記録係


 誕生日会に誘われた時の記憶だと思う。
 差し出されたお皿に丁度いいサイズのケーキと一緒にどうぞ、と淹れてもらえた器の内側で香りのする飲み物が少しずつ冷めていて、壁に掛けられた時計の針がちょっとずつ私に許された自由な時間を減らしていて隣から〇〇ちゃん、今日は大丈夫?っていう心配する声を優しく掛けられてもその日の私は焦ることなく、先の尖ったフォークみたいに丸まったスプーンを上手に使って、頬張るケーキの甘さを楽しんでいた。
 だって買ったばかりの靴にも慣れていなかったし、流行りのCMも大好きだったから、その場にいる全員で心から楽しい大合唱をするんだっていう予感に頬を緩めて、自分でも驚くぐらいの大声で歌い、同じくその場にいた大人にこらっ!って短く、厳しく怒られてもワクワクする気持ちに逆らう気なんて少しも起きなかった。
 だから、案の定帰った先でもたっぷりと怒られて玄関から先に入れてもらえず、反省すべき長い時間をその場で過ごさなければならなくなった、そんな時にも私は見た感じまだまだ歩き足りないって言っている気がする元気な様子の靴の紐を結び直し、暗くなった外に出て、歩き出した。もう戻れないかも知れない、という漠然とした不安から生まれる不思議な色をした『自由』を謳歌するために。


 よく覚えているのは、住宅街を形成しつつもまだまだ原っぱが目立つ近所のあちこちで姿を見せずに鳴く虫の、途切れ途切れに聴こえる綺麗な音に、すーっと吸えた息。近所迷惑にならない程度の拍手をするように瞬いていた斜め上方の星たちが導く、長い道のり。
 黒板に書かれた問題を解け、と次に名指しされるのが予想できる時の順番待ちが苦手で、皆んなの前で書かなければならなかった解法を何度も、何度も頭の中で繰り返す時のドキドキが嫌いだった私は、だからそれよりずっと大人しい心臓が大好きで、時折、視界に入るあの車庫の自動車は私より早く帰って来たのか、それとも一度も外に出なかったのか。私にはちっとも
「分からないなぁ」
 って初めて呟いた時の感触と、それに遅れてくる高まりにときめいた。そうなると私の手は未だ知らない事にますます強く引かれていき、帰るべき場所との距離が遠慮なくどんどんと開いていく。にも関わらず少しも覚えない不安に対してこそ不安を覚える、という奇妙さに私の足が早まった。そんなの、ワクワクしないではいられない。
 冒険はそうして始まった。


 だってね、この前に観たとある市街地を舞台にした映画では三人の主人公が徒歩や自転車で移動し続けていて、偶然にも同じ場面に映り込んでいたりするんだけど交わる事はしなくて、それぞれがそれぞれの寂しさや悲しさを感じさせる最後を迎えた。でもね、わかる!ってなっちゃったんだよね。それまで積み上げてきたものを直接に表現しない事がどれだけ大切で、そのバランスを保つ事がどれだけ難しいか。劇中では天気のいい一日が朝、昼を経て光に頼らないと足元もよく見えない真っ暗な夜に変わっていき、意識的に灯される光の強弱が主人公たちの不安にも希望にもなるんだけど、それがどう現実になるのかって所までは想像できない。希望は希望、不安は不安のままに心の内を漂うの。
 これ、本当に凄い事なんだよ。その生の感触がそのまま私たちが出歩く原動力になるんだから。


 確かに、帰るべき場所からずっと遠ざかった所に建っていた幹線道路沿いのパチンコ屋さんの派手な照明を間近で浴びた時、冒険できる夢を一生見続けられると思っていた感覚はあっさりと消えて、現在する場所に私は怯えたし、あの時の肌を冷やして止まなかった恐ろしさは駆け足で私をいつもの日常に引き戻してくれた。それと同じくらいの頻度で「外に出て行く」ことになった数々の機会にも冷たいドアノブを回す力を奪おうとする不安はあった。
 何かが起きるから、とか何かが起きたからとかそういう後付けの理由に先行するその感触は私の命を守るための警告音だと思ったし、その音量調整はどうにもできないんだろうなって理解した。だから無意識にでも自分を守るべき必要があると判断すれば、一歩も足を踏み出せないぐらいの音量で警告音が鳴るのだろうし、それがその人の正常だといえる。そう思うと、死地に踏み込むのを躊躇わなくなるぐらいに警告音が機能不全になる方がよっぽど怖い。だから不安はどうしたって生きる力に直結している。希望の方も、不安と混ざらないと膨らんだりはしないんだろうな。その適切な配分量みたいなのがあったらいいのに。外付けの調整弁みたいなものがあったら便利だよね、とか妄想したりする。


 私は、入っていた中身を全部外にぶち撒けて、ひっくり返った箱みたいな状態の日常に腰掛ける、その時に目の前に広がる色んなものを、色んな形で表現する行為がきっとそういう働きをしてくれるって期待するけど、そこに生まれる苦しみもやっぱりあると思う。
 書いたり、描いたり、撮ったりするための材料集めみたいに日々を送るのに耐え切れなくて、なのかそれとも有名になった事にしか注目しない世間に酷く絶望して、なのかは分からないけれど、でも、誰にも分かってもらえないっていう孤独はあったのかな。本を読む面白さを知った頃に、あの川端康成が遺書も残さずに自殺したと知って私は心底驚いたけど、容れ物として使える日常のあちこちにある偏りやどうしても埋められないスペースを解消できない時の嫌な気持ちを覚えた後では、うん。色々と思えるものはあった。
 清廉潔白を目指している訳でもない。ただ踏み越えてはいけない一線をいとも容易く踏み越えていく誰かがこの世にいる、と知った後にくる身震いするぐらいの寒気に人はなかなか耐えられない。バレなければいい、みたいな計算が透けて見えたらより最悪。そんな場面で身体の内側から針のように存在を主張してくる自分自身の倫理観が一番の凶器だなって何度も思った。この時に覚える痛みとどう折り合うかが「大人になる」って事なんだなぁとも。で、その都度行わなければならない選択に「私」の生き死にが関わって当然だよって今も思っている。あの映画でもそうだったから。
 亡くなった幼馴染の命日に、主人公の一人が別の幼馴染の友人と二人っきりでした花火の場面はそれ自体でも印象的だったけど、その光景を見つめるもう一人の主人公にとってはその輝きがその日に迎えた誕生日を祝うケーキの蝋燭みたいにも見えて、劇中に深い折り目を入れていた。その主人公も会いたかった友人に最後まで(そして、これからも)出会えなくなって、その後のカットが映し取る二人の晴れない表情によってそれぞれに重いけじめを付けたのだと分かる。その内実については、友達がなぜ死んだのか、友達はどうして引っ越し先から更に引っ越してしまったのかという周辺事情と等しく扱われて劇中では少しも語られなかったけど、その蓋の閉め方というか、手に残ったはずの痛みの程度だけはしっかりと伝わってきた。一線を引くってそれだけ不可侵で、個人的なものだろうから。
 そう気付いた時にね、励まされたんだよ。ああ、私は私個人でいる事ができているんだなって。『すべての夜を思いだす』ってタイトルの素敵さにも。力強くもあるんだよね、実際。


 うん?
 ああ、うん。そうだね、それは間違いない。一番最悪な思い出は?と訊かれて芋づる式にボコボコ出てくる嫌な記憶を一つひとつ、しかめっ面で矯めつ眇めつし、これ以上ないってぐらいに嫌な気持ちに纏められたエピソードを何ひとつ損なわずに質問者に返せる自信が私にはないよ。
 だってこのエピソードがどういうもので、どういう点について、私はこう思ったから最悪な記憶なんですって伝える過程で私の中の一番最悪な思い出は随分とマイルドになるんだろうなって想定できるもん。それが正しく果たされた時に私の感情は誰かの理解に適う程度に収まってしまった、とすごく残念な気持ちになって、それもまた嫌な記憶の仲間入りとなるだろうし、だったら最初っから人受けのいいエピソードを選んで答えた方がいい。たとえそれが自分の中の一番最悪な思い出じゃなくても盛り上がるのならそれがベストだって計算高く考えて、その通りに答えてその場を終わらせる。感情的経験を誰かに伝えるには加工が必要ってずっと信じているからね、私は。
 だから、選べない訳じゃない。一番最悪な思い出を。そこに覚える悲しみや苦しみや怒りが深いと鈍痛だけを伝えてきて、自分の中でも整理できないから向き合えるようになるまでにとっても時間は掛かるけど、向き合える時は来た。でも、そこにある最悪の感情だけが上手く表現できない。このもどかしさがね、一番辛い。真の意味での孤独を感じるとすればこの瞬間だと私は思う。自己完結が先なんだよ、私たちは。そこからしか何も始められない。だから自由にもなれると思うんだ。私が色んな考えや表現を知りたい学びたいって強く希求する動機がここに息づいている。帰るべき場所に帰るにしろ、帰らないにしろ、私はもう動かずにはいられないから。
 だからね。


 誰かを殺すぐらいの覚悟をもって、伝える手段を探求する。だからね、あなたは伝えられないぐらいの思いを感じているって誰よりも信じて欲しい。そうすれば鳴るよ、少しずつでも。信号は変わる。
 その言葉は、だから面白いんだ。
 



「あるいは水の中に浸されて、漂白されても。現れて形になり、凪に漂う。道理。不合理。」
 もぐもぐ食べよう。「生きて」みよう。

記録係

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  • 自由詩
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-02

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