坊主の善生

坊主の善生

 おらは、とても裕福な家に生まれた。
 お父さんも、お母さんも、大きな会社の偉い人で、いつも綺麗な服を着ていたよ。
 けれど、二人の間に生まれたおらの事を、とても嫌っていた。

 おら、難しい事は解らないけれど、どうも、おらは皆よりも頭が悪いらしいんだ。
 馬鹿だから、学校での勉強は、皆に追いつけない。
 両親は、頭の悪い子供を、愛してくれなかった。
「お前はこの家に、会社に、相応しくない」
「あんたなんかを産んだ私が、迷惑な思いをするのよ」
 家にいると、いつも、生きた心地がしなかったよ。

 学校には、友達が一人もいなかった。
 皆は、授業をまともに理解できないおらを、馬鹿にしたり、殴ったりした。
 下校時間になると、大勢で追いかけまわして、石を投げてきた。
 いつも、いつも、傷ができて、家に帰る。
 それでも両親は、気にもかけなかった。

 家や学校に、おらの居場所は無い。
 お父さん、いつも厳しい貴方だったけど、おらは、お父さんが好きだ。
 お母さん、おらを産んでくれて、ありがとう。愛しています。
 二人のためにも、おらがいたら邪魔なんだ。
 ならば、自分が出ていくことで、お互いに心は楽になる筈だ。
 そう、心に言い聞かせて、家を出て行ったんだ。

 街を歩き続けて、ちょっと遠くまで行くと、山がある。
 山道に入って、階段も使って、お寺に辿り着く。
 おらは、ここを目指していた。
 こうなったら、おらは仏様の子になるしかない。
 自分でも、不思議なぐらいに、納得がいっていたんだ。

「お坊さん、助けてください」
 辺りはもう真っ暗だった。
 僧堂の扉が開かれると、お爺さんがおらを見下ろした。
 ああ、このお寺の、お坊さんだ。
「こんな真夜中に、どうしたんだい、君」
「もう、おらには、生きていける場所がありません。家も、学校も、おらにとっては地獄です。ここで修行をさせてください。おらを、仏様の子にしてください」
 お坊さんは、おらを僧堂に迎え入れてくれた。
 彼は、おらの事をよく知るために、ゆっくり時間をかけて話を聴いてくれた。
 今までどの様に生きてきたか。どの様な苦しみがあったのか。
 そして、おらがどんな人間なのか。丁寧に、理解しようとしてくれたよ。
 この時間が、とても嬉しかった。人間らしい会話ができたから。


 こんな言い方をしたら、おかしいかも知れないけれど、お寺での暮らしは幸せだった。
 毎日早起きをして、お掃除を沢山して、何もかもを綺麗にしていく。
 お坊さんが時間を作ってくれて、おらのために算数や、日本語を教えてくれる。
 学校の先生が毎日やっている授業よりも、ずっと解りやすかった。
 そしてお坊さんは、利口ではないおらにも解りやすいように、仏様の教えを説いてくれた。きっと、本当はとても難しい教えなんだと思う。それでも、彼はおらにも丁寧に教えてくれたんだ。

「仏様はね、人に多くの事を求めはしない。
 心を綺麗に磨いて、毎日を明るく元気に、人に優しく生きる。
 皆が助け合って生きる事だけを、仏様は喜ぶんだよ。お前にもできることなんだ」

 おらは、本当に、この人に出会えて良かった。そう思えたよ。


 お寺の手伝いをするために、お使いに行くこともあった。
 必要な物を買うために街へ出かけたり、お坊さんが調合したお薬を、病人がいるお家まで届けに行ったり、忙しかったけれど、とても心は清々しい毎日だったよ。

 でも、登校中や下校中の、元同級生達とすれ違う時は、いつも石を投げられた。
 ある日の事だった。
 彼らの投げた石が、おらのおでこに深い切り傷をつけた。
 血が溢れて、おらはびっくりしてしまって、慌てて手拭いで傷口を押さえたんだ。
 とても痛かったし、哀しかった。それでもお使いはちゃんとやろうと思ったよ。
 お薬を待っている、病気で苦しむ人がいるんだから。

 片手でおでこを押さえながら、歩き続けていると、兵隊さん達が働いている大きな建物の前を通りかかったんだ。その門の前で、鉄砲を持って見張り番をしている兵隊さんが、おらに気が付くと、声をかけてくれた。
「おい、君、どうしたんだ、酷い傷じゃないか」
 おらは、誰かが悪い、なんて言い方をしたくなかったから、にこにこ笑いながら、
「思いっきり転んでしまって」
 と、嘘をついてしまったよ。
「早くお家に帰って、お母さんに手当てしてもらいなさい」
「……おら、お寺の子だから、親には、もう会わないんです」
 右手で持っている風呂敷を見せて、おらは言った。
「今日も、病気の人がいる所まで、このお薬を届けに行くお使いの途中です」
 すると、兵隊さんは哀しそうな眼差しで、おらの顔をじっと見つめて、こう言った。
「よし、こっちにおいで、ここには軍医殿がいるからな。お前の傷を、手当てしてもらおう」
 兵隊さんは、おらを抱っこしてくれた。
 おらの傷が痛まないように、丁寧に、早歩きで、軍医さんがいる所まで連れて行ってくれたんだ。
 部屋の中は、お薬の匂いでいっぱいだった。でも、不思議と落ち着くんだ。
「どうしたんだ、その子は」
「いやあ、どうも、派手に転んでしまったらしくて、額の傷を手当てして欲しいのです」
 すると、軍医さんも、おらが緊張しないように気遣ってくれたのか、にこり、と笑ったよ。
「おお、坊主。この傷、痛かっただろう。よう辛抱したな。今、手当てをしてやるぞ」
 おらは、嬉しくて、涙が溢れた。
 人の優しさが、胸を温かくしてくれたから。

 優しい兵隊さんと軍医さんにお礼をちゃんと言って、おらはお使いを終えた。
 お寺に帰ると、お坊さんが、おらの姿を見て、抱きしめてくれた。
 お坊さんは、静かな、穏やかな声で言ったんだ。
「今日からお前の名前は『善生』だよ。善生、お前は善い命を授かったね」


 戦争がずっとずっと、続いていたから、街の皆が食べる物も、貧しくなっていく。
 お寺での暮らしは、もとから厳しく、おらにとっては心地良かった。
 頭が悪いなら産まなければ良かった、この家にいらない、だとか、
 勉強できないお前はまぬけだ、あほだ、だとか、
 そんな酷い言葉は、一度も使われない。
 ただ、毎日のお掃除と、お勉強を、一所懸命に頑張るだけだから。

 けれどね、とても寒い冬が来て、お坊さんが咳をすることが増えたんだ。
 毎日、ごほごほ、ごほごほって、つらそうな咳をしている。
 お坊さんはお布団で寝たまま、起き上がることも大変になった。
 酷い咳が始まると、血が混じることもあったよ。

 お坊さん、お坊さん、死なないでね。
 おら、お坊さんのことが大好きだ。
 初めて、おらのことを人間として見てくれた御人だ。
 お父さんや、お母さんよりも、お坊さんが、おらの親だって思えるぐらい、
 おらは、あなたのことを、敬っています。
 あなたが死んでしまったら、おらは、おらは、
 本当に、独りぼっちになってしまう。

 以前、お坊さんから教わったよ。
「盗みを働いてはいけないぞ。仏様が泥棒の手を強く叩いて懲らしめるからね」
 うん、わかる。おらにも、その意味はわかる。
 でも、死なないでほしい。お坊さんには、元気になって欲しかった。
 栄養のある物を食べて、病気を治してほしかったんだ。
 おらは、お寺のご本尊に向かって、謝った。

 仏様、おらのことは、厳しくしかってください。叩いて、懲らしめてください。
 おらは、あの立派なお坊さんを、死なせたくないです。
 彼のために、おらは、盗みを働きます。


 真夜中に、おらはあの場所に向かっていた。
 優しい兵隊さんと、軍医さんがいた、あの大きな建物だ。
 軍隊のある場所に、街の皆の食べ物が集められている、とおらは思ったんだ。
 缶詰を手に入れることができれば、お坊さんに食べさせることができれば……。
 そう考えて、軍隊の建物の中で、食べ物がしまってありそうな場所を、こっそり探したんだ。
 でも、兵隊さん達に、見つかってしまった。
 皆、とても怖い顔で、おらをぶん殴った。
 もちろん、おらが悪いことをしたのだから、当然の報いだと思ったよ。
 だから、泣かなかった。
「軍から食糧を盗むなど、この餓鬼ッ」
 何度も、何度も、殴られた。
 頬の内側が切れて、血の味がした。歯も折れた。

「やめろ──ッ」

 聞き覚えのある声だった。
 あの日、怪我をしたおらの事を助けてくれた、兵隊さんの声だ。
「徳山ッ、貴様、上官に何をするッ」
「この子は、この子はなァ、親に見放された、可哀そうな子なんだッ。石を投げられても、誰の事も憎めない、仏様にお仕えする、尊い子なんだ。殴らないでやってくれ、酷いことをしないでくれェ──ッ」
 徳山と呼ばれた兵隊さんは、おらを庇う様に抱きしめて、他の怖い人達から守ってくれた。
 徳山さんは、一晩中、殴られて、蹴り飛ばされた。
 空の東側が、青白くなる頃、軍医さんと、とても偉い軍人さんの二人がやってきて、
 徳山さんとおらを、助けてくれた。
 その時には、徳山さんは全身がズタボロで、自力で立ち上がれなかった。
 足腰が、動かせなくなっていたんだ。
 すると、軍医さんが応急手当をしながら、どこか、ほっとしたような、なぜか、安心したかのような、不思議な声で言った。
「足が不自由になったなら、もう、兵隊はできんなぁ。兵隊は、できんよ」
 後になってわかった事だけど、兵隊になれないということは、鉄砲を撃ち合って、戦うことができないという事。だから、徳山さんはある意味、助かったんだ。おらはそう思う。
 もちろん、これからの一生を自由に歩けない事は、とても苦しく、大変なことだけれど、でも、命は助かったんだ。
 軍医さんは、おらにも傷口の消毒をしてくれた。お寺に帰る時には、こっそりと氷砂糖の袋を持たせてくれた。
 泥棒になった悪いおらが、ここまで人に愛してもらえる理由は、一体なんだったんだろう。


 お寺に帰ると、お坊さんは起きていた。
 傷だらけのおらを見て、彼は、初めて、おらのまえで慟哭した。
「すまんな、善生、すまんなぁ……」
 お坊さんは、何もかもを察して、左手で頭を撫でてくれた。
「ほら、お坊さん、氷砂糖だよ。これ、盗んだものじゃないよ。ちゃんと、軍医さんが、おらにくれたんだよ。これを食べれば、喉の痛みもきっと楽になるよ」

 生きることは、苦しいこと。
 生きることは、嬉しいこと。
 生きることは、全てを受け入れること。


 戦争が終わって、一か月が経った頃だった。
 あの徳山さんから、お手紙が届いた。
「故郷にいることで、家族や親族の足手まといになるよりも、仏様にお仕えしたい」
 という意味の文章が書かれている事を、お坊さんが教えてくれた。
 お坊さんは、徳山さんを迎え入れる心があることを、返事のお手紙に書いた。
 それから間もなくして、徳山さんがお寺に来る日が来た。
 おらにとって、彼は大切な恩人だから、直接迎えに行ったよ。
 すると、彼の姿が、山道の下から見えた。
 膝あてを使って足を守り、両手に草鞋を付けて、地面を這いつくばって、ゆっくりゆっくりと、力強く登ってきていた。
「おうい、阿弥陀様、おーうい、阿弥陀様」
 まるで救われたような声音で、彼は愉快そうに大声を出していた。
「徳山さん、徳山さん」
 懐かしい恩人との再会に、嬉し涙が頬を濡らしたよ。


 それからは、おらも、お坊さんも、徳山さんも、一所懸命に働いた。
 お寺のお掃除を毎日続けて、仏様の教えを学んだ。けれど、それだけじゃない。
 戦争が、街の皆の心に深い傷を残した。
 大勢の怪我人や病人もいる。
 生きる道を見失った人は、もっといる。

 皆の心に、少しでも光をお裾分けしたくて、おらたちは頑張った。
 戦争で亡くなった人のために、家族を失った人のために、お祈りをした。
 力尽きて、街路で倒れている人がいたら、心が穏やかになるように、抱きしめた。
 お腹を空かせて喧嘩をする子供達には「喧嘩はやめろ」と言って飴玉を手渡した。
 生きているんだから、おら達はまだ生かされているんだから、自分に対してだけでなく、皆に対して、できる限りの努力を続けたよ。


 生きるって、そういうこと。
 頭の悪いおらにも、わかること。
 そしておらは、終戦から何年も経ってから、心の奥深くを想い起こしたよ。
 おらを愛してくれなかった、二人の親を、赦したよ。
 両親は、おらを産んでくれた。命を与えてくれた。
 確かに、愛してはくれなかった。学校でいじめられても、支えてくれなかった。
 けれど、そのおかげでおらは、何もかもを手放して仏門をくぐる、勇気を得た。
 お坊さんに会えた。徳山さんに会えた。軍医さんに会えた。
 人間の美しい姿、醜い姿、優しい姿、怖い姿、全部を知る事ができた。

 お父さん、お母さん。
 おらは、坊主の善生に成れました。
 二人の事を、心から愛しています。

坊主の善生

坊主の善生

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-04-03

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