に向けるはずだった怒りを一つに凝縮して、それを全部父親にぶつけているようだった。
女の子なのに怒ると大声で喚きながら、小さい身体で父親に殴り掛かっていく。しかし所詮子どもなので、力では到底敵わない。結局、逆に投げ倒されて脚を掴まれ宙吊りにされているのが、天野家でよく見る休日の理宇の姿だった。
「ぎゃーっ!」
 天使のような一面もあるくせに、平日は勉強と幼稚園が嫌だと泣き喚き、休日は父親に対して怒り狂って泣き喚く。それが幼稚園時代の理宇の毎日だった。

 天野家は、理宇が小学一年生の秋に郊外に引っ越した。そしてその年開校されたばかりの、新築の美しい公立小学校に、理宇は転入することになった。
 本当は、律子は私立の有名小学校に理宇を入学させたかった。それで塾を二つ掛け持ちして理宇に受験勉強をさせたのだが、結局入学試験には落ちてしまったのだった。律子は残念だったが、毎日泣き叫びながら勉強をしていた理宇は、受験さえ終われば学校などどこでもよかったらしい。気にしている様子は全くなかった。
 小学生になっても引っ越しをしても、理宇の毎日は幼稚園の頃とあまり変わらなかった。
 最初の数日こそ新しい地で不安そうにしていたが、隣の家に住む同級生の女の子に声をかけてもらい、一緒に学校に通うようになってからは、瞬く間に以前の天真爛漫さが戻ってきた。
 天野家が越してきた新興住宅地の子だけが通う小学校は、全校生徒が百人に満たない小さな学校だった。理宇の入った一年生のクラスも、生徒はたったの十五人。どの学年もそんなもので、学年全体で互いに顔見知り。一目見ただけでは学校と分からない、肌色とピンクを基調としたメルヘンチックな校舎と広い校庭や芝庭で、子どもたちは日々駆け回って遊んでいた。
 ところで転校してきてからひと月後には、理宇はクラスメイトたちから「天才」の烙印を押されていた。受験自体は失敗したものの、受験勉強で律子が日々必死に勉強させてきた甲斐あって、理宇は周囲の子よりずっと成績がよかったのだ。だから天才というくらいなら秀才という方が適していたのだが、まだ幼い子どもたちにそれらの違いなど意味はなかったから、理宇はことあるごとに「天才、天才」とはやされた。
先生たちも、理宇の頭の良さを褒めた。それが一層「あたまのいい天野さん」という化粧を理宇に塗りたくることになった。本人にとっては、学校のテストなんて家でしなくてはならない塾のプリントを思えば、頭の準備体操にもならない程簡単なものだったから、これには非常に途惑った。この年頃の子は、自分にとっての「当たり前」と周囲の「当たり前」をよく混同してしまいがちだから。
それに理宇はまだ転校してきたばかりだったので、いきなり「頭がいい」と言われることに、うっすら不安を覚えた。だが特に嫌がることはしなかった。それこそクラスの中で自分を追い詰めるような気がしたから。

一年はあっという間に過ぎて、理宇は二年生に進級した。
隣の家に住む清原小夜と毎日一緒に登校し、些細なことで喧嘩をすることもよくあったが、クラスメイトたちとは互いに仲良くやっていた。どの子も元気一杯でよく笑い、会ったばかりの人とも自然体で接することのできる、素敵な子どもたちだった。
時折ぽつぽつと転校生がやってくると、ただでさえ元気一杯なクラスはその度に沸き立った。自然に囲まれた学校で、純朴な子どもたちは新しい仲間を心から歓迎して招き入れた。どの転校生も、ほんの数日で感化され、賑やかなクラスの中に溶け込んでいった。

学校から帰ってきたある日、小夜がスケッチブックを持って理宇を遊びに誘いに来た。二人は連れ立って公園に向かい、ベンチの一つに並んで腰をかける。小夜はどこかわくわくした様子で、二人の間にスケッチブックを広げて置いた。そのスケッチブックには、ひらがな五十音と、はい、いいえという単語と、それから鳥居のマークが書かれていた。それらの文字をしげしげと覗き込んで、理宇は首を傾げた。
「これ、なに?」
 小夜はポケットから取り出した五円玉を鳥居のマークの上に置いて、にやりと笑った。
「こっくりさん」
「これが?」
三日前に都会の方から転校してきたばかりの生徒の一人が、得意げに前の学校では「こっくりさん」という遊びが流行っていたのだという話をしていたのを、理宇も聞いていた。その時は面白そうだと感じたし、自分もやってみたいと思った。だが帰ってから律子にその遊びの話をすると、律子は盛大に顔をしかめて「絶対にやったらあかん」と理宇を嗜めたのだった。
「こっくりさんは怖いんやで。遊び半分でやっていいもんとちゃう。昔、お母さんの友だちの学校でこっくりさんやったら、女の子が一人宙に浮いたって話もあるんやから。絶対あかんよ」
そう怖い顔で諭されたことを思い出し、理宇は好奇心よりも恐怖が勝って、少し身を引いて眉を顰めた。
「あかんで小夜ちゃん。これ、こわいもんなんやって」
「なんで」
 母親から言われたことを話すと、小夜はふんと鼻を鳴らした。
「それ、ただのウワサやん。人間がうくワケないやろ」
「でも、ママがそう言ったんや。ママはウソつけへん」
「だれも理宇ママがウソついたなんて言ってへんやろ。理宇ママはそういうウワサきいただけで、それ見たワケちゃうやん。ウワサっちゅーのは大げさなんよ」
 そうなんかな、となおも不安そうに呟く理宇に、小夜は焦れたように、あーもう、と声を上げた。
「なんなん。理宇、こわいんか」
 呆れた顔で尋ねる小夜に、理宇は素直に頷いた。
「せやな、ちょっとこわい」
「そんなら理宇はしつもんするだけでええよ。五円玉うごかすんは、小夜がやるから」
 小夜の投げやりな言葉に理宇はあからさまにほっとして、分かったと答えた。傍で見ているだけなら、別に何もないだろうと思ったのだ。注意したにも関わらず小夜は特に怖がる様子もなく、やめるつもりなどさらさらないようだが、理宇もまた、無理に小夜を止める気などなかった。たとえ律子が言うような恐ろしいことが本当に起こったとしても、小夜なら絶対に大丈夫だと根拠のない確信を持っていたのだ。小夜は強い。アネゴとかいう奴、らしい(これは小夜本人が言っていたのだ)。理宇は時々小夜のことがちょっと怖い。
 と、五円玉に人さし指を載せて、小夜が顎をしゃくった。
「なんかしつもんしてみ」
 我に返った理宇は、宙に視線を彷徨わせながら考えた。しかし突然質問しろと言われても、何も思い浮かばない。どういったことを尋ねればいいのかも分からないので、理宇はすっかり困ってしまった。うんうんと唸って考えてはみるものの、さっぱり思いつかない。焦れた小夜が「なんでもええから、ききたいことをはよきけ、このやろう」と言うので、理宇は更に必死になって考え、とりあえず目下気になっていること――こっくりさんの家族構成――を尋ねた。無事に質問することができてほっとしたのも束の間、小夜が奇妙な顔をした。
「……それはあかん。べつの」
 何でもいいと言ったのに、と訝しく思いながら、理宇はじゃあと口を開いた。
「こっくりさんのクラスはなんにんですか」
「…………それもあかん。べつの」
 こてんこてんと首を左右に傾げながら、こっくりさんの好きな人や趣味や嫌いなことを次々と質問していくと、あかん、べつの、と暫く神妙な面持ちで繰り返していた小夜が、とうとうキレた。
「あほか! ちゃうやろ、なんでソコくいつくねん! こっくりさんのこときいたらあかん! そっからはなれろや!」
 何がいけなかったのか理解していない理宇は、突然怒鳴られて仰天した様子で絶句した。が、これ以上小夜の機嫌を損ねてはならない。恐ろしいことになってしまうに違いない。理宇は死に物狂いで別の質問を考え考え――咄嗟に、クラスの田中さんが好きな男子は誰ですか、と尋ねた。相手が好みそうな話題だと思ったからだった。
田中さん、ごめんな。でも理宇はやっぱり、わがみがだいじやねん――と心の中で謝っておく。許してや。
理宇の予想通り、小夜は目に見えて機嫌が良くなった。
口裂け女に襲われたら、好物のべっこう飴を投げれば助かるという。それと同じ要領で、怖い女の子に怒られた時は、好物の恋バナを投げればよい。これは理宇が小学校一年生の時に学んだ、(主に小夜の隣で)生きるための知恵である。
「そうそう、そおゆうのや」
 言って小夜はスケッチブックに視線を落とし、理宇が口にした質問を鼻歌交じりに繰り返す。少し待つと、小夜の指がすっと動いた。
正直なところ、傍から見ていると小夜本人が動かしているようにしか見えない。本当に不思議な存在が今、小夜の手を動かして答えを示そうとしているのだろうか。理宇は困惑した。こっそり小夜の表情を窺ってみたが、彼女は少し目を見開いたのみで特に目ぼしい反応を見せなかったので、なおさらよく分からなかった。
そんな風に理宇が大量に疑問符を浮かべている間にも、硬貨はするすると動いた。それはいくつかの文字の上で一瞬動きを止めては、小夜がその仮名を読み上げると同時に移動した。四つの平仮名を選んだ後、硬貨は動かなくなった。
「ふうん、木下くんか」
 満足そうに呟く小夜に、理宇は複雑な眼差しを注ぐ。確かこの子前に「田中さんぜったい木下くんのこと好きやでな」って言ってたような……と思ったのだが、また怒られそうなので口にはしなかった。
 それから後はほとんど小夜が質問し、理宇はただじっと見守っていた。特に尋ねたいこともなかったので、これ以上質問を求められないことは一向に構わなかった。が、見ているだけではつまらないことこの上ない。理宇は早く他の遊びをしたかった。「ひますぎんねん!」と思っていた。時折相槌を打ちながら「はよすべり台いこ」と小夜を急かし、その度待てと命令されて、素直に待機姿勢に入る。
いくつか質問した後でようやく飽きたらしい小夜が、そろそろ終わりにしよかと提案すると、待ちくたびれてしょんぼりしていた忠犬理宇は、途端「よしきた!」と復活して立ち上がった。
「まて、まて。おわりのぎしき、せなあかん」
 今にも滑り台に向かって走りださんとしていた理宇の襟首を、そちらを見もせずに小夜がひょいと掴む。
「ぐえ」
首が絞まって苦しかったので、いい加減学んだ理宇は大人しく小夜の傍に侍った。
「ぎしき?」
「おわるときは、ちゃんと『おかえりください』っておねがいせなあかんねんて。それで『はい』っていってもらわな」
「はい」
「つっこまんぞ! おまえちゃうわって、つっこめへんからな!」
 学んだはずなのにまた怒られて、理宇は膨れる。不満に思うあまり、こっくりさんってめんどうくさいひとなんやな、とつい考えをそのまま口にすると、途端「人ちゃう!」と一喝されたので口を噤む。小夜が文句を唱えて指を動かすのを、今度こそ本当に大人しく見守ることにした。
と、二人の顔に驚愕が浮かんだ。五円玉が「いいえ」の上に移動したのだ。
 ええっと困ったように声を上げ、小夜はもう一度、おかえりくださいと唱える。しかし五円玉は移動しようとはしない。もっと丁寧にお願いしたり、泣き真似などもしてみるが、小夜の頼みはなかなか聞き届けられない。
 一方理宇はといえば、小夜が意外な程に困惑しているようなのを見て驚いていた。つい今まで、小夜が自分で硬貨を動かしておきながら、演技をしているのだと思い込んでいたのだ。しかし理宇の親分的存在であり、理宇の前では弱った素振りを意地でも見せないタフな少女が、今この瞬間狼狽えている。どうやらこっくりさんは本物だったらしい、と小夜の小さな顔を見つめながら理宇は感心する。
と、そこで唐突に小夜が「ま、いっか」と声を上げた。そして頑固な五円玉を指でつまみ上げてポケットに入れ、さっさとスケッチブックを片付けてしまう。理宇はびっくりして、小夜ちゃん、と名前を呼んだ。
「『はい』って言ってもらわなあかんかったんちゃうん」
「だって、めんどくさいし」
 小夜は先程までの困った顔とは打って代わってけろりとした表情で、悪びれた様子もなく答えた。
「きりないやろ。もうええやん。こまかいこときにすんなよ」
 いや、もうええやんって、自分がさっき言ったことと違うぞ、と理宇は絶句したまま思った。しかし何を言っても小夜はやり直す気などないのだろうし、それ以上に一度強制的に終わらせてしまった後では、やり直したところでもう手遅れだという気がうっすらとした。
――手遅れ。
一瞬、理宇は思考を止めた。手遅れって、何がだろう。一体自分は、どうして手遅れだなんて思ったのだろう。立ち上がった小夜を呆然と見やりながら、目を瞬かせる。困惑しながら、小夜の腕の中に収まっているスケッチブックを見た。その時だった。
「いたっ!」
 突然右目に鋭い痛みが走って、理宇は瞼の上から手で抑えた。しかし痛みは一瞬のことで、不思議なことにすぐ消え失せていく。気のせいだったのかと思える程、痛みは跡形もなかった。
「どした」
 心配そうに尋ねる小夜に、理宇は両目を開いて小首を傾げた。
「目にごみはいったんかな……? いっしゅん、いたかってん、たぶん」
「なんでたぶん? 今は?」
「もういたない」
 姉御肌の小夜がほっと安堵の息を漏らした。
「ならよかった。あっちであそぶで」
 言いながら既に歩き出している小夜。理宇は慌てて彼女の横に並んだ。そして小夜が滑り台に向かっているのだと気づくと、理宇の顔がぱっと明るくなる。理宇が滑り台に行きたいと言ったのを、小夜はちゃんと聞いていたのだ。
時々怖いこともあるけれど、小夜は優しい。わくわくした気持ちと幸せな気分とで胸が一杯になって、今しがた右目に走った痛みのことなど、理宇はきれいさっぱり忘れてしまっていた。

 小学三年生になる頃には、理宇はソレに気がついていた。
 扉を開けて自分の部屋から出ると、何かが廊下をさっと横切る。瞬きをしてそちらを見れば何もない。校庭で遊んでいると、とんとんと肩を叩かれる。友だちだと思って笑顔で振り向いても、そこには誰もいない。居間でテレビを見るともなしに見ていると、名前を呼ばれる。何か用があるのかと「なに?」と尋ねれば、律子に「なにが?」と逆に問い返される。しょっちゅう誰かの視線を感じるが、辺りを見回しても自分を見ているような存在は見当たらない。
具体的にいつから始まったことなのか、定かではない。しかしそういったことが頻繁に起っていることを、理宇はぼんやりと認識し出していた。
だがそういったことを、恐いだとか変だとか思うことは不思議となかった。何故かそれを理宇は当たり前のこととして受け入れていた。錯覚や幻覚、あるいは不可思議な存在なのかと正体を突き詰める頭さえなかった。ただ、呼吸をするように一連の現象を体感していた。
不思議な現象を認識するのと同じ頃から、理宇は一部の人間を除いて、誰かの目を見つめて話すことができなくなった。
いつも少し、おどおどと自信なげに振る舞うようになった。毎日のように泣くのは今でも変わらなかったが、しかし以前は泣くよりも笑ったりはしゃいだりすることの方が圧倒的に多かったのに、笑うことが明らかに減った。話題にこと欠かない、おしゃべりな子だったのに、話すことを躊躇うようになり、会話がたどたどしくなった。
「理宇、最近何かあった?」
 律子がそう尋ねてきた時、理宇はきょとんとして、なにもないと本心から答えた。何故そんなことを聞かれたのか、理宇には分からなかった。
どうしてそんなこと聞くのと尋ねれば、なんとなく聞いただけと律子は笑った。しかしその数日後、夜中に目が覚めてトイレに行こうと部屋を出ると、両親の寝室の前を通った拍子に、「理宇は変わった」と司に小声で打ち明けている律子の声を、理宇はしかと耳にした。
理宇自身には、自分が変わったという自覚はなかった。ただ漠然と、前よりも少し生き辛い、と感じるようになっただけだった。
 生き辛い――そう表現するのが正しいのか、まだ幼い理宇には本当のところよく分からない。ただ酸素が足りないような息苦しさが、いつも小さな胸の内に潜んでいて、ふとした拍子に飛び出してきては理宇を苦しめるのだった。当人はその息苦しさの原因を、いじめと呼ぶのは少しばかり大げさな嫌がらせを、友だちから受けるようになったことに見ていた。
 この頃理宇は、近所の家に住むクラスメイトの女の子、春菜と美智と、三人で遊ぶのが習慣になっていた。遊び道具は主にリカちゃん人形で、理宇は人形を持っていなかったから、もっぱら二人の家を行き来して遊んだ。
 互いの家が向かい合って建っていたためか、春菜と美智は仲がよかった。当時二人は好きな漫画も服装も遊びもみんなおそろいで、学校でも外でもよく連れだって歩いていた。そこにいつの間にか理宇が加わり、自然と放課後三人で遊ぶようになっていたのだ。
 最初の頃は、三人仲良く人形遊びやお絵かきや、ボードゲームをして遊んでいた。しかししばらくすると、春菜と美智が互いに目配せし合ったり、くすくすと笑い合ったりするようになった。気づいて尋ねても二人ははぐらかすばかりで、理宇は釈然としない気持ちになることが増えた。
それから徐々にあからさまな行動が始まった。
人形遊びのとき、選択肢は色々とあるはずなのに「理宇はこれな」と顔にマジックで落書きをされた、可愛くない人形をあてがわれる。二人の母親が用意してくれたお菓子が、お手洗いを借りている間にすっかりなくなっている。理宇の家で遊んだ時、所望された飲み物を取りに理宇が一階に降りている間に、部屋の中があっちこっち引っ掻きまわされている。幼馴染である敦との思い出の品と言っていた、幼稚園支給の大切なホッチキスに、油性マジックで落書きされる。三人ともが好きな少女漫画を理宇の部屋で見つけられれば、「理宇はこれ好きになったらあかん」と二人から怒られ、没収される。学校では教科書やノートが隠されてしまい、困り切って尋ねても知らんぷりされる。
そのような毎日が始まって、理宇は一層、家でめそめそと泣くようになった。「友だちなんやから、やめてほしいとはっきり言いなさい」と律子から諭されても、できないとべそをかきながら塾と学校の宿題をこなし、嫌々習っていたピアノを毎日三十分弾き、習字を練習した。嫌なことだらけで泣き暮らす自分に自分で嫌気が差したが、物心つく前から塾やピアノを習わせてくれていた母親に反抗したり、嫌がらせをする春菜と美智を嫌ったりといったことは、思いつきもしなかった。全部自分が悪いのだと理宇は考えていた。毎日悲しい、嫌だ、自分が嫌いだ、と家で涙が枯れるまで泣くことが習慣になった。
二人からの嫌がらせは長く続くように思われたが、それは思いの外早く終わりの時を迎えることとなった。
「なんで、そんないじわるばっかすんのー!」
 とうとう我慢できなくなった理宇が、なんと体育の授業中にみんなの前で盛大に泣き出したのだった。たとえ心根は優しい子であったとしても、忍耐力がないのが理宇である。春菜と美智は目を見開いて、泣き出した理宇を見つめていた。驚き呆れて咄嗟に物も言えなかったのだ。
 驚いた担任の先生が、放課後三人を呼び出して話し合いの場を作った。
めそめそと泣く理宇に、憮然とした表情で口をつぐんでいる春菜と美智。
実は春菜と美智には、理宇をいじめているなどという感覚はなかった。二人からすれば、全て単なるいたずらの範囲内であった。それなのに理宇が被害者然として、あろうことか先生を含むみんなの前で泣き出したりしたがために、加害者のレッテルを貼られてしまった。憮然とするしかない。
一方理宇は、泣き出した後になって自分がしてしまったことの意味に気づいた。しかし今更引き返す訳にもいかないと頭の片隅で思った。
幸い、日頃泣き慣れているおかげで、涙の流し方は心得ていた。もう泣く気分でなくてもひたすら泣き続け、先生から何を問われてももうこれ以上失言するまいと、理宇は泣いているせいで上手く話せないフリを装って、事情説明はもっぱら春菜と美智に任せきりにした。今ここで自分が口を開くと、二人を更に加害者にしたて上げてしまうような気がして、怖かったのだ。
春菜と美智は、決して悪気があった訳ではなく、根も素直な子たちだったので、自分たちがしたことを正直に先生に話した。先生に命令されて、渋々ではあったが、最後は二人とも理宇に謝った。その時ばかりは理宇も口を開いて、ごめんなさいと謝った。
 それから二、三日は互いに気まずい日が過ぎた。
 田舎の子どもたちというのは、純朴で、いつも自然体でいるような子が多い。加えて大人のように上手く自制ができないから、自分の欲に忠実なだけ。
春菜と美智は、以前よりも大人しくうじうじするようになった理宇に違和感を覚え、苛立ちを感じたのだった。その苛立ちは次第に大きく膨れあがっていき、しまいには我慢できなくなって、嫌がらせじみたいたずらをするようになった。単にそれだけのことだったので、今回理宇が泣き、よっぽど嫌だったのだなと気づいたらしい二人は、それきり理宇を困らせることもなくなり、数日後にはまた何もなかったように一緒に遊ぶようになった。理宇はそれを喜んだ。
しかし理宇の中の息苦しさは、治るどころか一層激しくなっていた。

 小学四年生になる頃には、理宇はいつも高里茜という女の子と一緒にいるようになった。
 茜は、一言で言えば強烈な個性の持ち主だった。
 小学生の女の子なのに、自分のことを「おら」や「わし」と言い、スカートを履くことを極度に嫌がり、女の子らしい恥じらいなどとは無縁といった様子で、笑う時は「ぎゃははは!」とか「ひょほほほほ!」とかいった奇声を上げて、文字通り腹を抱えて笑った。どの子よりも自然体で朗らかで、冬でも短パンにサンダルといった出で立ちで平然と出歩いては母親に叱られ、冬服に着替えてむすっとしていた。人見知りなどせず誰にでも屈託なく笑いかけるパワフルな彼女は、町内では一種の有名人で、大人からも子どもからも愛されていた。成績は良くなかったけれど、持ち前の人懐こさと素直さと面白さと強烈なインパクトで、先生たちからとびきり可愛がられていた。そんな茜に、理宇はべったりとくっつくようになった。
 その頃にはもう、「頭がいい」ためにクラスメイトたちから一歩距離を置かれているという事実に、理宇は気がついていた。
いや、そうではない。本当のところは、いつの間にか快活さを失い、大人しくて暗い子どもになってしまったことこそが、クラスメイトたちが理宇に対して遠慮がちに接するようになった本当の原因であるのだろうと、なんとなく感じていた。
しかし理宇にはどうしようもなかった。これが理宇にとっての「今の自分」だった。
涙を流さない日はなかった。勉強が本当に大嫌いで仕方なくて、毎日教科書やノートに向かうのが苦痛で仕方なかった。ピアノや習字に加え英会話スクールにも通い出したために、余計に友だちと遊ぶ時間がなくなってしまったことが悲しくて悔しかった。
そういった日々の悲しみや苦しみが、いつしか理宇の幼い顔に小学生らしくない深い苦悩の色を張り付け、脆い心を棘で絡め取って傷つけるようになっていた。
毎日が、大嫌いな勉強やおけいこ事で過ぎていった。理宇は逃げ出したかった。
そんな理宇を支えてくれたのが、茜だった。
茜は理宇が失った快活さや楽天的な考え、人懐こさや元気を持っていた。茜の傍にいる間、理宇は嫌いな勉強もピアノも、毎日のやるせなさや倦怠も忘れることができた。茜と一緒にイタズラをしたり絵を描いたり、漫画を読んだり取っ組み合いをしたり他愛のない話をしたりするのが楽しかった。茜は理宇の救いだった。これ以上の友だちはいない、と心の底から自然と感じた。
 何故か茜の方も理宇を好いたようで、ずっと一緒にいるうちに、理宇と茜は「正反対コンビ」と呼ばれるようになった。
「天野さんと高里さん、性格とか色々と正反対なのに、どうして一番仲いいの?」
 理宇が茜の腕にべったりとしがみついて校舎の廊下を歩いていると、よく先生や生徒から呼び止められて、心底不思議そうに尋ねられた。野生児の茜を可愛がり、理宇を出来が良くて大人しい模範的生徒として見ていた先生たちは特に、大抵首を傾げていた。
理宇からすれば、自分たちが「正反対コンビ」と呼ばれていること自体が不思議だった。しかしもし本当に「正反対」だというならば、自分たちのこの仲の良さにも説明がつくのではと考えもした。理宇自身、どうして自分がこれ程までに茜に惹かれるのか分からなかった。自分の持っていない明るさなども確かに茜を好いた理由の一つではあろうが、それだけでは十分ではない。でももし、二人が正反対なら。磁石のS極とN極が引かれ合うように、互いにくっつかずにはいられなかったのかもしれない。それはそれでなんだか運命的な結びつきのように思えて、理宇はその考え方に密かに満足していた。
 二人は学校ではいつも一緒で、遊ぶ時間を得ると、理宇は必ず茜の家に行った。互いに何でも腹を割って話し、時には喧嘩することがあっても、三十分経つ頃には仲直りをした。二人の間に秘密はないように思われた。
だが理宇は、それ程大好きな茜に対しても、たった一つだけ隠していることがあった。
 自分が、他の人には感じ取れないものを見聞きしてしまうということ。それだけは、茜にも言えなかった。茜以上に何でもかんでも全て打ち明けている母親の律子にさえ、言っていないことだった。

 ――どうだい、生きるのってつらいだろう?
 そういった声は、理宇が勉強している時に聞こえることが多かった。
 ――俺たちに頼ればいい。そうすれば、楽になるぜ……。
 びくびくしながら震える顔を気配のした方向に向けると、耳障りな笑い声を残して、黒い何かが姿を消していくところだった。涙の膜が張った目を瞬くと、雫がぽろりと零れ落ちた。
「何よ、理宇。また泣いてんの?」
 台所に立つ律子がうんざりした調子で尋ねた。
「そんな勉強嫌や嫌や言うて泣きながらされると、お母さんかてつらいわ。泣くくらいならすんな」
 歪んだ顔を律子の方に向けて、理宇はふるふると首を横に振った。
「勉強嫌や。ほんまに大嫌いやし、やりたない。でも――やらなあかん。やらな、こわい」
 言って食堂のテーブルに広げた課題に視線を落とす。拍子に雫が一滴、プリントの上に落ちて染みを作った。慌てて理宇がティッシュに手を伸ばして目頭を押さえていると、包丁の音をとんとんと響かせながら、怖いって何よと律子がため息をつく。
「お母さん、ほんま不思議やで。普通頭のええ子って、勉強率先してやってるもんやで。理宇みたいに嫌や嫌や泣きながらやっててクラスで一番の子なんて、他におらんで」
 尖った声に理宇は項垂れる。これ程勉強が嫌だと大げさに泣きながら、毎日勉強してクラスのトップを維持しているような子が珍しいことくらい、理宇にも分かっていた。
「普通な、勉強はするかせんかのどっちかや。理宇みたいにそないにまで嫌がる子は、普通勉強なんかせんと遊ぶもんや。理宇みたいな子、お母さん初めて見た」
 ティッシュで拭いても拭いても、次から次へと涙が溢れてくる。ゴミ箱がどんどん丸められたティッシュで埋めつくされていく。視界が滲んでプリントの文字が見えない。鉛筆を置いて、理宇はしゃくりあげた。
「それにな、あんたなんでここで勉強すんの? そこは勉強机とちごてご飯食べるテーブルやで? あんた自分の部屋あるやん。そこで勉強してくれた方が、お母さんかてテレビ我慢せんで済むし助かるんやけどなあ」
 うっと嗚咽が漏れた。言えなかった。勉強している間は特に「アイツら」が来るから、一人でいると怖くて仕方なくて、律子の傍にいるのだと。律子からテレビを見る時間を取り上げることになって申し訳なくても、こうして毎日くどくどと文句を言われ叱られる羽目になっても、それでも一人でいる恐怖に耐えることができなくて、こうするより他ないのだと。
「……ごめんなさい……」
 理宇にはただ、しゃくりあげて涙声で謝ることしかできなかった。
「ごめ、んなさい……。理宇こんな子で……ママ、ごめんなさい……」
 ――ほうら、つらいだろう? 悲しいだろう?
 ――こっちにおいでよ。こっちは楽で、楽しいぞぉ……。
 頭の中で、優しい声が響き渡る。後頭部と背中にぞわりと鳥肌が立って、その部分を撫でられたのが分かった。
 ――こっちにおいでよ、理宇。
 その言葉に首を小さく横に振って、理宇は母親に対してごめんなさいと謝り続けた。ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、俯いて泣くだけの娘に、律子は包丁を動かす手を止めて、顔を曇らせた。
「あんた、ほんまに言われっぱなしやね」
 理宇がティッシュで鼻を抑えたまま、赤く充血した目をそちらに向けると、律子が苦い顔を作った。
「お母さんがあんたくらいの頃は、あんたのお祖母ちゃんに色々と言い返したもんやけど。理宇は、お母さんにいくら言われても、泣くだけで何も言い返さんね。それもお母さん不思議や」
 疲れた声音で告げられたことに、理宇は悲しそうな表情を浮かべるだけで、もう何も言わなかった。のろのろとした動きで顔を正面に戻し、大義そうに鉛筆を持ち上げてプリントに向き直る。
ずきずきと痛む胸も、頭の中鳴り響く声も、べたべたと触ってくる黒い「アイツら」も――全部無視しようと、歯を食い縛って震える文字を書き付けた。

 小学五年生の頃には、人間が嫌いになっていた。
 周囲の人たちには見えない「アイツら」が見えるのと同じように、理宇は、自分には人の嘘に気づく力があることに気づいた。
 当時絵を描くのが習慣になっていた理宇が、休憩時間中にノートに落書きをしていると、クラスメイトの女の子が覗き込んで「すごい! 理宇めっちゃ上手い」と言ってくれることが度々あった。そういう時、理宇は謙遜しながら彼女たちの「内側」に一瞬、意識を向ける。すると、その言葉に心が詰まっているかカラッポなのかが分かった。「内側」の意思と異なる内容の言葉は、カラッポなのだ。彼女たちの言葉は、大半がカラッポだった。お世辞も嘘の一種だったから。
 やり方を理解してからしばらくの間、理宇は積極的に人の「内側」に意識を向けるようにしていた。すると驚く程多くの人が、嫌になるくらい頻繁にカラッポの言葉を投げかけていることを知った。理宇はショックだった。
 みんな、気軽に笑顔で嘘をついている。
 世の中は嘘で溢れかえっている。
 クラスメイトが見せてくれた気遣い。通りすがりの子どもたちの仲良し宣言。先生の、生徒に対する対応。大人たちの世間話。
 優しい言葉や表情の裏で、みんな、異なる本心を隠し持っていておくびにも出さない。
 人間は嘘ばかりつく。自分のためだけに、いっぱいつく。
 動物も植物も石も、嘘なんてつかないのに――。
 次第に、嘘かどうか判断するのが怖くなった。これ以上人間の汚い部分を見たくなくて、理宇はその感覚を自ら封じるようになった。
 ――ほら、言っただろ?
 ベッドの中で、仲のいいぬいぐるみに涙ぐみながら話しかけていると、アイツらが出てきて得意げにささやいた。
 ――おまえはこっち側の存在なんだ。早くおいで、人間の世界は息苦しいだろう。
『無視しな、理宇』
 一番の仲良しだったクマのぬいぐるみのシフォンは、落ち込む理宇をいつも慰めてくれた。
『アイツらは理宇が欲しいだけなんだから。理宇みたいに力のある人間は、アイツらにとっちゃ極上の〈器〉だもの。気を抜くと、〈喰われる〉よ』
「うん……今、シャットダウンする」
 意識すれば、スイッチを切り替えるようにアイツらの姿を見えなくすることもできた。だがそれは一時的なものであったから、しばらくするとまた見えるようになってしまう。その上、アイツらに関してシャットダウンできるのは、視覚と聴覚だけだった。だから、たとえ姿や声を一時的に見たり聞いたりせずに済んだところで、触られている様子はどうしても分かってしまう。
ぎゅっと硬く目を閉じた理宇の頭を、ぞろぞろと薄ら寒い気配が撫でていく。後理宇にできることといえば、ぬいぐるみを抱きしめて、小さく丸まって堪えていることくらいだった。

 毎日が苦しくて悲しくて、孤独だった。
 見えるもの、聞こえるものにまつわる恐怖や嫌悪感は、言えば病気扱いされると思った。誰にも話すことができない苦しみは、吐き出すことができずに日々蓄積されていっては理宇の胸の奥深くに沈み込んでいった。
その苦痛と相まって、勉強に対する拒絶反応がますますひどくなっていった。
先に勉強が嫌いだったからアイツらが邪魔しやすいのか、それともアイツらが頻繁に邪魔しにくるから勉強を嫌いになったのか、理宇にはよく分からなかった。それでも、勉強と不可思議な存在たちとは、理宇の中では既に不可分の関係となっていた。おまけに大嫌いで仕方がない勉強をしなくては、自分は生きていくことができないという根拠のない恐怖や切迫感が、いつも理宇をしがまえていた。
理宇は独りきりで、日々を逃げるように生きていた。どこまで行っても、光は見えてこないような気がした。理宇はどんどん暗くなり、そのうちに、自分の身体を傷つけることや、どこか高い所から身を投げ出すことを夢想し出した。理宇にとって、自分の生きる毎日とはもはや、ろくに遊ぶこともできず、嘘をつく生き物である人間を信じることも怖くてできず、目覚めている間は大嫌いな勉強やピアノを泣きながらこなし、アイツらや人間の嘘に脅えるだけのものだった。
どこまで行っても暗い中を、たった独りで駆け抜けているような気がした。助けてほしいと心は常に叫び声をあげていた。恐怖や苦しみや悲しみが混ざり合った沼の中で、今にも溺れてしまいそうだった。理宇の声にならない悲鳴はしかし、誰の耳にも届いていないようだった。精神的にも身体的にも弱っていけばいくほど、アイツらの干渉は強くなってくるのが分かった。それでも理宇にはどうしようもなかった。
このまま、死んでしまうのだろうか。
とうとうアイツらが自分の身体を乗っ取ろうという素振りを見せた時、理宇が受けた衝撃と絶望は計り知れなかった。その時は慌てて悲鳴を上げ、必死の思いで身体に張り付く黒い怪物を引きはがし、驚く律子に抱きついて泣き叫んだ。誰かに触れている間はまだ安全だと分かっていた。それでも、完全に身を守れる訳ではなかった。律子にしがみついている間にそろそろと肩を這う微かな感覚に気づいて、もう駄目かもしれない、と理宇は目の前が真っ暗になる想いだった。身体を渡したが最後、命をとられるか、もしくはいいように使われるかのどちらかだと理宇は直感していた。
まだ、少ししか生きていないのに――ここまでなのか。そう思うと酷く悲しくてつらくて、心細かった。
誰か、助けて。
母の首にしがみついてただただ泣きながら、心の中で理宇は絶叫した。
お願い、誰か。理宇を助けて。

 理宇、小学六年生。中学受験を控えた大事な年。「アイツら」がいわゆる「魔」という存在であることを知った年の誕生日に、大叔母の郁代からもらったプレゼントは、近頃沈みがちだった理宇をいたく喜ばせた。
 それは綺麗な水晶だった。光に透かして見ると、中の白い靄のようなものがきらりと輝き、吸い込まれそうな程美しかった。
水晶の頭頂部にはチェーンがついていた。理宇はそれがペンデュラムという霊媒道具の一種であることを知っていた。これは、神や精霊といった存在と繋がり、彼らから言葉を得たりするための媒介なのだ。
何故大叔母がこれを理宇にくれたのか、どこで入手したのか、それは分からなかった。だが、常時肉体を持たない存在たちとの関わりに疲弊し切っていたのと同時に依存しつつもあった理宇にとって、それはとても魅力的な道具として映った。自分ならば、そこらの霊能力者もどきよりもずっと有意義にそれを使いこなせるという自信があった。
これを上手く使いこなせれば、魔をいなせるかもしれない、そうすればもう、毎日毎日恐怖や絶望や嫌悪といったものと、孤独に闘わなくて済むかもしれないという希望が湧いた。
 水晶のペンデュラムを自分の相棒とするために、まるまる四十八時間粗塩に漬けて清めた後で、早速理宇はペンデュラムを手にノートに向かった。ノートに「はい」「いいえ」の二択で答えられる質問を書いて練習するのがこの道の最初の練習法だという知識は持っていたから。時計回りに水晶が回れば「はい」、反時計回りに回れば「いいえ」という意味だということも理解していた。
 最初の頃、水晶と全然心が通じ合わなくて、理宇はペンデュラムの動きから答えを読み取ることにひどく苦戦した。時計回りに回ったかと思うと、反時計回りに回るといった気まぐれな動きに焦れることがしばしばあった。それでも、理宇にとってペンデュラムともどかしい会話をするのは楽しかったし、ペンデュラムを手にノートに向かっている間は、アイツらが邪魔できないようなのも嬉しかった。
何より、水晶は決して嘘をつかない。それが一番、理宇にとって嬉しいことだった。学校や勉強やお稽古ごとの練習の合間を縫って、理宇は毎日少しずつペンデュラムを練習した。
 練習し始めてから数日後に、理宇はノートではなく画用紙を広げ、そこに平仮名を書き並べ始めた。こっくりさんをする時のように、紙に平仮名五十音と「はい」「いいえ」を書いて、その上で水晶を回せば、よりはっきりとした言葉がもらえるのではないかと考えたのだ。早速完成した五十音表の上に水晶をかざし「これからこの方法でペンデュラムを練習してもいいですか」と尋ねてみると、水晶がぐらぐらと揺れた。
 あ行から順番にペンデュラムでなぞっていく。水晶はそれまでになくはっきりとした回転を見せた。反時計回りが続く中、特定の文字の上では時計回りに回る。時計回りに回った文字を、忘れないように理宇は声に出して読み上げていく。最後まで調べ終わった時点で、四つの文字が浮かび上がっていた。
「い、く、け、や……?」
 首を捻りながらもう一度声に出して読んでみると、その四つの文字が頭の中で整頓され、一つの単語を導き出した。
「けいやく――契約?」
 しかし意味のある単語になったとはいえ、その解答は理宇の質問に対して似つかわしくないものと思われた。眉をひそめつつ、どういうことだろうとペンデュラムを「はい」と「いいえ」の上にかざして、理宇は更に質問をすることにした。
「今のは、契約、ということですか?」
 水晶は「はい」の上で時計回りに回った。理宇はますます訳が分からなくなった。
「何の契約ですか?」
 もう一度平仮名五十音の上に水晶を移動させてみたものの、何故かそれきり水晶はきちんと回らなくなってしまった。

 それから二週間が経った時。理宇の恐れていた事態が起こった。
 どうしてこうなってしまったのか、分からなかった。
それはいつものように穏やかな田舎での、休日の昼下がりのことだった。既に心身共に弱っていた理宇は、とうとう自分の身体の主導権をアイツらに奪われてしまった。
 理宇にはほとんど抵抗する力も残っていなかった。アイツらの侵入に気づいた時にはもう遅かった。
まるで水の中にいるかのような息苦しさに、理宇は必死で酸素を求めて喘いだ。無駄だと知りながら両腕を弱々しく振り回して逃れようと試みたが、当然の如く肉体を持たないアイツらには何の意味もない。ムダ、ムダと理宇の微かな抵抗を嘲笑い、近づいてくるのを滲む視界に見て、もうどうしようもないと悟った。
程なくぞろりとした何かが身体の中に侵入してきた。精一杯の抵抗も虚しく、それが自分の身体に同化していくのがまざまざと感じられて、嫌悪感と恐怖に、理宇の口からあらん限りの悲鳴が飛び出した。が、理宇の意志とは関係なく、悲鳴はすぐさま途切れた。それきり、口すら自分の意志で動かせなくなった。
 自分の身体なのに、自分ではない別の存在の意志で動くというのは、とても奇妙な感じがした。だがこの体験のおかげで、理宇は否応なく一つの真実に気づかされた。
その真実とは、所詮肉体というものは、生きている間生き物が纏う着物に過ぎないということだった。みんながみんな自分の身体を脱ぎ着できる訳ではないから、身体あってこそ自分だと思っているのかもしれない。それでも身体は生きている間限定の、ただの借り物の衣裳なのだ。霊的存在と同様に、生き物の本体も肉体ではなく中身――魂なのだ。
身体は乗っ取られても意識と五感はあったから、理宇は床にへたり込んでいた身体がすっくと立ち上がり、迷いのない動作でキッチンに向かうのをただ呆然として感じていた。
 何をする気だろう。ひどい不安に囚われる。父の司は休日出勤、母の律子は買い物に出かけていて今はいない。自分一人しかいない家の中で、何かあったら。コイツは一体、何をするつもりで今台所に立っているのだろう。
 だがその疑問はまもなく解けた。視界に入ったものに、理宇の意識は再び絶叫した。
 理宇のものだった身体はにやりと口角を上げて見せてから、洗浄済みの食器が並んだ棚から、ぴかぴかと光る包丁に手を伸ばした。
 ――やめて。お願い、それだけはやめて。
 黒い柄を握りしめた手が、怯える理宇をからかうように、ひょいひょいと空を切ってみせた。
 ――まだ死にたくない。お願い、それだけはやめて、本当に。頼むから。
「それだけは?」
 身体を乗っ取った存在が、口を動かして愉快そうに言った。別に言葉を発さなくても伝わるというのに、理宇を傷つけるためにわざと口に出して言ったのだ。実際、その思惑通りに理宇は傷ついた。自分の声まで穢されたような気がした。
「自分が死ぬことだけは嫌というなら、他の誰かを殺すのはいいのか?」
 ――そんなこと言ってない。自分にしろ誰かにしろ、殺すのも傷つけるのも嫌。
「あれも嫌これも嫌と、ワガママな奴だな」
 ――お願いだから、理宇の身体から出てって。
「そいつは無理だな。これはもう我らの器、おまえ個人の身体ではない」
 理宇の意識は震えた。視界の中央に輝く銀色の輝きが恐ろしかった。もったいぶったように揺らされる刃が、自分の身体に少しでも近づく度、抗えない恐怖に苛まれた。不意に刃を振る手が動きを止めた。
「――これで、ぶすりと」
 言って、ぴたりと切っ先を胸元に当てる。やめてと叫ぶ理宇に、まあ聞けと侵入者が笑う。
「我らがこの身体をぶすりと刺して、おまえが死ねば。おまえ自身がどうなるか、分かるか?」
 なんでもないことを話すような軽い調子。問われた理宇は怖気だつ。あまりのことに一瞬思考が停止する。それから我が身を乗っ取られたことばかりに意識が向いていて、その先のことを少しも考えていなかったことに気がついて、愕然とした。
本当に恐ろしいのは、今じゃない。死ぬことではなく、その先なのだ。
「そうだな、おまえは知っているものな。この時代に生れた人間にしては珍しく、おまえは貴重な知識や力は持っているものな。そうだ、我らが刺したからといっても、この身体はおまえ自身のものだから、死ねばおまえは自殺者ということになる」
 自殺。その単語を耳にした途端、理宇は一つの光景を思い出す。咄嗟に堪えきれず、意識ががくがくと震えた。身体はそれを知りながらも平然として立っている。
――……いやだ……。
「自殺した者がどうなるか、おまえは我らに一度、見せてもらったことがあったな。そうだ、あの世界におまえの魂も行くことになるのだ。時の流れない世界で半永久的に、生まれてから死ぬ時までに受けたあらゆる身体的、精神的苦痛を、その魂に延々と刻み続けられるのだ。魂の痛みは肉体の痛みとは比べ物にはならない程だから、それはそれは想像を絶する拷問だぞ。楽しみだろう」
 ――永遠に地獄の痛みに苦しみ続けるなんて、嫌だ……。
「しかもおまえは、自殺するというのがどういうことかを知っていて、死ぬのだから。その罪は、無知のまま自ら命を断つ者より遥かに重い。おまえに与えられる罰は、最高の苦痛さ」
 そこまで言って少し笑ってから、おしゃべりが過ぎたな、と侵入者は微笑んだ。包丁の切っ先が胸元から離れる。身体は両手で柄を逆手に持ち、顎を逸らせた。
「さあ、この世界にさよならの時間だ……おまえはここで死ぬ運命。怨むならこのような生を選んだ己を怨め」
 理宇の意識が鋭い悲鳴を上げ、柄を強く握り込んだ手が今にも振りかざされようとした。

その時だった。
 ガチャリと鍵が回される音がして、そのすぐ後に、ただいまという律子の呑気な声が聞こえてきた。今にも包丁を刺し込まんとしていた身体が、びくりと動きを止めた。
 ママ! はっとして理宇は、あらん限りの意志の力を集めようとした。ママが帰ってきた! 声さえ届けられたら、助かる! 
恐怖と悲痛と孤独と絶望の中弱り切って生を諦めかけていた幼い理宇は、ここにきて一本の藁にもすがる思いで、なけなしの力をかき集めた。理宇の抵抗に気づいた侵入者が、さっと台所の陰に屈みこんで理宇の意識を抑えつけようとする。それに対して、理宇はまさに死にもの狂いで抗う。
脚をつかまれ、今にも死という沼の中に引きずり込まれそうになっていた。もう駄目かと、このままなす術もなく溺れ死ぬしかないのかと思った。そんな時に見えた、一本の藁。見つけた途端に、もうどこにも残っていないと思われた力が、急激にこみ上がってきた。
諦められる訳がない。こんなところで、死ぬ訳にはいかない。
理宇はまだ小学六年生で、まだ何もできていないのだ。
こんなところで生きることを諦めたくなんてない。
「マ……マ!」
生に執着する必死な想いが侵入者の支配を一瞬打ち破り、たどたどしい発音の叫び声が零れ落ちた。その一瞬の声だけで、十分だった。
何か荷物を投げるような音が聞こえ、呼び声に尋常でない何かを感じ取ったらしい律子が、どたどたと荒い足音を立てながら食堂に飛び込んできたのが分かった。
「理宇!?」
 台所の陰にじっとうずくまっている理宇の姿は、食堂からは見えない。それでも母は迷わず台所に駆けてきた。そしてうずくまる理宇と、その手に握り込まれたものとを見やった瞬間、律子の身体が硬直し、顔がさっと色を失った。だがすぐに我に返って「何してんの!」と叫び、理宇に飛びかかって刃を奪おうとする。母の姿を見て僅かに気の緩んだ理宇は、折角集めた抵抗力を失ってしまい、侵入者に再び身体の管理権限を全て明け渡してしまった。
「それ以上寄るな、人間」
 低い声が威嚇するように理宇の口から飛び出した。睨み上げる鋭い瞳に、はっとした表情で動きを止める律子の姿が映っていた。その律子の声から飛び出した言葉に、理宇は驚いた。
「あんた、誰」
 驚いたのは理宇だけではなかったようだった。表情こそ変わらなかったものの、理宇の身体を乗っ取った侵入者は途惑ったように少し口を噤んだ。が、すぐに何かを理解したらしく、再び鋭い言葉を息に乗せて、細く開いた口の隙間から吐き出した。
「おまえには、分からない」
「私の娘を解放して!」
「嫌だ。これはもう我らのものだ。契約したのだから」
 契約? 理宇の意識は、いまだ恐怖に囚われながらも怪訝に思った。すぐには何のことか分からなかった。魔と契約など交わした覚えはなかったから。
「折角手に入れた器を、何の利もなく手放すはずがないだろう。おまえは我らの世界を、まだ何も知らないな」
 だが侵入者の言葉を聞いている内に、思い当たる節があった。
 ペンデュラムだ。あの、五十音表で質問をした時のことだ。「契約という意味ですか」と尋ねると、水晶は「はい」と答えた。理宇にはそんな意図がなかったとしても、理宇自身の返答ではなかったとしても、水晶は「はい」を選び、そしてその水晶の持ち主は理宇なのだ。
今更、理宇は自分がとんでもないことをしていたのだと悟った。用いたのは五円玉ではなく水晶だったとはいえ、手法はこっくりさんそのものだ。「狐狗狸」と書いてこっくりと読むように、あれは低次元の狐や狸といった魔を呼び出す召喚呪術だ。あの時知らず知らずのうちに呼び出してしまった魔に、水晶を通じて「はい」を選ばされたことで、勝手に契約したことにさせられていたのだ――と理宇はようやく理解した。それこそが魔のやり口なのだ。
 あの時から既に、自分は魔の手に堕ちていたのか。
 あまりの衝撃に呆然としてしまった理宇の意識の向こう側で、いつの間にか律子が、包丁を持った方の腕をきつく掴み、固定電話の子機を自身の耳に押し当てていた。
「おばちゃん、理宇が。おばちゃんの心配してた通り、理宇が、危ないことになって」
 おばちゃん? 理宇は混乱する。律子が今電話をかけている相手は、理宇に水晶を贈ってくれた大叔母のことだと知れた。だがどうして彼女に電話を? 心配してた通り、とは? 視線の先で律子が半分怒ったような、泣いているような顔で、電話の向こう側に状況を説明している。

ふと、おかしいことに気がついて、理宇は侵入者に意識を向けた。近寄るな、と言っていたくせに、今律子に大人しく腕を掴まれているのはどうしたことだろうと思ったのだ。すると何故か侵入者は急に身体を思い通りに動かせなくなったらしく、強い焦燥が理宇の意識にまで伝わってくる。先程までは、まるで使い慣れた物のように身体をコントロールしていたというのに、何があったのか。理宇が訝しんでいると、すとんと身体の中に正しく収まったような感覚が芽生え、更に驚愕する。何を思ったのか、焦れた侵入者が身体の管理権限を理宇に全て返してきたのだ。
――突然動かせないよう縛られたが、まだ方法はある。
 しかし身体から完全に出ていった訳ではないようだった。声が内側から響いてきて、理宇の首筋に鳥肌が立つ。
 ――さあ、刺せ。刺せ。今すぐに。まだ間に合う。
 その言葉にはっとして、理宇は自分の右手を見た。その手にはまだ鋭い刃物が握られている。痛い程強く凶器を掴んだ手。ぶるっと震えると、母が娘の変化に気づいたのか、子機を耳元にあてがったまま、理宇の腕を恐る恐る解放した。このまま凶器を持っていてはならないと理宇は強く感じた。何をしている、刺せ、という指示に抗い、震える手で包丁を床の上にそっと置く。理宇の指先が包丁から離れるや否や、律子がさっと手を伸ばして包丁を自分の背後に隠し、座り込んでいる理宇をぎゅっと抱きしめた。自分だけでなく母の身体も小刻みに震えていることに、理宇は気がついた。
「理宇」
 名前を呼ばれて顔を上げると、律子が理宇に電話を差し出した。疲れ切った顔に戸惑いの表情を浮かべて受け取ると、「おばちゃんは理宇のこと、知ってるから」と目を潤ませながら律子が微かに微笑んだ。自分のことを知っている? 心底驚きながら理宇がそろそろと電話を耳元にやると、中から穏やかな声が聞こえる。
『理宇ちゃん?』
 その優しくて温かい声を耳にした途端、理宇の唇から震えた息が漏れた。みるみるうちに目尻に涙が溜まり、ぼろぼろと零れ出した。
『もう大丈夫やで。理宇ちゃん、間一髪助かったからな』
 熱い何かが理宇の胸の内に溢れた。嗚咽が漏れた。律子が渡してくれたティッシュで顔を抑えながら、電話の向こう側に見える訳でもないのに、理宇はこくこくと頷かずにいられなかった。
『こんなこと言うと余計怖がらせてしまうかもしれんけど。……理宇ちゃんな、今年死ぬはずやってんで。そういう星回りやってん』
「ほし、まわり」
『そう。誰もが決まった星の元生まれてきて、それぞれにある程度決められた運命に沿って生きていく。それが星回り。理宇ちゃんの星は、若くして死ぬか、長生きするかどちらかっていう極端なものやった。それで理宇ちゃんの星回りは、今年死ぬ方に回り出してた。おばちゃん、正直なとこ、もう間に合わんかもしれんと思ってた』
 律子が鼻をかむ音が聞こえた。ちらと母の顔を見上げて、その泣き顔に、理宇の胸の内で罪悪感が首をもたげる。話を聞いている証拠に、うんとだけ呟いて、理宇は電話から聞こえる声に真剣に耳を傾けた。
『最近、お母ちゃん、仕事じゃないのに家におらん時あったやろ? それな、おばちゃん家に来てたんや。理宇ちゃんのことでな』
「理宇のことで……?」
 どきりとして、思わずオウム返しに尋ねると、そう、と郁代は言った。
『理宇ちゃん、普通の人には見えんもん見えるし、聞こえやんもん聞こえるやろ』
 穏やかな断定口調に、すぐには答えられなかった。泣くのも忘れて理宇が押し黙っていると、郁代は相変わらず優しい声で、更に驚くべきことを言った。
『でもそれな、見えたり聞こえたりするの。理宇ちゃんだけとちゃうねん。おばちゃんも一緒』
「おばちゃんも?」
 ありありと驚きと困惑の混ざった声が口から飛び出す。
『そうやで。知らんかったやろ? まあ、おばちゃんは理宇ちゃんみたいにはっきり見える訳とちゃうけどな。それでも、ほんまに色々と苦労してきたで……。そのおかげで、今おばちゃんは水晶を通して会話することできるし、色んなこと分かる』
 水晶。では、理宇にあの水晶をくれたのは、郁代自身が既に水晶を使っていたからだったのだ。
『水晶のおかげで、理宇ちゃんが霊感強い子やって分かったし、理宇ちゃんが今危ないことになってるんも星回りで分かった。今日か明日か明後日には、何らかの形で死んでしまうとこやった。……でもな、理宇ちゃんはかろうじて間に合ったんや。理宇ちゃんは、今回死ぬはずだったとこを、神様に生かされたんやで』
 神様に生かされた。まさにその通りなのだと理宇は本能のようなもので理解した。
『今まで一人で、怖かったやろ。よう……頑張ってきたなあ』
 これからは一緒に頑張っていこな。そう言ってくれる郁代の言葉が震えて濡れていたから、理宇の胸は熱いもので溢れんばかりになって、たった一言「うん」と答えるのさえ容易にはできなかった。
今はもう、煩く魔の道を説くアイツらの存在も大したものと感じなくなった。
小学六年生のこの年。理宇は神様に、そしてなにより母と大叔母に命を救われ、独りではなくなった。

第二章 理宇、中学生

 嫌々ながらも必死に勉強を頑張ったものの、理宇は結局中学受験に失敗し、地元の子たちと同じ公立中学校に通うこととなった。
 中学校も小学校と同じく、まだ開校して七年目という新しい学校で、その町の子どもしか通うことのできない小規模なところだった。生徒の人数が少ないその学校では一学年一クラスしかなかったから、クラスの顔ぶれも数少ない転校生を除いて特に目新しいものでもない。小学一年生の頃から互いによく見知ったクラスメイトたちとまたしても同じクラスの仲間としてやっていくことに、理宇はほっとしたような気まずいような、複雑な感情を抱いていた。
 受験に失敗したとはいえ、中学校でも理宇の立ち位置は変わらなかった。「賢い天野さん」というキャラ設定の裏側で理宇は、いつ他の誰かが猛勉強を始めて成績の上で自分を追い抜くかと怯え、何かから逃げるように、毎日毎日激しく泣きながら勉強した。
 受験に成功していたら、しばらくは受験勉強からは離れられるはずであった。しかし出鼻を挫かれた理宇は、中学一年生になった途端、高校受験生としてまた受験勉強に打ち込むこととなった。
 相変わらず、茜と遊ぶことのできる日はあまりなかった。平日学校が終れば、週に三日は塾に通い、一日はピアノ教室に向かい、他一日は習字を習いに行った。日曜日は隔週で塾の日曜塾があったし、土曜日は郁代の家で治療を受けることになっていた。元々田舎の町で、子どもたちが遊ぶことのできるような場所は近くになかったけれど、それでも茜とどこかに遊びに行ったりすることができなくて、理宇は不満に思わずにはいられなかった。
 しかしそんな理宇にも、楽しみにしていることが二つだけあった。
まず一つ目は、本を読むことだった。
 理宇が本の素晴らしさに目覚めたのは小学五年生の頃だった。自分と同じ名前の主人公が登場する一冊の本が、理宇の心を奪っていったのだ。
 それ以来、漫画も小説も大好きになった。本を読んでいる間は、大嫌いな勉強のことも嫌なアイツらのことも、どうしようもない寂しさや悲痛も全て忘れることができた。物語の世界に飛び込んでいる間は、いつからか心にぽっかりと空いていた穴がもたらす苦しみも関係なかった。まだ生きていられる、まだ希望はある、そう思えた。
郁代の元で見えない世界のことを少しずつ学んでいくことが、理宇のもう一つの楽しみだった。
それまではただただ怖いだけだった世界が、郁代という理解者であり先駆者である存在を得た途端、理宇にとって学ぶ価値のある面白い世界に変った。
直感が鋭く霊的存在を受動的に見たり話したりすることはできるけれど、自分の意志では自由にできず、魔を祓う力のない理宇。
直接見たり聞いたりはすることはできないけれど、水晶を通じて正しい言葉を宇宙や神といった存在から得ることができ、魔を祓う力を持つ郁代。
二人にそういった能力があったことも、理宇が死にかけたことも、二人が互いの真実に気づいたことも。そういったこと全てが必然だったのだと二人には思えた。互いに互いを必要とし合っていた彼女たちは、理宇がヒーリングを頻繁に受けることによって、闇の中光を目指し、手を取り合い昇っていった。
「理宇ちゃんもいつかこの道に入るんよ」
 ヒーリングを行いながら、郁代はよく理宇にそう言った。
「こんなに若くしてこういうこと知ってる子って、今の時代珍しいんやで。これからはどんどんそういう子が産まれてくるのは確かやけど、理宇ちゃんの年代では、まだまだ少ないからな。理宇ちゃんはこういう世界でのお役目があって、この世に生まれてきたんやな」
 苦しんでいる人、困っている人を何らかの形で助ける。私欲のためではなく、何事も誰かのためにと真心をこめて行動する。そういったことの大切さを、郁代は繰り返し説いた。
全て自分に降りかかってくる出来事は、自分あるいは過去世の言動と密接に関わり合っているのだから、良いことをすれば良いことが返ってくるし、悪いことをすれば悪いことが必ず返ってくる。だから結果的に、誰かのために何かをしてあげることは、自分のためになる。そう考えれば、積極的に善行を行うことができるだろうと郁代は語った。
「生きているうちに、どれだけ誰かを幸せにできるか。どれだけ他者に喜んでもらうことができるか。この世に存在するものは全て、本来それを目的として誕生するんよ。ただ大多数の人は、生きているうちに、俗世に汚れていくうちに、その目的も何もかも全部忘れていってしまうんやけどね」
 郁代がそういう話をしている間、彼女の手の中では常にペンデュラムが弧を描いていた。それは彼女の道標であり、大切な相棒であった。彼女が何か間違ったことを言った時、水晶は必ず左に回ったし、正しいことを言っている間はずっと右に回り続けていた。
「こういう世界は、普通の人からしたら怪しい宗教団体としか思われんやろうな」
 時折郁代は微笑みながら、少し悲しそうに言う。
「それなのに理宇ちゃんも律ちゃんも、おばちゃんのことよう信じてくれたもんや」
 そういう時、理宇は必ず微笑み返して自信たっぷりに答える。
「信じるよ。だって理宇見えるから、こういう世界あるって知ってたし、なによりおばちゃん嘘ついてへんって、理宇分かるもん」
 自分の嘘を見抜く力は、人間を嫌うためなんかではなく、もしかすると郁代のことを信じるために、神様が与えてくれたものだったのかもしれない。この頃には、理宇はそう考えられるようになっていた。

 郁代のところに通い出してから、理宇には魔以外のものもはっきりと見えるようになってきた。自分の前に広がり出した新たな世界から、理宇はたくさんのことを学んだ。
 たとえば、幽霊。前々から薄々分かっていたことではあったけれど、それはホラー映画などによく登場するようなおどろおどろしい存在では全くなく、人間と全く変わらないように理宇には思われた。
霊たちは本当にどこにでもいた。逆に霊が存在しない場所の方が珍しいくらいだった。特に学校や映画館といった人が集まる場所に、霊も集まる傾向があるらしかった。
音楽教室で机に座っていた理宇がふと顔をあげると、見知らぬ男の子が先生の横でオルガンに座っていたり、授業中に笑い声が聞こえてふと廊下を見やると、窓の向こうで子供たちが楽しそうに駆けていったりする。両親に連れられてたまに向かった映画館では、見た目は人間と変わらないけれど少し異質な空気をまとっている霊たちが、席について映画の上映を待ち望んでいるということもあった。
そういう様子を頻繁に目にしていたから、理宇は普通の霊を恐れることはなかった。彼らは、まだ生まれる前か、それとも死んだ後の人間や動物なのだから。生きている人間の過去か未来の状態であるのだから。決して自分たちとかけ離れた存在ではないし、故に恐れるべき対象ではないのだ。理宇は基本的に霊という存在をそのように捉えていた。
しかしそうは言ってもやはり、全ての霊が怖くない訳ではなかった。
 時折目にした霊で、明らかに他の霊とも様子の違う存在がいる。外で彼らを見てしまったと気づいた時、理宇は慌てて目を逸らし、すぐに別のことを頭に思い浮かべて何も見ていない、気にしていないフリをする。
 そのように理宇が恐れるのは、苦しみ続けている霊たちだ。
それは色々な未練や執着に囚われ、生者にすがったり自分と同じような苦しみを与えようとしている死者たちであった。彼らは恐ろしいと同時に哀れだった。
しかし恐怖や同情を少しでも感じると、理宇には霊が見えているのだと即座に気づかれてしまう。本来ならば見えない世界を見聞きできるという生者は、現代ではまだ珍しい存在らしかった。苦しんでいる死者たちは理宇に気づくと、たちまち助けを切望して寄ってくる。彼らにつかまると、見えるだけで特に浄化も祓うこともできない理宇は、心身共にとても苦しくなる。一人来れば芋づる式にどんどん増えてくるので、ひどい時は寝込んだりもし、理宇は暫く外出もままならない状態になってしまった。
 もっぱら学校と家と塾とを往復するだけの日々を送っていた理宇であったが、それでもそういった世界から生じる支障が全くない訳ではなかった。
 家の中で勉強していると、ふと背中に鳥肌が立つ。嫌な予感がして振り向くとクラスメイトや知人の姿をした霊体がすぐ傍に立っていて、理宇を睨んでいるということがたまにあった。そのままにしておくと自分にダメージが生じるので、そういった生霊が出ると、理宇は必死に自分の念で帰ってもらうよう説得を試みる。しかしまだまだ精神的にも弱い理宇には、ほとんどの場合彼らに帰ってもらうことができない。結局、手を煩わせることに申し訳なさを感じながら、郁代に電話をかけて助けを求めるのが常だった。
またそういった生霊が現れる度、理宇には、彼らが自分に対して怒りや好意や憎しみといった何らかの強い感情を持っていることが分かってしまう。だから次の日学校で当の本人に会うと、理宇はいつも、罪悪感のようなものが混じった少し複雑な気持ちで彼らに接することになった。彼らは理宇に気持ちがばれていることなど、知る由もないのだ。
 不便なこともあったけれど、理宇はそういった日々をあくまで普通のこととして受け入れていた。しかしたまに会う祖母からすれば、孫がそのような不思議な体験をしているのは、哀れに感じるらしい。顔を合わせる度「かわいそうに。人に見えんはずのもん見えてまうなんて、ほんまにかわいそうに」と祖母は悲しそうに語りかける。その都度理宇は「でもばーちゃん。見えるから理宇、大事なことたくさん知れたし、それに別に見えるん嫌や思たことないよ」と答えるのだが、それはいつでも本心から出ていた言葉だった。
見えることで恐ろしいこと、つらいことがたくさん理宇の身にふりかかったのは確かだ。一度は命までとられそうになったこともある。しかしそれでも――もともと知らなかったならともかく――こういう世界が実際にあると既に知ってしまった理宇にとっては、むしろ今更見えなくなることの方が恐ろしかった。見えなくなったところで、見えない世界が存在しないことにはならないのだから。見たくないと目を塞いで真実から逃げるようなことは、したくなかった。
 真実。大叔母や母以外にはあまり話して聞かせることはできなかったけれど、実体を持たない世界が存在することは理宇にとって真実であり、その世界は理宇の日常の一部だった。
下手をすれば生きている人間よりも彼らと意志疎通することの方が多い期間もあったくらいだから、理宇にとって見えない世界は、話し慣れない多くの人間よりも余程身近に感じられるものだった。

 ある日のこと。学校から帰って自分の部屋のドアを開けると、理宇は違和感を覚えて立ち止まった。違和感の正体はすぐに分かった。青ざめた理宇は、荷物を廊下に放り出して慌てて階段を駆け下り、食堂に飛び込んで律子の前に立った。
「ママ!」
 振り向いた律子は、理宇が口を開く前から既に言いたいことを察しているようだった。
「おばちゃんが、捨てた方がええって。ぬいぐるみ全部」
「なんで」
 両手に拳を作って立ち尽くす理宇の目からは、ぼろぼろと涙が零れ出していた。それを見た律子は少し顔を俯けた。郁代に電話をするかと尋ねられ、理宇は素早く頷く。子機を手に取りながら律子が、
「まだ洗濯物部屋にあるよ。お別れしてき」
と言えば、ろくに返事も返さずに理宇は再び飛び出して、盛大な足音を立てつつ階段を駆け上がっていった。
 洗濯物部屋と名付けられている部屋のドアを勢いよく開ければ、部屋の隅に大きな塊が無造作に置かれていた。それは、ゴミ袋に無理矢理詰め込まれたぬいぐるみたち。実際に目にした途端、理宇は物悲しい気持ちになって、一際熱い涙が溢れてきた。寄っていって透明な袋の上からお気に入りのクマのぬいぐるみ、シフォンに触れる。いつものように、ごめんねと語りかける。そこで理宇はおかしいことに気づく。
シフォンから返事がない。
いつもなら、語りかければ何かしら返事を返してくれたのに。今シフォンはまるでただの物のように沈黙を貫いている。感覚を研ぎ澄ませてシフォンの中身を探ってみると、今までのように「シフォンの存在」を感じない。他のぬいぐるみたちも同様だった。一体どういうことだ。これでは本当にただの物ではないか――。
 袋越しにぬいぐるみに触れたまま突っ立っていると、子機を耳に当てて話しながら、律子が部屋に入ってきた。理宇が困惑を浮かべた顔で振り向けば、電話の相手に「代わるね」と断って、理宇に受話器を手渡す。それを理宇は両手で受け取って、恐る恐る耳に当て、もしもしと細く震える声を出した。
『ごめんな、理宇ちゃん』
「おばちゃん、なんで?」
 静かに涙しながら尋ねる。歪んだ視界の中で、少し前まではとても身近な存在であったはずのぬいぐるみたちが、プラスチックの目玉を理宇に向けている。
『理宇ちゃん、ほんまは分かってるんやろ。なんで捨てなあかんか』
 一度唇を噛みしめて、理宇は手の甲で涙をぐいと拭った。
「……ぬいぐるみの中いたん、やっぱり……魔やったん?」
『そのぬいぐるみたちに入ってたんは、浮遊霊やったな。でもなんにせよ、このままやと理宇ちゃんまた危なかった。水晶の時の二の舞やで』
 郁代にしては少し強い口調。理宇はびくりと身体を震わせて、遠慮がちにぬいぐるみたちから視線を逸らせた。また自分で自分の首を絞めていた――そう感じても、ぬいぐるみたちに対して未練があった。
「でも理宇、この子たちにいっぱい助けてもろた」
『そら助けるし、優しくもするで。魔とかと同じや。そうせな理宇ちゃんに信用してもらわれへんし、そもそも信用してもらわな利用できへんやろ』
「利用……理宇、まただまされたん」
『理宇ちゃんは自分にも周りにも優しいし、甘いからな。そこに付け込まれやすいんや。しかも理宇ちゃんには、普通の人よりも強い霊感がある。理宇ちゃんが物に名前つけたり話しかけたりするせいで、この世での身体が欲しい霊や魔たちが喜んでぽんぽん物の中入ってまうんや。この物質世界では、肉体を持っている方が有利やから』
「人形とかに名前つけんの、理宇だけちゃうで。みんなやってる」
『みんな知らんみたいやけど、あんまりそれ、よくないことなんや。魂入るからな。いつも言うけど、しかも理宇ちゃんには力があるから、余計入りやすい。普段理宇ちゃんに目つけて隙狙ってるようなのが入るから、なおさらタチ悪い。理宇ちゃんみたいな子は特に、そういうこともうやったらあかん』
 決して叱りつけるような声ではなかったが、それでも言葉の内容が理宇には堪えた。
「ほんまに……ぬいぐるみ捨てなあかんの?」
 尋ねると、僅かに間が空いた後、捨てた方がいいと答えが返ってきた。
『もう魂は抜いちゃあるけどな。理宇ちゃんの傍置いとったら、またすぐ魂入るやろから。お別れしてから、もう全部捨てな』
 泣きながら理宇は頷く。仕方ないことだと分かっていたから。それに物に執着するのは褒められたことではないと知っていた。理宇は電話を律子に手渡してから、ぬいぐるみたちを最後に一撫でして、再び未練に苛まされないよう急いで部屋を逃れ出た。

 勉強に専念するために、理宇は二年生に進級すると習字とピアノ教室に通うのをやめた。両方あまり好きではなかったから、やめる時理宇の心は平穏そのものだった。特に物心つく前から習っていたピアノに関しては、どちらかというとずっと大嫌いだと理宇は思っていた。それなのに実際やめてみると、心にぽっかりと空いていた空想上の穴が更に広がった。厳しい先生に叱られながら弾くことがなくなると、逆にピアノを「弾かされていた」ことが懐かしくなった。カバーをかけられてリビングに置かれているピアノを見ると、無性に弾きたくなった。やめた後になって、理宇は自分がピアノを好きだったことに気がついた。しかし受験勉強のため、もう少し時間的余裕が必要なのは事実だった。今まで習字やピアノの練習に割いていた時間を、理宇は勉強に費やした。
 中学生になってから、理宇は自分の部屋で勉強をするようになっていた。自分が食卓で勉強すれば、優しい母にテレビを我慢させることになるのも申し訳なかったし、以前程には勉強の邪魔をしてくる魔たちが恐ろしくはなかったので、もう部屋で一人勉強しても大丈夫だと思ったのだ。
 それでも魔たちの嫌らしいちょっかいは続いた。
 灯りをつけて机に向かっていると、不意に頭上でごろりと何かが転がる音がする。不思議に思って顔を上げれば上から何かが降ってきて、ノートの上にぼとりと落ちる。それが生首であると気づいた瞬間、理宇は飛び上がって、慌ててシャットダウンをする。しかし一瞬見てしまったグロテスクなものは記憶にこびりつき、その上気配をまだノートの上に感じるものだから、すぐには机に向かう気も起らない。けたけたという笑い声を聞きながら、最低な嫌がらせだと、恐怖と驚きと怒りで理宇は不機嫌に辺りを睨みつける。
 と、ノックもなしに扉が開いた。顔を覗かせたのは父の司だ。
「ぽん吉、勉強頑張ってるな」
「ぽん吉ちゃうし、ぽん介」
 にこにこと笑う司に、理宇は憮然として言い返す。その狸みたいな呼び名で呼ばれる度、癪に障った。いくらやめてと言っても、司は理宇のことを何故か「ぽん吉」と呼ぶ。なので理宇は仕返しに司を「ぽん介」と呼ぶのだが、向こうは全然堪えていないようなので更に理宇は不機嫌になる。
「で、ノックもせんと入ってきて、何」
 父が来たことで魔の存在が遠のいたことには感謝していたが、しかし理宇は父といると何かと腹の立つことが多かったので、内心どっちもどっちだという気がしないでもなかった。そういう気持ちが、ぶっきらぼうな言葉にありありと出ている。
司は娘に反抗的な口を利かれても特に気にした様子も見せずに、にやにやと笑ったまま右手をずいと突き出した。その手には青い折り畳み傘が一本握られている。理宇は傘と父のにやにや顔とを交互に見比べて、怪訝な顔をした。
「……何?」
「いくらやと思う」
 傘を得意げに理宇に見せびらかしながら司が尋ねる。それを聞いて、またかと理宇は心の中でため息をついた。司は安物を喜んで買っては、嬉しそうに理宇や律子に値段を当てさせてみせるのだ。それが彼なりの楽しみであるらしい。今もまた、理宇の目にはとても趣味の悪い妙な柄をした、安っぽい傘の値段を当てて欲しがっている。実際の買い値より高く見積もれば司は喜び、安く見積もれば拗ねる。
「いくら」
黙っていると、司が答えを急かす。何かしら値段を言うまでこうしつこく尋ねてくるので、理宇はなかなか勉強に戻ることができない。忙しいところに、しょうもないことで茶々を入れにきた司に仕返ししてやろうと、苛立った理宇は安く見積もった値段を答えることにした。
「八百円」
 司がにっこりと笑ったので、理宇は自分の判断が間違っていたことを悟った。
「売るわ」
 つまり実際の値段はもっと安かったということだ。理宇はムキになった。
「五十円」
 すると司の顔がまた別種類の笑みを浮かべる。
「しばく」
 つまり実際の値段はもっと高かったということだ。いくら安くても、流石に五十円で売っている傘はないだろうと踏んでの答えだったので、理宇は心の中で、よっしゃ、と思った。父が父なら子も子である。
「しばくって言ったから、罰金五百円な」
 この汚い言葉が口癖みたいになっている司に、律子と理宇が最近返すようになった冗談をここで用いるくらいには、理宇の心にゆとりが戻った。五百円ちょうだい、と更に詰め寄ると、「あかんっ」と一言叫んだ司は、何故か傘を両手で庇うように掴み、慌てて部屋を逃げ出した。その後を追い、理宇も部屋を出て階下を覗く。階段をどたどたと慌ただしくスリッパで駆け降りていく司が見える。その頭頂部に向かって、
「で、いくらやったん」
と声を投げると、理宇を仰いだ司の顔がまたにこりとした。
「税込み百五円」
 そうしてまた降りていって、がらりと居間の扉が開く音がする。廊下の手すりに肘をついて、理宇は深いため息をついた。
「どっちにしろ安いし、そういうの安物買いの銭失い、って言うんやで」
 誰にともなく呟いた言葉に、理宇の背後で関係のない魔が、ケタケタと笑った。

「リバプール!」
 平日の朝。一緒に学校に行こうと茜との待ち合わせ場所に行くと、既に来ていた茜が一声叫んで、理宇に向かってどどどと走ってきた。
「はっ」
気づいた理宇は逃げようとしたが、一瞬反応が遅れた。重いリュックを背負っているにも関わらず全力で駆けてきた茜が、曲げた右腕を理宇の首目がけて振り「ラリアットォ!」と叫びながらプロレス技をかけてくる。
「あ、ちょ、やめっ」
静止の声虚しく腕が理宇の首に衝撃を加える。手加減しているとはいえ、力の強い茜の一撃は、運動不足気味の弱い理宇には結構堪えるものだ。低血圧気味の理宇としては、朝からこういう荒くたい挨拶はご遠慮願いたい。しかし茜は毎日のように何かしら技をかけてくる。
「リバプール、遅いで」
 技をかけて満足したのか、腕を外して学校に向けて歩き出しながら、茜が笑顔で文句を言った。
「寝坊してん、ええやろ」
「なんもよくないで?」
 茜の冷静なツッコミに、理宇はうんうんと頷いた。その頷きに大した意味はない。
「ところで、いつまで理宇のことリバプールって呼ぶん、あんた」
 数日前にあった英語の授業で、リバプールという街の名前が出てきた。それ以来何故か茜は、本人の了承もなしに、理宇のことをリバプールと呼ぶようになっていたのだ。
「リバプール、ええやん。気に入ったんや」
「理宇の名前の原型留めてないけどな?」
 リバプールと理宇の間には、何の関係もない。リという音しか合っていない。その上呼ばれる本人は、別にその呼び名を気に入ってなんかいない。謎でしかない。
「ええやん、格好ええやん」
「かっこ、いい……か?」
 小首を傾げる理宇の頭には、茜が自分のことを、リバプールの前は「にぶおんぷ」、その前は「ギルバート」と呼んでいたことが思い浮かんでいた。どの呼び名も、実名と何の関わりもなければ、どういう考えで持ってきたのかも分からない。しかし知り合って八年目の理宇には、その意味の分からなさが茜の長所のひとつだということがよく分かっていた。だからこれ以上呼び名について話し合っても不毛だと思い、話題を変えることにした。
「なあ、また漫画続き貸して」
「ん? ええよ。放課後リバプールん家持ってくな」
「や、一旦借りてる分取りに帰ってから、理宇が茜ん家に行くわ。ありがと」
 そういう会話をしながら歩いていくと、あと十メートルで校門というところに至って、チャイムが鳴った。会話を打ち切り、やばい、と二人は顔を見合わせる。
「そこの二人―! 遅刻やぞぉ!」
 校門のところで生徒を待ち構えている英語の教師が、声を張り上げて呼びかけてきた。
「せめて走らんかーっ!」
 チャイムが鳴り終わるまでに、学校の敷地内に踏み込まなくてはならない。教師の叱咤に、おろおろとしていた二人がはっとする。重いリュックを揺らしながら、二人して顔を真っ赤にし、ゴールを目指して猛然と走り出した。

 放課後、借りていた漫画を返すために理宇が一度家に帰ると、居間に大きな紙袋が四つ程並んでいた。何だろうと思って覗き込んだ途端、理宇が固まる。その時丁度洗濯物を取り入れた後らしい律子が、二階から降りてきた。
「マ、ママ? これ、どういうこと?」
 大切な漫画の詰まった紙袋を指さし尋ねると、律子が真剣な表情を浮かべた。
「あんた、漫画とか読む度調子悪くなってたんやって?」
 その言葉に理宇がはっとする。どうして、と口にしかけて、すぐに郁代だと悟る。おばちゃんが言ったの、と尋ねれば、案の定肯定の返事が返ってきた。
近頃漫画を開くと、内容やジャンルには関係なく、ページのあちこちに鬼や悪魔のような顔が理宇の目に映るようになっていた。気持ち悪かったけれど、それでも読みたいので無視して読み進める。そうすると面白いのは確かだが、段々と胸が重苦しくなっていくのだった。そしてその重苦しさは、時間が経ってもなかなか治らない。
そういったことは、律子にも郁代にも言っていなかったはずだ。言えばぬいぐるみの時のように取り上げられるような気がしていたから。漫画は理宇の数少ない楽しみだったから、これ以上心の支えを失くしたくはなかったのだ。
しかし黙っていたところで、郁代に隠し通すことができないだろうことも、薄々分かっていた。彼女には、全知全能の存在と繋がる水晶がある。
「理宇。もう漫画読むの、やめとき」
「……でも」
「あんたのためにおばちゃんも言ってくれてるんや。でも、じゃないやろ。もう漫画は禁止。今持ってる分も全部、処分しよ」
 理宇は歯を食いしばる。口を開いた瞬間、でも、と言ってしまいそうだった。
「受験勉強もこれから本格的になるし、丁度よかったやん。漫画は卒業し」
 最後の言葉にぱっと顔を上げ、堪えきれずに理宇は口を開いた。
「でも、理宇にとって漫画は、めっちゃ大事なもんなん」
「それでも、今は一旦卒業し」
 理宇の目が潤んだ。紙袋と律子とを交互に見やる。
自分のため。郁代も律子も、自分のためを想って言ってくれているのは、痛い程よく分かっていた。それなのに、すぐには素直に受け入れられない。漫画が自分にとってどれ程大切か、どれ程自分を支えてくれているか、それを郁代も母も分かってくれていないのだと、子供じみた怒りと悲しみが理宇の心を一杯にした。同時にそれが自分の甘えに他ならないことも、頭の冷めた部分では理解していた。
「……いつまで」
 ティッシュで目元を抑え、鼻をすすりながら理宇が問う。律子は腰に手を当ててため息を一つついた。
「いつまでか知らんけど、少なくともそんなこと言っている内はあかんやろな。多分そういうこと思わんようになる頃まで、漫画は卒業」
 お母さん忙しいんよと付け加え、律子は赤い目を擦る理宇の横を通り過ぎる。居間でアイロン道具をセットし、ハンガーにかけていたワイシャツを広げる律子の背中に、理宇は悲しげな視線を送った。律子にはもう、漫画についてこれ以上話し合う気はないようだった。理宇は屈んで紙袋の中を探る。予想通り茜の漫画も中に混じっていた。その数冊を取り出して、理宇は玄関に向かった。
「……茜から借りた漫画あるから、それだけ返してくる」
 ぼそりと投げやりに呟いて、靴を履く。いってらっしゃい、という声から逃げ出すように、漫画を抱きしめた理宇は、鍵もかけずに家を飛び出していった。

 持っていたぬいぐるみと漫画は全て処分されてしまった。これで元々ゲームも禁止されていた理宇が「娯楽」と思えるものは小説を読むことと、ちょっとした話やイラストを描くことだけになった。学校や塾で勉強する傍ら時折本を開いたり、原稿用紙に文字を書き連ねたりした。
この頃から理宇の心の内を占め始めた、一つの強い想い。それが見えない世界からの干渉や、何より大嫌いで仕方のない勉強に立ち向かい続ける原動力となっていた。
 一つの強い想い。それは、一冊の本が理宇に与えてくれたものだった。
 その本を始めて読んだのは小学五年生の時であったけれど、それから何度も繰り返し読んで、その本の「中身」とも言うべきものが、理宇の中でビッグバンのような衝撃を引き起こしたのは、中学二年生になってからだった。
 自分と同じ名前の主人公が、不思議な存在と過ごした温かいひと時の物語。何度も触れているうちに、理宇はそういった物語の世界にどんどん引き寄せられていったのかもしれない。何度目か分からない読了後、突然生じた衝撃の中固まりながら、理宇は強い想いを得た。
 物語を書きたい。
 物心ついた時には既に「何かを作りたい」という想いがあった。それこそが自分の生まれてきた意味なのだと根拠もなしに確信していた。しかし具体的に「何」を作りたいのか、ずっと分からなかった。その答えを、中学二年生になってようやく得たのだと理宇は強く感じた。
知らず知らずのうちに涙が流れていた。ずっと探し続けていた、自分の大切な半身にようやく出会えたような気がした。
 その想いを得てから、まだ死ぬ訳にはいかない、負ける訳にはいかないと理宇は毎日強く思うようになった。物語を書くという想いが自分の人生の支柱なのだと思った。それがあれば、たとえどんなにつらい状況になっても自分は生きていける。
魔や霊との関わりや勉強のことでつらくて苦しくて泣いてしまう時は、物語のことを強く思った。魔が理宇に隙を作らせようと気味の悪い怪物の姿をしてみせたり、嫌なことを言ってきたりしても、どっか行けと怒鳴るくらいはできるようになった。自分はいつか光溢れる壮大な物語を書くのだという意志が、挫けそうになる度理宇を支えた。
 そんな理宇が生まれて初めて書いた物語は、原稿用紙二十五枚程の短編。魔女狩りの犠牲となる少女の物語だった。
 その物語を書いたのは、正直なところ自身の意思ではなかったように理宇には感じられた。何故なら、その物語に出てきた主人公は、理宇が繰り返し見ていたイメージに登場する女の子だったから。
勉強している時、お風呂に入っている時、学校にいる時、理宇は繰り返し一人の女の子が登場する白昼夢を見ていた。彼女は何かから逃げるように外国の路地裏を裸足で駆け、ぼろぼろの椅子に名前をつけて語りかけ、十字架に張りつけられて、燃え盛る炎の中泣き叫んでいた。誰かは知らないけれど、その少女が自分に書かせたのではなかろうかと思った。
 出来上がった作品を郁代に見せると、予想していた通り彼女は渋い顔をした。読み終わった彼女は身震いしながらすぐに、これは封印しようと言った。理宇が繰り返し見ていたイメージのことを話すと、郁代は納得したように頷いた。
「これは理宇ちゃんの過去世やな」
 多くの人がそうであるように、理宇の魂もまた既に何回も肉体を借りてこの世に生まれてきている。そのたくさんあった人生のうちの一つが過去世だ。
郁代の言葉を聞いて、理宇自身イメージに感じていた恐怖や怒りの正体に察しがついた。あれは自分自身の感情ではなく、過去世の魂が思い起こしていた感情だったのだ。
「……実はな、理宇ちゃん。おばちゃんが今こんな風に理宇ちゃん助けたいと思うんは、どうやらその過去世が関係してるみたいなんや」
「え? 過去世でも、おばちゃんと理宇、知り合いやったん?」
「それは、そうよ。普通はな、自分の人生で出会う人はみんな、前世や過去世でも家族とか仲間とか、あるいは敵とか……とにかく、何かしら関係のあった人なんやで」
 知らんかった、と理宇は目をきらきらとさせて言った。勉強は大嫌いな理宇だったけれど、知識欲が全くない訳ではなかった。興味のある世界について新しく知るのはとても楽しかった。
「それで、おばちゃんと理宇はどういう関係やったん?」
 繰り返し見てきた、ブロンドの長い髪を持つ薄汚れた少女のことを思い浮かべながら尋ねると、郁代は一瞬間つらそうな顔をした。
「その過去世では、理宇ちゃんはおばちゃんの、お姉ちゃんやったんや」
 今の表情は何だろう、と理宇は小首を傾げる。カラカラと音を立てて郁代の手先で回り続ける水晶は、今のところずっと時計回り。理宇が郁代の姉だったというのは確かなようで、しかしそれがどうして郁代につらそうな顔をさせるのだろうか。じっと見つめていると、彼女は自分の水晶にちらと視線を投げた後、テーブルの上に広げられたままの理宇の原稿用紙を意味もなく撫でつけて、それから口を開いた。
「本当はな、その世でおばちゃんの過去世も、理宇ちゃんと一緒に殺される立場にあったんや。でもな、その時おばちゃんの過去世は、お姉ちゃんを見捨てて逃げたんや。お姉ちゃんはその時代で自分を貫いたのにな」
「でもそれは、おばちゃんと理宇の過去世の話で、おばちゃんのせいとちゃうよ」
「世も人間も違っても、魂は同じやから。それを、おばちゃんの魂はずっと悔いてきたみたいや。だから今、この人生では理宇ちゃんを助けずにはいられんみたいよ」
 そうなんや、としか理宇には言えなかった。他に何と言えばいいのか分からなくて。咄嗟に言いかけた、ありがとうという言葉は、ここでは少し場違いなような気がして。
「こういうことって、いっぱいあるんよ。因果応報。『なんでこの人はここで助けてくれるんやろう』『なんで自分がこんな目に合わないかんの』って思うような出来事が起こった時、それは今の世で自分自身がした言動の結果、引き起されたことが多いけど、中には前世や過去世での言動や関係が原因になってることもあるんや」
「いいことならええけど……前世や過去世のことが原因で苦しい目に合うって、なんか……つらいね」
 理宇の頭には、ニュースで見るような事件のことが浮かんでいた。理不尽だと思うことの中にはそのような因果関係もあるのかと思うと、複雑な気持ちだった。事件の渦中にある人々からすれば、そんなものはとても納得できる話ではないだろう。それでも水晶は時計回りに回り続けているし、自分の力で確認してみても、やはり今郁代の言ったことは正しいのだと分かる。
「つらくてもそれが宇宙の理――因果応報なんやで。理宇ちゃんも……」
 とそこで郁代が言いさし、理宇はきょとんとする。そんな理宇の目をじっと見つめて、彼女はふと笑った。
「……理宇ちゃんも、この人生ではいっぱい徳積んどきよ。どんなに真っ正直に生きても、人生である程度罪作るのはしゃあない。でも、だからこそ余計に善行を積まなあかん。罪作った分以上に徳積むんや。そうしたら、もし次生まれ変わることあっても、前世の業は引き継がんからな」
 この時、郁代が言いかけたのは本当に今の言葉だったのだろうか、という考えが理宇の頭を過った。が、言っていることはもっともである。理宇は真剣な顔で頷いた。

 受験勉強のため、そしてそれ以上に理宇自身の精神的・身体的健康のために、理宇は読書も執筆もイラストも禁止されることとなった。
下手に力と中途半端な知識だけがあり、まだ子供で自身を守れるだけの力も強さもない理宇には、そういったことは危険だということだった。今のままだと理宇の書いた文章や絵には、魔や低俗霊の魂が入ってしまう。そうするとそれらに憑かれて理宇は苦しむことになり、最悪の場合水晶の時のように操作されかねない。いつまでかは分からないが、とにかく離れることとなった。
 最初の頃、理宇は泣いて嫌がった。理宇にとってはもうそれらしか残っていなかったから。それでも、読書や執筆のせいで自分の体調や精神状態が悪くなるのも、自分のことだからよく分かっていた。いつものように、みんな自分のことを思いやってくれての措置なのだ。
だからしばらくすると理宇は諦めて、それらを完全に手放すことにした。いつまで禁止なの、とは聞かなかった。それを聞けば、少なくともそういうことを言ったり思ったりしなくなるまで、という答えが返ってくるのは分かり切っていた。
 読書や執筆を禁止されてから、理宇は勉強の合間にテレビを見ることで気分転換をするようになった。だがある日、たまたま見ていたニュース番組で殺人事件が報じられると、理宇は倒れた。報じられた事件に触発されたのか、別の事件の被害者が理宇の身体を乗っ取っとったのだ。殺されて山に埋められて数年になるが、まだ見つけてもらっていないとその霊は理宇の口で訴えた。パニックに陥りかけた律子が慌てて車を飛ばし、理宇を郁代のところに連れていって、その時は速やかに理宇は解放されたが、それ以来ニュースも危険だということで、テレビもなかなか見ることができなくなった。
 このため、起きている間理宇が勉強の合間にすることと言えば、両親や大叔母や親友の茜と話すことと泣くこと、そして詩を書くことだけになった。
 詩だけは不思議と理宇に悪い影響を及ぼさなかった。むしろそれは理宇の心の内に溜まった不満や苦痛や悲しみを吐き出す手段として、理宇を支えた。他に娯楽がなくなったため、理宇は毎日詩を二つか三つ書くようになった。
それらは大抵暗いものが多かった。ただの悲鳴や泣き言のようなものも、中にはあった。それでも書いた日は書かなかった日よりも精神状態が心持よくなったから、勉強や魔とのやりとりで心が疲れ切り耐えられなくなると、ルーズリーフに衝動的に書き殴った。理宇は書けばそれでよかったから、書きあがったものは捨てていってもよかったのだが、律子は娘の代りにそれらをファイルに保管するようになった。
 家から通える範囲内で最も学力水準の高い私立高校を目指して、理宇は泣きながら勉強し続けた。律子は、泣くぐらいなら勉強をやめてしまえと何度も言った。が、ここで勉強をやめてしまえば何故か自分は死に近づくという理由のない脅迫観念が、逃げ回る理宇を常に追いかけていた。そのためどんなに大嫌いでもやめたくても、理宇は勉強から離れることができなかった。
時折ひどく煮詰まってどうしようもなくなり、勉強道具や教科書を壁に投げつけることもあった。そんな風に物に当たる度、罪悪感が大きく膨れ上がって理宇の心を締め上げた。その上魔が喜んではやしたてるので、一層嫌な気分で気持ちが沈む。負の連鎖だった。
作詩だけでは、日々溜まっていくストレスを解消するにはとても間に合わない。理宇はどんどん暗闇の中に落ちていく。それをすぐ傍らで、魔たちが今か今かとハイエナのように待ち構えているのが分かるから、なお悪い。
ぱんぱんに膨らんだ風船のように、理宇は爆発する寸前のところで、いつもギリギリ踏みとどまっていた。郁代のところへは週に一度通うだけだったのが、今ではそれに加えてほぼ毎日のように夜電話をかけるようになっていた。

気分転換と称して司が理宇を犬の散歩に連れ出した、ある休日。理宇が少し先を歩いていると、いきなり司が走って追いかけてきたことがある。ただの冗談だと、お遊びだと理宇にもよく分かっていた。それでも父親に走って追いかけられた時、理宇は心底怯え、思わず叫びながら全力で走って逃げてしまった。娘の怯えように驚いて立ち止まった司を視界の端に見て、この時理宇は恐怖に身を竦ませながら、心底不思議に思った。
自分は一体、何から逃げ続けているのだろう。

 物心ついた時には既に、理宇はある悪夢を定期的に見るようになっていた。
 毎回全く同じ内容の夢が三種類、月に一、二度くらいの頻度で無防備に眠っている理宇を訪れ、苦しめる。それらの夢を見始めると、夢の中で理宇は、まただと思う。それでも不思議と、夢の中では夢だと認識することができない。毎回目が覚めた時に、ようやく夢だったと理解することができる。盛大に涙を流し、恐怖の残滓に身を震わせながら、夢で良かったと心の底から思う。同時に、次はいつ同じ夢がやってくるのかと思うと、恐ろしさに涙が止まらない。
小さい頃は、誰にでもこういった夢が――繰り返し全く同じ内容で再現される悪夢が――あると信じていて、夢に悩まされているのは自分だけじゃないと思うことで耐えていた。しかし機会がある度色々な人に聞いてみると、少なくとも理宇の周りには、全く同一の夢を定期的に何度も見るという人がいなかった。それ以来理宇はそれらの悪夢をどう堪えていいのか分からなくなってしまった。
悪夢から目が覚める度、今回も何とか乗り切ることができたけれど、次は正気を保てるだろうかと心底不安に思った。この夢は何なのか、一体どうすれば夢の苦しみから解放されるのか、理宇には分からなかった。郁代や律子という理解者を得てから、理宇は彼女たちにこれらの悪夢について話してみようと何度か試みた。しかし何故かこれらの夢について上手く表現できる日本語がなくて、いつも言葉を探しあぐねてしまい、結局毎回押し黙ってしまうのだった。
夢についてある程度話すことができるようになったのは、郁代のヒーリングを受け始めてから三年という月日が流れた頃。人間の言葉では正確に表現できない世界のものなのだと、夢の内容をありのまま説明することをようやく断念できてからのことだった。
三種類のうち一番見る頻度が高くて、一番恐れていた夢について、理宇は郁代と律子に話して聞かせた。それは理宇が「岩の夢」と呼んでいるものだった。
その夢では、最初理宇は真っ暗で何も見えない世界に、一人きりで立っている。
不思議なことに、闇の中でも自分の手や足はくっきりと見える。そこはとても寒くて、何か気持ち悪いような、おぞましいような予感がする。その予感から理宇がまただ、と思うとほぼ同時に、理宇の前方がぼんやりと気味悪く光り出す。その光の中で一人の醜い老婆が糸車を回しているのが段々と見えてくる。そして老婆がゆっくりと首を巡らして理宇に視線を向けた時、理宇の腕では抱えきれないくらいの大きさをした岩のような物体が、ごろごろと鈍い振動と音を立てながらいくつも頭上から降り注いできて、理宇は吐き気と恐怖と痛みに、腕で頭を庇って叫びながらうずくまる。
それをしばらく耐えると、いつの間にか老婆も物体も消えていて、理宇は無傷で闇の中に立っている。顔を上げると、また前方がぼんやりと光り出す。この時点で理宇は、ああ次だと恐怖に震え出す。
光の中に現れたのは、老婆ではなく筋肉隆々の一人の男。男がこちらを振り向くと同時に、先程よりも二回り程大きな岩雪崩が、先程よりも大きな振動と音と共に、理宇の頭上から落ちてくる。理宇は悲鳴を上げて震えながら、今降りかかってきている岩もどき以上に、次の段階が来るのを恐れている。頼むから今回は見逃してくれといつも必死に祈る。
しかし願い虚しく、その時はやってくる。
 気づけばまた岩もどきも男も消えていて、理宇は一人で立ち尽くしている。自分がいまだ闇の中にいることに気づいて、ああ、また来てしまうのかと理宇は絶望の眼差しで前方を力なく見つめる。果たしてその時はやってくる。
 光り出した空間の中に、白いワンピースを着た一人の少女が、理宇に後ろ姿を向けて裸足で立っている。見えているのは後ろ姿なのに、理宇には、その少女がとても美しいことが分かる。
華奢な後ろ姿がぼんやりと見え始めると、理宇は声にならない声で懇願し始める。お願いだから助けてほしいと、見逃してほしいと痛切な思いで訴える。しかし少女は理宇の様子を気にした様子もなく、もったいぶった仕草で、ゆっくりと振り返る。こちらを見ないでと願う理宇は、なす術もなく彼女を見つめている。
そしてとうとう彼女は完全に振り向いてしまう。その満面の笑みと、両手で持っている一輪の小さな白い花を理宇が目にした途端、今まで降りかかってきたものとは比べものにならない程の、激しい振動と音が世界を揺らす。振動に加えて恐怖のあまりがくがくと震え、とても立っていられなくて尻餅をついた理宇が頭上を見上げると、とんでもなく大きくて無骨な数々の恐ろしい物体が、圧迫感と吐き気のような気持ち悪さと、恐怖と嫌悪と痛みとを持って、ちっぽけな理宇を押しつぶそうとする。その時の、とてもこの世の言葉では表現できない苦痛と感情に、理宇は力の限り悲鳴を上げる。そこでいつも目が覚めて、理宇は夢から解放されるが、夢の余韻は昼頃まで続いて理宇を苦しめる。
 水晶を回しながら黙って夢の話を聞いていた郁代は、眉を顰めて一言「土地の因縁やな」と言った。
「今住んでる土地?」
 律子が心配そうに身を乗り出して尋ねると、郁代は首を横に振った。
「今のところに引っ越す前――律ちゃんらが住んでた土地や。あの土地には、何か強烈なもんがおるみたいやな。それが引っ越してからも、理宇ちゃんをずっとしがまえてるんや。この子は普通の子と違って、こういう力がある子やから」
 ある程度話したことで、夢の恐怖が少し蘇ってきて、理宇は身震いした。他の人間に話したことで、今日の夜また見るのではないかと言い知れぬ不安を感じたが、郁代が安心させるように理宇に笑いかけてくれたので、少し落ち着いた。
「土地の因縁は、気をつけやんとめっちゃ怖いことになる。でもな、もう大丈夫やで理宇ちゃん。もうその夢見んで済むように、おばちゃん〈おことわり〉書くからな。今からでも〈おことわり〉したら、大丈夫になるから」
 うん、と理宇は頷いた。〈おことわり〉の効力についてはよく知っている。書くと言ってもらえると、心底安堵した。
「ほんまは土地の〈おことわり〉って家長にしてもらうんが一番なんやけど……司さんは無理やろうから、律ちゃんお願いな。娘のためや」
「わかった」
 真剣な顔で律子が頷いた。母親の様子を見て、理宇は内心、こういうことで心配をかけてばかりだなぁと申し訳なくなる。しかし少なくとも悪夢に関しては不可抗力だったのだから、仕方がない。
先祖や土地が何か訴えたいことがある時に影響を被るのは、大抵の場合その家の子どもである。子どもが苦しめば、大部分の親は何とかしようと思うから。特に理宇のように敏感な子どもは、分かりやすいくらいに影響を受ける。普通の子でも、先祖や精霊に訴えられれば足を骨折したり、アトピーに悩まされたりすることになる。理宇はそういう子どもたちを何人も見てきた。
生きていく上で、本来は土地を始めとして勝手に自然や物を自分の好きなようにしてはならないということを、理宇は郁代を通して見えない存在たちから学んだ。例えば新しい家を建てる時も引っ越しをする時も、人間同士で勝手に決めただけで実行するのは、してはいけないことなのだ。それではその土地や土地に先に住んでいる魂たちの意志を完全に無視することになってしまうから。
生きていくには物を食べたり、どこかで眠ったりしなくてはならないというのに。それらを「させてもらっている」という感覚がなく、「自分の力でしている」と思うところに、人間の傲慢があると精霊たちは言う。土地だって、お金を払って購入したとはいっても、それは人間の間のみに通じる約束ごとであり、元々その土地に住んでいる神や精霊や魂たちには全くもって関わりのない約束だ。だから実行に移す前に必ず〈おことわり〉をして、天地自然、そしてその土地に住まう神々や精霊たちに許しを請わなくてはならない。だが現代の人々は、地球は人間のものだとでも無意識のうちに思い込んでしまっているのか、人間同士の契約さえ済ませばそれで満足してしまって、見えない世界の存在を尊重するという姿勢を忘れてしまっていることが多い。
理宇や律子も、郁代と出会うまではそういうことを知らなかった。知らなければ、土地の精霊たちが、無断で好き勝手されて怒ったことから発生した怪我や病気、家庭の不和といった不穏な出来事に、困ったり苦しんだりするばかりで最善の対処ができない。気づいてきちんと対処すれば驚く程自然な形で速やかに問題は解決するのに、土地の者の怒りと結びつけはしないから、無用な怒りや苦しみは増えるばかりで、問題は長引いてしまう。しかし理宇は見える子どもで、その上理宇には郁代という翻訳者がいたから、同じ悪夢を見続けるという分かりやすい影響を受け、そしてその苦しみから解放してもらえるのだった。
 郁代の言葉通り〈おことわり〉を始めてから、理宇はふつりとそれらの悪夢を見なくなった。悪夢と縁を切ってから数か月後にそのことを報告すると、郁代は嬉しそうに笑った。
「よかったなあ、理宇ちゃん。これでまた一つ、因縁浄化できた」
 これでまた勉強に専念できるなと言われて、嬉しいけれど複雑な気持ちを抱えて、理宇は少し暗い顔で、ありがとうと微笑んだ。

 いよいよ入学試験が近づいてきて、理宇は受験勉強にラストスパートをかけていた。三年生はもうあまり学校に通わなくて良かったから、理宇は残りの日々を塾や家で勉強して過ごした。
 だんだんその日が近づいてくると、理宇の精神状態は更に乱れた。ちょっとしたことで癇癪を起こしたり泣いたりすることが増え、そのため抵抗力を失って魔に干渉されては、郁代に助けを求めて電話をすることも更に多くなった。
 律子も郁代も教師も、理宇なら絶対に合格するから大丈夫と言って励ましてくれた。それでも理宇はネガティヴな思考から抜け出すことができず、落ちたらどうしようとそればかり考えていた。だというのに、おかしなことに理宇は志望校一本に絞って受験をした。滑り止めを受けたりなんかすればそれは自ら逃げ道を作るということになり、受験に失敗する可能性を高めてしまうという思い込みが、理宇にその行動をとらせたのだった。
 そしてとうとう入学試験の日がやってきた。
 山の上に建った大きな赤い校舎。閉鎖的な印象を受けるその建物に入ると、中は周りの受験生たちの緊張感で溢れかえっていて、びりびりとした空気が肌を鋭く射すように感じた。そのため一層緊張感が増して、試験が始まる前から理宇は胃が痛くなった。
自分の教室に向かい、定められた席につく。薄暗い教室の中は暖房が強めにかけられていて、暑いくらいだった。理宇は一番前の席でひたすら深呼吸を繰り返し、掌に「波」と三度書いて呑み込んだ。「人」と書くより郁代に教えてもらったこの文字の方が、何倍も効果があった。
いざ最初の試験が始まると、突然隣の生徒が盛大に鼻血を出した。監督の教師が慌ただしくティッシュを渡したりその子に声をかけたりしたので、理宇の集中が乱れた。しかしそのおかげでかえって緊張が解けた。こんなことを思うと失礼かもしれなかったが、この子は自分以上に緊張していたのだろうと思うと、頭が冷えてすとんと楽な気持ちになり、問題用紙を冷静に見つめられるようになった。
そうして落ち着いた気分で入学試験を終えて、理宇は一時的にでもようやく重荷から解放されたように思った。
合格発表は試験から三日後と早かったので、そわそわと落ち着かない気分はそう長くは続かなかった。
発表の日はたまたま登校する日と重なっていた。
朝、いつものように茜と共に教室に向かうと、まだ受験の終わっていないクラスメイトたちがお疲れ様と笑いかけてくれる。緊張のため少し青ざめた顔をした理宇は、苦笑いを浮かべて応えるのが精いっぱいだったが、心の中ではクラスメイトたちにねぎらってもらえてとても嬉しかった。そして発表の時間が近づくと、不安と期待による胸と胃の痛みを抱えながら、理宇はクラスメイトたちの励ましと応援の声に背中を押されるようにして校舎を出ていった。
 結果は、合格だった。
 律子は理宇を抱きしめて喜んだ。理宇は緊張が解けた後の脱力感と喜びと疲労から、夢と現の間をさまよっている人のような、ふやけた笑みを浮かべた。
二人の周りにも、喜び合っている親子が大勢いた。彼らを見回して、こういう人たちがこれから自分の同級生になるのだと考えると、折角不安から解放されたばかりだというのに、理宇の胸にはまた新たな不安がむくむくと生えてくる。
これまで九年間一度もクラス替えを経験したことがなく、ずっと同じクラスメイトたちと付き合ってきた自分。そんな自分が果たして新たな環境で、知らない人たちしかいない場所で、友だちを作ることができるのだろうか。その上自分は人間が嫌いなのだ。
塾では割り切って敢えて友だちを作ろうとしなかった理宇であったが、勝手なもので、学校ではやはり楽しく話し合える仲間が欲しいと思う。
合格者に配布される資料を手に、理宇がそういった不安を吐露すると、律子は声に少し呆れを滲ませながらも、理宇のちっぽけな心配事を笑い飛ばした。
「新しい環境って、お母さんやったら楽しみで仕方ないけど……理宇はほんま心配性やな。人と人とは縁で繋がってるから、縁あったら心配せんでも自然に友だち出来るんやから、安心しい」
 車に乗り込みながら、理宇はこくりと頷く。その縁がなければどうするのだと心の中で思ったが、口にはしなかった。
エンジンがかかり、律子が暖房のスイッチを入れた。窓から外を眺めると、コートに身を包み、寒そうに首を竦めながら歩いてくる何組もの親子の姿が見える。少年も少女も、当然のことだが見知らぬ顔ばかり。どの子を見ても、理宇にとっては自分とは違う世界の人間のような気がしてならなかった。そんな気がするのは、自分が新しい世界に対して不安を持っているからだろうか。
本当に理由はそれだけなのだろうか。
温かい車内で、理宇の思考がぼんやりと靄がかってくる。うとうととしながら、車の窓から遠ざかっていく学校を見つめる。これから自分の学び舎となる空間であり、将来母校と呼ぶことになるであろう場所。山の上に無言で立っている、その赤くて大きな校舎。半分夢の世界に浸りかけている理宇の目には、そこがまるで無慈悲な収容所のように映っていた。

第三章 理宇、高校生

 九年間慣れ親しんだクラスメイトたちと離れ離れになり、理宇は一人、田舎の山に佇む仏教系の進学校、叡智学園に入学した。
そこは高校野球でも有名な中高一貫校で、この年理宇を含めて高校から編入した学生は、全部で百余名。うち十人は野球部に推薦で入った生徒、三十名程が英語に特化したクラスに入学した生徒、そして残りが一般の編入組であった。理宇は二クラスしかない一般の編入組のうちAクラスに振り分けられ、やぼったい制服に身を包んで、重い鞄にふうふう言いながら通い出した。
 ところで入学したての頃、大学受験が本格化する三年生までは勉強のことも少しは楽になるだろうと理宇も律子も気楽に構えていた。しかしそれがとんでもない誤解だと気づかされるまでに、そう時間はかからなかった。
 合格発表から一週間後に、合格者が揃えなくてはならない必需品の販売と配布が学校で行われた。そこで理宇は制服と鞄と靴と靴下と、そして両手で抱えきれない程の辞書と教科書と参考書を購入することとなった。学校指定品の膨大な量に、律子と理宇は冷や汗をかいて目を丸くするばかりであった。
 購入や手続きが一通り終わると、新入生と保護者は講堂に集まり、学校の理事長先生と校長先生の講演を拝聴した。その時校長先生が口にした言葉に、理宇は思わず「この学校に来たのは間違いだったかもしれない」と本気で考えてしまったものだ。
「合格おめでとうございます。この瞬間から君たちは、大学受験生です。これから日々、授業時間以外に、最低四時間は勉強時間を作って、勉学に勤しんでください」
 夏休みの間までは、理宇は校長先生のこの言葉をことある毎に思いだしては、一人憂鬱に沈んでいた。合格したばかりで解放感に浮かれていた理宇にとってはそれ程に衝撃的だったのだ。
 おまけに入学式までに、指定した理化の教科書を三冊読み込んでくるようにとの課題も与えられた。その教科書は中等部からの進学組が三年間で勉強してきたもので、後二年生に進級し、進学組と編入組の学生を併せる時に差が出ないように、自習してこいとのことだった。おかげさまで理宇は、高校一年生になる前から勉強に泣く日々に戻ることになった。結局理宇が勉強から解放されたのは、試験後から指定品購入の日までの十日間だけだった。

 入学式後初めての授業で、理宇たち高等部からの編入生は、課題に関する筆記試験を受けた。
結果は燦々たるものだった、らしい。
 らしい、というのは、理宇が自分の点数を知ることは最後までなかったからだ。
 試験から数日後にAクラスの担任であり化学の教師でもあった梶谷が言うことには「あまりにもひどすぎて、とても点数を開示することができない。故に答案用紙は返却しない」とのこと。
 梶谷の言葉通り、学校側は本当に答案用紙を返すこともなく、以降その試験について言及することもなかった。
 生徒からすれば、じゃああの試験は一体何だったんだ、と問い詰めたいところであるが、聞いたところによると、もう一つのBクラスでも答案用紙が返却されなかったらしい。その上毎年試験はするものの答案は返さないという噂も耳にしたので、入学前の課題と試験は、編入生たちの気を引き締めるためだけに毎年行われているものなのかもしれない、と理宇は思った。

 編入クラスの一員としての一年間は、理宇にとっては勉強地獄であった。
 学校の方針で、中等部からの進学組四クラスと編入組二クラスは、二年生に進級した時点で合併されることになっていた。そのため公立中学校から入学してきた編入生たちは、高校一年生で既に二年生の勉強をしている中等部組の学力に、一年で追いつかなくてはならなかった。公立校に比べるとただでさえ授業進行速度の速い私立校二年分の勉強を、たった一年でこなそうとするせいで、編入クラスにおける授業の進行速度は頭がおかしいことになっていた。
 授業時間は一コマ七十分。平日は六時間目まで、土曜日は四時間目までという時間割構成だった。
音楽や体育などはおざなりに時間割に組み入れられているくらいで、週に行われる三十三コマの授業のうち、三十コマは、国語、数学、英語、社会そして理科で占められていた。
 授業スピードは本当に早く、数学など、一コマで教科書三章分進むこともあった。当然予習復習を毎度毎度きっちりしなくては、すぐに授業についていけなくなってしまう。毎日ほぼ全科目から宿題が出され、量が量だけに、帰宅してから宿題と予習復習をこなすだけで四時間以上もかかった。
 片道約一時間半をかけて学校を行き来する間、理宇は教科書や英単語帳をめくる。授業が終わって学校から帰宅すると、早くて午後八時前。夕食と入浴を済ませてから授業の復習と予習と課題。全てが終わる頃には深夜一時か二時になっているのなんか当たり前で、朝は六時に起きて七時前発車する電車に飛び込み乗車。平日はもちろんのこと、休日であっても遊ぶ時間などあるはずもなく、連日の睡眠不足と大嫌いな勉強と一日中向き合い続けることによるストレスで、一学期半ばで理宇は既に根を上げかけていた。だが郁代のヒーリングと作詩と泣き喚くことで、かろうじて正気を保っていた。
 編入組の授業進行速度に苦しんでいるのは、当然のことながら理宇だけではなかった。
 クラスメイトの中には、あまりの疲労に、入浴しようと服を脱ぎかけた半裸の状態で意識が飛び、脱衣所で倒れて眠っているところを、家族に発見されて救急車を呼ぶ騒ぎになったという男子生徒もいた。
 またある女子生徒は、非常に早い授業の進み具合と、それについていくことが難しくて徐々に成績が落ちていくことによるストレスで、数日に一度は発狂して叫んで暴れ回り、その度母親が近所の家々に侘びを入れて回るということが日常化していた。
 中には校則で禁止されている男女交際に走り、駅で二人一緒に仲睦まじく寄り添っているところを教師に発見され、離れるよう指示されても敢えて反抗的に親密な態度を崩さなかったために、一週間の自宅謹慎処分と写経百枚を命じられたカップルもいた。生徒手帳にも書かれているこの男女交際の禁止という校則は、しばしば生徒たちの間で軽い学校批判のネタとして用いられていたものだった。それが実際にクラスメイトの謹慎処分の発端となる事態が発生したものだから、特に編入組の中では「どうせいっちゅーねん!」と元々募っていた不満が更に強まっていった。部活の禁止、交際の禁止、登下校時の寄り道の禁止(学校には飲食物の購買や自販機などはない上、登下校中はコンビニすら行くことが禁じられていた)だけでも言いたいことは山程あったのだ。学校周辺に遊ぶような場所はなく、そもそも授業の進行速度があまりに速すぎて遊ぶ時間すらほとんどないような状態で、生徒たちの精神状態は極限状態に近づきつつあった。

 夏になり、たった十三日間の夏休みはあっという間に過ぎ去った。その間たっぷりと出された「夏休み」の課題を提出し、試験を受けた生徒たちは、これからまた始まる日々に各々憂鬱な顔をしていた。しかし生徒たちの思いとは関係なく、厳しい授業はいつも通りすぐさま始まった。
 夏休みから数日経った頃、編入クラスの生徒たち――特にBクラスの者たちは、違和感を覚え始めた。夏休みが終わっても、一つだけ空いたままの席があったのだ。
 誰もあからさまに雑談の話題にすることはなかったし、はっきりと教師に尋ねる者もいなかった。それでも、Bクラスの生徒はもちろんAクラスの者たちも、時折その空席にちらりと意味深な視線を投げる。一学期の間はきちんとその席についていたはずの生徒。誰もが、最初の脱落者は彼なのだろうと既に悟っていた。
 夏休みが明けて一か月後。
A、Bクラスの担任教師たちが、とうとう編入クラスから一人中退者が出たことを報告した。Aクラスの担任梶谷は、化学の授業の冒頭で、苦笑を浮かべながら己の受け持つクラスの面々を見渡した。
「彼はもう一度受験をしなおして、別の高校に行くらしい。にしても、本当によかった。早めに決断することができて」
 理宇はこっそり、クラスメイトたちの顔を見回した。みな奇妙な顔つきをしている。恐らく自分も似たような表情を浮かべているのだろうと思った。一見すると金○チ先生を髣髴とさせる外見をした梶谷の、妙にゆったりとしたその話し方は、何故だか理宇を苛立たせた。
「何事も、早め早めの決断が大事や」
 穏やかな微笑を浮かべ、哀れむような光をその細い目にたたえて、梶谷は生徒たちに語りかけた。そして続く一言が、生徒たちに動揺を与えた。
「腐ったリンゴの周りのリンゴは腐るというから」
 途端、生徒たちがみな凍りついたように動きを止めたのを理宇は認めた。数秒後にさっと走らせた視線の先には、色を失った顔、顔、顔――。
「この中にもまだ腐ったリンゴがいるようなら、早めに決断しいや。無理するのがええんとちゃうで。合わん思たら、すぐに次どうすべきか考えて行動し。その方がお互いのためやからな、絶対」
 腐ったリンゴ。学校の授業についていくことができず、成績が落ちていった者のことを、梶谷はそう呼んだ。
なんという学校だ、と理宇は思う。なんという先生だ。自分たちは物ではない。こういう人間が理宇は特別嫌いだと思う。平気で他者を貶める人種が。
 生徒たちの間では静かなざわめきが広がりつつあったが、梶谷にはもうこれ以上いなくなった生徒について話す気はないらしかった。場の空気をあっさりと無視して教科書のページ数を告げ、強引に授業を開始する。有無を言わせないその態度に、結局子どもたちは一人として抵抗することができなかった。

 自分がクラスで浮いていることを、理宇ははっきりと自覚していた。だがどうしてそうなったのかは全く分からない。
人間嫌いという基本的な姿勢が表面に出てしまっているのだろうかとも思ったが、普段その姿勢は心の奥深くに隠して、自分自身の心も上手く欺いているので、それはないはずだと思い直す。第一人間嫌いとはいっても、いくらなんでも全ての人間が嫌いな訳ではないのだ。
 最初の頃、理宇はある女子生徒と毎朝乗り換えの駅で待ち合わせて、一緒に登校していた。その子は編入組の子ではなく、たまたま知り合った英語特化クラスの生徒で、理宇は彼女を好いていた。ところが約二ヶ月が経ったある日、いつもの車両に彼女の姿は見当たらなかった。風邪だろうか、それなら連絡くらいくれてもよさそうなものだがと思ったものの、理宇はそれ程気にはとめなかった。
 しかし次の日も、そのまた次の日も、彼女の姿は見当たらなかった。嫌な予感に胸を痛めながらも、理宇は深く考えまいとした。
 数日間一人で登校した後、ようやく理宇は彼女の姿を発見した。ただしそれはいつもの車両でのことではない。学校の最寄駅で、別の車両から降車する彼女の姿を見かけたのだ。
 電車から降りる彼女の姿を視認した瞬間、理宇はショックを受けた。
後ろ姿を見つめて歩きながら暫く悩み、決意して小走りになって追いつき、後ろから声をかけた時の彼女の態度を、理宇はなかなか忘れることができない。
 名前を呼んだ時、彼女はびくりと肩を震わせ、無表情で振り向いた。その眼のあまりの冷たさに、理宇は声をかけたことを悔いたが、後の祭りだった。
 最近どうしていつもの場所にいなかったのかと尋ねても、彼女は「ちょっとね」と答えただけ。それ以降、理宇が母から聞いたテレビ番組の内容や、クラスの出来事を訥々と語っても「ふうん」としか言わず、決してこちらを見ようとしなかったし、これ以上話しかけるなという念を、理宇は自身の特殊な力で感じた。そんな彼女の横顔を見つめるうち、理宇も次第に口数を減らし、終いにはすっかり黙り込んでしまった。二人は黙々と歩き、玄関について理宇が「じゃあ」と声をかけると、彼女は完璧なまでに無視して先に行ってしまった。
 翌日、理宇はまた最寄駅で電車から降りる彼女の姿を見かけたが、その時彼女は見知らぬ女子と一緒に、楽しそうに話していた。理宇はそんな二人を後ろから見つめながら、一人きりで黙々と歩いた。彼女とはクラスも異なり、ほとんど登校時くらいしか会うことがなかった。理宇は人間の中でなんとなく彼女のことが好きだと感じていたし、友だちだと思っていた。彼女をきっかけにもっと色んな人を好いていこうと、前向きになりかけていた矢先の出来事だった。
そもそも「あたしたち、もう友だちだよね」と笑いかけてくれたのは、彼女の方だったのだ。それが、この変りよう。一言もなかった。せめてメールくらいくれればいいのにと理宇は恨めしく思った。自分のどこかが嫌になったのなら、はっきり言ってくれればよかったのに。
 しかし同時に理宇は思う。出会ってから互いの嫌な部分が目について不快になる程の期間、果たして自分たちは一緒にいただろうか? まだ互いのことをほとんど知らない段階ではなかったか? どうして何の前触れもなく、突然自分を切り捨てたのか? 自分を傷つけて縁を切るのが目的だったのか? そんなに嫌いだったのか?
 言いたいこと、聞きたいことは山程あった。だがたった一言を言わせてもらうチャンスさえ、理宇には与えられなかった。せめて彼女の生霊が理宇の元に来てくれれば、話すことができたかもしれない。だが彼女の中で理宇は完全になき者にされたらしく、生霊すら来ることはなかった。理宇は一か月程、勉強の苦しみに加えて、彼女から受けた仕打ちのことで毎日泣いた。好きだったから、怨むことも憎むこともできなかった。ただ、悲しくてつらくて苦しくてやるせなくて、胸が痛くて堪らなかった。
 そんな風に一方的に関係を断たれ、無視されることとなったのは、この子一人ではなかった。この頃理宇は訳もなく男子のことが恐ろしかったので、頑ななまでに女子としか会話をしなかったけれど、入学して数か月経った頃には、理宇は何人もの女子から無視されるようになっていた。不思議なことにどの子も、何の前触れもなく、ある日突然理宇と会話をしなくなった。
 理宇にはさっぱり訳が分からなかった。ただ関係を切られる度、入学する前に郁代が「理宇ちゃんは……叡智学園と合わへんで。見える見えないとかそういう話と違うけど、おる世界が違うから。こんなこと言いたないけど、多分……理宇ちゃん、友だちでけへんで」と言っていたことを思い出した。

 休憩時間中、早くも終わったばかりの授業で出された課題を解きながら、周囲の会話を聞くともなしに聞いていると、時折リウ、リウちゃんと名前が呼ばれているのが耳に入る。しかしそれらの呼びかけに理宇は滅多に反応しない。何故なら、それは理宇のことを呼んでいるのではないと分かり切っていたから。
 Aクラスには理宇の他にもう一人、リウという名前の女子がいた。彼女の名前は安藤璃宇。誰に対しても笑顔でそつなく対応できる、しっかり者の美少女だった。クラスメイトたちが「リウ」と呼ぶ時、この名は九割がた彼女のことを指していた。
 珍しい名前なのに、同じ名前の子がクラスにもう一人いる。それは理宇にとって非常に面白くないことではあったけれど、大きな問題ではなかった。自分と名前が被る子と同じ場に集うなんて、世間ではよくあることだ。ただ理宇にとって辛かったのは、クラスメイトの大多数が、このクラスには「リウ」という名前の人間が一人しかいないように振る舞っていることだった。
 理宇は別に苛められているのでも、一部を除いて故意に無視をされているのでもなかった。ただクラスの中では、空気のような存在であっただけだ。いてもいなくても変わらない存在。いや、別れた女子たちの対応を思うと、むしろいない方がいい存在として認識されていたのかもしれない。苛められるよりは余程マシだと、分かっていた。それでも、理宇は毎日泣いて、泣いて、泣いた。
「理宇ちゃん」どころか「天野さん」と呼んでくれる人もほとんどいなかった。理宇はそれがまた悲しかった。このまま誰も自分のことを「リウ」と呼んでくれることがなく、もう一人の子ばかり「リウ」と呼ばれていると、自分の名前が自分のものではなくなるような気がした。だから、入学当時理宇の一人称は折角「理宇」から「あたし」へと変りつつあったのに、また「理宇」へと逆行してしまった。せめて自分で名前を呼んでいないと、自分の名前を見失ってしまいそうな不安に囚われたためだった。
 しかし二学期になると、そんな理宇にもようやく友だちと呼べる存在が三人できた。
彼女たちは理宇のことを「リウちゃん」と呼んでくれた。それが理宇には、本当に嬉しかった。この三人には、クラスで孤立しかかっていた自分の姿が見える。天野理宇という人間は、この三人の中では空気ではない。その事実が理宇を救った。週に一度の訪問時に三人のことを話すと、郁代は少し困った顔をした後で、けれどほっと安堵のため息をついてよかったと言ってくれた。
 しばらく彼女たちと付き合ううちに、理宇はなんとなく、三人ともが多かれ少なかれ自分と似たり寄ったりの状況にあることに気がついた。要するに、クラスのはみ出し者たちが集まったのだ。
 ただでさえ勉強面で苦しんでいて、部活や恋愛などとは縁遠く、ろくに遊ぶ時間もない理宇たちにとって、せめて共に苦難を乗り越える仲間は必要不可欠だった。
全体的に仲のよかったAクラスの人間は、理宇たちと他一部を除いて特定のグループを作ることはなかったが、理宇たち四人の結びつきは、傍から見てもとても強力なものだった。大げさな物言いかもしれないが、彼女たちにとって互いの存在は、牢獄のような学校で生き抜くための命綱のようなものだった。
 余程不満が溜まっていたのかもしれないが、四人でいる時の会話はもっぱら愚痴に終始した。理宇はそれに内心ではうんざりしつつも、彼女たちの存在は心底必要としていたし、彼女たちのことが好きであったから、それらに相槌を打ったり自分も愚痴吐露大会に積極的に参加したりした。そして家に帰ってから、律子に愚痴が多くて嫌だと言うことを訴える。すると律子は決まって「あんたかて愚痴ばっかりやん。類は友を呼ぶってやつやろ。お母さんしんどいわ」と怒った。その度理宇は反省するのだが、やはり四人でいる時も、帰ってから律子に話すことも、愚痴ばかりになるのは避けられないのだった。どうして愚痴しか言うことができないのかと、理宇は定期的に自己嫌悪に陥るようになった。しかし楽しい話、明るい話がほとんどないのだから仕方がないのだと、結局は自分を甘やかしてしまう。
 理宇たちにとって、高校生でいることに楽しみなんてほとんどなかった。共に行動していた三人の一人、真奈はことあるごとに理宇に言った。
「もう大学卒業してる親戚のおねえさんが、よくわたしに言ったんよ。『世間では華の女子大生とか言って、大学時代が一番楽しいみたいに言うけど、うちは高校時代のが絶対楽しかったと思う』って。もし本当にそうならさ、一番楽しいはずの高校時代がこんななんて、わたし信じたくない。絶望するしかないわあ、理宇ちゃん、どうしよ」
 どうしようと言われても、理宇は知らない。「絶望」は流石に針小棒大な表現と思うが、信じたくないのは理宇も一緒だ。このまま叡智学園にいる限り、少なくとも自分は楽しい青春とは程遠い暗黒時代を送ることになるだろうと理宇は悟り、諦めの境地に達していたから、基本的にはノーコメント。代わりに裕福な家庭のお嬢様でもある智香が、真奈のその愚痴に、だからそれは叡智学園のせいだとため息をつく。
「ほんと叡智学園なんか来るんやなかった。勉強勉強うるさいしきっついし、おまけに教師は梶谷先生みたいに変なん多いし。この学校私立やからって、理事長一族の独裁体制いくらなんでもひどいわ。時代遅れやし。ふざけんなっての」
 四人の中で唯一愚痴をほとんど口にしない奈津美が、智香に困った顔を向けた。
「でも叡智来んかったら、うちら会えんかったで?」
 奈津美のその一言に、互いにはっと顔を見合わせる。そして三人は奈津美に抱きつき、「奈津美~」「そうや、確かにそうや」「ええこと言うわあんた~」と場は一気に盛り上がる。ボディータッチが少し苦手な奈津美は、「やめい!」と叫びながら逃れようとするが、三人がかりでがっちり捕まえているので思うようにいかない。奈津美はしばらくもがき、やがて観念したように大人しくなる。そうして四人でけらけらと笑い合う。教室の片隅でこんな風に盛り上がる時は、理宇の心に楽しいという感覚が蘇ってくる。しかしそれは本当に限られた時間しか復活しない感情で、十分という短い休憩時間が終り、頭をフル回転させてもついていくのが難しい授業が始まると、理宇の心は再び暗い沼の底に沈んでいく。
 ――勉強勉強うるさいしきっついし。
 理宇だけではない。編入組は誰しも、厳しい授業カリキュラムに苦しんでいる。毎年脱落していく者もそれなりの数いるらしい。それでもみな、耐えている。努力している。乗り越えている。理宇だけではないのだ。
 だが「苦しいのは自分だけじゃない」という考えは、理宇をこれっぽっちも救わない。他の誰が苦しんでいても楽しんでいても、そういう苦楽は自分とは何の関係もないのだから。
 嫌いで嫌いで仕方のない勉強で終わる毎日。それを三年間続けなくてはならないのかと思うと、理宇は目の前が真っ暗になるような思いだった。その思いがいつも理宇を捕まえていて決して離さないから、勉強から少し離れて真奈たちと話す休憩時間でさえ、本当の意味で理宇が勉強から解放されることはない。
授業中、集中が途切れた一瞬の間に頭を過る一つの予測。家に帰れば今日もまた泣き叫ぶことになるだろうというその考えは、これまで外れたためしがない。最近は、夢の中でさえ勉強をして泣いていることが多い。
 理宇は二十四時間、勉強に苦しみ続ける青春時代を送っていた。

 二年生に上がると、中等部からの進学組も併せて全部で六つあるクラスのうちいずれかに、生徒は成績順に振り分けられることとなっていた。六クラスのうちAからDまでは理系クラスで、文系はE、Fの二クラスのみ。編入生たちは入学してからおよそ半年で理系に進むか文系に進むか決めねばならなかった。
理宇は中学生の頃から、深く考えもせず、自分は理系にいくと固く誓っていた。自分では数学が得意だと思っていたし、塾の先生から、小説を書くなら論理的な思考を身につけるためにも理系にいった方がいいと言われたからだ。
 しかし理宇は、入学して最初の数か月で、理系への進学を断念する羽目になった。高校数学の基本である証明というスタイルについていくことができず、まさかの得意科目で挫折を経験したのだ。
 やはり勉強ばかりしてきた中学時代。その頃は得意な数学で失敗するなんて考えもしなかった。しかし中学時代の数学と、高校時代の数学は全然別物だった。数学でがくんと成績を落とした理宇は、あまりのショックに打ちのめされた。理宇は放課後頻繁に職員室に通い、各科目担当教員に色々と質問をしていたのだが、数学の教師の前で泣き出してしまったこともあるくらいだった。慣れて理解が進めばまた成績は上がると教師は慰めてくれたが、結局理宇の数学の成績はさほど上がらず、数学に対する苦手意識は完全に定着してしまった。その上理系の必須科目である化学でも、理宇は早々と「こりゃ無理ですな!」と思い知っていたので、理系への進学は九十九パーセント諦めた方がいいと二学期の終わり頃には悟っていた。
 変にプライドだけは高かったので、理系を諦めて文系に進学することに、理宇は少なからず屈辱を感じていた。別に文系を軽んじていた訳ではない。ただ不本意にも自分の信念を曲げることとなり、それに対して苦々しい思いを抱いていたのだ。
 結局、色々な葛藤の末文系へと進路を変更した理宇は、Eクラスに進級した。真奈と智香は理系のCクラス、奈津美は文系でFクラスだった。成績順なので、Eクラスは文系では良い方のクラスだ。ちなみに理宇と同じ名前の美少女は、Fクラスだと分かった。彼女は自分より頭がいいのだろうと勝手に僻んでいた理宇は、意外の念に打たれた。何はともあれ、同じクラスで自分と同じ名前が呼ばれるのを聞き続けなくて済むという点では素直に嬉しかった。
 ただ固く結びついていた三人と離れてしまった理宇は、話したことのない人間たちの中で、一人不安に震えていた。叡智学園では、二年生に進級して三週間後に修学旅行が行われる。見知らぬ人間たちと韓国という異国で一週間。二年生全員が行くとはいっても、行動はクラス毎で決まっているので、別クラスの子と一緒にいることはできない。クラス替え後数日間は、理宇は緊張と不安と悲しさによる吐き気に悩まされた。
 救いの手は、意外にも早く理宇に伸ばされた。
 理宇に声をかけてくれたのは、刈谷由香。生徒会の書記で、どこかカリスマ性のある、エキゾチックな顔立ちの美人だった。
 生徒会の一員であるだけあって、彼女は学園内では有名人だった。成績も優秀で、全国模試ではいつもランキング上位に入っている。細かいところまで気配りのできる姉御肌の彼女は、会話も巧みで、誰に対しても物怖じしない。まるで李の樹のような人だと理宇は思った。刈谷を見ていると、李の樹には、自然と人が集まってくるという故事が頻繁に理宇の頭を過ったから。どうしてこれ程素敵な子が、自分なんかに声をかけてくれたのだろうと、それから常々理宇は不思議に思うようになる。
 だが理宇には、一年生の時に経験したいくつかの苦い交友関係がある。その思い出による傷は、一年経ったところで癒えるはずもなく、理宇の心に絶えず痛みを与えていた。ただでさえ勉強や魔による苦痛を受けているのだ。これ以上傷つきたくなかった。
 人気者の刈谷と何故か修学旅行中行動を共にしながら、理宇は機会をうかがっていた。そして修学旅行二日目の夜。あてがわれた部屋で二人きりになった時、理宇は意を決して刈谷に震える声で問いかけた。
「刈谷は、神様っていると思う?」
 交友関係で傷ついたいくつもの経験から、この頃理宇は先手を打つようになっていた。しばらく付き合ってから一方的に切られるくらいなら――あるいは憎まれるくらいなら――最初から変人だと認識されて、距離を置かれる方がいい。
理宇は自分が無視されるようになった原因を、自分が浸ってきた世界に見ていた。霊感自体ではなく、霊感により常人には見えない世界を見聞きしてきた経験が、人間を嫌うといったように、自分を周囲から異質なものとしてはじき出す要因なのだと。
それまでの理宇の人生の約半分は勉強であり、もう半分は見えない世界で占められていた。勉強の面では、この叡智学園の生徒と理宇は何も違いはない。他の生徒と自分とを大きく分け隔てているものがあるとすれば、それは霊界との関わりに他ならない。故に霊界の存在を信じるかと、傍からすればオカルトと敬遠されかねない質問を投げかけたのだ。
 別に相手が信じていようがいまいが、正直なところ理宇にとってはどちらでもよかった。何を信じようとその人の自由だし、見える理宇も普通の人々も、同じように正しくて同じように間違っていると思っていたから。
 ならばどういう意図からこの質問をしていたのかというと、理宇が気にしていたのは、相手の返答の内容ではなく、返答する際の態度そのものだった。
滅多にいないが、真剣に考えて自分なりの答えを言うならそれでよし、大して気にもせず冗談半分に答えるならそれもまあよし。まだ親しくもない間柄なのに、こういうオカルト系の質問をする理宇に対し、今まで理宇を切り捨ててきた女子たちが一様に持っていた冷たい眼差しを向けるようならば、こちらから切る。
 嫌うなら嫌え、変と思うなら思え。気味が悪いと感じるなら、縁を切るなり軽蔑するなりご自由に。自分はもうそのくらいでは傷ついたりしないし、怒ったりもしない。その時は、単に住む世界が違っただけだから――心の中で他ならぬ自分にそう言い聞かせながら、理宇は刈谷の返事を待った。
 ちょっとの間考えた後、理宇の予想に反して、刈谷は真顔で口を開いた。
「正直なとこ、わたしはよく分からない。どっちかというと、いないんじゃないかと思う時もある。でも、いてくれたらいいなと思う――ごめん、こんな風にしか、今は答えることができへん。普段あんまり考えたことなくて、答えまとまらんわ」
 刈谷の真剣な言葉に、理宇は驚いた。反射的に彼女が嘘をついているのではと探り、更に目を見開く。彼女は本心から今の答えを返したのだ。何の脈絡もなく理宇が発した、意味の分からない質問に対して。軽蔑することも、怪しむこともなく――。
「天野はどう思ってんの?」
 尋ね返されて、天野は我に返った。
「り……理宇は、いると思う」
 思うも何も、実際自分と郁代の力によって理宇は実在することを知っているのだが、やはりはっきり言うことはできなかった。いや――相手が刈谷だから、まだ知り合って間もないこの段階で、自分の秘密を打ち明けることを躊躇ったのかもしれない。
この頃理宇は、厭うなら厭えと人間関係において投げやりになっていたから、わざと人に避けられるような言動をすることも珍しくなかった。それでも、刈谷に対してはこれ以上そういうことをしたくないと感じた。
 そして刈谷の対応から、理宇は自分が思い違い、心意違いをしていたことに気がついた。
好きなように受け止めろと敢えて妙な言動をとってみせて試すのは、自分から相手を見下し、付き合う人間を選別しているということだ。
おまえは何様のつもりだと自分で思った。たったいくつかの経験を経ただけでこれ以上傷つきたくなくなって、弱い自分を守るために虚勢を張った。多くの人は自分のように形のない物を見ることができないから、自分と世界が違うから、分かってもらえなくても仕方がないのだと傲慢になっていた。鼻がつんと熱くなって、理宇は慌てて目をごしごしと擦った。
 もう寝ようかと刈谷が灯りを消す。おやすみと言い合って、それぞれ硬いベッドに潜りこむ。暗闇の中で理宇は刈谷の言葉を何度も反芻する。胸がどきどきとして、なかなか寝付くことができなかった。何度も寝返りを打つうち、次第にこの子と仲良くなりたいという願いがむくむくと育ち始める。刈谷は一瞬にして、理宇にとって特別な子になった。たった一度の会話で、自分自身の愚かさに気づかせてくれた、刈谷。
 この日から理宇は、刈谷のことが大好きになった。

 刈谷にくっついて行動するようになってから、理宇はほんの少しだけれど、落ち着きを得た。刈谷は人気者であったし、生徒会や放送委員などの仕事に追われて離れている時も多かった。それでも邪魔にならない程度を心がけて理宇は彼女の傍にいた。お昼はもちろん一緒に食べたし、休憩時間も課題の答え合わせや雑談に興じた。朝は互いに登校を共にする存在が別にいたので離れていたけれど、放課後は刈谷に用事がなければ彼女と連れ立って帰った。
近頃理宇は人見知りが悪化していて、一部の人間を除き相手の目を見て話すことができなくなっていた。慣れない相手に自分から話しかけることは絶対になかったし、あまり接し慣れていないクラスメイトから、業務連絡などで声をかけられただけでも、怯えと緊張から異常なくらいどもってしまうのだった。
人と接触してそのように失敗してしまった時、理宇はついつい刈谷の背中に隠れて俯いてしまう。こういう態度が人から無視されるようになる大きな要因なのだと自覚していたけれど、自分ではどうしようもなかった。
 理宇は多くの人間が怖かった。同世代の少年少女なら、なおさら。それで人慣れていない臆病な野生動物のように、怯えて縮こまってしまう。大抵の人は、当然のことながらそんな理宇の反応に戸惑って、奇妙な顔をする。だが刈谷は、理宇を変な目で見ることも、咎めることもしなかった。ただ彼女はいつも周囲の空気を読んで相応しい言葉を口にし、理宇の作ってしまった場の綻びをさり気なく修復した。彼女は理宇とクラスメイトたちの間に架け橋を作ってくれた。刈谷のおかげで理宇は少しずつ、クラスの女の子たちと会話することが増えていった。
 刈谷はクラスメイトたちだけではなく、勉強とも理宇を結び付けてくれた。
 成績が優秀で、多くの同級生たちからも一目置かれる存在である刈谷。模試の全国ランキングにも度々名前が載り、特に得意科目の英語では一桁台の順位に食い込んでいた。そんな彼女は、理宇の目にはいつも輝いて見えた。
 誉められることが苦手な本人には絶対に言わなかったが、いくつかの欠点を差し引いても、なんて素敵な子なんだろうと常々思っていた。
 理宇は少しでも素敵な刈谷に釣り合う存在になりたかった。だから本当に大嫌いで憎くて仕方のない勉強に、もう少し積極的に取り組もうと決意した。そう決意したためであろうか。二年生になると、理宇の成績は目に見えて上がり出した。数学と英語に対する苦手意識は非常に根深くて、その二科目だけはどうにもならなかったが、国語や世界史では校内の成績上位者にまでなった。
 そのようにぐんぐんと成績が伸び始めた、二年生の秋。いつものようにヒーリングを受けに家を訪れると、理宇の顔を見た途端、郁代が何気なく言った。
「理宇ちゃん、東大行きなあよ」
 あまりにも唐突で無謀な言葉に理宇は目を瞠り、絶句した。咄嗟に郁代の右手を窺う。彼女の手先で水晶がくるくると時計周りに回っているのを認めると、ますます何も言えなくなった。固まってしまった本人の代わりに、律子が冗談、と笑った。
「何言ってんのおばちゃん。うちの家系は、大学なんて誰も行ってへん。頭そんなによくない一族やから、理宇はいい遺伝子もろてへんのよ。叡智行っただけでもすごいしびっくりしてるんやから。東大なんて、無理、無理」
 神戸大学目指そか言うてるけど、そこだって行けるかどうか、と軽い口調で続ける律子に、首を傾げつつ郁代は戸惑った視線を向けた。
「でも、この子東大行けるで。これおばちゃんの言葉じゃなくて、水晶が言うてるんや」
 理宇は彼女の目を見つめた。そこに嘘の影はこれっぽっちも見つけられなかった。視線を隣に移すと、嘘ぉと苦笑しながらもどこか期待しているような律子の顔。その顔を見ていると、理宇の脳裏に叡智学園の合格発表があった日の出来事が蘇った。
 ――理宇、東大だって行けるんちゃう。
入学試験に無事合格したと中学校に報告しに行くと、クラスメイトたちが口々に祝ってくれた。その時一人の女の子が、理宇に笑顔でそう言ったのだった。
もちろん、彼女は冗談で言ったのだろう。理宇にはそれが分かったし、東大なんて無理に決まってるやん、と即座に否定したのは本心からだった。あの時理宇は、自分は東京大学を目指すことなどないだろうと確信していた。田舎の中学校で一番成績がよかったとはいえ、自分が「井の中の蛙」であることくらい、理宇にだって分かっていた。同級生を馬鹿にする訳ではないが、自分の学力など世間から見ればよくてせいぜい並程度だと判断していた。
そんな理宇にとっては、神戸大学でも志望校と定めるには覚悟が要ったのだ。進路調査票にその大学名を記して提出してからも、自分の学力で目指すのは無謀すぎるのではと落ち着かなかった。
ましてや東京大学など。
 郁代の家からの帰り道。理宇は車の窓から、夜を明るく照らす人工的な灯りをぼんやりと眺めていた。ひゅんひゅんと後方に流れ去っていくいくつもの灯り。それらと一緒に、いくつもの思いが理宇の頭を過ぎっては流れ去っていった。
 ――東大行けるで。
 郁代の言葉が脳内で再生された瞬間、反射的にお母さん、と運転席に声をかけていた。律子がバックミラーに一瞬視線をやって「何?」と尋ねる。理宇は逡巡し、すぐには言葉を続けることができなかった。少しの間が空き、律子が怪訝そうな声でもう一度尋ねる。バックミラーに映る四つの目。まだ心の準備は全然整っていなかったけれど、律子の反応を見てみたくて「あのさ」と切り出してみる。
「理宇、東大目指してみよかな」
 鏡の中で目が合った。鏡に映る顔は共に無表情。運転中なので律子の視線はすぐに逸れたが、理宇は母の目の変化を見逃すまいとじっと見守っていた。
「目指してみる?」
 何気ない調子で尋ねられ、不意を突かれつつも肯定する。そうか、と律子が微笑した。
「じゃ、頑張って東大目指してー」
 のほほんとした声で言って、律子が頷く。なんとも暢気なその反応に、理宇は一気に脱力した。
 あれ? それだけ?
 戸惑った言葉が開いた口から飛び出しそうになるのを、ぐっと堪える。律子はそれ以上言うことがないらしく、もう運転に専念している。
「えっと……」
 え、ほんとにそれだけ? 他に何か言うことないのん? 
 釈然としない気持ちで口を開閉するが、まだ何かあるの? とでも言いたげな律子の様子を鏡の中に認めてしまうと、言葉なんて出てこない。郁代の前で、理宇には東大なんて無理無理と笑っていたのはどこの誰だったのか。驚く素振りすら見せないとは予想していなかった。
「いや……頑張るわ」
 色々と言いたいことはあったけれど、理宇の口から出てきたのはたったそれだけ。
「うん、頑張って」
 返ってきた言葉もたったそれだけ。理宇はすっかり脱力してしまい、はあ、と深く息を吐きながらずるずるとだらしなく座席に背をもたせかけた。
こうして理宇の志望校は、その場の流れでなんとなく東京大学に変わってしまった。


 志望校を東京大学に変更する旨を伝えると、担任の田原も、律子に負けず劣らず「そうか、それはええことや。頑張り」と暢気な反応を見せた。
 その後で刈谷に話せば「わー、そしたらわたしと一緒やん。二人とも合格しよなー」と笑顔が返ってきたので、母親と担任の気楽な反応に、どうして全然止められなかったのかと内心首を捻っていた理宇は、俄然やる気が湧いてきた。大好きな刈谷と一緒の大学に行くことができたら、それはとても素敵なことだ。おかげで少しは覚悟を決めることができた。
 目標を東京大学に設定してから、当然のことながら理宇は更に勉強に打ち込まなくてはならなくなった。
 娯楽が作詩しかないだの、一日中勉強していると頭がパンクするだのと不平不満を言っている場合ではない。勉強が嫌で嫌で仕方ないのは変わらなくても、日本一の大学を目指すことは、妙にプライドの高い理宇にとっては結局のところ魅力的な話だったのだ。
 そしてこの頃から理宇は世界史が面白くなってきた。大好きな漫画や小説を読むことができない今、世界史の教科書や用語集がそれらの代わりになった。
 東京大学の過去問を見て世界史は論述問題が勝負だと悟ると、それから毎日教科書と用語集を最低五十ページずつ読むようになった。最後まで読んでしまうとまた最初のページから読み返し、それを何度も何度も繰り返す。要所要所にマーカーは引いていたけれど、一文字残らず食い入るように読み込んだので、強調線はあまり意味がなかった。
 毎日毎日教科書と用語集を読み込んでいるうちに、理宇の中で世界史に対する愛着が湧いてきた。特にいつでも持ち歩く用語集は理宇にとって相棒のような存在になった。
 娯楽が恋しくなると、その日のノルマを達成していても用語集を眺めた。極限まで蓄積されたストレスが爆発しそうになった時は、用語集を床や壁に思い切り投げつけては泣き喚いた。
 そんなことをしていたから、冬休みに入る頃には、何の罪もない小さな本は、すっかりボロボロになってしまっていた。読み込んだせいでページも細かく分割されてしまって、気をつけて開かないとばらばらと崩れ落ちるようになり、もはや本の体裁をなしていなかった。しかしそのような用語集の悲惨な有様が、かえって理宇の心を慰めた。自分の葛藤や苦しみや努力が全てそこに集約されているのだと思うと、疲労と倦怠に挫けそうになる度持ち直すことができた。

 ――世界史が面白いって、そうやって自分を騙してるだけじゃねーの?
 自分の部屋で勉強していると、魔がちょっかいをかけてくる。
 ――本当は小説や漫画を読みたいし、ゲームだってしたい。でもできない。だから、世界史は小説みたいなもんだって「本好き」の自分に言い聞かせて、楽しいって嘘ついてんだろ?
 理宇は軽く首を横に振って、苛立ちの滲んだため息をついた。意味がないと分かっていても、両手で耳を塞ぐ。黙れ、と念じるが、理宇の背後から教科書を覗きこんでいるらしい魔は一向に気にした様子もなく、軋んだ笑い声を立てている。
 ――素直になれば。世界史なんて大嫌いだって。勉強なんて心底やりたくないって。勉強やらなくても、死にはしないんだから。
「うるさい、消えろ」
 ――あ……もしかして、あれか? 世界史好きだって自分に嘘ついてまで夢中になってやるのは、好きなことやりたいことを全部禁止されてしまったせいで極限状態に陥って、精神状態がおかしくなりつつあるってゆーアピール? 変なやつ!
「違う! どっか行け!」
 振り向いて睨みつけても、魔はにたにた笑いながらその場にとどまっている。
 ――悲劇のヒロインぶってる理宇、笑えるぅ。おまえの苦しみなんて、たかが知れてるっつーの! 世の中もっと苦しい状況にある奴が星の数程いるってのに。
 かっとなって、理宇は机の上に置いてあったスプレーを引っつかんだ。黒いボトルの中には、魔が苦手とする特性の液剤が入っている。いざ噴きかけようとしたところで、しつこかった相手が怖い怖いとおどけつつ身を翻した。
 ――ほんっとおまえの人生って、勉強と霊界だけだよな。その他の苦労なんて大して知らない、温室育ちのオジョウサン。
 シュッとスプレーを噴くと、魔の姿が薄れていく。しかしこれは一時的なものと分かっているから、理宇は苦虫を噛み潰したような表情で睨み続けているし、魔は余裕の笑みを浮かべて、透明になっていく手を振ってさえみせる。
 ――小さな自分の世界に生きて、自分のことで苦しい苦しいって言えるんだから、ほんと幸せなこった。
 腹立ち紛れに投げつけた用語集は壁に当たって分解し、ばらばらと床に落ちた。

 ある日のこと。ヒーリングの前に確認、と断って、郁代が一つの瓶を理宇に手渡した。掌の中に収まるくらいの小瓶。軽く振ってみると、紫色の液体が中でゆったりと波打った。両手の指先で持ったそれと郁代とを、理宇は戸惑ったように交互に見やる。
「理宇ちゃん、その瓶横にして、片目ずつ覗き込んでみて」
 見ない方の目は瞑ってと付け加える郁代に、理宇はぎこちなく頷き、言われた通りにする。まずは右目を閉じて左目で覗く。
「何か見える?」
 尋ねられて理宇は目を凝らしてみた。瓶越しに見る室内が紫色に染まっている――ただそれだけだ。首を横に振る。
「そしたら、次は右目な。同じようにして」
 促されるまま、理宇は素直に瓶を右目で覗き込んだ。その瞬間、はっと息を呑む。郁代の眉間に少し皺が寄った。
「何が見えた?」
 理宇は目を数度瞬き、ちょっと郁代に視線をやって、また目を見開いて小瓶を覗き込んだ。
「動物いる。これ、多分……」
「狸やろ」
 カラカラと水晶が回る音を耳にしながら、理宇は真剣な顔で頷いた。瓶を顔から離し、持ち主に返す。
「おばちゃん。何なん、これ? なんで瓶の中に狸おんの?」
「瓶の中におんのと違うよ。理宇ちゃんの右目ん中におるんや、その狸」
「理宇の右目? 何で? いつから?」
 ぎょっとしたように声を上げる。ほぼ反射的に、右目の瞼を指先で軽く押さえた。小学六年生の時、魔に身体を乗っ取られた記憶が蘇る。あの時のことを思い出すと、今でも寒気がする。
 ぶるりと身体を震わせながら、理宇は右目に意識を集中させた。また自分の体内に魔がいたなんて。違和感などなかったから、全然気づかなかった。嫌だ、恐ろしい――。
 狼狽する理宇の前で、郁代は冷静な顔つきで回転し続ける水晶の軌道を見つめていた。理宇の質問に対する答えを得るため、水晶と対話しているのだ。
「高校生の時、じゃない。中学生……も違う。入ったんは小学生の頃か。具体的には――六年生、五年生、四年生――」
 半時計回りを続ける水晶の動きがぶれたのは、郁代が二年生と言った時。念のため一年生と口にして回転を見てから、再度二年生なんですかと訊くと、水晶が大きく時計回りに回り出した。
「狸に憑かれたの、小学二年生の時みたいやで、理宇ちゃん」
「二年生……」
「その頃何かあった?」
 理宇は眉を顰め、小首を傾げてうーんと唸る。近頃勉強ばかりで同じような毎日を過ごしていたせいか、時の流れが速く感じる。小学生時代のことが遥か遠い昔のようだ。その頃の記憶の大部分が靄がかっていて、簡単には思い出せない。
 二年生。狸に憑かれるようなこと。特別な出来事などあったろうか。
 二年生の頃はまだ、理宇も自分の体質にはっきりと気づいてはいなかったから、こういう世界のことはそれ程意識していなかった。だからあまり記憶に残っていないのだろうが、しかし狸がわざわざ身体にとり憑くなど、妙なことに手出しせず普通に生きてさえいれば、そうあることではない。きっと自分が何かしたのだろう――と無意識のうちに右目の瞼を指先で撫でながら考え込んでいると、ふと一つの情景が思い浮かんできた。
 右目に痛みを覚えた時があった。あれは確か、公園での出来事。小夜がいて――。
 あっと声を上げた。
「そうや、こっくりさん! やったんや、二年生の時」
 郁代が顔をしかめて頷いた。水晶がまた激しく回る。
「それやな。……理宇ちゃん、こっくりさんなんてやってたんか」
 咎めるような声音に、理宇はバツの悪い顔をする。
「でも理宇はやってへんよ。友だちがやってるのを、傍で見てただけ」
「実際やった訳じゃなくても、その場にいたんやろ。それだけでもうアウトや。その時呼び出した狸が、元いたとこに帰れんと理宇ちゃんの中に入り込んだんやな。迷子の狸や」
「実際やった子じゃなくて、理宇んとこ来たん?」
 釈然としない気持ちで言えば、そうみたいやなと答えが返ってくる。
「だって理宇ちゃんは霊感強いもん。普通の人よりあちら側に近い分、魔や霊かて憑きやすいんや」
 そんなぁと呻く理宇に、郁代はため息をついた。
「だから理宇ちゃんは余計気つけなあかんて、いつも言ってるやろ。こっくりさんなんてするから、狸に憑かれることなるんや」
「そういえば……こっくりさんて、狸なん? てっきり狐かと思てた」
 狐狗狸という文字を頭の中に思い浮かべながら、湧いた疑問を口にする。特に根拠もなく、先頭に来るものが一番登場頻度が高いのだとばかり思っていた。
「狐もたまに出るけど、もっぱら狸みたいやで、あれ。狐さんはお稲荷さんの神社らへんに多いな」
 へぇ知らなかった、と暢気な声を出す理宇。すると郁代が半眼で呆れた視線を送ってくる。
「理宇ちゃん……自分がこっくりさんした場にいたこと、それ程大したことと思てないみたいやけどな。理宇ちゃんが今みたいに魔とかたくさん見えるようになったん、右目の狸のせいやで」
「えっ!?」
 予想だにしなかった言葉に、椅子から飛び上がらんばかりに驚く。自分は元々見える体質だったから、これまで魔たちに悩まされてきた訳ではないのか。
「生まれてきてから四歳頃までは、誰にでも霊とか見えてるんやで、実は。やけど地上で生きるうちに、多くの人は霊界のことを忘れてしまう。理宇ちゃんは、今の時代ではまだ少数派の、忘れてない人間――霊感の強い人間やった。でも多分感じたり聞こえたりするだけで、見えてはなかったんとちゃうか? 今見えてるんも多分、狸が入ったせいで霊界と繋がった右目を通して見てるんや。……もしかすると、聞こえるのも狸に触発されたんかもな」
「……そうなん?」
 ぽかんと開いた口が塞がらない。意識して力を使うまでもなく、郁代の言葉が正しいことが理宇には分かる。
今まで見えてきたのは、目に入った狸の影響。それを知った理宇の胸の内では、ほっとしたような、ショックを受けたような、なんとも言い難い複雑な気持ちが混ざり合っている。間接的には自分の体質のせいであっても、あの時こっくりさんをしていなければ、魔など見なくて済んだかもしれない。そう思う反面、むしろ見えるようになったからこそ、大切なことをこの歳で色々と知ることができたのだとも思う。
 そんなまとまりのない思考を頭の中で追い回しながら、そうだったのか、と理宇は口の中で繰り返し小さく呟いた。他に言うべきことが思いつかない。なんだか肩透かしを食ったような気になったのは確かだ。
「第三の目開いてないのに、理宇ちゃんは何で見えてるんやろうって、おばちゃんずっと不思議やったんや。普通見える人は、額にある第三の目が開いてて、そこで見てるから」
 郁代の手が、理宇の額にそっと触れる。その仕草で、第三の目というものがその辺りにあるのだろうと知れた。
「理宇ちゃんって昔は陽気でおしゃべりで、パワフルでしっかりした子やったのに。なんで突然、今みたいに大人しくて引っ込み思案な子に変わってしまったんやろうって、おばちゃんずっと不思議やったけど」
「理宇、自分は最初からこんなんやと思てたけど」
「違う違う。昔と全然違う子になってもてるで。前は一時も黙ってられんくて、誰かれ構わず、ずーっと喋ってるような子やったもん」
 郁代から語られるかつての自分の姿は、今の理宇にとってはまるで別人のことのように聞こえた。人と話すのが苦手で、そもそも多くの人間が苦手で、いつもびくびくして俯いて勉強ばかりしている自分しか知らないのだから。郁代だけではなく、律子もよく「あんたは変わった」と理宇に言っていたが、変わる前の自分は周囲からそのように受け止められる子どもだったのだ。どう考えてもよくない方向に変わってしまったのが、両親に対して申し訳ない。
「今思えば、変わったのは丁度小学二、三年生くらいの時やった。狸に憑かれたから、人格まで変わってもてたんやな」
「そう、なんやね」
「……でもな、理宇ちゃん。ひとつ言うとくけど」
 俯き加減になった理宇に、郁代が真剣な声を出した。
「確かに理宇ちゃんが変わった直接の原因は、その狸に憑かれたことや。でもな、だからって狸のせいにしてばっかりやったらあかんで。元はといえば、理宇ちゃんがこっくりさんなんかしたから――そんで理宇ちゃんが弱かったから、憑かれることになったんや」
「……うん」
「前に因果応報の話したと思うけどな。自分の身の上に起こることの原因を求め出したら結局、何事も自分に行き着くんやで」
 手の甲で目の辺りを擦って、はい、と理宇は神妙に頷く。安易に狸に責任を押し付けようとしていた自分の心を見透かされたようで、恥ずかしかった。
「ただそれはこういう見えない世界のレベルの話になるから、世間の人の多くは知らんし、たとえ知っても認められんことの方が多いと思う。でも理宇ちゃんは幸せなことに、こういうことをちゃんと知ってるんやから。知ってて、何かある度他の人や事に原因なすりつけんのは、なにより自分のためによくないで」
「うん……分かってる」
 涙声で返事をすると、郁代がテーブルの上にあったボックスティッシュを差し出した。くぐもった声で礼を言って、一枚抜き取って目元を押さえる。
 どうして自分はこう、すぐに泣いてしまうのだろう。ぐずぐずと鼻をすすりながら、理宇は自己嫌悪に陥る。どうして自分はこんなにも弱くて、「甘ちゃん」なんだろう。郁代の言う通りだ。結局は全部自分のせいなのに。何かのせいにした方が楽だから、魔に悩まされてきたことも、人が怖くて人見知りするようになったことも、全部狸に責任を押しつけてしまうところだった。それは逃げだ。
 自分で自分が情けなくて、両親や郁代、そしてなにより自分を守ってくれている神様やご先祖様に対して本当に申し訳なくて、涙が後から後から溢れてきた。
「ごめんな理宇ちゃん。きついこと言って」
 つらそうな声が聞こえてきて、理宇は驚いて首を横に振った。涙で滲んだ目に、すまなさそうな表情を浮かべる郁代が見えた。分かってるよ、と言いたかったけれど、口を開けば嗚咽が出てきそうで、言えなかった。
「でもな、これ水晶が言うてるんや。いつまでも理宇ちゃん甘やかす訳にいかんから、本当のこと言わなあかんて」
 分かってると理宇は何度も頷く。それに郁代はちっともきついことを言ってはいない。代弁者として、ただ事実を述べただけだ。郁代は理宇に優しい。本当は、水晶はもっと厳しい言葉を用意していたはずだ。これでも郁代は、大分オブラートに包んで話してくれたのだと理宇には分かっている。
 何だかんだ言って、両親も郁代も勉強以外のことでは理宇に甘い。魔が理宇を揶揄したあの表現は的を射ていた。
 温室育ちのオジョウサン――悔しいが、その通りだ。
 せめて一言きちんと口にするために、理宇は顔にぐっと力を込め、笑みを浮かべようと努めた。今は、泣き笑いのような形が精一杯であったけれど。
「おばちゃん、ありがとう」
 いつも助けてくれて。大切に想ってくれて。忙しいのに、貴重な時間を理宇のためにとってくれて。大事なことを、教えてくれて。
 色んなことに対する感謝の気持ちはあまりにも大きくて、その短い一言に収まるものではない。それでも、言わずにはいられない。ありがとう、ありがとう。何度言っても全然足りない。生きている間ずっと言い続けることになるのだろうと、理宇は密かに確信している。
 ようやく郁代が微笑を浮かべた。
「おばちゃんも理宇ちゃんに大分助けられてるんよ。理宇ちゃんのおかげで、成長できる。おばちゃんの方こそ、ありがとう」
 狸さんに元いた場所に帰ってもらえるよう、浄化とヒーリングしよか。
 いつものように優しい郁代の声。理宇はまだまだ泣き止みそうになかったが、深く頷いた。

 三年生になると、元々長かった授業時間が更に伸びた。
 一時間目から六時間目の通常授業に加え、午前八時十五分から始まる零時間目と、午後六時から始まる七時間目が始まった。
 零時間目では主にセンター試験の過去問を解く。毎日三十分の間に、数学、国語、英語いずれかの過去問を自分で解いて答え合わせをする、大学受験を控えた生徒全員のための時間だった。
 一方七時間目は、偏差値の高い大学を志望する生徒のために特別に設けられた時間だった。文系は社会から、理系は理科から一科目を選び、東京大学、京都大学、大阪大学や神戸大学の過去問を中心に勉強した。希望すれば誰でも受けることができたけれど、基本的にはそれらの高偏差値大学を志望する生徒たちがこぞって受講した。
 東京大学を志望することになった理宇は、毎日午前八時十五分から午後七時まで学校で授業を受け、放課後は塾で講義を受けたり、自習をしたりした。
 平日はいつも、帰宅するのは午後十一時頃。それから夕食を食べてお風呂に入り、部屋で勉強をして、深夜二、三時頃に寝る。朝は六時前には起きて半までには家を出、混んでいる電車の中で立ちながら参考書を読み耽り、途中で真奈と合流して一緒に学校に登校した。放課後刈谷と帰る時も、互いに手元に広げた参考書を黙って睨んでいた。
勉強から離れられるのは、朝真奈と合流してから登校する時間に、十分の休憩時間と四十五分の昼休み、それから放課後の掃除時間と、食事、入浴、睡眠時間だけ。勉強が本当に嫌いな気持ちは変わらなかったけれど、毎日あまりに疲弊していて、頻繁に泣き喚いたり魔に怒鳴ったりする気力や体力は流石になくなっていた。
 理宇は慢性的な寝不足で、いつもふらふらしていた。
 授業中も居眠りが多く、厳しい教師に見つかっては、顔を洗いに行かされたり授業中立たされたりもした。
 理宇自身、すっかり身についてしまった居眠り癖を何とかしたいとは思いつつ、こればかりはどうしようもなかった。
 授業中にこっそり問題集を解いていれば何とか眠らずには済んだが、そういった内職も、教師に見つかればこってり絞られる。三年生になってから、朝食を食べながら眠ったり、満員電車の中でつり革も持たずに立ちながら眠っていて、取り落とした参考書が落ちる音で目覚めたりといったことも増えた。
 そもそも理宇は元来ロングスリーパーだと自負するくらいには長時間の睡眠を要する体質だったから、平均四時間という睡眠時間では身体がもつはずもなかった。そのうち理宇は、親しくなった数人のクラスメイトたちから「居眠り天野」という、ありがたくもないあだ名を頂戴する羽目になった。また理宇は大勢の生徒よりも一部の教師と仲が良かったので、数学を担当していた田原などは、授業後半になっても理宇が起きてノートをとっているのを見ると「どうした天野。おまえが起きてるなんて、珍しいな」とからかうようにまでなった。

 ひたすら勉強ばかりの毎日。
 昨日も今日も明日も、たいして変わらない内容の一日。
 時折理宇は、魔法か何かで切り取られた同じ一日を、延々と繰り返しているような錯覚に囚われることがある。あれ、昨日もこんな会話があったような――と内心で小首を傾げることが度々あったから、一日がループしているという感じは、なおさら簡単には消え去ってくれない。そのうち、疲れ切った身体をベッドに横たえて目を閉じる時に、明日こそ今日と何か違うことが、できれば楽しいことがあればいいなと願うことが習慣になった。その「何か」は、当然勉強とは全く関係のない物事であって欲しいと考えながら。
 三年生の秋頃には、理宇はただ与えられたタスクをこなすように、毎日を機械的に、無感動に生きるようになっていた。
 そんな娘を見かねたのか、ある日曜日に理宇がたまたま家で勉強していると、司がノックもなしに部屋に入ってきて、気分転換に映画を観にいこうと言う。司の口から出たタイトルは、先週公開されたばかりの話題の洋画だった。
 映画館やカラオケボックスなど人の集まる閉じきった空間には、開けた空間以上に浮遊霊や魔がわんさかいることを思うと、既に大事な時期に入っている受験生としては、万が一を避けるためにも迂闊なことはしたくない。しかし一人の子どもとしては、娯楽もなくただ大嫌いな勉強だけに打ち込む苦しい日々から逃れたいのは山々で、映画鑑賞のような気分転換に心が惹かれてしまうのは無理もないことだった。
 理宇は眉間に皺を寄せて息苦しそうに呼吸をしながら、弱弱しく首を横に振った。
「行きたいけど、でも理宇は映画禁止されてるから」
 ぐらぐらと誘惑に負けそうになりつつも、なんとか言葉を搾り出す。その一言は、司に対する断り文句以上に、自分自身に言い聞かせるものであった。というのも、この大事な時期、映画館へ行くことが危険であるだけでなく、映画そのものが弱っている理宇にとっては、魔に憑く機会を与えてしまう危険物であったから。
 そういう事情があるから、映画も極力避けるようにと郁代から常々言われていた理宇は、こうして父親から誘ってもらえても尻込みしてしまう。しかし律子と違って司は、娘の体質含めてそういう世界の話に疎い。
「ぽん吉ずっと勉強してて偉いから、たまにはええやん。気分転換」
 娘の内心の葛藤など知る由もなく、司は司なりの思いやりから優しい言葉をかけてくれる。理宇の心がますますぐらつく。それから上辺だけの断り文句を二、三並べるが、結局父に誘われるままに、椅子から腰を上げることになった。
 そして結局、倒れることになった。

 上映時間三時間という大作を両親と共に鑑賞していると、半ばを過ぎた辺りから、理宇は身体の調子がおかしいことに気づいた。
 胸の中に何か異物が埋められたような重苦しさと痛みがあり、額が熱い。息をするのが苦しく、肩もまた重くて全身がだるかった。時間が経つにつれ症状がどんどん酷くなっていき、座っていることすらつらくなっていく。両親が真剣に観ているし、自分も最後まで観たかったので何とか気力で持ち堪えていたが、正直なところ終盤ではもう映画どころではなかった。
 エンドロールが終わるのをもどかしく待ち、場内が明るくなった途端、両親に身体の不調を訴える。司は映画の後に夕食を外で食べようと言っていたのだが、理宇はこれ以上外の空気に耐えられそうになかった。
 顔色の悪さを見てとって、律子はすぐに原因を悟ったらしい。残念がる司を急き立てて映画館を出、理宇を支えつつ駐車場に停めてあった車まで急ぎ足で歩く。なんとか家に帰りついた途端、力尽きて理宇は倒れた。入浴もせずベッドで寝込み、何度か吐いた。翌日になっても体調が戻らず、学校と塾は休むことになった。あまりにもつらくて仕方がないので、理宇は電話で郁代に助けを求めた。
『だから映画はやめときって言ったのに』
 こんな大事な時期に、と心配から声を荒げる郁代に、ごめんなさいと息も絶え絶えに謝る。
『……どんな映画やったん?』
「えっと、ミステリーで……」
 内容を思い返しながら説明しようとした理宇を、郁代が「ちょっと!」と遮った。
『ミステリーいうたら人死ぬんちゃうん? そんなん余計あかんのに!』
 ミステリーと分類される作品に人の死ぬ要素が必ず含まれるとは言えないが、そんなことを説明している余裕は今の理宇にはない。それに今回理宇が観た映画では、その要素が十二分にあったことは確かだ。
「で、でも……ファンタジー要素は、なかったから。悪魔とか魔法とか出てきてないし」
 ファンタジーもの――とりわけ悪魔や魔法や死神といった「魔界属性のもの」が登場する物語だけは、何が何でも絶対に避けなくてはならないという言いつけは、きちんと守っている。今回の映画だって、ファンタジーでなかったから観にいったのだ。ただミステリーも同じように自分にとって危険なのだとは、こういう目に合うまでは自覚していなかったけれど。弱っている時期は特に。
『……とにかく、少なくとも受験終わるまでは、映画も絶対あかんで』
「はい……」
 それで内容はと再度聞かれ、理宇は息切れしながら大まかなあらすじを語った。郁代は最後まで静かに聞いていた。話している間、カラカラという音だけが電話の向こうから聞こえていた。しかしその音だけでは、水晶がどちらの回り方をしているのかまでは、分からない。
 水晶の回る音に耳を凝らしながら理宇が説明し終わると、「なるほどな」と郁代が呟いた。
『途中で魔女狩りのシーンがあったんやな?』
「え、うん。登場人物が過去の歴史について語る場面で、一瞬だけ」
 作品内では大して大きな意味を持っていない、ほんの数秒映ったシーンを指摘されて、理宇は怪訝に思った。
『それや』
「えっ? でも、ほんとにちょっとした場面で、この映画では、囚われた女の人たちが檻に詰め込まれてるだけやったで?」
『でもそれや。理宇ちゃんの魂は過去世のひとつで、魔女狩りの犠牲になったことあるやろ』
 言われて、以前自分が初めて書いた小説のことを理宇は思い出す。あの時、頻繁に見たイメージの中に現れた少女。冷たい水の中に落とされたりして調べられた後、燃え盛る火の中で泣き喚いていた彼女。その子の生が、今の理宇と郁代とをこのような形で結びつけたのだと、確かそういう話だった。
『その過去世の子は、そんだけ苦しい死に方したから仕方ないんやろうけど、未だに成仏してへん。理宇ちゃんが一瞬魔女狩りの映像見たせいで、生きてた頃の自分の苦しみが蘇って、それが同じ魂の持ち主である理宇ちゃんにまで直に伝わってもたんや。理宇ちゃんは敏感やから。その子が成仏さえしとったら、影響受けんかったやろうけど』
「そうやったんや」
 あんな一瞬の場面で、と思ってしまった先程の自分にため息が出た。平和な日本で両親や親戚たちに甘やかされて、安穏と暮している理宇には想像もつかない程苦しくてつらい人生を、過去世の女の子は送ったのだ。たとえこの世で何百年もの時が経とうとも、時の流れないあの世の存在となった彼女の苦痛や悲嘆は、簡単に浄化されるものではない。
「清く正しく生きるよう努め、生きている間にできる限り善行を行いな」という郁代の言葉が思い出されるのはこういう時だ。
苦しい悲しいと思いながら死んだり、死んだ時点で積んだ徳よりも罪の方が大きかったりすると、過去世の子のように半永久的に苦しみ続けることになる。それだけではなく、果ては自分の子孫や、生まれ変わった自分自身の魂にさえその苦しみは影響を及ぼすことにまでなってしまう。因果応報は、あの世もこの世も関係なく通用してしまう、宇宙の理なのだ。
『理宇ちゃんが長いこと勉強で苦しむんも、好きなことを自由にできなくてつらく思うんも、心の奥で人間を嫌うことになるんも……そういうのは全部、因果応報のせい――苦しかったいくつかの過去世の続きを生きてるからや』
 そう、と何気なく答えかけたところで違和感を覚え、一瞬考えた後違和感の正体に気づいた理宇は慌てて口を閉じた。
 今、郁代が口にしたフレーズ。人間を嫌うことになる――そのことについて理宇は誰にも言っていなかった。郁代があまりにもさらりと口にするものだから、危うく聞き流してしまうところだったが、本来ならば彼女がそのことについて知っているはずはない。しかし彼女は「知って」いた。
 理宇には既に分かり切っていたことだけれど、水晶には嘘も隠し事も通用しない。最初から郁代に素直に話しておくべきだったと改めて痛感する。見えない世界の存在は、全てを見通してしまうのだから。神や精霊といった存在は理宇のことも当然全てお見通しで、水晶を通して必要な情報や知識だけを郁代に与える。つまり理宇が人間を嫌っていることを郁代は知っておくべきだと、彼らは判断したということだ。直接言わなくてもこうして後々全知全能の存在から伝えられてしまうのだから、隠していても何もならなかった。
『もっと前に言ってくれたらよかったのに』
 案の定、郁代が不機嫌そうに言った。明言しなくても、彼女の言葉が「人間嫌い」のことを指しているのは分かる。
『そしたら、もっと早く対処できた。それは理宇ちゃん自身の気持ちやなくて、過去世が影響している問題やから』
「……ごめんなさい」
 しょんぼりとした声で謝ると、郁代の声が再び優しくなった。
『まあ、過ぎたことは言うてもしょうがない。大事なんはこれからやからね。とにかく、映画の影響をなんとかして、理宇ちゃんにはよ元気になってもらわんと』
 そう言って郁代は笑った。過去をあまり引きずらない彼女は、いつでも現在を見据えて行動している。そんな大叔母の姿が、理宇には眩しい。

10

 とうとう本番の季節がやってきた。
 最初に乗り越えるべきセンター試験。これについては、理宇は正直なところあまり心配していなかった。センター試験の問題ならば自信があった。なにせ、学校の授業でも自習でも、毎日毎日これでもかというくらい過去問を解いてきたのだ。傾向は把握しているし、選択問題なので最悪の場合分からない部分は山勘でもなんとかなるかと思っていた。ミスさえしなければ大丈夫だと。
 途中ガラス製の鉛筆削りを落として割ったことと、体調を崩した刈谷に付き添って医務室まで行ったこと以外は特に大した出来事もミスもなく、二日間のセンター試験は無事に終わった。
 お気に入りのインク瓶型の鉛筆削りを損なってしまったことは、理宇にとっては結構ショックなことだった。おまけに試験の最中に「落として割る」ということ自体がなんだか不吉だ。だが不安な気持ちは、よくない物事を引き寄せる。以前は嫌なことがあるから嫌な気分になるのだと理宇も思い込んでいたけれど、本当は嫌な気分が先にあるから嫌な出来事が起こってしまうのだと、今では理宇も理解していた。だから敢えて平気だと自分に言い聞かせ、強いて明るい気分を作った。気分が出来事を引き寄せるのだから、前向きでいれば絶対に上手くいくはずだと強く信じて。
 試験翌日、新聞に発表されたセンター試験の解答を見ながら自己採点をする。全ての科目を採点し終えた理宇は、「どうだった?」と尋ねる両親に満面の笑顔を向けた。なんと数学ⅠAと倫理は満点。他の科目も、物理以外は全部一、二個ミスがあるだけで九割以上の点数を取っていたのだ。苦手科目であった物理だけは八十点代であったけれども、それでも総合点はぎりぎり九割を超えていた。元々センター試験とは相性がいいと理宇は思っていたけれど、それにしても最高の気分だった。このまま行けば二次試験も上手くいくに違いない、と理宇は確信した。
 郁代にセンター試験の点数を伝えると、彼女は「すごいすごい」と歓声を上げ、まるで自分のことのようにはしゃいだ。
「理宇ちゃん」
 少しの間黙って水晶をくるくると回していた郁代が、明るい顔で呼びかける。
「なに?」
 理宇がどこか期待に満ちた眼差しを郁代に向ければ、彼女はそこで破顔して、理宇の期待していた通りの言葉を与えてくれた。
「東京大学、合格するって! 理宇ちゃんを応援してくれてる神様たちが言ってる」
 この言葉で理宇も律子も、天にも昇るくらい嬉しくなった。嬉しい、と律子が娘の背中を叩いて喜ぶ。まだ合格発表どころか、二次試験すら受けていない段階だというのに、まるで決定事項のような会話。しかし見えない世界と日頃から積極的に意思疎通している彼女たちにとっては、それは既に決定事項に近いものだった。
 見えない世界の神や精霊たちに、この物質世界に流れているような時間はない。彼らには過去も現在も未来も区別がないから、いつも同時に全ての時のことが分かるのだ。そんな彼らの言葉が、水晶を通して理宇の合格を受け合うのだから、理宇は自分が東京大学生になることを既に現実のものとして受け入れ始めていた。
 だから二次試験も、ひどく緊張はしたけれど、それなりに落ち着いて受けることができた。大丈夫だ、自分は合格するんだ、という気持ちが理宇を平静に保ち、自信を持って試験に臨ませた。
 二次試験も終えてしまうと、理宇にはもう心配事も苦しいと思うことも何もなくなった。清々しい解放感に酔いしれた。まるで自分の背中に翼が生えているかのように身体が軽くて、こんなに身体が軽いのだから、今ならどこまでも飛んでいけそうだと痺れた頭で思う。
 とうとう大嫌いな勉強から解放される時が来た。物心ついた時から、嫌だと泣きながらずっと勉強をしてきたこの十六年。これ程素晴らしい解放感を体感できたのだから、あの泣いて苦しんだ十六年は決して無駄ではなかったと心の底から思った。
 折角東京に来たのだからと、試験の次の日は少しだけ東京見物をした。付き添いで一緒に東京に来た律子と、試験前にも挨拶をした明治神宮にお礼を言いに行き、少し渋谷を歩いて二人して人ごみに中てられ、ひいひい言いながらもう少しだけ落ち着いた新宿に行って、何もおかしいことはないのに母と娘は小さく笑い合った。
 大阪には夜行バスで帰った。帰宅してから、すぐに電話で郁代に報告をする。その時も郁代は水晶を回しながら「大丈夫。合格する」と理宇に保証してくれる。嬉しくてついにやけた顔になる理宇。ここ数年、これ程嬉しそうな顔をした娘を見たことのなかった律子は、相手に気づかれないよう気をつけながら、こっそり涙ぐんでいた。
「お母さんの血筋もお父さんの血筋も、身内誰も大学なんか行ってへんのに。うちの一族の中で理宇は初めて大学行く人間で、しかもそれが東京大学なんやから。ほんとすごいもんやなぁ!」
 感動して司と律子は話し合う。司は霊的世界のことや、理宇や郁代の力についてはいまだに半信半疑ではあったけれど、それでも娘が東京大学に合格すると言ってもらえると素直に嬉しいのだろう。信じたい気持ちが強いあまりに、半ば理宇が合格した気分で、理宇の両手を取って子どもみたいにぴょんぴょんと跳ねた。普段なら理宇は司のこうした子ども染みた行動に腹を立てるところだが、今は何年かぶりに気分が晴れやかなので、司の喜びの音頭に笑顔で付き合う。

 二次試験から帰ってきて二、三日程は、そんな風にひとしきり家族で喜び合った。
 合格発表までには三週間の時がある。理宇は特に不安に思うこともなく、のびのびとした気持ちで日々を過ごした。大嫌いな勉強をしないでいい生活というのはこれ程素晴らしいものなのかと、本当に幸せな気分だった。大学に入学してからはまた勉強が始まるのは分かっている。しかし大学では自分である程度授業が選択できるし、なにより大学での勉強は高校までのそれとはまた異なるという。自分が嫌いなのはひたすら好成績を追求する受験勉強であったから、大学での勉強を自分が嫌うことはないだろうと理宇は予感していたのだった。
 受験が終わったことで理宇の精神状態がいつになく良好になり、それまでのように郁代と毎日電話をすることはなくなった。ただ毎週土曜日のヒーリングだけは、受験後も変わらず続けてもらっていた。
「合格発表、家族三人で見に行くんか?」
 ヒーリング中に郁代がそう尋ねてきたので、理宇はこくりと頷いた。数日後には再び東京に赴くのだ。家族で話し合った結果、折角だから三人で現地に番号を見に行こうという話にまとまっていた。
 結果発表のことを思うと、理宇の胸中でひょいと不安が首をもたげる。その度に、いやいや大丈夫だ、自分はちゃんと合格しているのだと理宇は自分に言い聞かせる。そうやって自己暗示をかけていないと、たちまち不安の渦に呑み込まれてしまいそうだった。今、不安を抱いてはいけない――。
「大丈夫、やんね」
 しかしそんな考えに反し、理宇の口から零れ落ちたのは不安のありありと滲んだ言葉。心配性の理宇には、自分自身の力だけで不安を追い払うことがまだできない。郁代に一言、大丈夫だと言ってもらいたかった。水晶を時計回りに回しながら大丈夫だと、笑顔で。そうすれば自分は堂々と合格発表を見に行くことができるだろうと思った。
 ちょっと待ってねと言って、ヒーリングを中断した郁代が水晶に視線を落とす。理宇は身体の向きをずらして、郁代の表情と水晶の動きに意識を凝らす。真剣な表情で黙り込んだ郁代の手先で、水晶が時計回りと半時計回りを繰り返す。
 郁代が水晶を真剣に見つめる時間が、いつもより少し長い。ゆらゆらとしたその不安定な動作を見守りながら、理宇は内心で首を傾げる。
 自分は東京大学に合格しているのか――理宇が聞きたかったことはそれだけで、郁代もそれは理解しているはずだ。至ってシンプルなその質問を水晶にするのは、何もこれが初めてではない。今までなら、郁代は水晶の回転を数回見て、すぐに大丈夫と笑ってくれた。だが今日は――。
「もう結果出てるからかな?」
 訝しげな表情を浮かべて呟きながら、郁代が首を捻った。
「おかしいな。今までこの質問した時は、ちゃんと答えてくれたのにな。今日は水晶の答えがはっきりせえへん」
 理宇の顔がすうっと青ざめた。
「え……それって」
「あかんで理宇ちゃん。前向き前向き」
 郁代が理宇の言葉を途中で遮る。水晶を膝の上に置いて、理宇の顔を正面から見据えた。
「悪いこと考えたら、悪いことが実現する可能性が高まってまう。前向きに考えよ。今までこの質問した時は、いつも合格してるって言ってもらってたんやから。今回答えてくれへんのは多分……もう発表も近いし、直接自分の目で結果を確かめてこいってことやで」
 理宇は胸元に手をやった。動悸が速くなっている。微笑を浮かべて優しい言葉をかけてくれる郁代に何とか笑みを返すものの、心の中に巣食う不安は先程よりも大きくなっていた。
 理宇はただ、いつものように大丈夫だと言って欲しかっただけ。郁代にもそれが分かっているはずだった。だが郁代は、理宇の望みどおりの言葉を与えはしなかった。何故なら水晶がその言葉をくれなかったから。そして理宇が心底嘘を嫌っていることを、よく知っているから。だから郁代は今、理宇を安心させるために「合格しているから大丈夫」と請合うことをせず、自分が思っていること――信じたいことを、語ってくれた。
 苦しかったこの十数年間、両親と郁代がいつも自分を支えてくれたことを思い、理宇は両手をぎゅっと握り締めて笑った。
「できるだけのことはやってきたから、自信持って合格発表見に行ってくる」
 力強い理宇の視線を受けて、郁代がほっと息をついた。
「うん。おばちゃんもちゃんと祈ってるから」
 大体、事前に結果が分かってしまうのはフェアじゃない。他の多くの受験生たちには、理宇にとっての郁代のような存在はいない。程度に差はあれ、見えない世界の干渉を受けるのは、見えない人々も同じだ。なのに理宇は、普通なら現代ではまだ享受し難い恩恵を、郁代から――そして神や精霊や先祖といった存在から、たくさん受けてきた。ただでさえ十分恵まれているのに、これ以上を望むのは正しいことではない。普通の人なら、ただ現実をそのままに受け入れるのであって、それこそが本来この現実世界で生きる上で正しい在り方なのだ。
 すべきことはしてきた。あとは流れに身を任せるのみ。
 そうして腹を括った理宇は、両親と共に夜行バスで東京に赴き、どこか凶暴な顔つきで東京大学の本郷キャンパスに足を踏み入れた。
 合格者の受験番号が記載された掲示板に近づくにつれ、人が溢れていく。抱き合って喜び合っている人、感極まって泣いている人、胴上げをしている人々の間を必死の形相でかいくぐり、やがて理宇と両親は番号がはっきりと見えるところまでやって来た。その途端、周りの喧騒が一切聞こえなくなったように思った。
 数字の羅列をじっと睨み付けて、たった一つの番号を探し求める。
 数えきれない程の人数がひしめく中、自分の手の中でぐしゃりと小さな音がする。肩に律子の指が食い込んだ。理宇は拳の中でぐしゃぐしゃになった受験票を一瞥して、再度掲示板を見つめた。そこには何の感情もこもっていないただの数字たちが、整然と並んでいるだけだった。
 理宇の番号はなかった。

第四章 理宇、優雅な身分

 天国から地獄に落とされる気分というのは、こういうものなのだろうと思った。
 咄嗟に理宇の頭に浮かんできたのは、電話越しに聞いた郁代の一言。
 ――理宇ちゃん、東京大学、合格するって!
 言葉では言い表し難い感情が、ぐわっと込み上げてくる。
 東京大学からの帰り道、理宇はもちろん司も律子も、しばらく何も言わなかった。理宇は唇をかみ締めて俯き、静かに歩く。これまでの苦しかった日々が、まるで走馬灯のように脳内を駆け巡る。いつの日を思い返してみても、理宇は必ず泣きながら勉強していた。苦しくない日はなかった。
 大学の最寄り駅から電車に乗り、宿泊するホテルに向かう。合格しているつもりで来たから、ホテルは念のため三泊で予約していた。下宿先を探すために――。
 座席に三人揃って腰を降ろすや否や、人目も憚らず理宇はわっと泣き出した。

 ――裏切られた。
 これだけ勉強してきたのに。
 毎日四時間程の睡眠時間で、言われたことをきちんと聞いて、娯楽は一切禁止された状態で、起きている間はほぼずっと勉強していたのに!
 これでようやく自由になれると、信じていたのに! だから全部我慢してきたのに!
 おばちゃんは、神様は――受かるって――言ったのに!
 どうして、どうして、どうして、どうして。どうして裏切るの?
 これだけしてきて、これだけ毎日苦しんできて、それでもまだ駄目なの? まだ足りないの?
 理宇が馬鹿だから? 頭のいい遺伝子もらってないから? 神頼みばかりだから? だから落ちたの? 全部捧げても、まだ努力も覚悟も犠牲も足りなかったの?
 だから神様は理宇に受かるって嘘ついて持ち上げてから、落としたの?
 神様に嘘をつかせる程のことを、理宇はしてしまったの? 理宇の一番大嫌いな嘘で、理宇に罰を与えたの?
 もう、嫌だ――。

 とそこで軽く肩を叩かれて、理宇は我に返る。しゃくりあげながら顔を上げると、心配そうな律子の顔が、涙の膜が張った目に映る。気づけば司は既に立ち上がっており、二人から離れてドアの傍に立っていた。アナウンスが流れ、程なくして電車が止まった。ドアが開くと、司はさっさと降りてしまう。律子に支えられて理宇も慌てて電車を降りる。泊まるホテルの最寄り駅と違うことが少し気になったが、今は言葉が出てこないし、何よりもうどうでもいいような気がした。
 駅を出てしばらく歩く。数歩分先を歩く司が一体どこを目指して歩いているのか、理宇には分からない。そもそも不合格だったという事実で頭がいっぱいで、あまりにも苦しくて悲しくて、他のことは何も考えたくなかった。
 と、人通りの少ない通りで、突然立ち止まった司が理宇を振り返った。
「どうする」
 静かで感情の読み取れない声。理宇は目を瞬いて溜まっていた涙を落とし、足を止めて顔を上げた。声と同じくとても静かな表情をした司が、理宇をじっと見つめていた。
「どうする。浪人するか、それとも今から他の大学受けるか」
 理宇は下唇をぐっとかみ締める。また鼻の奥がつんと痛くなって、目頭が熱くなる。まだ少し冷たい風が吹き抜けていって身体がぶるりと震えるが、顔はひどく熱くて仕方がなかった。
 浪人するか、今から他の大学を受けるか。
 高校受験の時と同じく、滑り止めにどこかの私立大学を受験したりせず、無謀にも志望校一本に絞った理宇には後がない。大阪大学の後期試験がまだ残ってはいるが、最初から受けるつもりなどなかったし、過去問もほとんど解いていなかったので、受験する気がどうしてもしない。今理宇の進路は宙ぶらりんの状態だった。
 司の言葉を頭の中で反芻し、理宇の顔が紙をぐしゃぐしゃにしたように歪む。
「浪人したくない」
 ぼろぼろと涙の粒が頬を零れ落ちていく。またもう一年、つらい勉強だけの日々が続くのかと思うと、とてもやっていられないと思った。
「浪人だけは、絶対したくない」
 理宇はそう言い放って、まるで幼い子どものように泣きじゃくった。
 司も律子も、いつものように理宇を叱りつけて、泣くのを遮ることはしなかった。「浪人したくない」という理宇の意志を聞いた司は、理宇の予想に反して、甘えるなと怒鳴ることもせずに「そうか」とだけ答える。そしてわあわあと無様に泣き続ける娘と、娘の肩を支える律子を連れ、近くにあったインターネットカフェに入った。そうして三人が入る個室を選んで受け付けを済ませ、パソコンの前に座る。しばらく無言でキーボードを操作していたかと思うと、戸惑う理宇の名前を呼んで画面を指し示した。
「阪大の後期もまだあるけど、それ以外にも、今から受けられる大学はこんだけある」
 理宇が泣きはらした目を画面に向けると、そこにはずらりと大学の名前が並んでいる。少しスクロールしてざっと眺めてみるものの、どれも聞いたこともない大学ばかりだった。この時期なのだから当然か、と思うと同時に、何かもやもやとした想いが理宇の胸を焦がす。正体の分からない感情に首を傾げる理宇に、どうだと司が問う。
「ここからどれか選んで受けるか」
 理宇は司とパソコンの画面とを交互に見やった。
「……知らん大学、ばっかりや」
 咄嗟には問いかけに答えかねて、そんなことを呟いてしまう。
「そらそうよ、しゃあないわ。だってもう受験シーズン終わりかけの時期なんやから」
 相変わらずとても静かな声で司が答える。理宇だってそのことは充分承知している。ただ答えられなくて、しかし答えなくてはと焦って、それで適当なことを言ってしまっただけだ。
「で、どうすんのや。早よ決めんと、後がないで」
 急かされて理宇は俯く。気持ちとしては、答えは決まっている。しかしそれは単なるわがままに過ぎない。
 つい今まで自分の悲しみにばかり意識が向いていたが、ここに来てようやく、両親に対して申し訳ないという気持ちが理宇の心に芽生え始めていた。
 決して裕福ではないのに、無理をしてでも理宇を塾に通わせてくれ、参考書をいくつも買い与え、勉強させてくれた両親。自分の教育費のために両親が色々なものを我慢していることを――特に父の司が爪に火を灯すような生活をしていることを、理宇はよく知っている。
 それでも理宇のためにお金を注ぎこんできてくれたのは、嬉しかったからなのだ。高校出でそのまま就職した自分たちの娘が、決していい遺伝子をもらっている訳ではないのに、天下の東京大学を目指すとなって、とても嬉しかったからだ。
 理宇はそのことを理解していたから、なおさら頑張ろうと思ったし、つらくても悲しくても、努力してきたつもりだった。しかし東京大学には合格できなかった。見えない世界からの助言で、合格できると信じて疑ってこなかったから、他の大学なんて端から眼中になかった。それがいかに傲慢な態度であったかを、今更のように理宇は自覚した。これ以上自分の感じるままを言うのは、よくない――。
「こういう知らん大学は、受けたない」
 マウスから手を離して理宇は答えた。
「でも浪人も嫌や。また一年苦しく過ごさなあかんと思うと、耐えられん。だから理宇は……大阪大学の後期受ける」
 顔を上げて両親を見やると、二人の顔が一瞬、歪んで見えた。
「……それでええんか?」
 理宇は泣き顔に精一杯真剣な表情を浮かべて頷いた。
「本当に本当に、それでええんか? 阪大の後期受けるんやったら、試験すぐやし、ホテルもキャンセルして今日夜行で帰るで。ええんか?」
 一体司は自分になんと言ってほしくて何度も確かめるのだろうと理宇は一瞬だけ考えてしまった。しかしすぐにそうじゃないと気づく。司は、理宇が後悔することのないようにと、繰り返し尋ねてくれているのだ。事実何度も尋ねられると、理宇は決心が揺らいでしまう。本当は……と言いたくなってしまう。
 眉間に皺をぎゅっと寄せ、これ以上泣くまいと目一杯力む。涙の味のする唾と一緒に、もやもやした想いも全部呑み込んで、しっかと頷いた。
「それでいい。ごめんなさい」
 たとえそれで後悔することになっても、天国から地獄へと一気に突き落とされた今回程、苦しい想いをすることはないだろう――そう思った。

 家に帰ってすぐ、理宇は自分の部屋にこもって机に向かった。
 もう無理に開くことはないだろうと思っていた参考書たち。マーカーや注意書きで一杯のページを開いて目で文字を追う。しかし意味をきちんと読みとることができない。輪郭のぼやけた文字が、静かに顔を歪ませている理宇をあざ笑うかのようにふにゃふにゃと奇妙なダンスを踊る。
 鼻をすすりながら、机の上に常備しているボックスティッシュに手を伸ばす。毎日毎日泣いてばかりいるものだから、ティッシュの消費スピードが速すぎると律子が文句を言っていたことを思い出す。もうそんな風に怒られなくても済むと思っていたのに――と思えば思う程涙が溢れてきて仕方がない。
 ページを押さえていた手を離すと、参考書がばららっと音を立てて閉じた。階下にいる司と律子には聞こえないよう、理宇は出来る限り声を押し殺して泣く。ここでまた泣いていては、自分のために色々としてくれている両親に対して申し訳なかった。自分はただ、甘えて泣いているだけなのだから。
 そんな風に悶々と考えながら理宇が声もなく涙を流していると、一階でガラリと引き戸が開く音が聞こえる。食堂の扉の音だと理解するとほぼ同時に、たんたんと階段を上ってくる足音が響き始める。理宇ははっとして、慌てて新しいティッシュを数枚掴み取る。足音からして司だと知れた。恐らく自分の部屋に向かっているのだ。乱暴に顔を擦り、ドアが開けられるまでに少しでもまともな顔に戻そうと苦心するが――とてもそんな時間はなかった。
「理宇」
 ノックもなしに開いたドア。理宇は咄嗟に俯いて泣き顔を隠す。
「な、何」
 漏れそうになる嗚咽を堪え、落ち着きを装って端的に尋ねる。視界の端で、司が部屋に入ってきたのを確認しながら。
「……ほんまに阪大の後期受けて、受かったらそこ行くんか?」
 少し間を開けて司が尋ねた。理宇は俯いたままこくりと頷くだけに留める。口を開けば震えた声を出してしまいそうだったから。しかし理宇の努力は無駄であったらしい。
「そんな泣いてんのにか?」
 あっさりとばれていた。理宇はぎくりと身体を強張らせる。
「泣くってことは、既に後悔してんのとちゃうんか」
「これは……東大落ちて、悲しくて」
 涙に濡れた声でぼそぼそと言い訳。
嘘ではなかった。だが涙の原因はそれで全てという訳でもない。僅かに顔を上げて司の様子を窺うと、真剣な顔がこちらを睨み下ろしていたので、理宇は慌てて視線を逸らした。
「……何度でも聞くで。ほんまに大阪大学行くつもりあるんか」
 理宇の顔が歪む。胸の中で嫌な感情がじわじわと広がっていく。その感情に蓋をしようとするかのように、服の上から自分の胸元をぐっと押さえた。
「行くつもり、あるよ。でなきゃ、後期受けようなんてせえへんやろ」
 泣くまいと力みすぎたために、口から飛び出した声が低い。その上語尾が震えてしまって、我ながら情けなくなる。これでは本心ではないと訴えているようなものだ。言葉に決意が全然こもっていない。
 案の定司はその言葉を本心として受け止めなかったらしく、宣言通り何度も何度も同じ質問を繰り返した。その度理宇も、何度も何度も大阪大学を受けると、浪人はしないと返事をした。しかし司は納得せず、嵐の前の静けさを思わせる淡々とした声音で、壊れたロボットのように同じ問いを重ねてくる。理宇は答えを返す度、心をナイフで切りつけられているような痛みを感じていた。
 終いにはその不毛なやりとりに耐え切れなくなり、がたんと音を立てて立ち上がった。涙目できっと司の顔を睨みつけると、机の上に置きっぱなしにしていた参考書を乱暴に掴んで、司の前に突き出してみせ、声を荒げた。
「しつこいな! 後期受けるって言ってるやろ! だから帰ってすぐ、こうして参考書を」
 鋭い音と衝撃に、理宇の言葉は途中で遮られた。勢いで参考書が吹き飛び、身体が床に倒れ込む。じんじんと痛み出し熱を帯び始めた頬を手で押さえて睨み上げると、司がもう一度理宇の頬をきつく張った。
「いつまでも甘えてんな。冷静に考えろって言ってんや」
 理宇の目に、みるみるうちに涙が溜まる。
「でも」
 司がさっと右手を上げて、理宇は息を呑んだ。
「もう一度叩いてやろか」
 その低い声を聞いて、床に座りこんだまま青ざめる。業を煮やして、とうとう司がキレていた。一発ずつ鋭い平手打ちを喰らった両の頬がひどく熱を帯びて痛い。これ以上叩かれるのが嫌で、理宇はふるふると必死に首を横に振った。父と娘はしばらく互いに見つめ合い――やがて司が深くため息をついて、手を下ろした。
「……で、ほんまはどうしたいんや。これから」
 再び司の声が静けさを取り戻す。それを感じ取って安堵した瞬間、理宇の頭が完全に冷えた。
 司は理宇の本心をうっすらと感じ取って、それを引き出そうとしてくれている。
 自分の家庭が経済的に余裕のある状態ではないことを、理宇はよく知っている。数ヶ月前に律子から見せられた給料明細は、律子のパート代を併せても贅沢をしないで生きていくのがやっと。それなのに理宇の将来のためだからと、教育費を惜しむことはしなかった。自分たちの老後の貯金は惜しんで、全て理宇のために。今だってそうだ。司がこれ程しつこく尋ねてくるのは、理宇が本当はどう思っているかを悟っているから――。
「本当は、嫌やよ」
 ぼろぼろと涙を零して理宇は叫んだ。
「東大目指して勉強してきたんや。もう受かってるつもりでおったんや。今更阪大なんて、考えられん……考えられる訳ない」
 でも。
 しゃくり上げつつ更に続けようとした言葉は、司に遮られる。
「金のことは気にせんでええ。浪人したいなら、したらええんや」
「……一年余計に学費かけてまで、大嫌いな勉強なんてしたない。諦めて阪大受けるって決めたし、落ちたときは働くってつもりで、もうおる」
 半ばやけくそになって叫んだ。なんて甘えた、世間知らずな発言だろうと自分でも思いながら。東大を受験した今となっては、高卒で社会に出るなんて本当はプライドが許さないと分かっているのに。
「おまえみたいな甘っちょろいやつが、今の状態で働くなんてできる訳ない」
 駄々をこねているに過ぎない理宇を、司が正論で一蹴する。
「学歴は一生もんや。ここで楽な方に逃げて一生後悔すんのと、もう一年頑張って挑戦してみんのとどっちがええか、冷静になって考えてみろ」
 司の言うことは正しい。今選ぼうとしている道が逃げ道に他ならないことは、誰よりも理宇自身がよく知っている。目の前の苦痛が嫌だといって、仮初の安寧に逃げようとしているだけだ。その道を選んで進んでしまえば、きっと自分は生涯後悔し続けるのだろうと簡単に予想がつく。それなのに、躊躇っていた。それ程に理宇の精神状態はどん底の状態に堕ち、疲弊し切っていたのだ。
「おまえは逃げとるだけやろ。今度は絶対に合格するって言うてみろや。東大やったらお父さん、一年浪人するくらいの金は出しちゃる」
 その一言を聞いて、理宇は一瞬泣くことを忘れた。
 ――裏切られた。
 合格発表の結果を知った時、一番最初に浮かんだ言葉がそれだった。頭では違うと分かっていても、見えない世界に、神様にまで裏切られたとあの時心では思ってしまったのだ。しかしそれが間違いだということを、今理宇は心でも感じとった。
 神や見えない世界が理宇を裏切ったのではない。理宇が彼らを裏切っていたのだ。
 僅かな経験を経ただけで、人間はすぐに他者を裏切ると勝手に見切りをつけ、それを理由に見えない世界にどっぷりと依存してきた。一部を除いて人間を信じていなかったから、誰といても孤独だった。独りの寂しさや苦しさを誤魔化すために、見えない世界を利用していたのだ。
自分は、見える世界――物質世界の生き物なのに。この世に生きながら、意識はいつでもあの世の方を向いていた。
 理宇はようやく心で理解した。自分はずっと、現実から逃げ続けていたのだと。
 合格すると言われて実際に不合格だったのは、自分が招いた結果に過ぎない。自身の内に広がる闇を誤魔化すため過度にあの世に依存していた理宇に、この世をちゃんと見るようにと、あの世の存在が荒療治を施してくれたのだ。現実で大きな衝撃を与えることで、現在の生身の身体に理宇の意識を強制的に引き戻したのだ。
 そこまで理解して、理宇は一度唇をぎゅっとかみ締めた。自分を支えてきてくれた存在たちに、ごめんなさいと心の中で深く謝る。それから目の周りに残っていた涙を手の甲でぐいと拭いとると、正座をして司を見上げた。自分の選ぶべき答えが一つしかないことを、強く感じて。
「……浪人、させてください」
 床に額づき、深く息を吐く。そのままの姿勢で、お願いしますと続けた。
「今度は絶対合格するって言えるか? 保証できんのか」
 上から降ってきた言葉に、理宇は一瞬言葉がつまる。だが心の中で自分を叱咤し、小さく首を横に振ってみせた。頭の中に、絶対に合格するよと言ってくれた存在たちのことが思い浮かんで、すぐに消えた。
「今回のことで、この世では『絶対』がないことを学んだ。だから正直に言うと保証はできない。でも浪人させてもらえるなら、今度こそ合格してみせるという気持ちで、全力でやらせてもらいます。だからお願いします、浪人させてください」
 もう逃げたりしない。そう強く決心して、真剣に訴えた。
 司は今まで、娘に対して何かをしてみたらどうだと言ったことがなかった。いつも、あれをしてはいけないこれは絶対に駄目だと、やること為すことに対して否定しかしてこなかった。お金のかかることなら、なおさら。安いものを買って喜ぶような、倹約家の父親なのだ。
 その司が、初めて自分に行動を促してくれた。頭が冷えた途端そのことの珍しさにようやく気がついて、驚きと感謝が胸の内を占める。その想いが、先の言葉で伝わったのだろうか。
「保証できんというなら、死ぬ気で勉強しろ」
 土下座したままの理宇にそうつっけんどんに言い放って、司が部屋から出て行く気配がした。


 世間一般の新入生と同じく、理宇は四月から予備校に通い出した。理宇が通うこととなった予備校ではクラスが細かく分類されており、生徒は志望校と模試の成績からそれぞれ適応するクラスに割り振られる。理宇はもちろん東京大学文系志望クラスに所属することとなっていた。
 慣れない地下鉄を乗り継いで、家から片道一時間半という時間をかけて辿り着く。大阪の中心部にあるはずなのに、僅かに都心から離れているためか、妙に緑の多いところにその予備校は建っていた。
 駅を降りてから歩いて一分程度の距離に佇む、十階建ての立派な校舎。目を細めて見上げると、これまで通ってきた学校とは雰囲気がまるで違うと理宇は思う。小学校や中学校の温かく包み込んでくれるような空気がここにはない。代わりに、建物全体から事務的な素っ気無さが滲みだしているようだ。まだ見慣れていないせいでそう感じるだけかもしれないが、理宇は思わず尻込みしてしまった。
 何とか自分自身を奮い立たせて、入口のガラス戸を押し開ける。予想していたよりも重量のある扉の向こうには、学校の音楽室のような匂いが充満していた。きょろきょろと少し不安げに辺りを見回しながら、理宇はその空気を深く吸い込む。と、丁度エレベーターのドアが開いたのが見えて、モスグリーンの床を蹴って慌ただしく駆け込んだ。
 乗り込むや否や、ドアが音もなく速やかに閉じる。狭い箱の中で、何人もの学生が無言で階数表示を睨んでいる。気まずい空気に、自然と顔が俯いてしまった。
 目的の階に着くと、理宇はやけに急いで廊下に転がり出た。
 早足で知らない人々の間を通り抜け、事前に配布された資料と時間割表を参照しながら、指定された教室を目指す。その階ではエレベーターから一番遠いところに、理宇の教室はあった。閉め切られた扉の前で一度立ち止まる。緊張のため、心臓がきかん坊のように暴れてひどく苦しい。
 ――理宇はほんま心配性やな。
 これまでに何度も律子から言われてきた言葉が脳裏に蘇る。新しい環境に踏み出す時、毎回緊張と不安から過度に怯えてしまう自分が、理宇は心底嫌だった。それでも、不安なものは仕方がないのだ。未知の世界は怖い。
 この扉の向こうには、理宇の知らない人たちが待っている。
 今度こそ自分は、人と上手くやっていけるのだろうか。人間を好きになれるだろうか。暑くもないのにじとりと嫌な汗が額に浮かび、ごくりとつばを呑む。
その時ぽんと背中を叩かれて、束の間理宇の思考が止まった。我に返ると慌てて振り向く。ドアの前で立ち尽くしているせいで誰かの邪魔になったのかと思ったのだ。しかしそこには誰もいなかった。
「あれ?」
 首を傾げて周囲を見渡すが、やはり人の姿は見当たらない。すぐ近くには隠れるような陰もないし、隣の教室の扉も少し離れたところにあるから、理宇の背を叩いた後一瞬で中に駆け込むのは不可能だ。となると、見えない世界の存在の仕業なのだろうが。どくんと一度、何故か鼓動が大きく跳ねた。
「誰?」
 口を開くとどこか期待するような声が出て、自分で驚く。恐怖によるものでも不安によるものでもない、不思議な鼓動の仕方にも違和感を覚えながら、理宇は感覚を研ぎ澄ませて辺りを探った。特に気になるような気配はない。気のせいだったのだろうか。
 一体何に期待したのだろう。自分の行動と心情が馬鹿らしくなって、眉を顰めて首を竦めた。慣れない場所に来て、新しい世界で緊張し過ぎていたのだろうと心の中で自分に言い聞かせる。そんなことより、いつまでも扉の前で立ち尽くしていると怪しまれてしまう。いい加減腹を固めて教室に入らなくては。今度こそ自分は生きている人とちゃんと関わって、現実をしっかり生きていくのだ。
 理宇は決意を逃がすまいとするかのように、左手で拳を作った。そうして真剣な顔でドアを開け、教室の中へと一歩踏み出す。おっかなびっくり動かす手足は、ひどくぎくしゃくしている。
 そんな理宇の後ろ姿を、何者かが物陰からじっと見つめていた。

 予備校に通い出してから一ヶ月が経った頃のこと。ある朝理宇は、喉の痛みと共に目を覚ました。昨晩眠る前にはなかったはずの症状に、首を傾げる。唾液を嚥下する度、針で突き刺されているかのような刺激が、息苦しさを伴って喉の内部を駆け抜ける。
 食卓につきしな律子に相談すると、訝しげな表情と言葉が返ってきた。
「今日起きてから痛いん? 喉に刺さりそうなもん食べてへんのに、おかしいな」
 はちみつとバターをたっぷり塗り込んだトーストを咀嚼し、痛みに顔をしかめながら理宇は唸る。律子の言う通り、近頃は魚なども食していない。原因は食べ物などではないだろうと思った。
「とりあえず明日土曜日――おばちゃん家行く日やから、その時聞いてみる? それで大丈夫?」
 そう心配そうに尋ねる様子からして、律子も理宇と同様に、見えない世界の影響ではないかと考えたらしい。風邪を引いた時とはまた毛色の違う感覚に戸惑いつつも、数日耐えられない程の痛みではないので、理宇はこくりと頷いた。
 いつも通り予備校に行って、一コマ四十五分の授業を六つ受ける。時間が経っても痛みが消える様子はなかったので、その日は仕方なく放課後自習室に残るのを諦め、早く帰宅することになった。
 一晩寝ても、痛みは変わらず理宇の喉に居座っていた。幾分マシになっているものの、唾を飲み下す毎にじくっとするので意識せざるを得ない。郁代の家に行くのが待ち遠しくてならず、時間まで部屋で机に向かっている間、理宇は何処か緊張してそわそわと落ち着きがなかった。
 早めに昼食を済ませて、いつも通り律子に車で郁代の家まで送ってもらう。一週間ぶりに会う郁代は、笑みを浮かべて理宇を出迎えた。が、すぐに真顔になる。しつこい痛みを気にしつつ、理宇は彼女の表情の変化にどきりとした。
「理宇ちゃん、何か感じる?」
 理宇を部屋に通して郁代が尋ねる。喉の痛みのことをいつ言おうかタイミングを窺っていた理宇は、これ幸いと痛みのことを説明した。郁代はスカートのポケットから水晶を取り出し、どこか宙の一点を見つめながら耳を傾ける。話し終えてから少しの間沈黙が続いた。
「りゅうやな」
 唐突に郁代が呟いて、えっと理宇は聞き返す。水晶を大きく回しつつ、郁代がにっこりと笑いかけた。
「おめでとう! 理宇ちゃんに龍がついてくれたみたいやで。喉に刺さってんのは龍の骨やな。自分が加護についたと気づいてほしくて、龍が刺したんや」
 その言葉を聞いて意味を理解するや否や、理宇の頬が喜びにぱっと赤らむ。同時に、最初から何事もなかったかのように、喉から綺麗さっぱり痛みが消えた。
「龍が? 本当に?」
 きょろきょろと室内を見回してみる。言われてみれば確かに慣れない存在の気配を感じるものの、目には何も映らない。首を傾げると「明日になれば波長が合って、理宇ちゃんにも見えるんちゃうかな」と郁代が笑った。元々理宇の目が捉えられるのは、たまたま波長の合ってしまった時か、向こうが姿を見せようと意図している場合のみである。どうやら今はまだ見ることができないらしい。理宇は少し物足りなさそうな顔をしたが、それでも久しぶりに目がきらきらと輝いていた。
「理宇ちゃん、昔から龍好きやったよな」
 郁代におかしそうに笑われて、理宇は照れた表情を浮かべて頷いた。
「うん。なんでかは自分でも分からんけど、好き」
 気づいた時には、龍という存在が好きだった。まだ物心つかない頃よく遊んでいたキリンのぬいぐるみに「りゅうちゃん」と名付けていたくらいだから(恐らくキリンの長い首から、龍を連想したのだろう)、もしかするとその頃から既に好きだったのかもしれない。具体的な形やイメージがなくとも、龍という存在自体に、憧れにも似た思いを感じる。
 その龍が、自分についてくれたという。理宇は表面上できるだけ落ち着きを装っていたが、内心ではひどく興奮していた。まるでずっと片思いをしていた遠い存在の相手に、突然振り向いてもらえた女の子のように。
 その後龍のことや予備校の様子などについて少し会話を交わしてから、いつものようにヒーリングが始まった。すっかり耳に馴染んだ水晶の回る音が、静まり返った部屋の中で一際大きく感じられる。
 硬質な音を聞くともなしに聞きながら、理宇はそっと深呼吸をして、意識の触手を部屋いっぱいに広げてみた。探しものはすぐに見つかった。今まで感じたことのない気配が、部屋の隅に佇んでいる。探り当てた場所に向けて、試しに心の中で語りかけてみる。
 ――龍さん、本当にわたしについてくれたんですか。
 まだ姿は見えずとも少しくらいなら意思疎通もできようかと、どきどきしながら返事を待つ。一拍置いて、ぼんやりとした思念が返ってきた。
 ――ハジメマシテ。
 端的だけれど温かい意思。どきりと胸が高鳴って、理宇はにやけそうになる口元を、反射的に両手で覆った。

 その翌日から龍との生活が始まった。
 理宇を加護するためについた龍は、全身が真っ青な鱗に包まれており、一対の薄い翼を背中に生やし、黒い目に、長い首と尾を持っていた。予想に反して東洋風ではなく西洋のドラゴンらしい姿で現れた相手に、理宇は最初意表を突かれたように感じたが、考えてみれば元々この三次元世界での肉体は持たない存在である。彼らは見る者の心に沿った姿で目に映るのだから、どんな姿をしていても何もおかしいことはないのだと思い出した。
 急な話だったにもかかわらず、憧れ続けた龍が傍にいることに理宇はすぐ慣れた。
 彼はどこへ行くにもついてきて、理宇を優しく見守っていてくれるのだった。たとえ姿が見えない時でも、ちょっと感覚をクリアにするだけで、彼の温かい気配は感じ取ることができた。少し気持ちが落ち込んだ時など、彼の存在に触れさえすれば、理宇はたちどころに元気を取り戻した。
 そんな風に心を慰められて気を持ち直す度、彼は来るべくして来てくれたのだと思い、理宇は深く感謝せずにはいられなかった。というのも、この頃ひどく落ち込むことが増えていたのだ。
 予備校で過ごす時間は、恐れていた通り、理宇にとってとても居心地の悪いものだった。その居心地の悪さは、勉強面の問題というより、対人関係の問題に起因していた。
 理宇が一年間所属することになったクラスには、全部で二十六人の生徒がいたが、その内理宇を含めた七人が女子であった。理宇はまだ異性が苦手で、彼らとの接触を過剰なまでに拒んでいたから、日々会話を交わすのはもっぱら同じクラスにいる六人の女の子たちのみであった。
 彼女たちは皆、純朴でいい子たちであった。六人ともよく喋る子で、恋におしゃれに友達付き合いにいつも忙しく、華やかな話題に事欠かなかった。受験に失敗して一年やり直すというのに、決して気負ったところがなく、明るく笑って毎日楽しく予備校に通っている子たちばかりであった。
 一見すると、何の問題も見当たらない。理宇も最初彼女たちと自己紹介をし合った時、この子たちとなら一年間楽しくやっていけそうだと安堵したくらいだ。
 だが現実はその通りにならなかった。理宇が密かに胸を痛め続けることになった原因は、彼女たち六人が理宇とは全く異なる世界に属する人種であり、なおかつ七人ともまだまだ精神的に幼かったということにあった。
 休憩時間や放課後など、七人はよく集まった。勉強をする時はもちろん皆真剣に没頭していたが、それ以外の時間はひたすら喋っていた。そういう時、理宇も一応彼女たちと同じ場にいるのだが、理宇自身はほとんど口を開く機会がなかった。六人が六人とも自分の話をしたくて、ただでさえ発言権の取り合いになっているのに、口下手な理宇がそこに参戦する余裕などあるはずもなかったのである。
 だから大抵の場合理宇はただぎこちなく笑っていて、求められた時にだけ言葉や相槌を挟むに留めていた。そもそも六人とも無意識のうちに理宇と自分たちとの違いを感じ取っているのか、多数人でいる時に理宇に向かって話しかけることは滅多になかったが。
彼女たちと一緒にいる時、理宇は一際強く孤独を感じていた。高校の時に比べればずっとマシであったけれど、まるで自分が空気になったような錯覚を覚えることも多々あった。
 恋におしゃれに遊びに夢中な彼女たちは、本と共に生きると決意していた理宇にとってはとても遠い存在であった。彼女たちはいつも自分の興味のある分野しか話題にしなかったし、それは理宇とて同じことだった。理宇は本に描かれている世界についてなら、いくらか饒舌に話すことはできたけれど、そういう分野はもちろん彼女たちの眼中にはなかった。彼女たちが見ているものは、理宇にとっては完全に未知なる世界だった。
 寂しさを覚えていた理宇は、彼女たちと同じものを見たいと願った。刈谷をはじめとした一部の友人たちと出会う前の生活を思い出す。またあんな風にひっそりと生きる羽目になるなんて、考えたくもなかった。理宇は同じ場の人々に、自分の存在を忘れないでほしかった。あの思いを再び味わうくらいなら、新しい世界にだって恐れず踏み出していってやると誓った。しかしいかんせん異性が苦手で、なおかつ勉強で手一杯であった理宇には、そういう世界を学ぶ余裕なんてない。
「あたしも、男の子が苦手とか言っていないで恋をすれば、あの子たちと仲良くなれるのかなあ」
 自習室で自習している最中、集中が途切れる度に思うのはそのこと。思わず物憂げに口の中で呟くと、理宇の後ろで背を合わせるように座っていた青い龍が、長い首をめぐらして理宇を見た。
『そういうものでも、ないと思うけれど』
 ――でも龍さん。あたしとあの子たちとでは、被っている部分がほとんどないよ。
 唯一被っている分野といえば勉強と志望校くらいだが、彼女たちも理宇も、休憩時間くらいは勉強から少し距離を置きたいというのが本音である。
『世界云々の問題じゃない。理宇がそう思って壁を作っているから、あの子たちと距離ができるんだよ』
 彼女たちとの関係で弱音や愚痴を吐けば、龍はいつでもそんな風にたしなめる。言われるまでもなく、それはきっと正しいのだろうと、頭では分かっている。でも心では納得できない。
『頭では分かっていても、行動が伴っていないと意味はない』
 龍の言うことはいつだって正しい。しかし正しいがゆえにかえって、素直に受け入れるのが難しいということもある。シャーペンを机の上に転がして、理宇は机の上に突っ伏した。もやもやするあまり、勉強どころではなくなったのだ。
 ――それでも、恋愛さえできれば……。
 自分から心の壁をつくっているとしても。自分ではそんなつもりは全くないし、何度言われたところで、具体的にどんな壁をつくっているのか自覚することができない。それ故自分を変える方法が全くわからない理宇は、ついそうやって外部の変化を求めてしまうのだった。それが自分にあれば。あれが自分の日常に生じれば。そうしたら、こんな自分だってきっと変われる――そんな風に、誰かや何かに期待し、頼ってしまう。
逃げているだけなのかもしれない。しかしきっかけさえあれば。きっかけさえあれば自分は……。
『……本当に、恋愛ができれば自分は変わる――と思うかい?』
 理宇は驚いて顔を上げ、龍を振り返った。きっとまた呆れられて、正論で諭されるだけと思っていたのだ。宇宙のように神秘的な目は、理宇には到底推し量ることのできない物事を考えているらしかった。
『理宇、どうなの? そう思う?』
 龍が何を言いたいのか分からず戸惑いながらも、理宇は素直に小さく頷いた。
 ――うん、思う。
 青い龍は真顔でちょっと理宇の顔を見つめてから、そうか、と言って顔を背けた。
『それなら、恋愛をしてみるといい』
 そう呟いて、目を閉じた。理宇はちょっと呆気にとられてから、深いため息を吐く。見えない世界の存在からすれば、実に簡単なことなのかもしれない。だけど人間の世界では、そういうものは、したいと思ってすぐできるものではないのだ。
 簡単に言わないでよね――と心のなかで文句を言ってから、理宇は龍との会話を切り上げ、浪人生の本分に意識を戻す。その数瞬後に龍が開いた二つの目は赤く輝いていたのだが――この時の彼女は、そんなことを知る由もなかった。


 ――嘘やろ?
 なによりもまず最初に思い浮かんできた言葉は、それだった。
 ――どうなってんの?
 狼狽している理宇の前で、隣の席に座る男子生徒は不思議そうに首を傾げつつも、理宇が落とした消しゴムを机の上に置いてくれた。顔を背け、ありがとう、と震える声で礼を言うのが精一杯だった。呼吸の仕方を忘れてしまったくらい、理宇は動揺していた。
 頭と心がざわついていて、一つのことをしきりに理宇に訴えている。理宇はさり気なく自分の両手を頬に当てる。まるで風邪を引いたかのように熱い。パニックに陥って、正直な話授業どころではなかった。
 理宇は本やテレビなどで、自分に起こっている現象を何と言うのか知っている。とても素直に認められるものではなかったが、現実にそうなってしまったのだから、受け入れざるを得ないだろう。
 理宇は恋に落ちた。相手は同じクラスの山口孝雄という男子生徒だった。
 訳が分からなかった。小学生の頃から異性が苦手だった理宇は、それまで異性を極力意識の外に追いやるようにしてきたから、誰かを好きになる可能性なんてほとんどなかった。数日前、龍に「恋愛ができれば」なんて愚痴を言ったものの、本当は自分が恋愛をする日なんて来ないだろうと、どこかで諦めている節があった。
 しかしその日が、何の前触れもなく理宇に訪れた。
 特別な出来事などなかった。ただ、理宇が授業中に消しゴムを落としてしまい、それを隣の山口孝雄が拾ってくれただけだ。そんな平凡なやりとりしかなかった。それなのに、その瞬間理宇は相手を強く意識し出したのだ。それまで一度も話したことすらなかった相手に。
 はっきり言って、自分でも相手の何がいいのかさっぱり分からなかった。話したことがないから性格はよく知らないし、少なくとも容姿や声は好みではないし、服のセンスだって好ましいとは言えない。消しゴムを拾ってもらうその瞬間まで、特段意識を向けたことすらなかった相手だ。だが、まるでスイッチを切り替えたように、理宇の意識は彼を追いかけるようになった。近くにいるだけで顔に熱が集まり、心臓は暴れ、思考はかき乱された。恋に落ちるという現象は、文字通り「落ちる」のだと、理宇は困惑と喜びと少しの不安が入り混じった気分で実感した。
 不可解な気持ちもあったけれど、恋をしたことで理宇はかねてからの望み通り、六人の女の子たちと近づくことができた。恋愛という共通カテゴリーの話題を持っただけで、理宇に対する彼女たちの対応があからさまに変わったのだ。ようやく仲間入りができたと思うと、言葉にならないくらい嬉しかった。それと同時に、それまで何の興味もなかった彼女たちの恋愛話を、興味深く聞いている自分に気づき、理宇は驚いた。恋をするだけで人はこんなにも変われるのだと、目が覚めるような思いだった。
 ――龍さん、龍さん。このわたしが、恋というものをした。
 女の子たちの会話に耳を傾けながら、はしゃいだ心でどこかにいるはずの龍に語りかけると、肩に実体のない手が触れる気配があった。
『よかったね』
 青い気配は背後に寄り添うようにして、微笑みながら佇んでいた。わざわざそちらに目を向けなくても、霊感を使えば理宇には龍の表情が読み取れる。意識の半分は女の子たちと交わす物質世界の会話に、もう半分は龍と交わす精神世界の会話に割り振る理宇の表情は、生き生きとしていた。
 ――予備校に来るんがこんなに楽しくなるなんて。
 山口のことを脳裏に思い浮かべているせいで、顔がすっかり緩んでいる。相手を想う度小鳥のようにさえずる心臓と熱くなる頬や胸が、今までに味わったことのない甘美な陶酔を理宇に与えてくれている。恋する気持ちというのがこんなに幸せになれるものなら、歌や物語に恋愛ものが多いのは当然だと、理宇は深く納得した。
 すっかり浮かれている様子の理宇に、龍がくすりと小さく笑う。
『理宇、今、幸せかい?』
 女の子たちとの会話で大きく笑いながら、理宇は心のなかで少し考える。
 幸せ。両親をはじめとした周囲の人々のおかげで、自分がとても恵まれた生活を送っている、ということは頭で認識している。それ故自分が幸福な人間であることも。だが今まで自分が幸せと公言できる人生を送ってきたかと自問してみれば、首を横に振らざるを得ない。勉強のこと。魔のこと。人付き合いのこと。そして中学生時代には胸に生まれていた、見えない空洞――全体として見れば、そういったものに苦しみ続ける十数年だった。幸せというものを本当に理解し、感謝できていた訳ではなかったのだ。
 だけど今は? さり気なく胸に手を当ててみる。恋をしたことがきっかけで、新しい世界が開けた。女の子たちと親しくなれた。そういった嬉しい変化の前では、理宇をしきりに悩ませていた諸々のこと全て、大したことではなかったように思えた。胸の穴は温かくて満ちたりた気持ちで埋まっている。心の海は、波ひとつ立たず平和だ。幸せとは、こういうことをいうのではないか。
 穏やかな気分で、理宇は龍にだけ分かるよう小さく小さく頷いてみせた。すると、よかった、と声がして、頭を優しく撫でられた。
『理宇が幸せだと、俺も幸せだ』
 言葉を返す前に時計を確認して、そろそろ休憩時間が終わる頃だと悟ってぎょっとする。慌ててクラスメイトたちを促し、次の授業の準備をして教室移動を始める。無事に教室に辿りついたとほぼ同時に休憩時間終了のチャイムが鳴り、講師が足音荒くやってきた。授業が始まってしまう前にと、理宇は急いで周囲の気配を探る。龍らしき青い気配を教室の片隅に感知すると、できるだけ温かな想いを込めて念を送った。
 ――あたしが今幸せなのは、きっと龍さんのおかげ。本当にありがとう、大好きです。
 伝えきらないうちに、講師が大きな声でテキストのページ数を告げる。周囲の生徒同様開いたページの問題を覗きこんだ瞬間、理宇の意識は授業モードへと切り替わり、龍の気配が頭から遠のいていく。そして黒板とテキストを見比べながら、真剣な表情でペンを動かし始めた。
 龍が首を巡らせて教室を見渡すと、理宇から数席分離れたところで、山口孝雄も同じように授業を受けていた。何度か二人を見比べた後で、龍は人知れず肩をすくめて微笑んだ。
 授業が始まったばかりの今は、さすがに授業に集中しているが、あと数十分もすれば理宇の集中力が切れてくる。そうなると、恋する者特有の妄想で、理宇は授業どころではなくなってしまうのだ。自分の近くに想い人がいると気づいてしまえば、余計に。

 それは、無知ゆえの思い……なのか?

 そんな言葉を受信したような気がして、理宇の意識は一旦授業から離れた。今のはなんだろう、と内心で首を捻る。龍の発言ではないだろうと思った。今の言葉から感じた気配の色は、青ではなくて――そう、赤。黒に近い赤だったから。
 誰の言葉だったのだろう。少し胸がざわついて、龍に尋ねてみようかと意識を凝らし――やはりやめた。今は授業に集中すべきだし、後でいいと思い直したのだ。
 しかし授業が終わる頃には、理宇はこの不可解な言葉を見事に忘れ去っていた。
 この機会を逃していなければ、ある真実を知る時の痛みが、少しはマシだったかもしれないのに。

 与えられた言葉の意味をすぐには受け入れかねて、理宇は困惑を露わに水晶と郁代とを見比べた。
「恋愛、禁止……?」
 オウム返しに問うと、郁代は厳しい顔で一つ頷いた。先程から水晶は、彼女の指先で時計回りに回転し続けたままだ。それはいつもなら理宇を安心させるはずの回り方。なのに今は、理宇の心に穏やかならぬ波紋を投じている。
「えっと……なんで?」
 やっとのことで搾り出した言葉に、分からへん? と郁代が眉を顰める。
「今はとにかく大事な時期やから、勉強に打ちこまなあかんやん。でも理宇ちゃんは、恋愛なんかするとそっちばっかりなってもうて、勉強どころでなくなってまう。だからよ」
 咄嗟に、そんなことない、と反論しかけて、理宇はかろうじて口をつぐんだ。そんなこと、あるのだ。現在の自分の状態を思い返しさえすれば、郁代の言葉が正しいことなんて、否が応でも分かってしまう。
 一度山口孝雄のことを思い出してしまえば、なかなかそこから勉強へと意識を戻すことができなくて悩むことが、恋をしてから増えていた。近頃浮かれがちだった理宇の顔が、みっともなく歪む。あんなにきらめいていた世界が、あっという間に暗く沈んでいくようだった。
 いつまで、禁止なの。
 口にしたくてたまらないその質問を、悔しさと共に無理矢理飲み込む。聞いたところで具体的な解禁日は教えてもらえないに決まっているし、「少なくとも期限を気にしている間は禁止」といった返答を返されれば、もやもやとした思いが増長するばかりだ。
 創作活動や読書、ゲームや漫画などを禁止されてきたこれまでの経験から、余計な質問をしたところで意味がないと理宇は既に思い知っていた。テレビ(ただしアニメやドラマ、映画は除く)以外は、それらだっていまだに禁止令を解かれていない。郁代があまりにも口にしないので時折不安になる。解禁するのを忘れられているだけなのでは、と思うこともあるが、自分から言い出す度解禁日が伸びていくような予感もするから、最近では理宇もそれらを話題にのぼらせることはしない。だが言わなければ言わない程、甘えた不満は溜まっていく。
 理宇の胸の内で、子ども染みた反抗的な気持ちと、そんな気持ちを大叔母に対し抱いてしまうことに対する罪悪感とがせめぎあう。何かを言いたかった。だがどう言っても、文句や駄々にしかならない気がして、なかなか発言する内容を決めることができない。
 しばらく迷った末、潤んだ目を隠すように俯いて、でも、と唇を震わせた。
「好きになるんは意識してするんと違うから、禁止言われてやめられるもんでも、ないよ」
 無言でティッシュの箱を差し出されて、理宇は微かに頬を染める。ぼそぼそと謝ってから、遠慮がちに一枚抜き取って、目頭をおさえた。
「理宇ちゃん……今好きな人、おんの?」
 俯いたまま、どこか投げやりな気持ちで一度頷く。二人の間に沈黙が下り、水晶の回るいつもの音だけが束の間部屋を支配する。
「その人、なんて名前?」
「……山口孝雄」
 鼻をかんでから早口に告げる。
 恋をしてから、思い浮かべるだけで幸せな心地に浸れたその名前。今はなんだか物悲しい気持ちばかりが引き起こされて、堪らない。
「ほんまにその人のこと好きなん?」
 疑いを帯びた問いかけが、両耳に飛び込んできた。新しいティッシュをもらって鼻と目元をおさえつつ、理宇はぱっと顔を上げる。
「好きやよ? どうしてそんなこと言うん?」
 自然と声のトーンが上がる。郁代の言葉の真意が分からない。自分の想いを否定されたようで、嫌な気分だった。
 郁代は郁代で渋面をつくって、水晶と会話をしながら理宇を見据える。
「あんな、こんなこと言うと傷つけるやろうけど……山口くんて子、理宇ちゃんと全然波動合うてへんで」
 理宇は、ひゅっと息を呑む。自分の胸を冷たい風が突き抜けていったように感じた。
 波動。郁代が言ったのは、現象を指す名称ではない。生き物も物体も、あの世もこの世も関係なく、存在するもの全てが持つエネルギーとしての波動だ。
 普通に生活していれば意識することなどほとんどないが、人と人、人と事象との関係に、波動は大きな影響を及ぼしている。「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、波動の似た者同士は互いに引き合い、良好な関係を築くことができるが、逆に異なる者同士は互いに反発し合い、上手くいかないことが多い。言いかえれば波動が合う合わないで、人や物との相性もまた決まってしまうということだ。
 理宇は歪んだ顔で唇をかみ締め、新たにティッシュを引き抜いた。郁代は、理宇の恋が叶う可能性はゼロに等しいと言ったのだ。
 静かに啜り泣く理宇の様子に、郁代は悲しげな表情を浮かべて嘆息した。
「ごめんな。理宇ちゃん……つらいな。その気持ちは本物やもんな」
 妙な物言いだ。それではまるで、郁代の先程の問いかけと合わせれば、まるで理宇が偽物の気持ちを持っているかのようではないか。
「理宇ちゃん自身は、山口くんて子、好きと違うはずやで」
 理宇の身体が強張る。それは違う! 荒い声で叫びそうになったが、ぐっと堪えて首を横に振った。
「そんなことない」
「否定したくなるのは仕方ないけど、でもそうなんや。水晶はそう言うてるし……もいっぺんよく考えてみて? ほんまに好きか? 好きやったらどこが好き?」
 理宇は口を尖らせて自分の心を探ってみる。そんなことない。自分は山口くんのことが好きなのだ。その気持ちに偽りはない――頭でそう思いはするのだが、自分でも相手の何がいいのか分からないのは事実だった。好きになったのはあまりにも突然で、不可解な思いはした。惹かれる部分だって、最初からひとつも見当たらない……。
 不穏な予感が迫ってきたのを感じ、悲しみも郁代に対する反感も、理宇の胸から一気に吹き飛んでいった。
「どこが好きか……分からん」
 正直に答えるしかなかった。
「そうやろ。だって理宇ちゃんは、好きになったんと違うて、そう思うように仕向けられたんやから」
 その言葉が理宇の脳と心に届くまでには、しばらく時間がかかった。
「仕向け……られた?」
「うん。誰かにな」
 誰にと問うても、郁代にもはっきりとは分からないらしかった。水晶を不規則に回して、困ったように頬をかく。
「ほんま、誰の仕業やろ。あんまりよくないもんかなぁ……。理宇ちゃん、龍さんは何か言うてる?」
 少し離れたところに感じる青い気配に意識を集中しようとするが、理宇の気持ちが乱れているためか上手くいかない。向こうに何か言うことがあれば、こちらの調子に関係なく言葉が送られるはずなので、龍はこの件に関して助言を与える気はないらしいと悟る。
「何も言ってない」
 そう、とぼんやり呟いて、郁代は右に左に揺れる水晶に視線を落とした。そしてしばらく無言で水晶と会話していたかと思うと、おもむろに理宇の名を呼ぶ。
「ヒーリングしてるうちに、また色々分かってくるやろう。山口くんへの気持ちも、そのうち収まると思うし、とにかく恋愛は――」
 理宇は短く重いため息を吐いた。
「禁止ね。分かってるよ、おばちゃん」
 言った瞬間、自分を想って言ってくれている相手に対して、失礼な言い方だったと反省したが、取り繕う心の余裕はなかった。本当に、自分はまだまだ幼い。しばらく恋愛できなくなったくらいで、こんなに気持ちが沈むなんて。
 ――やっぱり駄目だったよ、龍さん。
 情けないと思いつつ、自嘲気味な念を送る。それに対し返事はなかったが、宥めるようにぽんぽんと肩を優しく叩かれたのが分かった。


 蝉たちがはしゃぎ出す季節になった。
 電車から降りると、途端うだるような暑さが理宇の全身を包み込む。急激な気温差にうっと怯むが、人の流れに乗って改札を通る。慣れぬ駅の出口まで来ると、汗ばんだ身体の気持ち悪さに顔をしかめつつ、理宇は鞄からプリントアウトした紙を取り出した。紙の略地図をじっと見つめて、周囲をきょろきょろと見渡す。それからまた理宇は、途方に暮れた顔で地図に視線を落とした。
 今日は日曜日。理宇は某有名塾が主催する東大模試を受けに来たのだが――。
「場所、どこよ」
 理宇は弱弱しくぼやいて、また周囲を見回した。理宇はかなりの方向音痴である上、地図が読めない。分かりやすいように単純化されているはずの略地図であっても、この通り。どちらに向かえばいいのかさっぱり分からず、駅から動けずにいる。
 有名な模試であるから、自分と同じように受験しにきた浪人生たちがいるはずだ。理宇のクラスメイトたちも、ほぼ全員受験すると言っていた。だから受験生を見つけられれば、その人についていくと会場に着くことができるだろう――そう思って新たに駅から出てくる人々を目でチェックしてみるものの、浪人生とは案外外見からは判別しがたい人種である。やはり自分で地図を解読するしかないようだ。泣きそうな顔をして、理宇は地図に視線を落としたまま右へと足を向けた。
『理宇、違う。こっちだ』
 半ばヤケになって歩き出していた理宇は、足を止めて振り返る。先程まで自分が立っていたところから、龍が呆れ顔をこちらに向けていた。その手は、理宇が向かっていたのとは逆方向を指差している。理宇はぱっと顔を明るくさせた。
 ――そっちなんやね!
 小走りになって、龍の指示通りに道を進む。時間にはまだ少し余裕があったが、早めに会場に着いて英単語の復習をしたかったので急ぐ必要があった。
 素直に自分についてくる理宇に、傍らで龍は小さくため息を落とす。
『口出しするつもりじゃなかったのに……。いい加減、その程度の地図くらい自分で読めるようになりなさい。一応受験科目に地理を選択しているだろう』
 ――地理を勉強してるからって、地図が分かるとは限んないのです。それに、あたし地理は苦手やもん。
『頼りないなあ。そんなだから、魔なんかにも付けいれられやすいんだ。理宇は大丈夫なのか、これから先。俺は……色々と不安だよ』
 心配そうな龍に、大丈夫大丈夫と暢気に答える。確かに自分は精神的にもまだまだ軟弱で独り立ちできていないし、いまだに魔のちょっかいも続いている。だが以前に比べると遥かに強くなったと自負している。今では魔が来たらすぐに察知し、対処できるようにまでなっているのだ。自分では祓えないことも多いけれど、取り零した分は郁代が処理してくれるので、理宇に不安はなかった。それに――。
 ――今は龍さんもいてくれるしね。
 照れ笑いを龍に向ける。絶対的な信頼に裏打ちされた、屈託のない笑顔だ。龍は目をぱちくりさせた後、参ったというように、弱弱しく手で目元を覆った。
『……ひとまかせ、っていうんだ。それは』
 ――まあまあ。あたしは自分のペースで強く自立してくよ。
 そんな風に軽口を叩きながら角を左に曲がったところで、理宇の歩調が乱れた。
 目的地はもうすぐそこにあった。龍のナビゲートのおかげで無事にたどり着いたようだ。それなのに理宇の足は止まってしまった。いつの間にか笑みが消えて、無表情になっている。
 理宇の視線の先で、あまり趣味がいいとはいえない服装の男性が、会場である建物の中に消えていった。
「山口くん……」
 息苦しくなって、胸をおさえる。恋愛禁止と、理宇の本当の感情じゃないと言われたのは、もう数週間前のことだ。言われてみれば確かに、山口に対する自分の想いに違和感はあった。だけど、彼を見る度いまだに胸がきゅうっとなって、頭がいっぱいになってしまうのは、どうしたらいいのだろう。
『つらいかい?』
 理宇は首を横に振った。拍子に時間がそれ程ないことに気づき、先程よりも早い歩調で会場へと向かう。
 ――別に、つらくない。禁止されるんは慣れてるし、全部あたし自身のためやし。それに、おばちゃんの言う通り、この想いは多分偽物なんやって、なんとなく感じるから……きっとそのうち、消える。
 あてがわれた小さな教室に向かうと、着席している浪人生たちはほとんど、見慣れたクラスメイトたちだった。互いに挨拶しながら、理宇も席に着く。隣で山口は貧乏ゆすりをしながら参考書を捲っていたが、挨拶だけ済ませてしまうと理宇はそちらを見もしなかった。
 持ってきた英単語帳をろくろく捲ることもできないでいるうちに、試験管が用紙の束を抱えて教室に入ってくる。手際よく配られた答案用紙を睨み下ろしながら、無事会場に着いたため姿を消してしまった龍を思い浮かべた。
 ――あたしには、両親もおばちゃんも、龍さんもおるんや。
 自分はこんなに恵まれている。たかが恋愛で消沈するなんて、馬鹿げている。恋愛できないことも、自分の気持ちが偽物らしいということも、ちっとも残念なんかじゃない。
 こんなくだらないことでうだうだ言っている暇があるなら、自分はもっと勉強すべきだ。父にも言われたじゃないか。死ぬ気で勉強しろと。そういう約束で、浪人させてもらったんじゃないか。
 静まり返った教室のなかで、注意深く深呼吸をして、理宇は腕時計に視線を向けた。
 ――龍さん、大丈夫やよ。あたしは、前までのあたしとは違う。いつまでも小さなことで、泣いたりなんかせえへんから。
 理宇が心のなかでそう呟くと同時に、魔笛のようなチャイムが、試験開始の合図を送った。

 真っ暗ななか、理宇は目を覚ました。
 全身に嫌な汗をかいている。まだ夢現の間を行ったり来たりしている意識で、枕元の時計を確認すると、時刻は午前四時になったばかりだった。
 ベッドの上で上半身を起して、脇に放り出していたタオルケットを掛け直す。夢の続きを見てしまいそうで、すぐには横たわる気分になれなかった。汗で嫌な冷え方をした身体を抱きしめ、立てた膝に顔を埋める。
「龍さん……」
 心細くて堪らず、涙交じりの声で呼んだ。すぐに青い気配が近くに生じる。
『大丈夫?』
 優しく背中をさすってくれるのを感じて、理宇は俯いたまま小さく頷いた。
「夢、みた。……また、受験に失敗する夢」
 言ってしまうと、ぶるりと身体が震える。汗のせいで心まで冷えてきたようだ。縮こまる理宇の弱弱しい背を、龍は黙って撫で続ける。見えない存在に触られた時特有の、微かに痺れるような感覚が、背中を何度も何度も刺激する。理宇は不安や心細さと戦いながら、その感覚に意識を凝らすことで、涙を堪えていた。
 ついさっき目が覚めた時、自分が暑さで汗をかいていることに気づいて、理宇は心底ほっとした。まだ寒い季節じゃない――まだ入試は終わっていない。今のはただの夢だったのだ、とそれで分かったから。
 浪人生になってから、理宇は東京大学入学試験に失敗する夢を、度々みるようになっていた。
 現役時代、そんな夢は一度もみたことがなかった。今では無知故の信念だったと分かるのだが、あの頃は自分が合格することを信じて疑わなかったから。だが挫折を経験した今となって、理宇は見えない世界を妄信し、依存することの過ちを知った。この世には「絶対」がないことを思い知った。そのせいか、以前より自分の未来に対し臆病になってしまったようだ。またぶるっと大きく震えてから、唇をぎゅっと噛んだ。
「龍さん……龍さん龍さん」
 実際に涙は流していないものの、その声はどこか濡れている。龍は背中を撫で続けてやりながら、大丈夫大丈夫と声をかけた。
『ほら、俺はここにいる』
「……もし今度また東大に落ちたら、あたし、どうしよう」
『理宇は頑張ってる。大丈夫、今度は合格するさ』
 そうだ、自分は努力している。現役の時に比べてこなした問題の数は比べものにならないし、世界史に至っては、教科書と用語集の内容をほとんど全て覚え込んでしまっているくらいだ。センター試験の問題なら、現役時代の時から相性の良さは分かっていたから心配はないし、二次試験の世界史だってきっと大丈夫。いい参考書を見つけたおかげでもうじき現代文のコツもつかめそうだから、国語も自分の武器になるだろう。心配といえば数学と英語だが――大嫌いで苦手な英語も、多少ムラはあっても、世間の受験生並みにはなんとか持ってくることができている。
『そうだよ、大丈夫。だから、少しでも寝た方がいい。また睡眠不足で授業中居眠りしてしまうよ』
 夢の続きをみるのではという不安はまだあったが、正論だったので理宇は再びベッドに横になった。暗い部屋のなかに、龍の姿はない。心細さが募って、理宇は龍を呼んだ。
『……見えない時でも、ちゃんと傍にいるから』
 だから安心して眠りなさいと言われて、しぶしぶ目を閉じる。溜まりに溜まっている日々の疲れは、すぐさま理宇を眠りの世界へと連れていこうとする。
『そう。いい子だ』
 龍が頭を一撫でしてくれたのが分かった。幾分落ち着いた心地で、理宇は表情を和らげる。薄れ行く意識のなかで、自分にとって龍は日に日に大きな存在になっていくなぁと、理宇は他人事のように考えていた。

 放課後、自習の合間にクラスメイトの一人麻野優華と二人でおやつを食べていると、「あんな、理宇ちゃん」と優華が遠慮がちに切り出した。来たかと思って理宇はゼリーを食べていた手を止める。先程から妙に優華がそわそわしているので、何か言いたいことがあるのだろうと、彼女が口を開くのを待っていたのだ。
 と、優華は中途半端な笑みを浮かべて、膝に置いていた携帯を弄り出した。
「実はな、ユウカ、関くんに告白してん」
 理宇は彼女の小さな顔を数瞬見つめてから、「は?」と声を上げる。間抜け面を晒している理宇の前に、優華は携帯の画面を突き出した。反射的に携帯を受け取る。画面には、関くんから届いたらしいメールが映し出されていた。
 切り出すまでに少し時間はかかったが、一度決心してしまえば優華はどんなことでも饒舌に喋る少女である。彼女の話をまとめれば、こうだ。
 優華は一ヶ月前、同じクラスの男子生徒関修也をいいなと思い出した。それで度々彼に婉曲的なアタックをかけていたのだが、芳しい成果が現れなかったため、とうとう一昨日メールで告白するに至ったのだという。
 その告白メールに対する返信は、今理宇が見ている画面に表示されている。とても長くて丁寧な文章ではあるが、残念ながらそれは交際をお断りする内容だった。しかし優華は特に傷ついている素振りも、悲しそうな様子も見せない。それどころか嬉しそうにこう言うのである。
「なあ、関くん素敵やない? 見てよこの文章。すごい誠実で礼儀正しいやん。ユウカ、ショック受けるより感動してもてなあ。このメール大事にとっとくことにしてん」
 確かにすごく丁寧な文だ、などとぎこちなく相槌を打ちながら、理宇は内心で困惑していた。
季節は夏から秋へと移り変わる頃。この四月から優華の恋愛話は耳にしているが、実は優華が素敵だとはしゃいでいる男性は、理宇が知っているだけでも関くんで既に三人目である。短期間でこの人数だから、理宇はてっきり、優華はどれも軽いノリで言っているだけだと考えていた。まさか実際に告白する程本気だったなんて、思いもよらなかった。その上失恋話をこんなに元気に話してくれるなんて。
 失恋しても次の恋があると言って、優華は生き生きとしていた。いつも楽しそうに予備校に来て、恋に勉強におしゃべりに、真剣に打ち込んでいた。優華にだってもちろん、つらいことも苦しいこともたくさんあるだろうに。彼女はいつでも笑っていて、そのため彼女の周りは常に笑顔で溢れていた。
人生を全身で満喫しているポジティヴな彼女は、受験のプレッシャーに負けることなんてなさそうに見えた。悔しい程に輝いている優華の前で、理宇は眩しそうに目を細める。
 ――この子は本当に人が好きなんや。だからたくさん恋ができるし、毎日が楽しいんや。
 優華たちは、やはり自分とは全然違う種類の人間だ。自分は、この子たちのように恋愛には生きられない。理宇は愕然とする思いで、優華をはじめとしたクラスメイトの女子たちと、自分との違いを改めて痛感した。
 ひとしきり話をしてから再び自習室に戻って、各々の机に向かう。数列前に座った優華の華奢な背中を見て、理宇は寂しさにも似た不安定な気持ちを抱いている自分に気がついた。慌てて頭を振って、情けない感情を振り落とす。
 ――いいんや。優華ちゃんには優華ちゃんの、あたしにはあたしの道ややり方がある。優華ちゃんは恋することで浪人生活を乗り切ってるように、あたしには龍さんがおる。やから、あたしかて頑張れる。
 気合を入れなおすように一度頬をつねる。それから理宇は、情けない顔のままペンを手に取った。

10

 その日早めに自習を切り上げて家に帰ってきた理宇は、気晴らしに一人で愛犬クリスの散歩に出かけることにした。
 ご飯と散歩が大好きなクリスは、家を出るなりはしゃいで突っ走っていく。毎度のことながら好奇心旺盛で落ち着きのないビーグル犬の様子に苦笑しながら、理宇は勉強で疲れきった頭をすっきりさせたくて、澄んだ空気を思い切り肺の中に吸い込んだ。
 広い空の下、愛犬と共に住み慣れた町を歩く。時折散歩仲間の大人や犬たちと出くわす度、一言二言会話を交わしてすれ違っていく。
 学校の同級生はもちろん、散歩仲間にまで理宇が浪人して東京大学を目指すことは知れ渡っているので、本当は少し気まずい。「頑張ってね」と笑顔で応援される毎に、喜びや感謝の他に疲労を感じてしまうのが相手に対して申し訳なくて、理宇は極力知り合いと出会わないよう祈りながら、注意深く道を選んでいた。しかしそんな風に強く意識する時に限って、人に会ってしまうものである。脇の道から顔見知りの男性が犬を連れて現れたのを見て、理宇は気が重くなった。
「あれ、クリスちゃんとこのおねえちゃん。久しぶりやな」
 近頃顔を合わせていなかった相手に、理宇は笑顔で「こんにちは」と返す。犬同士が鼻をくっつけ合って挨拶しているのを見ながら、そういえばこの人は自分が浪人していることを知っているのかな、とふと疑問に思った。しばらく彼に会っていなかったので、理宇からは現状を伝えていない。普段愛犬を散歩させている律子が言っているかどうかだが……。
 顔を上げると、不思議そうな表情と正面から視線がかち合ったので、思わず身構える。
「そういえば、受験終わって今、どうしてんの?」
 きた。表面上は笑みを浮かべたまま、心の中で盛大にため息をついた。
「いやあ……実は受験に失敗してしまいまして。今浪人中なんです」
 何度となく繰り返してきた答えを、苦笑しながら滑らかに口にする。こちらがこう言うと、大抵の人は一瞬「しまった」というような表情を浮かべ、少し困ってから「大変だね」と決まりきった言葉を返してくる。返答に困らせる側としてもやりとりが重くなるのはつらいので、いつの間にかできるだけなんでもない調子を装って口にするようになっていた。どうせ今回も同じ反応を目の当たりにするのだろうと、相手の驚いた顔を理宇は憂鬱な気分で眺める。ところが開いた口から聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。
「へえ。優雅なご身分やな」
 理宇は目をぱちくりとさせてから「へっ?」と間抜けな声を上げた。
「だってそうやろ? おねえちゃん一年余計に学生生活できる訳やん。働きもせんと勉強だけして飯食えるんやから、恵まれた身分や。ご両親に感謝せなな」
 にこにこと笑いながら説明されている間、理宇は「そうですね」とぎこちなく頷くのがやっとだった。それから彼は、呆気にとられている理宇の様子を気に留めることもなく、愛犬に「そろそろ行くか?」と声をかける。よく躾けられた犬がそれに一声鳴いて応える。別れ際彼がいつも見せてくれるこのパフォーマンスが理宇は好きだったが、この時は心を和ませる余裕なんて持ち合わせてはいなかった。
 短く挨拶を交わして互いに離れていきながら、理宇は徐々に心が乱れていくのを感じ出した。
 優雅なご身分。浪人していると告げた相手にそんなことを言われたのは、初めてだった。
 少し失礼な言い方じゃないか、と思いかけたところで、そんなことを考えた自分の甘さに気づき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
 理宇が今までに言われてきた言葉は、どれも浪人することの大変さを気遣って発せられたものばかりだった。しかし先程もらった言葉は違った。実際に浪人する理宇自身ではなく、浪人させてやる理宇の両親の大変さを気遣った言葉だ。
 自分の家庭の経済事情に、思いを馳せる。自分のために日々色々と倹約しながら働いてくれている両親の姿を、思い浮かべる。
 本当に大変なのは――自分のことで苦しい、つらいと言える理宇ではなく――理宇のことで色々なものを堪えてくれている両親なのだ。
 ――優雅なご身分……その通りじゃないか。
 こみあがってきた想いに堪らなくなって思わず立ち止まる。周囲の匂いを嗅ぎながら数歩分先を歩いていた愛犬が、不思議そうに見上げてきた。無垢な目と視線を合わせて、精一杯微笑してみせる。
「ごめんクリス。……早く帰ろうね」
 現実世界では、絶対なんてない。それでも、両親に無理させてまで浪人しているのだから、今度こそ「絶対」合格しなくてはいけないのだ。不安が一挙に押し寄せてきたのを感じたが、理宇はぐっと下唇を噛んで堪える。
 つらいとか苦しいとか、言っている場合じゃない。無我夢中で勉強して、何が何でも合格しなくては――。
 再びくんくんと鼻を鳴らし始めたクリスを連れ、家を目指して足早に歩く。夕陽に照らし出された理宇の顔は、ひどく強張っている。理宇の心情を反映してか、足元から伸びる影まで、やけにぎこちなく身体を追いかけているようだった。

11

 それはあまりにも唐突だった。
 秋も深まった頃。理宇は放課後予備校の自習室で勉強するのをやめ、講義後に講師にいくつか質問をしてから、すぐ帰宅するようになっていた。
 予備校は家から遠いので、いくら急いで帰宅しても、家の敷居をまたぐ頃にはとっくに夕食の時間帯になっている。司の帰宅は大抵理宇よりずっと遅いので、夕食は律子と二人でとることが多いのだが、近頃理宇は食事中でさえ参考書やノートを開いていることが多くなった。
 その日理宇は、文字をびっしり書き込んだ白地図を眺めながらもくもくと食事を口に運んでいた。時折律子と話す以外は、食事中であっても勉強し続ける。テレビも音楽もかけられていない静かな食卓。苦手な地理の知識を頭の中に叩きこむよう、小さな文字の列を何度も何度も目で追う。そちらにばかり意識が向いているので、食事を味わう余裕なんてない。
「なあ、理宇」
 気遣うようにそっと名前を呼ばれて、理宇は顔を上げて隣を見た。
「ご飯の時くらい、勉強は休憩してもええんちゃう? どうせならテレビかけるとかさ」
 律子の提案に、理宇は疲れた顔でうーんと唸る。あまり乗り気ではない声だった。
「お母さん、今何か見たい番組あんの?」
「そういう訳ちゃうけど……」
 律子は躊躇いがちに目を伏せる。
「あんた昔テレビ大好きやったやん。あんたこそ見たないの?」
 そう言う律子の脳裏には、まだ物心つくかつかないかといった頃の理宇のことが思い浮かんでいるのだろう。理宇はちょっと困ったように眉を顰めて、テーブルの端に置いてあった新聞を手に取ってみた。
 時刻を確認してから番組表をざっと一瞥する。特に心惹かれる番組名は見当たらない。程なく四つ折にして、元の位置に新聞を戻した。
 当時の自分が相当のテレビっ子であったことは、飽きるくらい繰り返し両親から聞かされていた。正直なところ自分ではあまりよく覚えていないのだが、あの頃は確かにテレビが大好きだったのだろう。
 しかしそれは過去の話。かつての理宇と今の理宇は、違うのだ。
「今のあたしは別にテレビ好きとちゃうし、見たいって思うもんもないから、ええわ」
 特に興味もない番組を見て時間を浪費し、後で悔いるくらいなら、その時間も勉強に費やす。ずっと勉強だけをしていれば心身共に疲労は激しいし、効率がよくないことは百も承知だ。だが試験の季節が近づいてきて余裕がなくなってきているせいか、勉強以外のことで時間をとってしまえば、理宇は後で必ず強い焦燥感や罪悪感に苛まれるようになっていた。そういった感情に悩まされて更に時間を無駄にするのは、嫌だ。
 それに、と無表情に小声で付け加える。
「最近バラエティ番組とかの演技や会話見てると、なんか全部嘘くさく感じてもて……嫌やねん」
 律子は一瞬箸の動きを止め、観察するような眼差しを理宇に向けた。ちょっとたじろいでしまう。
「理宇はやっぱり……変わったな」
 それから最後のおかずを箸でつまみ、どこか寂しそうな表情を浮かべた。
「小さい頃の理宇は、ほんまにテレビ大好きで……ううん、人が大好きで、人を信じとった。そんなこと、あの頃の理宇は、思いもせんかったはずやよ」
 その言葉で麻野優華のことを思い出して、理宇は顔を曇らせる。
 人が好きな優華。何があってもいつも元気いっぱいで、人生を満喫している様子の、自分とは別世界に生きる少女。
 小さい頃は、この自分も、彼女のような人間だったというのか?
 もやもやとした思いで箸を口にくわえると同時に、後ろに微かな気配が生じたのを感じてはっとする。
『そうだよ。昔の理宇がテレビ好きだったのは、彼女と同じで人間が大好きだったからさ』
 急いで振り向くが、そこに龍の姿はない。妙なことに気配まで掻き消えている。まるで元々そこにはいなかったかのように。いや、気のせいだったはずはない。怪訝な顔をする理宇の横で、律子が空になった食器を手に立ち上がった。
「ほんまに……あの頃の理宇は、天使みたいやったよ。世の中百パーセントの悪人はおらん言うて、どんなに悪い人の中にも優しいところはあるんやって……だからみんな好きやし信じるって、いつも言うてた」
 独り言じみた律子の呟き。理宇の奥に転がっていた、古くて擦り切れた箱の蓋が少し開いて、遠い記憶がほんのりと香った――そんなイメージが生まれて、消えた。
『無知ゆえの思いであっても、やはりそれが理宇の本質だ』
 律子の言葉に被せるように、聞き慣れたはずの声が再び脳内に響き渡る。先程微かに感じた気配は、確かにこの部屋にいる。それは分かっているのに、何故か場所を特定することができない。今までになかった彼の行動に、理宇は戸惑いを隠すことができなかった。
 ――龍、さん?
 姿の見えない相手に向かって心の中で呼びかける。いつの間にか、胸がざわついていた。
 ――どこにおるん?
 心細さに耐えかねて尋ねると、どこかで誰かが小さく笑ったような気がした。反応があったことに安堵しかけたが、
『弱いようでいて、実は手強い』
 返ってきたのは、要領の得ない言葉。ますます言い知れぬ不安が迫ってきたのを感じて、理宇は思わずがたんと音を立てて席を立つ。皿を洗う手を止めて、律子がびっくりしたように目を見開いた。
「理宇? 何?」
「え……あ」
 しばし呆然と律子の顔を見つめた後で我に返り、何でもない、と理宇は首を横に振る。どきどきする胸を無視して、落ち着こうと椅子に腰を下ろす。それから箸を持ち直して食事を再開するものの――勉強しながら食べていた時よりも、更に味が分からなくなっているようだった。
 ――龍さん?
 もう一度呼んでみる。今度はいくら待っても、うんともすんとも言わない。気配もすっかり消え去っている。
 龍が自分の呼びかけに応えてくれない。胸騒ぎは大きくなるばかりだ。この不安を一人で抱えるのは、あまりにも心細い。律子をちらと見やる。すると 先程言われたばかりの言葉が思い出された。
 小さい頃の理宇は。
 今更ながら、複雑な気持ちが腹の底から湧き上がってきた。小さい頃と今とを比較されるのは、自分にとってあまり気分がいいことではないのだと、理宇は学ぶ。今口を開けば、たちまち苛立ちを帯びた声を発してしまいそうだと直感した。それに見えない世界のことなら、郁代に相談するべきだ。
大丈夫。自分は心配性なだけ。龍さんは何か考えがあって、今わたしの呼びかけに応えてくれない、それだけ。どうしても不安なら、今度会う時郁代にきけばいいじゃないか―そう自分を納得させて、理宇は不安で満たされた心にひとまず蓋をした。
大丈夫。何度でも自分に言い聞かせた。大丈夫。しかし結局のところ、理宇の不吉な予感は的中することとなる。
この日以来、龍からの音信はぷつりと途絶えてしまった。


12

 信じたくはなかった。それでもここで事実から目を逸らせば、今までの自分と変わらない。現実から逃げ出し続けてここまで来たのだ。自分はもう充分逃げた。これからは立ち向かっていなかなければ――そう、思うのに。
 感情という感情がそぎ落とされたような顔で、理宇は自室に篭っていた。何をするでもなく、椅子に座って呆然としたまま。机の上に広げられた参考書は、先程衝動的にページを引き裂いたせいで、悲壮な様相を呈している。
 自分の手で引きちぎったページが散乱している部屋。理宇はぼんやりと辺りを見回して、顔を歪める。寒くもないのに身体が震えて、既に腫れあがった目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
 部屋には、何の気配もない。すっかり慣れ、信じきっていた青い気配は、もう遠い過去に消え去ってしまったようだった。
 できることなら、嘘だと言って欲しい。
「龍さんが……」
 ぐっと言葉が喉につまる。ティッシュを乱暴に目元にあてがい、鼻をすすった。昨日郁代と交わした会話が、郁代のつらそうな表情と共にフラッシュバックする。
 ――理宇ちゃんもおばちゃんも、騙されとった。
 咄嗟に、机の上に残っていた参考書の残骸を手で払い落とした。がたんと荒い音を立てて立ち上がり、ドアを開けて部屋を出る。追われるように階段を駆け下り、驚いている愛犬の横を通り過ぎて玄関へ。日曜日の昼下がり。両親は買い物に出かけていて、今はいない。ぼろぼろの黒いスニーカーを履いて、理宇はぐるぐるとした気持ちを抱え、鍵もかけずに家を飛び出した。
 ――あれは、龍じゃなかった。魔界のもんやったんや。
 理宇の意志に関係なく、郁代の声が頭のなかで再生される。行き先も決めず、無我夢中で走っていく。焦燥感や不安といった様々な負の感情に急き立てられて。荒い息で走りながら、時折後ろを振り返る。誰もいないと分かっているのに、そうせざるを得なかった。
 ――理宇ちゃんを利用するために、理宇ちゃんの好きな龍に化けて、憑いたんや。
 やめて。もう聞きたくない。そんなこと言わないで。
 風に流されて、透明な雫が頬を横切っていく。人がいないのをいいことに、理宇は涙を流れるままに任せている。
 龍さんはいつだって優しかった。理宇にとって、かけがえのない存在――心の支えだった。そんな彼が魔だったなんて。自分を騙して利用するためだけに、やってきたなんて。
 ――もう分かってるやろ? 優しくしてたんは、理宇ちゃんに自分を信じさせて、つけ入るためやったんやって……。
「そんなん、知らん!」
 思わず声に出して叫んだところで、はっとして足を止める。そこで理宇はようやく、自分が公園にいることを自覚した。
 そこは大きなすべり台とシーソーといった遊具が静かに佇んでいる、こじんまりとした公園だった。人気がないせいか、どこかうら寂しい雰囲気が漂っている。
 理宇はしばらく悄然とその場に立ち尽くしていたが、やがて自嘲的な笑みを浮かべてすべり台へと近づいていった。この公園にあるすべり台は、一般によく見かけるステンレス製のすべり台とは違って、石とコンクリートで作られており、山を模したような形をしている。子どもが横一列に並んで六、七人は一度にすべることができるくらい、斜面の横幅が広い。かつて小学校低学年だった頃、クラスメート達とよくここで遊んだ思い出がうっすらと蘇ってくる。あの頃は毎日が楽しかった。理宇は負の感情のなかから懐かしさが顔を覗かせるのを、ぼんやりと感じていた。
 気が向いたので、階段を上ってすべり台のてっぺんに腰を下ろす。いやに気持ちのいい風が理宇の髪をそよがせていく。顔を上げると、ほとんど雲のない薄青い空が、理宇の頭上に広がっていた。
 ぽかんと口を開けて、理宇はしばらく広大な空を食い入るように見つめた。高層ビルやマンションなどといったものが存在しないため、どこまでも続く、広大な田舎の青。
 龍と同じ色をした空は、一点の穢れもなく、清々しい程に澄み切っている。
 ――理宇ちゃんがあんまり素直に全幅の信頼を寄せてくるもんやから、これ以上騙し続けることが難しくなったみたいやで。
 全幅の信頼、なんて。言い方を変えればそんなの、自分が馬鹿で騙されやすかったというだけではないか。
 理宇は空を見上げたまま目を細める。空はこんなに広い。
 その時理宇は、苦しみ悲しんでいた自分とは別に、なんてちっぽけな人間、と呆れ果てているもう一人の自分の存在を意識した。
 もう一人の自分は問いかける――一体何がそんなに苦しいの? 
 いつの間にか涙は止まっていた。
 空と同じ色をしていた「龍」。確かに自分には彼の存在が見えたし、意思疎通をすることもできた。だけど彼は空みたいに、この世に実在している訳じゃない。あくまであの世の存在なのだ。
 理宇が苦しんでいるのは、現実の出来事についてじゃない。
 そのように考えた途端、水をかけられたかのように頭が冷える。すとん、と収まるべきところに物が正しく収まったような感覚が生じたかと思うと、涙の原因となっていた負の感情たちが、急速に萎んでいく。
「……ばっかみたい」
 急に冷静になった自分に戸惑ったのは確かだが、それにしてもやけに狼狽した声が出た。
 現実に生きながら、自分は未だ見えない世界に振り回されていた。見えない世界に囚われ続ける限り、これ以上自分は進むことができないに違いない。大学受験に一度失敗した時、気づいたはずだったのに――。
 いくつも寄り道をして、何度も遠回りをして、ひどく時間はかかったけれど――理宇はやっとのことで、自分の歩むべき道に戻ろうとしていた。
 
 13
 
 首が痛くなってきたので顔を戻すと、公園の入口から誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。その姿を視認するや否や、理宇の顔に微かに驚きの表情が浮かぶ。同時に相手も理宇の存在に気がついたらしく、足の動きが一瞬乱れる。
 先に口を開いたのは、向こうだった。
「あれ、るー?」
 思いがけない邂逅に、理宇は目を数度瞬いた後で口を開く。
「……茜」
 その人物は小学校からの付き合いである、親友の茜だった。理宇はなんだか救われたような心地がして、ほっと安堵の息をつく。その顔に、弱弱しくはあったが、自然と微笑が浮かんでいた。
 茜はさくさくと砂場を踏みしめ、すべり台の下まで歩いてきた。
「びっくりした。久しぶりやなあ、るー」
 満面の笑みを浮かべて茜が言う。「るー」とは茜が考えた理宇の愛称の一つで、その呼び名を使う人間は、茜一人だけだった。久しぶりに耳にしたその渾名は、予想以上に理宇の心を強く打った。笑みを維持することも忘れ、
「……ほんと、久しぶりやなあ、茜」
 と鼻のつまったような声で返すのが精一杯だった。茜がその名前で呼びかけてくれた瞬間、茜と自分とを繋いでいる、見えないけれど深い絆を、本能のようなものでひしひしと感じ取ったからだ。
「そんなとこで何してんの?」
 理宇を眩しそうに見上げて、茜は腹の底から声を出す。
「ちょっとしんどなって……気分転換」
 理宇は対照的にか細い声で答える。言ってから、自分の音量では聞き取りづらいだろうと気づき、すべり台を降りようと腰を浮かしかけた。と、茜が数歩すべり台から後退したのが見える。意図を理解した理宇が座りなおすとほぼ同時に、茜は力強く地を蹴って、勢いをつけすべり台を下から駆け上ってきた。
「いよっしゃあ!」
 無事上りきり、理宇の隣に到着すると、大きな声で嬉しそうに笑う。そんな茜を見上げて、今度は理宇が眩しそうに目を細める。目が合うと、理宇の頭上に茜の温かな手が乗せられた。
「るーはどうせ、勉強し過ぎなんやろ。わしみたいにもっと、お気楽―に生きた方がええで」
 なんて言って、理宇の頭を上から押さえつけるように掻き回す茜。やめろ、と抵抗しつつも、理宇はこみ上げてくるくすくす笑いを堪えることができなかった。
 大事だ――と思った。自分にとってこの子は、かけがえのない存在だ。
 理宇は今まで、自分と茜が普段連絡を取り合わないことについて、少しも不思議に思ったことがなかった。一年やそこら接触していなくとも、自分たちが大の親友同士であるということに、一遍たりとも疑いの気持ちを差し挟んだことがなかった。それは理宇にとってあまりにも自然で、当然のことだったから。今の今まで改めて考える機会が今までなかったのだ。
「茜は、変わんないなあ」
 無意識のうちに、そんな言葉が口をついて出た。
「るーも、変われへんな」
 どっこいせ、と理宇の傍らに腰を下ろしながら、茜も同じ言葉で応じる。
 あんたは変わった――郁代からは先日そう言われたことを思い出した。
どちらの言葉も正しいのだろう、と今の理宇は思う。
 自分も茜も、日々変化し続けている。顔を合わせていない長い間にも、互いの知らない部分はたくさん増え続けているだろう。今までも、そしてこれからも。
 それでもきっと、根本的な部分は変わらないのだ。
 自分たちはこれからも、会う度相手のなかに変わっていない部分を見出すことができるだろう。変わっている部分を見つけて、すんなりと受け入れることができるだろう。
「……なんでそんな笑ってんの、るー?」
 不思議そうに尋ねられると、理宇はますますおかしくなって、笑い声を上げて肩を震わせた。
「なんでやろね?」
「なんそれ」
「さあ」
 はぐらかしながら、手を伸ばして茜の頬を指でつまむ。最初茜は「なんや?」と小首を傾げ、大人しくされるがままでいた。しかし理宇が調子に乗って、あんまりしつこく伸ばしたり引っ張ったりするので、
「いい加減やめい!」
と、終いには嫌がってすべり台を滑り降り、脱走してしまう。
「あーあ」
 残念そうにため息をつくと、茜が振り返ってこれ見よがしに口を尖らせ、不満げな顔をしてみせた。
「あーあ、ちゃうわ。せっかく会えたんに、人の顔で遊んで、誤魔化しよって。分かってるんか、るー? わしら会ったん、半年ぶりくらいやで」
 分かってるよ、と心のなかで呟く。今分かった、と声に出して答える。
 理宇はようやく気がついた。
 長い間、自分は人間が嫌いだと思い続けてきた。人間は簡単に嘘をつくし、すぐに裏切るし、勝手だし――と、一面を見ただけでそれが全部であるかのように決め付けて、他の部分を見逃してきた。そうして人と向き合うことから逃げ出していたのだ。現実を直視するのが怖くて、見えない世界の存在を求め、龍に依存したのだ。
 以前学んだはずだったのに。かつて理解したのは頭でだけで、きっと心では認めきってはいなかったのだ。小さな世界しか知らない自分が、一面を見ただけで現実を嫌い、逃避し続けていたということを。
 今回の「龍」の件も、結局のところ、今までこの身に降りかかってきた苦しみと同じなのだろう。立ち向かうべき現実の出来事から目を逸らしたがったばかりに、理宇の心が弱いばかりに、招いた経験なのだ。逃げ続ける限り、似たような苦しみは何度でもやってくるに違いない。
 ――変なの。
 我ながら本当におかしくて、茜に怪訝そうな顔をされようが、お構いなしに笑ってしまう。天気がいいせいか、とても清々しい気分だ。
 大切な親友は、もう一度すべり台を上ろうかと逡巡している様子だった。
 ――こんなに単純なことを、今まで認められなかったなんて。
 手をついて立ち上がる。青空を見上げながら一度目一杯伸びをして、凝った肩を回す。それから視線を下げると、丁度自分を見上げていた茜と目が合った。理宇は確信を深めて、意味もなく頷きかけてみせる。ところがその頷きに、茜は茜で意味を読み取ったらしい。「おう」と笑ってすべり台から少し距離をとる。理宇が降りてくると思ったのだろう。
 ――あたしは、人間が好きなんだ。本当に嫌いなら、誰かを好きになることなんてできないはずだ。こんな風に誰か一人に対してでも、全幅の信頼を置くことなんて、できないはずだ……。
 茜に対する自分のこの心が、何よりの証拠だった。よりによって今日半年ぶりに会えたのは、必然に他ならないと感じた。
「茜ぇ」
 普段の倍くらい大きなボリュームで呼ぶと、茜はわざと変な顔をつくって「んー?」と耳の後ろに手を当てる。その大袈裟な仕草がまたおかしくて、ひとしきり笑ってから理宇は腰に手を当て、胸を張った。
「やっぱり、大好きやで!」
 そう一声叫び、すべり台の緩やかな傾斜を一気に駆け下りる。最後は両足で砂地に着地し、横を向くと、呆気にとられて大口を開けている茜がそこにいた。間の抜けたその表情は、どうやら素の反応らしい。あまりにも唐突で脈絡のない発言だったので、無理もない。
「ヘンな顔」
 少し照れくさくなって人差し指で頬をつつくと、我に返った茜が「いきなりなんな!?」と声を上げ、得意技のエルボーを繰り出してきた。理宇が逃げても追従してくる。
「びっくりするやん! ヘンな、るー!」
 言いつつ攻撃してくるのは、動揺以上に照れ隠しのためだ。予想通りの反応に、すべり台の周囲をぐるぐると回って逃げながら、理宇は満足していた。
 ――ありがとう、茜。
 追いつかれて羽交い絞めにされても、「ギブ、ギブ」と言いつつ理宇は心の底から笑っている。もう随分長い間見失っていた自分自身を、やっと見つけることができた。
 「龍」がいなくても、もう大丈夫だ。現実を生きていく心の支えに、見えない世界を求めたりはしない。今度こそ本当に、地に足をつけて頑張れる。
 しばらく公園で過ごした後、二人並んで帰路につく。他愛もない雑談に興じている途中で、ふと茜が押し黙る。どうしたのかと理宇が首を傾げると、茜は少し口ごもってから、
「あんな、わしもな、るー大好きやで」
 ちょっと照れくさそうに、それでもにっこり笑って、そう言った。

14

 二度目の試験シーズンがやってきた。
 前年とは異なる会場で、理宇はセンター試験を受験した。飽きるくらい過去問を解き、本番も既に一度経験しているおかげで、至って冷静に二日間を乗り切ることができた。
 翌日自己採点をしてみると、足切りの心配はなかったものの、総合得点は前年より少しばかり低くなってしまった。
不安はあった。だが一年余計に勉強してきたことは、少なからず理宇の自信に繋がっていた。この一年は理宇にとって無駄ではなかったし、過ぎ去った後だから言えることなのかもしれないが、むしろ必要な時間だったのだと思う。たとえ再び不合格になったとしても、浪人できてよかったと心の底から感謝できるだろう――そうゆったりと構えて日々を過ごし、二次試験も平静な気持ちで受験した。
 結果発表までの間、理宇は前年のように、郁代に試験結果などについて尋ねることはしなかった。全力を尽くしたのだから、あとはただあるがままに受け入れるだけだと思った。
 そして二度目の合格発表の日――。
 両親と共に、理宇は受験生や東大生でごった返す本郷キャンパスにやって来た。不合格だったらと思うと足が竦んだ。インターネットで結果を見てから、直接掲示板を確認しに来ることも少し考えた。しかし合格であろうと不合格であろうと、とにかく自分の目でしっかり確かめたいという思いが強かったので、結局三人揃ってわざわざ東京まで赴いたのだ。
 賑やかなざわめきのなか、人ごみを掻き分けて理宇は掲示板の元へ辿り着いた。周りの喧騒に負けじと大きな音を立てている心臓。手元の受験票と掲示板とを交互に見比べながら、祈るように番号を探す。
 ――お願い、どうか――。
 先に見つけたのは、理宇の後ろから探していた律子だった。
「見て、理宇! そこ!」
 伸ばされた指が示す先。それを目で追っていた理宇の頬に、みるみるうちに赤みが差す。続けて見つけた司が相好を崩し、律子ははしゃいだ声を上げて娘の肩を何度も叩いた。
 理宇は細かに瞬きをしたり目を擦ったりして、自分の見ている番号が幻ではないことを確かめる。それだけではまだ不安だったので、更に受験票の番号と掲示板とを交互にしつこく見つめ、五分くらい繰り返したところで、ようやく表情を緩めて口を開いた。
「あった……」
 あまりにも嬉しくて、目頭が熱くなる。自分の周囲を見回すと、喜び合っている人々の笑顔がいくつもあった。すぐ傍で掛け声が聞こえ、そちらを見やれば胴上げが行われている真っ最中だった。まるでお祭のような騒ぎだ。
「番号、あったよ!」
 声を張り上げて振り返った理宇に、司がすかさずカメラのレンズを向ける。
 今まで生きてきたなかで一番幸せそうな理宇の笑顔を捉えて、シャッターを切る音がぱしゃりと鳴った。
 勉強が嫌いだと泣いてばかりいた、興味も知識も経験も偏った女の子。そんな彼女が一年の浪人生活を経て、東京大学に無事合格することができたのだった。

 ――以上が、世間知らずな一人の人間の、大学受験までの記録です。今回はこの辺りで筆を置くことにしましょう。
 予想以上に長くなってしまいましたが、この話を書くことができてよかったと思います。
 Web担当さん、家族、友人、そして何よりここまでお付き合いくださったみなさんに、感謝を込めて。

世間知らずなおじょうさま(猫乃世星)

読んでくださってありがとうございます。猫乃世星こと愛本ゆうりです。
   こちらのお話を書くようになったきっかけは、ある人から「書きなよ」と何度も何度も言われたことでした。しかし何度言われても、こういうテーマのものは、わたしとしては書くのに少し躊躇がありました。色々と考えてしまうと、難しくて。
   しかし「こういうテーマの小説もあっていいと思う」と言われたのと、そして似たようなテーマを扱った二、三の小説を読むうちに、「こういう小説を書いてみるのもいいか」と思えるようになりました。そうしてできたのがこの作品です。
   目を通してくださる方に少しでも伝わりますようにと考え考え書くのは、とても幸せな経験です。
   ありがとうございました。
   
   個人サイト→http://yuriaimoto.web.fc2.com/

世間知らずなおじょうさま(猫乃世星)

家族みんなから望まれて生まれた、一人の女の子。彼女はちょっと不思議な力を持っていて、とにかく勉強が大大大嫌いでした。それなのに、何故か東京大学を受験することに――。興味も知識も経験も偏った一人の女の子の奮闘記。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 理宇、小学生
  2. 第二章 理宇、中学生
  3. 第三章 理宇、高校生
  4. 第四章 理宇、優雅な身分